「閻魔庁の籔医竹軒」 第十一話 小泉八雲

 思い掛けない訪問者だった。十歳ぐらいの男の子が戸口に立って、利発そうな眼差しでこっちを見ていた。その目は淡い海の色で、井桁模様の着物を着て、下駄を履いている。この子はいったいなぜこんなところにいるのだろう・・・今さっきまで、そこに、ダビンチやイーカロスが居たのに・・・竹軒はちょっと戸惑いを覚えたが、気を取り直して、

「どうしたんだね。一人かい」と聞いた。少年は物怖じする様子も見せず、

「はい、僕は一人で来ました」とはきはきと答えた。

「名前は」

「一雄です」

「それは良い名だ。それで、お父さんの名は」

「小泉八雲」

「・・・?・・・では、君は・・・ラフカディオ・ヘルン氏の息子さんなのかね」

「先生は父をご存知なのですか」

「知るも知らぬも、日本人で小泉八雲を知らぬ者は一人も居るまい。それで、お父さんもこのあたりにおいでなのかな」

「お母さんも一緒です」

「・・・そうか・・・で、一家で居りながら、なぜ一雄君は一人で来たんだね」

「お父さんは書くのに忙しくて時間がありませんから、外には出ないんです。お母さんはお父さんのお世話をしなければなりませんので、僕は一人で参りました」

「そうか・・・お父さんは死んでからも書いているのか」

「はい。生前『日本』という大きな書物を書きましたが、とても苦労をなさってました。そして食堂で『この書物は私を殺します』と幾度も申されて『一雄が一人前になって私を助けてくれたら、私も死なずにすむのに、こんな大きな書物を一人で書くのは自分ながら恐ろしい事です』と申しておられましたが、原稿が出来上がった時はそれは有頂天になって、分厚い原稿を和紙で包んで、両側を厚い板で補強して油紙に包みましたので、外から触ると石のように固くなってました。書留で送ったら校正が戻ってきたので、徹夜で見直して、『宜しい』と電報で打って、それから二三日で亡くなってしまいました。ですから、地獄へ来てからは、大きな物は書きたくないと言っておられますが、それでも一時も休まずに書いているのです」

 竹軒は一心不乱に書いている小泉八雲先生の姿を想像した。物語を書いていると話の中に入り込んでしまい、どんなに高名な来客があっても『時間がありません』と追い返し、机の上のランプがボウボウと油煙を上げて火事になりそうになっても、節子夫人が駆けつけるまで少しも気付かなかったという話をどこかで読んだ記憶がある。竹軒があれこれと思いめぐらせていると、

「先生は僕の病気を治してくれますか?」と一雄君が言う。

「君は具合が悪いのか」

「はい」

「それじや診察しなければいかんな・・・一雄君はどこが悪いのかね」

 竹軒が訊ねると一雄君は青みがかった目で、

「僕はよく風邪を引きます。それから咳も出て止まらなくなって、肺炎にもなりましたが、それがもとで僕は死んだのです」

「それは気の毒だったが、君のおとうさんなら西洋の名医も知っていたろうから良い薬もあっただろうに」

「父は西洋の医者は嫌いだったのです」

「嫌い?」

「はい。父の父、つまり僕の祖父はイギリス軍の軍医でしたが兵隊の怪我ばかり治して普通の人は診なかったから祖父を嫌ってました。それにそれに、西洋の文化は汚れているから医学も駄目だと父は申しているのです・・・でも、漢方は支那から日本に伝わって、今も昔の良い処方がたくさんあるから、竹軒先生のところへ行きなさい、と父は申しました」

「・・・」

「父は鬼や亡霊と親しいのです。先生は鬼に人気がありますから、父は先生をよく存じているのです」

「そうか・・・それは恐縮です・・・」竹軒は咳払いして「一雄君は風邪を好く引くとさきほどそう言ったが、咳が出て頭も痛いだろうか」

「はい」

「そうか・・・どれどれ・・・うむ、少しばかりだが熱がある。ここに横になりなさい。腹を診察しよう・・・なるほど、君は少陽病期と太陽病期の間にある。病が表に取り付いて、それが少し中に侵入しつつあるようだ。こうしてお腹を押すと、心臓の下が痛いだろう」

