「閻魔庁の籔医竹軒」 第二十一話  ミケランジェロ  (75番・四君子湯  76番・竜胆瀉肝湯  40番・猪苓湯  77番・帰膠艾湯)

 生薬を磨っているとばかり思っていたが、気付くと、鬼の背に負われて疾風のように地獄の空を飛んでいた。

「どこへ連れてゆくつもりです」竹軒が聞くと、

「サン・ロレンツォ聖堂だ」

「・・・それはいったいどこなのです」

「墓だよ。お前を墓の中の病人のところへ連れて行けという閻魔大王の命令だ」

「墓の中の病人とはどういうことですか。墓の中にいるのは死人でしょう。死人に医者は無用ではありませんか・・・もっとも私は地獄で死んだ者を治療しているのだから、死人だからどうのとは思わぬが、墓の下まで往診する気にはとてもなれぬ」

 竹軒は言ってはみたが鬼は聞くではなし、黒雲が低く棚引く空をずいぶんと長く飛んで、やがて降り立ったところは石と彫刻で飾られた豪奢な宮殿だった。

『これが・・・目指す聖堂なのか』竹軒があたりを見回していると、鬼は大理石が敷き詰められた隅の石を持ち上げて、「入れ」という。

 どうやら聖堂の下は墓場になっているらしい。こんなところに埋葬されるのは王侯貴族に違いないが、死んでしまえば骸骨になるだけだ、まさか、骸骨に薬を飲ませろというのではあるまい。

 真っ暗な階段を鬼について下りてゆくと、階段の底は広い地下室になっているらしく、天井も床も見事な大理石で、中央の壇に棺桶がある。四面に猛獣の彫刻が彫られ、宝石が鏤められて輝くばかり。『いったい誰がこの中に入っているのか』竹軒は覘いて見たい気になったが『こっちだ』と鬼が促すのでついてゆくと、一番奥まったあたりに蝋燭の明かりが見え、床に男が横たわっていた。

「この男を治療しろという命令だ」

「誰なのです」

「聞いた話ではこいつは墓の中に何ヶ月も身を隠して居るのでろくに食えず、体が衰え、おまけに人に見られるのを恐れて小便を我慢して膀胱が悪くなり、大便も固くなり痔が出て出血しているという事だ。よく診て治してやってくれ」鬼はそう言い置いてどこかへ行ってしまった。

 男はボロを身体に巻き付けて冬眠中の熊のように丸まっている。

『墓の中に何ヶ月も隠れているとはどうしたことなのだ』竹軒は怪しんだが、閻魔大王が治療を命じたからには余程の理由があるのだろうと思ってまず腹を診察することにした。

 男は竹軒が触ってもぴくりとも動かない。腹全体が氷のように冷えている。これではほどなくして死ぬだろう。竹軒はまず気の生成を促そうと蝋燭の明かりを頼りに、ソウジュツ・ニンジン・ブクリョウ・カンゾウ・ショウキョウ・タイソウを薬研に入れ、四君子湯を作ると指先につけて男の口の中に押し込んで、瓢箪の水を口に注ぎ込むと、男は咽せもせず赤ん坊が母親の乳首をくわえた時のようにゴクリと喉を鳴らして飲み、うっすらと目を開けた。

「お前は誰だ」男は竹軒を見て怯えた声で云った。

「私は医者です」

「医者・・・俺を毒殺するために遣わされたのではないのか」

「毒殺ですと?・・・何を馬鹿な、私はあなたの命を救うために来たのです」

「ほんとうか」

「誰が伊達や酔狂でこんな墓場に来るものですか。あなたの病を治すために閻魔大王に命じられてきたのです」

「・・・」

「信じる信じないはご勝手ですが、膀胱や痔の病は王侯であろうと庶民であろうと苦しいことに変わりはありませんから、ともかく薬をお作りしましょう」 

 竹軒は薬研にジオウ・トウキ・モクコウ・シャゼンシ・タクシャ・カンゾウ・サンシシ・リュウタンを入れてごりごりと磨り合わせ、竜胆瀉肝湯を作り上げた。

「単なる膀胱の障害ならば、猪苓湯のようなものを作るのですが、あなたは何かを恐れているため肝と心の気が体内にあふれ、五臓が傷んでいます。また小水を我慢しているので、体内に水と熱が溜まり、尿路や大腸に支障を来していますので竜胆瀉肝湯が効くでしょう」

「・・・」

「これは毒薬ではありません。苦しみから逃れたいならお飲み下さい」

 竹軒が差し出すと、男はためらっていたが、やがて思い切ったように水と共に呑み込んだが、よろめきながら立ち上がるとそのまま階段を上り、宮殿に通じる石を押し開けて出て行った。

『暗殺を恐れて逃げたのか・・・戻って来るのか・・・まあ、知ったことではない。ともかく便通と痔出血の薬をこしらえて出て行くことにしよう』

 竹軒は薬研にジオウ・シャクヤク・トウキ・カンゾウ・センキュウ・アキョウ・ガイヨウを磨り合わせて帰膠艾湯をこしらえると、さあ、これで良かろうと立ち上がった。そろそろ迎えの鬼が来てくれても良い頃だと思ったからである。しかしあたりを見回しても鬼の気配はない。これは困った・・・こんな所に置いてきぼりにされたら餓死してしまうではないか・・・竹軒は困惑して、蝋燭の燭台を取り上げ、元来た回廊の方に歩いて行った。

