「閻魔庁の籔医竹軒」 第十七話  草薙剣(くさなぎのつるぎ)   (27番・麻黄湯 28番・越婢加朮湯 29番・麦門冬湯  30番・真武湯 31番・呉茱萸湯)

 竹軒は夢を見ていた。目の前には青い青い海が広がっている。どこまでものどかにうねり、潮風が釣り糸を斜めに掠って行く。そうだ、私は漁師だ。漁師だって? 馬鹿な、いつからこの私が漁師になったのだ・・・、生まれて此の方から死ぬまで、一度も舟など漕いだこともない。しかし・・・釣り竿が、このようにしなっているではないか。何というすばらしい感触だ。細い糸の先に大きな鯛がかかって暴れているのが確かに分かる・・・。

 竹軒は今にも釣り竿が折れるのではないかとも思えるほどの手応えに、これまでに感じたことのない胸の高鳴りを覚え、夢中で釣り竿を引き上げた。と、何と、針にかかったのは鯛でもヒラメでもなく、みたこともない美しい衣だった。

『これは如何な事、このように美しい薄衣が海の底から釣れるとは』竹軒は不審に思いながら衣を陽の光にかざしてつくづくと眺めた。

 薄雪のように透明な織物の中に鳥の骨のようなものが縫い込まれている。

『この軽さといい、鳥の羽に似た光る筋のようなものといい、もしかしたら・・・これは天女の羽衣かもしれぬ』そう思うとますますドキドキした。というのも天女の羽衣だとしたら、どこか近くの海辺で天女が水浴びをしているかもしれないと思ったからだ。

 竹軒があたりを見回そうと立ち上がろうとした時だった。不意に松の陰から綾錦の衣をまとった若い女が現れた。

「・・・あなたは・・・まさか天女では」

「竹軒先生でいらっしゃりますね」

「はい、いかにも私は竹軒でござりまするが・・・あなた様は」

「故あってある高貴なお方にお仕えいたしております・・・そのお方がひどく病んで咳が止まらず、また、お守りをされておいでの二位の方も手足が冷えて歩くこともままならなくなってしまいました」

「ふむ」

「そこで是非先生に診ていただきたいものと思い、お迎えに参りました。どうか私の願いをお聞き届け下さいまし」

 竹軒はがっかりした。天女と思っていた女はそうではなく、誰かに仕えているのだという。そして、この私は漁師ではなく、やはり、一人の医者に過ぎないのだ。竹軒は己の運命が情けなくなってふとため息をついた。が、思い直してよくよく見れば、目の前の女はいかにも美しい。とてもただ者とは思えぬ。その女が誰かに仕えているとすれば、女の主人は余程の者に違いない・・・そうした方に言いつかってわざわざこの私を呼びに来たのだから無碍に断ることもできまい、竹軒はそう思って女について行くことにした・・・と、いつの間にかそこは海の底で、青い洞窟の中に尼姿の老女が筵を掛けて横になり、傍らに眼のキラキラと輝く少年が時々咳をしながら、老婆を心配げに見つめている。その老姿が言うに言われず神々しい。海の底の宮殿ならば竜宮城と決まっているけれど、どうやらここは宮殿などではないようだ。いったいこのお方たちは誰だろう、竹軒は怪しみながらともかくも診察をせねばと脈を取ると、老女の指は箸のように細く、ひんやりと湿って、氷のように冷たい。脈は今にも絶えようとしている。

「これは困り申した」竹軒は傍らの美しい女に小声で言った。

「私の手には負えませぬ」

「なぜでござります。あなた様ほどの名医は地獄には居られぬと聞いております」

「私は名医などではありません。ろくな知識も技量も持たぬ藪医に過ぎませぬ。それにさきほどのお話ではどなたかが風邪を引いて咳が止まらず、また同じ処にお住まいの老いたお方が関節や手足が痛んで苦しんでいるということでしたので、それなればとあとについて参ったのでござりますが、このように重い病では私の手には余りまする」

