「閻魔庁の籔医竹軒」 第十六話 垓下(がいか)の歌・・・・(23番・ 67番・女神散 25番・桂枝茯苓丸)
ただならぬ音が聞こえるので庵の外に出てみると、伍官王がお供の鬼たちを従えて象に乗ってやってくるところだった。伍官王は十王の一人ではあるが、実は仏であって、本体は普賢菩薩なので地獄でも象に乗っているのだという。竹軒が言葉を失って驚いていると、伍官王は微笑しながら、
「突然お訪ねいたしましたのは、私の管轄にあります一人の女を診ていただきたいのでござります」と言う。伍官王ともあろうお方がわざわざ頼みにおいで下さるのでは何か特別の理由があるに違いない、竹軒はそう思って、
「さて、その女とはどのようなお方なのでござりましょうか」
すると伍官王は「楊貴妃です」と事も無げに答えた。
「楊貴妃・・・あの、玄宗皇帝の愛妾の楊貴妃でござりましょうか」
「いかにも」
「・・・しかし、伍官王様・・・私はとても楊貴妃のようなお方を診察することは・・・」
「出来ぬと申されますのか」
「そうは申しませぬが、ただ、楊貴妃と云えばまたとない伝説のお方ですから、いきなり患者として診なさいと申されても何とも妙な気分でござります」
「それはまた解せぬことでござりまするな。と申しますのも、竹軒殿は閻魔大王さえ平然と診察なされた。そのあなた様が楊貴妃を診察できぬとはおかしなこと。すでにご承知の通り、地獄は時空を超えているのですから、生きている間はそれぞれの国に別れ、貴賤や職業の違いがありましたが、問題は生前の地位ではなく、その者の心根がいかがであったか一つなのです。楊貴妃とて同じこと。審判の日を待っている罪人の一人に過ぎません。しかし鬼の報告によれば、ずいぶんと長い間床から出られぬような様子。そこで先生に診察をお願いに参ったという次第です」
「お話をお伺いして納得がゆきました。ご一緒に参りましょう。しかしそれにしても、楊貴妃は罪人として扱われているのですか」
「はっきりと罪人と決まったわけではありませんが、やがてはそうなるでしょう。と申しますのも、楊貴妃のために唐の国は傾き、衰亡の一途を辿ったのですから、その罪は計り知れないほど大きなものであろうと思われます。ですから十王の中には彼女を即座に叫喚地獄あるいは阿鼻地獄に堕とすべきであろうと申す者が少なくありません。しかし、別の十王は楊貴妃を弁護しております」
「弁護の根拠とは」
「申すまでもなく楊貴妃は安禄山が反乱を起こして都に攻め上ると直ちに皇帝と共に蜀を目指して逃げましたが、近衛兵たちが『唐の国の混乱の遠因は皇帝を愛欲に迷わせた楊貴妃であるから、楊貴妃を殺さぬ限り皇帝には従わぬ』と騒ぎ出しましたので、玄宗皇帝は泣く泣く、宦官高力士に命じて楊貴妃を縊り殺させました・・・殺されてここまで落ちて来ましたが、楊貴妃は自ら好んで愛妾となったわけではありません。また、自らは誰一人殺してもおりません。彼女の罪はその美しさ故に、皇帝が政(まつりごと)に無関心となり、国家の混乱を招いたことなのです。それ故、玄宗皇帝は無間地獄に堕ちて劫罰に苦しめられておりますが、楊貴妃は無罪とすべきではないかと、このような意見もあって、まだ判決が下されてはいないのです」
伍官王と竹軒を乗せた象はやがて険しいはげ山にさしかかった。行く手の両側は深い崖で、下から炎と煙が舞い上がってくる。どうやらその下は奈落の地獄らしい。堕ちたら最後だと身を縮めていると、突然火炎が底知れぬ闇から千丈も高く吹き上がって、中から巨大な鳥が現れた。両足の爪それぞれに数百人の罪人をひっつかんでいる。
