「閻魔庁の籔医竹軒」 第二十三話 英雄 (48番・十全大補湯 68番・薬甘草湯 69番・茯苓飲)
「お前に会いに来た者があるぞ」と鬼の声がするので外に出てみると鬼の姿は見えず、羊が一頭竹軒を見上げていた。その目はまるで、「私について来て下さい」と言いたげだ。
後をついて行くと、たちまちあたりに氷のような草原が広がり、遙か彼方に人影が見えた。近付いて見るとひどく青い顔の男だ。
「どうなさいました。具合がお悪いのなら見て進ぜましょう」竹軒が言うと、
「いや、長旅で疲れただけなのです。実は友人が病に伏せっておりまして、竹軒先生に薬をいただこうとここまで参りましたが、足がどうにも動かなくなり、羊に頼んで来ていただいたわけでござります」
「それはそれは難儀なことでしたでしょうが、で、そのご友人はどこにおいでなのですか」
「ここから千里も北の北海のほとりでござります」
「何と、そのように遠くから・・・であなた様もその方と共に極寒の地で暮らしておいでなのですか・・・」
「はい、羊を飼って暮らしております」
「それほどのところにおいでとは、如何なる罪によるものか、想像もできませんが」
「それは・・・臆病の罪による罰でございます」
「臆病の罰とは」
「私にはかけがえのない友人がおりました。彼は清廉潔白の勇者で、たった五千の兵を率いて十万余りの匈奴の大軍に立ち向かい、数十度の戦いに勝利しましたが、最後は刀折れ、矢尽きて捕虜となりました・・・」
「では・・・その勇者とは・・・もしや漢の李陵将軍ではありませんか」
「良くご存じでござりますな・・・いかにも、李陵です」
「あなた様は李陵将軍と共に暮らしておいでなのですか」
「いいえ、普段は互いに離れたところにおるのですが、時々様子を見に参るのです。そしてこの度参りましたところひどくやつれ、苦しげな様子でしたので、これは竹軒先生にご相談しなければと思った次第です」
「左様でしたか・・・もちろん私で役に立つのであればどこまでもまいりましょう・・・しかし、私は李陵将軍が英雄であることは存じておりますが、何故他国の捕虜として生涯を終えたのか、その理由が分からないのです。というのも、敵の捕虜になりながら生還して帰国後は英雄としての生涯を送った蘇武のようなお方もおられるのですから」
竹軒がそう言うと、羊飼いの老人はしばらく黙っていたが、やがて口を開くと「李陵は不幸な人でした。というのも、あまりにも傑出していたので、彼を十分に理解する者がおらず、そのため彼を弁護してやることができなかったのです」
「・・・」
「武帝は彼が捕虜になったと聞いた時は使節を遣わして取り戻そうとするお気持ちもあったようですが、全軍がことごとく壊滅し、彼一人が自決せず捕虜になったことを知ると激怒され、群臣に李陵の処置について問い糾したのです。大臣も左右の側近たちも皇帝の怒りに触れるのを懼れて李陵を非難することに終始しました。私もその一人でした。私と李陵とはかつて同じ侍中の職にあり、互いに親しくしておりました」
「侍中とは・・・皇帝の側近ではありませんか・・・あなたはいったい何者なのです」
「侍中であったのは昔のこと、今は羊飼いにすぎません。しかし当時は日頃から付き合う親しい仲でしたから、李陵が並々ならぬ人物であり、国を裏切って敵を利するような人物ではないことは重々承知していたのです。しかし私は他の者同様、武帝の逆鱗に触れるのが恐ろしく、何一つ弁護せず、口を固く閉じていました」
「・・・」
「群臣の中で、たった一人李陵将軍を弁護した者は、司馬遷でした。彼は陛下に諮問されると驚くべき雄弁を振るい、李陵を弁護しました。彼は申しました。『陛下、私は李陵将軍の人柄を見るに、彼に優る人物に出会ったことはありません。親には孝行、友人には信義厚く、金銭には清廉、物を分ける折には人に譲り、国家の危急に際しては万死に一生を顧みず難敵に当たる、そうした英傑です。この度も、五千足らずの兵を率いて胡馬の地奥深く踏み込み、虎の如き単于の大軍と連戦し戦う度に勝利しました。匈奴の将軍たちは震え上がり、諸侯に命じて弓を引く事のできる匈奴の民を根こそぎ駆りだし、李陵の軍を攻撃しました。将軍は無数の敵を相手に戦い、兵士たちは水の代わりに涙を飲み、矢もない弩(いしゆみ)を張り、敵の白刃を冒して先を争って切り死にしました。