「閻魔庁の籔医竹軒」 第十五話  ハムレット(83番・抑肝散加陳皮半夏)

 暗い闇の中で誰かがしゃべっている。鬼である様子はない。地獄の亡霊だろうか、それとも、生前の苦しみから離れられず苦しんでいる魂だろうか。

 昔ローマ帝国全盛の頃、

大シーザー遭難の直前には、

ローマ中の墓はことごとく口を開き、

さまよい出た亡者の群れが

ローマの辻々で泣きわめいたという。

また、空の星は紅蓮の焔の尾を曳き、

血の露が降り、

太陽の光は怪しくかすみ、

海の汐の干満を支配する月も完全に蝕(か)けて

この世の終わりかとさえ思われたということだ。

現にこの国でも、そらあの大事件の直前

恐ろしい運命の前触れとして、

来るべき大凶事の前兆に

天変地異が起こって、われわれを驚かしたではないか。

 

しっ、見ろ、またやって来た!

道を遮ってやろう、祟るなら祟れ。

 一人の若者が両手を拡げ、竹軒の前に進み出た。

「さあ、云え! 貴様ら幽霊は、死後までもうろつきまわるのか」

 若者が腰の剣に手を掛けて抜こうとするので、竹軒は慌てて制して、

「どうかお静まり下さい。私は幽霊ではありません・・・そこに見える庵で医業を営んでいる竹軒という医者でござります」

「何と、お前が医者の竹軒、確かにそうか?」

「確かもなにも、私の他に地獄に竹軒はおらぬと存じます」

 これを聞くと若者は闇に向かって、

「探していた者がようやく見つかりましたぞ」と叫んだ。その声に応じて、もう一人の若者が朦朧と現れた。

若者2「確かに目当ての男かい」

若者1「どうやら確かのようでございます」

 若者2、竹軒の回りをぐるりと回って皮肉な薄笑いを浮かべる。

若者2「奇妙な出で立ちをしておるな。我が国の医師とは似ても似つかぬ恰好ではないか。もしもお前が医師であるとしたら、『アスクレピオスの杖』を持っているはずだが・・・何も持たぬようだ。ホレーショ、君は間違った者を探し出したのではないか。この男はアスクレピオスの杖どころか、『ケリュケイオンの杖』も持たぬようだぞ」

 (注・アスクレピオスはギリシャ神話に登場する名医。死後天に上って蛇使い座となった。欧米では現在も医の象徴として世界保健機関のマークにもなっている。ケリュケイオンはギリシャ神話のヘルメスが持つ杖のことで、アスクレピオスの杖は蛇が一匹なのに対して二匹の蛇が巻き付いている。やはり医のシンボルとして欧米の医療機関で用いられている)

 若者が失望と軽蔑の混じり合った眼差しで冷ややかに見つめるので、竹軒はいささかムッとして、

「私は東洋の医者ですが、有名な哲学者ソクラテスが死に瀕して『クリトン、アスクレピオスに鶏を一羽、お供えしなければならなかった。忘れずにやってくれ』と弟子に頼んだという話は伝え聞いております。アスクレピオスは古代ギリシャの医術の神であったのでソクラテスも信仰していたのでしょう。しかし私は日本の医者ですから、大国主命こそもっとも優れた医術の神であると思っております」

若者1「ふーむ、どうやら無学の輩ではないようだが知識人とはほど遠いな。というのもソクラテスが死に瀕して弟子に語った言葉は貴公が誰ぞから聞いたものとは大違いだ。彼はこう言ったのだ。

『私は医術の神アスクレピオスに鶏を一羽借りている。 借りを忘れずに返してくれないか』

 それを貴公は『クリトン、アスクレピオスに鶏を一羽、お供えしなければならなかった。忘れずにやってくれ』と間違えた。生兵法は大怪我のもとであると同様、浅知恵は大恥のもとというのもどうやら真理のようだ」

竹軒「私は通りすがりのあなたにこのように侮蔑される謂れは無いと存じますが、成り行きでござりますから申すことにしましょう・・・思いますに、『私は医術の神アスクレピオスに鶏を一羽借りている。借りを忘れずに返してくれないか』とソクラテスが言い残したという貴方の説は納得しかねます。なぜと云うに、ソクラテスはその生涯に於いて、医術の神に何の借りも負ってはいなかったからです」

若者2「何だと? それはどういう根拠からそう申すのだ」

竹軒「ソクラテスはご承知の通り、アテナイの青年に害毒を与え、国の神々を認めないという廉(かど)で告発され死刑を宣告されました。多くの人々はこれほど優れた人物を失う事に耐えられず逃走を助けようとしましたが、ソクラテスは「悪法であっても国の法律は守らなければならない」と述べて、自ら毒杯を呷(あお)ったと伝えられております。ですから当然のことながら、死ぬ前に医師に掛かったはずはないし、毒消しを頼んだようなこともない事は確かな事実でしょう。ですから、彼は生前にはアスクレピオスに借りはないと思うのです。

