「閻魔庁の籔医竹軒」 第二十五話 浦島(87番・六味丸 86番・当帰飲子)

 賽の河原の白砂を踏んで、白髪の老人と若い女が連れだって歩いてくる。女はゆったりと長い髪を腰の下あたりで珊瑚のような色の元結で結び、貝殻をちりばめた柄模様の着物を着ている。顔は抜けるように白く目が深海の淵のように青い。

 老人は女に助けられながらよろよろとやって来たが、立ち止まって涙ぐみ、滴をぽろぽろとこぼした。

『何者だろうか』竹軒が不審に思っていると二人はこちらに近づいて、

「このあたりに海がありませんでしょうか」

「海?・・・海とな」

「海でござります」そう言う老人の目は真剣そのものだ。竹軒は当惑して、

「・・・あなたはここが地獄であることをお忘れか。地獄に海はござりませぬ。川でも良ければ三途の川がござりますが」

「海でなければ駄目なのです・・・私の連れ合いは海で生まれましたので乾いた土地に居りますと肌も喉もひどく乾いて、辛い思いをさせているものですから」

「はて・・・」竹軒は改めて女をつくづくと眺めた。年頃は二十五、六だろうか、常の人にはない美しい香りが漂っている。

『この老人は連れ合いと申したが、まさか妻ではあるまい・・・海で生まれたと言ったが漁師のようにも見えぬ』竹軒が首を傾げていると、

「海はとうにあきらめております。それよりどうか私の連れ合いを診てやって下さりませ」と女が言う。

「・・・このご老人はあなたと如何なる間柄でござりますか」

「はい、かけがえのないお方でござりますが、病んでおりまする」

「なるほど・・・分かり申した。病人とあれば拝見いたします。どうなさりました」

「ごらんの通り年をとって歩くのも苦労になり、最近は両足が痺れ、身体が冷えて腰が痛むと申します。毎夜腰を揉んでさしあげますが昔の面影はまるでなく・・・ほんとうに可哀想で心が痛みます。なんとか出来ぬものかと思っておりましたら風の便りに、名医が居られると耳にして、こうしてお訪ねしたという次第でござります」

 竹軒は女の口ぶりからよほど親身になって心配していると分かったので、ジオウ・サンシュユ・サンヤク・タクシャ・ブクリョウ・ボタンピを薬研に入れて磨り上げると、

「これは六味丸と申す特効薬でござる。これを白湯でお飲みなされ」と老人に勧めた。

 老人は女の顔を見つめて『このように老いさらばえた者を治す薬などあろうか』と言いたげに躊躇している様子だったが、

「竹軒先生の薬ですから必ず効きましょう」と女が云うと、老人はいかにもまずそうに啜ったが、飲み終えると二、三度しばたいて、

「気のせいか少し気持ちも晴れ申した・・・体が軽くなったようでござります」

「それはようござった」

「これほどの名医にお目にかかれるとは・・・地獄で仏とはこの事でござります。しかしここまで参りましたのは私のためではござりませぬ」

「あなたの為ではないと?」

「私の妻の事でござります」

「妻?」

「さきほどお話ししましたように、妻は久しく海から離れておりますので、かつては蛤の貝のように滑らかだった肌がひどく荒れ、渇いてしまいました。こうなりましたのも私の不徳の故と思いますると後悔で心が痛んでなりません。何とか妻の肌が魚の肌のようにすべすべに戻すすべはないものかと・・・」

 竹軒は聞きながら『連れ合いとは、妻であったのか・・・これほどの年老いた老人が、何故にうら若い女を妻としているとは驚きだが・・・しかしここは地獄の賽の河原、因幡の白ウサギを治したガマの穂一本とて生えていない。それを魚のような肌に戻してもらいたいとは、理不尽な望みじゃな』とそう思ったが無下に断ることもできないので改めて女を見ると、額や首のあたりは荒れて赤くなり、掻いたような跡がいたるところに見える。先ほどまでは若い女に見えたのだがこうして見ると案外に年老いているようだ。竹軒は薬研に、トウキ・ジオウ・シャクヤク・センキュウ・ボウフウ・オウギ・ケイガイ・カンゾウ・シツリシ・カシュウなど十種の生薬を混ぜて当帰飲子をこしらえた。

「この薬は乾いて荒れた肌にとてもよく効きまする。試して下され」と云って手渡した。女は喜んで一息に飲み干した。とこれは不思議、女の肌はたちまち透き通るように白くなり、髪の毛は海の底に萌え出た若芽のごとくに輝いた。竹軒は目を見張って『いったいこれはどうしたことだ。いくら効き目があると申してもひと月二月してようやくかゆみが取れるぐらいが関の山・・・それが天女のように若返るとは』とひたすら驚いた。そんな竹軒の耳に驚喜している老人の声が響いた。

