佐賀純一 講演録 「無鉄砲一代」
「君たちは変身する」
ロシア革命を生きた祖母の愛を受けて育ちながら、 勉強はそっちのけ、 講談本と遊びに明け暮れ、 高校にも入れない騒ぎ、 浪人時代の初恋騒動、 友情が奇跡を呼び、 まさかの合格、 超人的人物群に驚嘆し 山登りに命を賭け、 雪崩に埋められ、死と直面 人間としての自覚に目覚めた。 腎炎・心筋梗塞・膵臓炎・腫瘍、 度重なる入退院を繰り返し、 古今の思想家と出会い、 「古事記」の解明を決意、 墨絵と「百人一首ものがたり」の世界に没頭する 天国と地獄の間を往還した男の、痛快極まる無鉄砲な話
こんにちは。
(生徒たち)こんにちは。
先ほど校長先生が「うるさい!」、こう言いましたけどね、なるほど最初はうるさかった、でもそんなことは若いときには誰にでもおぼえがあるもんです。
僕らもね、大講堂で先輩から話を聞くような時があったけども、静かに聞いていたかどうか自信がない。だからこうして演壇に立ってみると特別な感慨がありますね。
きみらもいつか今僕が話しているような立場にたつようになることがあると思うけど、僕はさっき一高の正門を通って、自分が学んだこの古い校舎をゆっくり眺めながら講堂に入りました。そして今ここに立ってみてあれこれと考えると不思議な気がする。
「あのとき高校生だった僕がたちまち時間が過ぎて、こんな具合に演壇に立っているんだな」と考えて、時の過ぎる速さに驚くわけです。
それからまた、ここに来るについてはすこぶる心配だったわけです。何を心配していた何かというと、そこらへんにもそういうふうに横を向いて話をしている生徒がたくさんいますけれども、そんなふうにね、僕の話を聞いてくれないんじゃないかという不安があった。
それからもうひとつの心配は、僕はどうも話をしすぎる傾向がある。先日PTAのお母さん方にお話する機会があったんですけど、今日も後ろのほうにもお母さんがたがいらっしゃいますが、(もう暑いから上着を取ろう)、一中のお母さんがたがちょっと話をしないかというので出かけでいって、一時間というお約束がね、なんと二時間半しゃべっちゃった。お母さんがたが一生懸命聞いてくれると、こっちも時間を忘れて夢中になってしゃべっちゃって、気がついたら二時間半もたっていた。
だけどそういう記録は実に短いんで、最近の記録はですね、僕の友だちの、オーストラリア防衛大学の助教授のスチュワート・ローンさんという人と話をした時のことです。彼はロンドン大学を出てから京都大学で明治時代の日本の義勇兵に関する研究をして博士号を取った人物です。なぜ僕がその人物と知り合ったかというと、僕の本の「土浦の里」というものをガリー・エヴァンスさんという英国人が翻訳してくれた。このエバンス君はケンブリッジ大学出身の青年で、天才的な語学力の持ち主でしたが、彼は僕の本を最初はロンドンで翻訳していたけれど、どうも話しが遠いというので、日本政府の特別留学生の試験を受けて、政府からお金を出してもらって京都大学に留学して、新幹線で僕のところに通って翻訳を続けたのでしたが、そのエバンス君とスチュワート・ローンさんは京都で同じ下宿にいたのです。それでエバンス君は僕の本の翻訳を進めている時にあれこれとスチュワート・ローンさんに相談したりした、そういう因縁があって、ローンさんは「土浦の里」の英文版ができるとこれをテキストにしてオーストラリア防衛大学で講義をしている。
そういうわけで、日本に来るときには必ず僕の所に一週間泊まっていくわけです。そうすると一週間の間、暇がありさえすればというかな、土・日は大体朝九時から夜十二時ごろまで議論します。この間、親父に診察まで代わってもらって朝から晩まで議論したので、頭が両方ともおかしくなりましてね、おかげで、彼を成田に送っていった帰り道に事故を起こしましてあやうく死にそうになった。
トラックと衝突して、五十メートル吹っ飛びました。夜9時ごろ、雨が降っている中でアスファルトコンクリートトラックを追い越して、ぶつかったんです。運転手が後から僕に話してくれたんですが、彼の目の前をね、まるで宇宙船のようにヘッドライトがくるくる回りながら飛んでいって、田んぼの脇の道路にストンと着地したそうです。トラックはその直前で止まった。
僕もね、飛ばされて空中で回転しながらこれはいつドカーンとぶつかって死ぬんだろうと、そう思っていたけれど、案外に衝撃もなくて地面に降りたので、これはどうしたんだろう、生きているのかな、と思って、ドアを動かしたらちゃんと動く、それで出ていきましたら車がぺチャンコになっていた。蛙がゲコゲコと雨の中で鳴いてる。見ると車のトランクが開いていて、出版したばかりの『ちぢらんかんぷん』という、非常にこれは面白い本ですから、ぜひ皆さんもお買いになって、お読みください(笑い)
この『ちぢらんかんぷん』がトランクの中に積み重なってごちゃごちゃになっている。ああこの本がなくならないでよかったな、苦労して作った本だからと思っていたら、そのうちに見物人が集まってきた。「死んだんじゃないか!」と思ったらしい。それで僕は本を取り出して「ご迷惑をおかけしました」といいながら集まった人たちに一冊ずつ配りました。そしたら本をもらった人はみんな「この人は相当頭がおかしくなったんじゃないかと」(笑い)
警察が来てあれこれと調べて、それで僕に「あなた、これだけの事故を起こしたんだから体がなんでもないわけはないから、すぐにお医者さんに診てもらいなさい」と言うから、「いや、私は実は医者なんです」。(笑い) まあ、これは、本当の話なんです。
この事故を起こしたというのも話をしすぎたのが原因ですからね、だから僕は大変話が好きでね、講演なんかもあんまり苦労はせずにお話をする。だけれども、今日は別だったんです。僕の自分の高校時代のことを思い出すと、みんな余裕がなくて、人の話をしみじみ聞いたり、青春を楽しむ暇なんてなかったという思い出があるんですね。
