「閻魔庁の籔医竹軒」 第二十二話 房 事 (88番・二朮湯 89番・治打撲一方 91番・温胆湯 92番・滋陰至宝湯 93番・滋陰降火湯 95番・五虎湯 96番・柴朴湯 128番・啓脾湯)
薬研で生薬を磨っているところへ、一見して学者と知れる老人が、供の男に大きな荷を担がせてやってきた。
「竹軒先生とお見受けいたしますが」
「いかにも私は竹軒でござりまするが、あなた様は」
「私は地獄の地図を作るためにあちらこちらと歩き回っている者にござります。ご覧の通り痩せてはおりますが、幸いほとんどの病は前世に置いて参りましてな、こちらへ参りましてからはすこぶる元気でござります。ところが困ったことに、ここに居ります供の者に痛むところがありましてな、荷を担いでいる間にも一歩歩くごとに『痛い痛い、これでは牢の中の方が楽というものだ、死ねば苦が止むと聞いていたのに嘘偽りであったのか』等と憤懣を述べますのでどうにも困りまして、少しでも楽になるものならと思い、連れて参ったのでござります」
上品な老人がそう言うので、竹軒は土間に荷を降ろして壁に背をもたせかけている男に目をやった。頭の真ん中がカッパの皿のように禿げているが回りには黒い髪がふさふさと生えている。口が頭陀袋のように大きく首は太く手足は木の根のようにがっしりとしているが、体の至る所にひどい打ち身の跡がある。これはいかがしたものか、竹軒が診ていると、
「その傷は前世で役人に折檻された時の跡でござります」
老人の話によれば、この男の名は大童子と言って刀鍛冶の徒弟であったが、鍛冶屋の店は京の都へ入る粟田口にあったので、ひっきりなしにさまざまな荷を積んだ牛馬の列が通る。越後国から馬の背に塩鮭を山のように積んで運ぶ行列もある。大童子は鮭という魚は実にうまい物だと話には聞いていたが、親方はケチであったので一度も食わせてくれない。そこで鮭を積んだ荷駄が通りかかる度に、狭い道路が芋の子を洗うように混雑しているのを幸い荷駄の列に紛れ込んで馬の列に近付き、荷の中から鮭を引き抜いて褌の間に差し込み、人目のないところで密かに食って珍味を楽しんでいたのだが、とうとうそれが綱丁(諸国の貢ぎ物を都に運送する人夫たちを宰領する頭)に見付かって裸にされた。すると褌の間に差し込んだ鮭が出てきたから「やはりお前であったか、こうして捕らえられたからには年貢の納め時だ」と高手小手に縛り上げられた。
大童子は「こんな具合にまっぱだかにされたら、どんなに尊い貴人でもお妃でも、腰に鮭の一匹や二匹隠して居ない者などあるものか!」と悪態をついて暴れたので役人に引き渡され、手ひどく折檻されて牢屋に入れられたが、出獄してからもまた泥棒を繰り返したので終に獄死してしまった。
「こうしたわけで地獄に送られたのでしたが、私は地図を作るのにどうしても資料を運ばねばなりません。そこで十王にご相談しましたところ、『では、この男をお使い下され』と預けてくれましたのでそれからというもの、私の荷物を担いで貰っているのですが、共に地獄を旅するようになりましてずいぶんになりますのでな、今ではこの大童子が私の師匠のようになりました」
「まさか、そのような事は・・・」竹軒は訝った。大童子という男は盗みを働いて獄死したのだから罪人に違いない。他方、老人はどこから見ても立派な学者という風貌だ。それなのになぜ罪人が師匠だなどと言うのだろう、竹軒がそう思っていると、老人は、
「実を申せば生前私は儒学者でござりましたが、若い頃から解けぬ疑問がござりました。それと申しますのは、私は結婚前、江戸で浪人をしておりました頃、勉学の傍ら娼妓の許に通い、淋病を病む身となりました」
「・・・」
「その後仕官が叶うと縁談が持ち上がり、二十二才年下の娘と結婚しましたが、私が淋病を患っていることは相手の家にも妻自身にも隠していたのです。しかし間もなく妻は病が移り、そのため子を産めぬ身となってしまいました。私は大いに悩みました・・・妻を石女にしてしまったのは私ですから、これは言い訳ならぬ罪でございますが、そもそも私に病を移したのは娼妓でござります。しかし娼妓は幕府の認める郭に囲われた遊女屋に買われて来た女でして、女の話では父親は百姓でしたが飢饉で食えぬところに女衒が娘を買いに来たので売られて来たそうなのです。その時十四だったとの事でしたが、私が出会った時は十九で、既に病持ちでした。数年後に訪ねて見たところ病が高じて死んだということでした・・・私の罪は大罪に値しますが、私に病を移した女もまた罪人と申せましょう。