「閻魔庁の籔医竹軒」 第十九話  盛遠 (もりとお)    (32番・人参湯)

  冬は山伏修行せし 庵と頼めし木の葉も紅葉して 散り果てて 空寂し

  褥と思いし苔にも 初霜雪降りつみて 岩間に流れ来し水も 氷けり

 薬研で生薬を磨っていると、尼姿のやせ細った女が消え入りそうな声で歌いながら鐘を鳴らしてやってくる。

 

  百日百夜はひとり寝と 人の夜妻は何せうに 欲しからず 

  宵より夜中まではよけれども 暁鶏鳴けば床寂し

 これは奇妙なこともあるものよ。地獄で尼が修行歌を詠むのもおかしなことであるのに、男が他人の妻を恋したう歌を尼が歌っているとは、如何なる子細があるのだろう。訝しんでいると、尼は庵にふらふらと入ってきて、

「あなた様はお医者と聞きましたが」と訊いたが、その言葉は上品ではあるが、何か決意した者だけがもつ秘めた強さのようなものがある。しかもその肩には山のように束ねた綱を背負っているのだ。見るからにひ弱くて、今にも倒れそうな姿であるのに、何故にこのような途方もない縄を背負っているのだろう、ますます不審に思い、

「どうなさいました」と竹軒が尋ねると、

「遠いところから参りましたので、くたびれ果てて、もう足が進みません」

「それはそれは・・・どうぞ庵の中でゆっくりとお休みください」

「ご親切、ありがとうございます。でも、為さねばならぬことがござりますので、休んでいるわけにはまいりません。どうか、何ぞ良い薬をご処方いただけませんでしょうか」

「・・・お作りいたしましょう・・・その間、まずはこちらでお待ち下さい」

 竹軒はカンゾウ・ソウジュツ・ニンジン、これにカンキョウを混ぜて磨り合わせて人参湯をこしらえ白湯に溶いて飲ませると、女は少し気が晴れたのか笑顔を見せて、すぐ立ち上がり、「ありがとうございました」と丁寧に礼を言って外に出ようと足を踏み出したが、二三歩するとよろよろと倒れた。

「これほどにお悪いとは・・・やはり少し休んで行きなされ」竹軒は女を庵に運び込んで、介抱することにした。

 しばらくして女は正気を取り戻したので話を聞いてみると、信じられないことではあるが、女は極楽から綱を伝って下りてきたのだという。地獄から極楽へ誰しもが行きたいと望んでいるのに、何故にそのようなことを、と訝っていると、

「恋しいお方に会うためでござります」

「恋しい・・・そのような男がここにいるというのですか」

「いいえ、閻魔庁にはおりません」

「では、どこにいるというのです」

「今は地獄の底においでです。私は、あの方をどうしてもお救いしたいのです」

「地獄から救う? どうやって救い出すというのです」

「この縄を投げてあの方を引き上げるつもりです。これは私の髪の毛を編んだものですから、きっとあの方は私が救いに来たと分かって、綱を頼りに上って来て下さるでしょう」

 これはいよいよ正気ではない。極楽から下りてきたという話も奇妙だが、地獄に堕ちた者を自分の髪の毛を編んだ綱ですくい上げるという考えも、到底まともな者が思いつく話ではない。竹軒はいささかあきれ果てたが、しかし、どう見ても女の目は狂気の者のそれではない。それに・・・美しい。これほど美しい女に出会った記憶がない。雲上菩薩とはこのようなお方を申すのであろう。そのような美女が極楽から下りてきて、あろう事か奈落の底の地獄から恋しい者を救いたいと云う・・・一体、その相手とは・・・竹軒は興味をかき立てられて、

「そもそもあなたはどのようなわけでその男を救いたいのですか」と訊ねた。

 女は少しためらっていたが、

「あの方は、私の首を切り取って、逃げたのです」

「・・・」

「実は、私の夫の首を取るつもりだったのですが、私への思いが余りにも強かったので、目が眩んで、夫と私を間違えて、私の首を切ってしまったのです」

「・・・訳が分かりません。そもそもその男は、何故にあなたの夫を殺そうとしたのです?・・・それに、あなたとあなたの夫の首を取り違えるというのも信じがたい話です」竹軒が怪しむと、

「あの方は私に夫があるとは知らず、ひと目見て懸想してしまったのです。でもやがて夫があると知ると気が狂ったようになって、『あなたの夫を殺して私と一緒に逃げてくだされ』と、必死で懇願するのです」