僕が高校二年の時に、土浦一高は創立以来はじめて甲子園出場を果たしました。安藤さん、阪神タイガースの監督にもなった方で去年ここで講演したそうですが、彼が大活躍をして茨城・栃木・群馬の中からたった一高だけ勝ち抜いて出ることになった。学校中が大興奮。ところが当時の先生の中にカチカチの人物がいて、
「運動するやつは勉強のできない奴だ。応援する者は運動も勉強もできない奴だ」と言ったものだから、みんなシュンとしちゃって実際に甲子園に行ったのはどれくらいだったか、全校生徒の十分の一もいない。応援席はガラガラでね、僕のクラスではたった三人でしたよ。でも僕はのぼせだから行きました。
応援に行かなかった者は人生最大のミステークでしたよ。一高が甲子園に出場するなんて、前代未聞だし、これから百年後にもないでしょう。当時は鈍行の汽車でしたから、朝五時に出発して、静岡に着いたのは夜の八時、大阪には朝の五時だった。道中の汽車の中はなんとも面白い出来事があって、今も忘れられないね。
しかも、試合がまた素晴らしかった。誰もが負けると思った試合に安藤さんが大二塁打を打って勝っちゃった。それまでね、そんなに感激するという余裕もなかったんですが、涙があふれてみんな抱き合って喜んじゃった。男と抱き合ったのは、初めてだなあ、あれが(笑い)。
ところが困ったのは宿です。先生方も勝つとは思ってもいなかったから宿の予約なんてない。大阪には泊まれなくて、京都にようやく宿を取りました。そしたら宿の女将さんが「あんさんらよいときにおいでんさないましたなあ」という。なんと、その晩は大文字焼きだったんです。僕ら三人は五条の橋の上で生まれて初めて大文字焼きを見ました。それから京都には舞妓さんがいるはずだというので、一晩中あっちこっち人ごみを歩きましたが、とうとうお目にはかかれなかった。
いずれにしても、本当に行ってよかった!という思いをしたんですが、それを味わえたのは、ほんのわずかの人間で、やはり人間は頭で考えすぎるといい思いを逸する。冒険心というか、ときめく思いをしないと、いけませんね。
これも高校二年のときに、僕はこういう思い出があるんです。それは修学旅行の時でしたが、当時は泊りがけの修学旅行というのはなかった。今でも一高はないんでしょう? あるんですか?ない?そうか、僕たちの時にもなかった。それでみんなで何とか修学旅行に行けないかいうので、あれこれと働きかけて、全校生徒で投票してみたんです。行きたいか行きたくないか。そしたら、結果はどう出たかというと、驚くべきことに、ほとんどの人が「行きたくない」という方に投票したんです。
「バカだなあ」と僕は思ったんだけどどうしようもない。それで日帰りの旅行をしようということになって、バスを連ねて、江ノ島・鎌倉に行った。そして、あちらこちら見て帰ってきて、夕方になってバスがもう少しで学校に到着するという時になってバスガイドさんが「最後になりましたが、ちょっとしゃべらせてください」とマイクを取って改めてこんなことをいったんですね。
「私は長い間バスガイドという仕事をしてきましたけれども、こんなにつまらない一日を過ごしたのは、初めてです。(笑い)私は土浦一高生というのは大変優秀で、素晴らしい人たちだ、そう聞いて、張り切って朝出かけてきたんですけれども、皆さんは私の言葉には少しも耳をかたむけてくれませんでした。バスの中でいつも単語帳・ノートを見てるかと思うと居眠りをしている。私がどんなに一生懸命お話ししても、二、三人しかうなづいてくれなかった。でも皆さん、今日お連れしたところはほんとうにすばらしい歴史があるんです。面白い世界です。だから、目的の大学に入りましたら、どうか私たちのようなつまらない人間の話でも耳を傾けて人生を楽しめるような、そういう余裕のある学生におなりになってください」こう挨拶をしたんです。
僕は大変ショックを受けました。そして今日講演をするということになったときに、僕はもしかすると誰一人聞いてくれなくて、あのときのバスガイドのような惨めな気持ちになるんではないかと大いに不安になったんです。
それから気がかりなのは、僕とみなさんの生きている時代の差というものです。これは詳しくは申しませんけれども、僕のいちばん最初の記憶は、防空壕ですからね。
三歳のときでしたが防空壕の中に入って、穴から首を出して空を眺めていたら、父が屋根の上に上っている。何をしているのかなと思ったら、屋根のてっぺんで双眼鏡を構えている。やがてB29が飛んできた。どこかに爆撃に来たんでしょう。その空をサイレンがウ~、ウ~と物悲しげに鳴ってる。そういうふうな音を聞いていたのが僕の幼児期の記憶ですから、ずいぶんと古い。
それから信じられないでしょうけれども、小学校一年に入ったときに先生がこんな話をしました。もちろん戦後のことですが、
「皆さん、アメリカはすばらしい国です。たとえみなさんがアメリカに行って乞食になっても、決して困ることはありません。どうしてかというと、アメリカ人というのは、生まれた時から靴を履いているので、足の指が利かない。足の指を手の指と同じように動かすことができません。そのために、足の指が自由に使えるという人は、大変珍しい。ですから、あなたがたが困ったら、裸足になって、足の指で道路に転がっている石をはさんで、ポンと投げてごらんなさい。そうすると、アメリカ人はみんなそれを見て驚いて、パチ、パチ、パチ、喜んでくれる。そしてお金を恵んでくれます。だから日本人は、アメリカに行って困ることがない。それほどアメリカは素晴らしい国なんです」って、こんな話をした。僕は本当に感激した。(笑い)
