「閻魔庁の籔医竹軒」 第二十四話 白狐(番外・続命湯)

 竹軒が閻魔庁に呼ばれて行くと、若い男が床に倒れていた。ひどく痩せこけ、意識を失った顔に苦悶の色が見える。

「和田三郎という医者です」と書記が言った。

「医者?・・・悪事を為して鬼に責められたのですか」

「そうではありません」

「なら、何なのです」

「この若者の父が先程来、十王の尋問を受けているのですが、その証人として息子であるこの若者が呼び出されました。すると、父親の顔をひと目見て、ぶるぶると全身を震わせて、卒倒したのです」

「それはまた、父親思いの子でござりますな」

「なぜ竹軒殿はそう思われるのです」

「父親が十王の尋問を受けて苦しむ様を見て、堪えられなくなったのでござりましょう」

「果たしてそうであればよいのですが」

「そうではないと」

「・・・人間というものは、罪深い者ですが、この若者は父を憎んでいたのではないかと想像されます」

「卒倒するほど父親を憎むとは・・・いったい、この若者の父というのは誰なのです?」

「岡倉天心という者です」

「・・・岡倉天心・・・?・・・あの大人物の子がこの若者なのですか」

「いかにも」

「しかしあなたは今し方、若者の名は和田三郎と申されたではありませんか」

「確かにそう申しましたが、閻魔帳によればこの若者は天心の嫡子ではありません。天心が三十三才の時に、異母姪にあたる貞という女に生ませた子どもなのです」

「異母姪・・・天心は、近親結婚をしていたのですか」

「正式の結婚はしていません。天心は姪の貞を妾として密かに囲い、三郎を生ませた。つまり三郎は庶子ということです」

「・・・」

「しかし貞が三郎を生むと天心は外聞を憚って知り合いの北村和吉という者に『七歳になるまで預かってもらいたい』と託しました。和吉は子どもを亡くしたばかりだったので喜んで預かりました。ところが、事件が起きたのです」

「・・・と申しますと」

「貞が三郎を奪われて絶望し、自殺を図ったのです」

「・・・」

「幸い未遂に終わりましたが、天心は事件の発覚を恐れ、もみ消しを図りました・・・というのも、天心はこの時期、東京美術学校の校長兼教授として年俸二千円の高給取りであったし、彼の名は美術界のみならず、内外に轟いていたので、醜聞を知られたくなかったのです」

「・・・卑劣な」

「三郎はしかしそのまま北村家に置かれ、大切に育てられました。この若者にとってこの時期が人生で最も幸福な時期であったと記録には記されております。物心つく前に三郎は北村に引き取られたので和吉とその妻を実の両親と信じてなつきました。三郎はとても利発な子でしたので跡継ぎがない北村家としては三郎に家を継いでほしいと願っていたようです」

「なるほど・・・当然の成り行きでしょう」

「ところが、三郎が七歳になると、天心は使いを出して北村家から三郎を取り上げ、岡倉邸の一角に住んでいた和田政義に託しました。三郎は突然北村家から引き離されて驚き暴れ、毎日『とうちゃんのところへ帰りたいよう! かあちゃんのところ帰りたいよう!』と泣き叫んだと閻魔帳には記されています」

「なぜまた天心は、せっかくなついている北村夫婦から引き離して和田家に預けたのです?」

「理由に関しては閻魔帳にも記してありませんから天心に聞かねば分かりません。しかし若者の不幸は天心の身勝手な振る舞いによってもたらされたという事は確かです」

 竹軒は痩せこけて目を閉じている若者をつくづくと見下ろした。岡倉天心という世に知られた人物の子として生まれながら不幸を一身に背負わされ、地獄に来てまで苦しんでいるとは・・・竹軒は薬箱から生薬を取り出して続命湯をこしらえると傍らの鬼に若者の体を支えさせ、これを呑ませた。薬の効能が現れて若者が正気を取り戻した。

