「閻魔庁の籔医竹軒」 第九話 閻魔大王
眠っていると思っていたが、気がつくと五、六歳の子どもと母親が庵の入り口に立っていた。
「あなた方はどこから来たのです」
「あちらの岩山を三つ越え、賽の河原を渡ってまいりました」
「それは大変なご苦労でしたでしょう。で、どうなさりました」
竹軒が尋ねると母親は子どもを前に押し出して、
「この子は生まれた時からひ弱で夜泣きがひどく寝小便も毎晩でしたので、育てるのに苦労いたしました。始終喉を腫らして熱をだしたかと思えばゼーゼーと苦しそうな息をして、これではとても育つまいと思っておりましたので、仏さまに『どうか私の身に変えて、この子の病を治して下さい』と祈り続けましたら、その祈りが届いたのでしょうか、私が喘息になり、この子はすっかり治りました。ところが疫病が流行って、せっかく治ったというのに、この子は死んでしまい、私も同じ時に死んだのでござります」
「それはお気の毒であったが、この子はまだ胸の病があるのですか」
「はい、生前ほどではありませんが、やはりひ弱ですぐに風邪をひき、寝汗もかきますしおねしょもしばしばいたします」
「それはお困りであろう。のう、お前の名は何と申すのかな」
「正太郎」
「良き名じゃ。では正太郎、舌を見せなさい・・・どれ、なるほど、舌にひどい苔が生えているぞ。これではごはんもまずかろうのぅ」
「うん」
「それではな、おじさんが良い薬をこしらえてやろう」
そう言いながら竹軒は薬研にサイコ・ハンゲ・ニンジン・タイソウ・ショウキョウ・オウゴン・カンゾウの七種の生薬を入れて磨り、小柴胡湯を作ると、
「これはの、お前を丈夫にする薬じゃよ。脾胃が弱っているのをよくしてくれるからな、飲み続ければきっと鬼の子とも遊べるようになるぞ」
「ほんと」
「嘘は言わぬ、さあ、飲ませてやりなさい」と母親に手渡すと、子どもは喜んで白湯と共に飲み下した。
「では今度はお母さんに神秘湯をこしらえるとしよう」竹軒はマオウ・キョウニン・コウボク・チンピ・カンゾウ・サイコ・ソヨウを薬研に混ぜながら、「あなたは子どもが病弱なので神経過敏になっておるようじゃ。それがために胸のうちが穏やかでなく、気が立って肝の陽気が過剰になり、喘息のような病気になっておる。その時には神秘湯はとてもよく効く」そう言って飲ませると、母親はほっと安心したように明るい顔になって、「もし子どもがまた苦しくなりました時には参りますので、どうぞよろしくお願い致します」と頭を下げて出て行った。
無可有郷を飛ぶ仙人
墨絵 佐賀純一 画
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竹軒が二人を見送って薬研を拭いていると、人の気配がする。振り向くとボロをまとった仙人のような男が笑って見下ろしている。
「あなたはどなたですか」
「わしは東海鼈(べつ)というものじゃ」
「・・・聞き慣れぬお名でござりますが・・・私に何かご用ですか」
「用というようなものはないのだが・・・通りがかるとそなたが疫病で死んだ親子を治療しているのが見えたので、無用なことをしていると思ったまでじゃよ」
「無用とは・・・如何なることでしょうか」
「そなたは生前医者であったのであろう。そして死後も、医者であることがわざわいして無用な仕事を繰り返している。何とも気の毒ではないか」
「・・・」
「過ぎし世、そなたは生涯を患者の治療に精力を費やしたのであろうが、病人は少しも減らず、逆に何倍にも増えたではないか。そして死んでからもまた同じ過ちを繰り返して地獄に病人を増やしている」
「・・・」
「やめよ、やめよ。古(いにしえ)の真人は、生を喜ぶこともなかったし、死の世界に入ることを拒むこともしなかった。そうしたことを知らずして医術のみに時を費やすことは無益だ。そなたは功徳を施しているつもりであろうが、仁術をもって人に接すれば、人はそなたにより多くの仁術を求める。名声が高まればますます多くの病人が押し寄せるようになり、寝る間もなくなり、くたびれて時には処方を誤るであろう。また時には治療をしても死ぬ者も出るであろう。すると世間の者はお前を“薮医者!”と罵り、閻魔庁に誤診の訴訟をするであろう。またいくら苦労をしてこしらえた薬であろうと“この薬の災いで死んだのだ”と怨むであろう」
「・・・」
「あやういかな、危ういかな。徳をもつて人に接し、仁術をもって病を治そうとすることは」
「・・・では、あなたはどうすべきだとおっしゃるのですか」
「真っ直ぐに伸びた大木はたちまち伐られ、宮殿の柱にされたり船に作られたりする。灯火の油はなまじ役立つために、我と我が身を焼いて尽きる。桂の木はその根が有用であるために根こぎにされる。人間も同じ事。なまじ才があると、世間にこき使われ、楽しみも知らず、真実も知らずに、死んでしまうという憂き目を見るのだ」
「しかし、病んで居る者が訪ねて来た時に、知らぬふりをして苦しむままに放置しておくことなど出来るわけがありません」
「では仮に、さきほどのような母子が十人きたとしよう。すると十倍の薬草が必要となろう。そしてその効能によって病が治ったとすると、噂を聞いて百倍の患者が訊ねて来るであろうが、その時は今の千倍の薬草が必要となろう。するとどうなるとお思いか」
「・・・」
「太古の昔、南海に(しゅく)という帝王が居り、北海には忽(こつ)という帝王が居り、中央には渾沌(こんとん)という帝王が居った。と忽が渾沌の土地を訪ねてきたので、渾沌は手厚くもてなした。これに感激したと忽は『われわれ人間には七つの穴があって、これで見たり聞いたり食ったり息をしたり排泄したりしている。ところが渾沌にはそれがない。どうだ、ひとつ渾沌にも穴を開けてやろうではないか』。そこでと忽は毎日ひとつずつ渾沌に穴を開けていったが、七日目になると、渾沌は死んでしまった」
「・・・」
「と忽は人間の尺度で渾沌という自然を量り、人の基準で自然を改良しようとした。彼らの欲望は尽きず、一つの穴は倍になり、十倍、千倍、万倍になって、渾沌は死に、やがて、人間も滅びるのだ」
「・・・」
「医術も人間の欲望に過ぎぬ。千倍の生薬が必要となれば、山も野も荒れ果てるであろう。人間はどこまでも自然の富を追い求め、これを使い尽くすまで追求を止めぬであろう。人間にとって善であることは、自然にとって悪であるかも知れぬ。人間を病から救うことは、自然を殺すことにつながるかも知れぬ」
「・・・」
「捨てよ、捨てよ・・・何もかも捨てて、真人になろうと努めることだ。万事自然に委ねて計らいを止めよ。そうでなければそなたを待っているのは、後悔だけであろうよ」。
*
