佐賀純一講演「小野小町はなぜ有名か」
平成二十年十月三日 原作 佐賀純一
今晩は・・・ご紹介に預かりました佐賀です。これから僕は、来月上演されますオペラ「小町百年の恋」のヒロイン・小野小町についてお話したいと思いますが、与えられた時間は五十五分。常日頃なら少なくとも4、5時間はどうしても必要ですが、
今夜はオペラでうたわれる歌の演奏も予定されておりますので出来る限り時間内にまとめてみたいと思っております。
さて、何故、この僕が小野小町を語るのか。その理由を一言で表現すれば、古事記です。日本最古の書物、古事記、この不思議な書物を通じて、僕は和歌のおもしろさを教えられ、やがては小町の歌の魅力に気付くようになったのです。
では僕がなぜ古事記を読むようになったのか。
それは、二九才の時でした。僕は心筋梗塞に襲われました。心臓の1/3が壊死して生きるか死ぬかの瀬戸際をさ迷うことになったのですが・・・ その時、ベッドで考えたのは、「日本人で最初に死んだのは誰だろう」という事でした。
『僕は間もなく死ぬだろうけど、死んで後、死後の世界があって、そこには大昔からの古い死者が待っているとしたら、僕は新参者として行くのだから、一番先に死んだ偉い人に、ご挨拶に伺わなければならない。それなら、お名前も知らずにご挨拶するのは失礼だろう』、とこう考えたわけです。
そんな話、作り事だろうと思うかも知れませんがソクラテスはあの世のことについて膨大な話をプラトンに託しておりますし、ダンテの神曲にも詳細に書いてありますから、その影響で考えるようになったのかも知れません。
ある日血圧がひどく下がったのか、頭が朦朧としていると、僕は深い穴の中に落ちて行きました。どうやら僕は死んで地獄へ行くらしい。そう思っていると、あたりに人だかりがする。
大勢の人が押しくらまんじゅうをして、叫んだり、悲鳴を上げたり、泣きわめいたり、怒鳴り合ったりしている。かと思うと、喜びにあふれて歓喜にむせんでいる。これはいったいどうしたことだ、訝しんでいると、
「おい、お前は誰だ」という声。
見ると、干し魚のようにひからびた、というより、イカが内蔵を抜かれて皮ばかりになったような人がこっちを見ている。
「僕は、死んだ人を探しているんです」
「馬鹿かお前は、ここは死んだ人間ばかりだよ」
「・・・ああ、そうでした・・・そうですが、僕は、最初に死んだ人を探しているんです」
「最初に死んだ・・それは、アダムとイブではないか」
「アダムとイブ・・・それじゃ、ここは日本の国の地獄ではないのですか」
「地獄に国境などあるものか。ここは最後の審判の裁きの場だ」
「では、あなたはそのように皮だけになるほどの罪を犯したのですね」
「俺は仲間を裏切った罪でバルトロメオにこんな具合にされたのさ」
「あなたの名前は」
「俺の名はミケランジェロ・ブオナローティー」
「ミケランジェロ、あんな大変な芸術家が、そんなひどい罰を受けるとは」
吃驚していると、大勢の者がぎゃーと叫んだ。鬼共が船の櫂のような棒で血の海に突き落としている。
僕もぎゃーと悲鳴を上げたら、目が覚めました。
「何と恐ろしい夢だ・・・最後の審判だけは受けたくない。僕はキリスト教徒じゃないから大丈夫かな、それとも異教徒として磔か・・・そんなことを考えながら
ともかくベッドの中であれこれと読みました。何しろ元気な間は僕は奴隷になるために医者になったのか、と勘違いするほど忙しかったんですが、病気になったお陰でほんとに暇ができましたから、夜も昼も考えたり読んだりしていたわけです。
こうして、段々古い本を探して行きましたら、古事記に行き当たった。そこでとうとう発見したわけです。
何を発見したか、「日本で最初に死んだ人」です。
それは・・・この日本の国を産んだ、イザナミです。
彼女こそが一番先に死んだ方であると記されている。
彼女は夫イザナキと愛の日々を送り、日本の国を産みました。この大地も、島々も、八百万の神々を産んで豊かな国を造ります。ところが最後に火之神・カグツチを生んでしまった。
「みほとやかれて病みこやせり」
子宮は焼けただれ、病気になり、死んでしまいます。
夫のイザナキは愛しい妻を奪われて正気を失い、息子の身体をばらばらに切り捨ててします。その死体から、イワサクノカミ・ネサクノカミ、イワツツオノカミ、多くの戦争の神々が誕生します。鹿島神宮には建御雷男神(タケミイカヅチノオノカミ)が祀られ居ます。この神は、イザナキの剣と火之神の血潮と高天の原の聖なる岩から生まれた戦争の神です。
イザナミの死と共に、この世に嘆き、憎悪、死が生まれました。そして肝心のイザナミはどうなったでしょうか。何もない海の中に、日本の国を産み、八百万の神を産んだ女神ですから、当然極楽に行ってしかるべきです。ところがあろうことか、イザナミは黄泉の国に墜とされて、黄泉津大神(よもつおおかみ)となった。鬼の女王になったのです。
これは大変。僕が死んで挨拶に行くとなると、もちろん黄泉の国に行かねばならないのは覚悟していますが、しかし彼女は鬼ですから、最後の審判で裁かれるより恐ろしい。夫のイザナキも彼女に会いにわざわざ黄泉の国まで降りていったに醜い鬼になっているのを見て恐怖におののいて逃げ帰ってきた程ですから。
しかし、よく考えると、これはひどい話です。創世神話の女神が鬼になるなんて、どこの国の神話にもない話です。
いったいこれはどうした事だ。そこで古事記を詳細に読み進めて行きますと、驚くべき事が分かりました。古事記神話に登場する神々はみな変わる、という事実です。