「痛いです」

「ここも痛くないか」竹軒が右季肋部を押すと、少年は赤い顔をして「痛い!」と叫んだので竹軒は手を放して、

「君は素直な子だ。良い薬を処方しなければならないぞ」そう言ってサイコ・ハンゲ・ニンジンなど九種類の生薬を薬研に混ぜ、磨りに磨って柴胡桂枝湯を作ると、

「さあ、これを飲んでみなさい」と白湯と共に飲ませた。すると少年は急にトロンとした目になって眠そうな気配なので、竹軒は畳に布団を引いて寝かせた。

「君はもともと扁桃腺も悪いようだな」

「母もそうではないかと申して居りました」  

「流石に母君だ。しばしば熱を出すのはそのためだ。君が眠っている間に扁桃腺が治る薬を作ってやろう」

 これを聞くと少年は安心したのか、寝息を立てて眠ってしまった。

       *

 薬研にオウゴン・オウバク・オウレン・・・など十七種類の生薬を入れて荊芥連翹湯をこしらえていると、

「先生」と呼ぶ声がする。見ると、布団の中から一雄少年が顔を覗かせている。

「どうだい、気分は」

「すっかり良くなりました」

「それは良かった。しかし、君は一人で来たのだからもう少し休んでいなさい・・・ところで君のお父さんは面白い人かね、それとも厳しい人だろうか」と竹軒は薬研を動かしながら言った。

「面白いし、優しい人です。だから野蛮な人やずるい人は大嫌いです。女の人を撲ったり、大声を出したり、それから警察も嫌いです」

「警察?・・・それはまた、何かあったのかな」

「父は盆踊りが好きで母とあちらこちらと見物して歩きましたが、ある時伯耆の下市に昔からの盆踊りがあるというので見に行きました。すると宿の人が『警察からお達しがあって、今年から盆踊りなどというものは止めよ、というので中止になりました』と言ったので父はがっかりして、腹を立てて、母に『駄目です。日本の古い、面白い習慣をこわします。皆、耶蘇のためです。日本の物をこわして西洋の真似するばかりです』と不平を言いました」

「キリスト教が盆踊りを止めさせたと先生はお考えなのですか?」

「そうです・・・父はキリスト教が日本を悪くしていると常々話していますう。日本の政府を動かして、盆踊りもその影響で無くなってしまったと憤慨しているのです」

「ふーん・・・」

「でも父はどうしても諦められないで遠い田舎ならあるだろうというので、隠岐島に渡ってあちらこちらの浦々を見物しました。隠岐の島の人々は西洋人は初めてだというので、見物人が山のように集まって、宿屋に泊まると回りの木々に上ったり、向かいの家の屋根に上ってのぞきましたが、あんまり大勢が乗ったので庇が壊れて落ちました」

「庇が落ちるとは・・・それはまたひどい有様だ。お父さんは自分たちが見せ物になって、さぞ怒ったろうね」

「いいえ、母の話では父は『こんな面白いことはない』と上機嫌だったそうです。父は日本の田舎の人の素朴な気風がほんとうに好きなんです。だからみんなが集まってくると、中に呼び寄せてすっかり仲良くなったんです」

「・・・」

「そうして楽しく過ごしてから帰りの伯耆の境の港に戻ると、偶然に盆踊りをやってました。警察の目が届かなかったのでしょうか、元気な漁師たちが手振り足踏み偉い勢いで踊りまくるので、父は『あいや、ここの盆踊りは勇ましくて素晴らしいな』と申しておりました」

「そんな面白い経験をしたとは、正直な話、羨ましい限りだ・・・私など、日本人でありながら、ついぞ隠岐などに行ったこともないのだよ・・・雄一君はその外にも何か面白い話を聞きましたか」竹軒がそう尋ねると、

「僕はまだ幼なかったので記憶がなくて、後になって母が聞かせてくれたのですが、ある時伯耆から備後の山の中を人力車に乗って越えましたが、途中鄙びた宿に泊まったことがあったそうです。人家が七軒しかなくてその一軒が宿でした。

 入り口に行灯が一つあるきり。雲助のような男たちが幾人も寄り集まって見慣れない外国人を上目遣いに見ている。婆さんが二階へ通したけれど、あたりは真っ暗。洪水の後なので谷川の音が轟々と恐ろしく響いていて母は気味が悪かったそうです。