「あなたは誰です?」

「私は閻魔庁の医師・藪医竹軒と申す者です」

「・・・藪医・・・私は、なぜこんなところに居るのです?」

「私は詳しくは存じませんが、恐らくはあなたの父である岡倉天心が閻魔庁で裁かれるに際して証人として呼び出されたと思われます」竹軒がそう言うと若者はひどく悲しげな苦渋の色を浮かべ、目を伏せて沈黙した。閻魔庁の係官が若者を呼びに来た。

「和田三郎、その様子では証人として出頭出来そうだな。すぐに参れ。また、竹軒先生は万が一の事態に備えて証人に付き添うようにとの十王様たちのお申し付けでござります」

 若者に付き添って行くと白州の真ん中に奇態な帽子をかぶり、髭を生やした男が黙然と座っていた。法廷正面の五道転輪王が鋭く質問した。

「俗名、岡倉天心、あの若者は、お前の息子に相違ないか」

 男は若者を見つめしばらく黙っていたがやがて吐息のように細い声で「私の息子、三郎に相違ござりません」

「では尋ねる。お前はあの若者の親としての義務を果たしたか」

「・・・」天心は長い間沈黙していたが、ようやく口を開くと「親として、何一つやってやれなかった事に後悔しております」と述べて三郎の方に向かって頭を垂れた。五道転輪王はその姿を厳しく見咎めて、

「己の欲望に走り、親としての役割を十分に果たさなかった者は黒縄地獄に落とすことになっているが、それは承知であろうな」

 これを聞くと天心は真っ青になって身震いしたが、やがて弱々しく頷くと「承知いたしております」と蚊の鳴くような声で答えた。すると弁護席に座っていた一人の書記が立ちあがった。どうやら天心は生前の功績が考慮されて特別弁護人を付けることを許されたようである。書記は次のように弁じた。

「天心本人に替わって申し上げます。三郎の母、貞は、天心と別れてから早崎吉の妻となりました。三郎は七歳まで知人の北村家に預け、その後は和田政義に預けましたが、和田が亡くなりましたので和田家は困窮し、三郎は小学校卒業後、酒屋に奉公に出ることになりましたので、天心は貞の夫である早崎吉に三郎を迎えに行かせ、実母と暮らせるように手配いたしました」

「ふむ」

「和田の妻にはそれまでの礼として相当の金子を与えております」

「ふむ」

「更に、三郎が熊谷中学から第八高等学校へ進む時には陰日なたなく援助し、東京大学医学部に入学して医師になるについても、支援を続けた事は事実でござります。また余命幾ばくもないと知った時には遺言書に次のように明記いたしました。『第百銀行の定期預金五千円のうち三千円は和田三郎に交付すべし。また、秩父大滝村の広大な山林もまた、三郎に与える』

 遺言に従って三郎は財産を相続いたしました。世間を見渡しても庶子に対してこれほどの財産分与を行った者は多くはないと存じます」

「なるほど」五道転輪王は顎髭をしごいて天心の顔を大きな目でにらみつけた。天心は恐れ戦いて生唾を飲み込んで沈黙した。五道転輪王はしばらく瞑目していたが、やがてその視線をゆっくりと若者のほうに向けた。

「和田三郎に尋ねる」

「・・・はい・・・」若者は少し息が苦しそうな様子で答えた。

「どうじゃな、わしの質問に答えられるかな?」

「はい・・・お答え申し上げます」

「そうか、それは気強いことだがここに医師の藪医竹軒が参っている故、気分が悪くなった時には遠慮無く申すがよい・・・さて、そなたも今し方聞いたであろうが、あの者、つまり、現世ではそなたの父であったあの者の言い分をどう思っているか、正直に答えよ」

「はい・・・父は偉大な人物と世に高く評価され、私もそう思っております。父が存在しなかったら、日本は貴重な美術品の多くを失っていたであろう事は確かだと思います。明治維新の廃仏毀釈の嵐の中で、父が成し遂げた仕事はかけがえのないものであると思います。これは誰にもなしえなかった父の功績の第一でござります」

