「閻魔庁の籔医竹軒」 第十三話 北斎(16番・半夏厚朴湯)
「診てもらいたい者がいるからきてくれ」と鬼が呼びに来たので庵の外に出ると鬼の姿はどこにもない。見慣れた地獄の景色も見えず、狭苦しい路地が続いている。
涼風の 曲がりくねって 来たりけり
一茶が詠んだのはこんな江戸の下町だろう、そう思いながら歩いて行くと、「こっちだよ」と男の子が手招きする。ついてゆくうちに子どもの数は二人三人とどんどん増えて、十人あまりにもなった。みんな筒袖腰ひも姿で、頭を唐子(からこ)のようにしばっている。ドブ板をまたごうとしたら何かしら妙なものを踏んで転びそうになった。これを見て頬の膨らんだいたずらそうな子どもがアハハと笑って、
「ヤブ医者は 紅葉踏み分け ぐんにゃりと」と叫んだ。子どもたちは竹軒を見ながら大笑いしている。見ると草履に犬の糞がへばりついている。これは困った、そう思ったとたん、
「名物は ぐんにゃりとした 踏み心地」と桃割れの女の子が叫ぶとみんなワアワアと笑う。そこへ人形のように目の細い女の子が寄ってきて、
「医者殿の 糞は人参のようになり」とちゃかす。これを受けてぼろを着た男の子が、
「人参も 茯苓も 末は糞になり」
一同大笑いだ。いったいこれはどうしたことだ。この子らは何なんだ・・・面食らっていると、
「うるさいね!」と金切り声がして、目の前の障子がガラッと開いた。
「医者を呼びに行ってもらったはいいが、何の騒ぎだ。ここには病人が居るんだよ!」蒼い顔の女が目をつり上げて睨んでいる。子ども達は首をすくめて黙ってしまった。女は竹軒を見て、
「あんたがお医者かい」
「・・・そう・・ですが」
「じゃあ中に入っていただこうかね」
「しかし・・・あの子どもらは何なんです。川柳だかだじゃれだかわけの分からないことをはやし立てて私を笑ってましたが」
「江戸では大矢数(おおやかず)が大流行でねえ、一昼夜で千も二千も俳句を詠む競争をやるのさ。井原西鶴なんざ四千句も詠んだんだ」
「たった一日で・・・四千句だなんて」
「信じられないかい・・お江戸に住む者は川柳でも俳句でも十や二十詠めなかったら相手にゃされないよ。子どもらだって作るんだからね」
「・・・それは弱りましたな」
「どうやら無粋なところから来たらしいね・・・そんじゃあ気分改めにも少し聞かせてやろうじゃないか」
女は路地にたむろしている子どもらに、
「みんなこっちへ来て、この薮医竹軒先生にお前らの狂句を聞かせておやり、医者の句がいいね。・・・平介が最初だよ、お次は桃代、お佳、佐助、熊三、末吉、為蔵」女が命令すると、子どもらは顔面紅潮してあるいは目を閉じ、あるいは天を睨んでいたかと見る間に、十歳ばかりの賢そうな子が、
「清盛の 医者は褌で 脈をとり」と叫んだ。竹軒が目をぱちくりさせていると、女は笑って、
「あれのほんとの川柳はね、『清盛の 医者は裸で 脈を取り』というのさ。清盛はさんざん悪いことをしたから暗殺されるんじゃないかとびくびくして、屋敷の中でも鎧なんぞ着てたそうだ。それで医者も脈を取る時にはよほど用心されたに違いないてんで、その有様を『清盛の 医者は裸で 脈を取り』と柳多留(誹風柳多留・川柳集167冊)に読んだ奴がある。あの子はそれを褌に言い換えたのさ」
竹軒がこれを聞いていよいよ驚いていると、
「さあ、お次は桃代」と女が言う。桃割れの女の子は髪を傾げて、
「盛殺す 医者手遅れと 匙を投げ」と可愛い口で言う。
「良い出来だ、ねえ先生・・・ところで先生はあの歌の本句は分かりますか」
「残念ながら分からない」
「せっかくの名句なのに、何も知らないんだねえ・・・じゃあ教えてやりな」女が言うと、桃代は雀の子のような口で、
「盛殺す 医者業病と 名を付けて」