 僕が覚えているのはオシッコがしたくて母に連れて行ってもらいましたが、何しろ厠に行く途中に蝋燭もないので、壁伝いに手をついて真っ暗な中を歩いて、ここらだな、というので入ると、ひんやりした風が下から吹き上げてくる。戸を開けると厠だと思ったら外でしたから、星明かりでようやく用を足しました。

 そしてふと、気付くと、闇夜に蛍がそれはそれはまぶしいほどに飛んでいる。部屋に戻ってくると、中にも蛍が入ってきて、スーイスーイと通り過ぎるのです。肘掛け窓に寄りかかって見ていると、虫か何かが顔にピョイピョイと当たる。

 近くで美しい鳴き声がするから星明かりでよく見ると、膝の上に松虫が止まって、りーんりーんと鳴いている。下からは雲助のような男たちがごそごそと話をしているのか聞こえます。はしご段がギイギイときしむので、昔の草双紙の事が思い出されて震えるようでしたが、やがて階段を婆さんが上ってきて、黙って夕食の膳を置いて行きました。母はあまりにも寂しいので夢の中にいるようだったそうですが、父は『面白い、もう一晩泊まりたい』と言って母を困らせました」

「何ともすばらしい話だ・・・一雄君はその他もお話を聞いているかい」

「はい・・・虫の名所の話も聞きました」

「虫の名所とは・・・何だろうか」

「日本では夏になると虫売りが小屋掛けして、珍しい虫が歌ってるのを見物人に聞かせて商いますが、大昔は虫を捕らず、夜出かけて聞くのを楽しみにしていて、草の中の虫の音を聞くのに一番良い名所が定めてあったそうです」

「それは知らなかった」

「松虫を聴くのに一番好い処は、山城の国の京都に近い嵐山、二番目は摂津の国の住吉、三番目は陸奥の国の宮城野」

「・・・」

「鈴虫の音を聴くのに一番好い処は、山城の神楽が岡、第二が、山城の小倉山、第三が伊勢の鈴鹿山、第四が尾張の鳴海・・・それからコオロギを聴くのに一番好い処は、山城の嵯峨野、第二は、山城の竹田の里、第三は大和の瀧田山、第四は近江の小野の篠原」

「・・・そんな名所があったとは・・・」

「父が申されるには、虫売りは江戸時代から盛んになったのだそうです」

「・・・」

「父はあれこれと聞いたり調べたりしましたが、江戸で一番最初に鈴虫を繁殖させるのに成功したのは青山下野の守に仕えていた桐山という人で、壺の中に鈴虫を飼っていたら、卵が孵って鳴きだしたので感激して、それから、邯鄲、松虫、クツワ虫の養殖に成功したんだそうです」

「驚いたな、小泉八雲先生はそんなことまで調べたのですか」

「父は何でも知りたがるのです。でも、江戸の人で良い声で鳴く虫を美しい虫かごに入れて売り歩いたのは神田の安兵衛という人で、町を売り歩く時には、とても見事に造った籠を沢山大きな籠に入れて棒手振りにして、おしゃれな姿で売り歩いたそうです。職人のような姿ではなく、透綾(すきや)という薄地の絹の着物を着て、博多帯を締めて、とても好い声で町を歩いたので、人々は安兵衛の来るのを待ちかねるようになって、大流行したそうですよ」

「・・・江戸の町は風流だったろうね・・・」

「町中にいろいろの虫が鳴いていたそうです。でも、あまり人気が高まったので、田舎の人が虫を捕まえて安兵衛のところに売りに来たり、別の者が真似をして売るようになったので、虫が奪い合いになって可哀想だというので、幕府は江戸の虫売りの数を三十六人と限ったのです」

「・・・そんなことが決められたとは・・・」

「生き物は虫でも命を大切にしなければならないというので、法令で定めたのです」

「虫の保護政策を江戸幕府がね」

「・・・先生は明治時代に売っていた虫の値段を知ってますか」

「残念ながら、ちっとも知らない」

「鈴虫が三銭~四銭、松虫は四銭~五銭、邯鄲は十銭~十二銭、金雲雀と草雲雀(いずれも小鈴虫の一種)が十~十二銭、クツワ虫は十銭~十五銭、大和鈴が八銭~十二銭、コオロギは十二銭から十五銭、閻魔大コオロギは五銭、鉦叩きは十二銭、馬追は十銭」

