「閻魔庁の籔医竹軒」 第三話 ダビンチ
ひどい風が吹き荒れて土埃が舞い上がり、垂れ込めた雲も地獄の釜から吹き上げる火炎もいっしょくたんになって真っ黒い渦巻きに吸い込まれ、稲妻が走り、雷鳴が轟いている。こんな光景は初めてだ。竹軒が肝を潰していると、雨風の中を大きな神が二人、灰色の雲の中からぬっと現れた。一人の神は大きな袋を背負っているが、袋の口からは風が吹き出しているので、どうやら風神らしい。もう一人は輪のようになった八つの太鼓を背負っているが、太鼓が低く高く不気味な音を轟かせるたびに稲妻が走るところを見ると、雷神に相違ない。
風神はひどく弱った人間を二人、左右の手にひっさげ、雷神は白髪の老人の両手を索条のようなもので固く結んで、あたかも重罪犯人のように引っ張っている。一体何事が起きたのかと竹軒が思う間もなく、風神と雷神は巨体を揺すって間近までやって来ると「手当をしてやってくれ」とそっけなく言った。
患者を連れて来たにしてはずいぶんと手荒いではないか、竹軒は少しあきれながら、さて、彼らが連れてきたのはどんな患者だろうと改めて見てみると、一人はまだ十五ほどの子どもで、半ば気を失ってガタガタ震えている。それに金色の髪の毛がどうしたことか、火に焼かれたように焦げているし、顔も唇も充血して、ところどころに生々しい火傷がある。地獄の火にでも焼かれたに違いない。
もう一人は四十ほどだろう、黒い髪の毛と褐色の肌をしている。如何にも尊大な態度からすると、どうも古代の王族のような気配だが、やはり身体が冷えていると見えて唇が紫色をしている。三人目の、雷神が連れてきた白髪の老人はすっかり観念しているらしく、じっと目を閉じている。
竹軒はまず一番重症な少年から診ようと思って脈を取ると緊張がずいぶん弱っているが、とても熱い。腕や顔の筋肉がピクピクと痙攣している。「これは妙な具合だ」と竹軒は風神の顔を見た。
「あれほど激しい風雨に当たって太陰病期の様子を呈しているというのに、同時に熱射病の症状も示している。いったいどうしたのだろうか」
これを聞いて風神は、
「この子どもは俺が吹き落としてやらなかったら太陽に焼かれて死んでいたところだ」
「太陽に焼かれる? それはどういうことです? 地獄に太陽などないではありませんか」
「この厚い雲を抜けてどこまでも飛んで行けば、太陽は照っている」
「では、この子はそんなに高く飛んだというのですか」
「そうだとも。この子だけではない、ここにいる三人全員が鳥の足につかまつたり自前で翼をこしらえて地獄から逃げだそうとしていたのを、我々が捕まえたのだ」
「これは驚いた」
ひとたび地獄に堕ちた者は逃れられぬ運命とあきらめて、恐ろしい判決にも悄悄(しおしお)と従っているというのに、この人たちは自分で自分の運命をつかみ取ろうとしたらしい・・・たとえ失敗したとしても、何とも大した根性ではないか。
聞いてみると如何にも不思議な話だった。三人のうち一番若い少年はイーカロスという名で地中海のクレタ島に生まれたが、父はダイダロスという建築家であって紀元前二千年にミノス王のために何者も忍び込めない迷宮を建設したという。ミノス王は迷宮の秘密が漏れるのを恐れてダイダロスとその息子イーカロスを塔の中に閉じこめた。陸も海も見張りが監視しているので、ダイダロスは空を飛んで逃げようと考え、鳥の羽を糸と蝋で繋いで二対の巨大な翼を作り、脱出に成功した。ところがイーカロスは空を飛ぶ喜びに有頂天になり、父の戒めも忘れてどんどん空高く舞い上がった。そして太陽の火に焼かれて死んでしまった。
「こうして墜落して地獄に来たのだが、イーカロスはどうしてももう一度現世に戻りたいという誘惑に取り付かれて秘かに鳥の羽を集めて翼を作り、地獄から大空に飛び出した。そしてまたもや太陽に焼かれそうになったのを見て私が風を送って翼の羽根をバラバラにしたので、イーカロスはまたもや地獄に落ちてきたというわけなのだ」
『大した少年だ』竹軒は何とかしてやりたいという思いに駆られて、『ともかくも太陽の熱で半ば気を失っているのだから清暑益気湯が一番効くに違いない』と考えると、薬研にソウジュツ・ニンジンなど九種の生薬を混ぜてこしらえ、白湯に溶いて少年の口に注ぎ込んだ。それから風雨によって脾が衰え気虚に陥っているのは明らかであったので、啓脾湯をこしらえて飲ませ、次ぎに、ゴマ油とシコンを十対一の割合で混ぜ、これにさらし蜜蝋とトウキを混ぜて紫雲膏をこしらえると、顔や手足の火傷にたっぷりと塗って布で巻いてやった。