 竹軒はいささか驚いた。若者のそれまでの様子からすれば口もろくろくきけぬであろうと思っていたのに、すこぶる流暢に語り始めたからである。若者は青白い額にうっすらと汗を浮かべていたが、言葉には少しのよどみもなかった。

「父の功績の第二は美術界の教育者として比類無く優れた手腕を発揮したということでございます。もし父が存在しなかったら、横山大観をはじめ、下村観山、菱田春草らも世に出ることはなかったと思われます。その結果日本画の伝統は失われ、今日の隆盛を見ることはなかったでありましょう。・・・次に父の功績の第三は『東洋の理想』などの著書を英文で書き記し世界に発表した事であります。この書物はアジア諸国、とりわけ印度の青年たちに嵐のような旋風を巻き起こし、その後の印度独立運動の機運を産むための大きな力となった事は誰しもが否定できない事実です・・・もっとも、父が思想家として大いに優れていたかどうかということになりますと、疑問がないわけではありません」

「疑問とな・・・その疑問とは何か」

「父の『東洋の理想』はすばらしい名著ですが、これに続いて記された『日本の覚醒』という書物からは理想は失われ、いまわしい現実に引きづられてしまったのです。私が最も驚いたのは『朝鮮は日本につきつけられた匕首である。したがってこれを侵す者は敵である。中国が朝鮮を侵略するのは日本を侵略するのと同様である。従って、中国との戦争は聖戦である』・・・と言う部分です。まるで戦争の煽動者のように情熱を込めて大陸侵略を叫んでいる。『東洋の理想』を書き記し『アジアは一つ』と世界に訴えた父が、こんなひどい事を書いていることに愕然としました。更に次の部分は私の心に深刻な反発を巻き起こしました。

『アジアの兄弟姉妹たちよ! おびただしい苦痛が、われわれの父祖の地を覆っている。東洋は柔弱の同義語となった。土着の民とは奴隷の仇名である。ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱である・・・立ち上がれ、そしてこの生命をおびやかす腫瘍を切り取ってしまうまで、ためらってはならぬ。われわれの回復は自覚である。われわれの治療は ― 剣である』

 父は印度の詩聖スレンドラナート・タゴールと親友でしたし、ガンジーの存在も承知していました。タゴールやガンジーは暴力闘争を嫌悪し、否定しておりました。しかし父はこれを進んで肯定したのです。けれども父は自らその主張の誤りに気づいていたのでしょうか、原稿を筐底深く秘匿して出版しませんでした。しかし不幸なことに、父が死んでから二十五年後の昭和十三年に出版されることになりました。そしてこの著書は軍国主義日本の侵略の口実として使われることになったのです。『東洋の理想』の『アジアは一つ』という言葉も大東亜共栄圏建設のための都合の良いスローガンとして使われ、それによって父の偉大な功績は失われました。こうした事は、まことに残念としか申しようがありません」

 三郎が口を閉じると、俯いている天心を横目で眺めながら五道転輪王は顎髭をしごいて、

「なるほどの・・・しかしそのような事はそなたが申さずとも、よく存じている・・・わしがここでそなたに尋ねたいのは、子として見た父親の真実の姿なのだ。そなたは岡倉天心なる男の身勝手によって苦難の生涯を送らねばならなかった。故にそなたには恨み辛みがその腹に積もっているであろう。忌憚なく申してみよ」

 五道転輪王がこう言うと、若者はしばし目を落としたが、思い切ったように口を開いた。

「・・・さきほど父の思想に関して私は批判めいたことを申しました。しかしそれは父の公の発言に対して誰もが抱く疑念であり、子としての発言ではありません・・・子である私は・・・父に恩を感じることはありましても、恨みを抱くような気持ちは毛頭ありません。父によって私は生を受けることが出来たのですから・・・しかし・・・ただ一つだけ父に尋ねたいことがあります。それは・・・」