僕らは子供の頃下駄を履いて学校に通っていた。下駄箱というのがそのままあったんです。僕は高校まで下駄を履いて通学していた。ところが、今どうです。皆さん、下駄を履きますか?あるいはアメリカと日本との格差はどうでしょうか。
僕が高校二年のときに、ガガーリンがボストクークで宇宙に上がった。アメリカも続いて上げた。そのとき、日本はどういうロケットを上げたか。ペンシルロケット。鉛筆ほどのロケットです。糸川英夫さんという人がペンシルロケットの研究を始めた。しかしこの小さなロケットには誘導装置がない。だからどこへ飛んでいくのか分からないという代物です。そして僕の数学の先生をしていた土浦一高の堀越長次先生がそのロケットの研究をするために東京工業大学に移りました。そんな時代だったんです。ところが、今はどうですか。そんなことはあなた方には想像もできないでしょう。
だから、きみたちと僕たちの間にある三十年の差というのは、決定的な大きさですね。もしかすると、全然言葉も通じない。あなたたちはエイリアンかもしれない。僕のほうがエイリアンかな。(笑い)
だけど別の角度から見ると、全然そうではないのかもしれないという気もするわけです。それは、僕は今「密教」というものに興味を持って、本を書いたりする。それは、今ですね、『歓喜天の謎』というので、書店にも売っておりますので、ぜひよろしくおねがいしますが、その源流はどこにあるかといいますと、インドのリグヴェーダあるいはバガバッドキーターというような紀元前の哲学・宗教に起源を有していた思想が仏教に大きな影響を及ぼして、六世紀から七世紀頃に密教という宗教として体系化された。これが中国に伝わって、中国に留学していた空海が日本に伝えて真言宗を起こしたわけですね。ですから平安時代の宗教というものは、密教です。源氏物語も密教に深い影響を受けて生まれた大芸術です。
しかし、現在では密教思想についてはあまり知らない。弘法大師空海という人物はだれでも知っているけれど、その思想はなじみがない。ところが、これほど面白い思想はありません。僕は空海の著作を読むと、「血沸き肉踊る」というふうな気持ちになる。これは不思議なことです。三千年前のインドの思想が、1200年前に空海によって伝えられて、現代の僕に、これほどの感激を与える。千年、二千年という時間はたちまち飛び越えられる。だとしたら、君たちと僕の間にある三十年なんぞという時間差は、何でもないじゃないか。本当の話はなら、若い人たちにもわかってもらえるんじゃないか。と、こう考えて、この一カ月ばかりあれこれと頭をひねっていたら、今日になったというわけです。
いろんな主題を考えましたが、まあ最後には頭の中で考えるお話ではなくて、僕がじかに味わった話、それをお話ししてメッセージとしようという気持ちになりました。じゃ、どんな話かと申しますと、結論を申しますとですね、「人間は変身する、人間は生まれ変わるんだ」ということです。これは頭の中の話ではなくてね、僕自身がそれを証明しているわけです。既に十五分経過しましたから、七五分間、これからお話しすることにしましょう。
僕はね、こんなふうにして皆さんを前にしておしゃべりしていますが、これは大変不思議なことなんです。なにが不思議かと見申しますと、ここに僕の一高時代の同級生だった山口金三先生もいらっしゃるから嘘は申しませんが、僕は中学・高校時代とても出来ない生徒だった。非常に幼稚で、でたらめで、宮崎賢治流に言えば、「てんでなってない」人間だったわけですよ。成績は本当に下の下というところでした。
当時の中学校っていうのは優秀な生徒が、生徒会の委員になったんですね。僕は中学校三年間、自慢じゃないけど生徒会の委員に選ばれたことはなかった。学級委員にもほとんどならなかった。週番にすらならなかった。
昔はですね、廊下に六割以上の平均点数を取った生徒の名前を墨で書いて貼り出したんです。大体僕たちの一中では600人ぐらい一学年いて、百六十番目ぐらいまでは名前を貼り出したわけですが、僕はそれにも入らなかったことがある。だから当時の一高、今の一高とはだいぶ違うようですけれども、当時の一高でも僕は全然入れない、といわれていた。じゃあ、なぜ入っちゃったんだということですが、それはね、これが第一の「変身」でしょうね。
これはどういうことかというと、ある日僕がノートを開いて、眠るでもなくぼんやりしたら父がそれを後ろからのぞき込んだ。そして大変怒った。父は、今八十二で医者をしておりますし、見るテレビというと第三チャンネルの物理とか数学の時間を見ながらしきりに解いているような人ですから、大変頭が冴えているんですね。自分の子どもがこんなに怠け者でできが悪いというのを知って、ショックを受けたらしい。その父の怒った顔を見たら、僕は突然昔のことを思い出したんです。
それというのは、僕が小学五年の時だったと思いますが、宿題の割り算をやっていた。ところが滅多にやらない勉強をしていたので、全然分からない。困っていたら父が後ろからのぞいて大きな声で怒鳴った。で、僕は子どもながら怒りましてね、「お父さんはいままで僕に勉強なんて教えたこともないのに、急に怒鳴るなんてひどい」と、まあそんなことを言い返したんでしょう。
そしたら、父がひどく怒った気配だったから、僕は急いで逃げ出した。すると追っかけてきた。僕はその気配におそれをなして裸足で逃げた。冬の二月の夜のことですよ。今になって考えると、あんなに父が怒ったのにはよほど普段から悪い子供だったのだろうと思いますが、まあ、昔の親は厳しいところがありましたよ。
僕の家というのはその当時亀城公園の近くにありましたから、公園の真っ暗い松の下を逃げたわけです。ところが父はどこまでも追いかけてくる。今の亀城プラザの所に留置所があった。で、留置所の中に入っちゃおうかと思ったんですけれども、父は留置所の監察医も頼まれて引き受けていたから、中に逃げても捕まっちゃうと思ったから高い塀を伝って逃げ回って、物陰に隠れた。父はハアハアといいながら探しましたが、とうとう逃げおせたわけです。