「どうやら薬が効いたらしい。さっきよりずいぶん気持ち良さそうに寝ているぞ」と風神は少年の顔を見つめながら言った。
「そのうち目覚めるでしょう・・・ところで、こちらの人物はどうしたのです」竹軒は風神の左手に捕まえられているアラビア風の男を見た。男は厳めしい兜を被っていた。疲れ切ったという姿をしながらも兜の下の目だけはギラギラとして、竹軒を鋭く見つめ、
「お前は寒さで五体がガタガタと震え、手足が凍るようになってしまった者を治すことができるか」と訊く。
「それは出来ないことはありますまい」
「では、治してくれ」
「誰がそれほど寒さに震えているのですか」
「この私だ」
「あなたが・・・とてもそのようには見えませぬが」
「私は王だから、苦しくても苦しさは外には見えぬようにしているのだ。しかし、このように身体の芯が寒くてはかなわぬ」
「・・・それほどであれば治療するに吝(やぶさ)かではありませんが、それにしてもあなたはどうやって空を飛んだのですか」
「それは後で話してやる。だが先に治療してくれ」
男が頑固にそう言い張るので、竹軒は止むなく麻黄附子細辛湯をこしらえると「どうぞ、これをお飲み下さい」と差し出した。男は一息に飲んだが、途端に顔に赤みが差して晴れ晴れとした顔になった。
「お前は大した医者だ。私が生き返って国を治める時には侍医に雇ってやろう」
「それはありがたいお話ですが、その前にあなた様は先ほどの約束を果たさねばなりません」
「約束とは・・・何だったか」
「お忘れですか・・・どうやって空を飛んだか、教えてくれると言ったではありませんか」
「おお、そうであった・・・私はな、こんな若造とは比べものにならないほど高い空を飛んだのだ。太陽の熱も届かぬほどの高い空をな。それで氷のように冷えてしまったのだ」
「まさか」
「お前のような俗人には信じられぬであろうが、私は星がすぐ手の届くほど高く飛んだのだ」
「・・・しかし、工夫無しに人間が空を飛べるはずはありません、翼はどうしたのです」
「私は王だからな、この少年のように自分で苦労をして翼を作るなどと言う馬鹿な労苦はせぬ。大鷲を捕まえたのだ」
大鷲を捕まえて空を飛ぶなどと言うことができようか、竹軒が首を傾げていると、男は、
「先ほども申したように、私は王。エタナ王だ。世界で誰よりも早くシュメールの王として選ばれた者だ。なぜなら、人間がまだ国というものを作る事ができなかった大昔、女神イシュタルが私を王にと定めたのだ」
「いったいそれはいつ頃の話ですか」
「紀元前三千年前の事だ」
「・・・」
「その頃人間は地上をどう治めて良いのか、まるで智恵がなかった。そこで女神は私が賢いのを知って王に任命したので、私は部下の人間と鷲と蛇を使って国を治めた。実にうまく国を統御したので平和そのものだった。しかしただ一つ問題があった。それは王である私に子が生まれなかったことだ。跡継ぎが定まらなければ国は滅びる。そこで私は鷲に『子宝の草』が生えている天に連れて行ってもらおうと考えた。だが大騒動が起きた。蛇と鷲が仲違いして、鷲は蛇の子を全部食べてしまったのだ。蛇は復讐を誓い、太陽神にどうしたら復讐を遂げられるか、教えて欲しいと祈った。太陽神は言った。
『私は雄牛を殺した。お前の子を食べた鷲はその雄牛の肉を食べに来るだろう。油断して肉を食べているところを捕まえればよい』
蛇は言われた通りにして、鷲を捕まえ、底なしの穴の中に放り込んだ。
これを知った私は、鷲を助けてやる代わりに、『子宝の草』の生えている天まで連れて行けと命じた。鷲は恩義に報いようと私を乗せてどこまでも飛んだ。どこまでも高く上っていった。鷲は言った。『下をごらんなさい』
羽根の間から見下ろすと、ユーフラテスの大河は溝のように細く見えた。二度目に見下ろすと広大な海が水槽さながらに小さく見えた。鷲はさらに高く登って行った。空は真っ暗になり、星が冷たく瞬いていた。
鷲は訊いた。『王様、大地はどのように見えますか』
下を見ると、大地は手のひらほどに小さくなり、暗黒の空に数知れぬ星が光ったり流れたりしていた。私は恐ろしくなって鷲に言った。
『友よ、こんなに高く上らなくてもいい、下に降りよう』鷲は命令に従って突然急降下した。それはまるで流星が飛ぶようで、身体はいつの間にか鷲から離れ、石つぶてのように落下した。どんどん大地が近くなる。私は恐ろしくなって目を閉じた。その瞬間、もんどり打って地上に落ち、死んでしまったのだ」
