佐賀純一講演録「現代の日本人と古事記 存在するものは変容する」

日付:2005年8月9日

今晩は。ただ今ご紹介をいただきました佐賀です。こういった素晴らしい席にお招きいただいて古事記神話についてお話をさせていただけるということをほんとうに光栄に思いますが、それ以上に、運がいいな、という気持ちがするんですね。

痛みについて

 なぜかというとひと月前までは僕は到底こういうところに立っていられる状態ではなかった。膵臓炎と胆石症でベッドにしばりつけられていたのです。幸い、医学の進歩と、それから、みなさんのように熱心な方々が待っていらっしゃるんじゃないかという気持ちが、いつのまにか僕に力を与えて、信じられないほど短期間に快復することができた。そう考えると僕はよほど運がいい人間だと言えるかも知れません。

 そこでまず、今日の話の導入に、痛み、というものについての話をしたいと思います。と申しますのも、鍼灸経絡を学んでおられるみなさんは日々、人間の痛みというものに接して生きて行かなけりゃならない。どうやったら、人間をこれほどまでに苦しめる病から救うことが出来るのか、そうした切実な問題と直面するわけです。ですから痛みの話はみなさんにも、実に関係の深い問題だということができると思うのです。

 僕は今回膵臓炎になり、それ以前には何度か心筋梗塞を体験しましたから痛みというものについてはずいぶん体験してる。みなさんも痛みについてさまざまにご存じだと思いますが、痛みというものなかなか難しい内容を含んでいます。というのは、人間が病んだ時、『ああ痛い』というけれど、その痛いという言葉の実体は何かというと、これは大いに問題なんです。というのは、痛いといっても、その痛み方は様々です。死にそうに痛いとか、言葉にできないほど痛い、ズキズキ痛いなどとさまざまに言いますが、実は、その言葉で痛みの本質を表現し尽くせるかというと大いに疑問です。患者の表現したい痛みは千差万別なんですね。百人の病人がいたら、その苦しみや痛みは百通りあるわけだと思いますが、言葉としては「痛い」としか言いようがない。これは患者にとってはなんとも歯がゆい、口惜しいことです。肉体の痛みを伝えるのも困難なのですから、心の痛みを他人に分かってもらうのは不可能ともいえる。

いずれにせよ、病人を苦しめる忍耐的精神的痛みを伝える言語というものが実に少ないというのが現状です。だから、自分の苦しさを表現するためにはさまざまな形容詞や副詞をくっつけなければならなくなる。

 たとえば膵臓炎の痛みはどうかというと、体がねじ曲がるほど痛い。苦痛のためにうめき声がひとりでに口から飛び出かともおもえるほどの激痛です。じゃあその痛みは心筋梗塞の痛みとどう違うんだというと、違いの度合いや苦痛を比較することはできない。どうにもならないほど痛い、といかいいようがない。しかし僕は両方経験しましたから、何とか実体に添った表現が出来ないかと考えてみました。

 心筋梗塞の痛みし特殊な痛みであると言えます。たとえば、ここに大きな壺がある。その壺の口に薄い紙が貼ってある。僕はその薄い紙の上に苦しみながら乗せられている。そして、あまりの苦痛に耐えかねて、『アーッ痛い』と身をよじると、僕を乗せている紙がパリッと破れて、壺の中にジヨボンと落ちる。そしてその壺は、どういう壺かというと、死という壺なんです。つまり、心筋梗塞の痛みは、死と背中合わせなのです。痛みの隣に史がある。この痛みは存在の恐怖と不安が同居している。だからなんとも言えない恐ろしさが襲ってくる。「これはただ事じゃないぞ」と直感する。まさしく生きるか死ぬか、それが痛みと共にやってくるんです。

 ところが膵臓炎・胆石の痛みは、大変痛いけれど、今すぐ死ぬというような恐怖を伴った痛みじゃない。死と自分との間にはまだ少し余裕がある。しかしたとえようもない痛みが体全体を容赦なく襲う。体が痛みで歪むような気がする。それに何とか堪えているうちに、恐ろしいものが遠くから近づいてくる気配を感じる。痛みの向こうから、死に神が駆け足でこっちに走ってくる、そんな痛みです。

 そこである先生に、「死ぬ苦しみという言葉がありますが、ほんとにこれは苦しくて、こんな後に死ぬ苦しみがくるんじゃとてもたまりません」と言いましたら、先生は、「いや、死ぬ時はこんなには苦しみませんから、安心して下さい」とこう言った。それで僕は「なるほど、僕は痛みのピークにあるんだな」と妙に納得したわけですが、実際、膵臓炎というのは、死ぬ苦しみよりも余程苦しいものなんですね。いずれにせよ、痛みというものは人間が生きている限り付き合ってゆかなければならないわけですが、それだけに文学者などはさまざまに表現している。たとえば正岡子規は、非常に若くして結核で亡くなった近代俳句の創始者ですけれど、彼は脊椎カリエスの痛みを「病床六尺」にこんな風に書いてます。

「もはやたまらんので、こらえにこらえた袋の緒は切れて、遂に破裂する。もうこうなると駄目である。絶叫、号泣、ますます絶叫する。ますます号泣する・・誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」

 その当時は医学は遅れていたからこの苦しみを医学は少しも助けることは出来なかった。死ぬまで、十年もの間苦しめられたわけです。だけど僕も救急車で運ばれる時、同じことをおもいましたよ。

「誰からこの痛みを救ってくれないか、誰か、助けてくれないか」そう悶えながら思いましたね。僕が申し上げていることが本当かどうか、是非一度経験なさっていただければお分かりになると思いますよ。

 最後に為すべき事は

 膵臓炎になると厳しい入院生活が続きます。食事は絶対取れません。水を飲んでもいかんという。「唾だけしか口から入れては駄目です。我慢してください」というけれど、水も食事もとらないんですから、唾もでない。小便もチョロッと出ればいいほうです。何とも表現し難い日々が続きました。

その時、僕は何を考えたか。食べるという楽しみもない。散歩をするという気晴らしもない。それどころか点滴と尿瓶と心電図で身動きもないない。文字通り、病床六尺の世界です。みんなさの目の前にこれから先おいでになる患者さんの中にはこうした経験をして、ようやく生き延びてやってくる方もいるわけですから、そうした方が経験した世界の重さ、苦しさを想像して、良く生き延びて来てくれたなあと、おもんぱかる、そうしたことは必要だなあと思いますよ。

 それはともかく、僕はまだベッドに縛り付けられてますから、動けない。これはいったいどういうことなんだ。僕が生きているということは何なんだ。こんなにしばしば心臓がやられる。腎臓もやられる。その他色々やって、今度は膵臓だ。胆嚢には石がたまって、胆管が詰まってしまったから黄疸で全身が黄色になっている。鏡で見るとなるほど、教科書通り目玉がこんなに黄色くなっちゃった。こんな有り様じゃもう死ぬかもしらん。肝臓ガンか、膵頭部ガンかもしれない。手術台の上に乗せられて開腹してみたら腹膜まで転移してて、手を付けられないということになるかも知れない。だとしたら、まだ生きている今、最後にやることは何なんだ。この先いつまで生きられるか分からない。だとしたら、僕は何をしたらいんだ」

 そう考えたら、はっきりと分かった。それは「書く」ということです。つまり、僕がこの世で呼吸をしているということは、書くことなんだ。僕という人間がこの世に存在して、今できることは、書くということしか残されていないんだ。そう思った。

 そこで僕は点滴を受けながら、ベッドに起きあがって、ノートパソコンで、数十の短編を書きました。今こうしてなんとか生きているというこの時は、再び来ないかも知れない、これで終わりかも知れない、そう思うと眠るのが惜しくて、夜も昼も看護婦さんの目を忍んで書いたわけです。

 こうした具合に、人間が追いつめられて、死ぬかもしれないと思った時、どんなことを考えながら書くのか、何を書くのか、そんなことに興味をお持ちの方も多いと思いますので、今夜はこの時書いていました薮医竹軒行状記という作品の一つを読んでみたいと思います。

 今夜の夏季大学の講演テーマは「現代の日本人と古事記」ですが、古事記には生死のはざまをさ迷う話がいくつも出てきます。古事記神話は神が国を生んだという  単純な神話じゃありません。神々は生まれては愛し合い、闘争し、死の国に行き、また甦って、生死をかけた争いを繰り返して、最後に永遠の愛の世界に到達する。しかしもまたその世界かせ破壊されてしまう。このように実に複雑な構想のもとに描かれた作品ですが、これからお読みする作品はまさしく、僕が生死をさ迷っていた時に書いたものなので、古事記の話の導入にはふさわしいと思うのです。

ちなみに、これからお読みする作品のモチーフとなっているのは、一つの歌です。

月やあらぬ春や昔の春ならぬ

わが身ひとつはもとの身にして 

 これは申すまでもなく、在原業平が高貴な女性に恋をして、失恋して、全てを失った、もう二人で見た月もない、あの香に満ちた春もないんだ、私はこうしてたった独りで立っているしかなくなってしまった、という空しさを詠った歌とされていますが、僕に言わせれば「君はいいじゃないか、月や春は確かに失ったかもしれないけれど、我が身ひとつはちゃんとある。全てをなくしたっていっても、自分がまだある。ところがこの僕は我が身を失おうとしてるんだ、だから、せめて君だけでもオレの気持ちも聞いてくれよ、とまあ、こういう思いで書いたものが「薮医竹軒行状記」の話の中の「闇の灯り」なんです。

この作品に登場する二人の人物、一人は医者の竹軒・もう一人は医者の友人で、絵描きの波山ですが、波山のイメージは業平でもあり、また、僕でもあるということになります。(『薮医竹軒行状記は全二十五話。漢方医薬新聞に平成十七年九月十五日から月一回、二年に亘って連載される予定です』)

  「薮医竹軒行状記」 第二十四話  「闇の灯」

  竹軒「漂泊の絵師、波山殿が、この地に居着いて三年になる。その間、共に暮らす女も出来、絵を描いてもらおうという村人も少なくない故、何とか糊口をしのいで居ったが、半年ほど前から病がちになり、女も、見限って出て行ってしまった。あれほど気が合って、睦じ気に見えたものを、何故出ていったのか、他の者には分からぬが、後に残された波山殿は独り住まいの上に病を抱え、いかにも苦労な様子。しばしば顔を見に通っていたが、昨日から不意に秋の気配が深まり、いよいよ心配になったので、この夕暮れに見舞いに参ったという次第、そう思う間に庵じゃ。波山殿、いかがでございますかな」

