佐賀純一 講演録「国立霞ヶ浦病院創立五〇周年記念特別講演」

講演タイトル 「古代から吹く風に」

ご紹介にあずかりました佐賀です。このような立派な記念の会でお話をさせていだだくのは本当に光栄です。僕にとって、この病院は、たいへん重要な人生の転機にお世話になったところなんです。先ほど青崎先生からもお話がありましたが、僕は一時ハワイの病院で働いていましたが、29歳の時に心筋梗塞になりまて、3カ月間絶対安静で療養していて、ようやく飛行機に乗れるようになったので帰ってきたわけです。そしたらこの土浦がひどく変わってる。霞ヶ浦も桜川もめちゃくちゃに汚れている。驚いて「この町には自然保護団体はないのだろうか」と聞くと、「そんなものはない」というんですね。それで熱帯魚の水槽を改造して、川から採取してきた水のBODだの容存酸素を測定しようとした。そしたらたちまち心筋梗塞を再発してしまったんです。

 父は医者ですが、自分の手には負えないというので、三人の医者に往診してもらいましたが、どうも駄目だという。父は目の前で息子を死なせたくないというので、救急車で運ばれて、国立病院のお世話になったというわけです。

 入院して何より辛かったのは、お腹がパンパンに張っちゃったことです。痛みを止めるためにモルヒネを使っていたんですが、その副作用で腸が動かなくなっちゃった。これはハワイの病院でも同じことが起きてものすごく苦しかった。しかし便を出すと命もいっしょになくなっちゃうかも知れないというので、潅腸もしてくれないし、下剤もかけてくれない。それほどひどい状態だったんでしょうが、その頃はまだCCUはなくて、四階に入院して、うんうんうなっていた。そしたら蝉の鳴き声が聞こえる。実にやかましい。そしたら芭蕉の俳句を思いだしました。

 やがて死ぬ気配も見えず蝉の声

 蝉は命の限り鳴いて鳴いて、エネルギーを爆発させて、燃えつきて、ぱっと死んじゃう。ああいいな、僕もあんなふうに死にたいけれど、どうも蝉のようにはいかない。こんなに腹がふくれて苦しいんじゃ、どうにもたまらん、というので、芭蕉の句をひねって、「やがて死ぬ気色は見えて蝉の声」と作って辞世にしようとしたわけです。

 実際ひどい苦しみです。どうにもこのままくたばるのはかなわない。それで主治医の先生に「何とかして下さい」と頼んだ。そしたら先生は「それじゃ家族と相談して、下剤と潅腸をやつてみましょう」ということになつた。もちろん僕もハムレットのように悩んだんですね。「腹が張ったまま少しでも生きながらえるべきか、それとも潅腸して、たとえ死んでも楽になるべきか」とね。こんな状態で居たとき、僕が何より憧れたのが、何であったかというと、野糞です。きれいな山で野糞をして死にたい、これが最後の願いだった。というのも、僕は大学の時、山岳部員だったんです。山で死ぬんなら本望だぐらいに考えていた時期がありました。実際、僕の先輩は富士山や北アルプスで死にましたし、後輩も谷川で岩登りに失敗して死んでいる。だから山に登っていれば死と隣合わせなわけで、僕も雪崩に生められて九死に一生を得たことがあります。それほど山に魅せられていたんですね。

 山登の楽しみはいろいろありますが、入院ながら思い出すと、何がすばらしいといって、野糞ぐらい素敵なものはない。みなさん、これをやったことがあったかどうか知りませんが、是非一度おやりになったらよろしい。冬、真っ白な斜面に風が吹いて来る。透き通った空に雲が流れている。その下で用を足すというのはなんとも言えないいい気持ち。僕は死ぬ前にあの快感をもう一度味わってみたいと、つくづく考えたんです。しかしいくら憧れても、現実には出来ない。そこで野糞の俳句を百作りました。「野糞百句」はハワイでも作りました。自分の手で書くのは出来ないので、僕が作ったものを女房に書いてもらって、出来たものを妹や友人に送ったんです。受け取った方は開封したら糞の句が百も出てきたもんだからびっくりしたらしい。だからここに入院してからも作ったわけですが、

 夏山の雲の谷間に雉を射つ 

 なんてね、他愛ない句です。「雉を射つ」というのは山岳部の隠語で、排便することなんですね。山の頂上に登ると見渡す限りの雲海。雲海の彼方に青空がある。雲海の谷間にも青い空がある。遥か下には美しい山の裾野が広がっている。その景色をながめながら用を足したい。その望みもが果たせたら、もう思い残すことはない。こう思って俳句を作ったんです。そこで僕は主治医の先生に向かって「潅腸をしてください」と頼んだ。すると先生は「それならやりましょう。しかしあなたの血圧は七十ぐらいだから、もしかしたら死ぬかもしれないけれど、いいですか」と言うす。僕は「結構です」と返事してやってもらった。そしたら、あの時の快感というものはもう何とも言えませんね。人生の快感の中でも最たるものの一つでしょう。皆さん、そうした快感を味わいたかったら、一度心筋梗塞になって、蛙のようなお腹になって、死ぬほど苦しんでみるとよく分かる。ですから、歳取ったおばあちゃんたちが国立病院に入院して、便がつまってどうしても出ないという時に、看護婦さんたちが手で掻き出したりしますが、これはほんとうの人助けですよ。

 まあこうしたわけで潅腸して便を出してもらったんですが、幸い死ななかった。それで二カ月たって、主治医が「歩いてもいいですよ」と許可をくれた。それではじめてベッドから降りたわけです。そしたらバタッと倒れちゃった。足がなかった。僕の足が。、、、。もちろん足はあったんですよ。足を切断したわけじゃないから。だけど、二カ月間絶対安静で、その前にもハワイで三カ月寝ていましたから、足の筋肉が完全に萎縮して、筋肉がまるでだめになっちゃったんです。自分では立ったつもりが、支えられないで、バタッと倒れちゃったというわけです。

 僕は人間というものがこれほど簡単に変わるものかと驚きましたね。学生時代は山岳部員だったんですよ。毎日ボート部員といっしょにトレーニングして、夏山合宿に入る前には、登る前に水に潜って鍛えようというので、水泳部の合宿に入って練習していた。町を歩く時にも荷物を持たないで歩くのは罪悪だと考えて、いつも三十キロぐらいのザックを担いでその上にテープレコーダーをのせて、そうしてのそのそ歩いていたんです。ところがそんなに鍛えていたのに、二カ月も寝るとてんで駄目なんです。