「愚かな、まさしく狂人ではないか・・・それであなたは何と?」

「『分かりました』と答えました」

「・・・」

「夕刻前に夫に用事を頼んで外に行ってもらい、私は夫の床に入って横になりました。それとは知らぬあの方は、暗闇の床に寝ているのは夫とばかり思い込んで、私の首を掻き切って脇の下に抱え、どこまでも走りました。そして山の中に来た時に、月明かりで首を見ると・・・私の首だったのです」

「・・・では、その話は・・・もしや、あなたは袈裟御前(けさごぜん)・・・そして、あなたの首を切ったのは、文覚上人(もんがくしょうにん)では・・・」

 女は黙ってかすかにうなずいた。

 竹軒は驚きの余り女を凝視したまま瞬きすることもできなかった。文覚上人の俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)、鳥羽上皇を守護する北面の武士であったが、袈裟をひと目見て懸想して、夫の渡部亘(わたなべわたる)を殺して袈裟を奪おうと決心し、その思いを袈裟に打ち明けた。袈裟は話を聞いて夫の身代わりとなって亘の床に横になっているところを盛遠に首切られた。盛遠は首を持って逃げる途中、その首を見ると、袈裟であることに気付き、・・・。

「その盛遠こと、文覚はどこにいるのですか」

「普受一切苦悩地獄でござります」

「それは大変な地獄だ。女を欺し、あらゆる悪を為した者の落ちるところではありませんか。あそこに落ちた者は何万劫年もの間苦しまねばならぬと聞いております。とても助け出せるものではありません」

「存じております」

「・・・知っていて・・・しかし・・・そもそも何故にあなたのようなお方が文覚のような無頼の者に心動かされたのか、私にはとんと合点がゆきません。というのもあの者が冒した罪はあなたを殺しただけではありませんぞ。西行上人まで亡き者にしようとした。というのも嫉妬心からで、西行上人の名が世間に高まると大いに憎悪して、殺してやると公言して憚らなかった。ところがある日、西行上人と出会う機会があったところ、猫のように温和しくなって、殺すどころか丁重にお送りした。そこで常日頃の大口を聞いていた弟子たちが『いったい何故、生かしたまま帰したのですか』と訊ねると、『あれがわしに殺される者の人相と思うか』と答えたという。西行上人の気高さに気圧されたということもありましょうが、もともと西行上人は天慶の大乱を引き起こした謀反人平将門を平定した俵藤太藤原秀郷の子孫で武芸に秀でておりましたから、文覚は恐れて逃げ出したのでしょう」

「・・・」

「それに、欲も深く、時の朝廷に『寺の修理のために寄進をしてもらいたい』とか『領地を与え給え』とせがんで勅勘を被り、しばしば島流しにされたと聞いていますし、しかも後白河法皇の怒りをかつて伊豆に流されていた折には頼朝のもとを訪れて、『これは貴殿の父、源義朝の骸骨である。平家をこのままのさばらせておいては義朝公も浮かばれまいぞ』などと偽って源平合戦の因を造り、ために都は灰燼と帰して何十万という人間が殺されました。そうした罪で最後は対馬に流される途中で死んだと噂に聞いておりましたが、ともかくも、あのような男こそ、地獄の苦しみを味わうに相応しいと言うもの、二度と出られぬようにせねばなりません・・・それをあなたはこともあろうに、助けようという、解せませぬな」

 竹軒が首を振ると、女は立ち上がって綱を入れた大きな籠を背負いながら、

「私の夫渡辺亘は私が殺されても少しも怒らず、仇を討とうともしませんでした」

「見上げたお方ではありませんか」

「人はみなそのように申しますが、私は許す気にはなれません」

「それは何故」

「私は夫の身代わりになって死んだのです。夫に操を立てるため、また夫を愛おしいと思ったから進んで死んだのです。ところがそんな私の気持ちなど少しも分からない。首のない私の死骸を見ても驚くことすらしませんでした」

「・・・それは心得のある武士ならあり得ることではないかと・・・それに、仇討ちはさらなる憎悪を生むだけではありませんか・・・」

「私は夫の非情さが憎い。あれほど尽くしたというのに・・・ろくに涙も流してくれなかった・・・でも盛遠様はまったく違います。私の首を月明かりで見て腰を抜かし、泣きながら夜の闇を歩き回り、気がつくと夫の館の庭先に立っていました。『俺を殺してくれ』と盛遠様は泣き叫びながら頼みました。