しかし貧しさにつけ込んで娘を買った女衒はもっとひどい罪人でしょうし、また、女郎屋の亭主はその何層倍もの悪人でしょう。しかし、誰も女郎屋の親父を悪人などとは思わず、幕府も公に認めているのですから、最も悪いのは幕府ということになります。しかし儒教に於いては主君にはどこまでも従い、また親に孝養を尽くすことが何よりの基本でござりますから、幕府を批判することなど思いも寄りません。しかも幕府が善政を敷いていることは疑問の余地もないことなのです。と申しますのも、私が生きていた頃は中国をはじめ諸外国に於いては内憂外患が絶えず、他国を侵略したり侵略されたりする大戦争が日常茶飯事になっておりますが、日本ばかりは家康公が幕府を開かれてからただの一度も戦争がない。これを考慮すれば、幕府は国民に平和と安寧をもたらしていると申せましょう。我が身の罪の大本をたどって行くと幕府の罪に帰着しますが、幕府は全体として善であるとするなら、何が善で何が悪であるのか分明でなくなってしまいます。この疑問が生涯胸の中に固まりとなって解けぬまま私は死んだのでござります・・・ところがここに参りまして、大童子と出会ってから少し分かってきたような気がしてまいりました」
「・・・それは何故・・・」
「大童子の父親は腕の良い大工だったそうですが、砦の普請をしている時に材木横領の罪で捕らえられ、獄死いたしました。砦の材木を盗んだ罪ですから家族もそのままでは済まず、大童子の母は盗んだ材木の隠し場所を教えろと拷問されて死に、兄弟は逃散して、大童子は体が大きいので侍の家中から話があったのでしたが、沙汰止みとなりました。こうして一家は破滅したのですが、数年後、材木横領は時の普請奉行と材木商が結託したものと分かり、一味は捕らえられ、普請奉行は打ち首となりました。けれども真犯人が割れたとはいえ大童子一家はもとには戻りません。無実の罪で親子が獄死したのですから、誰か罪に問われてしかるべきですし、一家は救われるべきでしょうが、既に事は済んでしまったので、どうしようもないのです。大童子は親の罪が晴れたので刀鍛冶の弟子に入ることができましたが、それまでの苦しみの故にあらゆる人間が信用できなくなってしまいました。鮭を盗むのは明らかに罪ですが、実は綱丁自身が手下と謀って運んできた鮭を横領して金銭を得ていたものを、罪が発覚するのを恐れて、大童子が毎年二三匹の鮭を盗むのを知っていた綱丁はこれ幸いと大童子に全ての罪を押しつけたのです。
私は長年儒学者として学問を続けて参りましたが、こうした世間の苦しみに答えを与えることが出来ぬ学問に深い疑問を抱くようになりました。そしてそのまま死んでしまい、閻魔庁に参りましてからあちらこちらの地獄を回っておりますと、生前にはたぐいまれな善人と評判であった者が実は極悪非道の悪人であることが閻魔庁の十王によって暴かれて阿鼻地獄に落とされている、あるいはうら若い娘を娼妓に仕立てて大金を稼いでいた男や大勢の金貸しが焦熱地獄に落とされている、そうした事実を目の当たりにして、孔子が『鬼神を語らず』と言ったのは誤りであったと悟ったのでございます。と申しますのも、もしも人間に後の世がないとすれば、善人が冤罪によって死罪を言い渡され、そのまま刑場の露と消えたなら、たとえ真犯人が判明したとしても死んだ善人が生き返るはずはなく、救いようがありません。ところが現世の後には死後の世界があり、六道輪廻が待っていて、真実の善人にはそれなりの救いがあり、悪人には無限の地獄が待っているとあれば、生前の過ちも多少は救いがあろうというものであると思えるようになったのです。ですから私は、儒者であることをきっぱりと止めて、いったい地獄というところはどのような所であるのか、それを書き記しておきたいと考え、調べ歩いている次第なのです」
なるほど、最初、地獄の地図を作るために歩き回っていると聞いた時は何のことであるかさっぱり分からなかったが、そうした次第だったのかと竹軒は納得した。
土間に置かれた箱にはどうやら相当な資料が入っている様だ。どのような書物が入っているものか、見たいものだと思ったが、まずは手当をしてやらねばと考えて、大童子の腕を子細に調べると、肩には傷はないものの、腕を後ろに回すといかにも痛がる。肩から指先まで痺れ、夜になると痛みで眠れぬという。
「これほど頑丈な体をしているのに何故さほどに痛がるのであろう」と竹軒が訝ると、
「この痛みはどうやら大童子一人の痛みではないようなのです」
「一人の痛みではないと?」
