「閻魔庁の籔医竹軒」 第四話 ハムレット

 深い闇の底で誰かがしゃべっている。地獄の亡霊だろうか、それとも、生前の苦しみから離れられず呻いている魂だろうか。

昔ローマ帝国全盛の頃、

大シーザー遭難の直前には、

ローマ中の墓はことごとく口を開き、

さまよい出た亡者の群れが

ローマの辻々で泣きわめいたという。

また、空の星は紅蓮の焔の尾を曳き、

血の露が降り、

太陽の光は怪しくかすみ、

海の汐の干満を支配する月も完全に蝕(か)けて

この世の終わりかとさえ思われたということだ。

現にこの国でも、そらあの大事件の直前

恐ろしい運命の前触れとして、

来るべき大凶事の前兆に                                            

天変地異が起こって、われわれを驚かしたではないか。

 

 しっ、見ろ、またやって来た!

 道を遮ってやろう、祟るなら祟れ、

 一人の若者が両手を拡げ、竹軒の前に進み出た。

「さあ、云え!貴様等幽霊は、死後までもうろつきまわるのか」

 若者が腰の剣に手を掛けて抜こうとするので、竹軒は慌てて制して、

「どうかお静まり下さい。私は幽霊ではありません・・・閻魔庁で医業を営んでいる竹軒という医者でござります」

「何と、お前が医者の竹軒、確かにそうか?」

「私の他に閻魔庁に竹軒はおらぬと存じます」

 これを聞くと若者は闇に向かって、

「探していた者がようやく見つかりましたぞ」と叫んだ。その声に応じて、もう一人の若者が朦朧と現れた。

若者2「確かに目当ての男か」

若者1「どうやら確かのようでございます」

 若者2、竹軒の回りをぐるりと回って皮肉な薄笑いを浮かべる。

若者2「奇妙な出で立ちをしておるな。我が国の医師とは似ても似つかぬ恰好ではないか。もしもお前が医師であるとしたら、『アスクレピオスの杖』を持っているはずだが・・・何も持たぬようだ。ホレーショ、君は間違った者を探し出したのではないか。この男は杖どころか、「ケリュケイオンの杖」も持たぬようだぞ」

(注・アスクレピオスはギリシャ神話に登場する名医。死後天に上って蛇使い座となった。欧米では現在も医の象徴として世界保健機関のマークにもなっている。ケリュケイオンはギリシア神話のヘルメスが持つ杖のことで、アスクレピオスの杖は蛇が一匹なのに対して二匹の蛇が巻き付いている。やはり医のシンボルとして欧米の医療機関で用いられている。)

 若者が失望と軽蔑の混じり合った眼差しで冷ややかに見つめるので、竹軒はいささかムッとして、

「私は東洋の医者ですが、有名な哲学者ソクラテスが死に瀕して『クリトン、アスクレピオス(医の神)に鶏を一羽、お供えしなければならなかった。忘れずにやってくれ』と弟子に頼んだという話は伝え聞いております。アスクレピオスは古代ギリシャの医術の神であったのでソクラテスも信仰していたのでしょう。しかし私は日本の医者ですから、大国主命こそもっとも優れた医術の神であると思っております」

若者1「ふーむ、どうやら無学の輩ではないようだが知識人とはほど遠いな。というのもソクラテスが死に瀕して弟子に語った言葉は貴公が誰ぞから聞いたものとは大違いだ。彼はこう言ったのだ。

『私は医術の神アスクレピオスに鶏を一羽借りている。 借りを忘れずに返してくれないか』

 それを貴公は『クリトン、アスクレピオスに鶏を一羽、お供えしなければならなかった。忘れずにやってくれ』と間違えた。生兵法は大怪我の基であると同様、浅知恵は大恥の元というのもどうやら真理のようだ」

毒杯を受けるソクラテス ダビッド 墨絵模写佐賀純一

竹軒「私は通りすがりのあなたにこのように侮蔑される謂れは無いと存じますが、成り行きでござりますから申すことにしましょう・・・思いますに、『私は医術の神アスクレピオスに鶏を一羽借りている。 借りを忘れずに返してくれないか』とソクラテスが言い残したという貴方の説は納得しかねます。なぜと云うに、ソクラテスはその生涯に於いて、医術の神に何の借りも負ってはいなかったからです」

