さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月を片敷く宇治の橋姫
定家
鼻と耳の秘密
美しい女が畳に薄縁をしいて横たわり、手枕をして目を閉じている。草花を描いた団扇が女の胸の上で微かに息づいている。軒先に夕暮れが迫って、どこからかせせらぎの音がする。
耳「やっばり駄目だわ」
鼻「何がです」
耳「何も聞こえないんです」
鼻「私ははっきりと匂いますわ。いままでにないほどすばらしい香り」
耳「どこから来るんでしょう、その香りは」
鼻「さあ、ご主人はいつでも良い香りがしますけれど、これまでにはない匂いです。何とも妙なる香りというのはこれでしょうか」
耳「ああ、私は心配です。この頃ご主人はとても変です。あなたは良い香りだなんて呑気なことをおっしゃってますけれど、そんなことで良いのでしょうか。」
鼻「確かに、そう言われればそんな風ですねえ」」
耳「今朝も変だったでしょう。あなたもご存じのように、ご主人は三毛猫を抱いて畑に出て、トウモロコシが背伸びしてる小道を通って、キュウリが朝露をいっぱいくっつけて太く生きおいよく下がってる側を通って、トマト畑に行きましたよね。でも、あんなにおいしそうなトマトを食べようともしないで、手のひらに乗せて黙って眺めているだけだった。以前はあんなにトマトが好きだったのに、見ているだけだなんて」
鼻「それは確かにあなたのおっしゃる通りです。私もご主人といっしょに行きましたから変だとは思いました。トマトの熟れた香りは目が回りそうに良かった。それよりキュウリの青臭い香りは身体がぶるぶるするほどでしたよ。でもご主人はため息をついて、物思いに耽るご様子。私もずいぶん気になっていたんです。あなたは特別に何か気づきましたか」
耳「それはもう」
鼻「何です。どんなことです」
耳「ご主人は最近耳で聞こうとはなさらなくなった。私はご主人がこの世に生まれてから忠実にお仕えしてまいりましたか、こんなことはついぞなかったことなのです。私は目ほどには遠くのことは分かりません。でも忠実さにおいては目よりもずっと優れているのです。というのも、目はご主人が眠ってしまうと、すぐに夢の世界へお供をしてしまうでしょう。丁度今がそうですけど、まるで何にも感じなくなってしまうんです。だからいざというときには役には立ちません。ところが私はどんな時でも起きています。だからたいがいのことは知っているはずなんです。ところが最近、ご主人は外の音を聞こうとしなくなってしまった。私は見捨てられたんです」
鼻「それはどういうことでしょうか。外の音を聞かなければ、何も聞こえないじゃありませんか」
耳「そう思うでしょう。ところがそうじゃありません。外の音を聞かなくなったというのに、どうも不思議な音がどこからか響いてくるんです」
鼻「そんなことは信じられません。だって、匂いというものは全部外からくるものですからね。鼻の穴を塞いでしまったら、何の香りも匂いもしやしませんよ。おいしい食べ物なのか、腐っているのか、区別がつかなくなります。あなただって、耳の穴を塞いだら、何も聞こえないはずですけれど」
耳「だから心配なんです。ご主人は外の音がまるで聞こえないのに、どこからか何かを聞いているらしいんです」
鼻「何かを聞いているって、それは何です」
耳「私にも分かりません。ご主人はとても不思議な世界に迷い込んでしまった。私には何も聞こえない。ただ不思議な音がかすかにするばかりなんです。そしてそれがどこから来るのか、見当もつきません」
鼻「何の話だか、まったくわかりませんわ」
耳「それは無理もありません。私もあなたと同じなんですから。ただ確かなことは、ご主人は何かに心を奪われている。おそらくはその心の響きが、耳である私に響いてくるらしいんです」
鼻「妙ですねえ。一体全体、何故そんな音がするようになったんでしょう」
耳「私はあの時からじゃないかと思う」
鼻「あの時、」
耳「何日か前、誰かが、ご主人の耳にささやいたことがあったでしょう」
鼻「そんなことがあったでしょうか」
耳「ありました。残念なことに、私もあなたも、外からの出来事を感じる力は持っていても、記憶する能力は全部頭にまかせてしまっていますからこんな時には不便なんですけれど、でも、あの時、誰かがささやいたことだけははっきりしているでしょう」
鼻「ああ、そういわれれば、思い出しましたわ。あの時、私ははっとしたんです。というのも、それはまだ明けきれない朝の香りをたっぷり含んだ果物の香りにそっくりでしたから」
耳「香りのことはわからないけれど、何か特別な音だったことは確かです。それからご主人は外の音にはすっかり耳を閉じて、どこからか響いてくる音に心を満たされるようになってしまったんです。」
鼻「これからどうなるんでしょう。私たちは」
耳「どうなるかって、それは決まっています。私はどんなことがあっても、ご主人に忠実に仕えるだけなんだと決心しています。でも、私はやっぱり妙な感じがするんです。というのも、ご主人は外の音しか聞こえなかった頃と比べて、ずいぶん楽しそうなご様子なんですもの」
鼻「それは私もそう思っています。以前と全く変わりました。肌の香りも髪の毛の匂いもまるで別人のようにいい香りがする。私はこれからどんな匂いに出合うかと思うとどきどきするんです」
耳「ほんとにそうですねえ。どんなことになるのか、私はどきどきして、なんだか昼も夜も待ち遠しい感じなんです」
女はうっとりと目を開いて夜空を見る。月明かりが女の頬を染めている。形のよい耳と、すっきりと白い鼻。女は眼を閉じて何かを待ちこがれている。