「大童子は寝ても覚めても両親が拷問の末に獄死した事を思い出し、その時に受けた父母の苦しみを思うと全身がしびれたようになり、耐え難く痛むのだそうなのです」
竹軒はこれを聞いて思わず涙した。世には親不孝な子どももあるものを、地獄に堕ちてまで親を思って苦しみ、自らの体を痛め続けているとは、『何としても治してやらねば』と竹軒はそう考え、薬研に、ハンゲ・ソウジュツ・イレイセン・オウゴン・コウブシ・チンピ・ビャクジュツ・ブクリョウ・カンゾウ・ショウキョウ・テンナンショウ・ワキョウカツの十二種を混ぜてゴリゴリと磨った。そしてそれが磨り上がると、容器に移し、今度はケイヒ・センキュウ・センコツ・カンゾウ・ダイオウ・チョウジ・ボクソクを混ぜて磨り上げると、
「さあ、これをお飲みなされ」と二種類の方剤を一度に飲ませた。
大童子は大口を開けてごくりと飲むと、急に楽になったものか、大イビキをかいて眠り込んでしまった。
この有り様を興味深げに見ていた老人が、
「大童子が眠っている間、お尋ねしたいことがござりますが」
「はい・・・なんでござりましょうか」
「ただいま大童子はすこぶるうまそうに二種の薬を飲みましたが、先の薬は何と申すのでござりますのか」
「最初のものは二朮湯と申します。この親孝行息子は肩から手にかけての痺れや痛みがありますが、生前、獄で痛めつけられた傷が障害となっていたものが、地獄の風にあたって悪化し、おまけに長年の怒りのために脾が衰え、気虚になったものと思われます。そうした時に二朮湯は良く効くものでござります」
「なるほど、では、四十肩、五十肩にも効きまするな」
「いかにも、左様」
「で、もう一つの薬は何でござりまするか」
「こちらは治打撲一方と申しまして、折檻による打擲、打ち身にはよく効きます」
「なーるほど、二朮湯と治打撲一方でござりますか・・・何とも羨ましいほど良い生薬をお持ちでござりまするな。私の頃はせいぜいこの中の半分ぐらいしか手に入らなかったものです」
「・・・では、生薬に通じておられますのか」
「父は私が生まれた年に主君に疎んじられて浪人となりましたので、医者となって生計を立てておりました。それ故、兄も私も幼い頃から医書に親しんでおったのです」
「ではあなた様は生前、名のある医師であったのでは?」
「いえいえ、今お話ししましたように、私は儒者を志しておりましたが、医学書もたくさんにありましたのでいつの間にか読んで覚えたのでこざります。しかし私が幼い頃から父が浪々の身である上に母が亡くなりましたので実に困窮いたしましたが、見かねた者が城外の地行という村の婆を紹介してくれましてな、お陰で大層助かりまして、私たち子どもはこの婆を『地行婆』と呼んでなついておりました。そして後年私が屋敷を構えるようになってからこの婆を引き取りまして老後の面倒を見ていたのでござります。すると恐ろしいことでござりまするな、その事がちゃんと閻魔帳に記載されている・・・『貝原益軒、お前は生前、地行婆から受けた恩を忘れず、生涯面倒を見た行為は天晴れである』と、閻魔大王からお褒めいただきました・・・妻に嘘をつき、病を移した罪については何も申されなかったのは不思議でござりました」
「・・・お待ち下さい・・・ただいま、あなた様は何と申されましたか・・・貝原益軒とは申されませんでしたか」
「・・・いかにも、そう申しました」
「では、あなた様は、貝原益軒様」
「そのように大声を出されますな・・・私はいかにも益軒でござります」
「これはまことに希な幸運と申すべきか・・・生きている時には書物でしかお会いできなかった天下の名医に地獄でお目にかかれるとは」
「竹軒殿、そのように大げさな物言いはお止め下され、先ほど申しましたように、私は愚かな男に過ぎませぬ。それにあなた様とは同業ではござりませぬか」
「いや、同業と申されては恥ずかしくて穴でもあれば・・・」
「ご謙遜もほどほどになされ。私が地獄に参りましたばかりの時、私を連れてきた鬼に『このような所で腹でも下した時にはどうすれば良いのでござるか』と訊ねますと、即座に『地獄には極楽にも居ぬ藪医竹軒と言う名医がいるのでな、心配には及ばぬ』と申しておりましたぞ・・・」
「それは何とも」
「ともかくも、私もとうとう命尽きてここまで参りましたが、思えば人の命というものは不思議なものでござりまするよ。頭ばかり大きく、病弱であった私を見て、父は『この子は早死にするに違いない』と怖れておりましたし、若気の過ちから持病を得て生涯下の病に悩まされつづけましたが、それでありながら八十四才まで生き延びて、地獄まで来てもこのようにピンシャンしておりますのですから、人の命は分かりません」