「墜落して・・・あなたは、死んでしまったのですか」
「如何にもその通りだ」
「では、子宝の草は得られなかったのですね」
「残念ながら駄目だった。しかし死んで地獄に来てみると、いかにも退屈だ。部下もいなければ領地もない。こんなところになぞ一日も居られるかと思っていると、あの大鷲が私をみつけてやってきた。そこで再び鷲の背に乗って地獄から逃れようと飛び上がった。そしてもう少しで雲間から飛び出すというところまで行き着いた時、風神に見つかって、吹き落とされてしまったのだ・・・・捕まったのは口惜しいが、しかし、ダイダロスの子イーカロスより高く上ったということだけは確かなことだ」
エタナ王がこう言って自慢すると、それまで気を失っていたイーカロスが目を覚まして、
「いいえ、僕の方がとても高く上ったのです。というのも、私は太陽の火に焼かれて落ちたのですが、エタナ王は恐ろしくて墜落したのですから」
これを聞いてエタナ王は、
「空は決して熱くなどなかった。ひどく寒かったぐらいだ。鷲の羽根は凍り付いてギシギシと音を立てていた。それからすると、お前はそれほど高くは飛ばなかったのだろう。恐らくダイダロスの羽根は役に立たなかったから、エーゲ海の岩の上で陽に焼けて、それを太陽に焼かれたなどとほざいているに違いない」
王がこう言って嘲笑したのでイーカロスは憤然として、
「僕の父は神のような発明家だったんです。どんな高いお城でも鉄の塔でも作れたのでエタナ王よりも高く飛べる翼など朝飯前だったのです。エタナ王は鷲に背負われて飛んだのですから、人間の力で空を飛んだとはいえません。しかし私は父の翼で飛んだのですから、私こそが、人類でただ一人、空を飛んだ人間なのです」
イーカロスはいかにも誇り高くそう述べると風神や雷神を見回した。風神と雷神はにやにやして聞いていたが、
「ではあそこにいる老人はどうなのだ、イーカロス、あの男は『自分こそ、その飛び抜けた才覚で、人類で最初に空を飛ぶ機械を発明したのだ』と吹聴しているぞ」と言った。これを聞くとイーカロスは白髪の老人を汚らわしいものでも見るような目つきで眺めながら、
「あの人は人殺しの片割れです」
「人殺し?」
「そうですとも。それに、あの男は父の設計を盗んだのですから、泥棒です」
「・・・人殺しの上に泥棒とは・・・」
「父が死んでから後、何千年たっても父を凌ぐ発明家は出ませんでした。自分の力で空を飛んだのは鳥以外には父と私だけだったのです・・・ところが泥棒が現れました。最初の泥棒はジョバンニ・バッティスタ・ダンディです。ダンディは父の設計を真似して飛行物体を作り、トラジメ湖を横断したと吹聴しました。でも、数人の友人の他は誰も見ていませんでした。そこで人々はみんなが見ている前でやってみろと迫りました。ダンディは翼をつけて崖から飛び降りました。そして墜落して足を骨折したのです」
「死にはしなかったのですね」
「幸い死にませんでしたが、大けがをしました。それでこの有様を見物していたあの老人は、飛行する時には救命胴衣を着けるべきだと考え、また、ダンディが失敗したのは、腕の力だけで飛ぼうとしたからで、足の力も翼に伝えなければ駄目だと考えて、設計したのです」
「設計?・・・あの老人は、飛行機を設計したのですか」
「しましたよ。いろいろと、でも自分では飛ぼうとしませんでした。臆病だったので。父ダイダロスも僕も勇気がありましたから大空を飛べましたが、あの老人は紙の上で飛ぶ夢を見ることはできても、実際には飛べなかったのです。でも、死んで、地獄に落ちて、前世の悪業のためにやがて針地獄へ落とされるかもしれないと知ると、僕の翼とそっくりの飛行物体を作り上げてこっそりと飛び立って、雲の上まで飛んだところを雷神に見つかり稲妻で打たれて捕まったのです」
「そんなことをやってのけたのですか、あの老人は」竹軒は傍らの雷神を見上げた。雷神は
「そうとも、危うく逃げられるところだった」
「まさか、地獄から飛行物体に乗って逃げるとは・・・いったいあの老人は何者なのです」
竹軒がこう尋ねると、雷神が口を開く前にイーカロス少年が大声で、
「あの老人はダビンチです! レオナルド・ダビンチという男ですよ」と叫んだ。
「・・・ダビンチ??・・・あの老人は、ダビンチなのですか」
「そうですとも、モナリザという妙な女を描いて有名になった男です」