若者2「何だと?それはどういう根拠からそう申すのだ」

竹軒「ソクラテスはご承知の通り、アテナイの青年に害毒を与え、国の神々を認めないという廉(かど)で告発され死刑を宣告されました。多くの人々はこれほど優れた人物を失う事に耐えられず逃走を助けようとしましたが、ソクラテスは「悪法であっても国の法律は守らなければならない」と述べて、自ら毒杯を呷(あお)ったと伝えられております。ですから当然のことながら、死ぬ前に医師に掛かったはずはないし、毒消しを頼んだようなこともない事は確かな事実でしょう。ですから、彼は生前にはアスクレピオスに借りはないと思うのです。しかし、ソクラテスは死後の世界の存在を信じていました。それについては『パイドン』などに縷々記されておりますから今更ここで述べるまでもないでしょうが、ソクラテスが死後の世界で自分が再び生きるであろうと考えていたことは確かです。そうした観点からすると、『クリトン、アスクレピオスに鶏を一羽、お供えしなければならなかった。忘れずにやってくれ』という言葉の意味は理解できます。というのも、生前飲んだ毒の作用が死後も残っていたとしたら、ソクラテスは死後の世界に再生することはできませんし、哲学を論じることも出来ません。もしそうだとしたらこれは大事です。故に、ソクラテスは死ぬ前にアスクレピオスに鶏を捧げ、死後の世界での治療と救いを依頼したのではないかと考えられるのです」

若者2「『・・・どうやらこの医者は評判にたがわぬ者であるようだ・・・』ホレーショ、生きているうちには出会えず、死んで後にこれほど面白い奴に出くわすとは、皮肉な事だな、そうは思わないか・・・」

若者1「その通りですとも。お二人の会話に感服いたしました。竹軒殿の言い分はまことに理路整然としている。我が国の貴族や学者たちよりも数段優れている。それでこそ頼ってきた甲斐があったというものです」

 

 竹軒が庵に案内すると二人の若者はあたりを見回していたが、彼らが尋常の人物でないことは、その衣服が金糸銀糸で刺繍され、宝石で飾られた黄金の剣を腰に佩いていることから明らかだった。

若者1「実は私とこちらの方が貴公を尋ねたのは、他でもない、この方の御心を治療して欲しいが為なのです」

竹軒「凡そは見当がついております」

若者1「見当がついているとは・・・」

竹軒「先ほどこちらのお方はあなた様をホレーショとお呼びになりました。ですから、こちらのお方はハムレット様でござりましょう」

  ハムレットとホレーショ、顔を見合わせる。

ホレーショ「なるほど、貴公は確かに名医らしい。名医であれば、貴公はハムレット様の病を治療することが出来るであろう」

竹軒「ハムレット様の病は常の病ではありません。従って、ある程度症状を軽くすることは出来ましても、根本的に治すことは難しいかと存じます」

ハムレット「医者は治療もせぬうちから自己弁護をするものだが、お前も俗物医とはさして変わらぬようだ。というのも、私という病人を診察する前に、自己の無能を楯にして、私の病を治せぬ時の弁明を言い立てている。つまり、貴公は、私の病は難しいから治すことは出来ぬと、そのように言いたいのであろう」

竹軒「何と申されるのも勝手でございますが、華佗(かだ)扁鵲(へんじゃく)のような名医が診ようとも、治すことは困難であろうと存じます」

ハムレット「カダなどという医者の名は聞いたことがないが・・・」

竹軒「華佗は紀元三世紀ごろ、後漢から三国時代にかけて活躍した魏の名医でござります。漢方にも優れておりましたが、麻沸散としいう麻酔薬を用いて外科手術なども行いました。しかし、時の皇帝魏の曹操の侍医となったため、殺されました」

ハムレット「何故それほどの名医を殺したのか」

竹軒「王宮は蛇の穴、権力を求める魑魅魍魎のうごめく魔窟でござりますから、華佗が何故に殺されたのか、その真相は存じませぬ」

 これを聞くと、ハムレットは竹軒を凝視してしばらく沈黙していたが、やがて落ち着きを取りもどそうとして、大きく息をすると、

ハムレット「貴公に一つ質問したいが・・・」

竹軒「承りましょう」

ハムレット「貴公は世にもまれな淑女に恋し、死ぬほど焦がれていながら、その思いを臆病な蜥蜴のように脅かして、心の中から追い払って、無慈悲な残虐さで、逃げようとする蜥蜴の尻尾を切り取って、その醜さを賛美したことがあったかね」