 しかし、ソクラテスは死後の世界の存在を信じていました。それについては『パイドン』などに縷々記されておりますから今更ここで述べるまでもないでしょうが、ソクラテスが死後の世界で自分が再び生きるであろうと考えていたことは確かです。そうした観点からすると、『クリトン、アスクレピオスに鶏を一羽、お供えしなければならなかった。忘れずにやってくれ』という言葉の意味は理解できます。というのも、生前飲んだ毒の作用が死後も残っていたとしたら、ソクラテスは死後の世界に再生することはできませんし、哲学を論じることも出来ません。もしそうだとしたらこれは大事です。故に、ソクラテスは死ぬ前にアスクレピオスに鶏を捧げ、死後の世界での治療と救いを依頼したのではないかと考えられるのです」

若者2「『・・・どうやらこの医者は評判にたがわぬ者であるようだ・・・』ホレーショ、生きているうちには出会えず、死んで後にこれほど面白い奴に出くわすとは、皮肉な事だな、そうは思わないか・・・」

若者1「いや、その通りですとも。お二人の会話に感服いたしました。竹軒殿の言い分はまことに理路整然としている。我が国のおおよその貴族や学者たちよりも数段優れている。それでこそ頼ってきた甲斐があったというものです」

 

 竹軒が庵に案内すると二人の若者はあたりを見回していたが、彼らが尋常の人物でないことは、その衣服が金糸銀糸で刺繍され、宝石で飾られた黄金の剣を腰に佩いていることから明らかだった。

若者1「実は私とこちらの方が貴公を尋ねたのは、他でもない、この方の御心を治療して欲しいが為なのです」

竹軒「凡そは見当がついております」

若者1「見当がついているとは・・・」

竹軒「先ほどこちらのお方はあなた様をホレーショとお呼びになりました。ですから、こちらのお方はハムレット様でござりましょう」

  ハムレットとホレーショ、顔を見合わせる。

ホレーショ「なるほど、貴公は確かに名医らしい。名医であれば、貴公はハムレット様の病を治療することが出来るであろう」

竹軒「ハムレット様の病は常の病ではありません。従って、ある程度症状を軽くすることは出来ましても、根本的に治すことは難しいかと存じます」

ハムレット「医者は治療もせぬうちから自己弁護をするものだが、お前も俗物医とさして変わらぬようだ。というのも、俺という病人を診察する前に、自己の無能を楯にして、俺の病を治せぬ時の弁明を言い立てている。つまり、貴公は、その名に違わぬヤブ医者ということだな」

竹軒「何と申されるのも勝手でござりまするが、華佗や扁鵲のような名医が診ようとも、治すことは困難であろうと存じます」

ハムレット「カダなどという医者の名は聞いたことがないが・・・」

竹軒「華佗は紀元三世紀ごろ、後漢から三国時代にかけて活躍した魏の名医でござります。漢方にも優れておりましたが、麻沸散という麻酔薬を用いて外科手術なども行いました。しかし、時の皇帝、魏の曹操の侍医となったため、殺されました」

ハムレット「何故それほどの名医を殺したのか」

竹軒「王宮は蛇の穴、権力を求める魑魅魍魎のうごめく魔窟でござりまするから、華佗が何故に殺されたのか、その真相は存じませぬ」

 これを聞くと、ハムレットは竹軒を凝視してしばらく沈黙していたが、やがて落ち着きを取りもどそうとして、大きく息をすると、

ハムレット「貴公に一つ質問したいが・・・」

竹軒「承りましょう」

ハムレット「貴公は世にもまれな淑女に恋し、死ぬほど焦がれていながら、その思いを臆病な蜥蜴のように脅かして、心の中から追い払って、無慈悲な残虐さで、逃げようとする蜥蜴の尻尾を切り取って、その醜さを賛美したことがあったかね」

竹軒「私も生前は若いときもござりましたから、人並みの恋はいたしましたし、失恋の涙も流したこともありますが、貴方様のおっしゃられるような思いは経験がありません」

ハムレット「その経験なしでは俺の苦悩は分かるまい」

竹軒「残念ながら、人それぞれの人生ですから、同じ苦悩を味わうことは誰にもできぬことと存じます。しかし、自分の苦悩が世界で最も深いと信じ、また他人にもそれを信じさせようとするのも、愚かな試みと存じますが」