 ようやく退院して家に帰りましたが、階段が上がれない。一歩上がると動悸がする。しばらく休んでまた上がる。二階へ上がるまでがたいへん。そんな様子を見ていた出入りの職人さんたちが「若先生はいつ死ぬんだろう」と噂していたそうですよ。それが驚くべきことに死なないで、こんなに長生きして、今日はこうした五十周年の記念の席なんかでお話をさせていただくというのは僕にとっては、もう奇跡的な出来事だなと、つくづく思うわけです。そう言う意味でほんとにありがたいし、国立病院は大変に恩のある病院なんです。

 さて、今日は「古代から吹く風に」というタイトルでお話させていただくということですが、これは、この土地がどれほどすばらしいところであるかということを改めて見直して見ようという意味を含んでいるんです。僕は若い頃、この町には何もない、歴史も文化もないとこう考えて何の未練もありませんでしたから、アメリカへ行って、二度と帰ってこないつもりでおりました。ところが病気になって戻ってきて、いろいろ読んだり考えたりしていると、何とも面白いところだということがだんだんと分かってきた。ところが一般にはそう思われていない。二、三年前でしたか、江崎玲於奈さんが学長になって講演なさった時、なんとおっしゃったか。「茨城には文化がない」と。みんな同感した。こんなつまらない、見るところも何もないところに来てたまらんと思う。皆さんもね、東京からここに赴任を命ぜられた時に、こんな田舎に来て、何年たったら帰れるかということを考えたと思う。しかし、こうした考えはとても間違っているんです。何が間違っているか。

 第一に、物の存在というものを固定的に見るという、その態度が間違っているんです。ここには文化がないというように見るのは、その人の心に文化がないからです。あるものでも見えないんですね。物の存在を固定的に見てはいけないという例を上げてみましょう。万葉集の3400番にこんな歌があります。

 信濃なる千曲の川のさざれ石も 君し踏みてば玉と拾はむ

 千曲川のさざれ石なんてものは川原に無数にころがっている。めちゃくちゃに無数にあるんです。ところが恋人にとってはそうじゃない。恋しい人は防守に任じられて行ってしまった。この千曲の川原の石を踏んで行ってしまった。「行って来るよ。きっと戻って来る」とそう言って遠くの国へ行ってしまった。あの人はまだ帰って来ない。千曲の川を見る度に、私はしめつけられるようだ。あの川に降りてみよう。あの人はこの小石を踏んで行ったんだ。この石を見ていると、あの人のように思える。だから私は小石を拾おう。こういう歌です。

 この女性が拾った物は、原子構造からしたらただの石ころですよ。どんな優秀な鑑定人が見たって、一銭にもならない。ところが恋する人の目には、これはもう、宝玉にも優るすばらしい宝なんです。だから持つ人、見る人によって、物質というものは存在の価値が変化するんです。常陸風土記にこんな歌があります。

 筑波嶺に庵りて妻なしに 我が寝む夜ろは 早も明けぬかも

 古代から、筑波山には嬥歌(かがい)の伝統がありました。その日になると男女が山に登って互いに歌を詠んで、気持ちが通じると一夜を共にする。この集いに妻を得るために、男は筑波山に登って行く。そして気に入った人を探すけれど、いくら探しても、これはという女性が見つからない。あの人か、この人かと幻の妻を思って二人で寝る庵を作って、いくら待っていても現われない。ああ、今夜はこのまま独り寝の寂しさをかこつのかと思っているうちに、いつの間にか夜があけちゃった、と、そういう歌です。ここには常識的な時間というものがない。幻の妻を探している男にとっては、八時間とか九時間というような時間は存在しない。つまり、時間とか空間というものは絶対的なものではなくて、心の中に存在するのだということを、千三百年・千四百年も前の人々が分かっていたんです。

 つまり、物質も、時間も空間も外部にあるものではなくて、人間の頃の内部にあるのだということを昔の日本人は分かってたんです。そして、そのことを歌に詠んで来た。

 また、神話を見てみますと、物質や時間・空間だけでなく、人間の存在そのものも、一定の運命を定められたものではなくて、変化するものであるということを教えています。これについていろいろお話しますと夜が更けてしまいますから、一つだけお話しますが、古事記の中には大国主命という神様が出てきます。大国主命というのは日本の神様の中で最も偉大な神様の一人ですが、最初はとても弱い、だらしない神だった。まわりの神々に馬鹿にされて、いじめられて、奴隷のように大きな袋を背負わされて歩いているんです。その頃の彼は大国主命というような立派な名前で呼ばれていたんではなくて、大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)と呼ばれていた。聞くからに情けない名前です。ところが彼は兎を助けたものですから神々に憎まれて、二度も殺されて、これ以上この国にいると駄目だといので、根堅州国(ねのかたすくに)逃げる。つまり地獄です。そこは須佐之男尊が支配する黄泉の国なんです。大穴牟遅神はおずおずとそこに入って行く。するとそこで須佐之男尊の娘の須勢理毘売(すせりひめ)が出てきて、彼を見て好きになって、「目合為して相婚ひたまひて」とあるので、結婚するわけです。すると彼はたちまち大穴牟遅神から、「麗しき神」となり更に「葦原色許男尊」に変身する。つまり、すばらしい女性と出会うと、男はみじめなつまらない人間から、突如、大変な力を持つ人間に変わるんだ、ということを象徴的に現わしているんです。だから逆に、とても悪い人間に出会って親しくしたりすると、たちまち恐ろしい人間に変身してしまうということも有り得るわけです。(オームの麻原なんぞに会うと、まじめな人間が変身して殺人を起こすということもあるわけです。)とにかく彼は大穴牟遅神から葦原色許男尊に変身して、須佐之男尊のさまざまな試練をくくり抜けて、最後に、生太刀と生弓矢と天の沼矛を須佐之男尊から盗んで、須勢理毘売と逃げて、黄泉比良坂を登って、再び地上に姿を現わす。すると、彼は、宇都志国玉神に変身する、そして同時に大国主尊になるわけです。