「あれは閻婆(えんば)という鳥です」と伍官王は言った。「この下は閻婆度処(えんばどしょ)という地獄なのです。財宝や食物を独り占めにして他の者を助けなかった者共の堕ちる処なのですが、ごらんなさい、閻婆は空中をあのように高く飛翔しておりますぞ。爪に掴まれた罪人たちは死肝(しにぎも)を冷やしていることでしょう」
恐怖の絶叫があたりに響き渡っている。閻婆は大きな翼を広げ、火炎をくぐったかと思うとまた高く舞い上がって、その度に罪人たちに恐怖を与えていたが、やがて不意に罪人を掴んだ爪を開いた。罪人達は絶叫しながら空中を小石のように落下して、はるか下の岩に墜落し、微塵に砕けた。
「ああして罪人たちは粉々になりますが、すぐに合体して生き返るのです。これを見計らって閻婆たちはたちまち彼らを捕え、また空中につかみ上げるのですよ」
何という恐ろしい地獄であろうかと竹軒が目を覆っていると、着きましたぞ、という声がして、竹軒は象の鼻に掴まれて地上に降ろされた。岩穴のような中に明かりが見える。これはいよいよ楊貴妃の住処かと竹軒はいささか心がざわめくのを感じた。というのも、若い頃、白居易の長恨歌を読んだことがあるので、『廻眸一笑百媚生 六宮粉黛無顔色』と歌われた女の姿とはどのようなものなのであろうと、密かに想像を巡らさずには居られなかったからである。
数人の者共が穴の奥から出てきた。女だか男だか分からない。奇妙な顔をしている。これが宦官という者であろうか、竹軒がそう思う間もなく、宦官たちは竹軒を奥へと案内した。しかしどうしたわけか、伍官王の姿はいつの間に見えなくなっていた。
豪奢な寝台に女が横たわっている。髪が枕の上に黒々と波打っている。その白い耳元に、宦官の一人が近づくと何事か囁いた。
白い顔が竹軒を見つめた。宦官がまた何事か囁くと、楊貴妃はゆるゆると起き上がった。竹軒は楊貴妃の床から一間ほどしか離れていない。竹軒は両足が頼りなく震えるのを感じた。
「そなたが竹軒か」と彼女は細い声で言った。
「は・・・はい」竹軒は声を喉の奥から絞り出しながら、木偶(でく)のごとくに息をするのも忘れていた。経国の美女という言葉はかねてより聞いてはいたが、現実に目の前にその姿を見ると、まばゆくて正視できない。目が自ずと下を向いてしまう。千年も前の美が、そのまま保たれているとは・・・竹軒は呆然として為す術もなかった。
と突然、横合いから宦官が何事か強い声で言うのが聞こえた。
「早く治せ」
「は?・・・何でござりましょうか」
「何とは愚かな奴、お前は医者であろう、であれば、お妃様の病を治すのが務めではないか」
「病とは」
「お妃様の病だ」
「はて、まだ診察はいたしてはおりませぬが、ご様子を拝見いたしましたところとても病とは見えませぬ・・・いったい、どのような病があるというのでござりましょうか」
「それはの・・・お御足じゃ」
「お御足・・・」
「楊貴妃様はかつて実に美しいお御足をなさっておられた。それは赤子のように可愛い姿であったのだ。ところが地獄に参られてからというもの、お御足のお手入れが十分に出来ぬ。皇帝の後宮に居られた頃、日々百人の侍女がお妃様の身の回りのお世話にかかり切りになっておった。ところがここには女手がないため、お妃様の足は纏足(てんそく)を保つことが出来ず、故に次第に大きくなり、今は昔の十倍ほどになってしまったのだ」
「まさか・・・十倍とは」
「嘘ではない。見るが良い・・・お妃様、これも美貌を保つためでござります故、下賤の薬師の診察でも我慢していただくより他にござりませぬ」
竹軒は下賤の者と云われてムッとしたが、絹の褥の裾から白い足が蛇のように音もなく出てくると、アッと思わず声を出してしまった。日の光を一度も浴びず、己の体重をも乗せたことのない真っ白な足が白鳥の首のように悩ましく目の前に伸びている。これが人の足なのであろうか・・・竹軒はあまりの美しさに思わず見とれた。
