「閻魔庁の籔医竹軒」 第二話 墓穴のミケランジェロ
大きな鬼は無限に続くかとも思える赤黒い廊下を先へ先へと行く。後に従ってゆくと、おぼろな灯りの中に黄金の部屋が輝いていた。
「お連れしました」大鬼が頭を下げると、巨大な机の向こうにいた男がギロリとこちらを見た。竹軒は一瞬たじろいだ。目の前にいるのは平安貴族の装束をした日本人だったからである。その貴族は竹軒をみつめて、
「お前にしてもらいたいことがある。しばらく待て」と言い、席を立った。
それからどれほどの時が流れたのか、見当もつかない。そもそもあの貴族は誰なのか。なぜ閻魔庁にあのような人がいるのか、あれこれと考えたが、何一つわからない。死後の世界にも時間はあるものか、それとも無いのか。
いくら待っても何の沙汰もない。目の前に薬研がある。傍に幾種類もの生薬がある。これで薬を作れというのだろうか。退屈しのぎに竹軒は薬研で生薬をこしらえはじめたが、ふと気が付くと、鬼の背に負われて疾風のようにどこかへ飛んでいるのだった。
「私をどこへ連れてゆくのです」
「墓の中だ」
鬼と言葉を交わせるのは不思議だが、竹軒は何の疑問も感じないのだった。
「墓の中・・・なぜ私をそんなところに連れて行くのです」
「墓の中の病人を診てもらえとの命令だ」
「墓の中の病人・・・はて、墓の中には死人がいるばかり、病人などいる訳がないではないか」
私はこうつぶやいたが、鬼は聞くではなし、黒雲が低く棚引く空をずいぶんと長く飛んで、やがて降り立ったところは石と彫刻で飾られた豪奢な宮殿だった。
「ここで待て」
鬼はどこかへ姿を消した。ややしばらくして、密やかな足音がした。丁髷を結い、羽織袴に小刀を腰にたばさんだ人物が近づいて来た。先ほど閻魔庁で見たのは確かに貴族のようだったが、今目の前にいるのは江戸の国学者のように思える。その人物は竹軒に丁寧に挨拶して、
「閻魔庁から遣わされた本居宣長という者です。閻魔庁の小野篁殿が、あの鬼に案内させるのは難しいだろうからお前が行け、と申されますので、お手伝いに参りました」
「あなたは、江戸時代の国学者、古事記を読み下し文にした本居宣長殿ですか」
「左様。私もあなた同様、生前は医業を営んでおりました」
「日本人であなたの業績を知らぬ者はありません。しかしあなたは数百年も昔に亡くなられたはず、なぜここにおいでになられるのですか」
「それはあなたと同様の理由です。私が死んで閻魔庁に引き出されると、大王は私が生前にした仕事を調べて、『お前は人間として滅多に出来ぬ仕事をしている。いますぐに極楽に送るのは惜しい。まして地獄に送ることは出来ぬ。そこでお前に閻魔庁の仕事をしてもらうことにする。閻魔庁には時間空間というものがない。故に、古今東西の人間が死んで裁きを受けにやってくる。その中には極悪人もいれば、神仏の乗り移ったような優れた者もいる。多くの者はた易く裁くことができる。しかし、中には極めて難しい者もいる。そうした者は後回しになる。従って、裁可を待つ死者は閻魔庁の中は勿論、遥か遠い闇の果てまで続いているのだ。そうした裁可を待つ者の中に、これは、と思える者が混じっている。ミケランジェロという者もその一人だ。この男はまだ死んではいないが、事情があって墓の中に身を隠している。半年も隠れているので、半死半生だ。しかしこの男の命運はまだ尽きておらぬ故竹軒を遣わしたいのだが、付き添いの鬼は事情を十分飲み込めないらしい。そこで、お前を遣わすのだ。お前はすでに西欧の事も随分と勉強しているのだから竹軒に訊かれたら、何なりと教えてやるがよい』とこのように申されましたので、参った次第です。」
「本居宣長殿ほどのお方にお教えいただけるとはこの上ない名誉です。」 二人がこんな話をしながら洞窟の中のようなところを歩いて行くと、真っ白い彫像が目に入った。何か説明が書いてある。本居宣長殿は説明を即座に訳してくれたが、そこには次のようなことが記されているという。
「メジチ家は文化事業に莫大な財産を寄付し、新たな建築様式の開発に貢献したので、フィレンツェは「花の都」と呼ばれ多くの人材が大挙して集まってきた。
しかしフィレンツェの古くからの有力者はメジチ家に敵愾心を抱き、ローマ教皇シクトゥス七世と図ってロレンソとジュリアーノ兄弟の暗殺を強行した。ロレンソは暗殺の剣を危うくかわしたが、ジュリアーノは暗殺者の凶手に倒れた。その子ジューリオは後にクレメンス七世となった。」
「説明にはこのように記されております」
「事情が込み入ってなかなか理解できません」
「最初はそう感じますが、おいおい慣れてきますよ」 数間先に、また見事な彫像がある。書きつけがある。
「メジチ家はビザンチン王国との交流を深めて多くの学者をプラトンアカデミーに招き、古代ギリシャ文明の哲学・文化を解読させ、ヨーロッパに失われていた文化を甦らせた」
「ロレンソという方は大変な人物のようですね」
「いかにも、その傍には更に詳しく記されています」