ハムレット「口の減らぬ奴め・・・まあよい・・・では聞くが、女の美と貞淑さは共存できると思うかね」

竹軒「女と生まれた者が、美と貞淑を兼ね備えているに越したことはありませぬが・・・しかし」

ハムレット「しかし、何だ?」

竹軒「私の存念を申し上げます前に、美と貞淑に関するあなた様の意見を先にお聞きしたいと存じまして」

ハムレット「俺の答は簡明だ。美と貞淑を具えた女性は理想ではあるが、それは幻想というものだ。というのも、美という奴はまたたくうちに貞淑を乗っ取り、淫売婦に変えてしまう。貞淑がどう頑張ろうと、こいつにはかなわない。トロイのヘレンが良き模範であろう。彼女はギリシャ一の美女であり、ギリシャ第一の独裁者アガメンノンの弟、メネラオスの妻だったが、トロイ王子パリスに誘惑されて彼の地に逃げ、為に、トロイは滅亡した。一人の女の美が、その女の貞淑を殺し、当時世界第一の繁栄を誇っていた大都市を滅ぼしたのだ。ヴァージルの叙事詩『イーニッド』に在るだろう。トロイの王、プライアムの最後の場面だ。

 躍り出たる荒武者ピラス、心も暗く、ぬばたまの黒き鎧に身を固め、呪いの馬(トロイの木馬)の腹中の闇にひそみしかの曲者、見よ、その黒金おどしの甲冑も今は色変わり、紅に染まってもの凄く、面も、頭も、爪先まで、

唐紅に照り映えるは父の血、母の血、

娘の血、息子の血、かくも多くのトロイの子らを、

焼き殺したる紅蓮の焔は巷を覆うてすさまじく、

焦熱地獄の火の如く、虐殺者の行く手を赤々と照らしたり。

憤怒と猛火に身を焼かれ、膠のごとき凝血に五体は覆われ、強ばりて、眼をば紅玉のごとく輝かせたる阿修羅のピラスが、

求むる相手はトロイの老王プライアム・・・『そして我が父もまた・・・』

竹軒「・・・」

ハムレット「全てを破壊したのは、女の不貞だ。つまり、女の美と貞淑は絶対に共存し得ぬということなのだ」

竹軒「・・・なるほど、お話の趣はよく分かりました。私は西欧世界が女性にどのように美と貞淑を求め続けたのかよく知りません。故にあなた様のような博識のお方に何を申し上げるお話もありませんが、ただ一つ、貞淑ということに関して申しますれば、十字軍の遠征の際などには、女性に貞淑を強制するために貞操帯などを填めたという話はいかにも滑稽な拷問としか思えません。と申しますのも、日本の古代においては、恋愛は自由であって、貞淑というような思想はなかったのです」

ハムレット「そのような話は信じがたい、仮にそうだとしたら、お前の国の人間はみな道徳心が欠如し、秩序も喪失して、ソドムとゴモラ同様の醜い欲望が国家全体を覆い、男も女も淪落の底に沈んでいたのであろう」

竹軒「いいえ、その反対です」

ハムレット「反対とはどのような」

竹軒「自由な恋愛の中から美の極致とも申すべき和歌が生まれました」

ハムレット「ふん、歌や詩など麻薬同様に空しいものだ。嘘と歯の浮くようなお世辞を並べ立てて人の心を幻想に駆り立て、気付くと、そこにあるのは蜃気楼のごとき裏切りと嘲笑ばかり、地獄の火に焼かれるような苦しさが心をジリジリと責め立てる」

竹軒「あなたがそのように苦しみ、女を恨んでおられるのは、実はあなたの所有欲の故でござりましょう」

ハムレット「お前は、この俺に責任があるというのか」

竹軒「あなたの国の男は、あなた様に限らず、恐らくは女の衣服を宝石や金銀で飾ると称して、実はその黄金の鎖で彼女を縛り、宝石を彼女の自由を奪う道具として重宝していたのではありませんかな」

ハムレット「男とはすべてそうした者だ。そして女もまた、宝石という道具に好んで縛られたがる」

竹軒「ではそうではない男や女がいたとしたら」

ハムレット「無意味な議論だが・・・まあ、聞いてやろう」

竹軒「あなたの国にも多くの美女がおられましょうが、我が国にも美女伝説には事欠きません。しかし彼らはあなたのオフィーリア様のように縛られていたのではなく、男と恋を語っていたのです」

ハムレット『何をつまらぬ世迷い言を話そうとしているのだ・・・この年よりは』

竹軒「たとえば、小野小町には十指に余る恋人がおりましたし、和泉式部は橘道貞の妻でしたが、宮廷に上がると冷泉天皇の第三皇子為尊親王と熱烈な恋愛に落ち多くの歌を詠みました。しかし為尊親王が亡くなると、その弟敦道親王が彼女に夢中になり、親王は自らの屋敷に特別な部屋をこしらえてそこに迎え入れたのでございます」