「ふむ・・・それはいかなる事かな」

「・・・私は父の援助によって東京大学医学部を卒業し、医者になることができました。そして精神科の医師となりました。私は専門分野を選ぶについて精神科以外の医師になることは全く考えませんでした。あたかも誰かに命じられたかのように、なんのためらいもなく、精神科を選んだのです。そしてそれは正しい選択でした。というのも、私は運命の手引きで大学病院から松沢病院に配属され、あの人に出会ったのですから」

「誰に出会ったのか」

「・・・父の冒した罪によって不幸な生涯を送った女性です」

「お前の父の罪によって不幸になった女と出会ったというのだな」

 五道転輪王はチラリと天心に目をやった。天心は何が語られようとしているのか全く心当たりが無いとでも言いたげに額をかすかに上げて息子の顔を不安げに見つめた。若者は細い声で次のような不思議な出来事を語った。

「私がその女性に出会った時、彼女はそこに収容されてからすでに二十年もたっていました。ですから、私がその女性に出会った時、父は既にこの世にはおりませんでした」

「・・・」

「私はその女性について何も知りませんでした。勿論、私を配属した大学の教授も、病院の院長も、私とその女性との関係については全く何一つ知らずに私をその女性の主治医にしたのです・・・ですから彼女と出会ったのは運命だったのです」

「・・・」

「その日、私が院長について部屋に入って行くと彼女は部屋の隅に横になっていました。

『この患者は難しくてね、歴代の主治医はみな手こずっていたんだ』と院長は言いました。それからさまざまな症状について説明しました。私は新米の医師だったので、院長は一通り教えておかなければならないと考えて丁寧に説明してくれたのです。

 女は院長が話している間、後ろ向きになって身動きもせずに横になっていました。ところが話が一段落した時、突然電気に打たれたように身を起こしてこちら向きになると、突然床に起き上がって背筋を伸ばして正座したのです。彼女の目はまっすぐに私を見つめていました。院長は驚愕して、

『これはどうしたことだ、この患者は何年もまともに口をきいたことがない。起き上がることもなかった。それが、和田君を見たとたん、顔色が変わった。見たまえ、あの目を、尋常ではない輝きを帯びているぞ!』

 女は私の顔を穴の開くほど見つめました。幾年も櫛を入れたことのない髪は茫茫と乱れ、手足は垢で汚れてだらしなく着物を着ていましたが、その目は野獣のように光っていました。私は気味が悪くなりましたが、何故か身動きができませんでした。すると彼女は不意に床から立ち上がってこっちへ走り寄ると、細い手で私の襟首を掴まえ、こう叫んだのです。

『あなた! あなた! 私をどうしてこんなところに閉じこめておくのです! あなた! どうしてこんなに長い間私をほったらかしにしたのです』

 私は仰天しました。精神を病んだ見知らぬ女の口に襟首を掴まえられて、『あなた!』などと叫ばれたのですから・・・」

「・・・」

「院長は愕然としてしばらく声もありませんでしたが、『これは大変だ、学会報告症例だぞ!』と叫んで部屋から飛び出して行きました。しかし、女は、私を掴んだまま、離そうとしません。そしてまた私を見つめて『覚三さん、私を愛していますか』と言ったのです」

「・・・狂った女が・・・お前の父の名前を呼んだのだな?」

「そうですとも。彼女は私を掴まえて『覚三さん』と三度も言ったのです・・・女は私の襟首を掴んだままいつまでも離そうとしませんでした。私は何が何だか訳が分からず、ただ仰天して突っ立っていました。私の頭の中に『覚三さん、私を愛していますか』という言葉が響き渡りました・・・覚三・・・覚三・・・父の名を、この患者はなぜ叫ぶのだろう・・・私は呆然として為されるままになっていたのです・・・やがて院長が看護人たちを連れて入ってきて、私と女を無理矢理引き離しました。女は仮面をかぶせられた案山子のような顔になって床に横たわりました。