「そう、あれが本句だよ。先生も生前には覚えがあるだろう? 薬の盛り方を間違えて患者が死ぬと、『さてお気の毒ですが、これはもともと業病ですからな、都の名医にかかったとて助かることはなかったでしょう』などと何食わぬ顔で言う。その落ち着き払ったところが憎いと、あの狂句はそう言ってるんですよ」
「・・・」
「さて、お次はお佳かい」
「はい」
「やってごらん」
「臨終に 良いお薬を 盛りたがり」
「良くできた。本句は『臨終に よいお薬と きょくられて』というんだよ。その心は、死んだ患者の婆さんが、脈をとっていた医者に空涙を見せて『このように名医がせっかく良いお薬を盛って下さったのに、お前は死んでしまったんだねえ』と言いながら医者の腕の未熟さをひやかしてるのさ」
「・・・いや・・・これは参りましたが・・・しかし、これほどの川柳というか狂歌と申しますか、それを子どもが詠むとは信じられない事ですが、いったいこの長屋の子は誰からそんな事を教えてもらったんでしょうか」竹軒が真面目にこう訊くと、
「そりゃあどこの長屋にも浪人もいれば黄表紙本の作者も住み着いているからねぇ。貝原益軒先生は黒田藩の人だが、父親は浪々の身だったから薬を売ったり学問を教えて食うや食わずやの暮らしをしてた。益軒先生当人も若い頃は浪人で、その頃父親から教わった医学を飯の種にして糊口を凌いでいたそうだ。お江戸には似たような貧乏浪人がうじゃうじゃしてるからね。子どもらはそんな暇人から論語だの和歌だの、書を教えてもらうのさ」
「ふーむ・・・なるほど・・・驚きました。私が生きていた頃の人間と比べるとここの子どもらは何とも賢い。本句を踏まえて狂歌を作るなんて芸当は到底できません」
「あらそう・・・そりゃあもったいない話だねえ。だって俳句も和歌もご先祖様が残してくれた財産だろう。しかも有り難いことに相続するについては身分は問わない。金持ちだろうが貧乏人だろうが、やる気になりゃあそれぞれに楽しいものさ。だから百人一首の一つや二つ、誰だってそらんじてるよ」女がこういうと、子どもらは高らかに声を揃えて、
「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なをあまりある 昔なりけり」とやったから竹軒はため息をついた。
「どうやらあんたは歌も俳句も駄目なようだけど、謡曲なんぞはやるのかい」
「・・・いいえ・・・」
「じゃあ滑稽本とか洒落本、人情本ぐらいは読むだろう」
「一向に」
「・・・じゃいったい何を読むてのさ」
「・・・それは・・・たまには医学書をほんの少しばかり読みますが・・・」
「・・・はっ、こいつぁあきれた。あのね、私はなんの学もない長屋住まいの女だけど、寝ぼけ先生の話ぐらいは知ってんだよ。あの風来山人(平賀源内)が序文で言ってるだろう。『味噌の味噌臭きは上味噌に非ず。学者の学者臭きは真の学者にあらず。之を名づけて云う、へっぴり儒と』・・・そうだろう。医者が医者臭いのは本物の医者じゃないんだよ。そんなのはへっぴり医てんだ。ほんとに、そんなに無学でなんにも知らない人間が、よくもまあ、医者だなんてほざいてられるね。あんた、ほんとに患者を治せるのかい」
女はそう云いながら竹軒の顔をじろじろと見るから、竹軒は何とも恥ずかしくなって逃げ出したくなった。すると障子の中から嗄れた声がする。どうやら誰かが呼んでいるらしい。女は「あいよ、そんな首くくるみたいな声を出すことはないだろう」そう云いながら障子を開けて、
「まあ、兎に角中に入っておくれでないか」
狭い家の中は六畳二間続きだが、奥の部屋の真ん中に蒲団が敷いてあって誰かが寝ている。手前の部屋は至る所紙ばかり。どうやら絵が描き散らしてあるようだ。それも恐ろしく上手い。これほどの絵描きがこんな惨めな裏長屋に住んでいるとは信じられない。
足下の紙には樵(きこり)が荷を降ろして煙草を吸っている有様が描かれている。その何ともいえない樵の風情・・・それに、その隣に無造作に広がっているのは、あの・・・富岳百景ではないか・・・竹軒が心を奪われていると、