「何をしている」
「は・・・はい・・・お御足を拝見いたしております」
「どうじゃ・・・治るかな」
「治るとは、何がでござります」
「愚かな・・・楊貴妃様のお御足は赤子のように可愛かったと申したであろう。人の拳よりも小さく、鶏の雛のように愛らしかった。というのも、先ほども申したとおり昔はしっかりした侍女が侍っていた故、纏足の包帯をおろそかにするようなことは一度もなかった。ところがここへ来られてからというもの、その道の者は一人も居らぬ。かといってわれわれ宦官はお体に触れることは許されぬのでな、それがためお妃様のお御足はこのように大きくなってしまったのだ」
「大きくなったと申されますが、これは全く正常の足でござります。いや、正常どころか、これほど美しい足を見たことはありません。ですから、私にはどうすることもできません」
「ではもとのようにはならぬと申すのか」
「元のようにと云われても、今のお御足の姿が自然なのです。纏足した足は決して美しいとは申されませぬ」
「黙れ、下賤の輩に何が分かる・・・足がこのようになったばかりに、お妃様は頭痛やらめまいに悩まされ、手足も体も氷のように冷えておられるのだ。昔はそのようなことは一度もなかった」
「それは、足のせいではなく、気血水の不調和によるものです。恐らく千年もの間閉じこもっておられたので、気が虚し、血も水もめぐりが悪くなったに違いありません。ですから私が思いますには、当帰薬散をお飲みになられれば、少しはご気分も回復するのではないかと存じます」
「偽りではあるまいな」
「偽りなどどうして私が申しましょうか。必ずご気分は回復するものと思います」
これを聞いて宦官は楊貴妃の耳に口を寄せて何事かささやいた。と、その時突然ホトトギスの鳴き声が空ろな壁に響き渡った。これを聞くと楊貴妃はアッと小さな悲鳴を上げて布団の中に身を隠した。
「どうなされました」
「不吉な鳥の声がしたのでお妃様は肝を潰されたのだ」
「あれはホトトギスの声でござります。地獄であのように良い鳥の声を聞けるとは思いもよらぬ幸運です」
「幸運だと」
「まことに・・・大宮人たちはホトトギスの声を聞くために夜を徹して待ちかねていたほどです。“夏の夜の ふすかとすれば ほととぎす 鳴く一声に あくるしののめ” これは紀貫之の歌でござりますが、多くの日本人にとってホトトギスの声は特別なものだったのです」
「そのような話はどうでもよい。中国に於いて、その鳥は常に不吉とされてきたのじゃ。つまらぬ話をしている暇はない、お前はさきほどお妃様の薬を作れると申したな」
「はい」
「お妃さまはお前の申す薬を飲んでみようと仰せになられる。作ってみよ」
竹軒はこれを聞くと、シャクヤク・ソウジュツ・タクシャ・ブクリョウ・センキュウ・トウキなどの生薬を薬研に入れて素早く磨り上げた。
「どうぞこれをお飲み下さいますように」
宦官は胡散臭そうにこれを受け取り、
「確かに効くのであろうな」
「はい」
「では効き目が顕れるまでとどまってもらうことにしよう」
宦官がこう言うと、屈強の男たちが現れて竹軒を捕え、洞窟の奥の牢獄に閉じこめた。
そこはむき出しの洞窟で、天井からは水が滴り、紙燭が今にも消えそうに点ってる。薬を調合した医師をいきなりこんなところに閉じこめるとは、何とも乱暴だ。竹軒が腹を立てていると、部屋の片隅の方に人の気配がする。ギョッと目を凝らすと細い女の声で、
「あなたはどなたでござりますか」
「・・・私は、竹軒という医者でございます」