「まさか・・・あの老人が・・・信じられない・・・いつか彼の自画像を見た事がありましたが、あの人物とはまるで違う風貌でした」
「まちがいありません。罪を逃れるために変装しているのです」
「何のために変装する必要があるのですか」
「私の父の設計図を盗んで、空飛ぶ機械を発明して、あちらこちらの王に売り込もうと考えていたのです。それに、ダビンチが得意としていたのは人殺しの道具、つまり新式の武器製造でしたから、空飛ぶ飛行物体の開発に熱心だったのも、それが成功すれば敵陣に空から爆弾を投下することができますし、買い手はいくらでもいるでしょう」
イーカロスが如何にも軽蔑したようにそう言うので、竹軒は、
「まさか、信じられません・・・ダビンチといえば、世界に並ぶ者のない天才画家ですよ。その彼が、爆弾を落とす飛行機を作ろうとしたなどと、あり得ない話です」
これを聞くとイーカロスは青い眼を鋭く光らせて、
「僕もあの男が生きていた頃、画家として大した名声を博したという事はよく知っています。でも、彼は絵描きなどではありません。絵を描くのは余技でした。というのも、絵なんぞいくら描いても大した金になりませんから、あまり興味がなかったんです」
「・・・」
「僕の父は決して武器を作ろうとはしませんでしたが、あの男は恐ろしい武器を数え切れないほど発明しました。人の首を風車のように回転する剣で切り取る道具を装備した戦車。頑丈な城を攻め落とす攻城砲、連続して何百発も弾丸が飛び出す機関砲、曲がった城壁を飛び越して行く曲射砲、水陸両用の戦車、何百という新式の槍と剣、馬に引かせて運び、鉄の大槍を装填して城を破壊する巨大な弩弓・・・あの男こそ、人間の知恵を悪用した天才です。というのもダビンチは人間を憎んでいるのです。人間を滅ぼそうとしている極悪人ですよ」
「・・」
「彼は榴散弾というものも作っています・・・表面に痘痕のような多数の穴を開けた鉄の弾丸に火薬をつめて打ち出しますと、敵陣で爆発して、中から無数の小さな鉄の塊が飛び出して人間を殺傷するのです。ダビンチはその爆弾の威力を『この世で最も恐ろしい機械・・・中央の弾丸が爆発し、瞬時に他の弾丸に点火してそれを飛散させる』と自分のノートに書いています。彼はその爆弾の恐ろしさを知りながら、設計図を描き、実際に試作していたのです。僕は幼い頃から父ダイダロスのノートを書き写させられて育ちましたから、ノートというものがその人の考えを記録するものだということを知っています。ダビンチは効率よく人殺しをする道具を沢山作りたかったのです」
イーカロスがこう述べると、エタナ王も賛同するように肯いて、
「私は国を治める王だったからどのような人間が国にとって善い人間であり、どんな者が国にとって悪であるかを知っている。一番悪い人間は誰かといえば、それは神を信じない欲の深い独裁者だ。しかしそれより悪質な人間も居る。それはどん欲な独裁者をそそのかして戦争を焚き付ける技術者だ。彼らは寝ても覚めても敵を殺す方法を考えている。そしてダビンチというその老人は、さまざまな独裁者の軍事顧問として仕えていたのだから罪は重い。これは地獄に来た大勢の王や独裁者がみんな知っていることだから嘘ではない」
「・・・ダビンチが軍事顧問?」
「最も有名なのは、傭兵上がりのロドヴィゴ・スフォルツァとの関係だ。ダビンチは彼に十九年間も仕えた。スフォルツァがフランス軍に敗れると、ダビンチはベネチアの統領バルバリーゴの軍事顧問となり、次に、ロマーニャを征服して王族貴族ことごとくを皆殺しにして軍人独裁者となったチェサザーレ・ボルジアに仕えた。この残酷きわまりない陰謀家のために、ダビンチは地形を測量したり、敵の城塞の詳細な見取り図や市街地図を描いたりして作戦が有利に進むように参謀としての役割を果たした。もしもチェサザーレ・ボルジアが政敵を暗殺するために用意した毒入りのワインを間違って自分で飲み、死んでしまわなかったら、ダビンチはその後もチェサザーレ・ボルジアに智恵を貸してイタリア征服に乗り出していたかも知れぬ。
だから私は不思議でならないのだ。世界にとって実に危険で有害な存在であるダビンチというこの老人を、多くの人間が、最高の芸術家、天才画家などと讃えていることがな。・・・奴は、悪魔のような手を使って絵を描いている。だからあの男の描いた絵には魔性が宿っている。モナリザというあの女の絵を見ろ、あの女は人間の愚かさと不幸、悲劇を黙って見つめている。どこまでも冷ややかな眼差しで人間世界を見下ろしている。そんな女の絵を、世の人間共は世界一の名画ともてはやし、賛美するとはいやはやあきれ果てた滑稽さだ」