「さあ、こっちへきておくれでないか」と女が手招きする。竹軒が蒲団に近付くと、坊主頭が枕にのっている。その頭がやたらでかい。
「お待ちかねの医者が来たよ、もっとも期待はずれもいいところだけど・・・」女がそう云うと、布団の中からにょっきりと両腕が出た。ついでに目が出る。瞼の周りにも目尻にも皺が波のように深く寄って、眼差しはギョロリとして、まるで竜だ。竹軒はギクリとした。あの絵といい、それにこの顔付きといい、この人物が・・・北斎その人であることは、紛れもない事実だ。竹軒が息をするのも忘れていると、女は、
「おとっつぁんはどうしても百二十歳まで生きたいと言ってるのさ。まだ沢山描きたい絵があるんでね、お前さん、何とかしてくれるかい」
「・・・百二十・・・しかし・・・見たところお元気そうに見えますが」
「ところが先日からどうも様子がおかしいのさ。蒲団に入ったまま出てこないこともあるんだからね」女がそう云うと、北斎は坊主頭を枕の上でちょっと動かして、
「何、俺は元気だよ。病気はおまえじゃねえか・・・おまえのことが気になって少しばかり気が塞いでるんだ・・・先生、この女は阿栄といって俺の娘なんだが、もう四十になるのに独り者なんだ。そのためか、この頃妙に癇癪持ちになって、いきなり怒るかと思うと物も食わず考え込んでる。それで心配していたんだが、しばらく前から『喉に何かがつかえてる』と言い出した。できものが出来たようだと云う。それで長屋の女房らに頼んであれこれと食いやすいものをこしらえてもらったがまるで駄目だ。そしたら誰かが閻魔庁近くに薮医竹軒という医者がいるという話を聞いてきた。で、おまえさんを呼んもらったというわけなんだ」
北斎は起きあがると煙草をぷかりと吹かして、
「先生、何とか治してやっちゃくれませんか。俺は幾度か女房らしいものをもらったんだが、みんな出ていっちまったから頼りになるのは阿栄一人だ。その阿栄に具合が悪くなられたら、俺も百二十までは生きるのは無理だろう」
北斎はそう言って鼻から煙を吐き出した。
どうも妙だ。北斎は九十で死んだのだから百二十まで生きようにも生きられるはずがないのに、本人はまだ生きていると勘違いしているのだろうか。竹軒は何をどう考えて良いのか迷っていると、阿栄が皮肉な笑いを浮かべて、
「おとっつぁん、無理は言わないほうがいいようだよ。こいつあ評判倒れの薮医者だ。子どもでも知ってる常識てものを何んにも知らないんだからね」
これを聞くと北斎は、
「医者なんてものは無学がいいのさ。あれやこれやと知ったところで何にもならねえ。脈が取れて薬を盛れれば御の字じゃねえか」
「あらそう」
「そうともさ。あれも知ってる、これも出来る、そんな万屋みてえな奴の方がよほど信用できねえ、ねえ先生」
「・・・」
「俺だって馬鹿じゃあねえ、なーに、長患いした女の病をすぐに治してもらいたいなんて言わねえよ。しかし喉につかえがあるというのは気持ちがいいもんじゃあるまい。それとなく見ていると、台所仕事をやりながら首のあたりを手で掴んで今にも死ぬんじゃねえか、てな声を出したり、まるで赤ん坊があめ玉を呑み込んで目を白黒させてるみてえな顔をして、息もつけねえような恰好してるんだ。もともと口うるさいばかりが取り柄の女がこの有様じゃあ、いくら俺でも落ち着いて絵を描いてられねえ。まあこうしたわけで、何とか治してもらいたい。なーに、ただで治してくれとはいわねえよ。聞くところによれば、おまえさんはいい薬を持っているそうだから、おまえさんが娘の薬を処方するお礼に、俺はおまえさんを面白いところに連れて行ってやろう、どうだろうね、この取引は」こういいながら北斎は蒲団の横に大きな絵を広げた。