 壁に絵が描いてある。身をくねらせた女の裸体、苦悶に満ちた男の顔、ねじれた胴体・・・誰が描いたのか・・・見つめていると、どこからか奇妙な詩が聞こえてきた。

 何も見ず 何も聞かず ただひたすら眠るべし

 眠ることこそ我が救い 石になるは更に良し

 恥辱と罪業に覆われたこの世界に 何を今更求めることがあろうか

 ああ、私の眠りを妨げるな 我を永遠の安らぎに導きたまえ

 暗闇に足音がして、階段を男が降りてきた。

「あなたのお陰で何ヶ月ぶりで用便をすることが出来ました」と男は云った。

「・・・それは良うございました。顔色も別人のように良くなりましたな・・」竹軒はこう言って薬研を片付け、鬼の迎えはまだかと闇を見透かした。しかしやはり鬼の姿は見えない。

 男は壁の隙間からパンとワインを探り出して蝋燭の光の中に置いた。

「良かったら食べて下さい」と男はパンをかじりながら云った。「腹が不快で食べる気にもならなかったのですが、あなたの薬を飲んだら急に空腹になりました。こんな気持ちになったのは数ヶ月ぶりです」

「しかし、このような場所に身を潜めるとは、余程の事情がおありなのでしょう。それに・・・あなたは私を暗殺者と間違えた・・・誰かがあなたを殺そうとしているのですか」

「私には暗殺指令が出ています。国中に手配書が回っているのです」

「暗殺指令・・・いったい、そのような物騒な命令を、誰が出したのですか」

「・・・私の命を救いに来て下さったお方に隠し立てをする必要はありますまい・・・私を殺そうとしているのは、ローマ教皇クレメンス七世です」

『ローマ教皇?・・・まさかそんな・・・あなたは、いったい誰なのです』竹軒が驚いて尋ねると、男は少しの間沈黙していたが、やがて口を開くと、

「私の名は・・・ミケランジェロ・ブオナローティ」と呟いた。

 サン・ロレンツォ聖堂の墓の中に隠れているミケランジェロは竹軒に次のように話して聞かせた。

「私が恐れているのは暗殺だけではありません・・・裏切りです」

「あなたを裏切った者があるのですか」

「いいえ、裏切り者は、この私です」

「・・・あなたが?・・・また誰を」

「友人を、同士を、そして共和国フィレンツェを裏切った・・・その報いで私はここにいるのです」

「・・・なぜそのようなことを・・・」

「理由をお話するのはあまりにも複雑過ぎてお分かりいただけるかどうか疑問ですが・・・私が生まれ育ったフィレンツェは君主を持たぬ共和国家でした。フランス、ドイツ、スペイン、イギリス、トルコなどの大国はみな皇帝の支配下にありますが、イタリアは別でした。一人の王に支配されることなく、各地に多くの国や都市が並び立っていたのです・・・フィレンツェの北にはミラノ、東にはベニス、南にはナポリなどの小王国があり、また、全ヨーロッパのキリスト教徒を支配するローマ教皇領がありました。私が生まれ育ったフィレンツェはその中でも特別で、貴族や王は居らず、市民が議会を運営支配する自由商業都市だったのです」

 竹軒は話を聞きながら堺の町を思い出していたが、話を遮るのを恐れて黙って耳を傾けていた。

「この町のすばらしさは言葉で言い尽くすことはできません。フィレンツェの富はヨーロッパ王国の力をしのぎ、イギリス王もフランス王も、フィレンツェ商人から莫大な借金をしていたので、頭が上がらなかったほどです」

「・・・それほどとは、信じられませんな」

「中でもメジチ家は抜きん出ていました。初代のジョバンニは為替取引によってヨーロッパ随一の金持ちとなり、各国に銀行を建て、王侯貴族に金を貸し付けていました。メジチ家二代目当主コジモはジョバンニが築いた莫大な財産を教会に寄付し、孤児院を建て、芸術文化のために湯水のように金を使いました。学者、絵描き、彫刻家が雲霞の如くに各地から集まりました。それによって文化はたちまち花開き、失われていたギリシャ哲学や土に埋もれていた彫刻までが蘇ったのです」

「何と・・・そのような人がこの町にいたとは」

「ダビンチ、ラファエロは絵を描き、私は市民の自由のためにダビデ像を彫りました。フィレンツェはまさに花の都でした。この町がどれほど富み栄え、絵画や彫刻で美しく彩られていたか、叶うことならあなたにお見せしたいものです」ミケランジェロはその頃を思い出し、汚れた頬に涙を流した。竹軒はそれを見てふと、閻魔庁での出来事を思い出した。