「ああ・・・私の乙姫・・・昔そのままの乙姫になった!」

「乙姫??・・・あなたは今、乙姫と、そのようにおっしゃりましたか」竹軒が信じられぬままこう訊くと、老人は肯いて、

「おっしゃる通り、これは、私の妻、乙姫でござります」

「では・・・あなた様は・・・浦島太郎、でござりますか」

「いかにも私は・・・浦島太郎めにござります」

「しかし、しかし・・・そのような事は信じられませぬぞ・・・話によれば、浦島太郎は乙姫様と別れて国に戻ったと聞いています。それなのになぜ・・・」

 竹軒がこう云うと老人は『先生がお話しの通り、私は竜宮で乙姫と別れ国に戻りましたが、それから様々なことがありまして、また再び乙姫と暮らすようになったのでこざります』と語って聞かせたのだった。

 浦島太郎は竜宮城で夢にも見ることの出来ぬ日々を過ごしていた。青貝や色とりどりの珊瑚で飾られた御殿の窓から見える海草はゆらめくたびに美しい虹となって楽の音を響かせ、敷き詰められた貝殻を踏んで歩くと、一つ一つの貝は迦陵頻伽のように喜びを歌う・・・乙姫のため息は海の色をとりどりに変え、浦島の吐息は金銀の砂を巻き上げてサラサラと二人を包む・・・こうして夢うつつのうちに月日は過ぎて行った。

 そんなある日、乙姫を御殿に残して一人で珊瑚の林を歩いていると突然不思議な音が聞こえてきた。長い間忘れていた音だった。風が藁屋根を渡る音、松の葉が海風に鋭く響く音、寺の森で鳴くカラス、夕日、海辺の漁師たちが互いに叫び合う声・・・子どもたちの歓声・・・夕餉のたき付けを担いで山から海辺の村に下りながらおしゃべりをしている女たちの声・・・太郎は思わずその声をする方に走り出した。しかしそれは渦巻く波の音にかき消されて消えてしまった。

「どうなさったのです」乙姫が太郎の顔を心配そうにのぞき込んだ。

「何でもない」

「でも、涙が」

「何でもないのさ」

 こうしてまた日々は過ぎて行ったが、ある夜、太郎が乙姫と枕を交して寝ていると、人々の泣き声が聞こえてきた。太郎はビクッと身を起こした。

『あれは、村の者の泣き声・・・誰が死んだのだ・・・おっかさんか、それともおとっつぁんか・・・私はいままで何もかも忘れていたが、何という親不孝だろう』

 太郎がただならぬ顔をしているので乙姫は、

「どうなさったのです」と心配そうに尋ねると、太郎は乙姫を見つめて、

「私は家に戻らねばならない」

「なぜそんなことをおっしゃるのです」

「泣き声が聞こえたのだ。家の者が死んだのだ・・・一刻も早く戻らねば」

「ここは深い海の底ですよ、泣き声など聞こえるはずがありません」

「いいや、はっきり聞こえたのだよ」

「あなたは人魚の泣き声を聞いたのです。嵐で船が沈むと人魚が大勢で泣くのです」

「いいや・・・そうではない。私には分かる。帰らねばならない」

「あなたは、私を捨てて行くのですか」

「そうではない。村と我が家の様子さえ確かめたら、また戻ってくるよ」

「あなたは嘘をついておいでです・・・私に飽いてしまったのですね」

「そうじゃない。私はお前を心の底から好いている。だが親の死を知らぬ振りはできない。弔いを済ませたらきっとすぐに戻ってくる」

 浦島は御殿の外に走り出て海の底から上を見上げた。暗い海・・・海草がゆらめき、魚が群れを作って川のように泳いでいる。

『ああ、本当の川を見たい』太郎は涙を流した。

 この様子を見ていた亀は乙姫の耳に囁いた。

「あの男を帰しましょう」

「何ですって」

「心が離れてしまった者を引き留めようとしても無駄なことです。男の心は村への思いでいっぱいになっています。貧乏な村が珊瑚で出来ている竜宮城よりも恋しいのです」

「では、浦島はやはり私を嫌いになったのですね」

「・・・浦島の心は竜宮にはありません。あなた様が心を決めて下されば、今すぐにでも私が連れて行きましょう・・・しかし乙姫様もご承知の通り、竜宮で暮らした者が陸に戻る時には玉手箱を渡さねばなりません」

「でも・・・あの箱は・・・」

「もしも浦島が本当にあなたの許に戻りたいと念願しているなら、約束を守るでしょう」

「あの人は守ってくれるでしょうか」

「さあ、それは浦島次第です」

「私は玉手箱など渡したくありませんでした。でもこの人はどうしても村に帰りたいと言い張りますので、『あなたがここに戻って私と再び暮らしたいと願っているなら、決して蓋を開けないで下さい』と、よくよく頼んでお渡ししたのです。でも・・・」