東海鼈が言い残して立ち去ろうとすると、庵の入り口に人影が立って出口を塞いだ。
「どうやら貴殿は荘子の思想を信奉しているようですな。荘子は『自然に因りて、生を益(ま)さず』と申しているし、先ほどの渾沌の死も『荘子』に記されている。天が人間を造り、生命を与えたのだから、天の命じるままに生き、死ぬ時が来たら死ねばよいというのが荘子の考えだ。そして貴殿もまた、彼の思想に共鳴して、自然に生きることが真人の生き方であり、死すべき人間を助ける医術は自然天命に反していると主張する。そうなのだね」と男は言った。
男の眼光は炯々として百里の彼方まで見通してしまうような気配を放っている。東海鼈は男の出現に一瞬戸惑った様子だったが、気を取り直して次のように反論した。
「万物は根源から生じ、根源に戻ってゆく。故に、そこから生まれた者は、一切の出来事をあるがままに肯定すべきなのだ。青年期の楽しみは良し、また老年も良し、生も良し、死もまた良し、万物は無限の変化をするが、そこには何の区別すべきものはない。これを良しとし、あれを悪とする立場に立っている者は真実に生きることはできない」
これを聞いて男は微笑すると次のように言った。
「貴殿は根源の境地に立って人間を見下しているようだ。それはあたかも大鵬が天空から人間を睥睨し、軽蔑し、哀れんでいる姿をも想像させる。だが、人間は地べたに生まれ、地べたで食い、地べたに死ぬように生まれている。大鵬のように宇宙を飛ぶことはできない。竜のように雲を駆って嵐を楽しむことも出来ぬ。その小さな人間に、君は自然という途方もないものを突きつけて、これを模範にせよ、と迫っている。これは愚かなことではないか」
「・・・」
「貴殿は、人間は自然に生きるべきだと言すが、果たしてそうか。もしも人間が自然のまま野放しにされたらどうなるだろうか。人間は真人になるのだろうか・・・・とんでもない。過去の歴史を見れば、人間の正体がはっきりと見える。・・・・誰も承知しているように、古代中国には偉大な王と賢人と思想家がきら星のごとく現れた。そして、どうなったかね・・・真人の国となったのかね・・・その反対だ。人間共は、猛獣もあきれるばかりの闘争と陰謀、戦争と屍の山を築くことに明け暮れた」
「・・・」
「人間が如何に愚かであるかについては一々申すまでもないことだが、折角だから一つだけ良い例を見ることにしよう。
秦の始皇帝が大陸を統一する以前、多くの国々が覇権を争っていたが、斉は天才的政治家管仲の智恵によって急速に強大になった。しかし管仲が死の床についたので、斉公は誰を自分の後継者にすべきかを管仲に尋ねた。というのも、斉公には十余人の子があったからだ。管仲は斉公の推薦する王子たちを良からずとしたが、公は管仲の意見には従わなかった。
管仲が死ぬと斉公は愚かさをむき出しにして、身近にどん欲な者共を数多く侍らせた。その筆頭は易牙だが、彼はもともと料理人で、王の機嫌を取るために己の息子を殺して食肉にして献上したような人非人だ。このような輩に取り巻かれて斉公は堕落したが、やがて斉公も死ぬと王子たちの中の有力な者五人が勢力を争って内戦状態になった。そのため、宮中には斉公の遺骸を納棺する者がひとりもいなくなり、屍は六十五日も放置され、宮殿の中から虫が這い出てくる始末だった。ある太子は自分より先に王となった者を殺害して自らが王に即位したが、彼も暗殺され、殺した者も暗殺された。暗殺と復讐の連鎖は果てしなく続き、戦乱は民衆を巻き込んで、ついに斉は国威を喪失した。
このように人間は抑制がなくなると、互いに欲望を達成しようとして親兄弟も女子どもも殺し、足を切り、八つ裂きにし、釜ゆでにして権力を奪い、またその恨み故に殺戮が起きるのだ。古代中国では秦が統一を果たすまで乱世が五百年余りも続いた。そして統一後も独裁と虐殺の歴史は留まることを知らなかった。故に、人間は抑制されず、自然のままに放置されると、こうなるという見本が山ほど見られる。そのような人間に向かって、自然に生きよ、というのは、死ねというに等しいと思うのだが、貴殿はそれでも自然に生きよと主張するのかね」
「では、こちらからもお訊ねするが、あなたは人間には理想はない、つまり、理想の存在としての真人の存在は無意味だと申されるのですな」
「いいや、否定はしない。一切を放棄し、国家をも放擲して無に帰れという荘子の教えは耳に快く響く。だが、人間は残念ながら無可有の郷(むかゆうのさと)に悠然と過ごすことはできない。なぜなら、造物主が人間に欲望を与えたからだ。老子や荘子は欲望を捨てた真人なのかもしれぬが、そんな人間は暁天の星よりも少ない。後に残された浜の真砂ほどの人間は欲望の海に溺れている。それらの人間を少しでも楽に生きられるようにする為には、国家に独裁者が生まれぬように定める法がなくてはならず、また、そうした国家の法を支える哲学と宗教が緊急の要であろう。それらの学問を定め、運用するのが優れた人間の役目だ。人間世界に真人や聖人は無用なのだ・・・朝廷の官僚は人民の安寧のために国家を治め、医者は苦しみから患者を救うために医術を施す。これは人間にとっては必然の成り行きだ。
竹軒先生は目の前に苦しんでいる者が来たらその者を助ける、それは人間が生きて行くためには有用な行為であり、善ではないか。それとも貴殿は、病人は苦しむのが自然だからと言い聞かせて、七転八倒して死んでゆく病人を平然と見ているべきだと主張するのかね」
男がそう述べると、東海鼈は笑って、
「君の理屈には一理ある。しかし、と忽の同類であることには変わりない。やがてそのような人間の欲望は渾沌を殺し、自然を殺し、人間自身もまた破局を迎えるだろう」と言い残して、飄然と立ち去った。
*
竹軒は男の学識と威力に恐れ入って庵の隅に立っていたが、東海鼈が出て行ったので、白湯を汲んで男に近寄ると、
「私の無力をお救い下さいましてお礼の申しようもありません。しかし、私は、あなた様を閻魔庁で一二度チラリとお見かけしただけでお名前を存じ上げませんが、もしよろしければお聞かせいただけませんでしょうか」と訊ねた。男は白湯を飲んで目をつぶり、やがて口を開くと、
わたの原 八十嶋かけて こぎ出ぬと 人には告げよ あまの釣舟
と口ずさんだ。これを聞いて竹軒は、この人物が、生きている頃からあまりの天才故に、現世と地獄の間を往復している、と噂された小野篁(たかむら)であることを知ったのである。
篁は白湯を飲み終えると意外にも「先ほどの東海鼈の言葉にも真理がある、特に無可有の郷の話は魅力ですな」と呟いたので竹軒は、
「それはどう言う意味でござりますか」と尋ねると、