竹軒「私も生前は若いときもござりましたから、人並みの恋はいたしましたし、失恋の涙も流したことはありますが、貴方様のおっしゃられるような思いは経験がありません」

ハムレット「その経験なしでは私の苦悩は分かるまい」

竹軒「残念ながら、人それぞれの人生ですから、同じ苦悩を味わうことは誰にもできぬことと存じます。しかし、自分の苦悩が世界で最も深いと信じ、また他人にもそれを信じさせようとするのも、愚かな試みと存じますが」

ハムレット「口の減らぬ奴め・・・まあよい・・・では聞くが、女の美と貞淑さは共存できると思うかね」

竹軒「女と生まれた者が、美と貞淑を兼ね備えているに越したことはありませぬが・・・しかし」

ハムレット「しかし、何だ?」

竹軒「私の存念を申し上げます前に、美と貞淑に関するあなた様の意見を先にお聞きしたいと存じまして」

ハムレット「私の答は簡明だ。美と貞淑を具えた女性は理想ではあるが、それは幻想というものだ。というのも、美という奴はまたたくうちに貞淑を乗っ取り、淫売婦に変えてしまう。貞淑がどう頑張ろうと、こいつにはかなわない。トロイのヘレンが良き模範であろう。彼女はギリシャ一の美女であり、ギリシャ第一の独裁者アガメンノンの弟、メネラオスの妻だったが、トロイ王子パリスに誘惑されて彼の地に逃げ、為に、トロイは滅亡した。一人の女の美が、その女の貞淑を殺し、当時世界第一の繁栄を誇っていた大都市を滅ぼしたのだ。ヴァージルの叙事詩『イーニッド』に在るだろう。トロイの王、プライアムの最後の場面だ。

躍り出たる荒武者ピラス、心も暗く、ぬばたまの黒き鎧に身を固め、呪いの馬(トロイの木馬)の腹中の闇にひそみしかの曲者、見よ、その黒金おどしの甲冑も今は色変わり、紅に染まってもの凄く、面も、頭も、爪先まで、

唐紅に照り映えるは父の血、母の血、

娘の血、息子の血、かくも多くのトロイの子らを、

焼き殺したる紅蓮の焔は巷を覆うてすさまじく、

焦熱地獄の火の如く、虐殺者の行く手を赤々と照らしたり。

憤怒と猛火に身を焼かれ、膠のごとき凝血に五体は覆われ、強ばりて、眼をば紅玉のごとく輝かせたる阿修羅のピラスが、

求むる相手はトロイの老王プライアム・・・・『そして我が父もまた・・・』

竹軒「・・・」

ハムレット「全てを破壊したのは、女の不貞だ。つまり、女の美と貞淑は絶対に共存し得ぬということなのだ。」

竹軒「・・・なるほど、お話の趣はよく分かりました。私は西欧世界が女性にどのように美と貞淑を求め続けたのかよく知りません。故にあなた様のような博識のお方に何を申し上げるお話もありませんが、ただ一つ、貞淑ということに関して申しますれば、十字軍の遠征の際などには、女性に貞淑を強制するために貞操帯などを填めたという話はいかにも滑稽な拷問としか思えません。と申しますのも、日本の古代において恋愛は自由であって、貞淑というような思想はなかったのです」

ハムレット「そのような話は信じがたい、仮にそうだとしたら、お前の国の人間はみな道徳心が欠如し、秩序も喪失して、ソドムとゴモラ同様の醜い欲望が国家全体を覆い、男も女も淪落の底に沈んでいたのであろう」

竹軒「いいえ、その反対です」

ハムレット「反対とはどのような」

竹軒「自由な恋愛の中から美の極致とも申すべき和歌や小説、歌集、私小説、随筆集、日記、説話集などが生まれました。その種類は生涯を読書にかけても到底読み切れないほどでございます」

ハムレット「ふん、歌や詩など麻薬同様に空しいものだ、嘘と歯の浮くようなお世辞を並べ立てて人の心を幻想に駆り立て、気付くと、そこにあるのは蜃気楼のごとき裏切りと嘲笑ばかり、地獄の火に焼かれるような苦しさが心をジリジリと焼く」