 その夜、私は一晩かかって20年前のカルテを探し出しました。女のカルテには「星崎」と記されていましたが偽名かも知れません。あるいは何らかの理由で別名が書かれているのかも・・・古いカルテには入院当初の記録があるだろう・・・もしカルテが見つかれば、なぜあの女が私を掴まえて父の名を呼んだのか、その謎が分かるかも知れない・・・私は深夜まで探し続けました。そして、とうとう事実を見つけたのです・・・その女性の名は、九鬼初子でした」

「・・・初子! まさか」それまで沈黙していた天心は仰天して叫んだ。「・・・そんな、そんなことがあるものか・・・三郎・・・今の話は本当か」

「お父さん・・・私がお話ししているのは、事実です・・・私は彼女に出会ったのです・・・死んで閻魔庁にいる私が嘘を申すでしょうか・・・その女性は紛れもなく、九鬼隆一男爵の妻、あなたが愛した初子夫人だったのです」

「・・・お前は・・・は・・・は・初子の主治医になったというのか」

「偶然でしょうか・・・それとも、神か仏がそうなさったのでしょうか・・・私は、あなたが愛し、捨てて、気が触れた男爵夫人の主治医になったのです」

「・・・」

「今更申すまでもない事ですが・・・初子夫人は大変な美貌の女性でした。九鬼男爵は若い頃から女狂いで有名を馳せていましたが、遊郭にいた彼女の容姿を一目見て惚れ込み、請け出して妻とし、四人の子を産ませました。その間も男爵の女色は絶えませんでしたが、九鬼は彼女をそれなりに愛していましたから、条約改正のための駐米特命大使に任じられると子ども達を九鬼家に預け、日本に残りたいという彼女を無理にアメリカに連れて行き、彼女を社交界にデビューさせました。大統領も彼女の美貌には感嘆し、アメリカの大新聞は「ワシントンの美貌の外交婦人たち」という見出しで三人の婦人像を掲載しましたが、初子はその一人に選ばれるほどでした。しかし彼女の出自が当時のアメリカ人にとっては好ましいものではなかったのが理由であったか、それとも別に訳があったのかは定かではありませんが、彼女は次第に疎んじられるようになり、それにつれて日本への郷愁が募って、彼女は一人で帰国することになったのです。しかしまさか、男爵夫人ともあろう女性を何の庇護もないままに帰国させるわけにはゆきません。そこで九鬼は誰か彼女を託すのに良い人物はいないだろうかと探していたところ、これが運命のいたずらというものでしょう・・・もしもそれがいたずらであるとしたらあまりにも罪深い悪戯ですが・・・彼女が帰国しようとしていたその船には、何と、九鬼大使の親友であり、美術界の大物である岡倉天心、つまり、私の父が乗船することになっていたのです。九鬼は愚かにも天佑であるかのように大いに喜び、妻を無事に日本に送り届けてくれるように頼みました。父は快く引き受けました。そして・・・孤独に打ち拉がれている初子夫人は父の虜になったのです・・・彼女は純粋な性格でしたので父の言葉を真に受け、身も心も父に委ねました。彼女は帰国するとすぐに九鬼家を出奔し父の屋敷に近い根岸の旅館に潜伏しました。九鬼男爵は急いで帰国して彼女を探し出して連れ戻そうとしたのですが、父に心を奪われていた夫人の意志は固くどうしても帰らないというので、男爵は世間体を繕うために大勢の女中や下働きの者も付けて中根岸に屋敷を買って初子さんを住まわせました。しかし父は毎日のように逢いに出かけたので男爵は父が近寄れないように京都へ移すことにしたのです。けれど父は初子さんを慰める手紙をしばしば京都に書き送りましたので、彼女は父と一緒になりたい一心で京都を脱出しました・・・しかし父は初子さんと一緒になる気持ちはありませんでした。なぜそうしなかったかは私には推測しようもありません。しかし父は明治二十三年には二十九歳にして東京美術学校の校長に納まり、夏にはシカゴ万博博覧会宣伝のために来日したガワード氏を向島八尾松で饗応して隅田川に船を浮かべ・・・それから講義や展覧会、古美術の鑑定などに忙しく奔走し、その功績が高く評価されて十一月には正七位に叙せられ、藍綬褒章まで授けられたのですから・・・有名になり、勲章までもらった父は初子さんに関わる時間がなくなってしまった・・・待てど暮らせど父は初子さんの許を訪れなかった・・・こうしたことが重なった、彼女は絶望し、精神に異常を来したのです。私は父の仕事がどれほど重要な任務であったか承知しているつもりです。しかし私がどうしても理解できないのは、国家の美の保全にあれほど情熱を注いだ父が、なぜ愛する女性を大切にできなかったのかということです。私の母や、初子さんとの愛を捨ててしまった人物が、どうして日本の美にあれほどの理解と情熱を注ぐことができたのか、それを教えて欲しいのです。私の母も、初子さんも同じ気持ちではないかと思います」