「メジチ家が創設したプラトンアカデミーは中世ヨーロッパに革命をもたらした。千数百年余りの間、キリスト教は厳しい戒律によって人々の日常・精神生活を縛ってきたが、アカデミーによって翻訳されたプラトン哲学はキリスト教以前の、輝かしいギリシャ文明の息吹を復活させた。 プラトン哲学は人々の心をキリスト教から解き放ち、自由になった人々の喜びは華やかな新時代となって輝いた。メジチ家はボッティチェリ・ダビンチ・ミケランジェロ、バザーリなどを支援し、新しい芸術文化の担い手となった。千数百年もの間、教会はキリストとマリア以外の彫像を造る事を禁止していたが、ルネッサンス到来と共にあらゆるものが芸術の主題となり、ボッティチェリの描くギリシャ神話の女神ビーナスの姿は人々の心を妖艶な美の世界に誘い込んだ。」
「二十歳にしてこれほどの作品を作ったとは、よほどの才能に恵まれた人物のようですが、ミケランジェロというこの人物はどのような教育を受けたのですか」
「誰にも受けておりません」
「では、師はいないのですか」
「生涯、ミケランジェロに師はいませんでした。しかし何物からも影響を受けなかったかといえば、そうは申せません。ここに記されている説明を読めば、ミケランジェロという人物がどれほど変わった人生を送ったか、大よそ分かります」
本居宣長が指さす壁に、次のように記されていた。
1475年フィレンツェの町はずれの貧しい貴族の家に一人の少年が生まれた。その名は、ミケランジェロ・ブオナローティー。彼は六番目の子として生まれ、母が病弱なの理由に一歳の時に石工の家に預けられたが十四歳の時にメジチ家二代目当主コジモに見いだされ、後にレオ十世、クレメンス七世になるメジチ家の少年たちと兄弟のように過ごした。メジチ家には古代ギリシャ・ローマの彫刻が山積みになっていた。ミケランジェロはそれらと触れ合う事によって稀有の才能は研ぎ澄まされ、やがて壮大な芸術を次々と生み出した。
「次の作品はピエタと呼ばれていますが、ミケランジェロ24歳の作品です」 「これほど複雑な作品を24歳の青年が造ったとは」
本居宣長は竹軒を壮大な礼拝堂につれていった。天井に何百という数の絵が描かれている。見上げているだけでめまいがしそうだ。
「この天井画もミケランジェロが描いたのですか」
「如何にも。彼は法王ユリウス二世にこう命じられました。『今、この天井には星空が描かれているが、誰も見向きもしない。崇高であるべきローマ法王庁の礼拝堂がみすぼらしいままに放置されたのは怠慢としか言えぬ。そこでミケランジェロ、そなたに命じる。この礼拝堂に、世界のどこにもない、神の恩寵から生まれたとしか思えぬフレスコ画を描け』」
『お言葉ですが、私は彫刻家です。命じられればダビデ像より壮大な像を彫って見せましょう。しかし画家でもない私に、この大きな天井にフレスコ画を描けとは、あまりにも無体な言いつけではありませんか』
『法王の命令は、神の命令である。もし命令に背けば即日破門する』
ミケランジェロはその夜逃亡したが、2日後に捕まった。父が呼ばれ、息子を説得せよと命じられた。「これ以上法王に反抗すれば、一家親族全て破門される」と父親は言った。しかし天井画を描くためには天井の下に二十五mの桟橋を釣り、その桟橋に横になって作業をしなければならない。誰が見ても無謀としか思えぬ仕事に法王庁の者はみな同情した。だが、ミケランジェロは不可能に思えた創作をたった四年半で完成させた。一つのフレスコ画の高さは二メートル余り、その巨大な絵を三百体、完璧に仕上げたのだ。
完成した天井画を見上げて、ユリウス二世は言った。 「ミケランジェロこそ、神の元から遣わされた使徒である」
「大分驚かれたようですね」
「言葉もありません」
「では、今ごらんになった作品を創作した当人に会いに行きましょう」
「当人?」
暗闇を行くと、巨大な彫像が現れた。
「まさかこの方では」
「これはミケランジェロが創ったモーゼの大理石像です。この床の下にミケランジェロは身を隠しているのです。」
「何も見えませんが」
ここです、この石を持ち上げると、階段になっています。」
いつの間にか最前の鬼が現れて、巨大な床石を軽々と持ち上げた。
「踏み外さないように気を付けて降りてきてください」
二人が階段を下りると、鬼は床を元に戻し、暗闇に身を隠した。
竹軒が真っ暗な階段を下りてゆくと、階段の底は広い地下室でどこかにロウソクがあるのか、ぼんやりとした明かりがあたりを照らしている。
部屋の天井も床も見事な大理石で造られ、中央には特別に美しい石の棺桶がある。『いったい誰がこの中に入っているのだろうか』竹軒が石棺の中を見たい誘惑に駆られたが、宣長は『そこではありません。こちらへおいで下さい』と手招きするので恐る恐る後について行くと、奥まったあたりに蝋燭の明かりが見え、床に死体が横たわっていた。
「この死体のように見える人物がミケランジェロです。閻魔大王はこの男を蘇生させるためにあなたを遣わしたのです。」
「・・・それは・・・私は医者ですから病人なら治療いたしましょう。しかしここに横たわっているのか死人です。死人を治す薬はありません」
「大王の話では、死んだように見えるが、死んではおらぬようです。墓の中に何ヶ月も身を隠して居た為、体が衰え、死んだように見えるのでしょう」
本居宣長がそういうので、竹軒は「死んだように見えるのではなく、まさしく死んでいるのです」と言って振り返ったが、宣長の姿は見えず「よろしくたのみます」という声が遠くの闇から微かに聞こえるばかりだった。