ハムレット「そのような馬鹿な話を信じられると思うのか・・・王子と寝所を共にした女が、その弟とも通じるとは・・・『もしもそうしたことが許されるというなら、我が母ガートルードと父の弟であるクローディアスが不倫の床に急いだことも許されるということになる。母は片時も離れず父に寄り添って愛情を育み、情愛は年々募って行くように見えた・・・そして、父が死んで遺骸に付き添って行く時には泣き濡れて眼も赤く腫れ上がっていたというのに・・・それが一月もたたぬ間に義弟のクローディアスと結婚するとは・・・』」

竹軒「どうなさいました。顔色がすぐれぬようですが」

ハムレット「淫婦は輝く天使と連れ添うとも、やがて、天上の床に飽きはてて、ごみための腐れ肉を漁り歩くのだ」

竹軒「それはまるで意味を成しませぬが」

ハムレット「お前のような薮医には俺の心の中など何一つ分かるまい。というのも、自由な愛などというものはアダムとイブを欺した蛇の類でなければ、淫乱な羊の国の出来事に違いないのだが、それが我が身に起きたのだからな」

竹軒「そのご様子では、あなた様は死んで後も王妃であったあなた様のお母上をお許しにならないおつもりですね」

ハムレット「地獄の底に追い詰めても、父への謝罪の言葉を聞かぬ限りは決して許すものか」

竹軒「しかしそれはあまりに・・・」

ハムレット「弱き者、汝の名は、女なり・・・女どもは神様が下さったものとはまるで別の生き物のように顔や首を塗り立てて、腰を振る、踊る、甘ったれる、ふしだらを冒す、そのくせ、知らないわなどと言い抜ける、そんな女共をお前は信じろというのか?」

竹軒「信じなければ、人間世界には生きて行けますまい。人間世界には男と女しかいないのですから」

ハムレット「それ故、俺は世界が崩れて、露となって消えてしまえばよいと思っているのだ。退屈で、愚劣で、平凡で、無意味で・・・この世の営みという奴が俺は我慢ができぬ。荒れ果てて、汚らしいものばかりが生い茂っている・・・だから俺はいっそ自殺したかったくらいだ。だが、自殺は神に許されていない・・・こんなくだらない世界に、神は俺を放置しながら、無惨な光景をみせつけるのだ」

竹軒「お気の毒に・・・私はあなたの国の神については何も知りません。しかし、私の国には密教という仏教の教えが国家全体に行き渡って、日々の生き方にも浸透していましたから、当時の人々はあなたのように、善と悪、貞淑と売女のようなつまらぬ区別はしなかったのです」

ハムレット「そんな無秩序な有様で国家や王室が治まるわけはない」

竹軒「いいえ、その反対に日本には四百年もの間、大戦争というものは皆無だったのです。ですからその間は正規軍もありませんでした」

ハムレット「軍隊がない? そんな馬鹿なことがあるものか、正規軍や近衛兵がなければ、王は一日たりとも生きていられまい」

竹軒「それが平安時代という古代四百年もの間、日本の天皇はまったくもって軍隊も近衛兵も持たなかったのです。兵部省はありましたが、大将・中将などといっても、みな飾り物で戦とは無縁でしたし、刀を抜いたことは何百年もなかったのです。宮廷を形ばかり守護する滝口の武士と申す者がおりましたが、一時期は九人ほどでした」

ハムレット「馬鹿馬鹿しくて聞いておられぬ。軍を持たぬ王などというものがこの世に存在するわけがないではないか。というのも国家は軍隊によって成り立っているからだ。国王は軍の最高指揮官であり、立法行政の長でなければならぬ。軍を率いぬ国王が、どうして臣下や国民を抑えられるのだ」

竹軒「では、あなた様の国では、あなたの父上も、祖父も曾祖父も、軍隊を率いておられたのですか」

ハムレット「言うも愚かなことだ。古来から王の地位に就いた者は軍を率いて各地を転戦し生涯を終えたのだ。だからこそ、死んで後、亡霊となってからも、父は頭から爪先まで武装して俺の目の前に現れたのだ」

竹軒「・・・死んで後も武装を解くことが出来ぬとは・・・しかし、何のためにそれほど厳重に武装しなければならないのです?」

ハムレット「謂わずと知れたこと。王の役割は領地を獲得し、賠償金を取り、臣下に分かち与えることにある。国王の地位に就いたからには自国を守り、他国を攻めることに専念せねばならぬ。というのも、王の地位と名誉は他国の領地と富を掠奪し、王に随った貴族や兵士共にその働きに応じて分かち与えることで保たれているからだ。エジプト、メソポタミア、ギリシャ、ローマの昔からその役割は連綿と受け継がれてきた。というのも、人間という生き物の血と汗は欲望と嫉妬から生まれたのだから、激しく燃える醜い魂を満足させてやるには、大量の餌が必要だからだ。故に、国民は王が戦に勝利すれば富と奴隷と領地の分け前にあずかれるから大いに喜ぶのは当然だし、敗ければ国王は牢獄に繋がれ、破れた国の国民は何もかも失ったその果てに、奴隷の身分に落ちなければならぬ運命・・・つまりその姿は人間に狩り取られた鹿が生きたまま焼かれ食われるのと同様なのさ」

