目を覚ますとぼんやりと眠い目に青い海が見える。ザブン、ザブン、波がうねっている。波同士がぶつかると、真っ白な波泡がザザァと日の光に砕ける。ああ、いい気持ち。なんてきれい・・・小町は眠い目を細くして遠くを見る。はるか遠い海の彼方に島が見える。緑の木が生えたきれいな島だ。その小さな島をめがけて、木の葉のようにちっぽけな舟が勢い良く進んでいる。
「それこげ、やれこげ、目指すはあれあれ、あそこにみえる、波の間に間の、宝の島ぞ。それこげやれこげ」
舟の櫂をを雉と猿と犬が一心に漕いでいる。舳先に負けん気の少年が日の丸の扇子を広げて立っている。少年は左の腰に刀を下げ、右の腰に吉備団子の入った袋を下げて、真っ直ぐに彼方の島を睨んでいる。
「あ!桃太郎だ。鬼が島へ行くんだわ」
小町は思わず叫んだ。するとその自分の声に驚いてぱっちりと目を覚ました。
「なーんだ、ここは私の布団の中だ。つまんないの」
古びた天井の下で、大きな麻の蚊帳がゆるやかに揺れている。あけ放った八畳間の廊下から夏の風がフウワリと吹き込んでくる。
何だかいい匂い。小町が枕から頭を起こすと、畳の上にお母さんが手枕してうたたねしている。お母さんはくたびれて、口をちょっと開けて、すやすや寝息を立てている。
枕元に真っ白いお皿がある。お皿の上に大きなブドウの房がのっている。ブドウの側に桃が三つ。大きな桃。桃太郎のほっぺたみたい。これはお母さんが用意してくれて「お目覚め」の水菓子だ。小町は身体が弱くて始終病気ばかりしている。夏になるとぐったりしてごはんも食べられないし、すぐにお腹をこわして、細いからだがますます細くなる。それで毎日昼過ぎにはお昼寝をすることになっているのだ。
お母さんは小町が昼寝をすると、いつもお目覚めを用意してくれる。小町はお目覚めが楽しみで、言うことを聞いて昼寝をする。寝ている間にいつも楽しい夢を見る。でも、今日は途中で目を覚ましちゃった。
ブドウは蚊帳いっぱいにいい香りがする。小町は半分起きあがって、ブドウの粒を一口食べた。
「ああおいしい」喉の奥に甘い滴がするすると滑って行く。小町はもうひとつつるりと飲んだ。「ああ何ておいしいの」
小町はまたもうひとつブドウをつまんだ。すると突然、蚊帳の外が真っ赤に染まった。蚊帳が妖しい風にざわざわと揺れている。
「何だろう・・どこからこんな赤い風が吹いてきたの?」
小町は不思議に思って、そっと蚊帳の裾を持ち上げた。すると、目の前に山のように大きな鬼がすっくと立って見下ろしていた。
「どうしたの」と小町は言った。「何でそんな顔をしてるの」
鬼はきっと口を横に結んで、大きな目玉で小町を見下ろしている。
「きっと遠いところから来たのね。汗だらけだもの」
小町はブドウを一粒とって鬼の方に差しだした。
「甘いブドウよ。一粒召し上がれ」
鬼は黙ってブドウを見ている。それから小町を見て、何かいいたそうにしていたが、やっぱり黙っている。小町は両足をつま先だって、ブドウをせいいっぱい鬼の方に差し出しながら「おいしいのよ。さあ、食べなさい」といつもお母さんが言うようにそういって鬼を見つめた。
鬼は驚いたような顔をして、黙って小町を見ていたが、不意に木の根っ子のような指でブドウをつまんだ。するとブドウの粒は真っ赤な指の間でパシンと砕けて飛び散った。
「ああいけない。そんなに力をいれるんだもの。じゃもうひとつ」
小町はブドウをつまむと鬼の方に差しだした。だが、鬼が受け取ろうとすると、またパチンと砕けてしまった。
「ああ、駄目だわ」小町が叫ぶと、鬼は目をぐりぐりさせて悲しそうに唇をゆがめた。
「どうしよう」小町は大きくため息をついた。こんなに太い指ではいくら渡しても駄目にきまってる。つぶれたブドウは蚊帳について、微かに香りを放ってる。お母さんはすやすや眠ってる。小町はその優しい顔を見ているうちに「ああそうだ」といいことを思いついた。それで小町はさっそくブドウの粒をひとつ取ると、白い指でブドウの皮を丁寧に剥いた。
「さあ、これならいいわ。口をあけてちょうだい」
小町が露の垂れそうなブドウの粒を大きな顔の前に差し出した。すると鬼は小町の方に体を屈めてカマドのような口をパックリ開けて、ブドウをするつと飲み込んだ。