 青年が口を閉じると、法廷は静まりかえった。やがて五道転輪王の声が響いた。

「和田三郎、それ以上証言することはないか」

「・・・ありません・・・」

 これを聞くと、五道転輪王は岡倉天心を凝視した。

「岡倉天心、お前には何か申す事があるか・・・和田三郎はお前の庶子として生涯日陰の人生を送り、お前の勝手気ままな恣意によってさまざまな家を転々とさせられ、医師になりはしたが、その結果、お前のために不幸にも精神を患った女性と邂逅し、そのために和田三郎は心身ともに疲労困憊して、三十九才の若さで世を去った。それにも関わらず、彼は父であるお前を庇って、己の不幸故にお前を非難することはなかった。しかしただひとつ、お前はそれほどまでに肉親や関係した女性たちに冷たかったというのに、日本の美に関しては類を見ない情熱を注いだ、その矛盾はいかなる原因によるものか、和田三郎はその事に関して疑問を抱き、この場で聞きたいと申しておる。申し開きなり、なんなり、申してみよ」

 五道転輪王がこう述べている間、天心は目を固く閉じていたが、その瞼から涙が一筋こぼれ落ちた。

「私は卑劣な男です」と天心は絞り出すような声で言った。「私には夫や親になる資格は何一つない・・・三郎には、申し訳ないことをした・・・今更どのように謝っても許してもらうことなどできはしないが、心から謝りたい・・・初子の話は今初めて聞いた・・・そして自分の為した悪がどれほどに大きな罪であったか、改めて思い知らされている・・・初子にも、貞にも、それから、私が愛した多くの女性たちにも、ひどい仕打ちをした・・・弁解の余地はない・・・だから私はこれからどのようにひどい地獄に堕ちようとも、当然の報いであると思っている・・・だが、三郎・・・もし私の話を聞いてくれる耳をまだ持っているなら、どうかひとつだけ、弁解を聞いて欲しい・・・それは・・・私は、初子にも、そなたの母の貞にも、そしてお前にも、何もしてやれなかったが、その事についてはいつも罪の意識にさいなまれ、次第に頭にこびりついて離れなくなった。そして、気がつくと、私はひとつの物語を書いていた。『白狐』だ。私はこれをオペラとして発表したいと思ったが果たせなかった。しかし・・・その内容は、お前と、初子と、そして、貞への贖罪のつもりで書いたのだ・・・」

「・・・贖罪?・・そんな・・・私はあなたの作品は全て読んでいます。『白狐』も読みました。しかしあれは女狐と男とのたわいもない話ではありませんか・・・それにそのモチーフは明らかに古くから伝わる『葛の葉』です。『葛の葉』には保名という男と狐が化けた葛の葉という女性が登場しますから人物の名前までそっくりです。それにあの戯曲はあなたを支援してくれていたガードナー夫人に捧げたものではありませんか」