ところがなにしろ寒い。真冬、裸足ですからね。でも家に帰るわけにもいかない。どうしたらいいだろう。長い間隠れていましたが、あんまり寒いから暗い中をとぼとぼと公園の中を歩きながら考えた。そしたら向こうに明かりが見える。なんとなくその方に足が向いて行く。そしてその戸口にたどりついたら、それが今も土浦小学校の前にあるバルナバ教会という所だったんです。
教会の戸をトントンと叩きました。おばさんが出てきた。
「あら、どうしたの!?」。そのおばさんは僕の顔を知ってた様子で、びっくりしてこっちを見ている。そのはずですよ。冬の夜にね、はだしで、ジャン・バルジャンみたいにして現れたわけですから。
「そんな格好をしていないで、中にお入りなさい」
おばさんは中に入れてくれて、紅茶とケーキをご馳走してまれました。それで僕は思いましたね。同じ大人でありながら、どうしてこんなに違うんだろう。僕はこのまま教会の小僧になりたい!そう思いました。でもおばさんはそのまま教会に泊めるわけには行かなかったんでしょうね。
「お家まで送ってってあげましょう」
夜の十一時ころかな、送ってきてくれた。
だけど僕が悪いわけじゃないという思いがあるから謝るのはしゃくだからね、そのまま家の中に入らないで、その晩は物置に寝ました。太閤秀吉が子どもの頃、橋の下でワラをかぶって寝てるなんて絵がありますけど、実際にワラの中で寝るっていうぐらい寒いことはない。僕はね、その辛さが身にしみていた。この出来事は小学生の時の記憶ですが、中学の時にも父の怒る顔を見て、その時の思いが蘇ったわけです。
それから間もなく先生が家庭訪問に先生が来て母に言うには、「お姉さんは成績が抜群でしたが、純一君はどうも一高には無理ですねえ」なんていう。
「医者になれるでしょうか」
「医者どころか、今の成績では入れる高校はありません」
僕はこの話を襖越しに聞いてひどく恥じました。自分を恥ずかしい、惨めだと思ったのはこれが最初です。何よりお姉さんと比べられてさんざんにこき下ろされるのは悔しい。姉とは三歳の頃から喧嘩ばかりして育ちましたから、姉に比較されるのは悔しい。父には怒られるのは仕方ないにしても、母をがっかりさせて、姉に負けるのは情けない。それに先生にこき下ろされるのは我慢できない話だ。よし、先生をびっくりさせてやろう。それに決めた、とそう思って、それからは身を入れてやりだした。そしたら急に成績が良くなって、先生たちも驚いて、職員室に僕を呼んで「お前はどうしたんだ。今まで百番にも入れなかったのに、突然三番になるなんて、おかしいぞ。」などという。しかし勉強というものは講談よりも簡単だから、一高にも入れたというわけです。
しかし、入りはしたけれども、楽しくはなかった。というのは、皆さんは秀才だから、そういう苦しみがあるかどうか分かりませんが、入ってみたら、周りは、まあ本当にできる奴ばかり。隣の席の石川君という生徒が何ともすごい天才的な記憶の主で、コンサイス英和辞典をまるごと、高校一年で全部暗記していた。一つの単語を聞くと、その意味・反対語・熟語まですらすらと立石に水のようにしゃべりまくる。
まあ、皆さんの中にもそういう人がおそらくいるでしょう。僕は圧倒されちゃった。これは人間の住む所じゃない。(笑い)
そして、最初の英語の副読本が、今でも思い出す、あずき色をした表紙のギリシャ神話だった。僕は幼稚だったから、ギリシャ神話がどんなものか知らなかったんです。それを英語で読めというんだからとうてい無理な話です。最初の一ページを見たら56個も知らない単語が出てきた。辞書で引いているうちに数時間がかかっちゃう。
今でも思い出すのは、「ネクトーリア」という言葉ですよ。知ってますか? これは「神の酒のように美味しい」という意味だそうですよ。それで僕は大学に入ったときに、ジュースを見たら、「ネクター」というのがあったので飲んでみたら、ねっとりとして美味しい。甘くて……。ああ、これがネクトーリアか! そのとき初めて、勉強してよかったなと思いましたけども。(笑い)とにかくあんまり僕は優秀ではなかったから、高校生活を楽しむことはできなかった。第一、自習時間になっても、誰も遊びに外に出ない。みんな必死で勉強してる。僕と数人しか相撲なんてやってない。それですっかり嫌になって、こんな学校にはもう二度と入りたくない、僕らは本当は青春の真っ只中じゃないか。それが、自習時間にもほんと取っ組み合いをしている奴らと一緒にいなければならないとは、人生がもう一回あったら、一高なんか入るもんか!こう思いましたね。
しかしながら、僕を、そういう人間を支えたのは何かというと、ひとつは楽観主義でしょう。まあ、何とかなるだろう。それからもうひとつはね、ちょっと本を読んでいたから、世界というのは学校だけではないんだということを知っていた。大切なのは学校以外にあるんだと思っていた。
みなさんは読んでるかどうか分かりませんが、僕は小中学の頃から読み物が大好きだった。吉川英治の「宮本武蔵」はご飯を食べるのも惜しんで読みました。高校になるとロシア文学に夢中になった。今ちょっと下火になったようですが、僕の頃はトルストイとかドフトエスキーとかツルゲーネフ、チェーホフとか、そういった小説家は人気があった。フランス文学にも熱中しました。バルザック、ゾラ、モーパッサンそれから、ロマンロランのジャククリストフ。そういう人たちの小説に熱中したんですね。一年で五十冊ぐらい読みました。ある時自習時間に、担任教師だった堀越先生が、
「佐賀、おまえ、何か話しをしてみなさい」というので、バルザックの谷間の百合、という小説の話をしたら、誰も拍手してくれなかった。