エタナ王がこう述べると、誰もが老人を気味の悪い悪魔を見るような目で眺めた。老人はエタナ王の嘲笑を聞いていたのか聞こえなかったのか、瞑目して石のようにじっとしていた。と、その時、地獄の穴の底から奇怪な声がギャァーと響き渡った。それは閻婆度処(えんばどしょ)という地獄に棲んで炎を吐きながら罪人を食うという怪鳥の鳴き声のようでもあったし、幾千の罪人たちが苛(さいな)まれて悲鳴を上げる阿鼻叫喚のようでもあった。
しばらくの静寂が訪れ、また突然、その恐ろしい声が轟いた。と、それまで石のように踞っていた老人が、突然立ち上がった。そしてあたかも幻覚が見えでもしたように、空中を指さし、激しい声を張り上げて何事か罵った。それは老いさらばえた年寄の声ではなく、何かに取り付かれた狂気の姿だった。
「そうとも、人間共はみな滅ぶべきなのだ」と老人は白髪をかき乱して叫んだ。
「それも遠い将来ではなく、今の今、私が見ている前で、大洪水に押し流されて滅亡するべきなのだ・・・人間の性悪さはいくら述べても尽きぬほど証拠が揃っている。もしも私が神の前にその証拠を並べたら、あまりの膨大さに失神するに違いないほどの恐ろしさだ。
第一、神の代理人であるローマ教皇が悪人の親玉なのだからどうにもならないではないか。陰謀、殺人、戦争、こんな事が何より好きだった教皇がうじゃうじゃしている。神の代理人が誰よりも貪欲で、好戦的だとは・・・ハハハハ・・・何だと・・・嘘だと、そんなことはあり得ぬだと、何が嘘であるものか、これより滑稽な真実はどこにもないのだ。その証拠に、あのミケランジェロを重宝して使ったユリウス二世は、イタリア統一の野望に燃えて十字架を掲げた兵士共を率いて戦場を駆けめぐったではないか。レオ十世は金ほしさに免罪符を乱発して、宗教革命に火を付け、跡を継いだクレメンス七世はドイツ皇帝軍と戦って捕虜となり、皇帝と取引してフィレンツェを攻撃し、無数の市民を死刑にして、フィレンツェをメジチ家の独裁国としたではないか・・・人間はみなこの通りだ。世界中に戦争を引き起こし、広大な森を戦争の道具として木々を引きずり倒し、逃げようとする生き物に、死や苦痛、不安をまき散らして自分の欲望を充たそうとする。人間に追い立てられ、狩り出され、痛めつけられることのないものなど、地上にも地下にも存在しない・・・。
おお大地よ、どうしてお前は自分を開こうとしないのか・・・お前の深淵と洞窟の深い裂け目に人間を投げ込もうとしないのか・・・こうまで残忍、こうまで恐ろしい怪物など、天が見ないですむように、どうして暗黒の奈落の底に、一息に引きずり込んでくれないのか・・・ああ神よ、あなたはソドムとゴモラの町の住民とその地のあらゆる生き物を硫黄の火でお焼きになった・・・。
今、人間は、彼らよりもはるかにどん欲・残忍になり、果てしない悪徳の海に浸かって殺し合っている・・・どうしてこれほど罪深い人間共を業火でお焼きにならないのですか・・・あなたはなぜこれほどの罪人共を生かして置くのですか・・・」
「・・・どうやら神が見えるらしい」
「両手の指で髪の毛をわしづかみにして、引き抜こうとしているぞ」
「あの・・・ダビンチが、人間の罪業を神に讒言するとは!」
「・・・ああしかし、私がどれほど訴えても、あなたの耳には何も聞こえないのかもしれない・・・あなたはもはや存在しないのかもしれない・・・もしあなたが確かに存在するのなら、新教徒の残忍さと旧教徒の酷薄さに涙して、その首謀者共を地の底深く、光の決して届かぬタンタロスの地の底へ落としてしまうに違いないだろうに、彼らの残虐ぶりは一向に止まぬではないか・・・カール五世に率いられた神聖ローマ帝国の新教徒たちの残虐ぶりをあなたは見たか。ルターの教えに従った彼らは、カソリックの教皇の堕落を非難して雪崩の如くにローマに攻め入り、ありとあらゆる殺戮拷問を加え、ローマを焔で焼き、テベル川を死体と血の海にして歓喜した。その新教徒を率いた皇帝とカソリックの教皇は取引して、ナポリとベニスを皇帝に売り渡し、教皇はフィレンツェを強奪したのだ。こうした凶暴な嵐を、あなたはどうして見過ごしておられるのですか。フランスでもドイツでもイタリアでも、野原や山は数え切れないほどの屍の山となり、町は焼かれ、川は血の川となって一千万の民衆と兵士が死体となりました。それを何故に見逃しているのですか」