「私は宮廷で参議を努めた。しかし家柄や有職故実に制約されて身動きができなかった。自由に生きられたらどれほど楽しかろうと常に考えていた。その時読んだのが『荘子』だ。そこに無可有の郷のことが書いてあった。巨大な大木がある。しかし瘤だらけだし曲がりくねっているので何に使うこともできない。人々はこれを見て、でかいばかりで役に立たぬつまらぬ木だと罵った。しかし荘子は『役に立たぬことは良いことだ。この大木を無可有の郷に移して、その傍らで彷徨ったり夢うつつの無為に過ごして、木陰で昼寝をしたらどれほど愉しいか。役立たずの木は斧で伐られたり危害を加えられることもない。無用のものがあるからこそ、世界はすばらしい』と言ったという。面白い話ではないか」
「・・・」
「しかし哀しいかな、我々は荘子が述べているようには生きられぬ。人間が世間に生きる限り無用・無能では食っては行かれぬ。では有能なら楽しく日々が過ごせるかといえばさにあらず、日々こき使われ、苦労も多い。私はそのような年月を過ごしてきたのでな・・・もっとも、今となってはそれも遠い昔のことではあるが」
篁はそう言って目を半眼に閉じた。
「昔とは、いつの頃でござりますか」竹軒は白湯にニンジンを入れて沸かして茶碗に入れて勧めながら尋ねた。
「・・・大昔・・・私が嵯峨上皇にお仕えしていた頃の事だった。閉門を命じられ、やがて島流しになったのもその頃の事だ」
*
承和五年、嵯峨上皇は藤原常嗣を遣唐大使に任じ、小野篁を副使として遣唐使を送った。奈良時代はしばしば遣唐使が派遣されたが、平安になってからは二度目、すなわち桓武上皇の御代・延暦二十三年、空海、最澄を伴って唐に渡った藤原葛野麿以後、三十三年目にしてようやく実現した国家の総力を挙げての大事業だった。比叡山からは大任を帯びて、最澄の弟子・円仁が加わり、選ばれし者は六百に上った。
事件は出航後間もなく起きた。大使(藤原常嗣)の船が風波によって破損したのだ。大使は小野篁の船が無傷であることを知って、嵯峨上皇に自分の船と篁の船を取り替えていただきたいと上奏した。上皇は意見を容れ、篁にその旨の勅を下した。
「朝廷に仕える者は勅とあらばこれに従うのは当然だ。他の者なら黙って従ったろう。しかし私は我慢ならなかった。嵐に遭っても無傷だったのは私の指示が正しかったからだ。大使の船が破損したのは常嗣の指示が間違っていたからだ。その功罪を問わず、無傷の私の船に大使を乗せ、私には破れた船に乗れと命じる事は、常嗣に死なれては困るが、篁なら死んでも良かろう、というに等しい」
「・・・」
「私は勅を無視して勝手に下船し、邸に閉じこもると『西道謡』という漢詩を書いて嵯峨上皇の遣唐使政策を批判した」
「それはどのような歌でござりますのか」竹軒が尋ねると、篁は懐から矢立と紙を取り出して書き付けた。
紫塵嫩蕨人拳手 碧玉寒蘆錐脱嚢
「それは・・・しちんのわかきさわらびはひと手をにぎる 碧玉の寒き蘆は錐ふくろをだっす、と読むのでござりまするか」
「いかにも、ではその意味は」
「さ、それが分かりません」
「それはの、表面は、早春の慶びと草木のいきおいよく生まれる様を歌ったもののように見えるが、実はそうではない。錐嚢を脱すという言葉は、『史記』の平原君伝にその言葉が見られ、意味するところはこうだ・・・。『それ賢士の世に処るや、たとえば錐の嚢中にあるがごとし。その存在は、時を経ずしてたちどころに現る』
つまり、ここに云う賢士とは、平原君であると同時に私自身であり、錐とは、錐のように鋭い才能を備えている私自身の事である。そして嚢とは、その才能を包み隠すもの、世に出ることを妨げているもの、つまり古くさい国家そのものである。つまり私は、宮中をはじめ、律令制によって運営されている日本の国をずたぶくろにたとえ、鋭い錐のような才能をもつ私はそのずたぶくろの中に閉じこめられているのに耐えられず、切り裂いて飛び出そうとしている、と、こういうことを歌ったのだ」
「・・・何とも危険な詩でござりまするな」
「上皇は一読されるや激怒し、違勅の罪で小野篁を死罪にせよと命じた。しかし取りなす者もあり、上皇も私の才を殺すのは惜しいとお思いになったのか、罪一等を減じ、官位を剥奪して庶人となし、遠流に処すと決した」
「・・・」
「私は何の後悔も罪の意識もなかった。むしろ云いたいことを云ってさばさばしていたから、屋敷の縁に酒壺を出し、夜空を見上げて詩を口ずさんだ。
人更に若いことなし 時すべからく惜しむべし
年常に春ならず 酒を空しくすることなかれ
「ハハハ、だが、島流しの罪から朝廷に戻されると、また同じように勤めた。つまり私はいつも表の私であることに終始し、本当の自分、裏の自分であることは出来なかったのだ。だから・・・さきほどの東海鼈の話は良く分かる。しかし、我々はどこまでも人間であって真人からはほど遠い。それ故地獄に来てもまだ人間を引きずって、私は閻魔庁の役人のようなことをしているし、竹軒殿も医者を続けておられる。人はどこまで行っても人の世からは抜けられぬ。だが、無可有の郷の夢は忘れたくはないものだ。夢の中だけでも、何物ものにも囚われず無心に遊びたいからな」
小野篁はそう言いながらニンジンの香りを楽しんでいた。竹軒はこれを聞いて、これまで自分の生き方に不平を漏らすことはあってもさほど深く思いを巡らすことはなかったが、やはり、世の中には優れた人というものはいるものだと改めて悟った。
『・・・無可有の郷・・・そのようなところに住むことができたら、どれほど素晴らしいだろう、今の今、何もかも捨てて出られたらどんなに愉しいだろう』竹軒はあれこれと思いめぐらせて湯を飲むのも忘れていた。すると不意に声がしたので、ビクッとして顔を起こすと、小野篁がこっちを見ていた。
*
「東海鼈との話に気を取られて忘れておった。実は竹軒殿に頼みがある」
「なんでござりますか」竹軒は夢から覚めたようにぼんやりと篁を見つめた。
「秦広王のために薬をこしらえてほしいのだ」
「・・・ご病気なのですか」
「秦広王は二千五百歳と聞いて居る。その年のせいか、最近は疲れやすく、特に下半身が痺れ、腰痛や冷えがひどいようだ」
「これは驚きましたな」竹軒はようやく我に帰ると
「秦広王までが病に罹るとは、想像もいたしませんでした・・・聞くところによれば、秦広王様の実体は不動明王であられるとか。そのように偉大な仏が如何なる因縁で病に罹るのでござりましょうか」