竹軒「あなたがそのように苦しみ、女を恨んでおられるのは、実はあなたの所有欲の故でござりましょう」

ハムレット「お前は、この私に責任があるというのか」

竹軒「あなたの国の男は、あなた様に限らず、恐らくは女の衣服を宝石や金銀で飾ると称して実はその黄金の鎖で彼女を縛り、宝石を彼女の自由を奪う道具として重宝していたのではありませんかな」

ハムレット「男とはすべてそうした者だ。そして女もまた、宝石という道具に好んで縛られたがる」

竹軒「ではそうではない男や女がいたとしたら」

ハムレット「無意味な議論だが・・・まあ、聞いてやろう」

竹軒「あなたの国にも多くの美女がおられましょうが、我が国にも美女伝説には事欠きません。しかし彼らはあなたのオフィーリア様のように縛られていたのではなく、男と恋を語っていたのです」

ハムレット『何をつまらぬ世迷い言を話そうとしているのだ・・・この年よりは』

竹軒「たとえば、小野小町には十指に余る恋人がおりましたし、和泉式部は橘道貞の妻でしたが、宮廷に上がると冷泉天皇の第三皇子為尊親王と熱烈な恋愛に落ち多くの歌を詠みました。しかし為尊親王が亡くなると、その弟敦道親王が彼女に夢中になり、親王は自らの屋敷に特別な部屋をこしらえてそこに迎えようとしましたので、親王の正妃は家出してしまったほどです」

ハムレット「そのような馬鹿な話を信じられると思うのか・・・王子と寝所を共にした女が、その弟とも通じるとは・・・これに過ぎる不貞はあるまい」

百人一首ものがたり」より 和泉式部

竹軒「いいえ、当時は誰もそのようには見なさなかったのです。というのも、その時代は、男も女も自由に愛し合うことが許されておりましたので・・・」

ハムレット「それは人間界の話ではあるまい・・・馬か鹿の類でなければ、淫乱な羊の国の出来事であろう」

竹軒「動物が歌を詠みましょうか」

ハムレット「人の心を欺そうとするものは、言葉でも歌でも何でも使うであろうよ」

竹軒「人を欺こうとする者の歌が、千年の命を得ることができましょうか」

ハムレット「千年どころか、一夜の苦しみにも耐えることはできまい」

竹軒「ところが皇子と恋に陥った和泉式部の歌は千年以上も歌い継がれているのです」

ハムレット「そのような事を誰が信じようか。鶏だとて夜が明ければ鳴き止んでしまう」

竹軒「私が記憶している一つの歌をご紹介いたしましょう。

   黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき(後拾遺755)

(私の黒髪も私の心も乱れに乱れてしまった。その私が今こうして一人でいる時に思い出すのは、この床で私の黒髪を指でかきやって顔をのぞき込んだあの方の恋しさばかり)

ハムレット「思った通りではないか」

竹軒「思った通りとは?」

ハムレット「女どもは神様が下さったものとはまるで別の生き物のように顔や首を塗り立てて、腰を振る、踊る、甘ったれる、ふしだらを冒す、そのくせ、問い詰められると、知らないわ、などと言い抜ける、そんなでたらめをお前の国では許されると自慢したいのか?」

竹軒「自慢するわけではありませんが、誰も彼もが恋をし、人生を享受し、そこから不滅の小説や歌集が生まれたのですから、恋は何ものにも勝る宝です。欺すも欺されるもないと存じますな。中国の儒教も西欧のキリスト教も、男女関係や恋にかけては極めて狭量なようですが、少なくとも平安時代の日本では、密教という仏教の教えが国家全体に行き渡って、日々の生き方にも浸透していましたから、当時の人々はあなたのように、善と悪、貞淑と売女のようなつまらぬ区別はしなかったのです」

ハムレット「それでは王室も国家が治まるわけはないではないか」

竹軒「ところが、そのお陰で、日本には四百年もの間、大戦争とは無縁でしたし、死刑もありませんでした。なにしろ正規軍さえもなかったのですから」

ハムレット「軍隊がない?そんな馬鹿なことがあるものか、正規軍や近衛兵がいなければ、王は一日たりとも生きていられまい」

竹軒「いいえ、日本の天皇は、近衛兵など持ちませんでした。兵部省はありましたが、大将・中将などといっても、みな飾り物で、戦とは無縁でしたし、刀を抜いたことは何百年もなかったのです。宮廷を形ばかり守護する武士は滝口の武士と申す者がおりましたが、一時期は九人ほどでした」