「ますます狂気が激しくなった」
「虚空に神か悪魔を見ているようだ」
「・・・あなたは、私を非難するのですか・・・お前は独裁者たちの軍事顧問となり、戦場を転戦し、銃器を作り、城壁を貫通する大砲を発明し、重い弾丸を何キロも先の城にぶつけて破壊する超弩弓をこしらえて人殺しの手伝いをしたではないかと・・・確かに、私はそういたました・・・と申しますのは、私は悪人の本性を知るには、悪人の側に居るのが最も良いと考えましたし、悪人の仕業がどれほど残忍であるかを確かめるためには、彼の戦場での態度を逐一観察するのが何より良いと思ったからです・・・。
私は、人間に絶望しておりましたから、その絶望を確実なものにするために、人間の中の最も最悪な者共の近くにいることにしたのです・・・そして、あなたが人間を大洪水で滅亡させてくれる時が早まるように、より残忍で、効率よく人間を殺す道具を数知れず設計し、現実に戦場でも使いましたし、それは人を殺すのに便利な道具であったのです・・・人間がどれほどひどい動物であるか、あなたがその目で確かめたかったら、私の歩いた戦場をごらんになれば、一日でそれがはっきりと理解できたでしょう・・・しかし、あなたはなかなか来なかった。私はジリジリしました。戦争はどこまでも激しくなり、屍の数の方が生きている者の数よりも多くなって、不安、恐怖、怒り、憎悪、復讐心がむき出しになり、生きているより、死んだ方がましだとみんなが考えるようになったというのに・・・神の救いはどこにも見えなかったのですから・・・私は死んだものを羨ましく思いました。死者を羨む理由があるのでございます。悪の元素が解き放たれて大混乱が生じたわけですから、死はなるべく早く私たちを呑み込んでくれたほうが、どれほど楽であったか知れぬと思ったのです。というのも、現にここで出遭っている程の大きな災厄より大きな災厄があるであろうなどとは信じられないからです・・・」
「何とも恐ろしい顔付きになってきた」
「救いようのない暗黒に呑み込まれているようだ」
「・・・無論私は、最初から絶望していたわけではありません。私は必死で人類の救いを求めていた時期もあったのです・・・ある時私は、フィレンツェで『聖アンナと聖母子』を描きました。この絵はまだ下描きでしたが、これが展示されると、あらゆる画家、芸術家が押しかけて嘆賞し、フィレンツェの市民老若男女が争ってつめかけ、まるでお祭りか何かのように興奮しました。
私の絵にはこの世ならぬ美しさと愛・・・威厳と神秘さが漂っていましたから、世界中の人間が私を讃えたのです。しかし、人間は所詮、聖アンナや聖母子の愛を受ける資格のない存在でした。というのも、人間は愛されるより、猛獣のように牙を剥き出し、互いに憎悪し、噛み合い、傷つけ合う方が似合っているからです」
「何という侮蔑の言葉だ」
「人間をそこまで憎むとは」
「ああ、お前たちは私を冷酷だと言って非難するのか・・・もしそうなら、人間の本性を知らないからだ。お前たちは人間が獅子のようにお互いを襲う有様を見るべきなのだ・・・人間はいかなる猛獣よりも残酷だ。というのも人間は右手で聖書に手を置き、左手で敵の首を刎ねる。強大な権力の保有者は、十万の人間を殺す作戦命令書に顔色も変えずにサインする・・・そして同時に、世界平和を祈るのだ・・・猛獣にはこのように狡猾な芸当はできやしない」
「人間存在を肯定するものが居たとしたら、その者は私が描いたミラノ軍とフィレンツェ軍が戦ったアンギアーリの激闘を見るべきなのだ・・・ミラノ軍指揮官フランチェスコ・ピッチーノとその父ニッコロに、フィレンツェ軍指揮官ピエールジャンパオロ・オルシーニとルドビーゴ・スカランポが襲いかかっている。憎悪、残忍さ、狂気、そんな言葉が何の役に立つ・・・奴等は、獣以下の魔神であり怪物であり、人間と馬が融合した化け物だ。四頭の奇っ怪な化け物が顔を恐ろしく歪め、首を鎧から突き出し、血染めの剣を振り回して相手を切り倒そうとする。馬は馬同士が竜のように噛み合い食いついて、殺そうとしている。馬の蹄の下には落馬して逆さ吊りになった兵士が首を絞められそうになってもがき、首を取ろうとしている兵士の身体に猛獣と化した馬がのしかかって踏みつぶそうとしている・・・もはやそこには人間も神も馬もいない。いるのは悪魔、生き物を出来るだけ残酷に殺して呑み込もうとする怪物だ・・・」