イザナミは 女神から鬼に変わりましたが、彼女の夫、イザナキもそうです。
イザナキは男神で、妻が亡くなるまで一人の神も産みません。
ところが恋しい妻に逢うために黄泉の国に行く。そして見ると、彼女は鬼になっているので、吃驚仰天して逃げ帰り、ヒュウガノオドノアワギハラで禊ぎをすると、たちまち神々が生まれる。そしてその時、イザナキの左の目からはアマテラスが、右の目からは月読尊、そして鼻からはスサノオが誕生するのです。
男の神が、まるで女神になってしまうほどの変容を遂げる。
しかし古事記神話の中でも一番見事な変身を遂げたのが、スサノオ命です。
アマテラスの国を滅茶滅茶にして、万の災いを巻き起こす。アマテラスは絶望して天の岩戸に籠もってしまう。
→ 追放 →出雲
八岐大蛇から櫛稲田姫を助けた英雄、出雲の国建国の王
暴虐な独裁者 → 建国の英雄
スサノオがなぜこのようにひどく変わってしまうのか。これは長い間謎でした。多くの学者は、古事記神話が創られる前、出雲には大和の国よりももっと古い豊かな国があり、神話が伝えられていた。それが大和王朝に征服されたので、二つの王朝の神話が無理矢理統合されることになった。それでスサノオは矛盾した性格の神になった、というのです。
こうした見解は多くの学者に容認されていますし、今でも一般的です。しかし、よくよく見ると、実は古事記に登場する神々はみな変容しているのです。
因幡の白ウサギで有名な大国主命も、大変な変容を遂げている。大国主命はもともととても弱い神で、その名も大穴牟遅神
(奴隷のように八十神にこき使われ、殺される弱々しい神)
それが、黄泉の国から戻ると、→ ウツシクニタマノミコト→ 大国主命・大英雄・大王
他にも多くの神々が変容を遂げます。
こうして見てきますと、古事記には実に重大な思想があるということが分かります。それはこの神話がもとはばらばらであったものが、王朝交代の時に一つにまとめられたというような説明ではとても理解できない、深い哲学です。
「存在は変容する。たとえ神であっても、まったく異質の存在に変わる」
そしてその哲学は、神話の世界の話ではありません。現代に生きているという意味で実に重要です。
その最も良い証明は、戦前から戦後への日本の国の変わりようです。戦前は、鬼畜米英でした。アメリカ人は鬼でした。日本は明治から大正昭和にかけて、中国・ロシア・アメリカと大戦争を繰り返しました・・何百何千万の人が死にました。
ところが、昭和20年に戦争が終わると、軍国主義は吹き飛渡しまった。鬼畜米英と国民全体が叫んでいたのに、突然、ハローとなったのです。これには上陸してきたアメリカ人が吃驚仰天しました。
戦争で何が難しいといって、戦後処理です。イラク戦争の処理でアメリカは四苦八苦している。戦争で勝利を収めた者は、負けた者の恨みを買います。勝った国はいつも負けた国の者の復讐を恐れている。古代ギリシャ、ヨーロッパ、アラビアの数千年の歴史は戦争と復讐の絶え間ない繰り返しです。
ところが、日本だけは負けて、ハローと勝利者を迎えました。
原爆を落とされたのに、笑顔で、ハローと迎えたのです。
これには占領軍は本当に驚いた。
なぜこんな事が起きたのか。アメリカ政府は公的機関を通じて調査させましたが、真実は不明でした。
川端康成の雪国の翻訳者として有名なサイデンステッカーさんは終戦直後アメリカ軍と共に佐世保から日本に上陸したそうですが、いつ狙撃されるかととても緊張していたそうです。ところが全くその気配がない。
「これはどうしたことか」みんな半信半疑だったそうです。
なぜこんなことを僕が知っているかと言うと、サイデンステッカーさんは僕の著書「浅草博徒一代」が英文翻訳された時、出版記念界にわざわざ来てくださって、それから親しくさせていただきましたが、「ほんとうのところ、日本人が分からない」とあれほどの日本通が最後まで言っておられました。
しかし、日本人の変身は歴史を見てみますと、戦前から戦後への時期ばかりじゃありません。
もっと大きな出来事が明治維新に起きました。
昨日までは刀を差して、攘夷と叫んでいたのが、ある日突然、開国して、刀を捨て、丁髷を切り、着物を捨ててすっかり西洋人のスタイルになった。憲法まで西欧流に創りました。平安時代から鎌倉時代に変わった時も大変な変わりよう。
軍隊も死刑制度もなくして、歌を詠むことが最も大きな仕事であった国が、戦争に明け暮れるようになった。敵の首をとって腰にぶら下げて歩くのが流行になった。
日本人と日本という国は、ある日突然、変容する、そうした歴史の上に立っている。しかし何より驚くべき事は、『そうした歴史上の日本人の精神の変容の詳細が、神々の姿をとって既に、古事記に書いてある』、という事実でする。
私はこのような古事記の全体像をどうしても分かりやすく書き記さねばならないと考え、「変容する神々」という書物にまとめ、東洋医学舎から出版しました。
このように見てきますと、イザナミという女神は、誰かが物語りを面白くするために頭の中で考え出した神ではありません。日本の国に古代からあった独特の哲学・存在論から生まれたというべきであろうかと思います。
こうしたわけで、僕の頭の中にイザナミという女性が強烈にインプットされました。
しかしイザナミはこの国を創り、黄泉の国の鬼になっただけではありません。彼女はもうひとつの大きな遺産をこの日本に産んでくれました。
イザナミの遺産とは何か。和歌です。彼女は和歌をこの国にもたらした神でもあるのです。