 竹軒戸口から声を掛けても何の返事もない。庵戸を開けて中に入ってみると、波山は板の間に紙を広げ、何か描いている様子。

竹軒「波山殿、このように暗い中で何を描いておられる」

波山「見ての、通りじゃ」

竹軒「ハテ、そう申されても、これは黒い墨が塗ってあるばかりで、何も見えませぬな」

波山「それは竹軒殿のお言葉とも思えませぬ。愚鈍な者ならともかく、竹軒殿の、目に、見えぬ、というわけはござるまい」

竹軒「いいや、さての、やはり何も見えませぬ。ただ黒い闇がたれ込めているばかりでござりまする」

波山「それよ、それよ、わしが描いているのは、黒く、深い闇じゃよ」

竹軒「何と、波山殿は闇を描いておられるとな」

波山「いかにも、これはの、わしじゃ」

竹軒「何と申される、この闇があなただと申されるか」

波山「その証拠に、闇の右、七分ほどのあたりを、よく見なされ。そこに、何かが、立っておるであろう」

 竹軒、そう言われて闇の中を目を凝らして見つめる。

竹軒「何と、闇ばかりと思えたに、誰かが立っている。両手を広げて立ちふさがっている。これは、どうも人ではないらしい。鬼が立ちふさがって通せんぼをしているようだ」

波山「さすが竹軒殿、まさしく、鬼が、通せんぼを、しておるのじゃよ」

竹軒「鬼が通せんぼとは、どのようなことでござろうか」

波山「見ての通り。ここから、出てはならぬ。お前は、これより先の命はない、ここで終わり、命は、極まった、ということじゃ」

竹軒「そのような」

波山「そうとも、わしはの、この鬼の手に阻まれて、閉じこめられている。たった独り、闇の中にの。そして、その鬼の後ろを、よくよくごらんなされ」

 波山に促がされて見ると、なにやら鬼の後ろの闇に毛筋のようなものが風に流れている。

竹軒「これは、闇夜の女の髪のようじゃ」

波山「いかにも、女の、髪じゃ」

竹軒「では、波山殿は、そなたを捨てて逃げた女にまだ未練があると申されるのか」

波山「あると申せば、ある。ないと申せば、、、嘘になろう。わしはこの地に来るまで、風のまにまに漂って、国々を放浪して歩いておった。西行のように家を捨て、故郷を捨て、愛憎を捨てて、気の向くままに過ごすのが、わが生涯と考えていたのじゃ。ところが、難波潟の節の間を、惜しむほど恋しい時、というものが、この世にあると知ったのは、あの女に出会ってからだ。あの女と共に過ごす日々は、山の色、木々をわたる風の音が、まるで違うように聞こえていた。だが、そのような時は、夢じゃ。女は逃げ、わしは、ここに取り残されている。そして、不思議なことだが、わしは、どうしてもあの女の顔を、思い出すことが出来ぬ。あまりにもたくさんの表情が、折り重なっているからであろうか、一つだけを、思い出そうとしても、どうしても絵に描くことが出来ぬ。ただ、はっきりしているのは、あの女の髪が、こよなく、美しかった、ということじゃ」

竹軒「それほどの未練があるのであれば、人に探させてもよいではないか。なんなら、この私が力になってもよい」

波山「竹軒殿、そなたは、わしの絵を見たのであろう」

竹軒「見申した」

波山「それなら、そのような、愚かなことは、申さぬものだ。わしと、あの女との間には、天地ほどの隔たりがある。わしは、鬼の部屋に閉じこめられ、女はどことも知らぬ空の下を、さまよっているのだからな。そしてそれ、見よ、左の闇の中に、何か、小さな灯りのようなものが、見えるであろう」

竹軒「どのあたりであろうか」

 竹軒、目を皿のようにして絵を見つめて、

竹軒「やや、よくよく見れば、これは灯りじゃ。しかも強い手にその灯りが握られている。その下に小さな人がうずくまって何かをしているようじゃ」

波山「よくぞ、見つけて下された。竹軒殿、それこそ、このわしじゃ。鬼がの、こう申したのじゃ。

『お前の寿命はもう尽きかけているが、いますぐにというわけではない。だから残された数日をお前とつきあってやろう。ついては何をしてほしいのか、申せ』このように言うものでな、わしは、

『まだ数日もあるのであれば、十分じゃ。わしは命尽きるまでに、もう一枚絵を描きたい。しかしこのように暗くては、手元も見えぬ故、灯りをつけてくれまいか』こう頼んだところ、鬼がの、

『命旦夕に迫っているというに、まだ絵を描きたいとは、さすがに絵師だ。それならわしが、爪に灯をともしてやろう』こう言って、爪に火をともして見えるようにしてくれた。そこで、わしは絵を描いている、というわけじゃ」

竹軒「なるほど、よくよく見ればここに見える小さな人は、確かに波山殿でござる」

波山「そうであろうよ」

竹軒「しかし、波山殿はこのような闇の中でどのような絵を描いているのでござります」

波山「それが知りたければ、目を凝らして、その手元をごらんなされ。鬼の持つ光の中に、どんな絵が見えますかな」

竹軒「何か口のようなものが見えまするな」

波山「さよう、このわしの、口でござる」

竹軒「なんと、そなたの口でござるか。しかし、この口は何か叫んでおりまするぞ」

波山「いかにも叫んでおる」

竹軒「では、何と叫んでおるのですか」

波山「それは、耳を澄ませば、聞こえることでごるよ」

竹軒「絵の中の声が聞こえるともうされるか」

波山「いかにも」

 波山はそう言うと、薄い床に横になった。青くとぎすまされた顔に二つの目がかっと見開いて遠くを見ている。竹軒はその横顔に、

竹軒「鬼はそなたの命はまだ数日はあると申したのでしたな」

波山「そう申した」

竹軒「では、その間に、鬼の手の光でないものを見ようではないか」

波山「鬼の光ではないもの、とな」

竹軒「さよう」

波山「それは、何でござろうか」

 そこで竹軒は戸板を庭に敷き、その上に床を延べて波山を寝かせ、自分も横に寝そべった。「こうすれば、鬼の部屋から出たように思えるのではござらぬか」

 竹軒がこう言うと、波山は無言で夜空を見上げるた。広い広い夜空に天の川が流れている。

竹軒「こうしておると、波山殿の声が星のように降ってくるようにも思えまするな」

波山「いやいや、わしには、何も見えぬ」

竹軒「何と、この星空が見えぬと申されるか」

波山「見えぬ」

竹軒「では、虫の声はどうじゃ。遠く近く、秋の虫が声を競って鳴いておるぞ」

波山「何も聞こえぬ」

竹軒「聞こえぬと」

波山「竹軒殿、わしは貴殿のように、心の優しい友を持って、幸せじゃ。きっと貴殿の目には、美しい天の川が、降るように光を注いでいるのが見え、虫の声は、天からも降り、地からも湧くように、響いておるのであろう。むろんわしの目には星が映り、わしの耳には、虫の音が、響いているのかもしれぬ。じゃが、このわしの心には、もはや星もない、虫も鳴かぬ。闇が、あるだけじゃ。しかしの、竹軒殿、この波山、何は見えなくとも、このような夜空を見せてくれようとした、貴殿の気持は、あの世に行っても、忘れることではないぞ」

竹軒「いやいや、あの世などと申されるな」

波山「竹軒殿、この場に至ってなぐさめなど、無用じゃよ。天地の間にあっては、あの世もこの世もない。ただあるのは、思う心じゃよ。わしは、鬼が迎えに来ても、わしの心を、女に届けようと、絵を描こうとした。むろん、あのように、闇の中で口を開けて、大声でいかに叫ぼうと、白い耳に届くはずがないことぐらい、よく、ぞんじている。だが、天地の中にあって、ただひとつ確かなことは、想う心ではないか。もしそれを失ったら、たとえ地獄へ行こうとも、極楽へ上ろうとも、どこにも、このわしというものは、ないではないか。それ故、たとえ、女がわしから遠ざかってしまっても、わしは、闇の中で叫び続けるのじゃ。それが、今のわしの成すべき、すべてのことだと思っておるのだ」

 波山がこう述べると、竹軒は夜空を眺めていたが、やがて口を開くと、

竹軒「わしはの、医術には少しばかり通じていると思っていたが、愚かなことであった。わしは今、そなたが、闇で叫ぶ声が聞こえるように思える。そうとも、鬼の心が、そなたの叫び声に揺らいでいるのが確かに見える。波山殿、わしは貴殿がこの戸板の上で息を引き取るのを見届けよう。貴殿の心はすでに、叫びと共に、女の後を追って漂泊しているのだからの。このような闇にあっても、最後まで、己自身であろうとする波山殿こそ、わしが心から敬愛する友でござるよ」

 二人は戸板に横になったまま、いつまでも夜の闇を見つめていた。  幕

古事記開眼

 これが、膵臓炎と胆石の病床で書いた作品の一つです。日本人は昔、死ぬ時に辞世の和歌というのを残しましたが、この作品を書いている時、まあ、もしかしたら最後の作品になるかもしれないというような気持ちがどこかでしていたんですね。しかし今、こうして生きていますから、辞世の作品にならずにすんだわけですし、生命というのは不思議だなあとあらためて思います。あの痛みはどっからきたんだ。今、どこへ行ったんだ、そんなふうに思えるほど、劇的な変化が短期間のうちに起きる。昨日と今日とは全くちがう人間になってる。これからお話するのは愛と死と変容の話ですけれども、病も人間を劇的に変える力がある。そしてみなさんは、そのような人間を目の当たりにしているのです。今はなんてことない見えるかもしれませんが、実は、僕の中では天地ほども違う世界が生まれているのです。