 この神話は、現代のわれわれに何を語りかけているかといえば、人間存在というものは、決してあらかじめ定められたものではないということです。人間はDNAによって支配されるものではないということです。ところがわれわれはDNA一元論というものをある程度信じているんですね。DNAの構造をどんどん調べてゆけば、人間の病気も才能も、運命までもだいたい分かるんじゃないかと、そんなふうに考えている。ところが今ご紹介した神話にもありますように、日本の古代の考え方はそうではなかった。人間は固定した運命を生きるのではなくて、生まれ変わるものなんだということなんです。そして、これは古代の話だけじゃない。現代の人間も、生まれ変わるんです。じゃあ、どうしたときに変身するか、というと、一つは、病気です。病気になって、死に直面して、そこからはいずり上がって来ると、人間は変わります。僕個人を見ても、この国立病院で過ごした日々は僕の人格を変えたと思いますし、その後も含めて合計十一回入院しましたから、自分でもほんとうに変わったと思います。だから、僕は学生時代の僕ではない。

 最もすさまじい変身を遂げるものは、大国主命のように、本当に死んで、地獄に行って、偉大な女性の助けを借りて、再びこの世に戻って来た者です。何しろ、みじめな奴隷から、偉大な英雄に変身するわけですから。

 日本の神話にはもう一人地獄から帰ってきた男が居ます。イザナキですね。彼は妻のイザナミと日本の国を作るわけですが、火の神を産んだために妻は死んでしまう。そこでイザナキは妻を探しに黄泉の国に行くわけです。すると、恋しい女房が蛆に食われて、地獄の鬼になってる。それで驚いて逃げて来ると、女房は鬼たちといっしょに追いかけてくる。ようよう黄泉比良坂までたどりついて、千引岩で蓋をして鬼どもが地上に出られないようにして、それから日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわぎはら)に来て、「ああ、私はなんて汚いところに行ったんだろう」と言って、禊ぎをする。すると突然彼はそれまでと全く別の神に変身する。すさまじいエネルギーが沸き上がってきて、さまざまな神々を産むわけです。時量師神とか道股神とか道之長乳歯神などいろいろな神が生まれる。そして最後に天照大御神、須佐之男尊、月読尊が埋まれるわけですね。つまり彼はそれまでは単なる男の神様であったのに、地獄に行って戻って帰って来ると全く異質の能力を持った神として生まれ変わる。そういう思想が古事記の神話には記されているわけです。しかし古事記の話をこれ以上続けるときりがありませんので、それはまたにするとして、僕が申し上げたいことは、物の存在、あるいは人間存在というものを固定的に考えては駄目なんだということです。物も、われわれも、出会うものによって全く異質のものに変化するということ、また同時に、僕たちに出会うことによって、他人が変わる、世界が変わるということもあるんじゃないかというふうに思うんです。そこで、今日「古代から吹く風に」というようなお話をさせていただくのは、僕の話を聞いていただいて、この土地と自分との関係に関する見方を変えていただきたいと思うわけなんです。

 茨城県というところは、江崎玲於奈さんの話とはだいぶ違いまして、実にすばらしい文化の宝庫なんですね。第一に、筑波山、第二に、常陸風土記、第三に、密教文化です。まず最初に筑波山について申し上げましょう。皆さん、筑波山は876メートルしかない、大した山じゃないと思っていらっしゃるかも知れませんが、とんでもない誤り。実にすばらしい山です。朝、早く起きて、夜明け前に筑波山に登ってごらんなさい。今の日のでは六時半ぐらいでしょうが、頂上から東の方角を見ると、地平線が白くなって、だんだん赤みがさして、それから次第に黄金色に変わってくる。そうすると、その黄金の色の空の下に黒く沈んでいた霞ヶ浦が、突然金色の鏡になって輝く。天と地のエネルギーが湖に恍惚として輝く。なんても言葉に現わせない美しさです。

 常陸風土記に、大足日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと)と呼ばれていた景行天皇がこのあたりにいらして国見をして「海は即ち青波ただよい、陸(くが)はこれ丹(に)の霞たなびけり。国はその中より朕(わ)が目に見ゆ」と讃えた。「海は真っ青で、波はどこまでも打ち寄せている。陸地には朱色に輝く霞がたなびいている。何という美しいところだ」と賛嘆したわけです。その後、この地を「霞の里」と呼ぶようになった。これは伝説の世界の話ですが、しかしその光景と同じ景色が、千数百年後の現在でも、筑波山に登るとちゃんと見られる。とても言葉には表現できない。僕はその美しさに魅せられて、去年の暮れから今年にかけて三十回も上っちゃった。この山のすばらしさはどこからくるのか。このことについて次にお話しましょう。

 この夏、東京から、気の研究会の方々が三十人ほど来ました。僕の「歓喜天の謎」という本を読んで、東京で講演してもらえないかという。僕は東京へ行くのは嫌だけれど、筑波山にいらしていただければやりましょうと答えた。そしたらわざわざ来てくれたんですが、そこで僕が聞いてみると、常々富士山で修行をするんだそうです。富士山には江戸時代から各所に霊場があって、富士講というものが発達しましたが、現在でも富士山を信仰している方は多い。何しろ日本一の山ですからね。それで僕は質問しました。

「富士山はなぜ日本一なんです。何が日本一なんですか」と。すると日本一高いという。なるほど。しかし戦前は台湾に富士山より高い山がありましたから、富士は日本一ではなかった。その他に富士山が日本一である理由はありますか。歴史という点ではどうですか。いつ富士山は出来たんですか。すると皆さん知らないという。そこで、実は富士山というのはとても新しい山で、筑波山と比べ物にはならないんですという話をしました。

 関東平野が出来たのは約三百万年前ですが、富士山は約三万五千年前に噴火をしたんです。赤城、榛名、浅間などといっしょに爆発して、何と二万五千年間も続いた。当時はすでに縄文人はいましたから、この爆発には驚いたし、困ったでしょう。雲仙の噴火でもあれだけ被害が出たんですから、二万五千年も大噴火が続いたらもう当り一面灰だらけになったでしょう。そして一万年前には縄文海進期といって、関東平野の半分以上が海に沈んだ。だから灰が積もった後に海につかってこのあたりは大変な災害だったんです。その後も富士山は爆発して、江戸時代宝永年間にも大災害を引き起こしている。だから日本一の悲惨を生んだ山だとも言える。それじゃ筑波山はどうかというと、これは大変な古さです。何と、三億年前に誕生したんです。