「お待ち下さい」と竹軒は言った。「・・・実は、少し前、マキャベリという人物の審理に立会いました。その際、その男はフィレンツェの議会に属していたと述べておりました。しかし彼はフィレンツェの共和政治には批判的で、むしろ独裁国を理想としているかに論じておりましてな、あなたのお話しとはずいぶん違います」竹軒がこう言うと、ミケランジェロは突然怒ったように眉をしかめた。

「マキャベリは私の百倍もの裏切りものです。彼の心には真実の欠片もなく、針の先ほどの誠意もありません。彼は悪魔の手先なのです」

「・・・」

「私の話に偽りはありません・・・フィレンツェは真実、花の都だったのです。マキャベリが登場したのはフィレンツェが没落し始めてからの話です・・・彼のような人間がこの町を滅亡へと導きましたが、しかし私が若かった頃は違いました。繁栄の頂点にあったのです。マザッチョ・ボッティチェルリ・ブルネレスキ・ギベルチ・・・それら天才が続々と現れ互いに腕を競い、美の殿堂を造り出したのです。ところが・・・何とおぞましい事か・・・このような芸術を堕落とみなす者が現れました。僧侶サボナローラです。彼は厳粛なキリスト教国を目指すと称してフィレンツェの実権を握り、あらゆる芸術を非難しました・・・『フィレンツェ市民よ、お前たちは神の怒りを招いている。神を冒涜する言葉を使い、異国の神を絵に描き、彫刻に彫り、財宝をむさぼり、色欲に耽っている・・・神はこの世に一人しかおらぬ、イエス・キリストである。それなのに、お前たちは古代ギリシャの神々をあがめ、ローマの神を石に彫り、日々眺めて悦に入っている・・・そのような人間は悉く地獄に堕ちるであろう・・・この町はやがてソドムとゴモラの如く、硫黄の火に焼かれるであろう・・・もしもそれが厭であるなら、お前たちの家にある忌まわしい異教徒の絵を広場に捨てよ、異教徒の彫刻を鉄槌で破壊せよ、裸の女たちを描いた絵をことごとく焼き捨てよ・・・この私の言葉を信じなければ、お前たちは異教徒として異端審判に引き出され、ことごとく火炙りの荊に処せられるであろう』サボナローラはこう叫んでフィレンツェ市民を震え上がらせました」

「・・・」

「市民は異端審判を恐れて芸術作品を広場に持ち込み、山のように積み上げました。教会の僧侶たちが火をつけると、その火はゴウゴウとすさまじい炎を上げて幾週間も燃え続けたのです」

「では・・・芸術作品が、ことごとく燃やされてしまったのですか」

「一部のものは密かに隠されましたが、多くは焼かれたのです」

「・・・何と言うことを・・・世界の宝を狂気が灰にしてしまったとは!」

「恐ろしい時代でした・・・サボナローラの狂信的独裁がはびこっている間、私たちは絵を描くこともできず、彫刻を彫ることも許されず、ただ呆然と過ごすより仕方なかったのです。ところがサボナローラはローマ法王庁の堕落を非難しはじめました。法王庁はヨーロッパ全域から集まってくる莫大な献金を密かにメジチ家に預け、メジチ家はこれをヨーロッパ各国に貸し付けて莫大な利益を上げてローマ法王庁に儲けさせていたのです。サボナローラは密かにこれを知り、その悪を暴いたのです」

「いささか解せませぬ・・・キリスト教は金儲けを禁じていたと私は聞いております。金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るよりも難しい・・・利息を貪る者は地獄に堕ちると教えているとも聞きました・・・それなのに、キリスト教の総本山である法王庁がメジチ家を使って金儲けをさせていたというのですか」

「私はユリウス二世に命じられてシステイナ礼拝堂の天井画を描く仕事を長くしておりましたが、法王庁の豪華絢爛ぶりは王侯貴族の比ではありません。全ヨーロッパのカソリック教会と信者を支配していますから、献金の総額がどれほどのものか知るよしもありません。しかし広大な教区を支配しこれを維持するためには莫大な金が必要です。教区を守るために傭兵も雇わねばなりません。また時には外部からの侵略に対して教皇自らが兵を率いて出兵することもあります。そのためいくら財源があっても足らないのです」

「ローマ教皇が軍隊を率いて戦場に出陣するとは・・・」

「お疑いになるのは最もですが、私に天上画を描くのを命じたユリウス二世も軍を率いましたし、クレメンス七世も戦場に出ています」

「・・・」

「ともかくもローマ法王庁は大帝国の都と同様ですから、お金はいくらあっても足りません。メジチ家はそこにつけいったのです」

「つけいったとは?」

「あなたの申されるように、キリスト教では金儲けをしたり、利を貪ることは固く禁じております。ところがメジチ家は為替相場を操って一代でヨーロッパ随一の大富豪となりました。これを見た法王庁はメジチ家の当主ジョバンニを異端の罪で取り調べようとしたのです。するとジョバンニは驚くべき提案をもちかけたのです。『どうか私の罪をお許し下さい。もし赦免していただければ、私は法王庁の財宝をお預かりし、三倍にして差し上げましょう』。