しかし、医者やみなさんのような職業の人間がしばしば陥りがちな陥穽は、目の前のしている人間の危機的現象、あるいは傷んでいる状況しか見ないということです。苦しみから解き放たれると患者さんは目の前から去って行く、そして次の患者さんが入ってくる。患者さんが元気になって、どんな生活をしていくのか、どういう精神で生きて行くのか、そうした顔を見ることがない。元気になって生きてゆく姿がその人の本当の人生であるのに、われわれ医療に携わる者はそのほんとうの顔を知らない。それは病気を治すという役割を果たすという意味ではそれでいいのですけれど、しかし残念なことに思える。それで僕は目の前から去っていった人の姿も知ろうとして、さまざまな作品を書きました。浅草博徒一代もその一つですが、彼は医者には見えないすさまじい人生を体験している。他の患者さんたちもひとりひとりがそれぞれに唯一無二の人生を送っています。ですから、僕たちは患者さんたちの苦しみに立ち会うだけでなく、その前後の人生にも想いを馳せる必要があるのです。

「闇の灯り」に登場する竹軒も、波山という絵師と知り合うことによって、自分の想像しなかった人間の一面を見るわけです。ここにお出での方々には、是非、そうしたことを忘れないようにしていただきたいと思っている次第です。

 さて、こうしたわけで、僕は運良く生き返って元気になったわけですが、しかし実は、去年の夏も心筋梗塞を患って、十四回目の入院をしました。この時も運良く治って、退院後一週間ほどで初めてドライブに出ました。そして筑波山を見上げていたら、三十年間取り組んで、どうしても構想がまとまりきれなかったものが、突然はっきりと見えた。古事記の全体構想がはっきりと見えたように思えたんです。それで、大急ぎで戻って、二週間、不眠不休で書き上げたのが、「変容する神々」です。この時同時に古事記を小説化した「蛭子」も東洋医学舎から出版していただきました。そこで、これから「変容する神々」という書物を通じて、私が古事記をどのように読み解いたかという話をしたいと思います。

 古事記にはどんなことが主題となっているのか、皆さんの中には既にお読みになって居る方もおいでかと思いますが、最大の問題は、「この世に存在するということはどういうことなのか」という非常に哲学的な問題が取り上げられています。同時に、「この世から去ったらどうなるのか」ということがテーマになっています。

 第二には、「愛と死と変容の問題」です。愛する人と切り離されたらどうなるのか。また、古事記の神々はさまざまに姿を変えて行きますが、どういう時に変わるのか、どのような力が働いて変わるのか。

 第三には、「病と死と再生」の問題。これは僕たちにとっては切実な問題ですが、それらはこの世に生きているものにどのような意味をもたらすのか。

 第四には、権力と国家との関係が繰り返し取り上げられています。小泉内閣は昨日、郵政事業問題をめぐって解散しましたけれど、国家権力をどのように制御したらよいのかという問題は古代から非常に大きな難問でした。現代でも手に負えないような大きなテーマを古事記では取り上げているわけですからとても重要な書物ということになりますし、全ての人がぜひとも読まなくてはならない内容を含んでいるわけですが、しかしこれまで日本人はあまり真剣に古事記と取り組んでこなかった。シェイクスピアは読んでも、古事記は知らない文学者や、ギリシャ神話はよく知ってても、古事記は見たこともない知識人は大勢います。

 多くの人は古事記なんて書物は大昔の本だから 現代に生きる人間にとって重大な思想・哲学が記されているなんてことはあり得ないと思っているのかも知れません。ところが、最近、時代は変わりつつあるなと最近実感した出来事がありました。何かと申しますと、新潮社の企画で、歌舞伎俳優の中村吉右衛門が古事記全巻の朗読してこれを収録したCDが、来年二月に発売されるというのです。こうした出来事は、古事記という書物の存在についての認識が変化しつつあるというなによりの兆候ですね。これは実に良いことです。なぜなら、古事記と向かい合うということは、「日本人とは何か」「人間とは何か」ということと取り組むということですし、また、ギリシャ神話ともどこの国の神話・伝説とも異質の、日本独特の神話を知るという機会を持つということになるからです。

 みなさんはこれからさまざまな機会に外国人と接触し、話をするチャンスを持つでしょう。僕も若い頃、勤務先の病院で多くの国の医者と話をする機会を持ちました。そうした時、日常会話ばかりではなくて、真剣な議論になることもあります。日本人の精神の根本を支えている思想や宗教は何なんだ、どんな哲学を君は心の支えにしているんだ、ということが問題になったりする。時には「さあ、これから二十分間、日本とは何かという問題についてスピーチをしてもらいたい」ということになる。そうすると、たいがいの日本人はとても困る。というのは、ほとんどの場合、日本固有の思想・哲学というのは何なのか、ということについて何も知らないからです。日本独特のものに思える禅、これはもともとインドから中国に渡ってきたものです。聖徳太子、あるいは空海、こうした偉大な人物のお陰で仏教が日本に深く根ざすようになったわけですが、僕が密教に関心があるというと、「それじゃ君はヒンズー教を信じてるのか」という話になる。こう質問されると答えるのは至難の業です。また、江戸文化は日本独特のものだと思うけれど、実は江戸幕府を支えていたのは初期の朱子学、中期からは儒教ですから、中国の思想が大きく影響しています。漢方もそうですね。古代中国の知識の集積なくしくて、漢方は成り立たない。だから欧米の思想家の考えでは、日本文明というのは、独自性はない、インドや中国のいうような文明が太陽のように照り輝いているのに対して、日本は月のように、太陽の光を反射するだけの、月光文明に過ぎないんだ、というような考えが強く根付いている。結局、日本はシャドウカルチャーなんだ、影の文明なんだ、そういう見方をする人は実に多いわけです。そうした時、いや、そうじゃない、日本には独特の思想、哲学が存在していて、仏教も儒教も、そうした日本固有の思想・哲学のフィルターを通して入ってきたんだと言うことが出来ればすばらしいけれど、そんな思想が果たしてあるものか、そうした疑問に突き当たるわけですね。

 もちろんこれは外国人と議論するためというより、これから育ってゆく子ども達に伝えて行くべき大切な問題でもあるわけです。ところがそれが出来ない。いったい日本人とは何かという問題は、大問題でありながら言葉で表現できないというのは困ったことですし、日本人が自信喪失する問題でもあるわけです。

ところが、古事記には、その日本独特の思想が記されている。古事記のメッセージはさきほど申し上げました四つのテーマに「歴史に果たす歌の役割」」というテーマを加えて、五つのテーマが書き記されていますが、最も重要なものは、愛と死と「変容」のテーマです。

古事記神話の五つの柱

 存在するものは変容する。これは日本固有の、独特の哲学です。これはこれまで誰も取り上げてこなかった。しかし実に重要な哲学なんですね。これにつきましてはこれからお話しますが、それと同時に、独裁者・戦争・暴力による国家の支配。それらの難問を克服するためにはどうしたらよいのかという大テーマに関しても、日本独自の解決方を見いだしています。たとえば戦争に反対するという時、どのような思想によって戦争に反対するのかと聞かれるとこれは難しい問題です。たとえばイラク戦争が始まる時、アメリカは「これは平和を生み出すために必要な戦争なんだ。独裁者から解放するための避けられない戦争なんだ」と主張してましたが、そうした主張に対して、どう答えるべきか、こうした現実的な問題について、古事記にはその解答が見事に示されている。そうしたことから、古事記は実に大切な書物なのですが、これら全ての話を申し上げるとなると何十時間という連続講演になりますので、それは僕の「変容する神々」をお読みいただくことにして、今夜は愛と死と「変容」の話に絞ってお話したいと思います。

 古事記には愛と死を演じる男女が幾組も登場しますが、今日は、二組の男女のドラマを取り上げます。

第一は、イザナキ・イザナミ。

第二は、オオクニヌシ・スセリヒメ。

  イザナミとイザナキの物語り これは僕が絵に描いてみましたので、これを見ながらお話しいたします。僕は五十五歳まで絵を描いたことがなかった。そんな人間がなぜ古事記の物語りを描こうとしたのかといえば、日本にはプロの画家が描いた古事記の絵はほとんどありません。西欧を見ると、神話は画家の大きな題材になってる。あの有名なミケランジェロのシステイナ礼拝堂の天井画を筆頭に、無数の作品が描かれてる。だから西欧人には、神話が眼から入ってきてる。親しみやすくなってる。ところが日本にはほとんど神話を主題としたものはない。あっても実に断片的なものです。これはね、僕は日本の画家の怠慢だと思いますよ。文字というのは概念ですから、イザナミといわれても、その姿を想像することは難しい。でもマリア様というと、マリア像は至る所にありますから、すぐに思い浮かべることができる。キリスト像を見れば、なんの説明がなくても、あ、これはキリストだと、分かる。でから、古事記の重要性を理解してもらおうとしたら、神話を視覚化しなければならないと思う。それが芸術の役割だと思うんですね。しかし日本では誰もこの仕事に挑戦してこなかった。これは大きな怠慢だと思います。しかしやらないと非難してもどうにもなりませんから、それなら僕がやってみようと思って、描いたわけです。

  絵を通じての古事記の説明  (パワーポイント使用)

  これは僕の部屋です。神話を描くばかりでなくて、仏像もずいぶん描きました。京都の東寺にはずいぶん通って、四天王や五大明王を描きました。これが描いている時の僕の有り様です。絵は描いてると体がだんだん熱くなるから、裸同然で描くわけです。

唯一神の否定の思想

一・古事記の冒頭の部分を朗読してみますと、これは不思議な出だしです。

「あめつちはじめてひらけし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。この三柱の神はみな独り神となりまして、身を隠したまひき」

  これはどうも変な幕開けでしょう。偉そうな神さまが次々に出てきたかと思うと、「独り神だから」というわけで隠れちゃう。どうも妙だぞ、次の場面を見ると、また独り神が続々と登場する。

 次に、ウマシアシカビヒコジノカミ、アメノトコタチノカミ、クニノトコタチノカミ、トヨクモノカミ、 

 名前だけからするととても立派ですね。でもこれらの神々も、みな独り神、つまり男女のペアの神ではないので、この世に出現しても何の役割も果たすことはできない、従って、身を隠してしまったというのです。これはどう考えても奇妙な話です。どんな書物でも、芝居でも、最初に読者や観客の心を引きつけなければならない。だからその部分はメッセージ性が高いし、作者は心魂を傾けて書くわけです。ところが、その冒頭は、いってみれば、無用の神々が出てきた。これはどういうことなのかと考えてみなければならない。これまでの古事記研究では、この部分をほとんど取り上げませんでしたが、実は大きな、日本独特の思想が隠されていると思うのです。