「では、どうにもならぬと申されますか」

「それでござります。このお方の脈を拝見いたしたところでは、茯苓四逆湯などの秘薬があればなんとか役に立ちましょう・・・がしかし、そのような薬は私の手元にはござりませぬ」

 竹軒が弁解していると、それまで横になっていた尼姿の老婆が半身を起こして竹軒が腰袋に入れてきた薬の方に手を伸ばした。

「その中にあるのは薬でござりまするか」

「いかにも、ここには越婢加朮湯がござります。それに麻黄湯と麦門冬湯もこしらえてまいりました」

「それは私に効きますか」

「さて、あなたさまに効くかどうかは保証の限りではござりませぬが、冷え、神経痛には越婢加朮湯がよく効く場合がござります」竹軒がこう答えると、

「では、是非私に飲ませてくだされ」と云う。その言葉尻にはどこか必死の思いが籠もっている。その気配に押されて、

「承知いたしました」と竹軒が答えて薬を取り出すと、老女はお付きの女が用意した白湯と共に薬を飲み下した。とたんに頬にほんのりと赤みが差し、紫の唇もかすかに命が通ったように見えるので、傍らで心配そうに眺めていた少年はほっと胸をなで下ろした。

 老女は竹軒をつくづくと眺めて、

「私の長男が病に倒れたとき、あなたのようなお医者が居られたら、今のような無惨な目には遇わずに済んだかもしれぬのに」と涙を流したが、すぐに気持ちを取り直して、

「さあ、あなた様もこの薬をお飲み下され」と麻黄湯と麦門冬湯を少年に差しだしたので、少年が飲むと、さきほどから時々咳をしていたのがたちまち止まってしまった。

「これほど嬉しいことはありません。どうかしばしばおいでいただきたいものです」

 老婆はそう礼を言った。美しい女に見送られて外に出ると、青い波も見えず、灰色の空に峨々と聳える地獄の山々が続いて、竹軒はいつもの庵に横になって寝ぼけ眼をこすっていたのだった。

「なーんだ、夢であったのか」竹軒は呟いてあたりを見回した。いつもと変わったことは何一つない。枯れ松の向こうから強欲共が己の骨を擂る石臼の不気味な音が、ゴロゴロと地面を揺すっている。竹軒は生薬を床に並べ、帳面と照合して足りないものを鬼に取ってきてもらわねば、と考えていた。

 と、そこへ、さきほど夢で見た女が現れた。

「あなたはあの時の」

「はい、海の底まで竹軒先生には往診いただき、感謝に堪えません」

「では、あれは・・・夢ではなかったのですか」

「先生からあの折りにいただきましたお薬で、お二人とも大層良くなりました。お礼申し上げます」

「・・・そうでしたか・・・それはそれは」

「でも、すっかり治るというわけにはゆかず、特に二位のお方様は頭が痛くて大層辛そうですし、また時々ひどくお腹を痛めます。なのでもう一度、おいで願いたいのでござります」

「私を・・・また海の底へ」

「はい」

 『はて・・・先ほどのが夢ではないとすれば、今の話も夢ではないのだろう。しかし不思議なことがあるものだ。海の底から往診を頼まれるとは・・・』竹軒は訝ったが、『それほどまでに頼りに思ってくださるならともかくも薬だけは作って差し上げよう』と、薬研にあれこれの生薬を入れて真武湯を作り、また更に、タイソウ・ゴシュユ・ニンジン・ショウキョウを薬研で轢いて呉茱萸湯をこしらえてそれぞれを紙に包んで用意を調えた。というのも、老婆は恐らく長年の冷えのために五臓が弱り、体内に気が失せ、寒が取り憑いたのであろうから真武湯が効くであろうし、頭痛もまた寒が取り憑いたことから生じたものに違いないから呉茱萸湯こそ必ず役に立つだろうと考えたのである。こうして用意を調えたので、竹軒は女の後からついて行ったのだった。