「・・・いいや、そうではない、ガードナー夫人はボストン美術界の女王と呼ばれていた方だから、在米時に大変な恩恵を受けた。だから敬意を表して献呈という形をとったが、内容は彼女とはまったく関係ない」

「・・・」

「三郎・・・もしあの戯曲を読んでいるなら、思い出してくれ。コルハは霊力のある玉を持っている美しい女狐だ。コルハは玉の霊力を手に入れようとしている男(アッケイモン)に殺されそうになるところを、ヤスナという領主に救われる。コルハは人間の女に身を変え、ヤスナと結ばれて子が生まれる・・・私の心の中では、白狐コルハは初子でありお前の母、貞なのだ・・・そして子狐は、お前だ」

「・・・私が子狐・・・? そして、白狐のコルハは初子さんと私の母・・・?・・・初子と貞は別人ですよ・・・全く別の人格が一匹の狐に描かれているなどということは、とうてい理解できません。それに、私は、なぜ狐の子なのです。『葛の葉』の物語では二人の間に生まれた子どもは童子丸という人間の子で、後に安倍晴明という陰陽師になるのです。狐ではありません」

「三郎、確かに『葛の葉』が私の戯曲の下地にはなっていることは確かだ。しかし思想は全く違うのだ」

「・・・」

「よく考えてくれ、この世の存在は仮の姿なのだ・・・私たちは二本の手と二本の足、一つ胴体と一つの頭を持っている。それが人間だ。しかし千手観音には多くの手と多くの頭がある。阿修羅は三つの顔と六本の手がある。十一面観音は十一の顔を持っている。なぜこのような仏が造られたのか・・・それは、人がそのようになりたいと思ったからだ。罪深く、無限の欲望を持ちながら短い時間とわずかな才能しか与えられていない、そんな哀れな肉体に押し込められている人間という存在から超越し、無限の真実に少しでも近づきたいという願望が千手観音のそのような不思議な仏とその造形を生み出したのだ・・・だから、コルハは貞であり初子であって少しも不思議はない。美しい白狐は、私の愛する女性そのものなのだ。私にとっては二人ともかけがえのない女だ・・・しかし人の世にはしきたりがある。私には十代の時から連れ添っている元子という妻がある。世間のしきたりでは、妻がある男は別に妻を持つことはできない。しかし私は美しいものを見ると見境がなくなってしまう。全てを私のものにしたいという欲望にどうしても克つことができない。私は不道徳であり、倫理も道理もなく、ただ、焼け付くような欲望の虜になってしまう愚かな男なのだ・・・美しいもの、愛しいものに出会うと、私から理性も分別も消え失せて、ただ迷妄の虜囚となってしまうのだ」

「・・・お父さんはそのような人であることはよく存じています。しかし私は違います。私は幸か不幸か、お父さんのような情熱の心を持たぬ平凡な人間として生まれました。愛する女性とも結ばれたことはありません。ですからあなたが美しいものを見ると、それが古代からの美術品であろうと、仏像であろうと、また、現実に生きている女性であろうと、我を忘れて美の虜となってしまえる・・・そんなあなたが羨ましく思います・・・しかし、だからといって、母や初子さんを不幸にして良いということにはなりません」

「無論そうだ、私は罪深い男だ。心の中にも、はらわたにも、いくつもの地獄を持っている。だから私は愛する人に地獄の苦しみをさせてしまうのだ・・・しかし、だから私は、罪の償いのためにあの戯曲を書いたのだ」