 じゃあ、その冒頭の部分にはどのような意味が隠されているのか。

それは、「存在とは、関係である」という哲学です。

独り神、単独な存在というもの、これは存在しない、という考えです。これはとてもユニークな考えです。なぜといえば、キリスト教でもイスラム教でも、唯一絶対の神を信仰しているのです。アリストテレスの神学でも、神といえば、唯一神絶体の神を意味しています。

ところが古事記哲学は、唯一神は存在しない、と否定している。

「何者とも関係を持たない者は、この世には存在し得ない。神であっても、唯一絶対の神というような存在はあり得ない」こうしたことを、冒頭で、七回も繰り返して述べているわけです。

 これはキリスト教やイスラム教その他の絶対神を信仰する宗教とは本質的に相違する思想です。また、中国の天帝思想とも違います。『古事記伝』には最初に現れた天之御中主神について、「天の真中に坐して世の中の宇斯たる神と申す意の御名なるべし」とありますから、中国の天帝思想から生じた観念的な神であると思われますが、古事記では真っ先に否定しているわけです。

 日本には八百万の神々がおりますが、これはアニミズムだ、原始宗教だと考えられて来ました。しかしそうじゃない。一を否定することは多を肯定することにつながるわけです。唯一絶対の神の代わりに、日本には必然的に、多くの神々が現れることになります。

 しかも、日本の神々はこの世に出現して、そのままの姿をとって存在し続けるというわけではない。日本の神々は、関係しながら存在するのですから、何と関係するかによって、その存在の形が変わって行く。変容してゆく、という特徴を持ちます。偉大になるか、その正反対の存在になるは関係による。みなさんも、誰と出会って親しくなるかということによって人生が本質的に変わってしまうことを経験するでしょうが、その変容の思想が古事記の根本思想です。

欠点を持つ神々

 こうしたことから、独り神は姿を消して、 つぎにペアの神々が出現します。そうして五組のペアの神々の最後に生まれたのが、イザナキ・イザナミの二人です。

 独り神たちは、「自分たちには出来ないけれど、お前達二人なら、国を作れるだろう」というので、イザナキ・イザナミの二人に「このただよへる国をつくり固めなせ」と命じて矛を授ける。彼らは天の浮き橋に立って矛で塩の海をかき回す。

この絵はまさに、彼らが雲の上から塩の海をかき混ぜて国を造ろうとしている場面です。二人は協力し関係しながら国を生もうとしている。日本神話のすばらしさは、ここにも見事に現れている。男女平等という思想は西欧諸国でもごく最近になって現れた考え方ですが、日本では、国生みの神話の場面から、已に男女が心を合わせている。こういう思想に基づいて国造りをしようとしていたということは、特筆すべきことですね。これは憶えていていい話です。どこかで国造りの話になったとき、われわれの神話はこんな風に記されているというのは、自慢してもいいことですよ。

 キリスト教の創世記には、神が独りで全てを作ったと記されてますし、アダムも神がこしらえ、イブはアダムのあばら骨から作られたと書いてある。女は男の付属品のような描写です。しかし古事記は男女が同格として描かれているんですね。

 しかも、このイザナキとイザナミのふたりの男女の神々の若さ。彼らは使命を果たそうと一心に塩の海をかき混ぜる。すると、その矛の先から塩が垂れて、淤能碁呂島が生まれる、その場面です。

 イザナキ・イザナミの二人は淤能碁呂島に降りて、聖なる柱を回って結婚しますがその時、彼らは互いに愛していたから結婚したのかというとそうではない。

 なぜ結婚するかという理由が実に興味深い。それは二人とも、完全じゃないからだ、というのです。

「私は成り成ってこんなに立派になったけれど、一箇所だけ成り余ったところがある」と男神のイザナキが告白する。つまり私は余計なところができちゃったというわけです。これを聞いて女神のイザナミも「私も成り成って成り合わさらないところが一所あります」と告白する。

 これはとても興味深い。彼らは神です。ですからこの世で最もすばらしい存在なはずなのに、二人とも、自分は欠点がある存在だということを認識している。彼らは、神であっても、不完全な存在である、ということを表明しているんです。

 これはすごい告白ですね。この世に存在するということは、欠点を持っているということとは不可分だ、ということを表明しているわけですから。

 そこで、彼らは、それぞれの欠点を補うために、つまり出っ張った部分と、凹んだ部分を会わせれば、我々は完全になるんじゃないか、というわけで、

「しからば吾と汝とこの天の御柱を行き巡りあひて、みとのまぐわいせむ」と述べて結婚します。すると、どうしたことか、「蛭子」が生まれたのです。

 蛭子は、その名の通り、蛭のような体をしていたんでしょう。蛭子は神の姿にはまるで似ていなかった。それで彼らは失望して、「吾が生める子良からず」と葦船に入れて流してしまう。イザナキ・イザナミは、お互いの欠点を補うために一緒になった。ところがその結果は、失敗だったのです。

 僕の小説「蛭子」はここから始まるわけです。この小説は天から地、そして黄泉の国からまた地上へ戻り、息つく暇もない壮大なドラマを繰り広げて、最後には永遠の世界が何であるかということを知るに至るという劇的なドラマです。僕はこれを書いている時からオペラにして、日本固有の神話を世界中の人に楽しんでもらいたい、とそんな夢を抱いていました。なぜというに、ここには、日本神話の特質がここに極めて鮮やかに描かれているからです。聖書の神のように絶対の力をもつ神だったら、神が自分の子を生み間違えるなんてことはあり得ない。月だって太陽だって、全部思うままに生むことができる。全能の神ですから。ところが、日本の神は、限界を持つ神として描かれている。日本の神は欠点があります。子どもさえ思うように生むことができないのです。「この世に存在するものは、この世界を思うように操作することも出来ないし、造り替えることもできない」という思想がここに示されています。

 そこで、イザナキ・イザナミは、天の神になぜよい子が生まれないのかと聞きに行って占ってもらいます。神が占うということもまた、大いに暗示的ですが、説明は省略して、彼らは淤能碁呂島に戻ると、次々に島々、神々を生むのに成功します。

 この時期が彼らの最も幸福な時でした。

ところがその幸福は長くは続かない。イザナミは火の神を生んでしまう。火の神に焼かれて病の床に倒れる。

「この子を生みしによりて、みほとやかえて病みこやせり」

 つまり母神であるイザナミは、子宮も膣も腹も焼かれて、病の床に臥して、苦しみながら死んでしまう。イザナミは神でありながら、自分の未来を予見できなかった。神でありながら、実に無力な存在として描かれている。今でも何が事故が起きたりすると「なぜこうした事態を予測できなかったのか」と非難する論調がありますが、この神話では、この世に存在するものは、未来予測は出来ない、存在というものは不確実なものなんだ、神でさえ、次の瞬間、自分が自分の子によって殺されるという悲劇の到来を予め知ることは出来ないと記されている。つまり、このイザナミの悲劇は、この世の存在というものは不確定で、不安なものなんだ、ということを示しているわけです。

殺戮から生まれるもの

 こうしてイザナミは死んでしまう。夫・イザナキ、愛する者を失って号泣する。彼の心にはやがて憎しみが湧き起こります。

「うつくしきあがなに妹の命を、子のひとつ木にかへむとおもへや」愛する妻を息子に奪われて、どうして我慢が出来るだろうか、と叫んで、十拳剣を振り上げて、息子の首を斬ってしまう。

 つまり、火の神が思いがけなく生まれてしまったことによって、それまでの平和で美しい世界はたちまち破壊されてしまうのです。そこには病・死・憎悪・怒り・殺意・子を殺すという恐ろしい行為・争いが生まれたのです。

 もしかしたら、イザナキは息子を殺したら、妻は生き返って、もとの平和と愛の世界が戻るかと考えていたのかも知れない。時間のベクトルが逆に向いて、失われた世界を取り戻せるのじゃないかと期待したのかも知れない。しかし「失われたものはもとには戻りませんよ」と思い知らされる。現実は全く逆方向に物語は進むのです。

 火の神は殺されて、それで終わりではなかった。バラバラになった死体からは、戦争の神々、反逆の神々が生まれたのです。その名前からして実に恐ろしい神々です。

イワサクノカミ・ネサクノカミ・イハツツオノカミ・ミカハヤヒノカミ・

タケミイカヅチノオノカミ・タケフツノカミ・クラオカノカミ・クラミツハノカミ・マサカヤマツミノカミ・・

こういう、今まで見たことも聞いたこともない恐ろしい神々が出現する。今のイラクやアフガニスタンを考えて下さい。アメリカはフセイン政権が滅びれば、民主的な国家が出来ると考えていた。ところがどうですか、いたるところテロが横行している。戦争によって多くの犠牲者が出たら、そこから無数のテロリストが生まれた。こうしたことは、古代からあったことなんです。憎悪と殺戮からはもっと恐ろしいものが生まれてくる、血を流せば、更に不吉な血が世界を覆い尽くすぞ、ということを古事記の作者は過去の出来事から警告しているのです。この絵にあるように、戦争からは戦争しか知らない子ども達が生まれてくるのです。

 イザナキに殺された火の神から生まれた神のうち、最も有名で、現在も信仰されている神がいます。建御雷之男神。ご存じかも知れませんが、鹿島神宮に祀られている神です。この神は、伊都之尾羽張神ともアメノオハバリとも呼ばれる剣の神で、古事記には神武天皇も助けられたと書き記してありますし、歴代の征夷大将軍は深く信仰していました。現在の鹿島神宮にある奥殿と本殿は徳川家康と秀忠が寄進したものです。この神に対する信仰は古代だけでなく、近代まで続いていたということは、東郷元帥がロシア海軍との日本海海戦に出陣するにあたって、戦捷祈願をしていることにも示されています。ですから古事記に書かれている神というのは、抽象的に存在する神ではないんですね。日本人が古代から現代まで信仰し続けている。