 三億年前というと、デボン紀ですから、恐竜の時代です。日本列島はまだない。じゃどこに出来たのかというと、海の底です。当時は中国やロシアのあるユーラシア大陸もまだなくて、地質学的にはアンガラ大陸と呼ばれている時代ですね。海も現在のようなものではなくって、液体とも固体ともつかぬどろどろの半液体・固体のようなものであったらしい。そこに雨が何千万年も降る。するとアンガラ大陸の土砂が半液体の海にどんどん流れ込んで、その土砂の高さが海底一万メートルにも達した。すると、地球はあまり重いものだから、怒っちゃった。重力に絶えかねて、マグマが爆発したんです。海底火山ですね。筑波山もこの時に盛り上がって、まさに爆発しようという寸前まで行きました。ところが爆発しないで地上まで出ないでそのまま固まったんです。しかも筑波山は上半分がハンレイ岩、下半分が花崗岩で出来ている。ハンレイ岩はアルカリ性のマグマから出来た岩で、花崗岩は酸性のマグマから出来た岩ですが、いずれも深成岩です。だから富士山や浅間山の溶岩とは比較にならないほど硬い。もちろん現在でも筑波山の頂上にはハンレイ岩が露出していますが、実に硬いものです。

 こういう次第で、生まれた時には一万メートルの海底でしたが、その上にどんどん土砂が堆積しました。するとその後地質の大変動が起きて、何千万年の間に地上に姿を現わして、一万メートルもの山になったんです。これが約二億四千万年前の話。これはデボン紀からジュラ紀にかけてですから、恐竜の全盛時代で、このあたりはジュラシックパークであったわけです。大シダの密林の中で恐竜がうごめいていた時代ですね。そこに何千万年も雨が降った。四千万年もの間雨が降ったんです。すると堆積していた土砂がどんどん海に流されて、最後に残ったのが筑波山なんです。つまり、海底でマグマのエネルギーが溜って、それが盛り上がって、ヒマラヤよりも高くなった。そして雨でどんどん削られて、いちばん最後に残ったダイヤモンドが筑波山というわけです。これが約二億年前です。ところがこの頃の筑波山は現在のように二つの嶺ではなくて、ワンピークだった。その状態が約六千万年続きますが、やがて日本列島全体が沈んでしまう。で、その時会場に残ったのが、筑波山の山頂と、阿武隈山と八溝山、秩父山塊ぐらいです。周辺は大珊瑚礁、とアンモナイトの青い海。翼龍が大空を支配していた時代の話ですから、筑波の頂上には翼のある恐竜が羽根を休めていたこともあったでしょう。

 筑波の名の由来につきましてはいろいろな説がありますが、確かに筑波山というのは波に洗われていた。この後何度か海は引いてまた戻るというように筑波は何回も何回も海に沈んで頂上だけ出ているんです。そして二十万年前に、大断層が出来て、筑波山の頂上が三つに分かれる。現在の男体、女体と、弁慶七戻りあたりの嶺ですね。だから、現在の筑波山の形態は、日本列島に人間が現われた頃に出来たわけです。その後、どうなったかと言うと、先ほどもお話しましたように、縄文海進期というのが一万年前に起きて、関東平野は海の底に沈んでしまいますが、八千年ぐらい前から海が引き初めて、最後に残った海の名残が霞ヶ浦です。ですから霞ヶ浦はごく新しくて、二千年ぐらいしか歴史がない。西に筑波と東に霞ヶ浦と並べたりするけれど、霞ヶ浦は筑波と比べたら最後に残った溜り水ですね。富士山なんてのも筑波山に比べたら赤ん坊のようなものなんですね。こうしたわけですから、筑波山に登ると、デボン紀とかジュラ紀の歴史に接することができる。地球誕生の世界ですよ。僕たちは非常にすばらしい山を身近に持っているんです。

 ところがこんなことはみんなあまり知らない。この間、女体山の頂上に上って休んでいたら、先生に引率されて小学生の一団が上ってきました。大勢の中には賢い子どもがいて、頂上の社を見て、「先生、これは何かお宮のようなものがあるけど、何だろう、神様かな、それとも仏様かな」と聞いている。すると先生は「あら、お稲荷様かしらね、ここに何か書いてある。イザナミの尊、イザナミって何かしら」と首を傾げて「何かの神様でしょう、さあ、一列に並んで!」と号令して、行っちゃった。僕は、黙って見送ってましたが、次にまた一群が上ってくる。八十人ぐらいの小学生です。今度は何と言うだろうかと興味津津で待ってました。そしたら大勢の中にはやっぱり賢い子が居て、「これは何だろう」と聞く。しかし、先生はやはり答えられないんですね。僕はこれを見ていて、とても驚いて、このままでは駄目だと考えたんです。身近なところにこれほどすばらしいものがあるのに、何も見えないというのは、実に大変なことです。イザナミ・イザナキの神話は世界の神話の中でもひときわすばらしいもので、日本人はこんな物語を書きとどめてくれた祖先に感謝しなければならないし、世界に誇れる文化ですよ。その神様が筑波山の男体・女体の山頂に祭られている。日本一の山ですから当然のことです。ところが、生徒たちをわざわざ山の頂上まで連れてきた先生が何も知らない。これは先生の罪ではなくて、日本全体が、身近なところにこそすばらしい世界があるということに気がつかないということに原因があるんです。

 筑波の頂上から見はるかすと、日本の神話の世界を楽しむことができます。まず、東北の方角を見ると、八郷盆地の向こうに岩間の愛宕山が見えます。愛宕山というのは東京にもありますし、あちこちにありますが、これは火の神様を祭っているんです。詳しくは火之迦具土之神(ひのかぐつちのかみ)。火之迦具土之神はイザナキとイザナミの子どもです。二人の神はオノコロジマの聖なる柱をめぐって結婚して、女神であるイザナミは最初に蛭子を生みますが、その後淡路島を生み、大八島の国を生み、さまざまな神々を生んだ後、火之迦具土之神を生んでしまう。すると子宮を焼かれて、「みほとやかれて病みこやせり」という状態になる。陰部を火傷して病に臥せる。そして最後には死んでしまう。すると男神のイザナキはたいへん怒る。烈火の如くに怒って「一人の子どものために愛する妻を失ってたまるものか」と叫んで、長い剣・十拳剣を抜いて、自分の息子を斬り殺す。首を斬っただけでなくて、ばらばらにしてしまう。その時に根柝の神とか岩柝神とか正鹿山津見神とか、さまざまな神々が生まれます。こうして火の神は父親に殺されて死んでしまいます。その火の神を祭ったのが愛宕山です。つまり火の神の誕生と共に、死と憎悪と怒りと殺戮が起こるわけです。