「・・・一雄君・・・私はね、君の話を聞いていると正直なところ、ただ吃驚する事ばかりだ・・・しかしそもそも、君はなぜそんなことを知っているんだい」

「父が『私の云うことをノートに書き留めて置きなさい』と申されるのでそうしている間に覚えました」

「・・・驚いたな」

「僕は松虫を詠んだ古今集の歌も覚えてます」

「ほほう・・・どんな歌だろうか」

「秋の野に道もまとひぬまつ虫の声するかたに宿やからまし」

「君は風邪を引いているのに良い声だね、それで、その歌はどういう意味だろうか」

「ある人が野道を旅して歩いていたら、夕暮れて、道に迷ってしまったんです。そしたら松虫が良い声で鳴いているのが聞こえる。そうだ、私を待っていてくれた待つ虫の声のあたりで今夜は草枕して寝ようか」

 竹軒は呆然としてしまった。日本人が少しも大切に思わずに忘れてしまった事を、小泉八雲先生は古文書だの人の話から様々に聞き集めて記録して、それを伝えようとしている・・・。竹軒は医学以外には何一つ知らない己を大いに恥じた。

***

「父は田舎の田圃から聞こえる歌や蛙の声、野火の香り、神社の祭礼、さまざまな話を聞かせてくれる巡礼、そんな日本が大好きなのです。だから、それを毀してしまう役人や西洋人が大嫌いでした」

「そんなに嫌いでしたか」

「はい。西洋人は日本の祭りだの虫だの、月夜に鳴く蛙などには関心がないんです。みんな野心を抱いてやって来ますし、内心、日本人を軽蔑して、利用しようとしていると父は申してます」

「一雄君もそう思いますか」

「善い人々もたまにはいますが、大概は好きではありません」

「・・・でも日本人にも悪い人もいるし善い人もいる。西洋人も同じでしょう。悪い人ばかりであるはずはないと思いますが」

「僕の家にはチェンバレンさんのように素晴らしい人も沢山いましたけれど、変な人も大勢いました・・・横浜に一時居た時の事ですが、ある日父を金持ちの夫婦が訪ねて来ました。父の作品はアメリカでもヨーロッパでも大層有名だったので、さまざまな訪問客があったのです。その人たちは幾度も面会を求めましたが、父は『お会いする時間がありません』と断っていたのです。その日も見えたので、書生に断らせようとしたのですが、急に私を呼んで、『良い機会だ。西欧人をよく観察しなさい』と言って父は玄関に私を連れ出して、

『私は夕方まで時間がありませんが、それまでの間、息子がご案内しましょう』と言いました。金持ちの夫婦は『それはありがたいご厚意です』と言って、僕は二人を連れて町に出ました。

 その人はケーベル教授という哲学者の友人でサー・トーマスという貴族でしたが、ケーベルという人は『異教信者は皆霊魂を救うために焼き殺すべきである』と主張して、日本人は異教徒で野蛮人だと考えていましたから、サー・トーマスも変な人でした」

「それはどうも、面白そうな話だね」

「サー・トーマスはフロックコートを着て山高帽子を被り、ステッキを肘から提げて、奥さんは、貂の毛皮のコートを着ていました。サー・トーマスが僕を見下ろして、

「日本に来て一番好きになったのは何だね」と聞くので、

「カブトムシです」と答えました。そしたらサー・トーマスと婦人は目をぱちくりさせて、

「カブト虫は悪魔の使いじゃないか!そんなものをどうして好きなのだ」と吃驚しているので、

「悪魔の使いなんかじゃありませんよ。とてもかわいいから、僕は籠の中に入れて飼っているんです」というと婦人はサー・トーマスの耳に何か耳打ちして、気味悪そうに僕を見つめてました。

 人の波の中をしばら行くと、賑やかな音が聞こえました。

「あれは、何かな」とサー・トーマスは聞きました。

「サーカスです、一昨日来たんです。象もライオンもいますよ」

「そうか。君は、サーカスが好きなんだね・・まあいい、君がもっと大きくなったら、見せ物の動物ではなく、本物を見せにアフリカに連れて行ってやろう」

「ほんとですか」

「嘘は言わぬ。私の家は代々伯爵家だから、広大な庭には湖が二つ、丘陵と森が続いて馬で一日走ってもまだ先があるのだ。この横浜全体を合わせても私の屋敷には及ばないよ。カブト虫のような悪魔の手先の虫などは一匹もいないが、その代わり狐がたくさんいる。私は毎年幾度も狐狩りをするのだがね、最近は狐は飽きたから、昨年はアフリカに行ったのさ」