 ところが夫は狂気に落ちた盛遠様を静かに見下ろして、

『何もかもご神仏の配慮なのだから貴殿の首を落とせば更に大きな罪を犯すことになろう。こうした羽目に陥ったのも、貴殿の罪ばかりではない。私の罪でもある。故に、私は仏門に入るつもりです。貴殿も己の罪を悔いたければ、仏におすがりするが良いと思う』と申したのです」

「まことに・・・凡人には及びもつかぬ見事な態度でございます」

「先生は渡辺亘を優れた人とお思いになられるのですか」

「私の如き者は遠く足下にも及びません」

「・・・先生も、巷の人と同じでございますね」

「それは、如何なる意味でございますか」

「盛遠様とは正反対だということです」

「正反対?・・・」

「盛遠様は私の夫が怒りもせず、刀を抜いて仇討ちをしようともせぬのを見て、あきれかえったのです」

「それはまたいかなる訳で」

「どうかとくとお考え下さい。夫は、妻を殺されたのですよ。寝首を掻かれたのです。それがどのような事情があるにせよ、武士の妻が同じ北面の武士の同僚から横恋慕され、あげくの果ては自分の代わりに殺されたのです。これで怒らないとは、どうしたわけでしょう」

「・・・」

「世の人は、見上げた人物と評価しているようですが、私はそうは思いません。もしも少しでも私を恋しいと思っていたら、泣き叫んで我を忘れ、盛遠様を殺したでしょう。でもそうはしなかった・・・夫は私など、どうでもよかった。恋しいとも愛おしいとも思わなかった。だから平然としていたのです」

「・・・」

「その姿を見て、盛遠様はいよいよ私が愛おしくなりました。こんな無情な男のために身を献げた私を耐え難く哀れに思ったのです。愛してもいない夫のために自らの命を捨てた私の心の中をよくよく感じてくれたのです・・・盛遠様は絶叫して夫の館を飛び出すと、深い山に入り、滝壺に飛び込みました。私のいない世の中に生きていても意味がない、そう思って死のうと決心したのです」

「・・・」

「でも、死ねなかった。高い崖から身を投げたのに、ももともと頑強な体だったので、気がつくと、岩角で切り裂かれた手足から血が出ているばかりで、命には別状なかった。そこで夏の日の照りつける草に裸になって寝ころんで身を埋め、蟻や蜂、毒蛾や毒虫に刺されて死のうと思いました。七日七夜盛遠様は身動きもせずに虫に苛まれました。顔も体も真っ赤に腫れ上がり瞼も腫れてふさがってしまいました。でも死ねません。そこで髪を切り捨てて俗界を離れる決心をして、山をよじ上り谷を越えて荒行をしながら私の菩提を弔い、熊野に入って更に修行を積みました。でも、やはり一日として私を忘れられず、坊主になるより、やはり死のうと決意して、厳寒の那智の滝に飛び込んだのです」

「・・・何と・・・」

「盛遠様は氷のような滝壺に落ちましたが、やはり死にませんでした。そこで盛遠様は三十七日の間滝に打たれようと決心しました。氷の中に浸かり続ければ今度こそ死ねるだろうと思ったからです。盛遠様は私を想いつつ、三日四日と滝に打たれ続けました。そうして五日、六日とたつうちに気が遠くなり、強い流れに押し流されて岩角にぶつかりながら川下に流れてゆきました」

「・・・」

「私は雲間からその有り様を眺めて、ああ、これでとうとうお逢いできると、心躍らせました。死ねばきっと私を訪ねてくださると信じていたのです・・・でも・・・」

「でも、どうかしたのですか」

「突然、金伽羅童子が滝の中から現れて盛遠様を救い上げたのです」

「金伽羅童子とは」

「不動明王に仕える童子です」

「・・・何故に」

「不動明王が盛遠様の私を想う気持ちに感じ入られて、お助けされようとお思いになったのです。でも、盛遠様は死のうと決心していたのを助けられて大いに怒り、『私は三十七日滝壺に浸かって生きながら死のうと思っていたのに余計なことをするものだ』と叫んで、再び滝壺に飛び込んでしまわれました。そのためとうとう凍えて、死んでしまったのです」