 火の神が死んだときさまざまな神が生まれますが、その中でも最も重要な神の社を筑波山の頂上から眺めることができます。霞ヶ浦の彼方に鹿島臨海コンビナートが見えますが、その中心には鹿島神宮があります。鹿島神宮には何が祭られているか。剣です。二メートル以上もあるすばらしい剣で、国宝ですが、恐らく世界で最も長い剣でしょう。この剣が鹿島神宮の御神体です。その名をフツノミタマノツルギ、またの名をアメノオハバリ、またの名をイツノオハバリというのです。そして同時にこの剣は建御雷之男神という神でもあるんです。じゃその神はどこから来たのかというと、火の神からです。イザナキに殺されてた時に生まれたんですね。だから、鹿島の神様は、誕生した時から怒りと憎悪と血潮をひっさげてこの世に出てきている。その為に、古代から戦の神として尊崇されて、頼朝も、家康も大変厚く敬っていた。

 建御雷之男神の話をしますと十時間ぐらいかかりますからやめますが、出雲征討を成し遂げたのはこの鹿島の神様の息子の建御雷之神です。(中略)

 こうしたわけですから、筑波山の上からぐるっと眺めますと、日本の神話の世界が見える。そうしたすばらしいところに僕たちは住んでいるわけですね。とにかく筑波山というのは実に神秘的な処ですし、日本の山の中でも最も古く、しかもエネルギーにみちあふれている山なんです。だからここに日本で最も偉大な神々が古代から祭られてきたのも当然のことです。

 さて、筑波山の話をしましたので、今度は二番目の、常陸風土記に行きましょう。日本には現在五つの風土記が伝わっています。元明天皇の勅命によってつくられたと言われていますが、実際は藤原不比等の力によって出来たわけです。養老律令を作り、古事記、日本書紀の作成にも大きく関係していたと思われる。不比等は日本が生んだ政治家の中でも、最も偉大な人物です。その彼が、常陸風土記を早くこしらえろと命令を下した。風土記の中で最も完全なものは出雲風土記だとされていますが、これは優等生の官僚がこしらえたにちがいない。実に資料としては立派ですが、退屈。しかも重要な神話伝説を記録していない。たとえば、大国主命や八股オロチですね。こんなすばらしい神話を書き落としている。ところが常陸風土記は古くから伝わっていた神話伝説、民衆の風俗、歌、あらゆるものを網羅している。ほんとに、この書物はわれわれの宝です。じゃこの書物は誰が直接創ったのかというと、これがとてもすばらしい人物。藤原宇合。彼は不比等の三男です。宇合の妹に、光明子がいます。つまり聖武天皇のお后です。宇合の男の兄弟は四人ですが、いずれもが凄い人物で、もし彼らが長生きしていたら日本の歴史は根本から変わっていたと思われます。幸か不孝か、彼らは伝染病で若死にしてしまった。ま、それはともかく、宇合は二十二歳の時に常陸の国の国守として石岡に来るんですが、その前、二十歳の時に第九回の遣唐使の副使として唐の国に渡っている。その時に連れて行った留学生に、吉備真吉備、安部仲麻呂、僧の玄坊がいたわけです。真吉備と仲麻呂は大秀才で、唐の玄宗皇帝に気に入られて、仲麻呂はとうとう帰らなかった。

 真吉備たちは仲麻呂を残して十七年後に帰国して、聖武天皇のブレーンになる。平安時代の夜明けの基礎を創るわけです。仲麻呂のように真吉備が帰ってこなかったら、日本の歴史は実にまるで違ったものになっていた可能性があります。

 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも

 これは小倉百人一首の歌ですが、仲麻呂が故国を思って作ったものですね。玄坊もそれまでの日本の仏教に欠けていた大乗仏教の書物を大量に持ち帰る。恐らくこの時に密教書が沢山入った。こうしたすばらしい人物を率いて、宇合は唐の国に渡った。そして唐の国を見る。びっくりしたでしょうね。二年後に帰ってきて、また驚いたでしょう。何たる未開発の後進国と痛感したでしょう。なんとかしてこの国をきちんとした国家として作り上げなければならないと、ほんとにそう思ったでしょうね。父の不比等はこの時期右大臣で、実質的最大の権力者でした。彼は宇合に常陸の国の国守を命じる。二十二歳です。当時の常陸国はとても重要な国だった。陸奥の国はまだ大和朝廷には属していませんから、常陸国は軍事的にも要衝です。また非常に豊かな国でもあるし、鉄器の製造にも適していた。霞ヶ浦周辺では砂鉄を原料にして剣を生産していたことは鹿島神宮の神が剣であることからも明かですし、風土記にも記されています。 だから常陸の国はとても豊かなところだった。大和朝廷にとってはここを治めるということはとても重要な意味があったんでしょう。そこで不比等は自分の三男を送り込んだわけです。宇合は四年後に陸奥の国の征討に向かっていますから、政治的にも相当辣腕を振るったと想像されますが、今日のわれわれからすると、彼の最大の功績は常陸風土記の編纂です。この書物を読むと大変なエネルギーを感じます。宇合はブレーンとして高橋虫麿を連れて来て、古代からの神話伝説民間伝承やどあらゆるものを記録させる。だからすばらしい話や歌が今日までたくさん伝えられたわけです。虫麿という人物は万葉歌人としても知られていますが、よほど優れた人物だったんでしょう。常陸風土記はそう言う意味で私たちの宝ですし、バイブルですね。常陸の国にはこの書物に匹敵するものは現在もありません。一千三百年前に作られたものに勝る書物がないんです。今年(95年10月)世界湖沼会議が霞ヶ浦でありましたが、その準備期間の間、建設省でも筑波大学でもこの周辺の古文書をいろいろと探したそうですが、めぼしいものが全くない。全然ないといってもいいぐらいだというんですね。だから宇合がやったことは大変な事業なんです。