「ほんとですか」

「君は疑い深いね。イギリスは世界を制覇しているのだから、アフリカの奥地でもインドでもアルゼンチンでもどこへ行くのも思うがままだ。君もそれをやがて知るだろう。もっとも、君の母は日本人だから、日本国籍の者は大英帝国の恩恵にはあずかれないが」

「・・・」

「まあ、それはともかく、テントの中で寝ていると、何かが入ってきた。見ると象が長い鼻を伸ばして、私の財布を盗んで行くんだよ」

「象は草を食べるのですから、財布なんて盗まないはずです」

「いいや、アフリカの象は違うのだ。というのも、アフリカ人は愚かだから、自分たちが寝ぼけている間に、何千万人が盗まれてアメリカに奴隷として売り飛ばされたし、国土もフランスとイギリス、ポルトガルなどで山分けになった。だから生き残った土人たちは復讐しようとたくらんでいる。眠っている時でも、油断できない。布団も枕も鉄砲も、みんな体に結わえ付けておかないと、朝起きた時には裸にされたり、あるいは、殺されることもある」

「・・・」

「このように、土人が泥棒するのを常日頃見ているものだから、象も真似して泥棒になった。象だけじゃない、猿も油断できない。しかし蛇はもっと油断できないのだよ」

「蛇は毒を持ってるからですか」

「そうじゃない。蛇は、アダムとイブを欺したほど、悪知恵があるからね。私が眠っていると、鼻の穴からするすると入って、お腹にもぐり込む、そして私が食べたお肉だのおいしい果物をみんな食べちゃうんだ。食べ終わると、またするすると知らないうちに出て行く」

「ほんとかな・・・僕は絵本で見たんです。蛇は食べた後、お腹が大きくなるから眠くなって寝るんだって」

「それはね、そうなんだ。でもうっかり寝ていると、胃の中で溶けちゃうから、まず外に出てからゆっくりと眠るのさ」

「でも、お腹が大きくなったら、つかえて出られないと思うけど」

「それはそうさ。普通の人間の鼻は小さいから駄目なのさ。でも、私の鼻はこんなに高くて見事だろう。蛇はちゃんとそれを知っていて、私だけを狙って入ってくるんだよ」

 サー・トーマスがこう云うと、日傘を差して歩いていた奥さんは日傘を傾けて、「ホホホッ」とひどく可笑しそうに笑いました。

「あなた、いい加減にしなさい」

「いいじゃないか、退屈しのぎさ」

 二人はひそひそ声でしたが、僕はちゃんと聞こえたのです。

 道路に大きな木があって、その下に飴屋が屋台で飴細工をしています。甕の中の飴を手で掴み出すと、見る間にお魚や鶏、お相撲取り、恵比寿大黒、何でもこしらえるのです。回りの子どもたちが銅貨を渡すと、飴やのおじさんは一人一人に飴細工を渡しました。

 僕は飴屋のおじさんに「出雲の国の大国主命とスセリヒメの話を作ってよ」と云いました。おじさんは「そんな注文は初めてだ、誰から教わったんだ」と云いながらもう鋏と指で作っています。

「お父さんが話してくれました」

「へー、お父さんは、学者さんか」

「いいえ、でも、お父さんの友人のチェンバレンという人が日本の古事記を訳して、お父さんはそれを読んだんです」

「へー、コジキねえ」飴屋はそういいながらもう大国主命とスセリヒメの出会いを作り出して、

「これは手が込んでるから十銭だ」と云うので、僕は袂から十銭を出して支払いました。

「これは何を意味してるのかね」サー・トーマスは見事な飴細工を見ながら言いました。

「出雲の男女の神様の出会いです、とてもすてきな神々で、今も縁結びの神として信仰されています」

「では、それは日本の唯一の神なのだね」

「いいえ、偉大な神でしたが、日本の国を統一した天照大神に降伏しました。でも今でも松江の近くには出雲大社があって、今も祀られていますよ」僕がこう言うと、サー・トーマスは笑って、