竹軒「・・・」

ハムレット「故に王はどのような状況にあっても勝利を得なければならぬ。どれほど卑怯卑劣な手を使っても勝利せねば全てを失う。そして勝利した暁には大きな栄光が待っていることは確かだが、だからといって獲得した戦利品を王が独り占めにすることは決して許されない。戦功に応じて公平に分配するのが王の務め。というのも万が一分配が不公平だと知れた場合は、取り返しのつかぬ不和が生じ、国家も軍隊も弱体化するからだ。かの有名な不滅の英雄、アキレウスがアガメンノンと対立したのも、トロイ攻防戦の最中、分捕った戦利品の分配をアガメンノンが公平に分配しなかったからだ」

竹軒「戦争の最中に略奪品の分配で指揮官同士が対立したのですか」

ハムレット「公平さが失われれば不和が生じるのは避け得ない。なぜなら、戦争の目的は、ハゲタカが屍の肉をつつくように、できるだけ多くの領地と宝物と、女と奴隷を獲得することにあるのだから、うまい餌にありつけなかったり、横取りされたりすれば、当然内紛が生じよう。というのも、どれほど汗の泥にまみれ、豚のように臭い体になっても、宝物を床に並べ、女と床を共にすれば、それまでの死ぬほどに苦しい戦いをたちまち忘れさせてくれるからな・・・これは英雄だろうと、槍もろくろく使えない兵卒だろうと、同じ事だ。もっとも、英雄は、天下の美女を得んとし、兵卒は歯の抜けた老婆で我慢しなければならないのが常ではあるが・・・何より重大なのは略奪品の分配であることは確かなことだ」

竹軒「・・・」

ハムレット「先ほども申したように、ギリシャ第一の英雄であるアキレウスと総大将アガメンノンが抜き差しならぬ敵意を互いに抱くに至ったのは、アキレウスが戦いの最中に掠奪した乙女・クリューセーイスをアガメンノンが横取りしたからだ。彼女はトロイの神殿でアポローンを祀っていた神官の娘であったのだが、アキレウスがこの神殿を破壊して乱入した時、暗闇の中に隠れていた。それを見つけて己の閨に連れてきたものを、アガメンノンは彼女の美に目が眩んで横取りした。その上、アガメンノンは、もう一人の美女、ブリーセーイスも引っさらって行ったので、アキレウスは大いに怒って、戦陣に加わることを拒否したものだから、ギリシャ軍はさんざんに敗退して、アキレウスの登場を冀(こいねが)わねばならなくなった」

竹軒「いやはや、あきれた話でござりまするな」

ハムレット「アガメンノンはアキレウスをいかにして説得したか、この部分は『イーリアス』でも実に興味ある部分だから俺はすっかり暗記しているほどだ。というのも、ホメロスが見聞きした世界にも、これほどの愚かさと嫉妬と作為に満ちた駆け引きがあったと知るのは真っ白な布に真っ赤な血がポタリと落ちて汚れるように、実に目を引かずには置かぬ出来事だからな。・・・アガメンノンの使者に立ったのはギリシャ第一の知恵者で策略にかけては右に出る者がないと唱われたオデュッセウス。オデュッセウスがアキレウスのテントに入って行くと、アキレウスはトロイの一つの都市を攻略した時に分捕った金の琴をかき鳴らしながら歌を詠っていた。オデュッセウスはなだめすかしながらこう言った。

『我が子よ、武勇はアテーネーとヘーレーとが授けてくださるだろう。胸を苦しめる怒りを捨てなされ。アガメンノンはあなたが怒りを止めるなら、その引き換えにこれほどの品々をよこすというのだ。まず初めには、まだ火に掛けたこともない鼎を七つと、黄金の錘を十個。照り輝く釜を二十個と、その上に、駿馬を十二匹、それもがっしりとした、競争で優勝したこともある馬どもである』」