 風土記には非常に重要な話がたくさんありますが、今日はその中の一つ二つだけご紹介したいと思います。一つは、茨城という名の由来です。私たちは茨城県に住んでいるますが、なぜ茨城と呼ばれているんでしょうか。あまりいい響きでないし、ヤボなイメージでもあるんですが、なぜこんな名がこの土地につけられたのでしょうか。宇合がここに赴任して来た時、この地方は常陸の国と呼ばれていたんです。いつから常陸の国という名が付いたのかといいますと、大化の改新以後です。大化の改新によって天皇中心的国家組織が整備して、地方統一も進められて、地方の名称も改められた。それ以前は茨城県に相当する地方は六つの小さな国に分かれていて筑波、茨城、新治、那賀、久慈、多珂の国と呼ばれていた。じゃその当時茨城というのはどのあたりかというと、現在の水戸から石岡あたりにかけて一帯です。その名の由来については有名な伝説ですから御存知の方も多いと思いますが、非常に残酷な話です。昔、このあたりにクズとかヤツカハギ、サエキなどと呼ばれていた人々が住んでいた。そこへ黒坂命(神武天皇の皇子、神八井耳命を祖とする多氏の祖先)が軍勢を率いて、九州の方から攻めてきた。攻めてきたけれど、クズたちは穴の中に篭って、頑強に抵抗した。そこで黒坂命は一計を案じる。軍勢をいったん引いたとみせて、伏兵を置くわけです。すると、それとも知らぬクズたちは油断して穴から出て多いに楽しむ。もう恐ろしい敵はいないと喜んで、歌ったり踊ったりしたんでしょう。するとその間に伏兵たちはクズの巣窟にイバラをいっぱい詰め込む。そうしておいて、黒坂命は騎馬軍団で攻撃する。

「馬のりのつわものをはなちて、にわかに逐いせめしき」。奇襲攻撃です。驚いたクズたちは穴に飛び込んで隠れようとした。ところがそこには茨がいっぱい詰まっていたものだから、全身を茨に刺し貫かれて死んでしまった。「ことごとにイバラにかかりて、つきそこなわれて死にあらけき」。そこで黒坂命は、この戦争の最大の功績者は「イバラである」というので、その名をとって「県(あがた)の名につけき」と記されている。

 九州の佐賀県に吉野が里遺跡が発見されましたが、その資料を見ると、集落の周囲は幾重にも壕が掘りめぐらされていて、堀の中には茨を積み重ねてある。堀を越えようとする敵から城を防御するためでしょう。これを見ても、黒坂命の軍隊というのは、九州から来たに違いない。陽動作戦を用いたり、城の攻防戦にも通じている軍勢だった。だからこのあたりの純情な住民はひとたまりもなく全滅したんでしょう。黒坂命は敵を全滅させるのに役にたったから茨の名を残したわけです。 

 戦勝の記念として地名を残したという例をもうひとつお話しますと、建借間命(たけかしまのみこと)の伝説です。最近アントラーズで有名になった鹿島町が市になりましたが、最初は鹿島市としようとした。ところが九州に鹿島市があるので駄目だということになって、山偏の鹿嶋市になりました。なぜでしょうか。なぜ九州と茨城に同じ鹿島という地名があるんでしょうか。これは僕の推量ですが、茨城の鹿島は、九州の鹿島から来たんですね。常陸風土記と肥前の国の逸文を見るとこれがわかります。崇神天皇の頃、建借間命(神八井耳命の子孫)がこのあたりに攻めてくる。そして現在の霞ヶ浦の側の桜川村阿波崎というあたりに来て東の海の彼方を眺めると、煙が上がっている。彼はあんなところに人間がいるとはどうしたことだろうと疑って、天を仰いで、「もしあれが天皇の子孫の立てている煙であれば、こちらになびいて我が上を覆え。もし荒ぶるニシモノ(敵)のものであれば海の方になびけ」とこう言う。当時の将軍というのは呪術性がなければ資格がなかったでしょうから、こうした行為を大切な時には必ずやったんでしょう。すると、煙はさあっと海の方へなびく、それを見て「や、敵だ」というので、建借間命の軍勢は船団を組んで武器も馬も積み込んで攻撃するわけです。するとそこにはヤサカシ・ヤツクシという兄弟に指導されている部族がオキ(城)を造って防御を固めている。そして非常に頑強に抵抗して攻め落とすことができない。そこで建借間命は計略をたてる。これがまたホメロスの神話の中のトロイの馬のような高等戦術です。まず屈強の兵士を選りすぐって山の中に隠し、次に、呪術的な威力を持つ器を敵の城がある渚に置いて、沖に船や筏を連ねて、旗や幟や衣笠を沢山立てて、風に吹き流して、天人の奏でるような音を立てる琴や笛を吹いて、その調べに併せて、波の上で、兵士たちは杵島の曲という歌を七日七夜歌ったり踊ったりして大騒ぎをする。杵島というのは肥前の国の杵島、現在の佐賀県。杵島の曲というのは逸文に残っている。

あられふる杵島が岳をさかしみと 草とりかねて君が手をとる

 杵島岳というのは筑波山のように嶺が分かれていて、春、秋になると男女が手に手をとって、食べ物やお酒を担いで山に上って行く。つまり歌があったわけです。その山に上って行く時に、「杵島の山があんまり険しいから、草をつかんでもうまく上れない。だから私はあなたの手を握って上っていくことだなあ」という歌を唄ったというんです。だからこれは恋歌ですね。この杵島の恋歌を船の上で琴の音に併せて唄って七日七夜大いに踊り騒ぐ。これの光景を城の中にいた人々が見て、みんな大いに驚く。ついには城の門を開けて、男も女も「ことごとに出て」浜が傾くばかりに見入って喜ぶんです。すると、この機をうかがっていた伏兵たちは、城の門を閉じて、人々が逃げて入れないようにしてしまう。そうしておいて、建借間命は、合図をする。騎兵が一気に攻撃して、「ことごとにやからを捕らえ、ひと時にやき滅ぼしき」。