この神が火の神の死体からどのようにして出現したのか。そして、親に斬り殺された神の分身なのに、なぜ神武天皇などを助ける神として働くのか、それにつきましては古事記に実に劇的に記されておりますし、その論理は「変容する神々」に詳述しましたので、ここでは省略いたします。

イザナミの悲劇

 さて、話を戻しまして、息子に焼き殺されたイザナミはどうなったか、ということです。彼女は死んで黄泉国に墜ちてしまう。つまり地獄の住人になる。それだけではない。この部分はギリシャ神話などとは本質的に違っている点なので強調しなければならないことですが、イザナミはなんと、鬼になっている。体には雷・鬼。蛇・蛆がわいてる。天の浮き橋のイザナミの美しい姿からは到底想像もできない恐ろしい姿です。つまり、イザナミは「変容する神々」したのです。女神→鬼。このような恐ろしい変容がなぜ起きたのか、これにつきましては後に説明いたします。

 後に残されたイザナキは妻を失って途方に暮れます。日本の国は生まれたけれど、そこにはびこっているのは戦争の神ばかりになった。反逆の神々が跋扈してる。このあり様を見てイザナキは絶望して、「これでは駄目だ、もう一度妻を連れ戻して国造りをしよう」そう決心して、イザナキは黄泉の国に降りて行きます。

 こうしたイザナキの行為は見上げたものですよ。みなさんも、もし病になって死んでしまった時、相手が、お前が地獄に行くというのなら、私はお前を何としても連れ帰るぞ、と決心して連れ戻しにきてくれたら、どんなにか嬉しいでしょう。

 イザナキは妻を恋しく思う余り黄泉の国まで降りて行って、そしてとうとう妻・イザナミのいる館の戸口にたどり着きます。彼は戸越に彼女にこう言います。

「うつくしきあがなに妹の命、あと汝と作れる国未だ作りおえず。故、還るべし」

美しい妻を、お前と私とが作った国はまだ作り終えていない。だからいっしょに戻ってくれ、とこう呼びかける。イザナキはまだ妻が鬼になってしまったということを知らない。それで、もう一度いっしょに国造りをしよう、と話しかける。

 これを聞くとイザナミは次のように答えます。

「くやしきかも、速くきまさずて。あは黄泉戸喫しつ。然れども、うつくしきあがなせの命、入りきませることかしこし。故、還らむとおもうを、しまらく、黄泉神とあげつらわむ。あをな見たまひそ」

「ああなんてくやしいことでしょう。もっと速くきてくださったらよかったのに。私は黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。だから、黄泉の国の住人になってしまったのです。でも、あなたがここまでおいでになられたのはほんとうにうれしいし、尊いことですから、黄泉の国の神々に私が戻れるように相談してみます。だからそれまで、絶対に私を見ないでくださいね」

 ここにも古事記の思想がはっきりと現されています。つまり、彼女は、「黄泉戸喫しつ」 黄泉の国の食べ物を食べてしまった。黄泉の国のものを体に入れてしまったから、その国の者に変容してしまったのです。

 

存在を変容させる最も大きな力は何かというと、第一に、「触れるということ」です。ここでは黄泉の国に入るという行為ですね。つまり触れるということは重大な意味を持っているわけです。

我々の世界でも、誰か知らない人に触られるというのは嫌なものです。誰か知らない人が触れそうになったら、サッと身をかわしたりする。逆に、両手を開いて抱擁するということは、お互いに触れ合うことによって、これまでのバラバラな自分たちではなくて、同じ世界の者に一緒になりましょう、というサインなんですね。自分はあなたと共に一緒の世界に生きたいわということを意思表示しているわけです。

 第二に、存在を「変容」させる力は、食べるという行為です。私たちも、日々の食べ物を食べることによって、姿も健康も変わります。この世のものを食べても人間は変わるわけですから、黄泉の国の食べ物を食べたら、黄泉の国の住人になってしまうわけです。

 宮中晩餐会というのがありますが、あれは古代の風習の名残だと思います。他の国から来た客人の魂を自分の国のものに変えてしまおうという隠された目的がそこにあると僕は考えています。

イザナミは黄泉の国で変容して鬼になっているものだから、夫にその姿を見られたくない。だから、どうか、黄泉の国の神々がもとの世界に戻っていいと言うまで、私を見ないで下さいね、と頼む。ところが、イザナキは待ちきれない。早く彼女と共に帰りたい、その一心で中を覗いてしまう。そして彼女の変わり果てた姿を見てびっくり仰天して、逃げ出します。

 イザナミは黄泉の国に閉じこめられた上に、夫に醜い姿を見られ、恥をかかせられ、見捨てられて狂気に陥り、「わに辱みせつ」と叫んで、黄泉の国の醜女に命じて夫を捕まえて取り殺そうとします。

しかし、彼はさまざまに苦心をして、とうとう黄泉の国の出口まで逃げて、追いすがる妻を千曳岩で塞いでしまいます。彼らはそこで、絶望的な別離の言葉を交わすのです。

「いとしきわがなせのみこと。かくせば、汝の国のひとくさ、ひと日に千頭(ちがしら)くびり殺さむ」こうイザナミが叫ぶと、イザナキは、

「いとしきわがなに妹のみこと、いまし、もししかなさば、吾れ、ひと日に千五百の産屋を立てむ」と言い返す。

 イザナミは死をもたらす神となることを自ら宣言し、これに対して、夫のイザナキは、彼女の復讐を無意味なものにするために、自分が彼女に変わって、生命を生み出す神になることを宣言するのです。こうして彼らは永遠に別々の世界に生きることを運命づけられます。

火の神を生んだという罪

 イザナキは黄泉の国からほうほうのていで逃げ戻って、ヒュウガノオドノアワギハラというところで禊ぎをする。すると、さまざまな神々が生まれ、最後に偉大な神々が誕生します。左の眼を洗うと、アマテラスが生まれ、右の眼を洗うと、月読命が、最後に鼻を洗うと、スサノオがうまれる。そしてアマテラスとスサノオの姉弟は、高天原の支配権をめぐってすさまじい対決をするという劇的なドラマが繰り広げられます。

対決に敗れたアマテラスは天の岩戸に隠れてしまうという古事記のクライマックスになるわけですが、今夜はこの場面につきましては割愛させていただきまして、千曳の岩に閉じこめられたイザナミのことをもう少し考えてみたいのです。

 と言いますのも、こうして古事記を読んできて、何よりも大きな疑問として心を揺さぶるのは、イザナミのすさまじい変容です。絵で見ると、このように、美しかった彼女が、鬼になってしまう。

イザナミはなぜ鬼に変容しなければならなかったのか

 日本の国土を生み、神々をこの世に送り出したイザナミという女神が、いったい、何故、どういう理由で、これほど辛い運命を担わなければならないのか。これほどひどい変容を遂げた神というのは、他の国の神話にはどこにもありません。では、なぜ日本の女神はここまで無惨な運命を与えられねばならなかったのか、それはとても大きな疑問ですし、解き明かさなければならない問題です。

 しかしどういうわけか、これまでこのイザナミの変容について、古事記の研究者は誰も言及しなかったし、その理由も述べませんでした。しかしこのことを考えないと古事記は理解できない。古事記の神々は変容する神々です。次のように見ればそれがよく分かります。

  • イザナミ→鬼
  • イザナキ・男神→生む神に
  • スサノオ・暴虐神→建国の英雄に

 つまり変容するのはイザナミだけではない。古事記に登場する主な神々は変容する。古事記はこれらの神々の姿を通じて、「この世に存在するものは全て変容するんだ」というメッセージを伝えようとしているわけですが、イザナミの場合はあまりにもひどすぎる。国を生んだ女神が鬼になる。信じられない変わりようです。なぜこれほどに変わらなければならなかったのか、その理由をご説明していますと何時間もかかりますので、詳しいことにつきましては「変容する神々」をお読みいただきくことにしまして、ひと言でその理由を言うとすれば、火の神を生んだからです。

火の神を生んだ罪

 火というのはエネルギーです。この世に火が生まれることによって、それまでの世界とは全く異質の文明がもたらされた。それまでは原始共同体でした。人は生で食べ物を食べ、動物を追って暮らしていた。そこに火が生まれた。それまでの世界は火の発見によって根底から覆ったわけです。

 それは良いこともありますが、悪ももたらします。戦争、殺戮、貧富の差、これらは現代に至っても克服することのできない人類の大きな悩みであり、火というエネルギーの持っている諸刃の剣の突きつける難問です。

 今日は八月九日です。六十年前の今日、長崎に原爆が投下されました。恐ろしい火の玉が日本を覆った。その火の玉の本性は何か。火の神です。火のカグ土の神ですよ。火の神はこの究極の武器に力を与えた神だとも言える。だから現代にも火の神は生きているわけです。

 勿論古代社会には核兵器はありません。しかし火というものが利用できるようになって、それまでとは異質の社会が出来てしまった。フランス革命の何万倍も大きな革命的出来事です。エネルギーを人間が操作できるんだということになったんですから、恐るべき大変革だった。イザナミはそうした恐ろしい火の神を生んだという罪を問われて、黄泉の国に監禁されてしまったと考えられる。

 ともかくも、古事記神話のイザナキ・イザナミの物語りは他に例をみないほどの深い愛の物語であると共に、ハムレットよりもはるかに無惨な悲劇が記されているのです。

イザナキとイザナミの物語りの思想

 では、この二人の男女の神々の物語りを通じて、古事記はどんな思想・哲学を示そうとしているのでしょうか。それは、まず「変容の哲学」そして「存在の不条理の哲学」です。

この世に生きるということは、変容するという事である。

 これまでに何度も繰り返してお話しましたように、この世に存在するということは、変容する、ということが古事記には描かれている。この世に存在する以上、何とも関係せずに生きるということはできない。西洋の神々は変容しません。自己同一性というのを保っている。時間空間を超越して常に変わらぬ者として存在するから神なんです。復活したキリストは今も存在する。父なる神もそのまま存在する。だから信仰されているわけです。