真ん中に大杉がにょっきりと立っている。天まで届くかと見えるばかりの大木だ。幾人もの旅人が手を繋いで大木の大きさを測っている。その向こうに富士山が雲を従えて聳えている。竹軒は、はて、と思いながら旅人に近寄って「もし・・・私はさきほどまで江戸の長屋にいたのですが・・・ここはどこでしょうか」と尋ねると、旅人たちはじろじろと竹軒を見つめていたが、「おめえさん、頭を日に照らされてどうかしたんじゃねえか」
「いいえ、ただ、不意に富士山が見えましたので驚きました」
「当たり前じゃねえか、あれを筑波山と間違えるようじゃあ見込みはねえ・・・ところでおめえさん、見たところ旅支度はしてねえようだが、いったいどこへ行くつもりなんだい」
そう訊かれても答えようがないので黙っていると、
「その顔付きは、どうやら狐に化かされたようだぜ」と旅人たちは笑った。
彼らが行ってしまうとシーンとして鳥の声も聞こえない。竹軒は心細くなって富士山の方角に歩き出した。ところが歩けば歩くほど富士山が遠くなる。目の前に見ながら歩いているというのに、どんどん小さくなる。そしてとうとう見えなくなった。あたりは深い森で、遠くに岩山が見える。松の傍らに樵が柴を積み重ねて立ち、その側に襤褸(ぼろ)をまとった男が西の方を眺めながらか細い声で、
やすらはで 思ひたちにし 東路に ありけるものを はばかりの関
(一条天皇に歌枕を探して参れと命じられて陸奥の国までやってきたが、いざ「はばかりの関」に来てみると、その名の通り、二度と戻れないのだなと思い知らされて胸がつまってしまうことだ)
これを聞いて竹軒は、もしやと思って、「あなた様は藤原実方様ではござりませぬか」と尋ねると、襤褸を着た男は哀しげに肯く。
やはり実方様でござったか・・・一代の風流才子として名声を轟かせ、清少納言・小大君など大勢の才女との浮き名を流した殿上人が、内裏で藤原行成と諍いを起こして相手の冠をたたき落としたばかりに、配流同様に陸奥の国に追われ、こんなにも哀れな姿になってしまったとは・・・竹軒が言葉を発しかねていると、傍らで煙草を吸う者がいる。先ほどの樵だ。その悠然として煙を吐く様は実方様の哀れさとは対照的だ。
これを見て竹軒は、この樵は実は樵ではなく、実方様を阿古屋の松まで導いて行く塩竃の神霊であろうとそう思った。というのも、能の「阿古屋松」に、天皇の逆鱗にふれて陸奥の国に流された藤原実方様が塩竃の神霊に導かれて阿古屋松を尋ねあてるという物語があったことを思い出したからである。
出羽の国にあるという阿古屋松とはどのようなものなのか、もしやお二人についてゆけばそれが見られるのではないかと思い、竹軒は歩き出した実方様と神霊についてゆくと、次第にあたりは暗くなり、不意に二人を見失ってしまった。
夜の月が木の上に恐ろしげに光り、淡い月明かりに草むらがちらちら光っている。どこからか何か、か細い泣き声がする。何だろう、あたりを見回したが、なにもいない。耳をすましてみると、その声はまるで夏の夜の蛙のようだ。
あたりは闇だ。そのくせ、やたらピカピカ光っている。何が光るのかと見ると、草だ。草がいちめんの針のように突き立って、月明かりに輝く様はまるで針地獄だ。いつの間に、なんでこんな恐ろしいところに迷いこんだのだろう。竹軒が途方に暮れていると、蛙が草むらでやかましく鳴いている。ケラケラケラ、浪のように押し寄せる。そうだ、あの蛙は、見覚えがある。北斎の絵で見た蛙だ。あの蛙が、こんな山の中にいる。何故なんだ。
愕然としてたたずんでいると、薄暗い笹むらがざわざわと動いて、襤褸をまとった実方様が忽然と現れた。実方様はふらふらと近寄ってくると、
「どうかお願いです、私を背負って下さい」
「あなた様を・・・それは私のような者でお役に立ちますれば名誉な事ですが、どちらへ参りますか」
「あの川を渡っていただきたい」
「川を・・・渡ってどこへおいでになられるのです」
「地獄へ」
竹軒は身震いした。が、よくよく見るとそれは実方様ではなく、妖怪のような老婆が立っている。一体全体この老婆は誰なんだ。後ずさりすると、老婆は細い手を伸ばして、