 この時、「痛く殺すと言ひし処は、今の伊多久の郷」と言うのだと書いてある。つまり現在の潮来です。全滅に成功したしるしとして、その土地にそうした名をつけたわけです。しかし後の世になって、あまり残酷だというので、伊多久を改めて、潮来となったんです。風土記が出来た当時は「安くきった」から「安伐の郷」などという地名も残っていたようです。

 こうしたわけで、茨城にしても、伊多久にしても征服者が千七、八百年も前につけた戦勝記念の名です。しかし茨城という名は大化の改新で消えて、この地方全体が常陸の国というすばらしい名で呼ばれるようになった。ところが、現在は茨城県になっている。これはどうしたわけか。明治維新の廃藩置県の時にそれまでの国名が廃止されて、新らしい県名がつけられた。ところがその付け方が、論功行賞だったんです。薩長に見方した地方は良い県の名を、敵対したところはつまらない名やいまわしい名をつけたんです。それぞれの県名を調べてみればすぐに納得が行きます。鹿児島県は鹿児島藩の名がそのまま使われている。山口県は、長州の藩庁があった場所の地名です。高知県は、高知城の地名。反対に、佐幕派、つまり徳川に見方した藩の名は抹殺されました。金沢藩、仙台藩、尾張藩、そして水戸藩、みんな失くなった。佐幕派はみんな郡の名を県名としてつけられたんです。論功行賞がはっきり分かる例は秋田県です。秋田藩は東北の諸藩が会津藩を中心に東北列藩同盟を形成して薩長と戦ったわけですが、秋田藩だけはこれに加わらなかった。そのために維新後、東北諸藩の名は完全に消されたのに、秋田藩は秋田県となったわけです。だから秋田の人間は周りの地方の人々から恨まれて、最近まで県境を越えて婚姻する時は覚悟がいったそうです。秋田が薩長に味方した理由は、秋田の佐竹氏はもともと常陸の国の北部を支配していたが、関ヶ原の戦いで石田三成に加担したために、徳川幕府成立後、東北に移封された。その恨みが維新までつづいていて、維新の時には反徳川になったんです。

 ともかくも水戸藩は最後の将軍を出した藩だし、それまでもずいぶん薩長には目障りな藩だったから、跡形もなくなくしたかったんでしょう。一時は水戸県なんてつけられたんですが、最終的には黒坂命の茨城県となった。 明治の元勲の大久保利通は、「水戸なんてところには鉄道はいらない」と言って、そのために常磐線の開通は他の地方より十年も遅れたんです。

 こうした次第で、僕は茨城県なんて名前は止めるべきだ主張しているんです。県名を変更する運動を起こしたらいいと各地で演説している。憲法と地方自治体法を調べると、県名の変更は可能なんですね。埼玉県は、ダサイというのがいやだというので、県名そのものではなくて、愛称を「彩の国」としましたが、あれは参議院議長をやった土屋さんが知事になってから決めたんでしょう。風土の文化を考える場合に、学者だのなんぞを呼んで来て話を聞くだけではだめなんです。歴史を本質から問い治す、足元から見直す。必要なら県名も変える、それぐらいまでやる必要があります。過去の人間がやったんですから、現在の人間もやって悪いということはないんです。

 もう時間ですから、あと五分でやめますが、茨城にすばらしいものがあると言った三つのものの残る一つ、密教文化についてお話します。現在筑波山には筑波山神社があります。あの神社はいつ出来たんでしょうか。みんな古代からあったんだろうと思っている。もちろん山そのものに対する信仰は大昔からありましたが、現在の形式の神社が出来たのは明治六年ごろです。それ以前には神社のある場所に何があったのか。お寺です。真言密教の大伽藍があった。筑波山知足院中禅寺という日本全国にその名を轟かせていたたいへんなお寺があったんです。誰かいつそんなお寺を造ったのかというと、平安初期ですから一千百年ぐらい前です。当時、空海が密教を唐の国から持ち帰って、高野山を建立しました。最澄は比叡山に天台宗の寺を造った。これに対抗するように、筑波山には、徳一という高僧が知足院中禅寺を創建したんです。徳一という人物についてはいくつかの話がありますが、彼は藤原仲麻呂の第九子です。仲麻呂は恵美押勝とも呼ばれていましたが、藤原不比等の孫に当り、聖武天皇の時代から考謙天皇に掛けての時代、絶対権力者として辣腕を振るっていた人物です。ところが彼の後ろだてとなっていた叔母の光明皇后が亡くなると、勢力を失い、考謙天皇の寵は道鏡に移ってしまう。仲麻呂は道鏡を除こうとして反乱を起こし、失敗して、殺されるわけです。その時一族の三十四人は斬首されましたが、小さい四人の子どもたちは刑を免れてお寺に預けられる。徳一は興福寺に預けられ、法相宗を学び、後に東大寺で勉学を積んで、大秀才になるわけです。法相宗というのは三蔵法師つまり玄奘三蔵が七世紀初頭にインドから唐に伝えた仏教で、日本に伝わって興福寺が本山になりましたから、徳一は法相宗の坊さんということになる。ところが空海と最澄が活動を始めると、他の宗派はたちまち勢力を失ってしまいます。また、徳一は反逆者の子どもですから、都にいても布教が困難だったんでしょう。都を見限って東国に出て、筑波山を本拠として活動を開始するんです。彼は筑波山に知足院中禅寺を造りますが、その他にも各所に寺を造って、会津地方にも布教を勢力的に行って、約八十のお寺を開くんですね。徳一は今申し上げましたように、法相宗の僧ですが、本尊はほとんどが密教の仏、つまり観音様かお不動様です。彼の活動は都にまで鳴り響いて、最澄が論争を仕掛けて、これは「三一論争」として最澄の著作に記録されていますし、空海も徳一に手紙を書き送って、東国に於ける密教の布教に手を貸して欲しいと丁重に依頼しているほどですから、大変な高僧であったことは疑いがない。