 しかし日本の神はそうじゃない。この世は独りの神が作ったのではない。イザナキとイザナミが関係の中で世界を作ったのです。お互いに変容しながら、世界を作り、神々を生んだのです。ところが、火の神と触れることによって、イザナミは 女神 → 鬼 に変容する。夫のイザナキは、黄泉の国が生還すると、 男神 → 女神の役割を担います。この世に生きているということは、われわれも含めて、変容を重ねるということをはっきりと示してるのです。

 次にイザナキ・イザナミの物語りが教えていることは、この世に生きているということは、理不尽な不安に脅かされていることであるということです。イザナミとイザナキは、この世は不条理だということを思い知らされる。

世の中は、神でさえ思うようにはならない。何よりの証明は、よい子を生もうと思っても、「蛭子」のような子が生まれるということです。

 生むまいと思っても、火の神のように恐ろしい子が生まれる。火の神をバラバラにして、この世から抹殺して、失われた平和と愛を取り戻そうとすると、その死体から、無数の戦争の神が生まれる。先ほども申し上げたように、今のイラクやアフガニスタンそのままの姿が神話で演じられている。

 ですから、もし現代のわれわれが戦争に反対する根拠を求めるとしたら、ここにまさにその根拠があると言えると思います。あの国家はテロリストを育ててるからこれを破壊しようと言う。しかし、もしそうすれば、別の、思いがけない恐ろしいものが生まれますよ、目には目を、血には血をというやり方では、三千年戦争しても解決はないんだということです。中東の悲劇を見ればこれは明らかです。恐らく日本の古代にも恐ろしい闘争の歴史があった。その苦しみの末に、これでは駄目なんだということを悟って、その恐ろしさをメッセージとして伝えようとしたわけです。だからわれわれが世界に向かって発することのできるメッセージは、古事記にはっきりと書かれていると言うことが出来ます。

  つまり、この世に存在することは不安を宿している、生きるということと不安とは表裏一体だ、と、この神話は教えているんです。我々の前にお出でになる患者さんは、まさに存在の不安に脅かされている。昨日まで何でもなかったのに、今は、生死をさ迷って救急車で運ばれるということもある。だから、人間存在は不安に満ちているといえるし、そのことはイザナキとイザナミの運命が教えている。これはまさしく不条理の哲学ですが、これは西欧では実存主義哲学に至って初めて明らかにされた思想なんですね。ところが古代の日本人は、既に古代に於いて、その哲学をもとに神話を作っていた。これは大きな驚きです。

 キリスト教の世界やイスラム教では、この世のことは神が決定するのですから、神の教えを正しく守って生きていれば、イザナキ・イザナミのような不条理による悲劇は起きないはずです。この世の悪や悪人は、神の教えに背いたから生じるとされている。 神の教えに従って正しく生きていれば、救われるのです。また一度間違いを冒しても、心から懺悔すれば、救ってくれるのです。だから、正しい信仰者が地獄の鬼になるというようなことはないのです。

 仏教でも、物事が生起するのは、因縁因果によるのですから、全くの不条理というものは原則的には否定される。修行すれば、あるいは、念仏を唱えれば、救われるのです。もしどんなに勤めても、どれほど信仰しても、地獄に行くかもしれませんよ、と言ったら、誰がそんな宗教を信じますか。 

 しかし、古事記神話の哲学はもっとシリアスな事実を教えている。古事記神話が教えていることは、この世に存在すること自体が、不安であり、不確定であり、不条理だということです。その意味で古事記の哲学は実に独特な主張がありますし、現代の我々には真実味があると感じられるのです。

 しかし、もしこれで古事記の哲学が全てだったら、これは救いがありません。この世に生きるということは、不安であり不条理であり、運命によって時には絶望的な孤独に貶められ、牟あるいは鬼のように恐ろしいものに変容するかも知れない、こうしたメッセージだけだったら、どうやって生きていったらいいのか分からない、ということになります。

スセリヒメとオオクニヌシ

 その疑問に解答を与えているのが、古事記神話のもう一つの愛と死と変容の物語りです。

それは、スセリヒメとオオクニヌシの物語りです。ここには、この不安と不条理に充ちている世界から私たちを救う力が存在しますよ、ということが記されているのです。

 弱い神と偉大な女性

 みなさんも子どものころからオオクニヌシの話は何度も読んだり聞いたりしているとおもいますが、オオクニヌシは因幡の白ウサギで知られているように、やさしいけれど、とても貧乏で弱い神として登場します。その名も、オオナムヂノカミ・大穴牟遅神と呼ばれていたのです。 ところが最後には、オオクニヌシとも宇都志国玉神とよばれる大王となるのです。

 オオナムヂノカミ(たとえようもなく弱い神)漢字で見ますと、大きな穴があり、しかも牛のように鈍重な神というわけですから、でかいばかりでかくて間抜けでどうしようもない神ということなのでしょう それが、 → オオクニヌシ(大国の大王)となる。

これほどの「変容」をなぜ彼は遂げることができたのでしょうか。

 ひと言で申し上げれば、女性の力です。ここに大勢の女性の方々がお出でになられますが、日本の女性の理想は誰かと言えば、いろいろな意見はあるでしょうが、僕に言わせれば、オオクニヌシを助けたスセリヒメですね。日本の歴史・文学全体を通じて、スセリヒメの愛の力ほど純粋で、すばらしい力を発揮した物語りは例を見ません。じゃあスセリヒメとうのはどんな女性かといいうと、イザナキが黄泉の国から逃げ帰って禊ぎをした時にアマテラスと共にスサノオが生まれます。スサノオはスサノオはアマテラスと争って、最後には高天原を追われ、出雲に行って国を建てます。古事記神話にはスセリヒメはスサノオの娘であると記してある。つまりイザナキの孫ということになりますから、偉大な女神です。

スセリヒメはなぜオオクニヌシを愛したのか。

 なぜでしょう。その理由を明らかにするためには、オオクニヌシという神の特質に注目する必要があります。スセリヒメと出会う前は、てんで情けない、弱小な神・オオナムジノカミとして描かれています。しかしオオナムヂノカミは弱いばかりで何の取り柄もなかったのかといえばそうではない。他の神にはない特質が備わっていました。それは、彼がとてもやさしい心を持っていたということです。 子どもの頃の絵本にも描かれているように、彼は赤裸になって苦しんでいる兎を助けます。彼は弱い者、苦しんでいる者に対して、自分も又弱く、苦しんで、余裕がないにもかかわらず、助けずには居られないという優しさ、心の愛を持っていたのです。助けられた兎は次のように預言します。

「此の八十神は必ず八上比売を得じ。袋を負わせども、汝(いまし)命(みこと)ぞ獲たまはむ」

 あなたこそ、あのすばらしい女性にふさわしいお方だと断言するのです。

古事記がオオクニヌシという神格を通じて名言しているのは、大王になるために必要な資質です。それは力じゃない。財産や名声でもない。優しさ、精神の高さなんだという表明です。

 我々が常日頃聞き慣れている英雄たちの資質はこれには反します。今、大河ドラマでは義経をやってる。頼朝か出てくる。また過去のドラマには信長や秀吉が登場する。しかし彼らと大国主命は全く異質の存在なんですね。彼らは覇者にはなれても、大王にはなれない。

 それはともかく、兎の予言は的中します。求婚にきた八十神たちに対して、八上比売姫はこう言う。

「吾(あ)は汝(いまし)等(たち)の言は聞かじ。オオナムヂノカミに嫁(あ)はむ」

 しかし、この幸運がオオナムヂノカミを不幸に陥れます。八十神は嫉妬し怒り、オオナムヂノカミを殺そうと謀って次のように申します。

「赤き猪(い)この山にあり。故、われ共に追い下さば、汝待ち取れ。もし待ち取らずば、必ず汝を殺さむ」

 こオオナムヂノカミは命じられた通り、猪を捕まえようとして飛びかかりますが、それは真っ赤に焼けた大石でした。こうしてオオナムヂノカミは殺されますが、母神が彼を助けて蘇生させます。しかしまた彼は謀にかかって殺されてしまう。そこで母神は言います

「汝(いまし)はここにあらば、遂に八十神のために滅ぼさえなむ」

こうして彼は木の国の大屋毘古神のところに逃げますが、追いかけてきた八十神に脅かされ、ついに、根堅洲国に逃げ込むわけです。根堅洲国というのは、この世ではない、黄泉の国です。ですから、彼は死の国に逃げていった、早く言えば、死んでしまったというわけです。

 普通これで物語りは終ってしまう。彼は敗北者であり、二度殺され、どこまで逃げても身を守ることも出来ない虚弱な神なのですから。この世ではもう生きて行く場所もないし、彼を助けることは神にもできないことなのです。

 しかし、物語りはここで終わるわけではありません。別の次元に移って行くのです。

 オオナムジの運命は、根堅洲国で大転回を遂げることになります。

弱神から大王へ変容させたものは何か。

 スセリヒメとの邂逅です。彼女との出会いが、オオナムヂノカミの存在を根底から変えてしまうのです。

 スサノオの娘であるスセリヒメは一目で彼に惚れ込む。死に損ないのオオナムヂノカミと運命を共にしようと決意するのです。こうした出会いは、実際には難しい。功成り名を遂げて世間に認められた男性と結婚したいという人は大勢いる、財産のある女性と結婚したいという男もいます。けれども、みじめで、死に瀕しているほど追いつめられている男に「この人はすごい人だ」と見抜いて、運命を共にしようと決意する女性は滅多にいない。もしこうした女性に出会うことが出来たら、勝利者になることが出来ます。

 スセリヒメは父親であるスサノオにこう言います。

 「いとうるわしき神きましつ」「うるわしい」というのが何を意味するのか。これは重大ですね。スセリヒメはオオナムヂノカミの弱さ、無一文のみじめさでなくて、これは「麗しい神である」と見た。恐らく、彼の容姿が麗しいというのではなく、精神の高さ・その心映えが麗しいということだろうと思うわけです。

   スサノオの与えた試練

 しかし、父親のスサノオはひと目見てこういう。「こは、葦原色許男命といふぞ」

 大穴牟遅神 → 葦原色許男命 つまり、彼はスセリヒメとあったとたんに、別の人格に変容したということです。しかし、スサノオはいずれにせよそんなみじめな男と俺の娘と一緒にさられるか、というわけで、葦原色許男命を殺そうとして、難題をもちかける。