竹軒は途方にくれるばかりだったが、何もせずにいても仕方がない。見るだけ診る事にしよう。そう思って顔を近づけた。
死体はボロを身体に巻き付けて固く丸まっている。だが、胸のあたりをよく見ると、微かに動いている。死んだと思っていたのは間違いだったらしい。
『・・・だが、この男、ミケランジェロという人物はなぜこんなところに隠れているのだろう。・・・考えるのは止めにしよう。こうなったら、私は私の為すべきことを為すばかりだ。』
竹軒はそう決心すると脈を取り、腹診をした。
心下痞の有無、水滞、オケツを調べたが、ぴくりとも動かない。腹は氷のように冷え、虚して、厥陰に近い。やはり、ほどなくして死ぬだろう。治療をしても効能があるとは思えない。・・・だが、本居宣長殿ほどの人物を私に付けてくれたのだから、大王には私に見えぬ物が見えているにちがいない。
竹軒はそう思い、まず、気の生成を促そうと考えて、蝋燭の明かりを頼りにソウジュツ・ニンジン・ブクリョウ・カンゾウ・ショウキョウ・タイソウを薬研に入れ、四君子湯を作ると、これを指先につけて男の口の中に垂らし込んだ。何の反応もない。だが竹軒は執拗に繰り返して男の口に含ませた。少し時間をおいて、腰に下げた瓢箪から水を男の口に含ませてやり、幾度も四君子湯を口の中に垂らし込んだ。すると、男は突然、まるで赤ん坊が母親の乳首をくわえた時のように、ゴックンと飲み込んだ。竹軒はまさかこれほどの効能があろうとは期待していなかったので、仰天して声もなかったが、気を取り直して、もう一度薬を口の中に垂らし込んだ。すると男はゴクリと音を立てて飲み込むと、不意に、目を開けた。
「お前は誰だ」男は竹軒を見て怯えたのか、かすれ声で云った。
「私は医者です」
「医者。お前は俺を暗殺するために法王に遣わされた医者なのか」
「暗殺、いいえ。私はあなたを治すためにきたのです」
「しかし、フィレンツェには私の暗殺指令が出回っているぞ」
「そのような事は知りません。私の役割は、あなたを蘇生させる事です」
「ほんとうか」
「あなたは長い間このような恐ろしい墓の中に身を隠していたために病が高じて死人のようになってしまいました。これを見て、閻魔大王が私を遣わしたのです」
「大王とは、どこの国の王侯か、まさかカール五世では・・・」
「私を遣わしたのは閻魔庁の大王です。無論、信じる信じないはご自由ですが、こんな墓場に隠れているのですからあなたにも余程の事情があるのでしょう。仔細は何もお聞きいたしません。しかしこのままでは死も免れませんから、ともかく薬をお作りしましょう」
竹軒は薬研にジオウ・トウキ・モクコウ・シャゼンシ・タクシャ・カンゾウ・サンシシ・リュウタンを入れてごりごりと磨り合わせ、竜胆瀉肝湯を作り上げた。
「あなたはあまりにも長い間小水を我慢しているので、体内に水と熱が溜まり、尿路や大腸に支障を来しています。そのような時には竜胆瀉肝湯が奏功します」
「・・・」
「これは毒薬ではありません。もし苦しみから逃れたいならお飲み下さい」
竹軒が差し出すと、男はためらっていたが、やがて思い切ったように飲み干した。するとたちまち効能が現れたのだろうか、それまで死人と区別がつかぬほど弱弱しく見えた男は、突然ぬっと立ち上がり、よろめきながらどこかへ消えた。
『小用を足しに行ったのか、それとも、やはり、暗殺を恐れて逃げ出したのか・・・まあ、私の知ったことではない。だが、診る所、男は便通にも不具合があり、痔出血に悩まされているようだ。その薬だけでもこしらえて置いて行くことにしよう』
竹軒は薬研にジオウ・シャクヤク・トウキ・カンゾウ・センキュウ・アキョウ・ガイヨウを入れ、磨り合わせると芎帰膠艾湯こしらえて、さあ、為すべきことはやり終えた。そのうち本居宣長殿か、鬼が迎えに来るだろう。竹軒はほっと溜息を吐いて辺りの暗闇を見回した。しかしいくら待っても何の気配もない。どうしたことだ、竹軒は困惑して蝋燭の燭台を取り上げ、あたりを見て回った。
壁に絵が描いてある。身をくねらせた女の裸体、苦悶に満ちた男の顔、ねじれた胴体・・・こんな絵を誰が描いたのか・・・竹軒が見つめていると、どこからか奇妙な詩が聞こえてきた。
何も見ず 何も聞かず ただひたすら眠るべし
眠ることこそ我が救い 石になるは更に良し
恥辱と罪業に覆われたこの世界に
何を今更求めることがあろうか
ああ、私の眠りを妨げるな
我を永遠の安らぎに導きたまえ
暗闇に足音が微かに響いて、階段を男が降りてきた。
いまの歌はこの男が口にしたのだろうか・・・この人物の心にはどれほど深い悲しみの闇が宿っているのか、竹軒が考えていると、男は竹軒を深々と見つめ、ほのかに微笑した。
「何ヶ月ぶりで用便をすることが出来た」と男は云った。
「・・・何か月・・・よくも死なずにいられたものだ。しかし何故あなたは」竹軒は訊こうとしたが、男が機嫌を損ねるのを恐れて口ごもった。というのも、竹軒の前の男の顔はこれまで見たこともない悲哀と怒りに満ちていたからである。
フィレンツェの悲劇
竹軒が薬研を片付けていると、男は壁の隙間からパンとワインを探り出して蝋燭の光の中に置いた。
「飲んでください」と男は思いかけないほどやさし気な声でそう言い、パンを差し出し、自分も口の中に押し込んだ。