そんなある日、K君という非常にできる生徒が、僕が小説を読んでいるところに来て、「きみ、そんなもの読んでも、試験には出ないよ」と言う。顔を見るととても真剣だ。それで僕は、ああ、秀才というのは試験に出ないやつはちゃんと分かるんだ、だから小説を読まないのか、と思いましたけれども、(笑い)いずれにせよ、無駄なことはしないという同級生が大半だった。
しかし、そんな僕を最大限に支えてきたのは、僕のおばあちゃんだと思いますね。そのおばあちゃんというのは、先ほどもちょっと校長先生の僕の紹介の時にお話にありましたが、ソビエト連邦ができる前のロシアで暮らしたことがある。というのは、僕のおじいさんという人はとても変わった人物で、五歳の時に家出をした。詳しく話をするとそれだけで何時間もかかるので省略しますが、ともかく祖父は小学校も中学校にも行かなかった。家出をして雨引観音の小坊主になったんです。ところが坊さんは死にそうな病人がいても念仏を唱えるだけで助けられない。それでこれは駄目だと坊さんに見切りをつけて、医者になろうと決心して東京に出た。お金がないから小説家の清書をしたり学生芝居に出て何とか食べながら勉強して、済生学舎に入って医学を勉強した。七年先輩には野口英世がいました。それで卒業して国家試験に合格して医者になりましたが、日本にいるのが嫌で、ロシアで医者をしていたんです。妻子を日本に残してロシアで暮らしていた。そしたら第一次大戦が始まってしまって、一九一八年にはロシア革命が起きて、それで薬も何もなくなって、もうどうしようもないというので帰ってきて、そのまま日本で開業するかと思ったら、薬を調達したらまたロシアに行くという。それで祖父と妻、つまり僕のおばあちゃんは夫についてロシアに行くと決心して、実際についていきました。ロシアまで。そしたらば、なんとあろうか、こういうことを高校生に言っていいのかどうか分からないけれども、祖父は五、六年一人でロシアで暮らしている間に、女ができた。だからおばあちゃんが夫について行ったら、ちゃんと女の人がいたんです。自分の夫と一緒の家に暮らしていた。これはもう大変ショックだったでしょう。おばあちゃんは、その時、僕の親父と僕の叔母さんを連れて行った。父は八歳、叔母は五歳だった。そんな小さな子を二人も連れて、着物姿で極寒のロシアに行ったら、向こうには見知らぬ女が妻になっていたんですから、どんな気持ちだったか僕には分からない。
それでどうなったかということを、これを詳しく話すと、少なくとも五、六日はかかりますからやめますが、もしも興味のあるかたは、『氷雪のバイカル』という本を僕は書いて筑摩書房から出版していますから(笑い)、ぜひともこれをお読みください。これを読むとね、なぜロシア革命が起きたのか、なぜ日本軍がシベリア出兵したのか、そして日本の兵隊がどういうふうに雪の中で過ごしたのか、第一次世界大戦とソビエトとの関係は、そんなことが教科書よりもよく分かるように書いてありますから、まあ、これは宣伝めいていますが、書店で売っております。(笑い)
それでね、何しろ革命で、一年中鉄砲の音がして、人が死んだりしているんですから、こんなところには居られないということになって、祖母は帰るということになった。
そのときにね、こんなひどい男はきみたちの中にいないと思いますよ。祖父は「私はまだ帰れない。おまえは子どもたちと先に帰れ」と言ったんです。
今のロシアと違いますよ。戦争をやっている、革命の最中です。汽車もろくすっぽ走っていない。ようやく切符を手に入れて軍用列車に押し込んで、八歳の長男と五歳の長女、それから着物姿で下駄履きの妻を日本まで帰したんです。
父はその光景をはっきりと記憶していて、僕に語ってくれました。イルクーツクの近くにバイカル湖がある。その湖が何十メートルもの厚い氷になる。日本軍は凍った湖に鉄道のレールを敷いて軍用列車を走らせました。その鉄道に乗って祖母と二人の子供は帰国の途についた。祖母はその時二十代ですよ。
その列車の中で祖母は発熱した。四十度の高熱です。軍医が診察して、流行のスペイン風邪じゃないかと診断して、兵隊への伝染を恐れて、三人の親子を、雪原の中に降ろしちゃった。病院へつれてゆく付き添いの兵隊も付けずに、親子三人を捨てたわけです。
シベリアの真ん中のチタという駅です。真冬ですよ。若い女性が子どもを連れて、しかも着物を着てですよ、そして大きな荷物を持って発熱している。その病人を列車から降ろして日本軍は行ってしまった。
祖母は絶望したでしょうね。自分は高熱で子どもはまだ八歳と五歳。真っ白な雪だ。
どうしよう、どうしようと思いながら、大きな行李を持って、雪の上を引きずりながらようやく駅の構内まで行った。ロシア人はうさんくさい顔をして見ている。革命の最中ですし、日本軍が侵入しているんですから、みんな知らん振りをしている、日本人なんか死んで当たり前。日本軍が入ってきたから当然ですね。祖母は死ぬ覚悟をしましたが、二人の子どもの事を考えると死ぬ事はできない。零下四十度。祖母はチタ駅で二人の子供を抱えて途方に暮れて震えていたそうです。
父はこのときのことをはっきりと記憶していて、それ以来、軍隊とか組織というものを嫌いになったらしい。女子供を見捨てるような男や軍隊を信用できるか、とそう思うようになった。だから父は絵を描きますが、男性はほとんど描かない。男は嫌いになったんですね、本能的に。だから僕のことも好きじゃなかったんです。その代わり美しい女性と子供の絵は数え切れないほど描いてますよ。
しかし、捨てる神あれば拾う神ありという諺通り、奇跡が起きた。古賀さんという人物が、雪の中に突然現れたんです。