ハムレット「信じられぬ・・・なに故、そのような平和があり得たのだ」

竹軒「さきほども申し上げましたように、密教の教えです」

ハムレット「・・・それは何だ?」

竹軒「この世には愚かな者、賢い者、醜い者、美しい者、貧しい者、富んだ者、貞淑な者、愛慾に囚われた者、その他、森羅万象、あらゆるものが目に見える形でも、見えない形としても、存在しています。それはあたかも川の流れの表面に浮かぶ泡沫(うたかた)は私たちの目には見えますが、流れの底に静かに沈んでいるものは見えないように、全ては見えたり見えなかったり、ぶつかったり渦を巻いたりして共存しているのです。この世に目に見える現象として現れるのは世界のほんの一部ですし、それも泡沫のごとく現れてはたちまち消え失せてしまいます。しかし世界には現れる前の存在もまた、現れることを支えている存在も、その存在を支える存在も存在しているのです」

これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関  蝉丸 「百人一首ものがたり」より 墨絵挿絵

ハムレット『この男が狂っているらしい・・・いや、この男は我々の知らぬ哲学を持っているのかもしれぬ・・・」

竹軒「仏教ではこの世の存在は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天、という具合に、人間は全宇宙の中の中間にさまようものとして扱われており、その六つの存在を未来永劫輪廻するのが定めとされてきましたが、時代が経るにつれ、全てはあるがままに許される、全てはあるがままで菩提(ぼだい さとり)であるとされるようになり、あるがままで良い、あるがままで仏になれるという考えが人々に受け入れられるようになりました。それが、密教です」

ハムレット「それ見ろ、やはりこの医者は気がおかしいぞ。なにもかもがあるがままで良いなどと、そんな教えがあるものか」

ホレーショ「まことに信じられぬ事ですが、もしもそれが確かな教えなら、しかつめらしい戒律や馬鹿馬鹿しい儀式から解放されて自由に呼吸ができましょうな」

ハムレット「ホレーショ、君は自由と爵位が共存できると錯覚しているのではあるまいな」

ホレーショ「決して・・・しかしあなた様は皇太子の地位と自由の狭間に生涯苦しめられました。そしてあの惨劇が起きたのです。ですから、私は、むしろ、爵位などは捨てて、自由に生きることのできる身分になったほうがどれほど楽しかろうと・・・」

ハムレット「黙れ、ホレーショ、そのような考えは王位とは両立できぬ・・・それに、この医者の言い分はいかにもいかがわしい。というのも、さきほどから聞いていれば、密教とやらは原始宗教そのものではないか。そうではないか。戒律があってこそ初めて宗教の名に相応しいものとなる。モーゼの十戒は良くできているぞ。神は一人と定め、また姦淫を殺人と同様の重罪と断じた。それでこそ国の教えとして相応しい。ところがその密教とやらは、人間があるがままに救われるという・・・あるがままで救われるとは、笑止な言いぐさだ。では、父を暗殺し、母を寝取った私の叔父もまた、あるがままの自由を享受したのだから許される・・・彼らが何の罪にも問われず、救われると、そう申すのか?」

竹軒「いいえ、誰が殺人を許容などしましょうや。私が申し上げたいのは、日本の古代に於いてはモーゼの教えにある『美と貞操』に関するあなたのお考えとは反対の男女が自由に生きていた時代が四百年も続き、その間、大戦争は全くなくなり、多くの文芸が花開いたという事実なのです」

ハムレット「またぞろ夢物語を聞かせようとは・・・」

竹軒「夢物語ではござりませぬ。しかし何事にも永遠というものがないように、平安の世が傾くと、花の時代は刀を持った武士に乗っ取られ、あなたの国と同様の修羅の世の中となってしまいました。ですから、この地獄には、その時に大罪を犯した者共がさまざまな責め苦に遭わされています」