「疑念を抱かれるのも無理からぬ事である。だが、閻魔庁の十王とて木石ではない。五体を持ち、地獄で日々その役割を果たしている。十王たちは何千年という間、休むことなく罪人を裁いておられる。そなたたち医者も、日々病に冒された病人ばかり診ているのだから気の毒な職業ではあるが、十王はその何万倍もの罪人を裁かねばならぬ。というのも、人間は無限の欲があり、故に、無限の罪を背負って堕ちてくるから、閻魔庁はいつもごった返している。そしてそれら罪人は、十王の判断一つで刑罰の重さが決まる。役割の重大さに耐えかねて、時には寝込まれることもある。そうした時には十王の代わりをこの私が務めることもあるのだ」
これを聞いて、竹軒はようやく医者の本能が目覚め、六味丸をこしらえようと、ジオウ・サンシュユ・サンヤク・タクシャ・ブクリョウ、ボタンピを混じて薬研で磨っていたが、磨りながらまたあれこれと思い出し、過ぎにし現世でも地獄でも、苦しんでいるのは人間ばかりではないのだな、仏でさえ無可有の郷で遊べぬとは・・・竹軒は秘かにため息をついた。
薬を作ると、袋に入れ、篁に手渡した。篁は袋を受け取りながら竹軒の顔をつくづく見つめた。
「私の顔が、どうかしましたか」
「いや、あまりに真面目なお顔をなさっておられるのでな」
「・・・それは心外でござります。こう申しては何ですが、あなたさまのお顔の方がよほど真面目でござりまするぞ」
「アハハハ、確かに、おっしゃる通り。私は閻魔庁に仕えておる身、不真面目な様子は見せられませぬ。しかし、先ほど申したように人には表と裏があるのでな」
「それはまた、いかなる意味でござりましょう・・・」
竹軒がこう言うと篁は表情を崩して「さあ、これ以上先生に薬を調合してくれなどと無粋なことは頼みませぬ・・・まず、お座り下され」とそう言って竹軒を囲炉裏端に座らせると、懐から酒壺を取り出した。
「白湯と薬湯ばかりの日々ではあまりにも殺風景で気の毒でなりませんので、持参しました」
「どこにこのような酒があったのですか」
「酒は命がある処、どこにでもある。鬼の里だとて例外ではありません」
篁は竹軒の盃に並々と注いで、ささ、と勧め、自分の盃にも注いで歌謡った。
一杯の酒は 百の心と信仰に値し
一口の酒 支那の国に値する
紅の酒の他に この世に何があろう
千の甘い命に値する この苦さ
「変わった歌ですが、それは篁さまの歌でござりますか」
「私のような愚かな者にはこのように抜けた歌は作れぬよ」篁は笑ってまたひとつ、
神のように天空をわが手につかめたら
こんな天空は根こそぎにしてやろう
新たにこんな天空を作ろう
気楽で思いのままになるような
「まるでさきほどの東海鼈殿の世界のようですが」
「まことに・・・」篁は笑い、杯を干すとまた歌った。
夜ごと乱れるわが心
わが頬につたわるは涙
狂える頭は充たされない
逆さの酒杯が充たされぬよう
「それは・・・いったいどなたの歌ですか」
「同じ地獄の住人ですよ」
「お名前は」
「大宛国の西、ペルシャ帝国のオマル・ハイヤーム」
「ペルシャの・・・オマル・ハイヤーム」
「私より二百歳ほど年下ですが、天文学・数学・医学、あらゆる学問に精通している。だが今は何もかも忘れて酒を飲んでいますよ。そのうち先生にもお引き合わせしよう」篁はそう言い残して、歌うたいながら去って行った。
春が来て 冬が去り
人生の頁は繰られてゆく
酒を飲め 悲しむな 賢者は言った
世を悲しむは毒 酒こそそれを解く薬・・・
<第八話 終わり>
眠っていると思っていたが、気がつくと鬼の背に負ぶわれて闇の中を疾走しているのだった。「どこへ行くのです」と聞いても鬼は何も答えないが、どうやらただならぬ事が起きたらしい。
大伽藍のような建物の門に到着すると、扉が左右に開いて大勢の鬼共が出迎えた。険しい表情の鬼が奥に案内するのでついて行くと、どこまでも長い廊下が続いている。両側に重々しい扉があるのは大切な書類をしまっておく倉のようなものなのだろうか。それぞれの扉の前には鬼が二匹、鉄棒を構えて立っている。何百何千とも数知れぬ扉の前を通り抜けると、広い柱廊の間に出る。地の底から天まで通じているような柱が真ん中に見え、あたりには篝火(かがりび)があちらこちらにゆらめいている。あれは救われぬ者の魂だろうか、それとも罰を与えられた者が亡霊となって苦しんでいるのだろうか・・・あれこれと思っていると、突如、巨大な扉が目の前に現れたかと見る間に音もなく開いた。
扉の奥に小野篁(たかむら)が立っていた。
*
「大王がご病気になられた」
小野篁は竹軒を中に招じ入れると、小声で言った。
「・・・???・・・大王とは、閻魔大王様でござりますか」
「いかにも。私の後からついて来ていただきたい」
穴蔵のような暗い廊下を行くと、両側にまた数え切れない扉が並び、鬼が警備している。
「これは宝物でも入っているのですか」
「閻魔帳の保管庫です」
「外にも何千とありましたが」
「あれは審議済みの書類です。こちらはこれから裁判をするための資料となるのです」
「・・・これほどの記録が、閻魔帳に記されているのですか」
「生きている者の数が増えれば、それだけ閻魔帳の数も増える。犯罪が増加すれば、閻魔帳の中身もそれにつれて膨らむことになる。故に、閻魔庁の保管庫はかくも無限に大きくなってしまいました」
気が遠くなるほど長い廊下を抜けると、薄暗い部屋が幾十と見える。小野篁はその真ん中の大きな扉を開けて中に入った。机を囲んで、冠を被り、立派な装束姿の神とも仏とも区別がつかない王たちが相談をしている様子だ。
・・・聞くところに寄れば、閻魔庁には閻魔大王を含めて十王がいるという。秦広王、初江王、宋帝王、伍官王、変成王、泰山王、平等王、都市王、転輪王、そして閻魔大王である。十王はそれぞれの役割を担っている。たとえば秦広王は冥途の旅、初七日の裁判官であるが、実は不動明王であるという。また初江王は冥途の旅、二十七日の裁判官であって、実体は仏であり、釈迦如来であるという具合。仏たちは本来人間を救うのが役割なのだが、輪廻転生する間、罪を犯した者が悔悟して悟りを得るように、地獄にあっては十王の姿をとって裁きを下すのだという。・・・目の前に居るのが、どうやら十王たちらしい。
「十王の真ん中においでになるのが閻魔大王です」
「・・・さきほど、大王様はご病気とうかがいましたが」
「いかにも」
「しかし、大王様はすこぶるお元気なご様子・・・どこも悪いようには見えませぬが」
「いや、仕事が山積みなので病を押して起きておいでなのです」
小野篁はそう言ったが、竹軒には納得できなかった。大王は見るからに力にあふれ暗い空間が大王の気の力に拉(ひしゃ)げそうにも見える。
「いったい閻魔大王様は・・・鬼神なのだろうか、それとも仏なのだろうか・・・」
・・・竹軒はあれこれと思いながら立っていた。と、突然、閻魔大王は激しく咳をした。それはあまりにも大きな咳だったので、振動で天井が落ちるのではないかと思われるほどだった。