「その何とかいう神の命も間もなく尽きるんだよ」

「どうしてですか」

「異教徒の神はみな滅びるのさ。世界はヨーロッパのものなのだから、聖書以外の神は不必要になる。その何とかいう神も仏も、もうすぐに用無しだ」

「でも僕の父はそうは云っていません」

「そう・・・ヘルン氏はひどい日本びいきだからねえ・・・日本は理想郷だ、神の国だなどと書いている。だから大勢の西欧人がそれと思い込んで来てみると、野蛮なところだ。労働者は裸足に褌姿、子どもは腹巻き一つの裸で走り回ってる。貧乏の極みだ、まあ、アフリカよりも少しましではあるがね・・・しかしさきほどの飴屋は何だね、汚れた手で壺から飴を掴み出して、クチャクチャとひねり回して不細工な物をこしらえていたじゃないか。君はあんな物を買ってどうするつもりなんだね・・・まさか食べる積もりじゃないだろうね」

 サー・トーマスが口髭をピクピクさせなかせら僕の顔を見ました。

「食べます。子どもはみんな食べるんです」僕がこう言うと、

「まー穢い」と奥さんは云ってクシャミをしました。サー・トーマスは胸のハンカチを取り出して奥さんに手渡して、

「ともかく、あと十年も立てばあんな低俗な風習も、日本の神も仏もなくなるさ。世界はみんな西欧の支配になるのだから土着の神や異教徒の神は必要なくなるのだ」

「でも、日本には八百万の神々がいますから、なくなりませんよ」

「それが野蛮だというのだよ。野蛮人は多数の神々を信じるという性癖がある。それはインドでも日本でも同じ事だ。神は一人だ。他の神は無用なのだ」

「・・・」

「君はまだ子どもだが、それでも少し考えれば分かるだろろう・・・アメリカ大陸も、アフリカも、アラビアも、インドも、中国各地も、アジアの島々も、全てイギリスとフランスが支配している・・・だったら、日本も同じ運命をたどるとは思わないかい。針の先ほどちっぽけな島々が集まっているだけの何の取り柄もない日本を、原始的な異教の神が守ってくれると思ったら大間違いなんだよ。そのことは世界中の未開地で既に証明されていることなんだ」

 話をしている間に家の玄関に着いたので「ただ今」と云うと母が出てきて、

「これは長い間ありがとうございました。本来ならお茶を差し上げたいのですが、主人は執筆中で、戸の開け閉てする音にも神経質なものですから、また改めてご挨拶申し上げます」とこう云ったので、サー・トーマスと奥さんは不機嫌に帰って行ったのです・・・でも、僕が中に入ると、父は居間でお茶を飲んでいました。そして『どうだったね』」と聞くから、

「もうすぐ出雲の大国主命も天照大神も殺されて、日本は西洋の属国になるって話していました」と云うと、父は眉を釣り上げて怒って立ち上がると「まああの男の言えるのはそれぐらいのことでしょう・・・しかし一雄はそんなことを信じてはいけません」と言い捨てて二階へ上がって行きました。

「母が心配するといけないのでもう帰ります」と一雄君が言うので、竹軒は柴胡桂枝湯と荊芥連翹湯を二つの袋に詰め、飲み方をよくよく教えて手渡してから、机に向かうと、墨をすり、歌を書き付けた。

 鈴虫の声の限りを尽くしても 長き夜飽かすふる涙かな

「これは源氏物語で私が知っているただ一つの虫の歌です。お父様とお母様にどうぞよろしくお伝え下さい」そう云って手渡すと、一雄君は袂に大切そうにしまい、岩道を小走りに戻って行った。

 しばらくすると、鬼が封書を持ってきた。差出人は、小泉八雲拝、とある。開くと次のような事が書いてあった。

                  *

「前略 長男の一雄に貴重なご処方をいただき心から御礼申し上げます。お陰様ですっかりよくなりました。お礼をお届けしたいのですが、こうしたところですので何もありません。そこで私が常々考えていたことを書き付けてお礼としいたと存じます。

 次にご紹介するのは私が熊本で教鞭を執っていた頃、友人のチェンバレン君に、私の一日を紹介した手紙の一部ですが、今読み返すと、私自身とても懐かしくなります。というのも、最早このような一日は日本のどこにも見かけられなくなりましたし、先生も昔の日本を偲んでおいでに違いないと思い、書き写してみたのです。