 教皇はジョバンニと密約を結びました。この密約は全て暗号で記されておりますから、外部の者は決して読むことはできません。また、法王庁とジョバンニとのやりとりも暗号でしたから解読できるものはありませんでした。こうしてジョバンニは法王庁から預かった金を投資して途方もない利益を得ましたし、法王庁もメジチ家のおかげで想像を絶する富を手にすることが出来たのです」

「・・・」

「しかしこうした事はどこからか漏れるものです。サボナローラは法王庁の堕落を激しくののしりました。教皇は激怒して、サボナローラを破門しました。破門された僧侶には死があるのみです。フィレンツェ市民はそれまでのサボナローラの圧政の恨みを晴らそうと、歓呼してサボナローラを捕らえ、芸術作品を焼いた広場に刑場を作り、火あぶりにしたのです」

「・・・なんともすさまじいお話です」

「サボナローラが殺されると、フィレンツェ議会は久しく途絶えていた共和制を復活しました。そして、その時登場したのが、マキャベリだったのです」

「何と、あの男はその時に現れたのでしたか」

「フィレンツェ議会は愚かにもマキャベリを第二書記官として登用しました。すると彼は持ち前の二枚舌で議員たちを虜にしました。彼の知識は古今東西の歴史・戦争・王国の興廃から国家支配の方法にまで及び、一つ質問するとたちまち百の答えが返ってくるほどでしたから、議員も市民もたちまち魅了されたのです。やがて彼は議会の主導権を握り、ふと気づくと、マキャベリは実質的な支配者になっていたのでした」

「・・・まるで詐欺師か手品師のような・・・」

「まさしくそのように彼はフィレンツェ外交を一手に握り、フランス王やローマ教皇などと取引をする一方、フィレンツェ防衛のためには傭兵では十分でないとして徴兵制を敷き、国民防衛軍を組織したのです・・・そしてマキャベリは一つの企画を議会に提案しました。フィレンツェ市民の士気を鼓舞するためにフィレンツェ議会の大会場に壮大な壁画を描かせるという企画案です。議会は承認し、選ばれたのが、この私と、レオナルド・ダビンチでした」

「・・・なんと、ダビンチとあなたが」

「ダビンチをご存知なのですか」

「いや、いささか・・・それで、どうなったのです」

「マキャベリは私たちをフィレンツェ議会の五百人広間に連れ出してこのように申しました。『フィレンツェが独立を保つためには、市民に独立の自覚を促し、国土を自ら防衛しようとする意識を目覚めさせねばならない。これまでのように、傭兵の力に頼っていたのでは、野獣のように恐ろしいフランス軍や、神聖ローマ皇帝の大軍からこの町を守ることはできない。故に、市民にはまず危機意識を目覚めさせ、第二に勇気を与え、第三に戦う意志を植え付けねばならぬ。そこで、ダビンチには正面に向かって左手の大画面を、ミケランジェロには右手の画面を与えよう。そこにかつてない壮大な絵画を描くのだ。千万の敵を前にして一歩も引かず、勇をふるって町のために戦うフィレンツェ防衛軍の姿を描いて見せよ』」

「私は彫刻家でしたし、戦争画にはまるで興味がありませんでした。しかし私は既にフィレンツェの広場にダビデ像を彫って、フランス軍やドイツ軍に立ち向かって独立を保とうとするフィレンツェ市民の意志を表していましたから、マキャベリは私を高く評価して絵を描くように命じたのです。 

 ダビンチはフィレンツェ軍がミラノ軍と戦って勝利したアンギリアの戦い戦闘の場面を大壁画に描こうとしました・・・しかし私はなかなか描けません。そもそもマキャベリの意図に信用出来ないものを感じていたので、画く気にはならなかったのです・・・そこで私は戦闘の図そのものではなく、敵の奇襲を受けてあわてふためく兵士たちの裸体の群像を描きはじめました。するとマキャベリはこれを見て激怒して『こんな絵では戦意高揚の役には立たない!』と私を解雇したのです」

「解雇? あなたを・・・」

「ダビンチもまた解雇されました・・・というのも、彼は絵の具に独自の工夫を加えていたのですが、それが巧く行かず、下絵を描いている段階からヒビが入ったのです。それでマキャベリの計画は中止となりました」

「・・・」

「その後マキャベリはメジチ家に陰謀を企てたとの疑いで隠棲させられました。そこで彼は閑にまかせて、悪名高い『君主論』を書いてメジチ家に差し出しました。見るとそこには国家には独裁的統治者が必要であると記されていたので、メジチ家はマキャベリの存在は便利であると考え、彼を使うことにしたのです」

「マキャベリという人物は、なぜそれほどメジチ家に取り入ろうとしたのですか」

「何しろヨーロッパ一の大富豪でしたし、実質的なフィレンツェの支配者でしたから、自分の意見を政策に活かすためにマキャベリを使おうとしたのでしょう。しかしその頃、メジチ家がフィレンツェの金庫から莫大な金貨を横領したことが発覚し、メジチ家はフィレンツェから追放されました。マキャベリも公職から追われ、野垂れ死に同様にして死んだのです」