竹軒は大先輩にお目に掛かってすっかりのぼせたようになり、何を話してよいやら困惑していたが、そんな竹軒を見て、
「竹軒殿のお話ではこの私を世間では如何にも誤解しているようでござりまするが、竹軒殿が生きていた頃、この私をどのように評しておりましたのか」と訊くので、
「それは、天下の名医とも、並び無き儒学者とももっぱらの評判でござりました」と答えると笑って、
「そのような白々しい嘘は申さぬものです。でないと、閻魔大王に舌を引き抜かれまする」
「・・・しかし、先生のご著書は日本の名著の一つとして伝えられ、中でも『養生訓』『楽訓』などは広く読み継がれておりまする」
「それは嬉しい限りではありますが、事実は、ごく一部しか読まれていないというのが真実ではありませんかな」
「・・・」
「『養生訓』は私の妻、東軒が死んだ年に枕元で書きしるしたものでしたが、この時私は八十三才でした。執筆の動機は、せっかく天地の恵みによってこの世に生を受けながら、身を慎まず、欲望に従って飲み食いし、色欲に耽って元気を損ない、病を求め、早く命を失う者が多いのを見て、養生の道を広めようという意図で書き記したものでありました。それと言うのも私自身、色欲に溺れて生涯の過ちを犯し、妻を石女にしてしまいましたので、どうしてもこの事は書き残さねばと決心して書き始めたものでごさいます。それが為にこの書物は全八巻、十七章から成り、飲食から日常生活、風呂の入り方、また医者の選び方、用薬法、鍼灸に至るまで養生の詳細を網羅しております。ところが、多くの読者はほとんどの章には目もくれず、ひたすら色欲の項ばかり目を留めているのはいかにも残念なことでござります」
益軒先生はそう言って咳払いをしたが、その顔はと見ると、少しも怒ったような表情はなく、むしろあきらめというか、面白がっているような様子にも見えたので、竹軒は少しためらった後、
「確かに先生の養生法は人間の精神のありかたから人との交際、読書の仕方、散歩、食事に至るまでこと細かに書きしるされておりますのには驚嘆するばかりです。中でも私が興味深く思いましたのは先生が『たばこには毒がある』と明記しておられることです。近年その毒の存在につきましてはっきりと証明されましたが、三百年も前にその事実を喝破しておられた先生の眼力には恐れ入りました・・・しかし、先生は不本意であられるかも知れませんが、閨房に関する記述も大いに読み応えがあることは否定できぬ事実でござります。と申しますのも、房事は人の命と大いに関係あるものであるにも関わらず、これに関して書きしるした医学書は先生のご著書以外に見たことがないからでございます」
「・・・それは、学者というものは対面を重んじますのでな、そのような秘事に筆を及ぼすと、学者としての品格が問われるのではないかと懼れるからでござりましょう」
「確かにそうかも知れません。がしかし、先生は他の学者が二の足を踏んでいる問題に関して、何故これほどはっきりと書きしるそうとお思いになられたのでござりまするか」
竹軒がそう訊ねると、
「ご承知の通り、この世には男と女より他の人間はおりません。故に、王侯貴族であろうとその日暮らしの貧乏人や寺の僧侶であろうと、また、高貴な身分の妃も、聖人君子も、色欲のない者はないと申しても過言ではありますまい。それ故に孔子も論語に於いて『若き時は血気まさに壮んなり。これを戒むること色に在り』と書きしるしているのです。元気な者が最も戒めなければならないのが色欲であると孔子は強調しているのです。なぜなら、色欲を欲しいままにすれば精気を費やして元気を失い、礼法に背き、人間の道から外れます。しかも自身が気が付いた時には『素問』に「腎は五臓の本」とある生命の根源である『腎』を損ない、腰から下の力が失せ、冷えて、死に至るからです」
『まさしく・・・』と竹軒は心の内で密かに思った。『若い頃は益軒殿に劣らず色欲旺盛であったが、運悪く腎炎にかかり、それがために長年腎虚に陥り、更に五臓のうちの心臓・肝臓・膵臓を痛めてしまったので色欲などはどこかへ置き忘れてしまい、自らの養生のためにも患者のためにも漢方を学ぶようになったが、学べば学ぶほど養生の大切さが身にしみて分かる。もしも若い頃にこの知識があったならこれほどの病にはならなかったものをと悔やまれるが、それはともかく、患者の中にはさまざまな欲に取り憑かれて悩んでいるものが多い。この際、益軒殿のお考えをとくとお伺いしなければならない』とそう思って、ひたすら耳を傾けたのである。