その事については、日本最初の勅撰和歌集である古今和歌集の序に次のように記されています。
「この和歌の道、天地のひらけ初まりける時よりいできにけり。
天の浮き橋の下にて、女神・男神となり給へることをいへる歌なり」
和歌の道は天地の始まりから始まった。そしてその歌は、天の浮き橋の下、つまりオノゴロジマでイザナキ・イザナミが男女の神となって愛の言葉を交わした時に生まれたと、こう書いてある。またこれに続く部分はわれわれにも深く関係することですので読んでみますと、
「さざれいしにたとえ、筑波の山にかけて君を願い、よろこび身に過ぎ、たのしみ心に余り、富士の山の煙によそへて人を恋う、云々」
こうした事からしますと、筑波山は和歌の道と深い関係にあるということが分かります。
しかも、筑波山にはイザナキ・イザナミの男女の神々が祀られていますから、古事記の古里でもあり、歌の道のよすがでもあるということが言えます。
古事記にはたくさんの歌が記載されていますが、古代からのそうした文化伝統が次第に洗練され、万葉集、古今集へとつながったといえます。
古今和歌集が編纂されたのは延喜十四年(九〇五年)。それからの三百年の間に八代集と謂われる勅撰和歌集が生まれました。後撰集・拾遺集・後拾遺集・金葉集・詞花集・千載集そして一二〇五年に完成した新古今和歌集です。
ですから万葉集も古今集も、そこに登場する歌人たちもばらばらに存在するのではありません。小野小町も天女のように、どこからか降ってきたわけじゃあない。歴史・哲学・思想・歌の道、そうしたもの全てが関係しあって、大きな河のような世界を造っている。
歌の命の河から無数の歌人が生まれ、その芸術を新しく生み出して行く。そしてまた彼らが河を豊かにしてゆく・・・そのような美しい命の躍動が約三百年もつづいたわけです。いやむしろ、六〇〇年といった方が良いかもしれません。というのは、壬申の乱以降、保元・平治の乱まで、日本には大戦争というものがなかったのですから。
そうした長い豊かな平和の中から、柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持、在原業平、文屋康秀、小野小町という歌人が生まれたのです。
しかし平安の世にも終わりも訪れます。雅な王朝の世界が武家によって滅ぼされる時が来ました。そうした時、それまでの歌の世界をひとまとめにして誕生したのが、藤原定家の「百人一首」です。
「百人一首」はいまさらいうまでもなく、日本文化の中で極めて重要な役割を果たしています。これは歌の道だけではなく、他の芸術にも大きな影響を及ぼしています。
美術工芸品にはしばしば「百人一首」がテーマとして用いられますし、尾形光琳も「百人一首」の題材は大好きでした。
北斎も浮世絵にしていますし、遊びにも大きな役目を果たしている。今でも「百人一首」のカルタ取り大会は正月の大イベントなっている。今年の国民文化祭でも、「百人一首」の全国大会が開催されると聞いています。
こうしたわけで古代から沢山の歌人が活躍し、多くの歌集が生み出されましたが、それらの歌人や歌が「百人一首」に撰ばれるか否かという事は重大事です。いかに重大事であるか、その証拠というべきものを二三取り上げてみます。
平安時代初期に在原元方という歌詠みがおりました。元方は在原業平の孫に当たり、当時この人物は名高い歌詠みでした。その証拠に、彼の歌は古今集の第一巻、春の歌の巻頭を飾っています。つまり、古今集筆頭の歌です。
年の内に春はきにけりひととせを
去年とやいはむ今年とやいはむ
元方の歌は十五首が古今集に採られています。
たった十五首、と云うなかれ。
我々の小野小町の古今集に採られた歌は、十八首です。それを考えれば少ない数ではありません。ところが、在原元方の名を知っている人は実にまれです。
また、中務(なかつかさ)という女性歌人がおります。この方はこれからお話しする伊勢という女性と敦慶(あつよし)親王の間に生まれた娘で、しかもすばらしい歌詠みでした。彼女は大納言藤原公任が撰んだ三十六歌仙に選出され、また女房三十六歌仙にもその名があります。勅撰入集計六十六首(金葉集三奏本を除く)。家集『中務集』
これほどの人ですが、「百人一首」には名がない。『百人一首』になればいくら当時有名だったといっても、和歌に明るくない方にとってはほとんど無名に近い存在です。こうした歌人に対して、陽成院はどうでしょう。陽成院は勅撰の八代集全部を見渡してもたった一首。
筑波嶺の峰より落つる男女川
恋ぞつもりて淵となりぬる
しかも古今集には見えず、後撰集に取られている。
けれど、たった一首、と嘆くなかれ。この一首によって陽成院は永遠の命を勝ち得ました。筑波嶺の峰より落つる男女川・・・この歌は日本国中みんな知っている。それほど陽成院は有名ですし、筑波山も、富士山と並ぶ名山としてその名を轟かしている。
ですから、「百人一首」に取られるか取られないか、これは歌人にとって、生死に関わる重大事なのです。
それなら肝心の小野小町はと見ると、さすがに「百人一首」九番目に登場します。
花の色は移りにけりないたづらに
わか身世にふるなかめせしまに
小町は古今集に一八首入集していると申しましたが、なんといってもこの歌が一番有名です。
そこで、もしもですよ、定家が小野小町を「百人一首」に撰ばなかったら、この歌もそれほど有名にならなかったかも知れない。あるいは、小町の名も今ほど有名ではなかったかも知れない。
となると、小町という女性の存在を理解するためには、まず「百人一首」とは何かという事を知らなくてはならないということになります。