「・・・僕は、あなたの罪が一片の戯曲で晴れるとは思いません。しかし教えて下さい。なぜ狐なのです、私は何故狐の子なのです」

「よく聞いてくれたな、三郎・・・私はお前たちを仏として書きたかった、しかし、最初から仏であってはあまりにも現実とかけ離れている・・・そこであれこれと考えた。そして思いついたのが狐の話だ・・・日本の昔話には、狐が霊力を持ち、さまざまなものに成り代わることができると伝えられている・・・それは、日常の煩わしい些事から超越して、絶対の愛や恍惚と同化したいという人間の欲望が生み出したのだ・・・

 ヤスナにはクズノハという許嫁がいる。だから別の女と共に暮らすことは許されない。しかし、アッケイモンが攻めてきて、ヤスナの城は落城し、クズノハは行方不明となり、ヤスナは絶望して彷徨う・・・そこでコルハはアッケイモンを計略にかけて滅亡へと追い込み、クズノハに化けてヤスナと結ばれる・・・」

「さっぱり分かりません・・・いったい、悪者として登場するアッケイモンとは何者なのですか、なぜアッケイモンはヤスナを攻撃するのです」

「アッケイモンとは、欲望に満ちた世間だ、そして倫理や道徳を押しつける常識であり、しきたりであり、私たち人間の愛と自由を奪う全てのものなのだ。それらはいつも私たちを見張って、少しでも油断すると心の愛や自由を奪って行く。しかも、アッケイモンは外にあるばかりではなく、私たち自身の内部にも宿っている。だから私たちは愛や自由を心から楽しむことができない。人生を謳歌することが許されない。アッケイモンに監視されている我々人間は、従順に規則と道徳を守ることを無意識のうちに求められ、自分自身をこの世の習いに縛り付けているために思う存分生きることが出来ないのだ。だが、コルハはそのような人間世界の外にいる。彼女は愛する者のために戦い、愛する者と共に生き、そして愛の結晶をこの世に産む」

「・・・」

「しかし人間の世界はどこまでも強い。人間界の決まりを破る者は生きていることを許されず、まして、人間を超越している存在は許されない。だからコルハとヤスナがどれほど愛しあっていようと、日常の世界は彼らを引き裂かずには置かないのだ。だから別れ際にコルハは歌っているだろう・・・

  

  人間は畜類を常にあざける

  きっと私のことも言うだろう

  あれは狐、情けなど知らなかったと

  貞節を、献身を、本当の服従を、

  人間が愛をどれだけ知っているというの、

  私たちこそ一万倍も強く感じる、

  五臓六腑を噛み裂くばかりの、

  情熱の痛みを、嫉妬のほむらを、」

「・・・」

「そして、コルハは子どもを抱き上げて、三郎にこう言う、

 

  あの人の子、私のすべてのすべて、

  私の魔法の玉を遺していってあげようね、

  力と知恵を授かるがいい。

  私にはもう力や魔術、何の入り用があるだろう、

  愛を奪われたこの抜け殻に、

  もとの棲処に私は帰る、

  地に這うけもの、追われ狩られて、

  犬に食われるけがれた獲物。

  嵐にすさぶ月のない夜じゅう、

  おびえて飢えて、ただひとり私はさまよう。

「・・・」

「しかし三郎・・・怯えているのはコルハだけではない、コルハを失った私も、怯えながら生きていたのだ・・・この戯曲がお前の何の慰めにもならないことは百も承知している・・・しかし、私はお前たちを捨てたわけではない・・・私の地獄、私の愚かさ、私の欲望が私を振り回し、アッケイモンを追い払おうとしながら、実は捕らえられ、その一味となって、滅亡への道をたどったのだ・・・こんな父を持ったお前が哀れだ・・・しかし、これもまた・・・」

 天心の絞り出す声に、三郎は白州に顔を伏せ、大声で泣いた。その声は閻魔庁の高い天井に届き、地獄の空から滂沱たる涙の雨が降ってきた。

 竹軒は雨に濡れながら、庵への道を黙然とたどったのだった。

<第二十四話 終わり>

●引用参考文献

 「岡倉天心全集」平凡社  「男爵・九鬼隆一」司亮一著 神戸新聞総合出版センター