「あなたに害をくわえたりいたしません。どうぞ、助けると思って私を背負って下さい」
「・・・」
「川向こうに渡してほしいんです」
あたりはますます暗い。ただ、闇の中に老婆の顔が銀の面のように光っている。草むらで蛙が鳴きだした。何百何千という蛙が雨のように合唱している。その声に闇が震える。川が鈍く光っている。三途の川だろうか・・・竹軒は逃げようとして川に足を踏み入れるとざぶざぶと水に入った。と、老婆が手を伸ばして竹軒の襟首をつかんだ。
「私を置いて行かないでおくれ、年寄りに優しくしないと、阿鼻地獄行きだよ」そう云い終えぬ間に、老婆は驚くばかりの素早さで、ヒョイと竹軒の背中に張り付いた。
「さあ、川を渡っておくれ」
水は冷たい。老婆は背中にしがみついている。首を絞められるのだろうか、それとも、安珍が隠れた釣鐘を清姫がぐるぐる巻きにして殺したように、死ぬまで離れないのだろうか、恐ろしさで倒れそうになるのをこらえて、竹軒は闇の川をよろよろと渡った。川はどこまで行っても果てしがない。屍体が流れてくる。首が幾十も浮かんだり沈んだりしながら周りで渦を巻く。時々首は目を開けてギョロリとこっちを睨む。そのたびに老婆はギャァッと悲鳴をあげてますますきつくしがみつく。竹軒は息をするのも絶え絶えに、夢中で川を渡った。
どれくらい川の水に浸かっていたのだろう。あたりが薄ぼんやりと見える。どうやら渡り終えたらしい。恐ろしい老婆の姿はどこにも見えず、代わりに人のよさそうな女が柄杓を持って立っている。
「あなたは、いったい・・・」竹軒がしゃがれ声でそう叫ぶと、女は細い手で髪をなで上げて、うれしそうににこりとした。
「あなたさまのお陰で長年の苦しみから解き放たれました」
「長年の・・・苦しみ」
「はい」
「それは、どういうことなんです」
「あなた様は私の命の恩人です。何もかもお話しいたしましょう。私は生前、江戸本所裏長屋に住む瓦職人の女房でした。貧乏でしたが何事もなく、四十過ぎるまでドブの匂いを嗅ぎながら暮らしていたんです。とある日、井戸端で洗濯をしていると、坊主頭の男が通りかかって、気味の悪い目つきで私をじっと見つめました。その目がまるで針を刺すように鋭いので、気味が悪くなって家の中へ逃げようとしました。と、男はそばに寄ってきて、
『おまえさん、私のために半時ばかりつきあってもらえないか、お礼に一両支払おう』
一両・・・耳を疑いました。そんなお金見たこともありません。
『まさか、だまそうとするのではないでしょうね』
そう云うと男は笑いました。
『俺は絵師だ。あんたをだましてどうなるものでもあるまい』
『絵師・・・絵の職人ですか』
『その通り』
『でも・・・なんで私に一両なんて大金をくれるんです』
『あんたの絵を描きたいからさ』
『私の』
『そうともさ』
『私のような者を描いて、どうするのです』
『どうするか、話している暇はない。ただ、あんたはその柄杓を右手に持って、洗濯物を左手に抱えてくれればいいんだ。そうそう、そんな具合だ。そうして、その柄杓を刀のように構えて、西瓜を突き刺すような恰好をしてもらいたい』
『こういう具合でいいんですか』
『そうだ。そのままじっとしていてくれ』
言われた通り、井戸端にあった小桶を西瓜に見立てて、柄杓を刀にぐいと突き刺す恰好をしてじっとしていました。男は絵筆を取りだして描きはじめましたが、その筆さばきの早いこと。みるみるうちに描いていく。驚くばかりです。
感心する間もなく、たちまち描き終えて、絵筆を手早くしまうと、『駄賃だ』と言って約束の一両を手のひらに乗せてすたすたと行ってしまったのです。大喜びしました。まさかこればかりのことで大金が入るなんて夢のようです。そのお金であちらこちらの借金を払い、腰巻きまで買うことができたんですから、これから先何度でもやりたいものだと思ったくらいです。