竹軒「アキレウスを戦陣に加えるために、そのような貢ぎ物をするとアガメンノンは約束したというのですな」

ハムレット「そればかりではない。それらに加えて七人の、すぐれた手業を心得た女も授けるとも約束した。彼女たちはレスボスの女であって、景勝地として有名な城を攻略した折りに、選りすぐった婦人たちの中でも、器量では立ち勝ったものばかり。それらの女に加えて、彼がアキレウスから奪い取ったブリーセーイスも返すことにした。更に、アガメンノンはあの娘の閨に入りもせず、語らいをしたこともない、と固い誓いをかけたというのだ・・・アハハハ、あの汚らわしいヒヒおやじのアガメンノンは、血も涙もない狡猾な王だが、トロイとの戦争に勝つためには己の面子も恥も外聞もかなぐり捨てて、アキレウスの前に這いつくばったというわけさ・・・そんな事実があろうとは全く信じられないことだが、しかし、オデュッセウスはそれまでしてもなんとかアキレウスを説得しようとしたのさ。そして、また、それでもアキレウスが満足しないと見ると、次のように述べ立てた。

『アガメンノンには三人の娘がある。この三人のうちの誰でも、望みの姫を、結納も貰わずに、正式の妻として、君の屋敷に連れて行かせよう。持参の品もどっさりつけてな。まず土産に持たせる立派な構えの城市は七つで・・・』アハハハ、滑稽きわまりない交渉ではないか。しかしそれもやむを得なかったというのも、アキレウスの怒りは余りにも深かったので、これぐらいの贈り物では到底治まるものではなかったからだ。しかしそれらの贈り物も何の益もなく、アキレウスはにべもなく拒絶したものだから、ギリシャ軍はその後も惨めな敗退を続けたというわけさ」

竹軒「・・・私は話の内容もさることながら、病に冒されたあなた様が、何故にこのような古代ギリシャとトロイの戦いをかほども情熱的に語られるのか、とんと理解ができませんぬ」

ハムレット「何故に俺が語るかと訊くのかね、それは他でもない、真理だからさ」

竹軒「はて、真理とは、どのような」

ハムレット「古今東西の真理という奴だよ。ペロポネソス戦争の時には英雄ペリクレスが現われ、アレキサンダーはエジプトでは神と呼ばれ、絹と黄金とで飾り立てられたペルシャ帝国を瞬く間に征服し、インドまで攻撃して大帝国を築き上げた。シーザーはガリアを征服し、実質的なローマ皇帝となった。彼らは何故に大英雄になれたのか。話は簡単だ。アガメンノンの強欲な王権と、アキレウスの無敵の勇猛さが一人の人間に融合したからだ。彼らは生まれながらにしての侵略者であり、強欲な支配者だった。そしてその末裔がヨーロッパ各国を支配している。見給え、かのヘラクレスがネメヤで絞め殺した獅子のように獰猛なスペインは、子羊の如くにかよわいインカ帝国を怒り狂う針鼠さながら、肉も皮も骨までも貪り食って、子羊共を鞭で追い立てて山を削り穴を掘らせ、山ほどの黄金を手中にした。英国はこれを見て狼のように涎を流し、正規の海軍では危ういとばかりに卑劣非道にも強盗追い剥ぎにも等しい海賊共を操って、スペイン海軍を日夜悩ませて、ついには巧妙な術策によって無敵艦隊を撃ち破り、かくして世界の二分の一を植民地として奪い取った。この有様を見て奸智と貪欲さにかけてはいずれの国にも劣らぬフランスは、遅れじと雲霞の如き大軍を繰り出してヨーロッパ各国を攻撃し、中東からアフリカまで手に入れている。つまり、ヨーロッパの王の役割というのは、強欲な兵士共の陣頭に立ち、彼らの底なしの腹を肉と酒で太鼓のように一杯にしてやるということさ。その為には神だろうと天使だろうと悪魔の力だろうと借りるのが正義というものだ。というのも、それが出来ねば近衛兵だとて信用できぬ。陰謀が張り巡らされ、やがては首を刎ねられるばかりという具合。王とは昔からこうしたものであるし、国家とは欲望の巣窟なのだ。そしてまさしく我が国は、陰謀によって王室が瓦解し、国家が存亡の危機に瀕している。それもこれも、あのヒヒおやじと、ふしだらな女の弱さがもたらした悲劇というわけなのさ」

竹軒「ではあなたは、もしもあなたの父が健在で、母上も理想の母であったとしたら、デンマークの精鋭を率いて植民地掠奪の戦陣を切って行くだろうと申すのですね」

ハムレット「もちろんだとも、ポーランドに進撃して凱旋したフォーチンブラスよりもはるかに勇猛果敢に俺は戦い、天に群がる星も驚くばかりに、我が国の国威を高からしめたであろうことは神に誓って正しい事だ」