「大陸の医学の根幹は扁鵲によって伝えられましたが、扁鵲は通常の医学だけでなく、房事に関する知識も会得していたようなのです。彼は渤海の鄭の人で隠者の長桑君から秘薬を貰って飲んだところ、三十日後に土塀の向こう側の人が見えるようになった。そしてこの眼力によって、病人の五臓の気血の有様を手に取るように透視することが出来たと伝えられておりますから、そのような事ばかりが強調され、房事について扁鵲が何と申していたか、それが正しく伝えられて居ないことは残念ですが、しかし彼が秦の大医令の丞であった李醯(りけい)に嫉妬されて殺されると、公乗陽慶という者が後を継ぎました。しかし彼は老齢であったので、淳丁意という者に医学の神髄を伝授しましたが、その中には果たして陰陽交接の秘方書もあったのです。意が天下の名医としてその名が知られるようになったのは、その『陰陽交接の秘方』を会得していたからなのです」
「閨房術に通じた名医という事ですか」
「如何にも左様です。今の世にはそのような名医は見られませんが、古代中国には確かに居たようです・・・ある時、斉の郎中令で循という高位の役人が病んだので名医を呼んで治療を受けましたがどうしても治らない。そこで意が呼ばれましたので、意は丁寧に診察いたしました。診察後、意は患者に火斉湯を飲ませました。すると一飲しただけで小便が出、二飲して大便が通じ、三飲して全快したのです。循は大いに悦んで、『まさしくあなたは天下の名医の名に恥じない腕でござりますが、いったい私の病気の原因は何でありましょうか』と訊ねたので、『あなた様の病の原因は女を愛する余り、房事過多になったため、精気が失せ、病に落ちたものでござります』と答えたとあります」
「・・・それほど効能のある火斉湯とは如何なるものでこざりましょうや」
「詳細については分かりませんが、『鍼灸資生経』という書物の第三巻に、火斉湯が下腹や陰部の病に効くと記されております。しかしそうした薬も房事が過ぎると役に立たぬことがあるようです・・・斉の国の曹山附が病んだ時、意が呼ばれましたが、脈を診るとすぐに家族を呼んで『これは私にも手に負えませぬ。八日で死ぬでしょう。病人の好きなようにさせなさい』と告げました。果たしてその日に死んだので、家族が驚愕して死の原因を尋ねましたところ、『曹山附殿は常日頃から房事過多でござりましたが、特に悪かったのは、激怒してすぐに房事を行った事でござります。怒りを腹に貯めたまま事に及びますと脈が結滞し、肺と肝の両絡脈が絶える事がこざりますが、果たして曹山附殿はその為に亡くなられたのです』」
「激怒の直後の房事は死でござりまするか」
「用心しなければなりません。斉の中尉藩満如はやはり房事過多の傾向がありましたが、ある時ひどく下腹部が痛んだので意に診察を依頼しました。意は『これは遺積_(いせきか)です。房事を即刻慎まなければ、三十日で必ず死ぬでしょう』と告げました。しかし中尉はそのような馬鹿なことがあるものか、房事を欠かすぐらいなら死んだ方がましだ、と意の諫言に耳を貸さなかったので、三十日目に死にました」
「・・・」
「また斉の北宮司空の命婦の出於(しゅつお)がひどく病んだことがありました。彼女が意の診察を受けると、意は『あなた様の病は疝気が膀胱に宿っているのです』と告げました。夫人は膀胱に尿が溜まっていたのに夫の意向に逆らえず、尿意を抑えて房事を行ったので病になったのです。意は夫人の足の蹶陰に灸を据え、火斉湯を飲ませると、三日で疝気は散り、全快しました。このように、房事と病とは深い関係にあるのですから、医師はその道にも通じていなければ命を救うことはできません。世の医師がこうした事は個人の秘事に属する事として重く考えず、避ける傾向がありますのは間違っておりましょう」と述べたので竹軒は、
「まさしく先生の教えをお聞きして我が身の無知を恥じましたが、しかし、中国にはそのような房事に関する医術がありましたのに、日本にそれが十分に伝わらなかった訳は何だったのでしょうか」と訊ねると、