「これまで何一つ食べる気にもならなかったのですが、あなたの薬を飲んだら急に空腹になりました。こんな気持ちになったのは、何ヶ月ぶりか、思い出せないほどです」
「しかし、このように暗い墓場のようなところに身を潜めるとは、余程の事情がおありなのでしょう。それに・・・あなたは私を暗殺者と間違えた。ということは、誰かがあなたを殺そうとしているのですか」
竹軒がこう訊くと、男はため息をつきながら頷いた。
「敵は私の暗殺指令を出しました。先ほど申しましたように、フィレンツェの国中に手配書と暗殺指令が出回っているのです」
「暗殺指令・・・いったい、そのような命令を、誰が出したのですか」
「それは・・・私の幼友達であり、私の敵でもあり、また、ローマ教皇でもある、クレメンス七世です」
「ローマ教皇・・・クレメンス七世・・・さきほどジュリアーノ・ディ・メジチの説明にその名があったようですが・・・聞いただけで恐ろしい権力者である事は分かります。そんな大それた人物に命を狙われているとは。私は本居宣長殿からシステイナ礼拝堂天井画はミケランジェロが描いたと申されていましたが、まさか、あなたがあの傑作を描いたのですか」竹軒がこう言うと、
「はい、私が描きました」と、男は呟いた。
「あれほどの仕事をやり遂げたお方が、なぜ暗殺指令を出されたのか、私には一向に分かりません。もしよろしければ、事のいきさつをお聞かせいただけませんか」竹軒がこういうと、男は大きな吐息をついた。
サン・ロレンツォ聖堂の墓の中で竹軒がミケランジェロと交わした会話は次のような次第だった。
花の都・フィレンツェの終焉
「私が地獄のような墓に閉じこめられているのは、私が多くの友人を裏切り、私の共和国、フィレンツェを裏切った報いなです」
「しかし、あなたは友人たちを裏切るような人間にはみえませんが、なぜ裏切ったりしたのです」
「それを分かっていただくのは難しい・・・というのは、あまりに事が複雑に入り組んでいるので、どこからお話ししてよいやら」
「複雑とは、どのように」
「何もかも、あらゆる事が複雑です。第一に、この墓のある場所そのものが複雑です」
「・・・」
「ここはメディチ家の礼拝堂であり、墓なのです」
「いかに絢爛豪華にこしらえても、やはり墓地は墓地、この云うに云われぬ不気味な臭いと、石の冷たさが死者の苦しみを示しています」私がこういうと、ミケランジェロはやせ衰えた顔を私の方に突き出して、
「では、お尋ねしたい。この墓を誰が設計し、造ったか」
「そのようなこと、分かる道理がありません」
「そうでしょうとも・・実は、この墓を造ったのはこの私です。なぜなら、私はメディチ家の彫刻家だったのです。今でこそメジチ家は独裁者になりましたが、私が養子になった頃はそうではありませんでした」
「・・・」
「ヨーロッパ全土を見渡しても、メジチ家に匹敵する家はありません。メディチ家のジョバンニ・ディ・ビッチはフィレンツェというイタリアの一地方の町を、たった数十年で、世界第一の富裕な都市にしたのです。ジョバンニの息子たちはあり余る富を学問も芸術と振興に費やしました。メジチ家が造ったフィレンツェアカデミーは分裂したヨーロッパを数百年ぶりに元にもどしました。ビザンツ帝国はもともと東ローマ帝国と呼ばれていましたが、八世紀に東西ローマ帝国が一つの帝国になり、大帝国ができたのです。メディチ家はこのビザンツ帝国とヨーロッパを芸術・学問・哲学によって結び付けようと考え、そうすることに成功したのです。これほど大きな夢をたった一つの家が実現することができたということは、メジチ家がどれほど大きな財力とヨーロッパ全土に於ける影響力を持っていたかを示しています。しかしその力は王侯貴族の権力とは異なり、あくまで富による支配でした。ですから富を失うと同時に、メジチ家は滅亡したのです」
「それほど大きなメジチ家が滅亡してしまったとは信じがたい事です」
「私もメジチ家に育てられましたので、そのような日が来ようとは夢にも思ったことはありません。しかし、その日は突然やってきたのです。メジチ家は莫大な金をイギリスに貸していましたが、イギリスは当時貧しい国でしたので、借金を返済することが出来ず、踏み倒しました。これによってイギリスのメジチ銀行は破産に追いやられ、その影響を受けたヨーロッパ各地のメジチ銀行は連鎖倒産してしまったのです」
「全てのメジチ銀行が倒産したのですか」
「そうです。すると、恐ろしいことが起こりました。フィレンツェの富豪や勢力者たちはメジチ家に深い嫉妬心を抱いておりましたから、破産したメジチ家は国外へ追放されてしまったのです」
「一つの時代を築いたメジチ家を追放するとは、信じがたい事です」
「まことにその通りです。そしてその事がフィレンツェの滅亡の種となったのです。メジチ家は破産して国外追放になりましたが、ヨーロッパ各地に莫大な富を隠し蓄えていました。そこで生き延びたメジチ家はフィレンツェに復讐を誓い、何千という傭兵を雇ってカール五世と共にフィレンツェ攻撃に乗り出したのです」
「・・・」
「この時フィレンツェに居たクレメンス七世はフィレンツェ防衛のために戦う準備を整えていましたが、百戦錬磨のカール五世の前では赤子同様、たちまち捕虜となりました。しかし捕虜とはいえ、クレメンス七世はローマ法王ですから、殺すことはできません。そこでカール五世とクレメンス七世は密約を結んだのです」