「では、楊貴妃に呼ばれたのですね」
「いかにも左様ですが、あなたは・・」
暗闇に白い額が浮かんでいる。
「私も閉じこめられているのです」
「・・・はて、何故に・・・」
「私が、楊貴妃より美しいからです」
「何と・・・『私も楊貴妃をしかと見つめたわけではないが、楊貴妃の姿は白居易の詩にも勝っていかなる花よりも美しいように思えた。なのに、この女は楊貴妃よりも自分の方が美しいという理由で閉じこめられたという・・・そんなことがあるはずがない』」竹軒があきれていると、女は竹軒の心を読んだように、
「私が楊貴妃より美しいというのは誇張ではありませぬ。それ故私が死んでここに送られてくると、彼女は私をひと目見て激しく憎み、閉じこめたのです」
「それほどにひどく憎むとは・・・いったいあなたは誰なのです」
女は竹軒の問に答える代わりに、小さな声で歌ったのだった。
「力、山を抜き、気、世を覆う。時、利あらずして騅(項羽の愛馬の名)行かず
騅行かざるを如何せん。
虞や虞や汝を如何せん」
「何と、それは、項羽が垓下の戦いで劉邦の漢軍に敗れ、四面楚歌になって絶望したときに歌った、『垓下の歌』ではありませんか」
女が暗闇から姿を現した。竹軒は気圧されて洞窟の壁まで後ずさった。楊貴妃が輝く白牡丹だとすれば、この女はさしずめ緋牡丹と申すべきか。しかも、垓下の歌を歌うとは・・・竹軒は口ごもりながら、
「あなたは・・・まさか、虞美人・・・」
「よくご存じでしたね」
竹軒は仰天した。項羽の愛人の虞美人にこのようなところで出会うとは。
偶然というにしてはあまりにも不思議だ。というのも、項羽が劉邦と戦ったのは紀元前二百年も前と史書には記されている。一方、楊貴妃は唐の国の女なのだから虞美人よりも一千年も後に生まれたことになる。その二人が、歌に歌われている通り、輝くばかりの美しさを保っているとは・・・。竹軒が息をのんで立ちつくしていると、虞美人は二、三歩近づきながら、
「竹軒様、私はここから出る手だてを持っておりますが、一緒にお逃げになりますか」と訊く。
「まさか、このような牢獄からどうして逃げられるというのですか」竹軒が恐る恐るそう尋ねると、
「私の愛しい項羽様は、何万の人々を殺した罪で血の池地獄に堕とされましたが、私を思い切れず、何千丈の壁を二千年掛けて上ってきて、今はこの床の下までおいでになっています。間もなく床に穴が開くでしょう。さすればここから逃げられます」
これを聞いて竹軒は、
「しかし、逃げたといっても、それは血の池地獄に続いているのでしょう。二千年かけたからと云って、地獄の外に出られるわけはありません。足を滑らせたら真っ赤な血の中に落下するばかりです」
「いいえ、血の池であろうと炎の中であろうと、このような処にいるのと比べれば、項羽様と共にいるほうがどれほど良いかわかりません。あなた様も私たちと共においでなさい。ほら、聞こえるでしょう、あの方が盗跖たちを使って穴を掘っている音です」
「盗跖ですと?・・・まさか、それは、一万もの盗賊を率いて手当たり次第に町を荒らし、財宝を奪い、あげくの果てに人を刺身にして食ったという、あの盗跖の事ではありますまいな」
「その盗跖ですとも」
「項羽ともあろう英雄が、歴史にその名を残している悪党を使って、穴を掘らせているのですか」竹軒が驚きあきれてこう云うと、
「悪党だろうと盗賊だろうと、地獄から出るために役立つのであれば使うのが当然です」と虞美人はこう云って微笑んだ。とその時、不意に扉が開き、宦官が入ってきた。
「お前は先ほど何とか申す方剤を処方したが、少しも効かぬ。お妃は大層お怒りじゃ」
竹軒は憤慨して、