一般的には「百人一首」は平安時代の男女の恋や四季折々の美しさを歌い上げたものだろうと漠然と思われていますが、実はそうではありません。
よくよく見ると、不思議なことに気付きます。
それは、「百人一首」の第一番が天智天皇になっているという事です。天智天皇は一九歳の時、中大兄皇子と呼ばれていた頃、中臣鎌足と共に大化の改新を成し遂げ、その後の混乱を乗り切って古代律令国家を確立した英雄・大政治家です。
「百人一首」の第一番がそうした立派な人物なら、有終の美を飾るべき第百番はこれに匹敵する大物でなくてはなりません。
ところが、何と、百番は、順徳院。
この方は二十四才の時に承久の乱の罪で父・後鳥羽院と共に捕らえられ、佐渡が島に流され、二十一年間を配流の地で過ごし、そこで亡くなった帝です。亡くなったのは一二四二年ですから鎌倉時代で大化の改新から六百年ちかく経っている。
「終り良ければすべて良し」と諺にありますが「百人一首」はその反対。この国の夜明けで幕が開き、王朝の滅亡で途切れている。どうしてこんな構成にしたのか、これが「百人一首」の不思議の第一です。
不思議といえば・・・その歌人の人選もどうもおかしい。もし「百人一首」が名歌を集めるのが目的の一つであったなら、天智天皇が撰ばれる道理がない。天智天皇は支配者です。歌詠みではありません。万葉集には四首しかない。ところがそれより少し後の山上憶良は大変な歌人で、万葉集には約八十首とられている。
銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに
まされる宝 子にしかめやも
こんな歌は僕らの中学生の時の教科書にも載っていました。それなのに山上憶良は「百人一首」には入っていません。
二番目は持統天皇ですが、これもまた妙です。というのも、彼女も歌詠みではなく天武天皇の后です。彼女の側には柿本人麻呂が居たのですから、歌は人麻呂の役割です。
持統天皇の歌は万葉集に四首が入っているのみ。これに対して同じ天武天皇の妃であった額田王はすばらしい歌詠みでした。
熟田津(にきたつ)に 船(ふな)乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万1-8)
彼女は長歌も詠んでいる。古代第一の女流歌人です。それなのに、「百人一首」には名がない。これだけ見ても「百人一首」はただならぬものだということが分かりますが、
一番から順に見て行きますと、これまた妙な事に気付きます。
それは一番から八番目までは花の歌も恋の歌もないという事実です。たとえば六番、
かささぎの渡せる橋に置く霜の
白きを見れば夜ぞふけにける
聞いただけで寒気がしそうな歌です。この歌を詠んだ大伴家持は万葉集の編纂者ですが、彼は反逆罪で墓を暴かれ、生前の地位を剥奪され、骨は隠岐に流されました。
七番目は阿倍仲麻呂の
天の原ふりさけみれは春日なる
三笠の山にいでし月かも
仲麻呂は留学生として大陸に渡りました。時は玄宗皇帝の時代。楊貴妃が我が世の春を謳歌していた繁栄の時代です。
彼は五〇年間を唐の国で過ごし、その間一度は帰ろうとしましたが嵐で望みは果たせませんでした。ですから「百人一首」の七番は仲麻呂の望郷の歌です。
八番目は喜撰法師の
我いほは都のたつみしかぞ住む
世を宇治山と人はいふなり
なんとも厭世的な歌。
ところが九番目に来て、小野小町が現れる。
花の色は移りにけりないたずらに・
ぱっと目の前が明るくなる。舞台に照明が当てられる。小町の登場によって歌の世界に初めて夜明けがきた、という印象です。ですから定家も九番目に小町を登場させることによって、平安の世の雅を一挙に花開かせようと考えたかも知れません。
こうしたことから見ても、小町という女性は昔から人気を博していたということは間違いない事実なのですが、さて、それなら小野小町とはいったいどんな人だったのか・・・よく調べてゆきますと、不思議なことに、実はよく分からない。あれこれと読んでも、実像というのはぼんやりしている。小野妹子、小野篁が祖先だと物の本に書いてありますが、小町自身については朦朧としている。
「そうはいっても美人であるという事は確かだろう」
何しろ「世界の3大美人は、クレオパトラ・楊貴妃・そして小野小町」と相場が決まっている。
しかし『彼女は古今第一の美人だったと証明できるか』と問い質されるとこれは答えにくい。
美人というのは相対的なものです。蓼食う虫も好き好きという諺もあります。それじゃあ『美人という条件に歌詠みという条件を加えたら、イコール、小町という答えがでてくるか』というと、どうもそうはいきません。彼女が活躍したのは平安時代の初期ですが、この時代には才媛が大勢おります。最初に思い浮かぶのが伊勢という女性。「百人一首」には十九番に登場します。
難波潟みじかき葦の節の間も
逢はでこのよを過してよとや
これは恋愛歌の筆頭といえるほどの名歌です。伊勢は当時比類無き美人としてその名を知らぬ者はなかった。彼女は左大臣仲平と深い恋におちます。仲平は藤原時平の弟です。時平は歴史に悪名を残した人物です。なぜかと謂えば、菅原道真を陰謀の罪で太宰府に送ってしまったからです。道真は悲憤慷慨して死んでしまいます。そして怨霊となって都に祟りをなし、時平は雷に打たれて死にました。その時平の弟が、仲平です。伊勢と仲平は熱烈な恋の歌を詠み交わしました。その後彼女は仲平と別れて、宇多上皇の寵愛を受けて妃となり、皇子を生みました。そして上皇が出家した後は、敦慶親王に愛されたのですから、当時の女性としても、なんとも華やかな人生を送った人物です。そればかりか彼女は優れた歌詠みでもありました。