ところが二三ヶ月すると恐ろしいことが起こりました。夜になると胸が苦しくなる。息がつけない。喉が締め付けられて、腹が刀で立ち割られるように痛い。ああ苦しい、そう思って目が覚めると、びっしょり汗をかいている。起きてみると何でもない。腹を見ても別に変わったことはなにもない。それで今夜はいいかと思って寝てみると、やはり苦しい。これはどうしたことだろうと考えていたら、ある夜夢を見たのです。恐ろしい夢でした。
私は鬼婆のような姿をして、おどろおどろしい原っぱに立っているのです。いいや立ってるだけじゃありません。刀を構えて若い女を踏んづけている。女は口を張り裂けそうに開けて悲鳴を上げている。その目は、無念そうにつり上がって、髪の毛が蛇のように逆立っている。乱れた着物の腹が割けて、真っ赤な血が流れている。私は、その女の腹を左の膝で押しつけて、動かぬようにしておいて、腹から何かを取り出している。見ると、それは赤子だ。女の腹を切り裂いて、胎児を取り出しているんです。ああこれはどうしたことだ・・・どうしよう・・・悲鳴を上げたら、はっと目が覚めました。亭主が驚いて私を見て、
『どうしたんだ、妙な声を出して、おめえ、顔が真っ青だぜ』
『ああ・・・あんた・・・私はまだ生きているんだね』
『何よまいごといってるんだ。悪い夢でも見たのか』
夢・・・そう夢と言われれば夢だ、でも、夢にしてはひどすぎる。このままでは死ぬしかない。
それで私は亭主に隠していた一両の話を白状して、これこれの夢を見たと話すと、
『おめえ、それは<椿説弓張月>そのままじゃねえか』
『それは何なんです』
『知らねえのか、馬琴が書いた読本の話だよ。北斎てぇ絵師が挿し絵を描いてる。保元の乱で破れた源為朝が伊豆から九州、琉球へ流されて悪者と戦って正義を貫くって話じゃねえか。そこでよ、阿公(くまきみ)てえ鬼婆のような巫女がな、新垣という若い女を殺して胎内の子どもをさらうのよ。おめえが見たというのは、まったくその絵そのままだ』
私は飛び上がりました。『ああそうだったのか、私はあの絵師に描かれたばっかりに、鬼婆になっちまったんだ』
そう分かるともう居ても立ってもいられない。明るくなるのが待ちきれず、表通りの貸本屋に走って、『椿説弓張月って馬琴の本はあるかい』と訊くと即座に出してくれましたから震えながらめくって見ると、亭主の言う通りだ。夢の中そっくりの場面が描いてある。私が女の腹を立ち割って、赤ん坊を取り出している。卒倒しそうになった。一両の代わりにこんな化け物にされていたのか。このままでは地獄に行ったも同然だ。
その日から絵師を捜し回りました。何としても描き直してもらおうとただそれだけの思いで朝から晩まで江戸の町を歩き回ったのです。ところがどこにいるのかわからない。それらしいところに行ってみると、「引っ越したよ」という返事。こうして一月ばかり捜したが、とうとう見つからないままに時ばかりが過ぎて、そのうち熱にうなされて、死んじまったんです」
「死んだですって?」
「はい、夢に呪われて死んだんです」
「まさか」
「本当です。死んでからもあの妖婆の恰好をして草むらをさまよっていたんです。夢がそのままになっちまった。絵に描かれた鬼婆になって、毎夜毎夜蛙の鳴く針の草むらをさまよってました。何十年、何百年だか分からない・・・私は閻魔大王に無実を訴えようとしました。でも、怖くて三途の川が渡れない。と言うのも、あの川には屍だの死人の首が流れてくるから、それが私が殺した女の首かも知れないと思うとぞっとしてどうしても渡れないんです。そうして鬼婆の姿のまま長い年月が経ってしまいました」
「・・・」
「でも、あなたは私を背負って恐ろしい川を渡ってくれた。それで元の私に戻れた。イザナキ様が神代の昔、川の水で黄泉の国の汚れを落としたように、あなた様のお陰で長年の苦しみを禊(みそ)ぐことができたのです。心からお礼を申し上げます」女は深々と頭を下げた。