「・・・」

「しかし、追放されたメジチ家は滅びませんでした。国外に蓄えていた莫大な財産を資金に何千もの傭兵を雇い、軍隊を組織し、フィレンツェを支配下に治める時期を狙っていたのです。そしてついに彼らは神聖ローマ皇帝カール五世に近づくとイタリア侵略の利を説き、大軍の出動を決意させることに成功しました」

「・・・何たる陰謀・・・自分の町を攻撃させたのですか」

「フィレンツェから追放されたメジチ家はフィレンツェに復讐し、メジチ家を追放した議会幹部を処刑し、自らフィレンツェの王となろうと決意したのです」

「・・・フィレンツェの王となるために、神聖ローマ皇帝なる者まで説き伏せて、自分の町に征服軍を送らせるとは・・・」

「メジチ家の力は恐ろしいものだったのです。カール五世軍と共にメジチ家は手始めにローマを攻撃しました。ローマ教皇クレメンス七世は教皇軍を率いて戦いましたが、敗れ捕虜になりました」

「教皇が、捕虜に・・・」

「そうです。カソリック教会始まって以来の大事件でした。しかしいくらカール五世でもローマ教皇を殺すことはできません。それに、これはとても複雑な話ですが、クレメンス七世はメジチ家出身の教皇だったのです」

「・・・???・・・ローマ教皇が、メジチ家の者だったのですか」

「そうなのです。メジチ家は、金の力で、法王庁にも勢力を張り、教皇の地位も手に入れていたのです。ですからカール五世も教皇を殺すことはできません。そこで取引をしました。教皇はナポリ王国とベニスをカール五世に割譲する代わりに、カール五世はクレメンス教皇とメジチ家がフィレンツェを手に入れるために協力をする。つまりメジチ家がフィレンツェ攻撃をする時に全面的に兵力援助をするという約束です。両者はこうして和解しました。四万の大軍がフィレンツェに向かって進軍を開始したのはその直後の事です」

「・・・これほど恐ろしい陰謀を・・・これまで聞いたことがありません」

「ところが、私の立場は複雑でした。というのは、私はクレメンス七世と幼友達だったのです」

「・・・」

「話は長くなりますが、私はこの攻撃が始まる以前、クレメンス教皇に依頼された仕事をするためにフィレンツェに来ていました。ところが突然教皇軍がカール五世と共に進軍して来ると知って狼狽しました。フィレンツェに留まるべきか、クレメンス七世教皇が待っているローマに戻るべきか、悩んでいたのです。ところが、フィレンツェ議会は侵略から町を守るために市民防衛隊を組織し、事もあろうにこの私を、フィレンツェの防衛隊長に任じてしまったのです」

「防衛隊長! 何故またそのようなことに」

「・・・私はフィレンツェで生まれ、育ちました。ですから私は若い頃からフィレンツェが独裁者の支配する町ではなく、議会が運営する共和国であることに誇りを持っていました。クレメンス七世とは互いに長年の友人ですが、フィレンツェはあくまでも共和国であって欲しかったのです。そこで、私はフィレンツェを守ることに心を決め、壮大な防壁構築に取りかかりました。私は彫刻ばかりでなく、都市計画や城塞建築にも経験がありましたから城壁の構築は得意だったのです。完成した防壁は如何なる大砲の威力にも耐えうる頑丈な防壁でした。町の人々は完成した防壁を見上げて感嘆し、私を歓呼して讃えました・・・ところが・・・私は臆病者でした・・・」

「・・・」

「教皇軍が地平線に現れ、無数の大砲をフィレンツェに向けて備え付け、総攻撃を開始する準備を整えていた時に、私は・・・ベニスへ逃亡したのです」

「・・・何と! 防衛隊長が逃亡とは」

「・・・私は共和国が好きです・・・しかし、キリスト教の最高の地位にあるクレメンス教皇とフィレンツェ市民が戦争するのをこの目で見るのが恐ろしかったのです・・・私は、神を信じている者です。神によってこの大地が作られ、人間はこしらえられました。それが、神の代理に人である教皇とフィレンツェ市民が殺し合いをしようとしている・・・私は恐ろしくて、耐えられませんでした・・・そこで密かに敵前逃亡の罪を犯したのです」

「・・・」

「ベニスに到着すると、四万の教皇軍とメジチ家の傭兵がフィレンツェに猛攻撃を開始したという情報が入りました。ベニスはその噂でもちきりでした。巨大な大砲の砲列が防御壁を昼夜砲撃し、空は黒煙に覆われ、砲弾が炸裂する度に空は真っ黒な雲に覆われ、稲妻が光り、雷鳴が轟いているというのです。私はいても立ってもいられなくなりました・・・町を裏切り、フィレンツェの友人を裏切った男を、神が許してくれるわけがない・・・私はフィレンツェに戻ろうと決めました・・・私は夜陰に紛れて敵軍の隙を突破し、フィレンツェに戻ることに成功しました・・・仲間は私を咎めるどころか歓喜して喜んでくれました。私はすぐさま破壊された防御壁修理に走り回りました。お陰で防御壁は幾十日の砲撃にも耐え抜くことができたのです・・・最早大砲の轟音を耳にしても少しも恐ろしいとは思いませんでした。脱走した時のやり場のない気持ちからすれば、むしろ安らかな気で居られたのです・・・ところが、ある日、突然フィレンツェは陥落しました。市の幹部が教皇と取引をして、城門を秘かに開けてしまったのです。たちまち防衛軍は壊滅状態となりました。逃げまどう市民を皇帝軍は容赦なく攻撃し、路上は死体の山に埋まり、ベッキオ橋の下を流れるアルノ川は血で溢れました。防衛隊に加わっていた主な者は捕らえられて、直ちに処刑されました。私は防衛隊長だったので、当然のことながら暗殺指令が出ました。しかし私は幸いにも捕縛の手から逃げ延び、身を隠しました。そこがこの墓場だったのです」