竹軒「では、あなたは平和よりも戦争を好んでおられるのですね」

ハムレット「平和・・・そんなものがこの世にあると考えるのは、オルフェウスの笛によって動物も草木も笛の音に踊り出すという伝説を信じるようなものだ。物語を語るのは勝手だが、この俺を弄ぶことはゆるさんぞ。というのも、この世にあるのは裏切り、欺瞞、虚栄、驕慢でありまた、侵略、掠奪、陰謀、ヘボナの毒薬による暗殺などであって、そこから生じる結果は、悪党共の饗宴とお人好したちの屍の山なのさ」

竹軒「それはあなた様が不幸な国に生まれたからで、そうではない国も確かにあるのでござりますよ」

ハムレット「アハハハ、この耄碌した爺さんはまだおとぎ話を続けたいのか。して、そのおとぎ話の平和とやらは、どのような理由で成り立っているのだね」

竹軒「あなた様の耳には到底届くとは思えませぬが」

ハムレット「何が聞かぬなどということがあるものか。平和という言葉ほど興味を誘い、心をくすぐる手品はあるまい」

竹軒「では申しましょう。私の国の平和の秘密は、密教の教えです」

ハムレット「・・・それは何だ? 魔女が考え出したのかね」

竹軒「左様・・・古代インドの『ヴェーダ』の世界に種を受け、ヒンズー教と仏教のゆりかごに揺られて千年余りも育てられ、大唐国に伝わってその寛容な魂を受け継いで、空海という天才の手を経て日本に伝えられた仏の教えです」

ハムレット「世に天才と謂われる者ほど怪しい者はない」

竹軒「この教えは存在するもの全てを、あるがままに認めます。人間も魔女も、天人も、餓鬼も阿修羅も、菩薩も愚かな者も、そして賢い者、醜い者、美しい者、貧しい者、富んだ者、貞淑な者、愛慾に囚われた者も、何もかも認められるのです。この世には森羅万象、あらゆるものが目に見える形でも、見えない形としても、存在しています。それはあたかも川の流れの表面に浮かぶ泡沫は私たちの目には見えますが、流れの底に静かに沈んでいるものは見えないように、全ては見えたり見えなかったり、ぶつかったり渦を巻いたりして共存しているのです。この世に目に見える現象として現れるのは世界のほんの一部ですし、それも泡沫のごとく現れてはたちまち消え失せてしまいます。しかし世界には現れる前の存在もまた、現れることを支えている存在も、その存在を支える存在も調和を保ちながら存在しているのです」

ハムレット『この男は狂っているらしい・・・いや、この俺が狂っているのか・・・」

竹軒「仏教ではこの世の存在は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天、という具合に、人間は全宇宙の中の中間にさまようものとして扱われており、その六つの存在を未来永劫輪廻するのが定めとされてまいりましたが、時代が経るにつれ、全てはあるがままに許される、全てはあるがままで菩提であるとされるようになり、あるがままで良い、あるがままで仏になれるという考えが人々に受け入れられるようになりました。それが密教の教えです」

ハムレット「それ見ろ、やはりこの医者は気がおかしいぞ。なにもかもがあるがままで良いなどと、そんな教えがあるものか」

ホレーショ「まことに信じられぬ事ですが、もしもそれが確かな教えなら、しかつめらしい戒律や馬鹿馬鹿しい儀式から解放されて自由に呼吸ができましょうな」

ハムレット「ホレーショ、君は自由と爵位が共存できると錯覚しているのではあるまいな」

ホレーショ「決して・・・しかしあなた様は皇太子の地位と自由の狭間に生涯苦しめられました。そしてあの惨劇が起きたのです。ですから、私は、むしろ、爵位などは捨てて、自由に生きることのできる身分になったほうがどれほど楽しかろうと・・・」

ハムレット「黙れ、ホレーショ、そのような考えは王位とは両立できぬ・・・それに、この医者の言い分はいかにもいかがわしい。というのも、さきほどから聞いていれば、密教とやらは原始宗教そのものではないか。そうではないか。戒律があってこそ初めて宗教の名に相応しいものとなる。モーゼの十戒は良くできているぞ。彼は神は一人と定め、また姦淫を殺人と同様の重罪と断じた。それでこそ国の教えとして相応しい。ところがその密教とやらは、人間があるがままに救われるという・・・あるがままで救われるとは、笑止な言いぐさだ。では、父を暗殺し、母を寝取った俺の叔父もまた、あるがままの自由を享受したのだから許されるのか?・・・彼らが何の罪にも問われず、救われると、そう申すのかね」

竹軒「いいえ、誰が殺人を許容などしましょうや。私が申し上げたいのは、日本の古代に於いては『美と貞操』に関するあなたのお考えとは反対の男女が自由に生きていた時代が四百年も続き、その間、大戦争は全くなくなり、多くの文芸が花開いたという事実なのです」