「閻魔大王、矢張りお休みになられては」と側に居た伍官王が言った。他の王たちも「それがよろしかろう」と促す。「小野篁殿が医者を呼んで来たようですぞ」「診ていただくほうがよろしかろう」
十王に説得されて閻魔大王は立ち上がると、隣の部屋に入って行った。小野篁は竹軒を導きながら、
「先日、秦広王が具合が悪くなられたのでそなたに六味丸を処方してもらったが、お陰でたちまち回復された。閻魔大王も同じように診察していただきたい」
*
閻魔大王は奥の部屋の真ん中に安置された寝台に横になっていた。竹軒は恐る恐る近寄ると、
「私のような者に大王様の治療が出来るとは思えませぬが、もしも他に医者がいないとなればやむを得ませぬ。仰せに従って診察させていただきまする。・・・そこでいくつかご質問いたしますが、大王様、腹は張りましょうか」
これを聞いて大王は天井を向いたまま、少し嗄れた声で、
「如何にも、肝のあたりが苦しいぞ」
「では胸先は苦しみますか」
「いかにも」
「口の中が常になく不快で、吐き気がござりましょうか、また、頭痛、悪寒はござりますか」
「まさしく、頭痛悪寒が酷く、また身体が痛む。これほどの不快な痛みを感じたことはない」
そこで竹軒は大王の寝台に“畏れながら”と近寄って、汗の具合や呼吸を子細に測っていたが、
「大王様、お腹を診察させていただいてもよろしいでござりましょうか」と尋ねた。
「何故に腹を診る」
「はい。証を確かめるためには腹診をしなければなりません」
これを聞くと大王は「よし、布団を剥げ」と側の鬼に命じた。左右の鬼はそっと大王の布団を横にどけた。竹軒は寝台の上に上って、大王の寝間着の紐をほどき、腹を出した。鯨が逆さになって腹を天に向けて寝ているような有様である。竹軒は恐る恐る手を伸ばし、下腹部、臍の回り、上腹部、腹直筋、季肋部などを子細に触診し、診察が終わると寝間着を元に戻した。
「恐れながら申し上げます」
「何か分かりましたかな」傍らの小野篁が訊いた。
「はい。・・・私は、閻魔大王様は無限の力をお持ちなのですから、あらゆる生き物にもまして強大な気力を秘めた腹をしているものと想像しておりました。ところが、予想に反して、まるで逆でござりました」
「逆とは」
「腹の気は衰え、虚証になっております」
「・・・」
「不肖私が思いますに、大王様は毎日無数の罪人の刑罰を定めておられますが、あまりにも忙しすぎて、ご自分の気力を養う暇がありません。ですから、次第に気が衰え、斯くの如くに腹の中が虚ろになったものと存じます」
「確かに大王様はここ千年ばかり、罪人の弁解ばかりを聞いてきたのでな、気が衰えるということもあるかも知れぬ・・・ではいかがすればよい」
「まず私の診察では、病魔が体表に取り憑き、それが次第に深く入り込んで、やがては内臓に達しますが、今はその中間の半表半裏の状態にあります。しかも、審理が気に掛かっておられるのでしょうか、気が頭に上り、気逆の状態にあり、そのため、発汗、顔の痙攣、頭痛があり、また、腹部は力なく、虚ろになっておりながら、筋肉が突っ張って、ひどく張っております。故に、私は、柴胡桂枝湯をご処方したいと存じます。これには気逆を治すサイコ・ハンゲに加え、オウゴン、カンゾウ、ケイヒ、シャクヤクがあり、また気を養い巡らせるタイソウ、気の元となるニンジン、悪寒をとるためのショウキョウなどが入っておりますので、奏功することが期待できるものと存じます」
と、このように申し上げると、小野篁は大王に、
「竹軒殿はあのように申しておりますが、如何なさいますか」と尋ねた。
大王はにやりと笑った。
「竹軒、私はそれほどに虚であるか」
「はい。意外な事でござりましたが、確かに虚でござります」
「そうか。しかし念のため、もう一度診察してはくれまいか」
「・・・」
「念には念を入れよ、という言葉もあろう。さあ、診てくれ」
大王が衣を剥いで腹を出したので、竹軒は・・・あれほど子細にみたのだから不要ではあるが、と思いながら、大王の腹に手を伸ばした。するとこれはどうした事だろう・・・“証”が変わっている。というのも、先ほどは気づかなかったのだが、臍の上に動悸があり、下腹も両足も酷く冷えている。だとすれば、柴胡桂枝湯よりも柴胡桂枝乾姜湯を処方すべきかも知れぬ。
竹軒はそう思ったので、すぐにサイコ・オウゴン・カロウコンなど七種の生薬を薬研に入れて磨り上げようとした。それを見て、閻魔大王は、
「そう急く必要はない。薬を作る前に、もう一度診察してもらいたい」
「それは・・・なぜでござりますか」
「理屈は後にして、まず診察じゃ」
閻魔大王がそう命じるので、竹軒は三度大王の腹を触った。と、これはどうしたことだ・・・今し方診たのとはまるで別人・・・腹はつきたての餅のように温かく、弾力があり、手で押すと弾かれそうだ。竹軒が愕然としていると、大王は声を上げて笑った。
「竹軒、その顔はどうしたのだ」
「・・・大王様・・・いったいこれは・・・どのようにご説明したらよいのでしょうか・・・さきほど私は、確かに大王様の虚している腹を触りました。間違いなく、二度とも、虚であったのでござります・・・ところが、三度目は、全く力に満ちた実の腹でござります・・・このような事はあり得ない事でござりまする。まったく信じられないことですので、途方に暮れているのござります」
竹軒が冷や汗を流しながら告白すると、大王は笑うのを止めて、
「いかに優れた医者であろうと、見る物触る物は現象に過ぎぬ。月は満ち欠けるが、それは見た目にそう見えるだけであって、月の実体は何一つ変わらぬ」
「・・・」
「私は天地と共に呼吸している。故に、ある時は虚になり、ある時は実になる。すなわち、私の実体は天地そのものなのだ。だからお前が、ある時の私を虚と診、次の瞬間の私を実と診たのは決して過ちではない」
「・・・」
「では、何故、私はお前をここに呼んだのか。それは他でもない、この閻魔庁の医者としての役割を担ってもらいたいのだ」
「しかし・・・私は、藪医者に過ぎません。ただ今も誤診を致しました。そのような者にお役目が務まるはずはありません」
「お前は己の医師としての知識学問が他の者に劣ると知っているのであろう。・・・閻魔庁に勤めるからには、最高の知識と技量を具えた医者でなければならぬ、と考えているのであろう・・・だが、知識のがらくたなど、いくら集めてもどうにもならぬ。二千年前から現代までの書物を引っかき回し、自分流に並べ替え、大昔の論文をあたかも新発見であるかのごとく披露したり、小細工したり、逆さに見たり整理して見せたりしても、真理とは何の関わりもない。たとえ無限量の知識を会得したとて、次の瞬間には新しい発見知識が無限量出てくるのだから、無意味なことなのだ」