 午前六時 小さい目覚ましが鳴る。妻が起きて私を起こす。―昔の侍時代の真面目な挨拶で。私は起きて座る。蒲団のわきへ火種の消えた事のない火鉢を引き寄せて煙草を吸い始む。女中達が入って来て平伏して、旦那様におはようございます、と云って、それから戸を開け始める。そのうち外の部屋では、小さい燈明が先祖の位牌と仏様(神道の神さまではない)の前にともされて御勤めが始まって先祖へお供をする。(精霊は供えてある物を食べないで―その精気を少し吸うのだそうです。それでその供物は極めて少々づつです)もうすでに老人達は庭へ出て、朝日を拝んで手を拍って出雲の祈祷をつぶやいて居る。私は煙草を止めて縁側へ出て顔を洗う。

 午前七時―朝飯。(中略)車夫が来る。私が洋服を着始める。初めのうちは、妻が順序よく一つづつ渡して、ポケットに気をつけてくれたりする日本の習慣は嫌いでした。―これは人間を怠惰にすると思いました。しかしそれに反対しようとすうると、人の感情を害して面白くないから、それで古い習慣におとなしく従っています。

 午前七時半―一同玄関でさようならを云うために集まる。しかし女中達は外に立つ―主人は洋服の時は女中達は立っているという新しい習慣によるのです。私はシガーに火をつける―私のところへ伸ばされた(妻の)手にキスする(これだけが舶来の習慣)それから学校へ行く。

 (四、五時間後帰宅)

 車夫の呼び声で帰ると、―一同前同様おかえりと云って挨拶しに玄関に来る。それから手伝いされるままになって洋服を脱いで、着物、帯などに着替える。座布団と火鉢は用意してある。チェンバレン君、メースンから手紙が来ている。昼食。

 人々は私がすんだあとで食事をする。隠居は二人あるが、私は稼ぐ人だから、一家を支えて行く人の事は第一に考えねばならないという主義によるのです―しかし外の場合には第一の位ではない。たとえば、一同集まる時には、名誉の地位は年齢と親子関係でいつも決まる。その時に私は第四番目の席につき、妻は第五番目の席につく。そして老人はその時にいつでも第一番にもてなされる。

 食事中はみだりに外の人々や女中を妨げない事に一種の了解がある。規則ではないが、この習慣を私は尊重する。それで私は一同のすまないうちはみだりにその方へは行かない。それからめいめい好きな場所についても一種の礼法がある。―それも厳重に守られる。

 午後三時四時―非情にあつい時には皆昼寝をする―女中たちも代わる代わる眠る。涼しくて気持ちが良ければ、一同働く。女は裁縫。男は庭やそこらでいろいろこまごました事をする。子どもたちが遊びにくる。『朝日新聞』が来る。

 午後六時―入浴時間。

 六時半―七時半―晩餐

 午後八時―一同箱火鉢を囲んで『朝日新聞』を読むのを聞く。或いは話をする。時々新聞の来ないことがある―そんな時には珍しい遊戯をする。それには女中も加わる。母は合間に針仕事をする。或る遊戯ははなはだ奇抜です。一筋の糸で大きな輪を作り、短い糸でまた小さな輪や小きれをいくつか作る。それから大きな輪をびろうどの座布団の上に置いてお多福の顔の輪郭とする。それから目隠しをして、その遊戯をする人々はその輪の中に顔の部分を作るように、外の小さな輪や小きれを置かなければならない。ところでこれがなかなかむつかしい、そして失策する毎に非常なをかしさになるのです。しかしもし夜が非常に良い時には、私共は出かける―いつでも女中は交代に連れて外出の機会を与えてやる。時々芝居に行く事もある。時々来客がある。しかし最も愉快な事は夜ランプのついた店で何か変わったあるいは綺麗な掘り出し物をして来ることです。そんな時には大得意で持ち帰って、一同団欒して感心して見る。しかし私だけは晩は大概書くことにしています。私の来客で大切な客なら―妻だけが出て―外の者はその人の帰るまで出ないようにする。そして妻が接待する。普通の客なら女中に任せる。

 夜がふけると、神さまの世になる。昼のうちは神さまはただ普通の供物を受けるのだが、夜になると特別の祈祷を受ける。小さい燈明をつけて、私を除いてうちの者は代わる代わる祈祷礼拝する。この祈祷は立ったままでするが、仏へのお勤めは跪いてする。私はただ一度祈祷をするように云われた―それはうちに心配な事があった時でした。その時教えられた通り、一言一句の日本語をくりかえして神々に祈った。神棚の燈明は燃えてなくなるままにしてある。