はっと気がつくと、竹軒はあの長屋にいた。外から子どもたちの歓声が聞こえる。畳の上には奇怪な絵が広がっている。煙が天井にたなびいている。
「狐につままれたような顔をして、どうかしたのかい」阿栄が笑った。
「あの女は」
「女、阿公ならここにいるよ」
阿栄の指先を見ると、鬼婆が闇の中に立っている。蛙が鳴いている。でも、そこはやっぱり畳に広げられた絵の景色で、くろぐろとした闇があるばかりだ。
「さあ、あんたはおとっつぁんの絵を楽しんだね」
「・・・絵を・・・それじゃ・・・実方様・・・それから、あの女は」
「絵空事さ。あんたはおとっつぁんが描いた話の挿絵の女に会ったのさ」
「・・・」
「面白かったろう。あんたは阿古屋松の塩竃明神だの実方様だのに出会って、おまけに三途の川を、鬼婆を背負って渡ったんだからね・・・だから今度はあんたがこの私の喉を治す番だ。あんたはこの病気は何だと思うかい」
「・・・病気・・・」
「やだね、忘れたのかい・・・あんたはおとっつぁんの絵を楽しむ、その代わり、私の喉を治すって約束をしたじゃないか」
「・・・あ・・・そう・・・思い出しました。あなたは喉が詰まるんでしたな」
「やだね全く、私は喉が詰まるんだよ。何かがひっかかって気になって、おちおち台所仕事もできないのさ」
「なるほど」
「時には玉コロのようなものが喉の中を下から上、上から下へと転がるような気がするんだ。おとっつぁんは気のせいだと言うんだけど、そうじゃない、ほんとに玉コロが喉を塞いでいるんだよ」阿栄がこう言うと、蒲団に横になっていた北斎がジロリと竹軒を見つめて、
「どうも気のせいじゃねえらしい。玉コロが詰まって、時々動くのがはっきり分かるってんだからな」
北斎がこう言うのを聞いて竹軒は、
「それは『梅核気』と思われます」
「・・・それはどんな病だい」
「気が上逆して咽喉を塞いでしまう病です。この病にかかった者の多くは喉に梅干しが詰まったような気がして、それが胃の腑と喉の間を行ったり来たりするなどと訴えます。ですから阿栄殿もこの病ではないかと」
「なるほど・・・じゃあ、どうすればいい」
「半夏厚朴湯を服用すれば治るでしょう」
「・・・そんなに簡単に治るとは信じられないけど、ものは試しと言うからね、その何とか云う薬を作っておくれじゃないか」
阿栄がそう云うので、竹軒は薬研にハンゲ・ブクリョウ・コウボク・ソヨウ・ショウキョウを入れ、ごりごりと磨って、半夏厚朴湯を磨り上げ白湯に溶いだ。
「これを飲めば必ず治りましょう」
「ほんとだね」
竹軒が肯くと阿栄はぐびりと一息に飲み干した。そして茶碗を黄ばんだ畳に置いた途端、
「あら、これ・・・効いたみたいだよ」
北斎は雁首をたばこ盆に打ち付けて、にやりと笑った。
「なーるほど、大したもんだ。おまえさん、評判通り、名医だねえ」
「・・・いえ・・・漢方医なら誰でも出来ることですよ」
「いいや、そうじゃねえ、地獄に置くにはもったいねえ腕をしてなさるようだな。阿栄の病を瞬時に治すとは、恐れ入った」
北斎は上機嫌でたばこ盆から刻み煙草を一つまみ雁首に押し込むと、またぷかりと吹かした。部屋中にもうもうと煙が立ちこめて何も見えなくなった。そして煙が消えた時には北斎の姿も阿栄も消えてしまった。
どこからか子どもの声がする。
「癪の種 取って医者殿 名を上げて」
「阿栄の惚れた 薮医竹軒」
子どもらが甲高い声でワアワアと騒ぐ。その声の中から「また何かあったら呼びに行くからね」という阿栄の声が響いた。そしてあたりを見回すと、どぶ板も長屋も見えず、竹軒は地獄の自分の庵の前に、ぽつんと立っていたのである。
<第十三話終わり>
付記:この話は、曲亭馬琴(滝沢馬琴)作『椿説弓張月』に葛飾北斎が描いた挿絵を見て浮かんだイメージを物語にしたものです。
●引用・参考文献 『寝惚先生文集』新日本古典文学大系,岩波書店 『黄表紙・川柳・狂歌』日本古典文学全集,小学館