「・・・」
「世界は一時も休まず渦巻き、波打ち、そこに生きる人間どもは欲望にさいなまれて悶え苦しみ、ある時は天空まで捕らえようと手を伸ばしたかと見る間に、たちまち打ち砕かれて死ぬほどの苦悶に輾転反側する・・・それはお前が生きていた世界であろうと、地獄であろうと、餓鬼畜生阿修羅の世界であろうと、みな同じように荒れ狂っている。その激しい死と生の相克する急流を、死んだ知識の舟をうかべてこぎ渡ろうとしても、どうなるものでもあるまい・・・」
「・・・では・・・大王様は、医学のみならず、知識全般を否定なさるのですか」
「知識が何になる。智恵が人間を幸せにしたか。アダムとイブは知恵の実を盗んで楽園を追われ、イザナミは知識と力の源泉たる火之神を生んだが故に人間は強欲になり、どこまでも残酷になって果てしない戦争を生み出した。プロメテウスもまた同じあやまちを犯したというのは、茴香にゼウスの火種を隠して人間に与えたので、あらゆる罪悪が世界にまき散らされた。生半可な知識を身につけ、力を己のものとしたために、救いがたい苦しみと病が人間に取り付いたのだ。私は、人間が冒した罪業を浄化するために、厳しく裁き、それぞれの地獄へ送り、数十億劫年の後に浄い心の持ち主となって生まれ変わるように、常に祈りながら役目を果たしている。それがどれほど途方もない労苦であるか、お前には想像もできまい・・・・・。
だが、全く救いがないというわけではない。それというのは、人間の中には、決して多いとは言えないまでも、心優しい者、美しい物を愛する者も少なくないからだ。故に、それらの者たちには、地獄に於いても救いの手を差し伸べねばならぬ。その役割の一端を、竹軒、お前に担って欲しいのだ」
「・・・」
「お前はどうやらあまりにも自分を卑下する性格が身に付きすぎている。その顔には『私は無知なるが故に正しい診断も処方も出来ず、救われるべき者も救うことはできません、どうかもっと名医にその役割をお命じ下さい』、と、そう書いてある。だが、恐れるでない。この後、お前はいかなる病も瞬時に見抜き、最高の処方をする事ができるであろう。というのも、あらゆる医学知識本草学は既に解き明かされ、我らが倉庫にしまってあるのでな。それをすべてお前の頭に移し替えるとしよう。お前はこれより、漢方の知識に掛けては如何なる名医にもはるかに優る医者となろう」
「・・・」
「だが、いかに優れた知識を備えようと、心が伴っていなければ猫に小判も同様だ。病は、分析ではなく、直観によって知られる。治療は技術ではなく、共感によって完成される。なぜなら、病は、人間の気が病んでいるのであるから、気を感じられない医者には治すことは出来ぬ。では、気は何故に病むのか。それは、人間が人間を生み出した根源の霊力から分離されたことから生じたのだ」
「・・・」
「天空の彼方を見よ。雲が垂れ、雲の切れ目の果てに黒い空が見えるであろう。その遙か彼方には星座が瞬き、その星座を青黒い虚空が支えている。そしてその虚空の彼方にも虚空が広がっているのを感じるであろう。それらを生み出した力こそ、根源の霊力だ」
「・・・」
「この黒々とした柱の底を見よ。どこまでも深く、暗い穴が黄泉の国まで続いている。何億何十億の人間共を呑み込んで、暗黒の穴はますます深さを増す。その地の底の黄泉を生み出したものは何か、根源の霊力である・・・地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天・・・この無限の連鎖を生み出したものは何か・・・根源の霊力である」
「・・・」
「人間の多くは己の存在が世界の中心であると勘違いし、世界は己の五感の届く範囲にあると錯覚し、二度と無い大切な時を、金や名誉や権力や諍い事や蜃気楼のように儚い夢を見て、徒労に時を過ごしている。人間共の多くは天地の美しさに対する畏敬の念を忘れ、生きている物に対する敬いを失い、礼節を弊履の如く捨て去った。彼らの多くは金銭と目先の便宜のみ追い求め、天地の呼吸する音を聞かず、星辰の果てしない巡りを見ず、水底に潜んでいる小石の立てる神秘の音も知らずに、生涯を空しくして死に、ここに送られてくるのだ。それらの罪人を裁くのは、我ら、十王の役目である。だが、中には希に心優しき者が混じっていることもある。そしてその心優しき者の中に、病んだ者もいる。そうした者を、そなたに託そう」
大王がそう言って竹軒に微笑んだので、竹軒は不安に胸が締め付けられる気持ちだったが、ここで言わねば二度と機会がないかもしれぬと自分に言い聞かせて、思い切って口を開いた。
「大王様、私は、ご命令とあらば、従うことに異存はありません。しかし、ある一定の期間が過ぎ、私に課せられた義務を果たしたと大王様がご判断なされた暁には、私に、自由をいただけませんか」
「・・・自由・・・なるほど、その自由をそなたは何に使う」
「私は幼い頃から医者になると定められ、生涯診察室に閉じこもり、病人と共に過ごして参りました。私の部屋には祖父の代からの医学書が天井まで積み重なり、整理棚の中は生薬と論文であふれています。私はそれを見ながら、今の世は定めだから仕方がないとしても、来たる世には医者でない人生を生きたいものだと考えておりました。私が学んだ知識ががらくたとは申しませんが、しかし、できることなら、西行や芭蕉のように放浪してさまざまな景色を見、見知らぬ人々に出会い、歌を詠み、夜露に濡れた草を枕に夜を過ごしたいと願っておりましたし、もしも地獄にもさまざまな地獄があるものなら、源信僧都のように、あるいは西欧のダンテのように、あちらこちらを経巡って見知らぬ経験をし、天上界も覗いてみたいとも願っていたのです。しかしもしも、私が閻魔庁に何万年も留められるとすれば、そのような死後の願いも無に帰すということになりますので、私がいつになったら自由にしていただけるものか、それとも永久にここに留められるのか、それをお教えいただきとうございます」
竹軒がこう述べると、閻魔大王は如何にもと肯いて、
「その事については私も考えていなかったわけではない。そなたは私ら十王とは違う運命を担っている。私らは何十億劫年が過ぎても地獄での役目を果たし続けるのが定めだが、そなたはやがて自由となって、どこぞ別の国へ旅立つことになろう」
「・・・」
「しかし、この地獄にいる間にも、無駄に過ごさせはせぬつもりじゃ。既にそなたは多くの患者を地獄で診てきたが、これから後は心して、そなたに良き人物を向けるようにしよう。芭蕉や西行やダンテとて、想像も出来なかった人物たちにも会わせてやろう。というのも、幸か不幸か、人間の罪悪や事件は無限に積み重なっている故に、閻魔庁には結審し終えておらぬ案件が五億五千五百五十五万五千五百五十五件もあるのでな。多くの未決の罪人や無実の者共が裁判を待っている。それ故、そなたがここに居れば、世にも希な人物に出会える可能性が十分にあるというわけじゃ」