 このあたりは子どもの絵本にもなっていますからよくご存じだと思いますが、蛇の室に入れられたり、ムカデだの蜂の室に閉じこめられたり、野原で焼き殺されそうなったり、それは大変な目に遭うわけです。しかし、苦しい試練に遭わせられて生き延びて行くうちに、彼は次第にたくましくなる。

 こうしたことはおとぎ話のように思えますが、実はそうではない。現実の世界でも起こることなんですね。たとえば人間は病気という試練に遭うと、それまでとは違う世界を見ます。そして病魔と闘って甦ると、世界が違って見える。その時にはもう病気をする前とは違う人間になっている。僕は十五回入院をしましたから、その度にさまざまに苦しんで、ようやく生き返ってきた。勿論人間だから黄泉の国には行けない。でも病床六尺に閉じこめられて、身動きも出来ないようなところで何十日も過ごして、足はボウのように細くなって、一歩も歩けない。そうすると、さまざまな苦しみに苛まれる。しかしその狭い病床六尺が全世界になる。全宇宙になる。この世界で様々なことを学ぶ。こうしてようやく生き返ってくると、日常の世界が違って見えるようになるんです。つまりものの見方が変わる。考え方が根底から変わるわけです。ですから昔の友達に出会うと、「君は変わったな」と言われることがある。当然ですよ。僕は昔の僕じゃない。健康な時には感じなかったものを感じられるようになる。目に見えない気配、そうした微妙な存在を知るようになる。つまり、異質の力を持つようになるわけです。

 ですから、医療関係者、みなさんも、病人というのは、そうした世界をくぐり抜けてきた人間なんだ、あるいは、これからそうした試練に遭う人なんだということを自覚しなければならない。そうしないと、外見は同じように見えますから、みなさんの目の前を通り過ぎていってしまう。

 スセリヒメは自分の前に現れた死に損ないのオオナムヂノカミに、「これは大変な神だ」と見抜く力を持っていた。だからこそ、彼女は彼と運命を共にすることになったのです。

 スセリヒメとオオナムジの決断

「黄泉の国から出て、私たちの世界を造ろう」

 彼らはスサノオが寝ている隙を見て、スサノオの髪の毛を垂木に縛り付け、部屋の出口を大きな岩で塞いで、黄泉の国を逃げ出します。その時の有り様は次のように記されています。

「ここにその神スサノオの神をとりて、そのむろのたりきごとにゆひつけて、五百引き(いおびき)のいわをそのむろの戸に取りさへて、その妻、スセリヒメを負ひて、即ち、その大神の生太刀・生弓矢と、またその天の沼矛のを取り持ちて逃げ出ます時、その天の沼琴樹に触れて、地とよみ鳴りき」

 ここで注目すべきは、葦原色許男命が地獄・黄泉の国から逃げ出す時、スセリヒメを背負って逃げたという描写です。彼がこの国に逃げ込んだ時、瀕死の状態で、ようやくたどりついたのでした。そのような弱々しい神が、黄泉の国から現世に通じる絶対の空間を愛しい妻を背負って上れるほどにすばらしい変容を遂げていたということです。背負われているスセリヒメもどれほど頼もしく思ったでしょうか。重大な点は、彼らが天の沼琴を持って逃げた事です。

生太刀・生弓矢は誰でも持って行くでしょう。現実の世界に戻れば八十神たちが彼を殺そうと待ちかまえて類わけですから、武器は必要なのでしょう。しかし、琴を持って逃げるということ。これは何故か。大王となろうとする者は、芸術を身につけていなければならない。国家を平和で喜びに満ちた国にする力は、武器ではなく、琴である。芸術である。だから王は、強いだけではだめなんだ。芸術の素養がなければその資格がないということをここではっきりと表明していると思われます。

 こうして彼らは逃げて行きますが、その時、琴が樹に触れて「つちとよみ鳴りき」と記されている。その音に目を覚ましたスサノオは追いかけますが、スセリヒメを背負って、黄泉比良坂を上ってゆく姿を見て、二人がもはや自分を凌駕する存在になったのだなということを認めて、次のように叫ぶのです。

「その汝がもてる生太刀・生弓矢をもちて、汝がまま兄弟をば、坂の御尾に追ひ伏せ、また、川の瀬に追いはらいて、おれオオクニヌシとなり、また宇都志国玉神となりて、その我が娘スセリヒメを正妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原にひぎたかしりておれ。この奴よ」

 スサノオは最後には彼らを祝福して送り出すのですね。その言葉通り、オオクニヌシは出雲の国の敵を平定して、大王となるのです。彼はひ弱な神から大王に変容してこの世に再び現れたわけです。

 ですから、私たちは、病人を、単に病んでいる人、弱い人とだけ見てはいけないと思う。その人々は、試練に遭ってる。肉体的な苦しみと同時に精神的にも追い詰められている。運命と直面している。恐怖や不安と出会っている。だからそこから戻ってきた時、それまでとはまったく異質の力を備えて生きるようになる。大国主命の物語りはそうしたことも私たちに教えてくれるわけです。

 また、スセリヒメのオオクニヌシの物語りは、人間が根底からその存在を変容させるためには、運命的な力と、特別な場が必要だということを教えているともいえるわけです。

   こうして見てきますと、今日お話しました二つの例は実に対照的です。

 

この世に存在するものは二通りに変容する

  イザナキ・イザナミに見る変容      → 悲劇

 スセリヒメ・オオクニヌシに見る変容   → 歓喜

 彼らは全く異質の運命を辿ります。何がこのような相違をもたらしたのでしょうか。

 答えは、はっきりしています。彼らが、重大な場面で、何に触れたか、何と関係を持ったかの相違です。

 イザナミは、火の神に触れた。→ 病・憎悪・死・戦争 

 オオクニヌシは、スセリヒメに触れた。→ 絶対の愛と信頼

 つまり、この世に存在するものは、固定的に存在するのではない。存在は「触れる者によって変容する」という、普遍的真実を、古事記は教えているのです。これは私たちがよくよく肝に銘じておく必要がある思想です。

人間存在と遺伝子

ところが、そうではないという考えがある。人間は変容なんてしないよ、という考えです。医学界・科学界には一般的な常識として、DNA一元論という考え方があります。

「人間の存在というのは遺伝子の延長上にあるんだ」という考えです。遺伝子が我々をつくっている。確かに、われわれの人生の多くの部分は遺伝子に支配されています。

 我々が猿ではなく、鯨ではなく、人間として生まれてきたのは、遺伝子がそのように配列されているからです。頭のいいのも悪いのも、顔がいいのも悪いのも、DNAがかなりの程度関係している。現実に機能している遺伝子は3%程度だそうですが、いずれにせよ人間が牛や馬に生まれず、人間として生まれるのは、遺伝子がそうしているからですし、遺伝子が極端に間違っていると、とんでもない病気になったりする。だから遺伝子の配列が私たちの存在を定めているということになります。 

 しかしそういう考えが極端になると、人間の一生は遺伝子に支配されている、運命づけられていると見なすようになる。こうなると、ひとつも面白くない。なにしろ、人の生涯が、遺伝子の配列で已に決まってるんですから。

 実はそうではない。確かに人間は遺伝子によって人間として生まれてきますが、そのまま成長するわけじゃない。赤ん坊から死ぬまでには、さまざまな経験をする。予想もしない出来事に出会ったする。何者かに触れる。振れ続ける。こうすることによって人生が過ぎて行くうちに「変容」するんです。DNAの発現形態に影響を与えるような出会いというものもこの世にはあると思います。

二種類の変容。日常的な「変容」と 劇的な「変容」

  日常的な変容というのは、これまで神々の変容のドラマに見たように、ある日突然変わるのではなくて、日々の暮らしの中でだんだんと変わるというものです。ですから、このようなかわり方は無意識のうちに起こります。しかし、時間と共に静かに変わって行きますから目には見えない。しかし確実に私たちは変容して行くのです。

 例えば、皆さんこうしておられますが、二十年年前の自分とはずいぶんちがう。

「君、どうしたんだ!?」、それぐらい変わることもある。良く変わる場合もあるし、悪く変わる場合もある。

 年を取ったから生理的に変わるというばかりじゃない。その人の風貌を変える。姿全体を変える。目の輝きも、肌の色も、背中の形も、人相も、人生そのものが変わって行く。

 たとえば、毎日毎日金勘定している人、つまり守銭奴ですね。そのような人はそれらしい顔になる。レンブラントは守銭奴が金を勘定する様子を実にリアルに描いてますが、シェイクスピアの「ベニスの商人」に登場するシャイロックという金貸しはあんな様子ではなかったかと思われるぐらいリアルです。つまり、金に触れていると、そういうふうになっちゃうんですね。債権や株のことばかり考えていると、株券に似た顔になる。

 また、日々人を憎んだり、常に疑ったり、怒っている人は、般若のお面に似てくる。般若の面というのは、極端に恐ろしいですが、やはり現実に居るんだと思う。

 ある時、有名なサスペンスドラマ作家に会ったことがありますが、驚きました。まさに妖怪のような顔をしてる。しかしそれは当然のことなんですね。どうしたらうまく人を殺せるか、完全犯罪をさせるためにはどうしたらいいか、あるいは、この犯人をどんでん返しで悲劇に追い込むにはどんな筋立てがいいかなんてことばかり考えてたら、そりゃあ作家自身がそのように変容しますよ。

 だから僕は、患者さんに、いい顔で長生きしたかったら、サスペンスなんて見たら駄目だ、厭なニュースなんて消した方がいいといつも言ってます。暴力的なゲームも魂には害悪があるから子どもには見せない方がいいと言ってます。

 反対に、芸術家には実に魅力的な顔の人がいる。ダビンチ・ミケランジェロ・ピカソとかダリ、岡本太郎なんて人はすばらしい人相だけど、子どもの時からそんな顔をしてたわけじゃない。日々変身して、あんなすごい顔になったんです。