「そのようなことはござりますまい。効かぬというのは、まだ時間が立たぬ故でござりましょう。あと十日、二十日飲み続ければ必ず効き目が現れましょう」
これを聞くと宦官は不快気に、
「効かぬ薬を飲み続けたからといって治るものか。お妃様は、めまい、頭痛に加え、上半身が焼けるように熱く、ひどく汗をかき、いらいらして我慢がならぬと申されておる。もし処方ができなければ、そなたはいつまででもここに閉じこめられよう。それが嫌なら、別の薬を作れ」とこう云って、薬研と生薬の入った袋を投げ出すと「出来たら扉を叩け」と言い捨てて出て行った。
何という愚かさだ。竹軒は腹立ちを抑えきれなかったが、処方せねばどうにもならぬと自分に言い聞かせると、薬研に生薬を次々と入れて二種類の薬を作り上げた。
「それはどのような薬でしょうか」と虞が興味深げに尋ねるので竹軒は、
「右手の薬は、女神散と申しまして、心、肝の気が調和を逸して過剰になり、怒り易くなり、同時にめまいや肩こり、のぼせなどさまざまな症状が出た時には大変に効きまする。左手の薬は、桂枝茯苓丸と申しまして、身体に血液が鬱滞し、そのためにめまい、頭痛、のぼせと同時に、手足の冷えがあり、また肩が痛んだり、便秘がある者には特に効能があります。楊貴妃はおそらく、さまざまに証が変化するものと見えますから、このどちらかが効くかも知れません」と説明すると、虞は白い額を少し曇らせて、
「それほどの薬をあのような女に飲ませるのはあまりにももったいなさ過ぎますわね」と云うなり、手を伸ばすと、女神散と桂枝茯苓丸の双方をひっつかんで、たちまち飲み込んでしまった。
「何をなさる」竹軒が仰天していると、足下の床が鑿で削られる音がカンカンと響く。
「項羽様が迎えに来て下さった。この時を私は二千年以上も待っていた。ああ、この時を・・・」
虞は床に這いつくばると「項羽様、項羽様、私はここです」と大声で叫んだ。とその声を聞きつけた宦官が屈強な男共を率いて飛びこんできた。
「うるさいぞ。お前は何を叫んでいる・・・何だその口は、薬ではないか・・・貴様、お前はお妃様の薬を飲んだのか」
「ええ、飲みましたとも、あのように醜い女には鬼の毛でもしゃぶらせていればよいのです。もうすぐ項羽様が床からはい上がって来られます。さすれば、あなた方は皆殺しにされるでしょう」虞はこう云って朱の唇を開いてカラカラと笑った。と、扉の向こうから緋色の衣をまとった女がコウモリのように素早く滑り込んできたかと見る間に、虞に掴みかかった。楊貴妃だった。
「お前のような女を生かして置いたのが過ちだった。こうしてやる」楊貴妃は虞の首を蛇の皮のような指でぐいぐいと締めつけた。「私はこのように、高力士に縊られて死んだのだ。お前にそれがどれほどの苦しさか、教えてやる」
あの美しい女のどこにこれほどの力が隠されていたのかと疑うほどの恐ろしい力で虞の首を締めるので、虞は今にも息絶えようとした。とその寸前、床に穴が開いて、項羽が剣を振りかざして飛び込んできた。続いて盗跖とその部下が数百人も穴から這い出してきた。彼らは逃げまどう宦官や男共の首を造作もなく切り捨てると、楊貴妃を捕まえて黄色い歯をむき出して笑った。盗跖は血ぬれた剣を肩に担ぎ、楊貴妃の白い顔に臭い息を吹きかけた。
「こんなに良い女が居たとは何ともありがたいことだ。どのように可愛がってやろうかの」盗跖は舌なめずりしながら楊貴妃の衣を剥ごうとした。と、次の瞬間、盗跖の首は胴体から離れ、床の上をごろごろと転がった。血で汚れた床に、項羽が剣をかざして立っていた。項羽は盗賊たちを見渡すと、
「俺の命令を聞かぬうちに勝手をするものはこの通りだ。虞の機嫌を損ねる者も許してはおかぬ。その見せしめに、この女はこうしてやろう」