小野小町の古今集入集歌は一八首。これに対して伊勢は、古今集入集が二十二首、勅撰入集歌は総計百八十五首。
こうした事からすると、伊勢こそが平安朝随一、才色兼備の女性であったとも考えられる。
しかし伊勢にもライバルは居ます。筆頭が和泉式部です。彼女は「百人一首」の五六番。
あらざらんこの世の外のおもひ出に
いまひとたびの逢う事もがな
これもまた絶唱。まるで黄泉の国に落とされたイザナミが、恋しいイザナキを想って、暗闇の底から手を伸ばして、『ああ、どうかもう一度』、と叫んでいる姿が思い浮かびます。
あらざらんこの世の外のおもひ出に
いま一度の逢う事もがな
よくもまあこんな凄い歌を詠めたものだと感歎するばかり。彼女は和泉国の国守・橘道貞と結婚して小式部が生まれます。ところがその後、彼女は家を出て、宮廷に入り、為尊(ためたか)親王(冷泉第三皇子)と大恋愛に陥ります。これは宮廷内外に一大騒動を巻き起こし、親王の正室は怒って出て行ってしまう。
今で謂うスキャンダルです。ところが肝心の親王は和泉式部を愛しすぎたのか、二十六歳で突然死してしまう。和泉式部は途方にくれますが、亡くなった親王の弟で「帥宮(そちのみや)」と呼ばれた敦道(あつみち)親王はこれを見て、「今度は僕の番が来た」と思ったかどうか知りませんが、ともかく彼女に言い寄って、二人は熱々の仲になります。この時記されたのが『和泉式部日記』ですが、これがまた大騒動になる。そして敦道(あつみち)親王はあえなく死んでしまいます。二人の親王が和泉式部をめぐって相次いで亡くなってしまった。これを見て、紫式部が『和泉はけしからぬかたこそあれ(和泉式部は感心できない人間である)と『紫式部日記』に書いています。けれども和泉式部がただの美女であったかというとそうではありません。
歌人としても超一流。勅撰二十一代集に二百四十五首が入集していますから、名実共に王朝時代随一の女性。
以下 『***』まで講演では省略
『このほかに右大将道綱母は都の三大美人の一人と名が高かった女性です。
この世をば我が世とぞ思う望月の
欠けたることのなしと思えば
無論、この歌は彼女の歌ではありません。ご存じ、御堂関白道長が、『我が世の春』を詠った歌です。
道長の父親は藤原兼家。この人物は道長以上に権力欲の強い人でした。彼がどのような事を為したか、それはここで語ることはできません。というのも、あまりに背景が込み入っていて、一晩かかっても語り尽くせないからです。しかしどうしても知りたいという方がおられましたら、「漢方医薬新聞」に掲載中の「百人一首ものがたり」をお読み下さい。僕は目下、百の歌のそれぞれをテーマに小説を書き、挿絵も描いていますから、最終的には百の小説と百の挿絵が出来ることになります。月二回の割で書いて、今は二十番まで来ていますから、百番に到達するのは三年後になります。
さて、肝心の兼家ですが、彼は彼女の美しさに惚れ込んで執拗にねばって、とうとう口説き落としました。妻にすることに成功しました。といっても二番目の妻で。三番目の女性の許にもしげしげと通ってたのですからね・・・、それはともかく、右大将道綱母は美人の上に優れた歌詠みでした。
定家が「百人一首」にとった歌は、
嘆きつゝ独り寝る夜のあくる間は
いかに久しきものとかは知る
彼女がすばらしいのは、紫式部よりも一時代前に、『蜻蛉日記』を書いていると言うことです。これは今の人が書いたとしても大した作品です。
この他にも、右近、相模などきりがない。ですから小野小町が美人とか才媛というだけで今の世にもその名を轟かす女性になったとは考えられない。
それなら小町を有名にしているのは彼女をめぐる物語ではないか、とこう考えられるのですが、実は小町にははっきりした恋愛遍歴などははっきりと残されているわけではない。それどころか、物語性という事からすりと、小町以外にこんなすごい話があったのかとびっくりするような物語を経験している女性がおります。
これはどういうひとかと申しますと、この女性は小野小町の存在とも不可分の関係にある方です。しかも今昔物語二十二巻に彼女に関する詳細が記されていますから、私がどこかからか新たに見つけた話というわけではありません。しかし、大変不思議なことに、この方について詳しく言及した方はありませんし、歴史的にきわめて重要な人物であると見なした見解はないようです。しかし私からすると、実に重要な人物と思える。なにしろとても不思議な物語を持った人物ですから、これまでどうして注目されていていなかったのか、不思議なほどです。そして私も公の場でお話するのは今日が初めてなのです。
このようにお話すると、ここにお出での皆様の中には「そんな話をなぜ君は気がついたのだ」と疑問を抱く方がおいでになるかも知れません。そして実を申しますと、この事に気付いたのは、偶然なのです。私は先ほど申しましたように、「百人一首ものがたり」を「漢方医薬新聞」に連載しておりますが、二十三番に三条右大臣という方が撰ばれています。この方は昔から、「百人一首」の一人になぜ撰ばれたのかわけがわからない三人の一人とされています。残る二人の一人、筑波嶺の峰より・・・で有名な陽成院、もうひとりは書道の神様である藤原行成の父である藤原義孝です。これについて話しますと明日になりますので言及するのは止めますが、そうした事もあって、三条右大臣という人物は人気がない。しかし私としては何としてもこの人物を主人公にして短編小説を書かなければならないので、必死であれこれと探したり、考えたりしているうちに不思議な物語に巡り会ったのです。