「なに、命を落とされたのですか」

「はい・・・これを見て、金伽羅童子は困惑してしまいました。というのも、不動明王は『死なせてはならぬ』と言いつけておいでだったからです。そこで金伽羅童子は制多迦童子ら八人の童子と力を合わせて水から引き上げると、盛遠様のお身体を代わる代わる温め、息を吹き込みました。それでようやく甦生して『私をどうしても死なせぬおつもりか』と聞き質すので、童子達は口々に『盛遠の行いは愛による気持ちから勇猛心となったものであるから、必ず偉大な仏道者となるであろう。何としても助けるように、との不動明王様のご命令です』と言う。これを聞いて盛遠様も『不動明王がそのように申されるのでは仕方がない、死ぬのはひとまずあきらめよう。しかし袈裟の事は一時も忘れられぬ。これから袈裟の菩提を弔うために那智、熊野に千日籠もって荒行に耐え、その後高野山、大峰山にて修行を為し、更に葛城山、金峰山、富士山、それからまた飛騨の国の山々を越えて立山剣の神仏に祈り、白山、羽黒山まで赴いて荒行し袈裟の為に祈りを捧げよう』とこのように申されて、そのまま修行三昧の日々をお過ごしになりました」

「それほどの修行を・・・」

「私はいつも修行の様を眺めておりましたので、何という一途なお方だろうと、涙にくれぬ日はありませんでした・・・そして長い年月がたちましたが、盛遠様はその間に文覚と名を改められました。そしてそのすさまじいばかりの修行の有り様は遠国まで鳴り響いておりましたので、文覚の名を知らぬ者は一人もいなくなり、京の都に舞い戻った時にはまるで高僧をお迎えするような人だかりだったのです」

「さもあろう」

「でも、盛遠様は文覚となられてからも一日として私を忘れることはありませんでした。私のためにお寺まで建てて下さいました」

「お寺を」

「大勢の貴族たちがお屋敷にお呼びになり、さまざまにお話を聞いて多額のお布施を包んで下さいましたので、莫大な金額になりました。そのお金で鳥羽街道沿いに地所を買い、浄禅寺を建てたのでございます。寺が完成しますと、盛遠様は私の首を埋めておいた山中から骸骨を掘り出し、お寺に移して五輪塔を建て、厚く供養して下さいました。これを見た都の人々は私の墓を訪れてお参りして下さるようになりましたが、やがて五輪の塔は『恋塚』と呼ばれるようになったのです」

「文覚上人が、恋塚を・・・」

「それだけではありません。伏見区には恋塚寺というお寺もありますが、ここも私のために文覚様が建てて下さったのです。文覚様は寺が出来上がると仏師に頼んで私の彫像を彫らせて祀りました」

「それは、ほんとうの事ですか」

「ほんとうです。今もございます。生きておればご覧になれましたのに・・・でも、余計な事もあるのです」

「余計とは・・・」

「評判を聞いて大勢の参拝者が訪れるようになりました。すると私と文覚上人を巡る出来事が話題となって、誰ともなく、文覚上人の像もお祀りしたほうがよい、ということになり、仏師に頼んで彫らせました」

「・・・なるほど」

「これがまた大評判となりましたが、ふと誰かが、『妻の首を取った盛遠の罪を問わずに許した渡辺亘も大した人物ではないか。もしもその時に盛遠を殺していたら文覚の弟子となった明恵上人も世に出なかったことになるし、それどころか、伊豆に流されていた頼朝も文覚に挙兵を促されることもなかったということになるのだから、渡辺亘もまた大功績者だ。袈裟御前と文覚上人の彫像を造ったのであれば、彼の像も祀るべきではあるまいか』とこのように申す者があり、皆賛同しましたので、仏師は私の夫の像も刻んで祀りました・・・」

「それはまた・・・」

「人というものは、本人の気持ちなどどうでも良いのです。でも、文覚様は旅をするごとに五輪塔を建て、私を供養して下さったのですから、他人が何をしようとかまわないのです。ただ私が口惜しいのは、それほど誠意のある文覚様のお心を理解できるお方はほんの数えるほどしかいなかったということです。弘法大師が修法をなさった高尾山神護寺が荒れ果てているのを知って後白河法皇に懇願し、聞き入れて下さらぬと知ると法皇様が籠もる法住寺殿に押しかけて勧進帳を日夜大声で読み上げましたので勅勘に触れて佐渡に流されました。でも佐渡から戻ると東寺の復興に努め、さまざまな善行を積んだのです。それなのに、陰謀の罪で隠岐に流され、果ては対馬でお亡くなりになってしまわれた・・・でも、どのような時にも、文覚様は私をお忘れになりませんでした。

 ですから、私は文覚様と極楽で出会うことを夢見ておりましたのに、閻魔大王はどういう魂胆か、普受一切苦悩地獄に落としてしまわれたのです。でも、私はあきらめることはできません。どうしてもお助けせねばならないのです」