先ほど僕は「氷雪のバイカル」という本を書いた話をしましたが、書きながら、古賀さんという人はスパイに違いないと思いました。古賀さんは伊集院さんという人と一緒に飴を売りながら、スパイ活動をしていたんですね、おそらく。ところが伊集院さんという人がピストルで撃たれて死んでしまったので、古賀さんは突然日本に戻るということになって、挨拶に祖父の医院を訪ねてしばらく滞在した。その時祖母はずいぶん古賀さんを世話したようです。しばらくして古賀さんは帰国の途についた。その日本へ帰ったはずの古賀さんが、雪原の中から突然姿を現したんです。
遠い真っ白な雪の中に黒い点が見えて、それがだんだん大きくなってきて、そしてようやく目の前に来たら、顔を近づけて、
「マダム、こんな所でどうしたんですか!」と言って、馬車を読んで、病院に連れて行ってくれた。
これはね、祖母が何回も僕に話して聞かせてくれたことですから、作り事じゃあないですよ。
祖母はこうして日本に帰り着いて、子どもたちを育てたんですが、じゃあ祖父はどうなったのか、それはまた別の機会にして、祖母は僕が高校生活に悩んでいるのを見てとても心配した。そんなある日、僕が一高に嫌気がさして、医者にもならない、高校も辞めたいと言った。そしたら祖母は、
「おまえは悩んでいるのかもしれないけれども、学校をやめたいとか、医者になるのはやめるとか言っていても誰も助けてはくれないよ。もうだめだと思っても、そこでやめたら死ぬしかない。死ぬのが嫌だったら、歯を食いしばってでもやりなさい。やるだけやって、それであとは何とか助けて下さいと、そう思って死ぬ気で努力をすると、神様が人間のからだに姿を変えて、お前を必ず助けに来てくれる」。
僕は祖母が好きでしたから、その言葉を信じました。そしてなんとかやめずに真鍋の坂を上って登校していたわけです。
しかし成績は当然上がらない。しかし憎らしいことに、あんまり努力しなくてもできる奴がいるんですね。しかし出来る人間を羨んでばかりいても仕方がないので、僕は自分なりに勉強するようになりましたよ。
夏は蚊帳の中に机を置いて勉強をした。真冬は戸を全部開け放して、毛布を被って……手袋をはめてね、寒くてしょうがいないし手がかじかむ。しかしまるきり手袋では字が書きづらいから、指のところは全部切って、そしてやったもんです。
それで現役のときにとうとう受験の前になったらね、顔を洗ったら、洗面器が血だらけになった。あんまり長時間勉強したものだから、顔面が充血してね、鼻血がポタポタ垂れるんだな。鼻の中に紙を入れながら、便所に行くと、裂痔になっちゃって、血がダラダラ垂れる。(笑い)今、水洗だからね、よく分かるだろうけれども、昔は、当時は分からなかった。どうしてこんなにふらふらするのか分からなかった。何のことはない、毎日出血していたから貧血したんだね。それでね、あるとき、ちり紙をよく見たら、いつもはあんなものはよく見ないけど、あるとき、つくづく見たら、真っ赤なんだな。それで親父に「俺はこんなふうに赤いんだ」と言ったら、「う~ん、おまえも少しは勉強するな」と言ってね、それで血圧を測ってくれた。そしたら血圧が下がって、驚いたようだった。
「じゃあ、注射でもしてやるか」。
僕の親父は秀才だから、鈍才の気持ちは分からない。自分の息子の心配をしたことがない。心配してくれたのは、僕のおばあちゃんだけ。母は茶道に熱心で、息子には無関心だったですね。こんなに無関心な母親も珍しいですが、まああまり……、触れないことにしようか。(笑い)僕がインターン生の時に腎臓炎になってね、大学病院に三カ月入院した。生きるか死ぬかの瀬戸際で、三ヶ月絶対安静で入院した。大学病院に腎臓炎で三か月も入院というのは大事件です。当時成人性腎臓炎というのは、助からないっていわれていたんですね。ところが、おふくろも親父も一回も見舞いに来なかった。一回も。僕は入院する時電話したんですよ、
「腎臓炎になっちゃったから、入院します」
「ああ、そうか、入院しなさい」
それで来なかった。一度も来ない! そんな親いると思う? いるんですね世の中には、そういう変わった人が(笑い)。おそらく両親は現実を見るのが恐ろしかったんでしょう。雪山に登っているときにはいつも心配で神様に祈っていたそうですからね、僕に無関心だったというわけではないということは確かです。
それは後のことですが、受験勉強の時は心配してね、注射をしてくれた。ああ、親ってのもありがたいことをしてくれるもんだと心から感謝しました。
しかし、僕を無条件で愛してくれたのは祖母とお手伝いのねえやちゃんだけだったと思う。ねえやちゃんというのは、僕が二歳の時に子守に来てそれからずっと僕の家に同居しています。
人間は自分を無条件で愛してくれる人のためには相当に強くもなるし、努力もします。両親がもしそうだったとしたら、その人はよほどの幸運ですが、この世で一人でも、そのような人にめぐり合えるかどうか、それがその人の運の分かれ目ですね。
いずれにしても努力の割に成績は上がらない。それで現役の時は、慶応の医学部を受けて落ちたわけです。全然できない。物理なんか0点だったと思いますね。「井の中の蛙」って奴です。あの当時は、こう今みたいに偏差値なんかないから、自分がどの程度のものか分からないんだね。しかし分からないというのも悪いばかりではない。無鉄砲になれる。自分はこの程度だと、見切って諦めるということがなかった。
しかしもっと悪かったのはね、この会場には女性がたくさんいる。美人もたくさん・・・皆さん美人ですけども。あの当時の一高の同級生に女性は四人しかいなかった。たった四人の女性に近づくっていうのは難しいですよ。(笑い) だから、女性には全然口もきけない。そうしたらね、そんな時、僕の家に若い女性が下宿した。それは、僕のおばあちゃんはお花を教えて生計を立てていた時期があった。夫が、つまり僕のおじいちゃんですけれど、ロシアから帰ってくるまでの数年間、お華とお茶を教えて、暮らしていたわけです。その後本格的に修養して、古流と池坊と敷島古流の師範になって、それでも飽き足らなくて、千草流という新しい派を創ってその家元になった。そのお弟子さんで塚沢さんという方が北海道に帰って大成功して、何百人というお弟子さんを育てたんですが、自分の娘はお華の先生にはならずに「花柳流の踊りの名取りになりたい」と言うので、高校を中退して東京に来ることになった。しかしいきなり東京に出るのは危ないというので、僕の家に下宿したわけです。