ハムレット「またぞろ夢物語を聞かせようとは・・・」

竹軒「夢物語ではござりませぬ。しかし何事にも永遠というものがないように、やがて花の時代は正規軍を持った武士に乗っ取られ、あなたの国と同様の修羅の世の中となってしまいました。ですから、この地獄には、その時に大罪を犯した者共がさまざまな責め苦に遭わされています」

ハムレット「そうとも、それこそが真っ当な自然の姿というものだ。というのも、俺の父と俺をあれほどの苦しみに追い込んだ者は八つ裂きにされて当然だ。俺はこの地獄に来てから、叔父がどのような地獄で苦しんでいるかそれが確かめて見たくて遍歴しているのだ。そしてまた俺の友人でありながら餌を目の前にぶら下げられて裏切ったローゼンクランツとギルデスターン、それに俺を毒の剣で刺したレアチーズの苦しむ様も見なければならぬ。残念ながらまだその隠れ家を突き止めてはいないが、そのうち必ず見つけよう。ともかくも、生きている時も死んでからも、俺は牢獄にいるも同然だ」

竹軒「それは自ら牢獄へ閉じこもっておられるからでは」

ハムレット「そんなことはどうでもよい。一つの牢獄から出たとて、また別の牢獄が待っているだけだ。何も知らぬ若い時、太陽を浮かべているたぐいもなく美しい天蓋が・・・ほら、あの頭上をおおう壮大な大空、金色の光をちりばめた壮麗な天空、あれが俺には、まるで毒気のたちこめたうす穢いところとしか思えないのだ・・・なんというすばらしい傑作だ、人間って奴は・・・そしてこの俺は畜生、俺は鳩のように気が弱い。あいつの暴虐を、憤るだけの意気地さえなかった。俺に最初から意気地があれば、とうの昔に大空の鳶の餌食にしたはずだ。

 あの畜生の腐れ肉を。けがらわしいヒヒおやじ!

不実、不義、不人情や、血も涙もない、恥知らずの人でなし!

さあ、復讐だ!

こいつ、なんて馬鹿な奴だ、まったく立派だぞ、愛する父を無惨に殺され、天国地獄こぞって復讐を責め立てるのに、口先ばかりで売女のように心の中をしゃべりたて、あげくの果ては罵り、わめきちらす・・・あの幽霊は悪魔かもしれない。あいつ、俺を惑わし、おれを地獄におとしに来たのかもしれない。もっと確かな証拠を握らねばならぬ、芝居がいい・・・王の本心を探るにはこれに限る」

竹軒『気の毒に、死んで後まで狂気に陥っておられる。眼瞼ばかりか、顔も手足も引きつって、怒りの興奮が今にも喉を塞いでしまいそうな気配だ』

  ホレーショ、竹軒に近付いて、

ホレーショ「ご覧の通り、死んで後まで生前の苦しみがあの方を苦しめ続けているのです。少しの間は正気を取り戻してまともな会話を楽しむこともまれにはありますが、すぐさま絶え間のない呵責と憎悪に身体が蝕ばまれ、癇癪にさいなまれ、ぐっすりと眠ることもできません。私は生前からの友人として、また、彼の死に立ち会った者として、彼を少しでも楽にしてやりたいのです。あなたを探してここまで訪ねてきたというのもそのためで、少しでも苦しみから救って差し上げたいのです」

 竹軒深く頷いて「裏切りと陰謀に満ちた無惨な王室の中であなただけがただ一人、真実の友人でした。あなたはハムレット様が決闘で倒れると、毒をあおって死のうとした。それほどに深い友情に、私のような者が応えられるとはとうてい思えませぬが、なんとか工夫をしてこしらえてみましょう」

 竹軒はこう言って薬研の中にハンゲ・ソウジュツ・ブクリョウ・センキュウ・チンピ・トウキ・サイコ・カンゾウ・チョウトウコウの九種の生薬を入れて抑肝散加陳皮半夏を作った。

竹軒「どうか、これを飲ませて下さい。気の高ぶりを抑え、また気鬱にも効きましょう。恐ろしい夢から逃れて安らかに眠れるようになるかも知れません」

 ホレーショは薬袋を受け取ると、ハムレットの肩を抱いて、

「どうかお気をお静め下さい。この薬はきっと役立ちましょう」

 ハムレットはホレーショの肩にすがりながら呟く。

「もし君が俺を心から思ってくれるなら、しばらく天上の幸福から遠ざかって、この地獄に俺と共に生きながらえ、苦しかろうが、どうか、俺のことを見捨てないでくれ・・・」

 二人の姿は影となって闇に吸い込まれた。地獄に堕ちてまであのように苦しむとは、竹軒は闇に向かって合掌しながら涙を流したのだった。

<第十五話終わり> 付記:引用・参考文献『シェイクスピア』 世界文学大系・筑摩書房