 

 女が渚から海に潜って行くので竹軒も後について行くと、しばらくもしないうちに岩礁の回りに青い潮が渦巻き、奥に見慣れた洞窟があった。竹軒は導かれるまま中に入っていった。と、そこには前回来た時とは似ても似つかぬ光景が広がっていたのである。

 洞窟と見えたところは御殿の廊下で、回廊に沿って遣り水が流れ、滝を落とし、池には蓮の花が咲いている。部屋の中に目を移すと、それは想像を絶する美しさで、一面に飾り立てられた御簾や見事な絵が描かれた屏風が見え、まばゆいばかり。そこここに美しい歌を書き付けた几帳が並び、飾り棚の宝玉が光り輝く様はあたかも王宮のようである。釣香炉が下がっている廊下のようなところを女が先に立って歩くので、竹軒は恐る恐る後をついて行くと、紫の御簾が見え、その向こうに朧な人影が見えた。

「お連れして参りました」と女は恭しく頭を下げた。

 御簾が上がると尼姿の老婆は眩いばかりの衣装を纏って座っている。側に、少年が金銀綾錦の衣装を纏って座り空を睨んでいる。傍らに太刀が横たわっている。それは紫の布で織りなした鮮やかな袋に包まれているが、見るからに恐ろしげな気配だ。あの太刀には妖気が漂っている・・・竹軒はそう感じて後ずさりした。すると尼はめざとく見て、

「竹軒殿、あなたはこの太刀が恐ろしいのですか」と意味ありげに尋ねた

「いかにも・・・私は一介の医者でござりますので、病以外の事につきましては何も分かりませんが、しかし・・・その太刀は、私共の知らぬ世界の物であるに違いないと・・・そればかりは分かるような気がいたします・・・」

「そうですか。それが分かるようであれば、あなたは確かにただの医者ではありません。と申しますのも、これは日本に一つしかない宝剣だからです」

「ただ一つの」

「はい・・・これは素戔嗚尊(スサノオのみこと)が出雲の国で櫛名田姫(くしいなだひめ)を救うため、八岐大蛇(やまたのおろち)と戦い、勝利してその体内から取り出した天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)です」

「・・・まさか・・・そのような神話の剣が」

「素戔嗚尊はこの太刀を手にすると、すぐさま高天原の天照大神に献上しました。それ以後、天叢雲剣は八尺曲玉(やさかのまがたま)・八咫鏡(やたのかがみ)と共に皇位に就く者が必ず具えるべき三種の神器として代々伝えられるようになったのです。それが草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになりましたのは、景行天皇の皇子日本武尊が東国を征服に向かった時、敵の計略に掛かり草原で焼かれそうになりました。その時、日本武尊はこの剣で草をなぎ倒し、神風を吹かせて火の向きを変え、敵を焼き殺しましたので、それ以後、草薙剣とも呼ばれるようになったのです」

「・・・」

「故に、この剣を持つ者は、天皇の他、誰もおりません」

「・・・では・・・」

「その通りです。ここにおいでになられるのは、余人にあらず、安徳天皇そのお方です」

 竹軒は源平合戦の経緯を詳しく承知しているわけではない。むしろどのような戦いがあったのか、そのような事は知りたくもないと思っていたのだがしかし、平家が源義経に追い詰められ、壇ノ浦で全滅した時、清盛の妻、二位の尼が安徳天皇と三種の神器を抱えて海に飛び込んだことぐらいは知っている。そして、その時以降、草薙剣は皇室から永久に失われたという話も聞いているのだ。それがここにあるとは・・・。竹軒が息をするのも忘れていると、