「・・・」

「なぜ私がこんなところに逃げ込んだのか、あなたは訊きたいのでしょう・・・サン・ロレンツォ聖堂はメジチ家の二代目当主コジモの墓と礼拝堂がありますが、実は私が造ったのです。礼拝堂の彫刻はまだ未完成ですが、エジプトのファラオ像よりも優れていると自信を持っています。この地下室への出入り口は私しか知りません。だから私は追跡者の手から逃れることができたのです」

「・・・なるほどそれで・・・しかし、表に出れば逮捕され、死刑が待っているのでしょう。かといって、いつまでもこのような所に隠れていることも出来ますまい」竹軒がそう言うとミケランジェロは目を落とし、

「実は、そのことで迷っているのです」

「迷うとは・・・一体何を」

「・・・ローマ教皇・クレメンス七世は占領下のフィレンツェ市街に触れを出しました。『ミケランジェロ・ブオナローティに告ぐ。直ちに隠れ家より出て、ローマ教皇に投降せよ。お前の在処は凡そ知られている。もしもこのまま隠れ通そうとすれば、お前はやがて処刑されるであろう。だが、もし直ちに投降し、ローマ教皇の命令に従えば、命は保障される。ローマ教皇の命令とは、第一に、メジチ家の墳墓であるサン・ロレンツォ聖堂の彫刻、モーゼ像、ジュリアーノ像、夜明けから夕暮れまでの四体の彫刻を速やかに完成させること。第二に、サンピエトロ大聖堂に古今東西に比類なき大壁画を描くこと。第三に、サンピエトロ大聖堂のドーム並びに聖堂群を速やかに完成させること。以上の命令に従えば、ミケランジェロ・ブオナローティの生命財産は永遠に保障されるであろう

 ローマ教皇・クレメンス七世」

「・・・降伏すれば命は助かるのですね」

「・・・フィレンツェの友人同志達はみな処刑されました。ですからもしも防衛隊長の地位にあった私だけが教皇の特別の恩赦によって助命されることになれば、共和国フィレンツェに対する裏切り者として歴史に不名誉な名を残すことになるでしょう」

「・・・」

「だから私は、ここから出て捕縛され、潔く処刑されようと考えたこともあります・・・しかし、それは出来ないのです・・・なぜなら、私には成し遂げるべき義務があるからです」

 ミケランジェロは竹軒を凝視した。

「あなたの目に映る私は、死に怯え、飢えに瀕した惨めな男の姿でしょう・・・しかしそれは本当の私の姿ではありません・・・私は、神に選ばれた者なのです。神がこの私を選んだのです・・・あなたは私を気が触れたのではないかと思っているでしょう・・・あなたの目はそのような目をしています。しかし、誰がどう思おうと、私をこの世に送ったのは神なのです・・・あなたには理解できないかも知れませんが、神は私に重大な使命を負わせました。絵と彫刻によって、神の世界を、誰の目にも見えるようにするという大役です・・・二十四歳の時、私は啓示を受けました。

《聖母子像を彫りなさい》

天からその声が聞こえました。私は無我夢中で大理石に取りつきました。そして気がつくと、聖母マリアがイエス・キリストの屍を抱くピエタ像が完成していました・・・神が私に乗り移って作品を造らせたのです。私は鉄の鑿を振るって大理石を彫ったのに、中から生まれたのは、美しい神の肉体だったのです」

「・・・」

「ダビデを彫っていた時も、同様の奇跡が私の肉体に起きていることを感じました。五メートルもの巨大な大理石の固まりを初めて見たとき、この石に鑿を入れダビデ像を完成させるには少なくとも十数年の歳月を要するだろうと思いました。ところが彫り始めると、鑿は何の苦もなく動き続け、たった二年半で完成したのです・・・フィレンツェの広場にダビデ像が建った時、人々は驚愕し『神の奇跡だ!』と口々に叫びました・・・」

「・・・」

「ですから私は、神がこの世に遣わした使者としての役目を負っているのです。その私が処刑されることを神が望んでいるとは思えないのです」

 竹軒は目の前の男の姿に目を見張った。さきほどまで死にかけていた男が、いつの間にか別人になっていた。力にあふれる全身からは白銀のような光を放ち、両眼はランランと輝いている。