「その密約とは」
「カール五世にはベニス王国を支配させ、クレメンス七世はフィレンツェを支配すると」
「・・・・」
「こうして二人の権力者は四万の軍隊を動かしてフィレンツェ攻撃を開始しました。そしてフィレンツェが降伏すると、クレメンス七世はフィレンツェの支配者となったのです。フィレンツェはこの町が出来て以来、議会によって運営されしていましたが、この時からクレメンス七世の独裁国となってしまったのです」」
竹軒は混乱した頭を整理しようと目を閉じていた。ミケランジェロはワインを一口のみ、蝋燭の明かりに薄く目を閉じて深いため息をついた。
墓場の臭いが一層強く鼻を突く。どこかで不気味な足音がする。まさか幽霊がいるわけではあるまいが、ここにはそんな気配が充ち満ちている。竹軒は耳を兎のように立てて、息を止めた。蝋燭の明かりはあまりにも弱く男の苦渋に満ちた顔の他は何も見えなかった。
竹軒は心臓の鼓動を聞きながら口を開いた。
「私は一介の医者ですから世間のことには疎いのです。しかもあなたの話は複雑なフィレンツェの話ですからとても理解ができません。けれどもあなたの顔を見ていると、あなたを追い詰めた事情がのっぴきならぬものであったに相違ないというぐらいのことは分かります。まして、あなたを暗殺しようとしているのは義兄弟のようにして育ったクレメンス七世であり、あなたが身を隠しているのはメジチ家の墓の下なのですから、信じられないほど恐ろしい話です」私がこう言うとミケランジェロは、苦しげに顔をゆがめて、
「私とフィレンツェの苦悩は誰にも分かりません。私の義兄弟が花の都を独裁国にしてしまったのですから」
ミケランジェロはパンを乱暴にむしり取ると、欠片を口の中にほうり込んだ。と、その時、暗闇の中で秘かな足音がして、気味悪い声が響いてきた。
恥辱と罪業に覆われたこの世界に
何を今更求めることがあろうか
ああ、私の眠りを妨げるな
我を永遠の安らぎに導きたまえ
男は青ざめて身を退り、壁に背を押しつけて震えている。竹軒も恐ろしさに身を固くしながら息をするのも忘れていた。
その声は次第に小さくなり、不気味な足音と共に消えてしまった。
「・・・いったい、あれは何です。ここには幽霊がいるのですか」竹軒が押し殺した声で訊くと、
「そうですとも。あれは怨みを抱きながら処刑されたフィレンツェ市民の魂が彷徨っているのです」
「しかし、なぜ、この墓場を彷徨うのです」
「それは、あの者たちを殺したのは、この聖堂を造れと私に命じたメディチ家だからです」
「メディチ家は偉大な家だったのに、最後は独裁者となってフィレンツェの人々を処刑したとは、、」竹軒が言葉を失ってため息をついた。ミケランジェロは闇の奥を長い間見つめていた。
ミケランジェロ・ダビンチ・マキャベリの生きた町 フィレンツェ
深い闇夜が続いた。墓の下に日の光が差し込むことはなかったがやがてミケランジェロは気を取り直して、思い出を語りだした。「私が少年だったころ、フィレンツェの町の中央にはギベルティが二十年の歳月をかけて造った『天国の門』が飾られていました。フィレンツェの人々は老いて死ぬとその黄金の門を通って天国に生まれ変わると信じていました。いいえ、死ぬ前から、この町はその名にふさわしい、花のように美しく、香りにあふれた夢の町でした・・・私はフィレンツェ市議会の要請を受けてダビデ像を彫りました。その同じ時、このフィレンツェにダビンチが居たのです。ダビンチはミラノで『最後の晩餐』を仕上げると、マキャベリに要請されて、フィツェに移り住み、議会の壁に大壁画を描いたのです。私とダビンチが左右の壁一面に、大競作でした。
その頃、ラファエロはマドンナを画いていました。ああなんと美しい時であったろうか・・・あのような時が永遠であったなら・・・私はあまりにも輝かしい時の中に身を没していたので、そのような栄光の時が永遠に続くのだと錯覚していました・・・ところが何もかもが幻影だった」男は己の髪をかきむしった。
「・・・」
「 あなたには分かりますまい。あれほどの繁栄、人々の喜び、栄光、美の竟宴が、幻のように消え失せた時の絶望と苦しみを・・・何もかもが無くなってしまった。フィレンツェの自由も富も栄光も・・・しかし、今から思えば、フィレンツェの人々が美しい夢を見ていた時、フィレンツェの周囲には飢えた野獣がひしめいて、隙を窺っていたのです。フランス、ドイツ、スペイン、イギリス、トルコ、みんなどん欲な野獣の国です。彼らは互いに戦争を繰り返しながら獲物を狙って、侵略の刃を研ぎ澄ましていたのです。そしてメジチ家がフィレンツェから追放されると、彼らは侵略の時がいよいよ近づいたと大喜びしました。しかしフィレンツェの危機に気付いたのは、ただ一人マキャベリでした。マキャベリはフィレンツェを侵略から守ろうとして、市民防衛軍を組織しようとやっきになりました。しかしフィレンツェ市民はマキャベリの声に耳を貸さず、バッカスの酒を飲み、快楽の時を過ごしていたのです」
「・・・」