私は思うに、李陵将軍は平素から己だけが美味い物を食うこともなく、貧しい食事を兵士と共に分かち、兵士の苦しみを自らの苦しみとしていたからこそ、兵士たちはこぞって、この人のためなら死んでも良いと思っていたに相違ありません。万策尽きて敗軍の将となったことは如何にも残念ですが、匈奴の大軍を幾たびも打ち破った李陵将軍の軍功は天下に広めても恥ずかしくない功績です。たった一度敗れたからといって、群臣の方々はこぞって李陵将軍を非難しておりますが、我が身安泰で妻子をぬくぬくと抱えている家来共が、よってたかって李陵将軍の罪をでっちあげる有り様を目の当たりにして、私は内心まことに痛ましく存じます』
李陵を弁護する司馬遷の言葉を聞きなから、私は己の怯懦を恥じると同時に、司馬遷の命を危ぶみました。あそこまで歯に衣を着せず陛下に言上して、唯で済むはずはなかったからです」
「・・・」
「司馬遷は牢獄深く幽閉され、終に、宮刑に処せられました」
「・・・」
「睾丸を除去されるという刑罰は死刑にもまして苦しい極刑です。誰もが司馬遷は自殺するであろうと思いました。しかし彼は史記を書き上げるという大望を抱いておりましたので、死を選ばなかったのです・・・左丘明(春秋時代の賢人)は失明した後『国語』を著し、孫子は〔龐涓(ほうけん)のために〕足を切られて兵法を修め、韓非子は秦に捕らえられて『説難(ぜいなん)』『孤憤』を書きました。そうした先人の前例があったが故に、司馬遷はたとえ己が世間の笑い物となり、一万回の罰を受けても退いて書物を著し、自らの使命を全うし、正しい歴史を書き留めて後世に残そうという決意を捨てなかったのです」
「・・・」
「司馬遷が刑罰に掛けられた後、武帝は匈奴と和睦し、使者を匈奴に送りました。使者は匈奴の捕虜とたくさんの引き出物を積んだ車列を率いて匈奴の国へ向かいました。その時、使者に立ったのが・・・私だったのです。天漢元年(紀元前百年)の事でした」
「・・・では、あなたはやはり・・・蘇武様」
「よくぞ覚えていてくれました」
「覚えているもなにも、あなたの姿は名画にもなっています」
「お恥ずかしい限りです・・・李陵将軍と司馬遷の悲劇を目の当たりにしていなかったら、私は匈奴の捕虜となってそのまま彼の地に果てたでしょう。匈奴の王単于は私を捕らえ、尋問しましたが、私は『臣としての操を曲げ、君命を辱めてはたとえ生き延びるとも何の面目あって漢に帰れようか』と自らの佩刀で胸を刺しましたので、単于は私の志を良しとして医者にかけて傷を治し、北海(バイカル湖)のほとりに配流して、羊を飼わせました。それが、今私がいる場所なのです」
「北海とは、バイカル湖の事だったのですか・・・それほど遠くに、あなた様は流されたのですか」
「私は魚捕りの網を編んだり羊を飼って露命を繋いでおりました。そんなある日、李陵将軍が尋ねて来たのです・・・将軍は私に降伏を勧めました。と申しますのも、将軍の一族は母親も親族もことごとく死罪となり、その知らせは彼のもとに届いておりましたから、皇帝への忠義の心は萎えてしまったのです。私も同様、兄弟は皇帝に不敬を働いた罪で二人とも自殺に追い込まれ、母は亡くなり妻は再婚してしまいましたから、漢への未練はないであろうと将軍は私を説得しました。しかし私は匈奴の家来として身を果てるのは肯んじませんでしたので、彼の言葉に従うことはできなかったのです」
「・・・」
「その後、武帝が崩御され、昭帝が即位すると、皇帝は再度使者を送り、単于に対して『武帝が送った使者である蘇武を返還せよ』と迫りました。しかし単于は私を返したくなかったので『蘇武は死んだ』と返答しました。すると、昭帝の使者は単于に対してこう申したのです。
『先年、昭帝が上林で狩りをなされ、雁を射落とされたところ、雁の足に絹の手紙が結んであった。そこには『私、蘇武は生きて北海の沢に居ります』と記されていた。この事実をどう言い抜ける気か』
単于は驚愕し、私を返還することに応じたのです」
「・・・」
「私が漢に戻ると聞いて李陵将軍が訪ねてきて涙を流し、詠いながら舞いました。
万里を径(へ)て砂漠を渡り
君が将となって匈奴に奮う
道窮絶(とだ)え矢刃は砕け
士衆は滅びて名すでにくずる