そしたらね、踊りを習おうというぐらいの女の子だから魅力的なんだな。それで僕はいっぺんでまいちゃった。
彼女がね、水をくんで長い廊下を拭き掃除している。廊下をタッタッタッと行ったりきたりして、それから雑巾を揉み出す。僕はその様子をうっとりとしながら眺めていた。彼女は汚れたバケツの水を井戸端で捨てて水を汲んだりすると、僕の従兄弟がね、すぐ目の前に住んでいたんですが、その従兄弟ととても親しく話をする。遠くから見ているとどうも腹が立つ。それで頭がおかしくなっちゃってね、夜も眠れない。まあ、きみたちはそういう覚えはないでしょう。あるかな。
その気配を察して、おばあちゃんが心配した。こんな娘を置いたらとんでもないことになっちゃうんじゃないか、と、家から追い出しちゃった。といってもね、どこへ行くあてもなしに追い出したわけではない。ちゃんと市内の花柳流の踊りの先生のところに紹介して住み込みが出来るように段取りをして、親にも了承をしてもらって移らせたわけです。ところがそんなことしても、公園の向こう側の町にいるんだからね、顔を見たければすぐに行ける。
僕は単語帳かなんか持って、勉強をするふりをして、亀城公園を通り越して、その家の周りをぐるぐる回っていた。そうしたら、彼女は窓から僕を見つけて「あら、純ちゃんお入りなさい」と声を掛けてくれた。
玄関からあがったら、誰もいない。踊りの先生は留守だったんだな。そんな時に座敷に上げてくれたんですが、その時にどんな話をしたのか記憶がない。どれぐらいいたのか、今も思い出せない。ただおまんじゅうを食べただけは覚えている。ところがそれが大ごとになった。今だったら驚くことはないのかもしれないけれども、その当時は男女交際というのは大変なことだった。踊りの先生がその日の夕方、押し込んできたんです。
押し込むって知ってますか? つまり、怒鳴りこんできたというわけです。
「あなたのところのお孫さんは、何をしているんですか。もしものことがあったら、どうするんです!?」。
もしものことってどういうことか、僕はよく分からなかったんだけれども、大変なことだったらしい(笑い).
僕のおばあちゃんはもう本当にびっくりして、「おまえ、まさか玄関で別れたんだろう。上がったりしたりしないんだろう?」って言うから、「いや、僕は上がって、お茶飲んで、まんじゅう食ったよ」と言ったら、「はあ、もうだめだ」、と祖母は涙を流しましたね。あの気丈なおばあちゃんがね。
この時はみんな大変心配したらしい。僕がこのままでは堕落して、駄目になるんではないかとね。そこで姉の恋人の鴻田さんがやってきた。鴻田さんと僕の姉は婚約中でしたから週末になると遊びに来てた。鴻田さんは慶応医学部の四年生で、山岳部だった。その鴻田さんが東京からやってきた。姉から頼まれたんでしょうね。僕を呼びつけて、夕方、亀城公園に連れ出して、
「おまえ、女性って存在をよく知ってるのか。女性というのはな、いいか、学校も出ないで、職もなくて、惨めな姿をして、僕はあなたが好きですなんて告白してたからと言って、お前を好きになってくれると思っているのか。とんでもないぞ。女性というのはな、好きだなんて言葉で言ったぐらいでは絶対お前を好きになってはなれない。お前が好きな女の子は踊りの師匠になりたいそうじゃないか。それなら着物の一枚も買ってやんなくちゃならない。名取りにするには何百万もかかる。それが出来るのか。出来なければてんで話にもならないじゃないか。」
「・・・」
「おまえがな、もしその人がほんとに好きならば、勉強しろ。そして医者になって、着物を買えるような身分になったら、『僕はきみを好きです』と告白すれば向こうも承知するに決まってる。僕がお前のお姉さんを射止めたのも、僕の実力があったからだ。そうだろう。だからな、好きになってほしければ、勉強しろ。」とこうお説教した。これを聞いて、僕は単純だからね、
「そうか!」 それから一心に勉強したんです。(笑い)
女性に対する憧れというか、深い心の想いというものは、人間を変えますね。和歌に、あひ見ての後のこころにくらぶれば昔はものをおもはざりけり、という歌がありますが、あれはほんとのことです。人間が変わる。女は男を変身させる力がありますね。
しかしいくら心を入れ替えても、現実は冷酷です。やっぱり落ちたんですね。しかしどうしても慶応に入りたかった。なぜそれほど慶応に固執したかということですが、君たちの中には興味がある人もあるでしょうから、ちょっとその話をします。
その当時ね、やっぱり慶応の医学部というのは少し難しかったんです。冷静に考えれば、僕の実力では全然入れるようなところではなかった。だけど僕は、どうしても入りたかった。それはなぜかというと、僕の従兄弟の一人が、慶応の中学校から大学生なるまで慶応でしたが、時々会うと早慶戦の話をする。当時大学野球はプロ野球よりはるかに人気があった。なにしろ長島は立教大学の野球部で活躍していたんですから。
「早慶戦というのは、この世に二つとない素晴らしいお祭りだ。一回見に来い」。それから慶応のある三田の町の話をする。そしてある時叔父さんとその従兄弟がこの田舎者にも東京見物をさせてやろうというので、三田に連れて行ってくれた。
三田の大学を見たら、なるほどすごい。これはいい学校だなと思いましたけれど、おなかが空いたというと、ごちそうしてやるというので、細い路地を通って、トントンと階段を上がって、今でも思い出しますけれども、ちょっと瀟洒なレストランなんです。