 徳一が亡くなると、筑波山は密教の聖地になって、大いに信仰を集めて、鎌倉時代には頼朝の妻の政子が坂東三十三霊場の二十五番に指定して、巡礼がひっきりなしに訪れるようになりますし、徳川の時代になると、家康が「筑波山は徳川家の鬼門にあたる」というので筑波山を厚く保護します。さらに家光は三十三の堂塔を整備し、江戸から筑波山に登る参道を造って、山の東南面全面を寺の領地として与えるんです。こうしたわけで、筑波山はとても栄えたんですね。特に興味深いことは、筑波山には歓喜天を祀るお堂が二つあったことです。筑波山が密教の聖地になったのも、歓喜天が二カ所でまつられているということも、筑波山の形態が男と女の抱擁している形をしているということと非常に大きく関係しているんです。このことにつきまして、僕は「歓喜天の謎」という本を図書出版社から出していますので是非お読みいただきたいと思います。(中略)

 ともかくも、こうしたことを調べて見ますと、筑波山というのは大変な山です。それがほとんど知られていない。というのも明治になって完全に破壊されて、それ以前のことが伝えられていないし、教育界も、行政も、観光業者も、知ろうという努力をしていないからです。筑波山というとガマということしか連想されないのは情けないことです。こういう現状が、江崎玲於奈さんの、茨城は文化がないという発言につながるんです。どうしても筑波山を蘇えらせる必要があります。

 最後に、常陸風土記にある歌を二つご紹介したいと思います。

 高浜に 来寄する浪の 沖つ浪 
   寄すとも寄らじ 子らにし寄らば

 私たちは今の霞ヶ浦を眺めるとあまりロマンチックな気分にはならない。ロマンどころか、現代人は湖水さえも、水資源というような捉え方をしてしまう。感性の貧困ですね。ところが古代の人達はまるで違った世界を見ていた。しかもその世界を歌に詠んでいたんです。

 高浜の渚に、波がザブンザブンと寄せて来る。沖の方からもザブンザブンと押し寄せて来る。丁度その波のように、僕に向かって、大勢の女たちが後からあとから押し寄せて来る。でも、僕はそんな女達に心を寄せるというようなことは決してないよ。なぜなら、僕の心は君に寄り添っているんだから。こういう意味です。昔の人々は春と秋にお酒や食べ物を持って浜辺で遊んで、歌を交換して、心を通わせていたんです。歌を詠めるということは、恋愛の必須条件だったんです。

 もう一つの歌。

高浜の 下風騒ぐ 妹を恋ひ 妻と言はばや しことめしつも

高浜の浜辺に葦が繁っている。その葦原の下の方に風が吹いて来ると、さやさやと葦の葉が騒ぐ、ちょうどそのように、僕の心はいつも落ち着きなく騒いでいる。なぜなら僕はあなたを恋しているからだ。ああ、僕はあなたを妻と呼びたいなあ。どうか僕を「醜い男、可愛い男と」と呼んでくれないか。こういう世界をこの歌は言っているんですよ。

 これは日本にまだ文字がない時代に歌われていた歌です。和歌がない頃の古代の歌です。恐らく一千五百年も前のことでしょう。それが現代の私たちが聞いても心をゆすぶられる。何というすばらしいメッセージでしょうか。こうした歌を感じることが出来るということが、生きている証なんですね。これがわからなかったら、もう朴念仁だね。生きていないほうがいい。すばらしい世界に出会ったとき、それを感じることが出来る感性を持っているかどうかということが、これから非常に大きな問題になると思います。何しろ、最初に申し上げましたように、石ころだって、見る人によって、宝玉になるんですから。まして、愛する人に出会ったら、絶望している人間でも生き返るんです。

 ある時、僕は頭がひどく禿げて絶望している男の子を診たことがあります。もうあと三分で終わりますから。その禿げた男の子は十八ぐらいでしたが、シンナー中毒で真っ黒な顔をしていました。てかてかに禿げた頭、かさかさの皮膚。目は敵意に満ちてていて、今にも食いつきそうな気配。そこで僕はこう言ったんです。「君は親からも見放され、彼女にも捨てられ、仲間も失ってしまったろう。そんな目をしていたら誰だって恐ろしくて近寄れない。でも、君は治る可能性はある。というのは、僕のところへ来たからだ。治りたいという気持ちがある証拠だ。僕は君に何もあげられない。お金もやれないし、仲間を作ってやることも出来ない。しかし、これだけは確かだ。それは、僕は君を治したいと思っていることだ。だから、君はひとりぼっちじゃない。もし何か言いたいことがあったら、僕のところへ来てほしい。それから、シンナーは絶対にやめなさい。お酒も煙草もだめだ。何でもいい、働いて欲しい。自分で稼いだお金を持って掛かり来てほしい。みんなが君を忘れても、僕は絶対に治って欲しいと、ほんとに思ってるからな、きっと約束を守ってくれよな」

 二週間分の漢方薬を渡しました。しかし来なかった。ずっと来ない。そして忘れた頃、三カ月後でしたが、突然やってきた。「来たかったけど、金が溜らなかったから来られなかった。今はガソリンスタンドで働いてる」というんです。そしてよく見ると、かさかさに乾燥していた肌が湿り気を帯びて、頭にはうっすらと産毛が生えてる。僕はほんとにうれしくなって、「君は絶対に治るぞ」と言った。そしたら彼は「彼女が出来たんだ」と嬉しそうに言ったんです。目が以前とはまるで違うんですね。それから二カ月後、やってきた。全く驚いたことは、頭の毛がふさふさと生えていたことです。

「治ったんだなあ、ほんとに治ったんだなあ」僕が喜んで言うと、彼は涙を流しました。この涙を見て僕も涙が出てしまった。そしてこれを本当のカタルシスというんだなあと、つくづく思いましたよ。アリストテレスは、悲劇と苦悩を乗り越えた時に精神の浄化が生じ、魂が清められると述べましたが、彼の涙はまったくそのカタルシスだったんです。心の中に長年わだかまっていた塊のようなものが、涙と共に流れ去って別の人格として生まれ変わる。そうしたことが現実にあるんです。

 だから、僕は、人間も物質も、世界も、固定的に見たんでは何も見えないとつくづく思うんです。茨城には文化がない、ここはつまらないところだという人間は、自分の内面がつまらないからです。しかし、精神が何かの機会に浄化されると、まるで世界が違って見える。僕は、是非ともみなさんに、千年の時間を超越して、古代の風に吹かれながら、茨城で過ごす月日を楽しんでいただきたいと思う次第です。

 どうも長時間ありがとうございました。    平成七年十二月一日