「野獣たちの統領、神聖ローマ帝国の皇帝カール五世はフィレンツェが食べ頃の豚のようになってまどろんでいると知ると一斉攻撃を決意しました。カール五世とクレメンス七世の同盟軍は数か月の攻防戦の後、終にフィレンツェを陥落させました。しかも、メディチ家は皇帝との密約によって、カール五世に莫大な戦費を支払い、フィレンツェを乗っ取ったのです」
幸運なひと時
「しかし、考えてみると、こうなったのも夢だったのです。フィレンツェはもともと目立たない田舎町でした。メジチ家は代々の薬売りで、王侯貴族とはまるで縁がなく、町の片隅に小さな店を持ち、主人は薬を担いで他の町を訪れ、薬を売り歩いていたのです。
ところが、今から百年ほど前にジョバンニ・デ ィ・ビッチが当主となりました。そして彼の力によってフィレンツェはたった一代で、世界で最も豊かな都市になったのです」
「ジョバンニという人物はなぜそんな事が出来たのですか」
「ジョバンニは家業を継いで薬を売り歩いていましたが、ただの薬売りでいることに満足しませんでした。彼は各地を旅しながら、町々によって品物の値段に相違があることに着目しました。それから商売で儲けた現金を持ち歩いて旅をしていると強盗に襲われて見ぐるみはがれるという悲惨な目に遭う事を自ら体験しましたので、現金を持たずに商売をする方法はないだろうかと考えました。そして彼はとうとうその手段を発見したのです。それは為替取引という商法です。為替取引で商品を売れば薬を売る者と売った者との間に商取引が成り立ちます。もしもその為替を強盗が奪って、為替を金にしようとして銀行に行けば、たちまち捕まってしまいます。ジョバンニはこうして商取引を安全なものにしました。しかし彼が為したことはこれだけではありません。ジョバンニは為替差益を利用して莫大な富を得たのです」
「・・・」
「ジョバンニは各地の為替差益を利用して一代でヨーロッパ随一の大富豪になりました。一つの国以上の富を自在に動かしていたのです」
「あまりにも話が複雑で理解できませんが・・・一つの家が、ヨーロッパ全土を支配していたのですか」
「その通りです。金持ちというにはあまりにも大きな財宝を持ちすぎていました。その財宝はあまりにも大きく、フランスやイギリス一国よりも莫大であったため、ローマ法王はメディチ家を破門しようと決意しました。もしも破門されれば人間世界から追放される事を意味しますから、生きては行かれません。しかしジョバンニは天才でした。破門から逃れるため、時のローマ法王ヨハネス23世に蓄財法を伝授したのです」
「・・・」
法王が全世界から集まって来る莫大な金を一時ジョバンニに預けると、ジョバンニはメジチ家の情報網を駆使して有利な為替取引をして莫大な利益を手にし、法王にその金を届けました。こうしてメジチ家は破門を逃れ、法王も財宝を手にしたのです」
「・・・」
「二代目コジモはジョバンニが蓄えた金銭を湯水の如く使って政界に進出し、三代目ロレンツォはフィレンツェアカデミーを建てて、全世界の学問に光を当てました。それまで知られなかった古代ギリシャの哲学、プラトン哲学はこの時に翻訳され、全ヨーロッパに広がって、ルネサンスが生まれたのです。プラトン哲学こそが、ルネサンスの生みの親だったのです。それまでキリスト教によって禁じられていた裸体画やさまざまな神々の姿が描かれるようになったのも、プラトン思想の影響なのです。こうした次第ですからロレンソは千年間も埋もれていた学問を再興させた大功績者ともいえましょう。しかしこうした事が出来たのも、彼が全ヨーロッパの銀行を通じて、巧妙に為替取引をしていたからです。彼はその富によってフランス王も羨むような贅の限りを尽くした暮らしをしていましたから、諸国の王侯貴族から『豪華王』と渾名されました」
「・・・」
「豪華王という言葉の意味を理解するためにはベッキオ宮殿を見ればわかります。世界中であれほどの贅を尽くした空間は他にありません。宮殿全体が古代ギリシャ・ローマの彫刻で埋め尽くされています。しかし誤解を解くために申し上げておきますが、メジチ家は金儲けに終始していたわけではありません。アカデミーの建設も大きな功績ですが、貧者の救済や、捨て子問題の解決のために尽力したりしたのです」
「捨て子問題とは?」 「当時、尼僧院や修道院はいたるところにありました。そして男女がいるかぎり、子が生まれます。しかし神に仕える者が子を持つことは許されません。そこで毎年野や山に大勢の赤子が捨てられたのです。これはフィレンツェばかりではなく、キリスト教世界全体の大問題でした。そこでメディチ家は捨て子のために養育院を創りました。養育院は独特の構造になっていて、赤子を預けたいという母親がその入り口に近づくと、養育院の入り口の回転式のドアが開き、台座に乗った籠が出てきます。母親が台座の籠の中に赤子を入れて鐘を鳴らして立ち去ると、養育院の者が台座を回転させて赤子を受け取ります。この方式は母親が顔を見られることなく預ける事ができるので急速に発達しました。」
「何という智慧でしょうか」
「それから、彼らはそれまで禁じられていた裸体画を自由に描けるようにしました。プラトン哲学の普及によって、裸体のビーナスの絵やダビデ像を造る事が可能になったのです。メディチ家がなかったら、ルネッサンスも生まれず、ボッティチェリの描く女性の裸体美もなかったのです」
メジチ家のミケランジェロ