「私が愚かだったのです。白髪の爺となった己を見て私は泣き叫びました。私は、家族も、友人も、親類も、私の故郷も、そして、竜宮の乙姫までも一度に失ったのです。私は白髪を振り乱して叫び、泣きわめき、渚をあてどなく歩きました。みんな私を見て『狂ったじじいが泣いてるぞ』と囃し立てました。

 私は何年も何年も渚を歩き回りました。それが十年だか、二十年を過ぎたのか分かりません・・・そうしたある日、海の底から乙姫が私を呼ぶ声が聞こえました。私は岩の上から海に飛び込みました。これを見た漁師達が、

「気違い爺が海に飛び込んだぞ」と大騒ぎして助け上げました。私は、「乙姫の歌が聞こえたのだ。放してくれ」と叫ぶと、漁師達は、「今度は俺たちがいねえところで飛び込んでくれよな」と大笑いしました。

「それからまた何年か過ぎたある日、大きな貝殻が渚に打ち上げられているのを見つけました。ハッとしました。乙姫が枕の下にいつも入れておいた貝でした。乙姫は『この貝を枕の下に入れておくと楽しい夢を見るの。そしてその夢が本当になるのよ』と話していたのです。

『この貝は乙姫が私によこした便りに違いない』私は松の枝で貝の中に、

   乙姫

   浦島太郎 

 と書いて貝殻を波に浮かべて流し、一日中渚に座って波間を見つめていました。夜になると天の川が虹のように掛かり、流れ星が雨のように降りました。

 いつの間にかとろとろとして、目を開けると、青い波間にあの貝が見えました。私は海に入って貝に手を伸ばし、中を見ました。そこには、

  乙姫   もう一度

  浦島太郎さま

と書いてありました。私はうれしさで胸がつまり、渚に倒れました」

<乙姫>「私は、どうしても太郎に逢いたかった。でも亀や魚たちは一様に止めました。『陸の空気を吸ったら死にます。海の者は陸に上がることは許されません』・・・でも、私は死んでも良いと思ったのです。太郎と別れてからの日々、私は死んだ珊瑚が渦潮の流れに転がるように、泣きながら日々を過ごしておりましたが、ある日枕の下の貝殻を見つけました。もしかしたらこの貝が私の願いを叶えてくれるかも知れない・・・私は貝に私の思いを打ち明けて波間に浮かべました。それから私は窓辺に寄って寝もやらず待ち続けました。何年も待ちました。そしてふと眠って目を開けると、あの貝が戻っているではありませんか・・・そればかりか貝殻には松の枝でかすかな文字が記されていたのです。

 私は決心しました。『陸に行って浦島に逢おう』

 竜宮の者はみんな泣きながら引き留めました。

  海の女神は何故に 竜宮捨ててどこへ行く

  海には海の掟あり 陸には陸の決まりあり

  海の女神は海こそが ただひとつの拠り所

  海には永久の幸あるも 陸には幸の欠片なし

  今日得し福は明日の禍 昨日の吉は今日の凶

  欲得ばかりがはびこりて 離合集散常のこと

  裏切り陰謀さまざまに 戦い重ねて屍の

  空しき日々のみ降り積もる

  百年河清を俟つはこれ 人間の世は無情なり 

  浦島とても人の子ぞ どうして頼みになるものか

  なのにあなたは何故に 我らを離れ海を捨て

  男のもとに行かれるや

  陸には幸いあらずして 涙の日々こそ待ちたるに

 みんなの泣く声を後にして海の底から泳ぎ出て波間から渚を眺めますと、太郎は渚で貝を拾い松の枝で歌を書こうとしているところでした。

 私は歌いました。

  渦潮の垣の中なる我が宿り 永久にこそあれと祈りたり

  夢忘るるなその言葉 たとえ嵐に揉まるとも

 歌声を聞いて太郎は波間に駆け寄り、私を抱きしめました。私はあまりの嬉しさに息が止まりそうでした。そして、実際、そのまま、死んだのです」

<浦島>「私が乙姫の歌に驚いて波の中を覘くと、乙姫が私を見つめていました。私は乙姫に抱きつきました。でも乙姫は息絶えていたのです。私は乙姫の体を抱きしめて泣きました・・・ふと気が付くと、私たちは地獄に来ていました・・・でも満足しています。たとえここがどこであろうとも、こうして再び乙姫に会えたのですから」

<乙姫>「そうですとも、何の不足がありましょうか・・・さあ太郎様、おいとまいたしましょう。まことにお世話になりました。心からお礼申し上げます」

 

 浦島と乙姫は互いをいたわりながら、賽の河原をどこまでも歩いて行ったのだった。 <第二十五話 終わり>