では、その物語のヒロインの女性は誰かと申しますと、醍醐天皇の母の胤子というお方です。語れば長くなりますが、小町の存在にも関係する重要な話ですのでかいつまんでお話しますと、
あるとき藤原高藤というこれは藤原家の名門の男性ですけれども、その若者が一五歳のときに、たくさんの部下をつれて鷹狩りにでかけました。ところが、突然雨がふりだして、それがあまりにも猛烈な雨だったために、てんでんばらばらに木陰にかくれてしまった。高藤と随身のお供のものだけが道に迷って、あちらこちら雨の中を彷徨っていると、竹やぶもあったのでしょう。そのむこうに豪族の家らしい農家が見えた。これは宮道弥益(みやじのいやます)の家で、宮道は山城国宇治郡の大領だったのですが、ともかくも都から遠く離れていますから、ひなびた田舎の豪族の家に違いありません。そこへ高藤と随身のものが近寄って、雨宿りをさせてくださいと宿の主人に頼みにいくと、山の中に貴族とそのお供のものが現れたものですから、主人はびっくり仰天して「いったいどなた様でしょうか」とたずねると、その当時、権力並ぶものがなかった太政大臣藤原良房の甥にあたる人物だと聞かされて、またまたびっくりしてしまって奥の間にご案内申し上げて、山海の珍味をとりよせてご馳走申し上げた。そしてその主人は、その宴席に自分の娘を呼び寄せたわけです。そしたらその娘(列子)は恥ずかしがって、扇で顔を隠しながら、高藤のそばままでようやく這いよってようやくお酌をしましたが、の様子がとても田舎の娘とは思えぬ優雅さだったので、高藤は無理やりその扇を腕で下げて、顔を見たわけです。すめとたらあまりにも美しい人だったので、魂を失ってしまって、そして一夜をともにしたわけです。翌朝別れ際に高藤は自分の立派な太刀を渡して、「あなたは大変な美人だから言い寄る人も多いでしょうが、かならず私が迎えに来ますから、決して嫁に行かないで待っていてください」といい含めて都に帰っていった。そして、都に帰り着くとすぐに彼女との約束をはたそうとしたけれども、高藤の父・良門が突然死んでしまった。高藤は跡取りですから家をつがなくてはならない。われわれの家ならばたいしたことはないけですが、当時の大貴族ですから、家長ともなると何百人という人間をやしなっていかなくてはならない。また、朝廷のまつりごとにも参画するということで、六年余りの間忙しさのあまり忘れてしまった。ところがある日突然、あの雨の日にお供をした随身が戻ってきた。というのもその随身は、若様のおつきをしていながら迷子にしてしまったというので、その追い払われていたわけですが、ふらりと舞い戻ってきたわけです。その顔を見て高藤は急に昔を思い出して、「お前、あの雨の日に迷っていった山深い農家を覚えているか」と聞いたところ、「無論覚えております。郡の豪族の宮道弥益(みやじのいやます)という者の家です」というので、高藤はその家人に案内させて早速、馬ででかけた。そしてようやくそのうちに近づいていくと、井戸端で若い女が洗濯している。「あぁ、あのひとだ」と懐かしくなって近づいていくと、その女の人の脇にかわいらしい女の子が立っている。高藤は近寄って、「この子はあなたの子供なのですか」、父親は誰ですかと聞いたので、彼女は涙を流して高藤を寝所に案内して、そのとき頂いた太刀を見せました。高藤はこれを見てこの娘はそのとき授かった子供なのだと悟って、世の中には不思議なことがあるものだなぁと言って、宮道弥益一族全部を都に引き取ったわけです。そして年月が経ったところ、このときつれてきた高藤の小さな女の子が胤子という名でしたが、大変な美人になった。あまりの美しさに都中の評判になった。その噂を聞きつけた光孝天皇の第七皇子で臣籍降下して源定省となっていた若者がすっかり彼女の虜になってしまい、彼女を口説いて妻にしました。すると運命というものは分からないもので、光孝天皇が突然身罷ったので、源定省が即位した。夫が突然天皇になったので、妻の胤子は皇后になった。そして二人の間に生まれたのが醍醐天皇です。ですから、醍醐天皇の母親は王族でもなければ貴族でもない。田舎の豪族の娘だったわけですよ。
当時としてはあり得ない奇跡のような出来事ですが、しかしもしも胤子が醍醐天皇を生まなかったら日本の歴史が根底から変わってしまったのではないかと思われるほどです。
何よりも申し述べなくてはならないのは、この醍醐天皇の勅命によって古今和歌集ができたわけです。古今集をはじめとして八代集というのができるわけですから、もし醍醐天皇が紀貫之に編纂を命じなかったらもしかしたら勅撰和歌集というものは日本に存在しなかったかもしれない。となると、小野小町も今ほど有名にならなかったに違いないということになります。なぜなら、小町の名で勅撰和歌集に入集している和歌は総計六十七首とされておりますが、確実に彼女の歌と言えるのは古今集所載の十八首のみというのが定説です。
小野小町と古今集ときっても切れない関係にあります。もしも古今集が編纂されなかったら、小町の歌が後世に伝えられたか疑わしい。となると、高藤が鷹狩りに出かけて雨に遭い、農家の軒先で雨宿りしたことがすべての始まりであり、小野小町をこの世に送り出した奇跡ともいえる。
このように胤子をめぐる物語ほどドラマチックですばらしいものは類を見ません。もしかするとかぐや姫のモデルになっているのではないかとさえ私は思うのです。