「私は今、メジチ家のクレメンス七世に追われる身ですが、先ほどもお話ししたように、私はクレメンス七世と共にメジチ家の宮殿で育ったのです」
「あなたはメディチ家の一族だったのですか」
「いいえ、私の一族は貧乏貴族で、母は身体が弱く、乳の出も悪かったので、生まれるとすぐに石工の家に預けられ、引き取られたのは母が死んだ時でした。ですから当時の私にはメディチ家は雲の上の神よりも遠い存在だったのです。」
「・・・」
「ところがある日、メディチ家の二代目当主ロレンツォが騎馬で通りかかった時、家の前に並べていた私の彫刻に目を止め、私をメディチ家に引き取りました」
「では、もしその時ロレンソという人物が通りかからなかったら、その後のあなたの運命は全く違ったものになっていたのですね」
「そうです。私の全ての作品は生まれなかったでしょう。つまり、ダビデを彫ったミケランジェロは居なかったのです」
「何という運命・・・それでロレンソはあなたをどのように扱ったのですか」
「ロレンソは私を自分の息子たちと同じように愛し、育ててくれました。メディチ家の養子になったと同じことです。そしてそれが私の生涯を決定づけました。私はメディチ家の収拾した彫刻や絵画を朝から晩まで模写し、古代ギリシャ彫刻を真似て彫りました。メディチ家には私と同年配のジョバンニとクレメンスがいましたが、彼らは私が大理石を彫る様子を笑って眺めていました。勿論、ジョバンニやクレメンスが将来ローマ教皇となろうとは想像もしませんでした」
「つまりあなたの義兄弟がローマの支配者になったのですね」 「そうですとも。ジョバンニはレオ十世となり免罪符を売りつけて悪名を轟かせ、宗教戦争の種を蒔きました。そしてクレメンス七世はカール五世と共にフィレンツェを攻撃して破滅させ、私の暗殺指令を出したのです」
竹軒はミケランジェロの話を聞きながらフィレンツェについていささかでも知ることは不可能なのだと悟った。魑魅魍魎という言葉があるが、まるで無数の蛇が絡み合って互いに食い合っているように、誰が味方で敵なのか少しも分からない。昨日の敵は今日の友、という諺があるが、昨日の兄弟が、暗殺指令を出す敵になろうとは・・・。
私が黙り込んでいると、ミケランジェロはワインを口に含み、パンを乱暴に噛み切りながら、
「クレメンスは私を殺せと命令しましたが、その命令以上に私を恐怖させたことは、フィレンツェ市民が私を裏切り者と呼んでいた事です」
「・・・」
「なぜかと云えば、私の立場は複雑で、とても理解していただけないでしょうが、私は仕事のためフィレンツェからローマに出向いていました。ところが教皇軍がフィレンツェを攻撃する直前、私はクレメンスの依頼した仕事のためにフィレンツェに戻ってきました。その時クレメンス七世とカール五世の連合軍四万はフィレンツェ攻撃の準備を着々と進めていました。それまで酒におぼれていた市民もさすがに目を覚まし、防衛軍を組織しましたが、しかし私が仰天したことは、フィレンツェ市議会が私を防衛隊長に任命した事です」
「まさか、あなたがフィレンツェの防衛隊長とは」
「考えてもごらんなさい。フィレンツェはメディチ家で富裕になり、私はメディチ家で育てられたのです。そのメディチ家出身の教皇はフィレンツェを追放され、今はカール五世と共にフィレンツェ攻撃を開始している。他方、メディチ家に大恩があるこの私は、メディチ家の教皇の攻撃からフィレンツェを防衛するための隊長になったのですよ、これほど滑稽な悲劇は他にありますか・・・いくら私にフィレンツェを守れと言っても、相手は皇帝とクレメンスの合同軍四万、その大軍が大砲をそろえてフィレンツェを取り巻き、対するフィレンツェにはマキャベリが組織した粗末な兵力しかなかったのです。・・・私は決断を迫られました。私の今日あるのはメディチ家のお陰です。そのメディチ家のクレメンス七世は義理の兄弟同然です。そのクレメンスは私に手紙を送り、彼の元に戻れと命じています。しかし、彼の元に帰ることはフィレンツェを裏切り、同時に共和制と決別することを意味します。しかしもしもフィレンツェに留まり、防衛隊長の任務に当たれば、メディチ家に対する反逆となり、クレメンス七世の怒髪は天を突くでしょう」
「・・・」
「私は身動きのならぬ罠にはめられたようでした。いずれを選んでも、私には裏切り者の汚名が待っていたのです。しかし、私は、共和制を取ることに決めました。独裁者のもとでは自由はない、そう思ったからです。私は頑丈な防壁を構築しました。それは如何なる大砲の威力にも耐えうる設計でしたし、事実、防壁は砲撃にも耐えることができるはずでした。しかし・・・私は開戦直前、望楼に上って絶望しました。先日見た時にはさほどの数に見えなかった敵は、今や目の届く限り、山も野も埋め尽くしているのです。そして敵の砲門は今にもフィレンツェに向かって発射するばかりに準備を調えているではありませんか。私はこの光景に震えあがりました。そして我を忘れ、責務を放り出してベニスに向けて逃亡したのです」
「・・・何と、防衛隊長が逃亡するとは」
「私の後を追うように、教皇軍がフィレンツェを総攻撃しているという情報がもたらされました。巨大な大砲の砲列が防御壁を昼夜砲撃しているというのです。私はこれを聞いて罪の深さを思い知りました。四万のフィレンツェ市民を砲弾に曝して、自分だけがのうのうと生き延びようとしている。