 寝る合図をするのが私で、一同それを待っている―書くことに心を奪われて時間を忘れることがある。さうすると余り勉強が過ぎないかと注意される。女中は部屋部屋へ蒲団を拡げる。火鉢に火をつくり直して私共―即ち私とその外の男―が夜勝手に煙草の吸えるようにする。それから女中たちは平伏してお休みと云う。それから全く静かになる。

 時々眠りにつくまで読書する。時々鉛筆をもって―床の中で聞き続ける事がある―しかしいつでも昔の習慣に随って小妻はおさきに御免蒙りますと云う。そんな礼儀は―あまり謙遜すぎるから―止めさせようと試みたが、結局は美はしい習慣で―魂の中にしみこんでいるから、止めさせることはできません。これが日常生活の概略です。それから眠ります・・・」

 熊本時代に書いたチェンバレン君への手紙はこの頃になるととても懐かしく感じます。日本はどんどん変わって行くので、時々恐ろしくなります。「旧日本」を象徴していたものは、武士、質実、剛健、簡易、素朴、忠孝、信義、礼譲、神道と仏教などでしたが、「新日本」は、壮士、軽薄、虚栄、懐疑、冷笑、洋館、高帽、白シャツ、貝殻の如き西洋の模倣、がはびこっています。私がすきなのは『八百屋、飴屋、僧侶、神主、占い師、巡礼、農夫、漁師』などでしたが、理想とも見えた「旧日本」は消え失せて、西欧を模倣した「新日本」に変わって行くのが恐ろしいのです。柔和で微笑に満ちた不思議な大気が、西洋から吹いてくる邪悪な風に穢されて行くのが哀しいのです。

 日本には巨大な資本と機械を備えた工場や巨大産業は不必要でした。そんなものがなくともすばらしい芸術品ともいえるさまざまな製品を作りだしてきたのです。京都に行って世界に知られた陶磁器の大家、その人の作品が日本よりはロンドンやパリで更に名高い名工に、何か注文しに行って見ると、その工場というのは、米国の農夫なら到底住めぬような木造の小さな家である。五寸ほどの高さの品物に対して200㌦も取るような七宝焼きの名人は大方小さな室六つほどの二階家の裏で、彼の稀代の珍品を拵えている。全帝国に鳴り響いた日本で最上の絹の帯地は、建築費500㌦とはかからぬ建物の中で織られてる。仕事は勿論手織りである。

 しかしこうした美しい古くからのやり方は新日本に勃興した強大な商業主義に呑み込まれようとしている。日本は西洋を模倣し、思想も産業も生活も新しい日本式に変えようとしてるし、そうしなければ西洋からの圧迫から独立を守ることが出来ないと思っている。しかし、そうした努力は、果たして報われるであろうか。 私が思うに、それは哀しい徒労でしかない。というのも、西洋の国々は想像できないほど老獪で狡猾なので、いかに日本が新日本になろうとしても、強大な西欧の術策には勝ち目はないからだ。

 というのも、日本が極度の努力を死にものぐるいでやっていても、それは畢竟方面違いの努力であって、帰する所は、商売上の経験では日本より数百年の長老である他国民を利するだけであるし、日本の陸軍も海軍も、やがて侵略を企てる西欧の刺激や挑発に乗って、勝算のない戦いの罠へと導かれる恐れが多分にある・・・もちろん、これまで幾多の危難を乗り越えさせてきた日本人の経世の才は、やがて来るべき危険とよく対抗し得る手段を見せるに違いないとは、思うけれども・・・・。

 しかし、そうした危難を乗り越えることが出来たとしても、その時、日本は、私が最も愛した日本の面影を失っているだろうと思うと、哀しくてならないのです。

  

  薮医竹軒様

           あなたの忠実なる

                    ラフカディオ・ヘルン

付記・参考資料 

「小泉八雲全集」第一書房 大正十五年発行

チェンバレン宛の熊本時代の手紙は、第十巻55より引用

日本の職人の技巧と建物のアンバランスに関しては、第四巻、「日本文化の真髄」・五を参考に。

日本の産業・軍事の発展と西欧との関係に関しては第八巻「産業上の危機」を一部引用。虫の名所、虫売りなどに関しては、第五巻「虫の楽師」 一雄君の旅の宿での蛍の話は、小泉八雲全集別冊「思い出の気」小泉節子著を引用・参考にして書き記しました。