こう言って閻魔大王は竹軒を優しい眼差しで見つめたので、竹軒はほっと救われるのを感じた。
*
突然、閻魔庁の役人が急ぎ足で入ってきた。
「大王の予測なされた通り、あの罪人共が参りましたのでご報告に参りました」
これを聞くと大王は急に厳しい顔つきになって、
「その者共は何と申している」
「娘を食った鬼を裁きにかけてくれ、と申しております」
「なるほど、笑止なことを申す奴等だ。では、直ちに裁判に取りかかろう」
役人が出て行くと、大王は竹軒に向かって、
「私は裁判に行かねばならぬ。この件は先ほど話していたような優れた人間に関するものではない。浅はかな欲張りの裁判だ。しかし、そなたがそれを見たいとあらば許そう」というので、竹軒はついて行った。
*
冒頭、それがいかなる事情で起こされた裁判なのか、役人が書面を一同に読み聞かせた。それによると、おおよそ次のような次第だった。
大和の国十市郡菴知(あむち)の村に五郎と申す男がいた。五郎はその村の長者、鏡造りの娘で名を萩と申す女を好きになり、再三結婚を申し入れたが、長者は五郎の財産が十分でないと許さなかった。なにせ萩の美貌は近隣に鳴り響き、空の月でさえ萩の瞳に見ほれて天から落ちてくるのではないかと評判の美人であった故、黙っていても方々の財産家から申し入れがあるので、貧乏者など相手にしなかったのだ。そうしたある日、都から藤原有恒と申す男が大勢の供を従え、十の牛車に宝物を山ほどに積み上げてやってきた。
有恒の使いが申すには、
「あなたの娘、萩の噂は都にも鳴り響いている。是非とも私の嫁にいただきたいと御主人は申しております」
長者夫婦は大いに喜び、近隣近在の親戚金持ちを招待して婚礼の宴を張り、三日三晩飲めや唄えの騒ぎをした。ところが肝心の婿殿有恒と、新妻となった萩が寝所に入ったまま一度も顔を見せぬ。これは如何かと仲人の者が密かに部屋の中を覗き見した。と、これはどうしたことだ・・・萩の左手の小指が一本、血の海に浮いているだけで、体はない。有恒の姿もない。宴席はひっくり返るような大騒ぎになり、あれは鬼が化けて出たのだ。萩の美貌に地獄の鬼が魅せられて密かに有恒になりすまし、萩を取って食ったに違いない、と叫び合ったが、そうこうするうちに悲嘆と驚きに長者夫婦は押しつぶされて、
「こうなったからには、閻魔大王に娘を食った鬼を裁いてもらおう」
と相談し、二人とも食を断ち死んで、はるばる冥土に来た。これが事件の次第だという。
「どうですか、先生はどう思われますかな」と篁は皮肉な微笑を浮かべている。竹軒はためいきをついて、
「たとえ娘が鬼に食われようと、それほど強欲な夫婦が、娘を思う余り食を断って死ぬとは思えませぬな」とこう云うと、閻魔大王は「その通りじゃ」と頷いて長者夫婦を見下ろしたが、大王の冠からはみ出た髪の毛が逆立ってギラギラと輝く様は、百万の精鋭が槍を揃えて鬨の声を上げるよりも恐ろしかった。
*
「萩と申す娘を地獄の鬼に食われたが故、その大罪を犯した鬼を出せと訴え出たのはその方共か」
閻魔大王が机越しにそう云うと、頭の毛を振り乱した翁と嫗が、
「私どもはただそれだけを望んで自ら死を選んで参ったのでござります」
と恨みがましく大王を見上げた。大王は二人を見据えて、
「では私の部下がお前たちの娘を喰ったと申すか」
「はい。私たちの願いはただひとつ、私たちにとっては宝にも玉にも代え難い娘、萩の命を取りもどしたい。あなた様の部下の鬼の腹から出していただきたいという、この一つの願いだけにござります」
と涙ながらに申し立てる。竹軒はこれは難しい訴えだ。何しろ鬼が被告なのだから、閻魔大王もお困りなのでは、と、秘かにそう思った。と突然、大王の笑い声が雷のように響き渡った。
「愚かな親共かな」と、大王は漆黒の眼で長者夫婦を睨んだ。
「愚かとは、私たちのことでござりまするか」
「いかにも、愚かも愚か、地獄の餓鬼畜生にも阿呆と馬鹿にされるであろう」
「それは閻魔大王のお言葉とも思えませぬ。娘を殺されて嘆き悲しむ親を愚かとは、如何なる故にござりまするか」
「理由は明白、お前たちの娘、萩という者は、死んでおらぬからだ」
「何と申します」
「くどい。萩は生きている、そう申したのじゃ」
「・・・生きている・・・いいえ、そのような事があろうはずはありません。確かに血の海に萩の・・・」
「屍があったのか」
「いいえ、小指ばかりが・・・」
「小指の主を娘とどうして言い切れる」
「・・・」
「良く聞け。現世で死んだ者は、首を括った者であろうが、飢え死、老衰、あるいは殺されたものであろうが、みな必ず閻魔庁に送られてくる。それ以外には行き場はない。そして死んだ者共の名も、その生涯の行状もすべて閻魔帳に記されている」
「・・・」
「ところが、萩という娘の名は閻魔帳に記載がない。ということは、死んではいない、ということだ」
「いいえ、それはきっと、鬼の腹の中にありますが故に、自分の姿では参ることが出来ないにちがいありません。それゆえ閻魔帳にも記されず、死んだとも知れぬのでござりましょう。どうか、娘を食った鬼の腹を裂いて確かめてくだされ」
翁がそう言いながら泣き叫ぶと、
「黙れ、痴れ者め!」と閻魔大王はあたりの空気を振るわせて叫んだ。
「お前たちの強欲ぶりは疾うの昔から閻魔庁まで届いておるわ。有り余る金がありながら、その金を近隣の百姓町人にさんざんに貸しつけては暴利をむさぼり、そのために何十人の家がつぶれ、百五十五人の大人子供が身を首を括って死んだのだ。だがお前たちは金銀財宝を三つの蔵に蓄えてまだ足りぬ、そこであれこれと算段して、萩を金持ちに嫁がせて、莫大な結納金をせしめようと考えた。そこへ都の公卿とおぼしき有恒が金銀財宝を十の牛車に山積みして申し込んで来たので、これこそ待ち望んでいた婿殿と、小躍りして宴を張り、二人を結び合わせることにした。ところが萩の姿がない。驚いて、有恒が運んできた宝物を開いてみると、みんな牛馬の骨ばかりだ。これを見てお前たちは気が転倒し、そのまま息絶えたのだ、そうであろう」
閻魔大王がこのように告げると、白髪の嫗はうーんと目を回してその場に卒倒した。
*
「竹軒殿、ちょっと診てもらえぬか」小野篁が竹軒を振り返るので、「それほど強欲な者を診るには及びますまい」と申し上げると「いや、取り調べがすまぬ間に地獄に送ることは出来ぬ故、ちっとばかり診て欲しい」と言うので竹軒は階段から白州に下りて、鬼を助手にして気絶した嫗を診てから大王を見上げて、
