佐賀純一講演録「何を伝えなければならないか」
日付:平成8年2月
場所:石岡ロータリークラブ
何を伝えなければならないか
本日はこのような席でお話させていだだく機会をお与え下さいまして、大変光栄に存じます。
実は私は四時まで患者さんを診察しておりまして、それから大急ぎで車を飛ばしてまいりましたが、ちょっと間違えて遅くなりました。先日石岡ロータリーの鈴木会長さんが僕の家にお越し下さいましたが、その時に、土浦から石岡までどれぐらいでしょうかとお尋ねしましたら、さあ、混んでなければ三十分か、四十分でしょうとおっしゃった。すると今泉さんが側から、やはり高速に乗ると早いですよ、とアドバイスする。そこで今日は高速に乗って急いだわけです。ところが乗ってみるとあたりは夕暮れが迫って、筑波から八郷にかけての山並がなんとも言葉には表わせない美しい気配。雲もゆったりと山の上にとどまって、紫色を帯びた朱色に染まっている。なんてすばらしい景色だろうと、見ているうちに物思いにふけってしまった。気がつくと、「岩間まで十キロ」という標識。あ、もしかしたら千代田インターを過ぎてしまったのか、と思ったけれど、後の祭り。岩間で降りて、逆方向に走って石岡に向かいました。すると、美野里から石岡にかけての家並がこれまた見事。白壁の長屋門が夕暮れの奥にひっそりと立って、欅の大木の上に、赤い冬の夕陽がまさに落ちようとしている。うっとりとしていると、いつの間にか町の中心が近づいた。そちらこちらに土蔵蔵がある。道路の側にこんもりと高い塚があって、欅の大木が威張って立っている。町の家並の上にも大きな欅が巨人のように聳えている。すばらしいなあ、さすがに国府があったところだなあ、とほんとうに感動しました。そんなわけで少し遅れてしまいましたが、思いがけなくも、この周辺のなんともすばらしい景色に触れることができて、たまには物思いにふけることもいいものだなと思った次第です。
さて、今日は「何を伝えなければならないか」というタイトルでお話いたしたいと考えております。「平和のメッセージ」に記されております通り、戦争ほど恐ろしいものはありません。第二次世界大戦を経験し、その結果、私たちは戦争放棄を憲法で誓いました。私たちすべての国民は、日本人が世界中で最も平和主義に徹している国民であると自負しておりますし、事実そうであるように見えます。しかし、それは本当でしょうか。私たちは、真実の意味で、平和主義者なのでしょうか。
私の友人にジョン・ベスタというイギリス人がおります。彼は日本文学の翻訳者としては第一流の人物で、翻訳の仕事の他に大学などでも講義をしているのですが、私の「浅草博徒一代」を翻訳してくださった関係で、何年越しの付き合いです。その彼とたまたま戦争の話になったとき、「日本人は決して平和主義者ではない」ときっぱりと断言するのです。「平和主義者どころか、むしろわれわれの目には、戦争に備えているのではないかと思える時もあるぐらいです」という。私は驚いて「なぜそんなことを言うのです」とたずねると、「テレビを見てごらんなさい。いつも戦争ドラマではないですか。鎧を着た侍が刀を振り回して暴れている。あれは戦争ではないんですか。NHKの大河ドラマがいちばんいい例です。ほとんどが戦争です。足利尊氏、源頼朝・義経、織田信長、秀吉。彼らはいったいなぜあんなにドラマに登場するんですか。私たちはテレビを見ていると、日本人が戦争好きだとしか思えないんです」
私はこれを聞いて驚いて「それは誤解もはなはだしいんじゃありませんか。あれはただの娯楽番組ですからね、現実問題とは全く関係ありませんよ」
すると彼は「そうではありません」と強く否定しました。