 芸術家は、お金の代わりに、美と触れ合って日々を過ごそうとしているからああなるんです。何とか素晴らしい世界を見たい、美しい世界を描きたい、永遠の美と出会いたい、そうした願望を持ち続けて、死ぬまで描き続けている。そうした願望が、あれほどの素晴らしい顔を生み出すわけです。だから皆さんも何を求めるかによって、だんだんと「変容」して、それがそれぞれの人生の表情となるわけです。

 このような日常的な「変容」に対して、劇的な「変容」というものがあります。

 ある日、突然それまでの人とは別人になる。まるで異質の存在に生まれ変わっちゃう。

イザナミは、突然、鬼になる。オオナムジは、スセリヒメに出会った途端、英雄の資質を身につける。

 だから、劇的変容には、悪く生まれ変わる場合もあるし、良く生まれ変わる場合もある。

 肉体の変容を見た場合、もし悪性のウイルスに感染するような例を見てみると、細胞の中でDNAの組み替えまで起きますから、細胞も肉体も変わる。重い病に落ちるということも大いにあります。

  精神はどうか。  三つ子の魂百まで、という諺がありますから、なかなか人の心というものは変わらないものですが、しかし、これもまた、劇的に変わる場合があります。

 良く生まれ変わる場合は、例えば聖書にあるマグダラのマリアみたいに、売春婦だった人が、キリストに会ったとたんに、聖女になる。彼女を描いた絵は西洋にはたくさんあります。どれほど多くの絵が彼女に献げられたか。それは、人々にとって彼女の突然の「回心」が衝撃的だったからです。人間は堕落した者も、神と触れることによって聖女になるというという事実を、マグダラノマリアは身をもって証明しているんです。

 人間は延長上に生きるんではなくて、突然別の人生を歩むことがあるんだ、神に近い人間になることもあるんだというそうした出来事であったわけです。

 有名なミュージカルにマイフェアレディという物語りがありますが、あのストーリーも、教養のないすれっからしのような若い女が、短期間に淑女に生まれ変わるというシンデレラ物語です。

 逆に、突然悪い者にとりつかれたりすると、大変な悪人になる場合がある。恐ろしい人と出会って洗脳されたりすると、人格が変わってしまう。オーム真理教は典型的な例です。真面目な学生が、麻原彰晃に出会ったとたん、別人格に変容してしまう。

 だから、人生は、先祖から受け継いだDNAの配列だけで決定されてるわけではない。出会いというものは実に大きな影響を与えるし、時には人間存在を変えてしまうのです。

 私たちは毎日患者さんと出会っていますが、もし患者さんがすばらしい人だったら、私たちは変わります。また私たち自身に力があれば、弱った患者さんたちに力を与えることもできる。こうしたことは単なる言葉遊びではありません。私たちは患者さんの肌に触れるのが職業ですから、それなりの修行を積んでないと、患者さんを治すことなどとうてい出来ない。だからこそ私たちは日々努力しなければならない。

人間はどこへ向かうべきか

 さて、これまでの話で「人間存在が変容するものである」ということがお分かりになったかと思いますが、だとすれば、どのような方向に向かって変容したら良いのかという問題が生じます。いやあ、ここまできてまたこれからそんな大問題を聞かなければならないのかと思うかも知れませんが、これが今日の結論の話になりますので、八時まではあと十分ほどありますので、もう少し我慢してお聞きになって下さい。

古事記は、「どのように変容したら良いのか」というその疑問に対して、一つの解答を用意しています。結論を申し上げれば、オオクニヌシとスセリヒメが変容を遂げて到達したところがその行き着くべきところです。つまりそれは、歌の世界、芸術の世界です。

 この二人の物語りは、古事記神話では歌で終わっているのです。

 愛と芸術

 愛という男女の関係そのものは現象ですから、消えてしまう、空しいとも言えるものですし、だからこそ、その空しさ、儚さを描いた物語りは古今の物語りに山と描かれているのですが、これがひとたび最高の芸術まで高められると、たとえ現実は消えてしまっても、永遠のものとなる。

 古今集の真名序に次のように記されています。

「貴きことは相将を兼ね、富めることは金銭を余すといえども、骨は土中に腐ちざるに、名は先づ世上に滅ゆ。たまたま後の世のために知らるるひとは、ただ和歌のみ。いかにとなれば、ことばは人の耳に近く、義は神明にかなへばなり」

  総理大臣、大統領になったとしても、あるいは何百億の金を積んでいる大金持ちとなったとしても、死んだら、その骨がまだ腐りもしないうちにみんな忘れちゃうよ。誰も死んだ人のことなんて思い出してはくれない。ただ、後の世にまで知られることがあるとしたら、それは和歌だけだ、芸術だ、と古今集はこう言っているんです。最初にご紹介した歌、

  月やあらぬ春や昔の春ならぬ

わが身ひとつはもとの身にして 在原業平

  業平が見た月も彼が惜しむ春も、女との交情も、はかなく消えてしまったには違いないけれど、しかし、歌という形で永遠のものもとなる。業平はいつまでも生き続けていると言える。なにしろ千年後に生まれた僕が死にそうになった時に思い浮かべたんですから、業平は確かに生き続けている。たった三十一文字なのに、千年以上も生きている。これは不思議なことだと思いませんか。

 最初にお読みした薮医竹軒行状記の「闇の灯り」に登場する絵師も、女との日々が消えてしまうことを嘆き悲しんでいますが、彼は芸術家ですから、なんとかその空しさを絵に描き留めよう、それが私のこの世で為すべき最後のことだと悟って、試みるわけです。

 こうしたわけで、オオクニヌシとスセリヒメは、変容することによって、最後に二人で愛の歌を交わして永遠の世界に到達したと言うことができます。みなさんも、こうした世界にまで行き着けたら、それは最高の人生を生きたということになるんだと信じていただきたい。

 古事記は、「イザナキ・イザナミ」と「オオクニヌシ・スセリヒメ」という二組の男女を登場させて、一方ではこの世に存在するはかなさを描き、もう一方では、永遠の存在に至る道筋を指し示しているのです。こうして見てきますと、古事記という書物が如何に優れた内容を持っているか、お分かりになろうかと思います。

スセリヒメは次のような長歌を詠んでいます。

八千矛の 神のみことや 吾(あ)が大国主 なこそは 男(お)にいませば

うちめぐる 島のさきざき かきめぐる 磯の崎落ちず 若草の 妻もたせらめ

あはもよ 女にしあれば なをきて、男(お)はなし  なをきて つまはなし

綾垣の ふはやが下に むしぶすま にこやが下に たくぶすま さやぐが下に 

あわゆきの 若やる胸を たくづくの 白きただむき そだたき たたきまながり

ま玉て 玉手さし枕(ま)き 股長に 寝(い)をしなせ 豊御酒 たてまつらせ

日本独特の文化・歌の世界

 古事記神話のこのような歌の思想が、万葉集を生み、古今集・新古今集などの勅撰和歌集へとつながって、日本人の魂を千年以上に亘って支えてきたのです。ですから、これは最初に申し上げたことですが、子ども達や、外国の人が、「日本はどういう国か」と聞いたら、「日本は和歌という独特の芸術を生み出した国なんだ、和歌によって日常を永遠にする術を発見した文化を持つ国なんだ」と答えていただきたい。これは他のどこにもない、素晴らしいメッセージですから、自信を持っていただきたいんですね。世界の歴史書にはさまざまなものがあります。中国は文字の国ですから、膨大な歴史書を遺している。しかし、古事記は中国の歴史書とは全く異質の哲学で編纂されています。その証明は、歌です。古事記にも、日本書紀にも沢山の歌が収載されています。愛の歌ばかりではありません。悲哀の歌、陰謀の歌、戦争に疲れた歌、酒の歌、恋敵とのつばぜり合いの歌、こうした歌が重要な働きをしている。このように、国書として遺した歴史書に、これほどの歌を書き記している書物は、世界のどこにもありません。つまり、古事記、日本書記の歌を通じて、これこそが日本の思想なんだ、これこそが日本の文化なんだと言っているわけです。これは単に喜びや悲しみを記録しようとしたわけではない。現実の世界は過ぎゆくものです。どれほどの栄光も、やがては消えて行く。そして文字だけが残るのです。しかし、その文字を記録するだけでは意味がない。過去をいくら書き記しても空しいだけだ。時間を超越する力、未来に羽ばたいて、命を吹き込む力を書きとどめよう、それが歌だ、そのことを古事記の編纂者たちは知っていたから、これほどたくさんの歌を書き残してくれたんです。これこそが、中国やインドと異なる文化であり、これによって、日本という国が、月光文明ではないということが証明されるわけです。

 さて、最後の五分ですが、重大なことは、大国主神・スセリヒメの物語りがここで完結しているからといって、古事記神話は完結しているとはいえないということです。古事記のすばらしさ、思想の深さ、恐ろしさはここにあります。大国主神とスセリヒメが出雲の国を建てますと、アマテラスはこれを見て出雲征服を決意し、大軍を送り込みます。この戦争は高天原と出雲国の存亡を掛けた大戦に発展して、アマテラスは波のように執拗に征討軍を派遣します。第一陣はアマテラスの長男・天之忍穂耳命に命じて征討軍を派遣する。これに失敗すると第二陣には次男の天菩比神に征討軍を率いさせる。これが失敗すると、第三次征討軍を天若日子に率いてゆかせます。そして天若日子が裏切ってオオクニヌシの娘の下照比売と結婚してしまうと、アマテラスは最後の切り札として、火の神の子、建御雷之男神に命じて、その子建御雷神を派遣させ、出雲の国を幸福させてしまう。大国主神の国は高天原に併合されてしまうのです。

 この間の戦争もまた実に複雑で、ドラマ性の高い物語りですので、是非「変容する神々」をおよみいただきたいのですが、大国主神・スセリヒメの国がなぜ征服されなければならないのか、という問題こそ、国家という構造の存在の不条理を示していると思うのです。

 正しく、優れた王に支配されているからといって、国家は安泰ではない。国家という存在は極めて危うい関係の上にかろうじて成り立っているということも、古事記を通じて思い知らされるのですね。じゃあ、どうしたらいいんだ、という大問題が待ち受けているわけですが、  これにつきましては時間が参りましたので次の機会に回させていただくとしてまして、みなさんと共に、一夜を過ごすことができましたこと、心から感謝しております。ほんとうに、どうも、ありがとうございました。