「それこそが国の伝統というものであると私は考えています。というのも、古代中国にはさまざまに偉大な思想家が出ておりますが、房事についても多くの知恵を残しております。その一人である葛洪はその著『抱朴子』に<人は陰陽の交わりを欠かしてはならぬ。長らく行わずにいれば病気を招く。さりとて、もし情欲を欲しいままにして節制できなければ、寿命を縮めることになる>と記しております。これは第六巻の〔微旨〕に記されておる言葉ですが、第八巻の、わからずやを説得するために記された〔釈滞〕にも<人間は陰陽の交わりをすっかりやめてはいけない。陰陽が交わらないと気が塞がれて滞り、病気になる。故に、閨に閉じこめられて独り身の寂しさを怨む男女は、たいてい病身で早死にするのである。さりとて情欲にまかせてしたい放題にすると、寿命を縮める。調和を得た瀉(は)かせかたのできる人だけが寿命を保ち得る>としるしています。こうした事々は葛洪一人の知恵ではなく、多くの先人が伝えた知恵をまとめたものでしょう。ですから古代中国には房事医学と申すべき知恵があったのです。ところが日本ではこの種の話はなかなか公に伝えられません。これは日本人の奥床しさと申すべきものでしょうが、しかし無視するのは良くない事と申すべきでしょう・・・なにしろ長生きするためにはこれに関する知恵は欠かすことができないものですし、人として生まれた限り、青年であろうと年をとった者であろうと、性慾を断つことは聖人君子であってもできませんから、他の医師がこれについて何も発言しないのなら、私だけでも書き残しておこうと、『慎色欲』についていささか書き記したのです。ところが世間には<接して泄(も)らさず>の言葉ばかりが一人歩きしているのはいかにも残念至極なことです」と益軒が言うので、竹軒は、
「いちいち納得いたしましたが、道学者先生や禅僧などは<人が正しく生き、人の道を踏み外さないようにするには、色欲を早く絶たねばならない、本来男女の性欲はよからぬものであるから、その欲から離れなければ真実の知恵も授からず、正しく生きることも出来ない>と申しているように心得ておりますが、そうした考えは間違いであると、益軒様は申されるのでしょうか」と訊いてみた。すると果たして益軒は、
「そうした事をさもありがたい教えのように説く者は詐欺師同様のいかさまな人間です。人は生まれながらさまざまな欲があり、その欲をうまく制御して生きることが人生であり、人間としての楽しさ、おもしろさなのです。私は死んでから後、平安時代の密教に感心を抱きあれこれと学びましたが、そもそも日本の誇りとする源氏物語はすべてこれ色欲が主題です。多くの和歌も恋歌で満ちあふれています。それなら平安時代は悪であったのかと見ますと、全く正反対。世界に類を見ない平和な文化国家であったのですから、色欲が良くないと説く者は無知蒙昧の詐欺師同様の偽善者と申すべきでしょう」
「まさかそれほど激しいお言葉を益軒先生からお聞きしようとは想像だにいたしませんでしたが・・・」
「別に極端な事を申しているのではありません。全ての欲を捨てなければ真実に生きることはできない、などと申すものは、人に木石になれと教えるのと同様であると私は言いたいのです。しかし私が生きていた時代は儒学万能でしたから、私自身もまた聖人君子の道を説いていたのです。故に無知蒙昧の詐欺師同様の偽善者と申すべきは、この私自身のことなのです・・・しかし、そうは申しましても、房事が人間の追求すべき最終の目的でないことは確かな事実です。人がこの世に生かされているのは、善を為すためです。善を為さずして房事のみに時を過ごせば禽獣と変わることはありませんし、金銭に執着する者は畜生道に落ちましょう。要は、人として生まれたことに感謝してたとえわずかであっても善を為し、人を憎まず、天命を楽しむことこそが肝要・・・房事はそうした人の営みを全うするための営みの一つということでしょうか」
益軒はこう言って口を閉じたので、竹軒はやはりこの際、本当に訊くべき事を質問するべきではないかと考えて、
「さまざまにご高説を拝聴し竹軒、生涯の喜びでござりまするが、敢えて最後にお伺い致したいことがござります。それと申しますのは、房事が人生の大いなる営みの一つであるとは言え、老齢や身体の病、あるいは種々の事情のため、房事とは縁遠く過ごさねばならぬ者は世に多くござります。葛洪は<人は陰陽の交わりを欠かしてはならぬ。長らく行わずにいれば病気を招く>と『抱朴子』に記したとただ今うかがいましたが、となれば房事と無縁のものは病に落ちやすく早死ということになりましょうが、これはやむなきことでしょうか・・・それとも房事に縁遠くとも、これぞというべきものを求めれば養生も叶うのでしょうか」とこう訪ねると、益軒は微笑して、
「そのような事につきまして私のような者があなた様に申し上げる事は何もありませんが、私も色欲で失敗してからは、色欲に替わるものは何であろうかとさまざまに考え試みましたが、やはり一番は、読書と歌に極まると存じます」
「読書と歌でござりますな」