「戦国時代のドラマに人気があるのは、日本人の心の中にそれを好む傾向が確かにあるからです。心にもないものを喜んで見ることは決してありません。例えば、シェイクスピアのドラマが繰り返し上演されるのは、彼の創作した劇の中に、私たちの心が描かれているからです。権力欲、金銭欲、愛欲、嫉妬、憎悪、恐怖、不安、それらが人間関係の中で渦を巻いている。だからハムレットやマクベスは恐ろしい。オテローはもっと恐ろしい。私たちの心の中に、愛する人を疑ったり、時には殺してしまうかも知れないような嫉妬心が常に宿っているからです。その嫉妬心につけこんでイヤゴーが現われる。だからイヤゴーはいつの時代にも存在するし、オテローの悲劇はいつの時代でも繰り返される。つまりシェイクスピアは、四百年前の出来事を描いているのではなくて、現実のわれわれの世界を見せてくれるのです。その意味で、シェイクスピアは死んでいない。彼はわれわれの世界の現実をえぐり出してみせてくれるから、不滅の命をもってわれわれに迫ってくるのです。シェイクスピアに登場する人間は、われわれ自身の世界に存在するのです。それと同様に、戦国ドラマを日本人が繰り返して見物するのは、必ず、戦争を好む性質があるからなのです。でなければ、どうして同じテーマのドラマが高視聴率を上げることがあるでしょうか」
このように指摘されて、私は改めて考えてみました。今年のNHK大河ドラマは秀吉です。大層な人気で、これまでにない視聴率を上げているという。では、秀吉という人物は、われわれに対して、どんなメッセージを発しているのでしょうか。彼の一生は何を物語っているのでしょうか。秀吉は思想家ではありませんから、自分の考えを文字で表現するという手段は用いませんでした。従って、彼の思想を探ろうとすれば、その行動から判断しなければなりません。では、彼の行動から何を読みとることができるでしょうか。
第一に、立身出世の肯定です。水飲み百姓の小倅が天下人になったんですから、これに勝る出世はない。テレビドラマだけでなく、小説や芝居に繰り返し秀吉が登場するのは、日本人の心の中に秀吉の生きざまに対するある種のあこがれがあるからです。人間の可能性を最大限に現実化した人物とみなしているのです。よい大学を出て一流企業・官庁に勤め、立身出世をすることが人生の勝者であるとする多くの人々の考え方にも通じるところがあるのです。
秀吉のメッセージの第二は、武力による支配の無条件の肯定です。彼は織田信長に仕えますが、組頭になると百姓をしている弟を部下として仕えるように強引に説得するのです。農地を耕し、米を作り、実りの秋の迎える時のささやかな喜びなど、武力による支配の前では全く無意味であると主張し、親兄弟もその主張に納得するのです。
第三には、あくなき領土拡張の欲望と武器の礼賛です。彼はこの欲望達成のためにはあらゆる手段を用いました。人間も物資も、頭脳も、すべてのエネルギーがその目的達成のために利用されました。敵に勝利するためには、知性、技術を使用することを躊躇しなかったのです。つまり、道具主義です。この世に存在するものは、それ自体の存在意義をもつはずですが、秀吉的思考の人間には、全てが目的達成のための道具なのです。
彼は現代であれば原子兵器にも相当する武器弾薬を惜しみなく開発し、実戦に使用しました。竹中半兵衛や黒田如水といったブレーンの登用は、近代戦における参謀本部の設置と似通っています。勝利するためは高度の知性と冷静な判断力が不可欠であることを秀吉ははっきりと知っていたのです。ですから、彼が竹中半兵衛に対して三顧の礼をもって迎えたのも、秀吉が半兵衛の人格に対して尊敬を払ったのではなく、道具としての知性が必要だったからなのです。
秀吉には人類全体を包容するような理念なぞ何一つなかったことは明かです。領土拡張という野望こそが彼を突き動かしていたエネルギーでした。すべての目的が一応達成されると、彼は自分の欲望をどこへ向けてよいのか分からなくなりました。そこで大陸にその野望の目を向けたのです。