「これは怒・恐・驚・憤が一気に頭に上り、腹の気が虚して顛倒したものでござります」
「ではどうすればよいか」
「普通の患者であれば、柴胡加竜骨牡蛎湯を用いますが、さて、これほど強欲者に飲ませる薬は・・・」
「強欲な者に貴重な薬は惜しいと申すか」
「いかにも」竹軒が答えると、閻魔大王は目をギョロリと見開いて、
「そなたはこの者共が強欲なるが故に治療するに及ぶまいと考えるのだな」
「・・・はい・・・いかにも」
「なるほど、しかしさて、それはいかがであろうか・・・と申すのは、そうした考えは、医者の道にも悖(もと)るものではないかと思われるからだ・・・医者は好悪善悪を超えて目の前にいる患者の治療に無心に勤しむべきであるというのが本道ではないか」
「・・・」
「目の前に来た患者がたとえ極悪人であろうと、善人であろうと、そのような事には関係なく、医者は苦しみ病んだ者全てを治療しなければならぬのではないか。そうではなく、善人のみを診、悪人は診ないという事にするとしたなら、医者は医者である前に全能の神でなければならないことになる。というのも、見かけは悪人であっても善人であることは多々あることであるし、どこまでも善人に見える者が、実は偽善者であることは少なくないからだ。故に、医者は患者が何者であるかを問うべきではなく、是非善悪の立場を捨てて、ただひたすら苦しむ者全てに手を差し伸べるべきなのだ。罪人が地獄行きに値する者であるか否かを裁定するのは十王の役割であって、医者の役割ではない」
「・・・」
「そなたは存じているかどうか、昔、ロシアに残虐な皇帝がいた。その皇帝は自らの権力をどこまでも浸透させるために、少しでも命令に背いた者を容赦なく鞭で叩かせた。兵士が過ちを犯すと、数百人の兵士が二列になって棒や鞭を持って並び、罪を犯した兵士はその列の中を歩かされた。何百という棒と鞭の雨を受けて兵士が昏倒すると、医者が呼ばれ、治療をした。この医師は『いくら治療をしても死ぬ運命にある兵士を治療するのは拷問に掛けると同じではないか』と悩み苦しんだ。というのも、治ればまた列の中を歩かされる運命にあるからだ。しかしこの医者は、自分の心の葛藤と目の前の患者の苦しみを比べて、今、自分に出来ることは、患者の苦しみを取ることだけだ、と心に決めて、痛みから救ってやることにした。この話は、当の医者が地獄に来たときに告白した事実である。・・・この医者の判断は間違いではない。医者が裁判官や神父や僧侶や皇帝の役割を果たすことはできない。医者は医者に徹すればよい」
閻魔大王がこう述べたので、竹軒は心打たれ、早速、柴胡加竜骨牡蛎湯をこしらえて小野篁に手渡した。篁は鬼に命じて嫗に飲ませると、しばらくして嫗が目を覚ましたが、嫗は胸をかきむしるようにして、盛んに吐く気配。そこで竹軒は生薬を磨り合わせて半夏瀉心湯を作った。これを見て翁は、
「それはどのような薬か」と訝った。地獄の医者なら毒薬を盛るのであろうと疑っている様子だ。小野篁は苦笑いして、
「お前は生涯を通じて人に優しくしたことは一度もなく、反対に人を見ればこれを騙し、陥れ、不幸にして、多くの人々を死に追いやったが、そうして手に入れた金銀宝玉が何の役に立つ。役に立つのは、天の光と地の力から生まれた山川草木、これこそが真実の宝という。お前のような者どもに竹軒殿のこしらえた宝を飲ませるのはもったいないが、閻魔大王はお前たちにもお慈悲を分かち与えるべきと考えておられる。この半夏瀉心湯と申す薬は竹軒殿が、ハンゲにオウゴン、カンキョウ、ニンジン、それにカンゾウ・タイソウ・オウレン、この七つの生薬を混ぜてこしらえたもの。お前の妻には過ぎたる秘薬ではあるけれど、それ、一口飲ませてみよ」
小野篁がこう述べて翁に手渡すと、翁は半信半疑で半夏瀉心湯を嫗の口にたらし込んだ。と、嫗はたちまち蘇って、あたりをきょろきょろと阿呆のように眺めていた。
*
「よいか、そこの翁と嫗、お前たちには事のいきさつが分からぬようだから、地獄へ送るその前に、はっきり教えてやることにしよう」と大王は言った。
「・・・」
「そなたの娘萩は五郎と言い交わして年頃となり、互いに生涯添い遂げようとお前たちに願い出た。これは覚えているであろう。ところがお前たちは相手にもせず、五郎を使用人たちに捕らえさせ、足腰の立たぬほど打擲して、『二度と来るな』と追い払った。が、恋の道は如何なる力も防ぎ留めることはできぬ。二人は密かに会ってあれこれ相談し、金銀を牛車に積めば許してくれるに違いないと思い定めて、都の公卿、有恒と偽って長者に結婚を申し込むことにした。二人の思いは仲間の者共にも同情を買っていたから、一同は供人になることとなり、こうしてさまざまに用意をしたが、牛車は用意できても、金銀ばかりはどうにもならぬ。
困り果てているその姿を、ここにいる千里眼の小野篁、何とか助けてやろうと、牛馬の死骸を金銀珊瑚宝玉の山に変え、五郎に言い含めて云うからに、『これは神々がそなたたちを助けるがため、用意した宝物ぞ。婚礼が済んだらその足で、誰にも見咎められぬように忍び出て、ただひたすらに武蔵の国目指して逃げるのだ。たとえどのような噂を聞いても、決して信じてはならぬ。これからは強欲な両親の因縁因果と縁を絶ち、五郎と萩、ただふたりで生き延びよ』と、そう言い聞かせて落ち延びさせ、萩が脱ぎ捨てた衣に水を掛けて血の海と化し、木ぎれを浮かべて萩の指とみせかけたのだ。これで何もかも分かったであろう。萩は地獄の鬼に食われるどころか、五郎と共に武蔵の国で仕合わせに生きている。思い残すことはあるまい」
閻魔大王がこう云うと、翁と嫗は声を失って腰を抜かしていたが、その二人の頭に大王は容赦ない判決を申し渡した。
「菴知の長者夫婦、お前たちはこの後五千万年、これまでの罪を購うために、針地獄を上ってもらうことにしよう」
この宣告に、翁と嫗は悲鳴を挙げて逃げようとしたが、鬼共は二人を縛り上げ、針地獄へと引き立てた。菴知村では長者夫婦と娘が一度に死んでしまったのでさまざまに噂したが、やがて人々は次のような歌を詠って囃したという。
誰を嫁に欲しい どの女を嫁に欲しい
それは菴知(あむち)のこむちの鏡の子 南無や南無や
鏡の子の娘萩は 容貌(かお)きらきらし
肌つやつやし そのうつくしき萩の子を
天の神様欲しくなり 身を有恒に装いて
とうとう娘に夜這いして 羽衣着せて逃げてった
<第九話 終わり> ●引用・参考文献:『日本霊異記』第33巻
【付記・参考資料】 「世界の名著 老子 荘子 」中央公論社
「筑摩世界文学大系 司馬遷」筑摩書房 「筑摩世界文学大系 インド・アラビア・ペルシャ集」筑摩書房