「・・・」
「戦争とはこうしたものだ。そして、このような戦争を、王も、貴族も、将軍達も、民衆さえ、熱狂して望んでいる。自分が屍体となるまでは、戦争に熱中しているのだ・・・」
「・・・」
「お前は私を狂気だと思っているのだな。しかし、狂気はどっちだ・・・お前の世界では、森を倒し、木をねじ曲げ、鉄を鍛えて武器にしようという、そのような人間はいなくなったのか・・・どうなのだ・・人間の心は優しくなったのか、飢餓も貧困も無くなり、戦争は絶えて、武器の必要もなくなったのか・・・そうなのか・・・そうではあるまい。人間はますます強欲になり、橋や町を爆撃し、川を血染めにし、世界を破壊し、そうして日々、自らの破滅を早めている・・・人間は地球のあらゆる存在を、人間共のために使い、水の一滴まで飲み干そうとやっきになっている。川や湖は干上がり、汚染され、海流は流れを変えている。しかもなお、人間は海の底の生物まで一網打尽にして、富を積み、美味い物を求めている。地球を破滅に追い込んでいる人間は、自分で自分の手足を食っていることを知らないのだ!!」
「・・・」
「私は人間の美しさも醜さも知り尽くした人間だ。だから、一人の人間として、神々に人間の救済を訴えたこともある・・・私はあの、美しいアンナに願った・・・人間をこの悪魔の心からお救い下さい・・・どうか神の力によって、醜い欲望を抱かないようにさせてください・・・私はマリアにも祈り、キリストにもすがった・・・愚かな人間共を、どうかお救い下さいと・・・私は幾枚も幾枚も絵を描き、神に祈った・・・だが、何にもならなかった。人間共はますます悪徳を重ね、残忍になるばかりだった・・・それ故私は、人類を一呑みにしてしまうような大洪水を期待した。人間を皆殺しにするような大惨害を念願した」
「何という恐ろしい言葉だ」
「まるで魔王のように、あらゆる生命を呪っているとは」
「かつてあなたは原罪を犯したアダムとイブの子孫がどこまでも増え、地上には悪が増大し、彼らの心が悪に傾くのを見て、地上に人間を造ったことを悔やまれ、そしてこう仰せになられた。『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで・・・私はこれらを造ったことを残念に思うからだ』
こうしてあなたは全ての人間と生き物を殺すことを決心しましたが、ノアだけは助けました。しかしその判断は誤りでした。というのも、ノアの末裔は今や、悪の限りを尽くし、果てしない欲望が地を覆っているからです。ですから今度こそあなたは、彼らを一人残らず、ネズミ一匹、小鳥の子でさえも生かすことなく、全滅させるべきなのです・・・しかし、なぜか、あなたは人間の横暴を見過ごしておられる・・・ですから私は、あなたとは違うやり方で人類を滅ぼそうと決心しました。ノアの箱船のような姑息な手段を一切用いずに、一人残らず、全ての人間が完全に滅びてしまうであろうように、暗黒の渦巻きを伴った猛烈な洪水が人類を襲うことを願ったのです。私はその洪水の有様を克明に描きました」
「確かに、彼の書いた大洪水の絵がウインザー城に数十枚残っている」
「正気の者はあんな絵を描けやしないぞ」
「私はあそこに描いた洪水の何百倍もの惨害を与える嵐を期待していました。その洪水に於いては、まず、人間共は凶暴な嵐の力に襲われて打ちのめされなければなりません。次ぎに、巨大な雪の山の崩壊が続き、谷という谷がすべて土砂で埋め尽くされ、続いて壊滅的な暴風雨が起こり、雨、砂、泥、岩が、思いつく限りの植物の根、枝、切れ端と共に渦を巻いて空中を飛び、人間共の上に降りかかるのです。
いたるところ水浸しとなり、動物たちは怯えて逃げまどい、逃げてきた男や女、子どもらといっしょに水のなかに巻き込まれてひしめき、その回りにはテーブルや寝台、小舟、ありとあらゆるものが流れて行くのです。そしてそれらにすがりついて、女や子どもが怒り狂う嵐に恐れおののいて、てんでに絶叫し、泣き叫んでいるのですが、やがてみな呑み込まれて溺れ死にます。それでもまだ僅かに残っている高台に、武器を持った男たちが陣取って、後から来る人間共を斬り殺し、獅子や狼などが襲いかかるのをかろうじて食い止めているのです。