ハムレット「そうとも、それこそが真っ当な自然の姿というものだ。というのも、私の父と私をあれほどの苦しみに追い込んだ者は八つ裂きにされて当然ではないか。私はこの地獄に来てから、叔父がどのような地獄で苦しんでいるかそれが確かめて見たくて遍歴しているのだ。私を裏切ったローゼンクランツとギルデスターン、それに私を毒の剣で刺したレアチーズの苦しむ様も見なければならぬ。残念ながらまだ見つけられぬが、そのうち必ずこの目で見る事ができよう。だが、この私と言えば、生きている時も死んでからも、牢獄にいるも同然だ」

竹軒「それは自ら牢獄へ閉じこもっておられるからではありませんか」

ハムレット「そんなことはどうでもよい。一つの牢獄から出たとて、また別の牢獄が待っているだけだ。何も知らぬ若い時、太陽を浮かべているたぐいもなく美しい天蓋が・・・ほら、あの頭上をおおう壮大な大空、金色の光をちりばめた壮麗な天空、あれが青年になるころには、まるで毒気のたちこめたうす穢いところとしか思えなくなったのだ・・・なんという滑稽なすばらしい傑作だ、人間って奴は・・・そしてこの俺は畜生、俺は鳩のように気が弱い。あいつの暴虐を、憤るだけの意気地さえなかった。俺に最初から意気地があれば、とうの昔に奴らを大空の鳶の餌食にしたはずだ。

 あの畜生の腐れ肉を。けがらわしいひひおやじ!

不実、不義、不人情や、血も涙もない、恥知らずの人でなし!

さあ、復讐だ!

こいつ、なんて馬鹿な奴だ、まったく立派だぞ、愛する父を無惨に殺され、天国地獄こぞって復讐を責め立てるのに、口先ばかりで

売女のように心の中をしゃべりたて、あげくの果ては罵り、わめきちらす・・・

あの幽霊は悪魔かもしれない。あいつ、俺を惑わし、おれを地獄におとしに来たのかもしれない。

もっと確かな証拠を握らねばならぬ、芝居がいい・・・王の本心を探るにはこれに限る」

竹軒『気の毒に、先ほどまでとは顔つきがまるで違って狂気にとり付かれてしまった。眼瞼ばかりか、顔も手足も引きつって、怒りの興奮が今にも喉を塞いでしまいそうな気配だ』

  ホレーショ、竹軒に近付いて、

ホレーショ「ご覧の通り、死んで後まで生前の苦しみがあの方を苦しめ続けているのです。少しの間は正気を取り戻してまともな会話を楽しむこともまれにはありますが、すぐさま絶え間のない呵責と憎悪に身体が蝕ばまれ、癇癪にさいなまれ、ぐっすりと眠ることもできません。私は生前からの友人として、また、彼の死に立ち会った者として、少しでも楽にしてやりたいのです。あなたを探してここまで訪ねてきたというのもそのためで、ハムレット様を苦しみから救って差し上げたいのです」

竹軒深く頷いて「裏切りと陰謀に満ちた無惨な王室の中であなただけがただ一人、真実の友人でした。あなたはハムレット様が決闘で倒れると、毒をあおって死のうとした。それほどに深い友情に、私のような者が応えられるとはとうてい思えませぬが、なんとか工夫をしてこしらえてみましょう」

 竹軒はこう言って薬研の中にハンゲ・ソウジュツ・ブクリョウ・センキュウ・チンピ・トウキ・サイコ・カンゾウ・チョウトウコウの九種の生薬を入れると薬研を磨って抑肝散加陳皮半夏を作った。

竹軒「どうか、これを飲ませて下さい。この薬は気の高ぶりを抑え、また気鬱にも効きましょう。恐ろしい夢から逃れて安らかに眠れるようになるかも知れません」

 ホレーショは薬袋を受け取ると、ハムレットの肩を抱いて、

「どうかお気をお静め下さい。この薬はきっと役立ちましょう」

 ハムレットはホレーショの肩にすがりながら呟く。

「もし君が俺を心から思ってくれるなら、しばらく天上の幸福から遠ざかって、この地獄に俺と共に生きながらえ、苦しかろうが、どうか、俺のことを見捨てないでくれ・・・」

 二人の姿は影となって闇に吸い込まれた。地獄に堕ちてまであのように苦しむとは、竹軒は闇に向かって合掌しながら涙を流したのだった。

           

             第十五話 終わり      佐賀純一記す

付記・・・引用・参考文献『シェイクスピア』 世界文学大系・筑摩書房