項羽はいいざま、楊貴妃の腕に刀を立てて右腕を切り落とし、次に左の腕を切り落とした。楊貴妃は悲鳴を上げながら、
「私はお前を呪ってやる、地の底に落ちても呪ってやる、項羽も虞も、血の池地獄の屑となるが良い、必ず私はそうせずにはおかぬぞ」
楊貴妃がそう叫んだので、項羽は「そうか、出来るものならやってみるがよい」と云いながら楊貴妃の鼻に剣を突き立てると顔を真っ二つに切り裂いた。
「これが玄宗皇帝の愛妾のなれの果てだ。ぼろのように崩れておるわ。誰か、この汚物をその穴から突き落とせ・・・俺は二千年あまりの間、血の池地獄で苦しめられた。だがとうとうその穴から出てきたぞ。こうなったからには、この手で閻魔庁の役人共を皆殺しにし、閻魔大王をも血祭りに上げ、この項羽様が閻魔大王の代わりとなろう」
これを聞くと虞美人は莞爾と微笑んで、
「そうなされませ。項羽様なら、閻魔大王よりよほど地獄の王に相応しいと存じます」
竹軒はふるえながら一部始終を見ていたが、『こんな悪魔のような者共と一刻もいられるものか』。すぐさま薬研と生薬の入った袋を腕に抱いて暗闇に紛れて逃げようとした。と、竹軒を見つけた盗賊が彼を捕まえて項羽の前に引き立てた。
「お前は医者か」
「・・・」
「お前には舌がないのか・・・ふむ、医者というものは二枚も三枚も舌を持っているようだからな、これからは嘘をつけぬよう、その舌を切ってやろう」
項羽は部下に竹軒の舌をつかんで二寸も外に引っ張り出させると、鋭い剣を振り上げていまにも切り裂こうとした。
轟音が響き渡ったのはその瞬間だった。床が崩れ、項羽も虞も盗賊たちも、血の池地獄に向かって石つぶてのように落ちていった。竹軒も共に落ちていった。阿鼻叫喚が四方の壁にこだまして、恐怖が凍り付いている。ああ、私もとうとう地獄の釜に煮られるのだな、と竹軒は覚悟した。あたりいちめんに煮え立った血のにおいが渦巻き、悲鳴や泣き叫ぶ罪人の叫び声が煙のように渦巻いて吹き上がる。竹軒はその中に小石のように落ちていった。血の池の罪人たちが両手を挙げて叫んでいる。目の玉が踏みつぶされた蛙のように飛び出し、鬼の手で皮を剥がれた罪人が痛みと絶望に責めさいなまれながらそれでも必死に逃れようと血の壁にしがみついている。もうすぐ私もあの仲間になるのだ・・・竹軒は目を閉じた。
とその時、竹軒の身体に何かがからみついた。象の鼻だった。普賢菩薩の象は気を失った竹軒を救い出すと大きな背に横たえた。
気がつくと彼は伍官王と並んで象の背に揺られていた。
「肝を冷されましたかな」と伍官王はにっこりと微笑んだ。
「・・・伍官王さま・・・私は・・・地獄の釜にいるのではないのですね」
「大切なお方がそのようなところに行くわけはありません」
「しかし、突然床が崩れて、何もかもが落ちていったように記憶しておりますが・・・」
竹軒が青い顔をしてそう述べると、伍官王はさも涼しげに、
「判決が下ったのです。生まれながら人は心に無窮の天の光を持っております。ところが私欲にとらわれた者は、時として天から授かった美しさへの感謝の念を失い、身近な人から受けた恩を忘れ、人々を憎み、挙げ句の果てに世界を汚してしまいます。故に、飽くなき欲に囚われ、両手に財宝を抱えながら、それらを己一人のものとして、人々への優しさと慈悲の心を忘れた者たちは、権力欲と暴力によって世を乱した者共同様、未来永劫、さまざまな地獄巡りの運命から逃れることはできぬでしょう」
伍官王と竹軒を乗せた象は両側が深い閻婆度処地獄になっている谷の一歩道を、ゆらりゆらりと閻魔庁の方に戻って行くのだった。 <第十六話終わり>