「お上手。おいしいでしょう」小町はうれしくなって大声で叫んだ。するとそれまで黙っていた鬼は「うまい!」と、びっくりするような声でいった。「これほどうまいものを俺は食ったことがない」
「じゃあもうひとつ。でも、今度はそんなに大きな声を出さないでね。お母さんが寝ているんだから」
鬼はちょっと首をすくめてお母さんを見た。お母さんはすやすや眠っている。小町はもうひとつブドウの皮を剥いた。
「さあ、どうぞ召し上がれ」
鬼はまたするっと飲み込んだ。
「おいしい?」
「うまい」
「お母さんが用意してくれたの。優しいでしょう」
「優しい人だ」
鬼は肯いてお母さんをつくづくと見た。小町はその間にブドウをいくつも剥いて小さな手のひらに乗せて差し出した。鬼は牛よりも広い舌を伸ばしてぺろりと飲み込んだ。
「おいしいでしょう」
「うまい」
「じゃあ、もう少しむいてあげますからね。ちょっと待っててね」小町は小さな細い指にブドウをつまんで丁寧にむいた。すると、その手のひらにあったかい雨が降ってきた。見上げると、鬼の目があった。鬼の目から涙がぽたぽたと落ちてくる。
「どうしたの」小町は心配して叫んだ。「ブドウが喉につかえたの?」
すると鬼は楽しそうに笑った。
「お前はやさしい娘だ」と鬼は言った。「何てかわいらしい娘だ」
「ほんとうに?」
「ほんとうだ。俺はお前のような娘をどうしても盗めない」
「盗むですって、じゃあ、あなたは私を盗みに来たの?」
「そうだ」
「まあ、なぜ」
「お前の寿命はもう尽きているからだ。この世には今日限りしか居られないことになっている」
「今日限りなの!」
「そうだ。だが、俺にはとてもできそうにない。お前は俺にブドウを剥いて食べさせてくれた。こんな優しい娘をどうして俺はこの母親から盗めようか。俺はお前をこの世に置いて帰ろう。
だが、何も持たないで帰るわけには行かぬ。俺は人の生き肝を持ち帰ると閻魔大王に約束をして出かけてきた。だから何も持ち帰らないでは申し訳が立たない」
鬼は蚊帳の中をぐるりと見回した。お母さんはすやすや眠ってる。鬼はその寝顔を見て太い腕をぐっと伸ばした。小町はあっと叫んで気を失った。
「どうしたの」
目を覚ますと、お母さんが心配そうにのぞき込んでいる。「まあ、ひどい汗。熱が出たのかしら」お母さんは小町の額を手のひらでさわった。
「お母さん。だいじょうぶ?」と小町はお母さんを心配そうに見た。「何でもないの?お母さん」
「何言ってるの。そんな目をして、どうしたの、小町」
「ほんとに、どこも痛くない」
「お母さんはなんでもないわ。それより、どうしたの」
「鬼がお母さんを捕まえようとしていたから」
「なんですって」
「鬼がね、お母さんを盗んで行こうとしたのよ」
「まあ、小町ったら、馬鹿ねえ。夢を見ていたんでしょう。さあ、お目覚めを食べなさい。あなたの好物を用意しておいたわ」
お母さんはそう言いながら白いお皿を見た。すると、お皿の上にはブドウの粒が三つ残っているばかりだった。
「まあ。どうしたのかしら」おかあさんはお皿と小町を代わる代わる見た。「どうしたのかしら。それに、桃がひとつもないわ」
お母さんは目をパチパチさせている。それを見て小町はニコッと笑った。
「ブドウは私が鬼さんに食べさせたの」
「・・・」
「それから、桃は、きっと鬼が盗んで行ったのよ」
「鬼が盗んだんですって」
「そうよ。きっとそう。だって、桃は鬼の敵でしょう。もし桃から桃太郎が生まれたら、鬼さんたちは退治されちゃうもの。それが恐ろしくて鬼さんは盗んで行ったのよ」
お母さんは心配そうに小町を見た。でも、小町はこれまでになく晴れ晴れとした顔をしているので、お母さんは何だかうれしくなった。
「じゃあ二人でこの残ったブドウを食べましょうね」 お母さんは小町にブドウを剥いてくれた。小町は口に入れながら、「ああうまい」と大声で叫んだ。お母さんはびっくりして目を見張った。小町はその顔を見ておかしくなって、ちょうど鬼が目を細めたように、かわいい目を細めて「ああうまい」と叫んだのだ。