ミケランジェロは首を垂れ、神に祈りをささげた。
「我が神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が、私に勝ち誇らないようにしてください。まことにあなたを待ち望む者は、誰も恥を見ません。
故もなく裏切る者は、恥を見ます。(旧約聖書・ダビデによる詩編25)
私は我に返りました。「このままでは私は永遠に恥さらし者になってしまう」私は息根が止まるほどの恐怖を感じました。私は無我夢中で馬にムチ打ち、その夜のうちに敵軍の戦列の隙を突破し、フィレンツェに戻ったのです」
「・・・」
「止むことのない砲声を聞きながら、私は防御壁に寄りかかって、ようやく息をすることができるように感じました。裏切り者の汚名を着せられて生きながらえるより、敵の砲声を聞きながらフィレンツェで死ぬほうがどれほど安らかでいられるか、はっきりと分かったのです。ところが、思いがけないことが起きたのです。私が戻って間もなく、突然フィレンツェは陥落したのです。フィレンツェの有力者が教皇と取引をして城門を秘かに開け、敵軍を導き入れて一夜にしてフィレンツェは敵軍で満ち溢れました。防衛軍は壊滅状態となり、防衛隊に加わっていた主な者は捕らえられ、処刑されました。そして防衛隊長の私にも暗殺指令が出されたのです。しかし私はフィレンツェの隅々まで知り尽くしていたので、安全な場所に身を隠しました。それが、メディチ家の墓場だったのです。しかし早晩ここも見つかるでしょう。」
「・・・では、あなたはどうするおつもりです・・・」
「一つだけ道が残されています」
「その道とは?・・・」
「・・・ローマ教皇に降伏することです。クレメンス七世は占領下のフィレンツェ市街に新たにお触れを出しました。 『ミケランジェロ・ブオナローティに告ぐ。直ちに隠れ家より出て、ローマ教皇に投降し、我が命令に服せ。さすれば罪を問うことはない。お前の在処は既に知られている。もしもこのまま隠れ通そうとすれば、お前は日ならずして処刑されるであろう。直ちに投降し、ローマ教皇の命令に従うのが唯一の道だ。
ミケランジェロの投降
命令は次の三つである。第一に、メディチ家の墳墓・ロレンツォ聖堂の彫刻、モーゼ像、ジュリアーノ像、その他を速やかに完成させよ。第二に、サンピエトロ大聖堂に古今東西に比類なき「最後の審判」の大壁画を描け。第三に、サンピエトロ大聖堂のドーム並びに聖堂群を速やかに完成させよ。以上の命令に従えば、ミケランジェロ・ブオナローティの生命財産は永遠に保障されるであろう。ローマ教皇・クレメンス七世」
「では、命に復するつもりですか」
「・・・もしこの命令に従わず逃亡を図れば、やがて逮捕され処刑されるでしょう」
「・・・」
「処刑されれば、神が私に託した才能は無に帰してしまう」
「・・・」
「私はあなたと話しながら分かりました。私の使命をはっきりと悟ったのです」
「・・・」
「私は神に使命を託された者です。聖母マリアが抱くキリストのピエタ像を彫っている時、私は、私の中に神が乗り移ったのを感じました。大理石を鑿で彫っているのに、大理石から生まれたのは、生々しい神の肉体だったのです。ダビデを彫っていた時もまた、同様の奇跡が私の内部に起きていることを感じていました。五㍍の巨大な大理石の固まりを初めて見たとき、これに鑿を入れ、フィレンツェを象徴するダビデ像を完成させるには少なくとも十五年の歳月を要するだろうと思いました。ところが彫り始めると鑿は何の苦もなく動き続け、たった二年半ほどで完成したのです」
「・・・」
「フィレンツェの広場にダビデ像が建った時、人々は驚愕し、これは神の奇跡だ、と叫びました。そして私もそう感じたのです。それ故、私は、神に遣わされた使者としての役目も負っているのです。その私が処刑されることを、神が許すはずはありません」
「では、あなたは、心を決めたのですか」
「はっきりと分かったのです。私は彫刻するためにこの世に生まれてきました。しかし、彫刻を完成するためには、神が与え給うた才能だけではどうにもなりません。才能は生きた人間に宿るのです。
「・・・」
「先ほどまで、私は、ここを出ることは恥辱であり、敗北だと考えていました。しかし今、そうではないと分かりました。私の為すことは、余人には出来ません。私に命令することは出来ても、私の代わりに鑿を振るい、絵を描くことは出来ないのです。私がメディチ家の墓に彫るモーゼには、神が宿るでしょう。私は奥の院に、全ての人間の罪業を明らかにする『最後の審判』を描きます。神の前では、私も教皇も小さな罪人に過ぎません。私は、神の意志に従って、私の身を捧げるつもりです」
ミケランジェロ・ブオナローティはこう云うと、鑿の入った袋に手を伸ばして立ち上がった。私はこれを見て、
「どうかこれをお持ち下さい」と薬袋を差しだした。
「この中には先ほどの薬の他に、麻杏薏甘湯が入っています。いつか役に立つことがあるでしょう」
竹軒がこう言うと、ミケランジェロは袋を受け取り、暗い階段を上って行った。
この者を永遠の安らぎに導きたまえ
サタンの誘惑から逃れた勇者に祝福あれ
どこからともなく、天使のような声が響いてくる。