家康はしばしば秀吉と対比され、日本人にはひどく人気がうすい人物ですが、彼は秀吉とは全く異質の人格でした。彼の思想について詳しく述べることはここでは出来ませんが、彼の残した業績を見ると、彼の理想がどこにあったのかをうかがい知ることができます。家康は朝鮮出兵には全く批判的でしたし、事実一兵も出しませんでした。彼の心は国内の秩序回復であり、そのための哲学と思想の確立でした。この茨城の周辺を見回してみても、家康の思想の片鱗を垣間みることが出来ます。鹿島神宮の奥殿は家康の寄進によるものですし、明治維新まで存在した筑波山の知足院中禅寺を格別に保護したのも家康です。関東地方には大小さまざまな神社仏閣が文化財として残されていますが、家康とその後継者が関係しなかったものはきわめてまれなのです。これだけみても、家康という人物がどれほど優れた人物であったかということは明かです。
これに対して、秀吉には破壊と拡張しかありませんでした。なるほど、安土桃山時代の文化を造ったかに見えますが、それらは単なる権力を見せびらかすための手段であり、内面の豊かさからの発露ではまったくなかったのです。ですから、彼は千利休の思想や芸術をまったく理解できず、最後には殺してしまったのです。
つまり、秀吉という人物は、日本文化が一千年間もかかって築きあげてきた文化や哲学とはまったく無関係の、権力欲にとりつかれた野心家であり戦略家に過ぎないのです。彼は、自己の野望を遂げるためにはあらゆる手段を用いました。家康をてなずけるためには妹や母親までも道具として利用することをはばからなかったのです。
そのような秀吉が、日本人には非常な人気があるということが非常に重大な意味を持つのです。NHKの大河ドラマの秀吉に人気があるのも、われわれの心の中に、秀吉がいるからなのです。現在問題になっている「住専」の問題の本質も、大蔵省や銀行の構造にあることは確かかもしれませんが、それと同時に、われわれの心の内部に秀吉的にな欲望が存在することによるのです。
テレビという媒体は、国民の精神を変質させることが出来るほど強大な影響力を持っています。その媒体が、戦国の武将や宮本武蔵などの剣客を主人公にするのを好むということは、確かに問題とされなれけばならないことなのです。このようなドラマが繰り返し作られていることは、ベスタさんの指摘する通り、口では平和主義を唱えながら、実は心の底に秀吉を育てているかも知れないからです。
では日本の歴史には、世界に誇るすばらしい人物がいないのでしょうか、現代のわれわれに、生きることのすばらしさと美しさを教えてくれるような人々は見あたらないのでしょうか。決してそうではないのです。世界に誇る人々がいくらでもいるのです。紀貫之、西行、小野小町、紫式部、式子内親王、藤原定家、法然、親鸞、道元、一休、良寛、芭蕉、一茶、蕪村、、彼らは文化人としても世界第一級の人物です。ところが彼らに対してはほんの趣味的にスポットが当てられるにすぎません。紀貫之から定家、蕪村に至る系譜は日本人の精神を貫くきわめて大きな歌心の流れであり、すべての日本人が大切にしてきたものであって、秀吉などはこの系譜からすれば全く異星人にような無意味な存在にしか過ぎないのですが、現代の日本人は、この流れをすっかり見失ってしまったのです。
どこで日本人はこの流れを見失ってしまったのでしょうか。長い歴史の中でいくつかの時代がその危機をはらんでおりましたが、明確なのは、明治維新を境にして、日本人はその精神構造を本質から変えてしまったということです。西欧の植民地主義から国を護るためであったという弁解に正当性があるかどうかについては議論を措くとして、日本人の精神が変質してしまったということは事実なのです。
日本人の精神が変質したことを象徴的に示している好例は制服です。それまでの日本人の日常の衣服は着物であり、天皇をはじめ、貴族高官の礼服は唐風を基調とする優雅な衣服でしたが、明治三年から五年にかけて衣服に関する太政官令が出て、それから急速に洋装が普及するようになりました。天皇はそれまでの黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)に立纓の冠が制服でしたが、明治になると、常に軍服姿で現われるようになりました。天皇が機能主義、富国強兵の先頭に立つ姿を示すことによって、それまでの日本人の精神と決別したことを内外に誇示したのです。