「まことに、古代の日本や中国の書物を読んでおりますと、この小さな肉体が数千年を超越して、はるかな昔に生き、偉大な人々の教えを受け、親しく語り合っているように感じます。
<人古今に通ぜざるは、馬牛にして襟裾(きんきよ)す(人間として、古今の歴史学問に無縁な者は、牛馬が良き着物を着ているのと異ならない)>と韓退之も申しております。また学問と共に、四季折々に雪月花を鑑賞し漢詩や和歌を、声をあげて詠むことは比べようもなく大きな楽しみです。私は淋疾の後遺症のため、妻の東軒と閨房を共にすることはほとんど出来ませんでしたが、それでも楽しく生きることが出来ましたのは、共に漢詩や和歌の世界に遊び、琵琶を吟じて雪月花に酔うことができたからだと思っております・・・しかし、そうは申しながら・・・人は無力でござります。死は確実に人を飲み込み、全てを奪いますからな・・・地獄にはかつて楽しんだ四季折々の景色はなく、東軒の琵琶を聞くこともできません。まさしく人は生あるうちに、ただひたすら良き生を送ることに徹するべきでしょう」益軒はそう述べると窓から外を眺め、「大経」を吟じた。
諸行は無情なり
これ生滅の法なり
生滅の滅し終われば
寂滅を楽しみとなす
と、突然大あくびをする声が聞こえた。大童子が居眠りから醒めたらしい。益軒は微笑しながら「そのようにぐっすりと眠れたのであれば、竹軒先生の二朮湯と治打撲一方がよほど効いたのでありましょう」と言うと、大童子は「何百年の痛みをたちまち治すとは、この医者はお前さんよりよほど名医なのだな」と言ったので益軒は「それ見なされ、大童子でさえ名医と藪医の違いは分かりまする」と笑った。
益軒は用意を整えて、「さて、おいとましましょうかな」と立ち上がろうとするので、竹軒は「もしよろしければ、その箱の中を拝見させてはいただけませぬか」と頼むと益軒は大童子に蓋を開けさせて、
「この通り、全て地獄の絵地図でござる」
「・・・何と私はここにばかりおりますので他の場所は知りませんが、これほど様々な地獄がありますのか」
「左様、生前、地獄というところはかくかくしかじかのところであると聞かされておりましたが、私の父も私ども兄弟も仏教をまるで信じてはおりませんでしたから、何の知識もないままに死にました。ところがここに参りましてただ驚くばかりでした。私はご承知の通り、九州の黒田家に仕えている時分から諸国を見聞きし、『京畿紀行』『大和河内路記』『吾嬬路記』『厳島図並記事』など数限りなく紀行文を書き、また、黒田家に関する記録の他『筑前国続風土記』全三十巻を書きしるし、そこには士農工商の人数、町、村、商売、神社仏教、牛馬、船、その他、川魚類、海魚類、虫類、薬品類、海草類、群花類、樹木類、衆草類などあらゆることを書きしるしましたが、何故それほどに詳しく書いたかと申せば、この世にはさまざまなものがあり、その全てが天地の命であり、その命の現れがそれぞれに自由気ままな形態をとっているのかと思うと楽しくてたまりませんのでな、ついついどこまでも書いたのでこざいますよ。そして終に死んで地獄に参りますと見たこともない景色が広がってる。しかも、これを誰も書いた者がいない。源信僧都の『往生要集』などは想像で書きしるしたものですから、現実の地獄とはかけ離れております。そこで、ひとつ書いてみようと思い立ったのです」
「さすがに、益軒先生のお考えになることは人の想像をはるかに超越しておられますな。・・・しかし、先生がそのように長く旅をなさっていては、奥様の東軒殿が独りで寂しがっておられるのではありませんか」竹軒がこう言うと、益軒は、
「妻は私が死ぬ一年前に死にましたが、いよいよ危篤となった時に私は『お前はきっと極楽に行くであろうが、私は地獄に行くであろうから、これが最後の別れだ』と言うと『あなた様は人の何倍もの善いことをなさったのですから、必ず極楽へ参りましょう。私はいつまでもお待ちしております』と言う。そこで『残念ながら、私は多くの罪を冒したので地獄へ行くであろう。それに、極楽は偉い人がわんさとおるに違いないので窮屈でなりません。それ故私を待つことは無駄なのですからせいぜい極楽で楽しんで下され』と言い聞かせると、東軒は笑って『あなたはどこまでも可笑しいお方。そのようなお方に添い遂げることができて、私は幸せでござりました』と言って、事切れたのです・・・そうしたわけで、妻とは死んでから互いに違う道を歩んでいるので私を待っている気遣いはないと思いますが・・・がしかし、竹軒殿・・・そうは言うものの、人間、いくら罪を犯さぬように生きたと思っても、何一つ間違いを犯さずに生き抜いた者など一人もいないと思われますから、あるいは妻の東軒も極楽へ行くと思っていたのに気づいたら地獄で途方に暮れているということもないとはいえません。ですからこうしてあちらこちらと巡り歩いているうちにひょっくり巡り会わぬとも限りませんのでな・・・そこで私が取り分けて竹軒殿にお願いしたいことがござりますのは・・・」