 竹軒は目の前の人物がこの世に二人といない特別な人間であることをはっきりと悟った。そこで竹軒は言った。

「・・・あなたが神に選ばれていることは疑問の余地はありません。ですからもはや何も恐れる必要はありますまい。こんな墓に隠れずに、出頭し、堂々と彫刻に取り組むことが神の望むことではないかと存じます」

「あなたのおっしゃる通りです。私は今すぐ、そうするべきです・・・・しかし・・・ある事が私をためらわせています」

「・・・ためらっていると?・・・あなたの言っていることが分かりません。神があなたに使命を与え、クレメンス教皇はあなたの命を助けると布告を出したのですから、何の問題もないではありませんか」

「いいや、事はそれほど単純ではありません。というのは、フィレンツェを独裁国にしようとしてカール五世を動かしたのはメジチ家です。そしてフィレンツェを陥落させたのはクレメンス七世教皇軍ですが、実は、先ほどもお話ししたように、クレメンス教皇はメジチ家出身なのです」

「・・・」

「そればかりではありません。メジチ家は私の命の恩人なのです」

「・・・???・・・」

「私が才能を認められてメジチ家に引き取られたのは十四歳の時でした・・・・それまでは酷い生活でした。父は貧乏貴族でフィレンツェから少し離れた町の町長でしたが、母が弱かったので私は生まれるとすぐに石工の家に預けられ、気付いた時には鑿を片手に石を彫っていました。六歳の時に母が死んで、私はようやく本当の父に引き取られましたが、兄弟といっても知らぬ間でしたから少しも馴染めず、虐められたので、いつも一人で石を彫って自分を慰めていました。ところが父は『石を彫るなどというのは卑しい者共のする事だ。止めないと放り出すぞ!』と私を殴りつけました。しかし他に何も心を楽しませることはなかったので、こっそりと彫り続けたのです。そうしたある日、メジチ家の三代目の当主ロレンツォが私の小さな作品を目にして、『大変な才能だ』と驚き、私をメジチ家に引き取ってくれたのです。父は私がメジチ家に養子同様の扱いで引き取られることになったので有頂天になりました。

 メジチ家には古代ギリシャ神話視野の神々やローマ皇帝などの彫刻や絵画が広間や回廊、庭などに数知れず飾られていました。私は朝から晩までそれらを模写し、古代ギリシャ彫刻を真似て彫りました。メジチ家には私と同年配のジョバンニとクレメンスがいましたが、彼らは私の側で私が彫る有様を熱心に見物していました。

 ジョバンニは祖父の名をとって付けた名ですが、その名に恥じず、聡明な少年でした。そこで彼が十六歳になると、ロレンツォは彼をキリスト教世界の支配者としようと考え、ローマ教皇庁を買収して、ジョバンニを教皇庁の枢機卿に就けました。いくら聡明な少年といっても、たった十六歳の少年が、世界を支配する宗教界最高の地位のメンバーの一人となったのです。私はこうしたメジチ家の横暴に深い疑問を抱くようになりました。そしてその頃からメジチ家は急速におかしくなって行ったのです」

「・・・」

「メジチ家はヨーロッパ各国に莫大な金を貸し付けていましたが、イギリス王などへの貸し付けた金があまりに莫大だったため、英国は借金を踏み倒しました。この為いくつもの銀行が破綻したのです。窮地に追い込まれたロレンツォは赤字を補填するためフィレンツェ共和国の国庫から秘かに金貨を盗み取り危機を乗り越えようとしました。しかしこうしたことが市民の反発を浴びて、ロレンツォはますます追い詰められ、四十三歳の若さで急死しました。コロンブスが新大陸を発見した一四九二年のことでした。二年後、メジチ家はフィレンツェから追放され、私も居場所を失いました。十九歳の時でした」

「・・・」

「それからの私は放浪者のような日々を送りながらあちらこちらの教会の依頼で彫像を彫って何とか生きていました。ところがある日とてつもない話が舞い込んだのです。ローマ教皇ユリウス二世が私を呼び出してこう命じました。

『私のためにエジプトの王の墓よりも壮大な墳墓を造れ』

 ふってわいたような話に驚喜し、一年余り山に籠もって大理石を掘り出してローマに戻りました。ところが教皇は突然『墓の計画は一時中断だ、その代わりシステイナ礼拝堂の天井画を画け』と命じたのです。私は彫刻家ですから絵には興味はありません。そこで逃亡を計りましたが捕らえられ、四年半の間、二十メートル余りの台座に横になって、天井画を描き続けたのです」

「四年半も」

「パンをかじり葡萄酒を呑みながら空中に汲まれた足場に横になって、旧約聖書の物語に登場する三百人余りの人物を描きました。天井画が完成した時の式典は壮麗なものでしたが、出席した人々は天井に描かれた絵を見上げて感激して泣き出す者や卒倒する者もありました。ところが完成式典直後ユリウス二世は急死し、教皇の地位に就いたのはレオ十世、即ち、メジチ家のジョバンニでした」