しかしそうした空き地も次第に洪水に呑み込まれ、家畜どもも、馬、牛、羊たちも生き延びた人間たちも、まるで島のように見える山のいただきの一番高いところにひしめきあって、たがいの身体を乗り越えてもっと高いところによじ登ろうとして最後まで戦い抜くのですが、やがて、もう逃げる場所がなくなって、誰も彼もが死んでゆくのです。
大気は激しい雷鳴に打ち震え、稲妻が恐ろしい勢いで走り抜け、鳴動します。そのうち途方もなく大きな火事が起こるのですが、それはまるで風などではなく、三万もの悪魔が煽り立てているように見えるのです。こうして人間は滅亡するのですが、やがてどこからともなく鳥の群れが灰色の雲のように飛来して、洪水に運ばれてきた屍体に止まり、それを餌にしてついばむのです。鳥共がそうしている間に、膨れあがった屍体は水に漂い、終には水底に沈んで行くのです」
「誰がこれほどの無惨な光景を想像できるだろう」
「憎しみに満ちた狂気の者だけにそれが見えるのだ」
「・・・私は、こうした大洪水を神であるあなたが引き起こし、私の目の前で人間を絶滅させるであろう一瞬を待ち焦がれておりました。私の絶望を癒やす手段は、これ以外にはないと、そう信じておりますし、真実、そうなのです。しかし、あなたはいつまで待っても大洪水を起こしてくれませんでした。数限りない戦争で屍体の山は築かれるのを目撃しながら、その悲惨の原因をこしらえている人間共を、あなたは黙って眺めておいでです・・・私はあなたの沈黙の理由がどうしても分かりません。あなたは、あなたの子であるキリストが殺されたというのに、復讐をためらっておいでになる・・・それはなぜですか・・・。
私は、あなたの子であるキリストが裏切り者達と共に食事をする『最後の晩餐』を描きました。そして、人間のずるさと弱さをまざまざと見ました。というのも、キリストをローマに売ったのはユダですが、裏切り者はユダばかりではない、十二人の弟子達全員がキリストを見捨て、裏切ったのです。キリストが最も信頼していたペテロでさえ、ローマ軍に捕らえられるのを恐れて『私はあの人を知りません』と嘘を言ったではありませんか・・・。
私はキリストが人類の罪悪を背負って死んだ事実を否定はいたしません。しかし、人類は、キリストの死に値するほど価値のある存在でしょうか・・・・私にはそうは思えません。ですから私は、人間が滅亡しても、少しも哀しいとは思わないのです・・・」
「全人類は滅亡すべきです。人間を除くすべての存在が人間の滅亡を望んでいます」
老人は髪の毛を振り乱して絶叫した。「人間は一刻も早く消滅すべきです。いいや、神がそうしなくても、人間共が人間を滅ぼすだろう」
「あの狂気にとり付かれた顔を見ろ」
「あの老人ほど人間を憎悪している者は他におるまい」
「ああ、奴は自分の髪を引きちぎって叫んでいるぞ」
「もう何を言っているのか誰にもわからない」
突然風神と雷神が現れると狂気にとり付かれた老人を引き立てて扉のところまで連れて行ったが、竹軒を振り返って「この老人の狂気を治す薬はないだろうな」と言った。竹軒が言葉もなく黙っていると、
「どうやらこやつに付ける薬はなさそうだ」
「いかにも・・・こうなったら、閻魔大王に裁いていただくことにしよう」
と言ってダビンチをひっさらうようにして連れ去った。
<第三話 終わり>
【付記】
この話の中で、狂気のダビンチが神に向かって絶叫する内容は、ダビンチが書き残した「手記」を参考にし、一部を引用して創作したものです。「ダビンチの手記」は一般に公開されていますが、ここでは「ヨーゼフ・ガントナー著『レオナルドの幻想―大洪水と世界の没落をめぐる』美術出版社」を用いました。
本来、この物語はそこに登場する方剤の名の関係から、五十四話として掲載する予定でしたが、目下、東京国立博物館で特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ-天才の実像」2007年3月20日(火)~6月17日(日)が開催されていることもあり、敢えて、十話として掲載することにしました。(佐賀純一記)
●引用参考文献
『レオナルドの幻想 ― 大洪水と世界の没落をめぐる』ヨーゼフ・ガントナー著 美術出版社
『ギリシャ神話』ロバート・グレーブス 紀伊国屋書店
『ギリシャ・ローマ神話』トマス・ブルフィンチ 角川文庫
『古代オリエント集』筑摩世界文学大系 筑摩書房
『知られざるレオナルド』編集・ラディスラオ・レディイ 岩波書店
『Leonardo da Vinci』全絵画作品素描集 TASCHEN