「なんでござりましょう」
「東軒はもともと蒲柳の質でありましたが、六十を過ぎてから咳や痰に悩まされて鶴原正林先生に掛かっておりましたがどうにも治りません。また正林先生ご自身もご病弱でしたので、知り合いの春庵殿に相談したりもいたしましたが一向に善くなりませなんだ。そこで、もしも万が一にも東軒に出会ったら、その時は竹軒殿の薬を飲ませてやりたいと思うのですが・・・いかがでござりましょうか、私のわがままを聞いてはいたたけませんでしょうか」とこう申されるので、竹軒は即座に応諾して、
「では、咳にはまず、五種類の方剤をこしらえましょう。その一は、竹温胆湯、二番目が滋陰至宝湯、三番目は滋陰降火湯、四番目は五虎湯、五番目は柴朴湯でござります」そう言いながらそれぞれの生薬を入れて磨り、説明して言うには、
「益軒先生に申し上げる必要はないとは存じますが、先生の時代にはなかった生薬もござりますので一応申し上げますと、
竹温胆湯はハンゲ・サイコにチクジョをくわえた十三種の生薬が入っておりますが、東軒夫人のように蒲柳の質で体力がない方が風邪などをこじらせ、咳や微熱が続くときにはとても便利な薬でござります。
滋陰至宝湯も十三種の生薬から成りますが、特に咳と微熱が長引き、陰液が不足して、五臓のうち、肝と脾に失調が見られる時には奏功いたします。
滋陰降火湯は滋陰至宝湯よりも咳が執拗に出て、熱もあり、そのために神経が苛立って頭痛、便秘などを来した時に用いると効くものと思います。
五虎湯は体力がよほど回復した後になっても咳が出て、喘息用の症状を呈し、呼吸が苦しいような時に用いるのがよろしいかと存じます。
また柴朴湯は気管支炎、喘息の薬ですが、脾が衰え、肝に失調を来して精神不安になったような時に用いられるとよろしいかと存じます。
これらにはそれぞれいかなる生薬が入っているか、ここに書きしるしておきましょう」
竹軒はこう述べて書きとどめ、更に薬研を磨って、啓脾湯をこしらえて、
「これは私が体力が衰えた患者の下痢に最も好んで用いる方剤でござります。これにはソウジュツ・ブクリョウ・サンヤク・ニンジン・タクシャ・チンピ・カンゾウ・レンニク・サンザシの九種が入っております。脾が衰え、太陰病期に入って気虚も加わり、食べたものが消化出来ず、慢性的に下痢をする時に、これを用いますと覿面に効果が現れます。
浅学の私がこのように処方いたしますのは赤面の至りですが、地獄で生薬を手に入れられる者は恐らく私の他にそうはいないのかも知れぬと思い、僭越ながらご処方させていただきました」
竹軒がそう言ってこしらえた生薬をそれぞれの袋に入れて手渡すと、益軒は大いに感謝して、
「まさか、地獄で、かくも良き目に合うことができようとは想像もしておりませんでした。心から御礼申し上げます」と深々と頭を下げたので、竹軒も別れの挨拶をして頭を上げると、大童子の姿は見えず、替わりに神々しいばかりの若い童子が立っている。
竹軒が言葉を失っていると、益軒も大いに驚いた様子だったが、やがて深く頷くと、
「これは恐らく大童子の苦しみと善行に感じた御仏が、大童子を八大童子の一人である恵光童子に変えたのでしょう」と述べて、
「さあ、参りましょうか」と促したので、恵光童子となった大童子が土間に置いた大荷物に手を差し伸べると、それはたちまち五鈷杵(ごこしょ)と成ったので、恵光童子は五鈷杵を右手に持ち、貝原益軒と共に地獄の道を遠ざかって行った。
どこからか謡い声が聞こえてくる。
年々に 人こそ旧(ふ)りてなき世なれ
色も香も変わらぬ 宿の花盛り
変わらぬ宿の花盛り 誰見はやさんとばかりに
まためぐりきて小車の 我と憂き世に有明の
尽きぬや恨みなるらむ よしそれとても春の夜の
夢のうちなる夢なれや 夢のうちなる夢なれや
<第二十二話 終わり>
●付記・引用参考文献
「貝原益軒」人物叢書、吉川弘文館
「貝原益軒」日本の名著、中央公論社
「源信」日本の名著、中央公論社
「史記」列伝篇、司馬遷著、筑摩世界文学大系7
「抱朴子」中国の古典シリーズ、平凡社
「宇治拾遺物語」巻一、十五 「閑吟集」日本古典文学全集、小学館