文学の面でも決定的な変化がありました。正岡子規による近代俳句の創立です。彼は江戸時代の芭蕉や一茶・蕪村などとは全く異質の精神の持ち主でした。彼は二十四の時に喀血し、それ以後病弱な生活を強いられましたが、強靭な精神をもって写実による近代俳句の確立に命を掛けました。彼は日本という国家を護るためには二通りあること、一つは、武力、もうひとつは文化、これであると確信したのです。武力に関しては、自分の肉体が虚弱であることから参加することは諦めなければならない。しかし、文化に関しては十分できる。いや、自分こそがその役割を担うことのできる唯一の人間だとの自負を持っていたのです。彼は「歌よみに与ふる書」という論文を通じて、彼の俳句を支える思想と、その確立を急がなければならない理由を明確に示しています。子規によれば、近代俳句確立の目的は「日本文学を国家の城壁とすべきため」なのでした。
彼はこの観点から、和歌を徹底的に批判します。古今集の世界、紀貫之をくそみそにこき下ろします。なぜなら、そんなものは国家のためには何の役にも立たないからです。
「日本文学の城壁ともいうべき国歌」とは何事ぞ。代々の勅撰集のごときものが日本文学の城壁ならば、実に頼み少なき城壁にて、大砲一発にてめちゃめちゃに砕けべく候。(中略)
従来の和歌をもつて日本文学の基礎とし、城壁となさんとするは、弓矢剣槍をもって戦はんとすると同じ事にて、明治時代に行なはるべき事にてはこれなく候。」
子規は外国語もどんどん文学に取り入れることを奨励します。日清戦争に日本が勝利したのは、外国の武器・技術をどんどん取り入れたからだと彼は言うのです。外国の技術を取り入れたとしても、これを利用するのは日本人なのだから、外国の手を借りても日本が勝ったことには違いがない。それと同様に、外国の言葉をどれほど利用しても、日本人がこれを使えば、日本文学には相違ないのだ。このように子規は主張し、あくまでも日本という国家の文学を強固にするために和歌を捨て、現実を直視した近代俳句を確立することの必要を説くのです。こうしたわけで、子規という人物は、芭蕉、一茶、蕪村とはまるで異質の精神なのです。彼の書き物は最後まで「日本」という国粋主義的雑誌に連載されていましたが、それはこうした背景によるものです。従って、彼のすさまじいばかりの闘病生活にまどわされて、彼の俳句の本質を身誤るのは非常に危険なことなのです。これまでこうした当然のことを子規に関してあまり指摘することがなかったのは、評論家や俳句に関わる人々の怠慢と言わざるを得ません。
和歌やそれを生み出した世界に関する現代のわれわれの誤解を招いた原因はいくつもありますが、その中でも、鈴木大拙という仏教思想家の影響は大きなものがあります。彼は明治後期から昭和時代にかけて大いに影響力を持ちましたが、その精神の狭量なことは驚くばかりです。「日本的霊性」という著書を見ると、彼の思想の規範がどこにあったのか明確に理解できます。日本の精神文化は鎌倉以後にしかなかった、平安時代以前は日本人とは無関係の精神だと断言しているのです。これは全くおどろくほどの無知であり、危険な暴言ですが、このような人物の影響は現在も残っているのです。
それなら、私たちは何を日本人の精神の根本にあるものとして捉えたらよいのでしょうか。明治とともにすばらしい精神も失ったとすれば、そのすばらしいものに現在のわれわれは触れることも取り戻すことも不可能なのでしょうか。
これはきわめて重大な問題ですので、短時間で論議することはできません。そこで一つだけ、みなさんにご紹介して解答の一端にしたいと思います。