かぐや姫は今回のオペラの作曲・台本・指揮をされた平井英明氏によってオペラになり、世界各地で上演されておりますが、かぐや姫は月の世界に帰ってしまうというストーリーですからパッピーエンドとはいえない。しかし胤子の物語との共通点は、片田舎の娘が天皇の求愛をうけるという点です。かぐや姫と胤子を巡る物語は写真のネガとポジのような関係になっているようにも見える。しかも、竹取物語は丁度、醍醐天皇の時代につくられたと言われていますから、胤子と無関係とは思えない。』
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以上、***の内部は講演では省略しました。
こうして見てきますと、小町は美貌だけではない、和歌を詠めたからというのも理由にならないということが分かります。小野小町をそれほど有名にしている因子は何なのだろうか。その理由は別のところに探らねばなりません。
そこで歴史上に登場する有名な女性を片っ端からたずねていきますと、まず頭に浮かぶのが、魏志倭人伝の卑弥呼です。
エッ、いくらなんでもまさか、そこまで行くの、と驚く方もお出ででしょうが、ご心配無用。
今夜は行きません。名前だけです。次は、天照大神・・・エッとまたまた驚くでしょうが、この方につきましても語り出したら幾日もかかりますから、今夜は名前だけにしておきます。
天照大神の次の女性、となると、スサノオ命の娘で大国主命の妻となったスセリヒメ。この女性はすごい。なにしろ死んで黄泉の国にようやくたどりついた大穴牟遅神をひと目見て、この男は大変な潜在能力がある、と、一目で惚れ込んで、すぐに結婚して、スサノオに与えられた試練を何とかくぐり抜けて、二人で黄泉の国を駆け落ちして、彼を出雲の国建国の英雄・大国主命にしてしまうのですから。
しかしスセリヒメについてこれ以上お話すると大変ですから、もっと知りたい方は、僕が書きました「蛭子」をお読みいだきたいと思います。
現実の人物はと見ると、日本国最初の女性天皇である、推古天皇。彼女の時代には聖徳太子が三〇年間も摂政をつとめ、日本にすばらしい文化をもたらしたのですから、忘れてはならぬ女性です。
これに続く女性としては大化の改新のときに天皇であった皇極天皇、この天皇は後に斉明天皇になりましたが、彼女は天智天皇・天武天皇のお母さんです。次に登場するのが有名な額田王です。それから先ほどもお話しました持統天皇。
持統天皇に続く傑出した女性は光明皇后。光明皇后は持統天皇の曾孫に当たる聖武天皇の后です。
この方については一言だけ申さねばなりません。というのも、光明皇后は茨城県とも深い関係があるからです。
彼女には幾人も兄がいましたが、その一人に藤原宇合という人物が居ります。宇合は二〇才の時に遣唐副使として唐に渡りました。その時に連れて行ったのが、なんと、後の日本の屋台骨をこしらえた、吉備真備、そして僧・玄坊、それから先ほども紹介しました阿倍仲麻呂です。これほどの秀才・天才たちが一つの船団に乗って行った様子を想像すると、血湧き肉躍りますね。宇合は彼らを唐に残して自らは帰国して常陸の国の国守になり、「常陸風土記」を完成させました。
今回のオペラに登場する主役、高橋虫麻呂は、宇合に仕えた万葉歌人であり、同時にブレーンです。虫麻呂がいなかったら、「常陸風土記」は出来なかったでしょう。
さて、宇合の妹、光明皇后はなかなか皇子がさずからなかった。そこで筑波山の西にある雨引山楽法寺、この寺は聖徳太子の父である用明天皇の勅願によって創建されたお寺ですが、その雨引山楽法寺に祀られている延命観世音菩薩に皇子誕生を祈願させたところ、効験あって光明皇后は身ごもりました。皇后は実家である藤原不比等の邸宅に戻ってお産をしたのですが、その時の模様が伝説となり、屏風絵になりました。室町時代に描かれた屏風絵が、雨引観音に保管してあります。ですから皇室のこの寺に対するご信仰は今でも篤い。
それはともかく、光明皇后は東大寺大仏殿をつくるときに大きな力となりました。更に正倉院を今日に残したのも彼女です。そう言う意味で、日本文化に多大の貢献を為した偉大な女性であるということができます。ところが、彼女の後、有名な女性はぷっつりと絶えました。奈良時代末期から平安初期にかけて、さまざまな女性が登場しますが、傑出した人物は、というとその姿がみられない。
そこへ突然あらわれたのが、小野小町です。しかも、小町は彼女の前後に登場したいかなる女性よりも人気がある。いったいこれはどういうわけなのだろうか。理由は何か。
あれこれと思案を巡らせてみますと、これまで見てきました女性と小町の間には大きな相違があります。それは何か、一言でいえば、『権力』です。歴史・神話に登場してきた女性というのは彼女ら自身が権力者、あるいは皇后、后といった国家の中枢にいる人々です。それに比べて小野小町は実像がはっきりとしない。先ほども触れましたように、物の本によりますと、彼女の祖先は小野妹子(おののいもこ)であったとされています。小野妹子は聖徳太子が遣わした遣隋使を率いて随に渡った大人物です。その子孫に小野篁(たかむら)がおります。篁は「百人一首」にも歌が撰ばれています。
和田の原八十嶋かけて漕ぎい出ぬと
人には告げよ海士の釣舟