「あなたと遊んだ少年が教皇になったのですか」

「その通りです。彼は私がユリウス二世に重宝されたのを根に持ち、私に全く仕事をさせませんでした。その傍ら、ローマ法王庁を建築するための資金や遊興費を得るために免罪符を乱発しました。この世でどのような悪行を為そうとも、免罪符を持てば地獄行きは免れるというものです。彼はこの事業によって莫大な利益を得ましたが、このようなやり方が神の怒りを買わぬわけはありません。ヨーロッパ全土に争乱が巻き起こりました。ドイツのマルチン・ルターは宗教改革を唱え、やがてルターの教えを信じる新教徒とローマ教皇を信じるカソリック教徒との争乱は大戦争に発展しました。ヨーロッパはいたるところ戦場となり、あらゆるものが焼き尽くされました」

「・・・」

「こうした失政の責を問われてレオ十世は失脚しました。そして彼の後に教皇となったのが、レオの従兄のクレメンス七世です」

「何と、また、あなたの少年時代の友達が教皇になったのですか」

「不思議な巡り合わせですが、それが事実なのです。クレメンス七世はレオが招いた混乱を収拾しようとしましたが、混乱はおさまるどころかますます昏迷は深まりました。メジチ家はその混乱を好機と見てドイツ皇帝カール五世を説得しました。先ほどお話ししたフィレンツェ攻撃はこうして開始されたのです。

 カール五世率いる新教徒兵と共にメジチ家の傭兵軍はアルプスを越え、イタリアに侵入しました。教皇軍はたちまち敗北してテベル河は血の河となり、クレメンス七世は皇帝軍の捕虜となりました。これがさきほど私が話した大事件です。フィレンツェ陥落後、共和国フィレンツェはメジチ家の独裁国家となり、私は墓場に逃げ込みました。ですから、ここから出て教皇の命令に従うことは、メジチ家に降伏する事を意味します。私が神の使命を受けながらこの墓場から出る決心がつかなかったのも、そうした理由によるのです・・・私はここを出て神に命じられた仕事を為すべきか、それとも教皇に逆らってここで死ぬべきなのか・・・」

 男は蝋燭に灯りをともすと竹軒を促して階段を上って行った。天上の高い広間が目の前に朦朧と広がっている。

「あなたに見ていただきたいものがあります」と男は蝋燭を壁に近づけた。そこに幾体もの彫像が浮かび出ていた。

「これはみな私が彫った作品です。まだ未完成ですが・・・正面は旧約聖書のモーゼ、こちらは曙と夕暮れの神々、あれはクレメンス七世の父・ジュリアーノ・・・」

 竹軒はほの暗い明かりに照らされた巨大な彫刻を驚嘆して眺めた・・・何という偉大さだ・・・このような石像を人間が作れるわけがない。モーゼ・・・神とも人間ともつかぬ預言者は果てしない天地を呼吸しながら人間世界を睥睨しているようではないか・・・長くふっさりと垂れる髭の先端が糸のように細くよじれて輝いている・・・これがこの男が彫ったものなら、この者はまさしく、神の意志に導かれて彫っているのに違いない・・・。

 竹軒はミケランジェロに言った。

「私は、あなたのような方がこの世に存在するとは想像もできませんでした。あなたは間違いなく、神の意志を人間世界に広めるために生きておられる。あなたが皇帝軍やメジチ家の傭兵に殺されなかったのは、神のご加護があったからでしょう。そうでなくて、どうして半年もの間、こんな墓穴で生き延びることができるでしょうか・・・法王庁がどのようにあろうとも、時代がどれほど移り変わろうとも、あなたは神に命じられた崇高な仕事を成し遂げるために命を与えらたのです・・・このようなお方が存在するのは、奇跡です。私のような薮医がわずかでもあなたのお役に立てたことを思うと、無上の光栄を感ぜざるを得ません。どうか決意して下さい。あなたほどの人間は他に誰も居りません。神はあなたが役目を果たす事を待っておられます。あなたは今すぐここを出て、与えられた役目をまっとうしなければなりません・・・どうか、為すべきことを為してください」

 

 ミケランジェロは深く頷いた。彼は鑿を袋に入れ、袋を肩に担いで、右手で竹軒の手を固く握りしめた。

「あなたのお陰で命を取り止めることができました。あなたを墓場に差し向けて下さった閻魔大王も、きっと神なのでしょう。私はクレメンス七世の前に出頭し、為すべきことを成し遂げるつもりです。次に出会う時には私の作品を太陽の光の下でお見せすることができるでしょう」

 気が付くと、ミケランジェロの姿は既に闇に紛れて見えず、竹軒は鬼の背に乗ってフィレンツェの空を飛んでいるのだった。

  この者に 永遠の美を造り出す力を与えたまえ 

  ミケランジェロに 真実の美を生み出す力を与えたまえ

 はるか彼方から天使の声が響いてくる。

<第二十一話 終わり> 著者付記:この作品は「世界美術全集」イタリアルネッサンス編・ミケランジェロ・ブオナローティに関する記述並びに、NHK/NHKエンタープライズ共同制作LD「LAFIRENZE DEL RINASCIMENTO」を参考に創作したものです。