川端康成さんは昭和四十三年にノーベル文学賞を受賞されましたが、その時「美しい日本の私」という演説をなさいました。当時日本は高度経済成長のまっただ中にあり、世界の人々は日本人をエコノミックアニマルと表していましたが、川端さんは世界に向かって、日本人の精神のありようを示してみせたのです。しかしその演説は少々難解で、昨年同賞を受賞した大江さんのものと比べると抽象的で、マスコミ受けも悪かったのです。しかし川端さんの述べた内容は非常に高度な思想であり、しかも今日の私たちにとっても重要な意味を持つものでした。
彼は、日本の美しい精神は、和歌の中に秘められていると、述べたのでした。彼の演説は、彼の言葉ではなく、道元の和歌によって始まったのです。
春は花夏ほととぎす秋は月
冬雪さえてすずしかりけり
道元は日本が世界に誇る哲学者・宗教者です。鎌倉初期の禅僧ですが、「正法眼蔵」をお読みになった方はお分かりの通り、あまりにも難解な思想を展開しているために敬遠される傾向があります。しかし川端康成は、道元の本当のすばらしさは、この歌に示されている。この歌こそ、美しい日本の心を表現しているのだと述べているのです。
この歌には、しごく単純な世界しかありません。こどもにも分かる内容です。しかし、そう思うのは誤りです。私たちは日頃どれほど花をつくづくと見ているでしょうか。ほととぎすは古今集の時代から歌われてきた鳥ですが、私たちは、ほととぎすの声にしみじみ耳を傾けたことがあるでしょうか。そして月はどうでしょうか。私はときどき講演を依頼されて出かけることがあります。そうした時、質問いたします。この一年の間に、窓を開けて、「今夜は月は出るだろうか。どんなお月様だろう。雲に隠れてはいやしまいか」そう思いながら、何時間でも待った経験はあるでしょうか。何時間とはいわず、十分でも、五分でも、月の光を浴びている幸福を味わっていることを実感したことがあるでしょうか。こうたずねますと、誰もいない。どの会場でも、ほとんど皆無です。この現実は、日本人が、どれほど日本の文化と異質の世界に生きているかということの証明なのです。日本人は古代から、月を歌に詠んで来たのです。月は私たちの心にあったのです。
いま来むといいしばかりに長月の
有明の月を待ちいでつるかな
心の悲しみ、不安、あこがれ、あらゆる魂の動きが月に表現されているのです。このような世界こそが日本人のものであったのだと川端さんは世界に言いながら、実は失われていることも知っていたのです。
道元の和歌に続いて、川端さんは何を演説したか。明恵上人の歌を紹介したのです。
雲を出でて我にともなう冬の月
風や身にしむ雪や冷たき
明恵上人は平安時代末期から鎌倉時代にかけての動乱を生きた華厳宗の高僧です。華厳宗につきましてお話しますと時間がいくらあっても足りませんので省略いたしますが、保元・平治の乱から平家の滅亡、後鳥羽上皇の反乱による貴族社会の崩壊の混沌とした中から、世間に対して背を向けた鎌倉仏教が生まれました。しかし明恵上人は、崩れ去った密教文化の人々の心を救うために、華厳宗という宗派を広めたのでした。道元は禅宗の僧侶ですが、その思想は華厳宗の影響を強く受けていました。「正法眼蔵」に「海印三昧」という章がありますが、海印三昧という言葉自体が華厳宗の言葉なのです。ですから、華厳宗というのは非常に大きな影響を与えた思想なのです。
明恵上人の歌は、雪、月、花との共感の世界こそが日本人の心であることを示しています。人間は、人間世界の内部に閉じ込もっていては生きていることのすばらしさを失ってしまう。四季折々の自然の移り変わりこそが宇宙の力の精神そのものであり、その精神を愛することが、人間として生きていることのすばらしさでもあるのだと言うのです。人間はもちろん、小さな花びら、ひとひらの雪、葉の上に溜っているひとしずくの露の中にも、大宇宙が存在するというのが華厳宗の教えなのです。だから、明恵上人の月を見る姿は、まるで恋人に話かけるようです。「美しいあなたは、雲から出て、冬の空に輝いている。そして私のような人間があちらこちらと行くところについてきてくれる。でも私は貧乏な僧侶で、木の影や路傍の石の上で修行しなければならない。そんな私についてきてくれるのはありがたいけれど、そんな裸同然の姿で私についてきて、冬の風が身にしみるのではないかしら、雪があなたの肌を冷たく包むのではないかしら、心配だなあ」