「私は最後まで安徳天皇をお守りしておりましたが、突然源氏の武者共が御座船に乱入してまいりました。私は八尺曲玉の入った箱と草薙剣を抱いて、帝と共に海中に身を投げました。内侍所(八咫鏡)をお納めした唐櫃は大納言佐殿が背負って飛び込もうとしたのですが矢を射かけられて捕らえられてしまいました。源氏のもの共は海の中まで追いかけてまいり、とうとう八尺曲玉は奪い返されましたが、草薙剣だけは今もこちらにあるのです」

「・・・」

「安徳天皇が身罷る前に弟の尊成親王(たかひらしんのう)が即位して後鳥羽天皇となられましたが、即位の儀式の時には草薙剣はありませんでした。というのも、如何に探索しても、草薙剣は私の手に握られていたからです・・・一番の愚か者は義経です。愚かにも源義経は後白河法皇が『安徳天皇の御体と三種の神器は何としてもお守りせねばならぬ。戦をする前に、和議によって安徳天皇と三種の神器をお守りするように、何としても心を砕かねばなりませんぞ』と申されたのにもかかわらず、少しも耳を貸さず、勝ちに奢って平家の者たちを皆殺しにしようと悪鬼のごとくに責め立て、何千の命を奪いました。故に、平家の者たちは義経を呪い、源氏の滅亡を願って死んだのです」

「・・・」

「悲しゅうございます・・・何もかも空しゅうござります・・・平家が壇ノ浦で滅びてから八百年もの間、私は安徳天皇を海の中でお守りし、草薙剣もお祀りして、ただひたすら国家の安寧と天皇家の安泰をお祈りして参りました。けれどもこうして地獄の海におりますと、涙と悲しみで身体が冷え、やがて魂が凍ってまいります。私も年老い・・・天皇をお守りする力も失せて参ったのでござります・・・でも、あなたがさまざまな薬をお持ち下されたお陰で、何百年ぶりで暖まり、心も和んで参りました。そこでどうか、お願いがござります」

 尼御前が真剣な眼差しでこう申されるので、竹軒はいささか怯んだが、

「何事でござりましょうか・・・私に出来ますことなれば、何なりと」と答えると、

「あなた様は今日もお薬をお持ち下さったとのことですね」

「はい。五臓の冷えを治し、胃腸を整えるために真武湯を、頭痛には呉茱萸湯を持参いたしました」

「それはまことに有難い事です。ではお礼に、これをお持ち帰りになって下さりませ」

 尼御前はこう云って、草薙剣を差しだした。

「・・・」

「安徳天皇も、もう剣はいらぬ、と申されております。どうか、これを朝廷までお届けいただけませんか」

 竹軒が驚愕している間に、お付きの者が剣を竹軒に手渡した。竹軒は夢か現か何も分からぬうちに紫の袋に包まれた剣を捧げ持って御前を下がり、外に出たのだった。

 岩だらけの賽の河原のように荒涼とした景色のどこからか、歌声が響いてくる。

   世の中はちろりに過る ちろりちろり

         (世の中はちろりと小さな火が点る間にすぎてゆく)

   ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あぢきなき世や

 竹軒は歌を耳にしながら歩いていたが、ふと、手に提げているものを見ると、何とそれは草薙剣とばかり思っていたのに、干からびたひじきがあるきりだった。

『いったいこれは・・・』竹軒が愕然としていると、またどこからか歌が響いてきた。

 思ひあらば 葎(むぐら)の宿に 寝もしなん ひじきものには 袖をしつつも

(私を恋い慕う思いがあなたにあるのなら、葎の生い茂る茅屋でもかまいません。あなたと共寝をいたしましょう。夜具の代わりに私の衣の袖を敷物にして)

 誰が唱っているのだろう・・・竹軒はふと夢から覚めて戸口の外を眺めた。松林の彼方を、誰とも知らぬ高貴な方が、美しい女人を従えてゆったりと通り過ぎて行く。鬼共がそのうしろから護衛でもするようについてゆく。竹軒はまた夢を見ているのかと庵の外に出てみたが、そのお姿はもう見えなかった。

<第十七話終わり> 参考引用文献:「平家物語」「閑吟集」