篁という人物は大変な天才だったらしく、あまりにも才能が傑出し過ぎていたために、この世の人ではないのではないか、生きながらにして地獄とこの世を行き来しているのではないかという伝説の持ち主。ですから、京都の千本釈迦堂に、小野篁が閻魔大王と共に祀られています。それはともかく、小野氏というのは才能は限りなく豊かでしたが、身分はさほど高くない。大貴族ではありません。三位以上の公卿になれる家はほとんど、藤原、源と昔から決まっている。それ意外の家の者が公卿になると、トラブルが生じます。菅原道真がその例です。ですから、小野氏は権力の中枢からは遠い存在でした。そして小町もまた、権力者とは遠い女性として登場しているわけです。
しかも彼女の生き方は神秘的です。彼女はどこにいって亡くなったのかはっきりとしない。だからこそ、全国八十とも百数十箇所とも謂われる町が、『われこそは小野小町のゆかりの地である』と名乗りを上げている。
彼女には面白い逸話があります。文屋康秀に都落ちを一緒にしようと誘われたというのです。文屋康秀は六歌仙の一人で、「百人一首」二十二番には
吹くからに秋の草木のしほるれは
むべ山風を嵐といふらん
康秀が三河の国に国守として赴任する時に「わたしといっしょに田舎見物にいこうじゃありませんか」と小町を誘ったところ、彼女は、
わびぬれば 身を浮き草の 根を絶えて
誘う水あらば いなむとぞ思ふ
こう詠んだと伝えられている。こうした歌が伝説の種となったのは確かなことです。
日本人は伝統的にある種の人々に対して非常に深い愛着があります。それはどういう人かと申しますと、
超一流の芸術家でありながら、権力とは距離を置く人、そして旅をして歩く人、全てのものから自由である人、こうした人が大好きです。その象徴が、西行であり、芭蕉です。
ものにとらわれない。地位や名誉や財産やそういうものの誘惑を振り捨てて、身一つで、美しく生き抜いていったというそうした人が日本人は好きなんですね。
西行は藤原俊成と同じ時代ですし藤原定家は俊成の息子で、西行も定家にいろいろと頼ったりしている。後の世に残した業績からすると、定家は大変な偉人ですが、人気という点からすると、定家は西行に遠く及ばない。
小野小町もそういった素因をたぶんにもっている。しかも小町は、西行や芭蕉にはない、重要な要素を備えています。それは何かというと、愛ですね。
彼女の歌の多くは愛の歌です。今度のオペラでも愛の歌がたくさん歌われるようですが、小野小町という女性は、ひたすら愛に生きた人でした。しかもその歌は夢ともうつつとも思えぬばかりに美しい。
思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ
夢と知りせばさめざらましを(古今552)
【通釈】あなたを恋しく思いながら寝入ったので、私の夢にあなたが現れたのでしょうか。夢だと知っていたら、目を覚ましたくはなかったのに。
宵々の 夢のたましひ 足たゆく ありても待たむ とぶらひにこよ(小町集)
【通釈】あなたは私に逢うために毎晩身体を抜け出して、夢のたましひとなって、私をお訪ねになろうとしている。ですから、あなたはどんなに足がだるくなってもおいでになって下さい。私はいつまでもお待ちしています。どうか逢いにきて下さいませ。
露の命 はかなきものを 朝夕に 生きたるかぎり 逢ひ見てしがな〔続後撰1281〕
詠んだだけで、ぞくぞくっと、ふるえるような響きが伝わって来ます。
人が創ったというより、恋の女神が歌ったとしか思えない。これほどの歌を詠う美女ですから願いさえすれば宮廷に留まることもできたでしょう。しかし彼女は、伊勢や和泉式部とは異なる道を歩みました。
宮廷に囚われず、流浪の人生を歩みます。そうしたことが伝説となり、やがて「卒都婆小町」「鸚鵡小町」のような謡曲が生まれ、能という芸術に彼女の命が昇華されて行くのです。
ですから彼女は愛を歌っていますが、その歌は華やかな恋愛歌とはどこか違います。「百人一首」の歌、
花の色はうつりにけりないたつらに
わか身よにふるなかめせしまに
歌に託して、人間存在のあわれさ、移り変わってゆかなければならない者の運命のはかなさを詠んでいる。
存在というものは変わるものだ、という変容の思想とも相通じる、そうした思いが、歌の根底に流れている。
和歌この始まりはイザナキとイザナミのお互いの愛の言葉から始まったと最初にお話しました。しかし深く愛し合った二人にも別れの時が来る。火の神が生まれ、イザナミの姿が醜く変わってしまうと、永遠の別離がやってくるのです。
日本の哲学の根幹には相矛盾する思いが流れています。一つは、存在を生み出すのは男女の愛、そして歌であるという思想です。そしてこれと同時に、愛には終わりがある、愛は切なく、悲しいものである。この世にあるものが変容する・・・それが宿命であるという思想です。小野小町はそうした思想の矛盾をそのまま体現して、歌を詠み、孤独のうちにさ迷いました。
ですから彼女は一人の美女、歌詠みの領域を超越した女性でもありました。彼女は愛の歌の魂の化身であり、芸術のシンボルであり、愛と悲しみの女神でもあるわけです。だからこそ、小町はこれほど日本人の心を捕らえて放さないのです。
国民文化祭の祭典に於いて、古代から歌い継がれてきた和歌という芸術が、今回、オペラ「小町100年の恋」となり、イザナキとイザナミの祭られている筑波山の麓で華やかに上演されるということは、まさしく奇跡のようなできごとでもあります。 小野小町と彼女を生み出した世界が千年の時を超えて、今よみがえろうとしています。ぜひとも小町のオペラの世界を心ゆくまで味わい、楽しんでいただきたいと、心から念願いたしまして、私の講演を終えたいと思います。 了