月は明恵上人の恋人なのです。西行が「桜の詩人」といわれるのに対して、明恵上人は「月の歌人」と呼ばれると川端さんは紹介しています。
実に、日本人の愛し続けた和歌の世界は、人間を超越して、自然・宇宙と共感することによって命を保ってきたのです。
このような和歌の世界は鎌倉から戦国時代にかけてほとんど命脈を断たれてしまいしまたが、江戸に至って、わずかに復活します。良寛は次のような辞世を残しています。
形見とて何を残さん春は花
山ほととぎす秋はもみじ葉
道元や明恵上人と同じ精神がここにあります。財産、経済成長、権力、名誉、現代のわれわれが執着しているものがどれほどつまらなく、無意味なものであるかを、良寛の歌は教えてくれます。川端さんは、経済に狂奔する日本人を哀れみながら、ほんとうはそうではない日本人がかつてあったこと、それこそが「日本の真髄」であることを伝えたかったのです。
霞立つ永き春日を子どもらと
手まりつきつつこの日暮らしつ
年老いた老人が子どもと無為な時間を過ごしているのではありません。良寛は、年齢を超越しているのです。霞のかかった春の日と一体となって、こどもと夢中になって手まりをついているのです。人間はばらばらに裁断された孤独な存在ではなく、ひとつの宇宙を生きているのです。子どもと春のうららかさと良寛はひとつのものなのです。
良寛は晩年になってすばらしい恋人を得ます。二十九歳の美しい尼、貞心が良寛をしたってたずねて来るのです。
いついつと待ちにし人は来たりけり
今は相見てなにか思はん
良寛は自然や子どもやあらゆる存在と仲良く心を通わせてきたのですが、ここに初めて愛する人との共感のすばらしさに満足を得たのです。この歌は、愛する人に会うことがどれほど大きな意味をもつものかを私たちに教えてくれます。明恵上人はお月様が恋人だったのですが、良寛は共感することのできる愛する人を得たのです。
川端康成は更にもう一度遡って、古今集の世界から新古今までの世界を見渡して行きます。
思いつつ寝ればや人の見えつらむ
夢と知りせば覚めざらましを
小野の小町の歌は川端にとって切実なものであったにちがいありません。なぜなら、彼には小説という夢の中での恋人は存在しても、現実には共感者が一人もいなかったからです。彼は漱石と同様に、近代日本の精神の不在と共感の欠如に押しつぶされながら、失われた精神を書き残そうと努力し続けたのでした。しかし、彼は最後まで、良寛のような幸運には恵まれず、誰一人理解者もないままに、ガスホースをくわえて自殺してしまったのです。
川端康成のノーベル賞受賞演説と彼の死は大きな示唆をわれわれに与えます。彼は、日本の真髄がどこにあるかを世界に向かって訴え、このことによって日本人が何が真実であり、何が虚偽であるかを見てくれることを望んでいたのですが、その望みは果たされませんでした。マスコミは全くその演説を虚構の美として黙過し、ほとんどの日本人は、彼の言葉の意味を理解する能力すら失ってしまっていましたから、共感を感じることはとうてい不可能だったのです。彼は孤独のうちに非業の死を遂げたのでした。
しかし、孤独は、川端康成ものではないのです。私たちこそが孤独のまっただ中にあるのです。理想も理念も喪失しているところに秀吉のような人間が登場する落し穴が待ち受けているのであり、平和に退屈する人々が大きな声を張り上げて破壊を生み出すのです。
私たちは、以上のような理由で、過去の戦争を反省するにとどまって満足していてはならないのです。日本の精神の美しさがどこにあったのか、これを再認識し、その魂を子どもたちに伝えることが本当の意味での「平和のメッセージ」であると考えるのです。