「しかし、地獄の底は真っ暗です。あなたが下ろした細い綱をいかにして文覚上人がみつけられましょう」竹軒がそう言うと、

「あのお方はどのようなところにおいでになっても、私の髪の香は必ず聞き当てるに違いありません」そう言い置いて出て行った。

 竹軒は髪の毛を編んだ縄を担いで坂道を下ってゆく女の後ろ姿を見送っていたが、そのままにしておくこともできず、後をついてゆくことにした。

 しばらく行くと、あたり一面に炎と悲鳴がこだまし、岩石が鋭い音を立てて落下する。岩に潰された罪人の悲鳴があたりをつんざいて身がすくむほどだ。女はその中をたじろぐ気配もなく歩いていったが、やがて大きな穴にさしかかると肩から綱を降ろしてそろそろと穴の中に降ろしていった。そうしてどれほど降ろした時だろうか、急に女が綱に引かれるように身を傾けたので、大急ぎで綱を引き上げようとしたが、どうしても上がらない。女は必死で引き上げようとしているが、上げるどころか、反対に引き込まれて落ちそうな気配だ。

 竹軒は走り寄って、「お手伝い申そう」と綱に手を掛けて力を入れた。その甲斐あって少しずつ引けるようになった。女は竹軒をチラッと振り返って、

「この手応えは確かに盛遠様でござります。私に助けを求めておいでなのです」

 竹軒は綱を引きながら、女と男はこれほどにまで引き合うものか・・・それにしても、地獄に落ちた男をこれほどまでに恋い慕うとは、どうも、この道ばかりは分からぬ、とそう思ったが、同時に、もしも女の気持ちが通じて、このまま盛遠が上がってきたら、二人はどうするつもりであろうか、まさか極楽へ上がる道を探そうとするわけではあるまいな・・・さて・・・。

 竹軒が女の横で綱を引いていると、突然重くなって少しも動かなくなった。

「何が起きたのでしょう」

「盛遠様が綱を伝って逃げようとしているのを見て、他の罪人たちが綱にしがみついたのではないかと思われます」

「まさか」

 そう言う間に、綱はどんどん重くなって、竹軒も女も今にも引き込まれそうになった。そして二人の身体が奈落の底に落ちようとした刹那、光が射して綱の先にぶら下がっている男の姿が見えた。

「盛遠様!」

「袈裟! そなたは私を、これほどまでに想っていてくれたのだな」

「盛遠様、もう少しです、どうか手を伸ばして、私の手に掴まって下さい」

 袈裟は必死で白い手を穴の中に差し入れた。竹軒は綱に掴まりながら、このままでは自分も地獄に引き入れられるのではないかと密かに恐れた。

「さあ、私の指を捕まえて!」

「ああ、白い手だ、何百年ぶりに美しい手を見た」

「早く私を捕まえて! 後ろからどんどんと罪人たちが登ってきます。綱が切れそうです」

 袈裟が叫ぶと、盛遠はかすかに微笑した。

「ありがとう。礼をいいます。だが、これで十分です。思い残すことはありません」

「何をおっしゃられるのです。早く私を捕まえて下さい」

「私はあなたを恋した。あなたも私を慕ってくれた。そして私のために命を捨てたのです。私は人と生まれて、あなたからすべてをいただきました。しかしあなたを失った私は、狂気でした。後白河法皇から平家追討の院宣を頼朝に届けたため、天地が覆るほどの大戦争を引き起こし、そのため、何十万という人々を死に追いやり、東大寺も興福寺も焼かれ、都も灰になりました。私一人の罪科ではないにせよ、私は地獄の苦しみを味わうのに最も相応しいものです。でも、骨を砕かれ、内臓を鬼に食われながら、もう一度だけ、あなたの顔を見たいと、それだけはかすかな望みを抱いておりました。その願いが閻魔大王に聞き届けられ、こうしてあなたの髪の毛を伝って光を見ることができたのです。もう思い残すことはありません、さあ、これが最後の別れです」

 盛遠はこう言ったかと見る間に、袈裟の髪の毛の綱から両手を放した。

「ああ!」袈裟が叫ぶ間もなく、盛遠の姿は暗黒の中に消えてしまった。綱を登ってきた罪人たちも、砂粒のように微塵になって落ちていった。

  

  日月めぐりて 年経るとも

  大火ありて 汝が身を焼かん

  汝痴人にして 悪をなせり

  今何をもってか 悔いを生ぜん

 地獄からとも暗い空からとも分からぬ声が、あたりに細く響いている。

 袈裟は穴の縁に頭を打ち付けて泣き叫んでいる。竹軒は呆然とその姿を見つめていた。

<第十九話終わり> 参考資料:「平家物語」「明恵上人年譜」「梁塵秘抄」など。