老母はすでに死したれば
恩に報いんと欲すと雖も
将安(はたいずく)にか帰せん
十九年間を虜囚として過ごした後、都に帰還すると、私は凱旋将軍の如くに迎えられ、待詔(皇帝の不時のご下問に応ずる役)に任じられ、八十歳余りまで生き延びました。しかし、私は李陵と司馬遷の事を片時も忘れませんでした。私は単に使者としての役割を果たしたに過ぎません。李陵の如く、精鋭を率いて匈奴の大軍と戦い、獅子奮迅の働きをしたのでもなく、友人を庇った故に宮刑に処せられた司馬遷ほどの侠気に満ちていたわけでもない。それなのに、彼らは非業の運命のうちに生涯を送って見送る者もなく死に、私の如き者が栄光に包まれ、長寿を保つとは・・・」
「・・・」
「私は死んで後、昔単于に閉じこめられていた氷原に連れてこられました。私に相応しい罰であろうと思います。しかしながら・・・竹軒殿に頼みたいことがあるというのは」
「私に頼み事とは」
「このような場所に来ると、李陵の事がますます忘れられなくなったのです。氷雪の中での孤独、都を想う郷愁・・・そしてあの歌を思い出すと、腸がよじれるほどにこの身が痛むのです。無論、この痛みは朋友としての勤めを果たさなかった故の痛みではありますが、あまりの痛さに気を失い、気が付くと全身が雪に埋められて息が出来ぬこともしばしばです。せめてこの辛苦からだけでも救ってもらいたいと閻魔庁の十王に願い出ましたところ、竹軒殿に相談するように鬼が伝えてきたのです」
蘇武がそう語っていると大鬼が二匹、それぞれの背に竹軒と蘇武を背負い、空を飛んでたちまち氷原のほとりへと連れてきた。
湖の側に破れた天幕があり、中に入ると病み衰えた男が横になっていた。伝説の将軍李陵・・・まさか、今にも屍になってしまいそうに衰えた男がその人だとは、竹軒は涙がこみ上げてくるのをようやく抑えて、まず十全大補湯をこしらえた。
「この薬を白湯と共に少しずつ飲ませていただけませんか」
竹軒が頼むと、蘇武は李陵の頭を膝に乗せて言った。
「さあ、これを飲んで、また私と狩りに出ようぞ」
これを聞いて李陵は薄く微笑し、薬を一気に飲み干した。
「ほほう、これは珍しいことじゃな、薬などいらぬと言い続けた李陵が、一息に飲むとは」蘇武が驚くと、李陵は笑って「日本の扁鵲が氷原の地獄にまで往診してくれた恩に報いるには、飲むより他あるまい」
竹軒は蘇武と共に李陵を献身的に看護したので病状はたちまち回復した。李陵は身支度を調え、出発の用意をしていた。
「どこへ参られるのです」竹軒は驚いて訊ねた。
「この北の果てに参ります」
「何をしに参られるのです」
「それが私に課せられた罰なのです。私は多くの部下を戦闘で死なせ、祖国を裏切り、家族を非業の死に追いやってしまった。その罪によって、十億劫年の間、氷原を彷徨わねばなりません。しかし長年の旅に疲れ、最早一足も進まぬ時に蘇武があなたを連れてきてくれました。感謝します。しかしもし出来ますれば、私はこれまでにもしばしば胃の腑が痛み、両足が吊り、また、昔の罪に後悔して胸が焼け痛みます。もしもこのような病に効く薬がござりましたら、旅の支えにいただければ、これに優る幸せはありません。
これを聞いて竹軒はすぐさま薬甘草湯を作り上げたが、胃の腑の痛みは内蔵が損なわれたというより、罪の意識が強い余り、神経が鬱屈し、気血が滞って気力を失い、そのため寒に毒され、放置すれば太陰病期に至るであろうと判断したので、薬研にブクリョウ・ソウジュツ・チンピ・ニンジン・キジツ・ショウキョウを混ぜて磨り上げ、茯苓飲を大量にこしらえると、「薬甘草湯は腹痛の特効薬ですし、筋肉の痙攣に奏功いたします。胃腑のためには茯苓飲を常用されるとよろしいかと存じます。どうか、これをお納め下さいますように」
竹軒がこう述べると、李陵は深々と頭を垂れて礼を述べ、蘇武と無言の別れをして、歌を詠いながら氷原を遠ざかって行った。
万里を径(へ)て砂漠を渡り
君が将となって匈奴に奮う
道窮絶(とだ)え矢刃は砕け
士衆は滅びて名すでにくずる
老母はすでに死したれば
恩に報いんと欲すと雖も
将安(はたいずく)にか帰せん
竹軒は蘇武と共に、涙ながらに見送ったのだった。
<第二十三話 終わり>
●参考資料 『漢書』・「李陵・蘇武伝」「司馬遷伝」