きれいな女の人が注文を叔父さんから聞いて、やがて料理を持ってきた。
湯気が上がって、とても美味しそう。食べたらもう天にも昇るような味。それが生まれて初めて食べたトリの脚でした。今あなたがたはトリの脚なんて美味しいと思わないでしょう。ところが僕は、本当においしい! と思った。こんなものが世の中にあるのか、と思った。それで僕は慶応に入ろう、大学の近くにこんなおいしい食堂があるんじゃ、絶対に入ってやるぞ!(笑い)と思ったんですね。皆さん、大げさに思うかもしれないけれども、本当に僕は夢のような世界に見えたわけですね。
ですが、最も大きな影響を受けたのは福沢諭吉の書いた「福翁自伝」です。これは高校三年の時から浪人になってからも何度も読みましたが、何が魅力的だったかというと、緒方洪庵の開いた適塾の話です。そこには福沢諭吉や大村益次郎など大勢が勉強していましたが、その学問に対する態度が実に魅力的。みんな豪傑ですよ。勉強するのに着物を着ていては邪魔だというので、真冬でも裸で徹夜して勉学に熱中する。幕末の動乱期にこれほどすさまじい勉強をしていたのかというのが刺激的だった。それから福沢諭吉は慶應義塾を創るんですが、幕軍と官軍が上野の山で戦っている時に、大砲の音を聞きながら勉強している。今に学問が生きる時代が来ると、確信している。僕もこんな具合に勉強したいものだと、つくづくと憧れました。
現役の時は落ちて、浪人をしたんですが、予備校も秋にはおよそのことが分かったので途中でやめました。実は予備校時代にもいろいろな出来事があって、とても面白いんですがね、これを話していると明日になるからやめにして、どんな具合に自宅で勉強したかというと、僕の友だちに国友勝君という人物がいた。彼は数学、物理化学にかけては天才的にできる男だった。それで僕は解けそうもない問題があると、○を付けておいて、彼の入院していた霞ヶ浦国立病院に聞くにいったんです。
国友君は肺結核だった。肺結核で空洞があって、菌が出てたんですね。そのために、国立病院に隔離されていた。菌が出るのでだれも見舞いに行かない。感染が怖いというので、同級生も誰も行かない。彼の家族は何人も結核で亡くなっていた。だから近所の人たちも行かないわけですよ。しかし僕は医者の息子ですから、恐ろしいなんて思わなかった。父は医者ですから、「友達が寂しく療養しているのは気の毒だ。見舞いに行ってやりなさい」僕の父もたまにはいいことを言ったんですね。
それで僕は分からない問題があると、鞄に問題集をいっぱい詰めて、坂を担いで上って、彼と一緒に一日過ごす。彼は寂しいから、一生懸命教えてくれる。僕はその代わり、国語と英語、歴史なんかを教える。そうやって何ヶ月か過ごしていた。冬が過ぎて、とうとうもう少しで受験という日になった。
「今日が最後だな」
「そうだな」
「じゃあ、最後にちょっとこれを解いとこうか」
と、二、三題残しておいた難しい物理の問題を解いたんです。そして
「じゃ、行ってくるぞ」
「がんばれよ」
というわけで、出かけた。
試験が始まって、まあ何科目かで、これならばという感触を得て、とうとう物理の試験になった。去年は、0点だった。見たこともない問題ばっかり。さあ、今年はどうか。
問題が配られて、白い試験用紙の裏が見える時、あのいやな気分ってあるね。こうやって配られてさ、パッ、と開けると、ああダメだ! あの気持ち分かるだろう?(笑い)
君たちが秀才ばかりだったら、分からないけれど、僕はあの気持ちは何ともいやだったなあ。
で、その時の慶応の試験場で、その時が来て、意を決してパッと開けて見たら、全然見たことのない問題。
「ああ~駄目だ」。
全問で三題しかない。三題で百八十分ですから、一題六十分ですよ。そのうちの一題目が解けない。おそるおそる二題目を見たら、これも解けそうもない。
頭が真っ白けになった。きみたちも今にそういう味わいをするんだからな。よく覚悟しときなさい。(笑い)
いやあ、そう本当に、キンタマが縮み上がるっていうけど、そういう、キンタマがない人はしょうがないでしょう。(笑い)
そういう思いをしますよ。クーッ! と血がのぼってね、何にも見えなくなっちゃうんだ。もうどうしようもない。もう涙も出ないね、舌が渇いて。もうこれで、今回これでおさらばかと思ったでしょ。死ぬ思いで三題目見た。そしたらかすかにこうおぼろにね、それが見えてきた。何だこれは。これはほんとなのか。
何と、それは、最後に、国友君と一緒にやった問題だったんです。あの問題が出たんです。ほとんど同じだ。
奇跡だ。いやあ、驚いたですね、これには。大変難しい問題で、電磁場と電子の関係の問題だったんだけど、二人で苦心して解いた問題ですから、すぐ解けた。六十分のところが十分ぐらいで解けちゃった。それでパッと上の問題を見たら、
「なあんだ、こんな問題か」とたちまち解けちゃった。見ただけで、解けちゃった。不思議ですね、何か不思議な力が取り憑くというのは。(笑い)
もうね、三、四十分で、難しい問題が全部解けたんです。で、僕は三回見直したらね、まだ六十分しかたってない。百点満点は確実だ。
それで、いやあ、周りのみんなはどうしているのかな、と思ってあたりを見回したら、みんな必死で苦心している。
「ああ、これはみんなできない奴らばかりかな」、と(笑い)、初めて僕は秀才の喜びというものを味わいましたね。
きみたちはそうでなくて、いつも良い思いをしているのかもしれないな。しかしそうすると逆にとんでもない目に遭うぞ。そういうわけで、僕はね、本当に偶然に拾われたわけですよ。だから、友情というのは大切ですね。国友君は二年間療養して、現在は薬科大学の教授になっています。僕は彼の恩というのを忘れたことがないですよ。
それから僕は大学に入りましたが……
もう疲れたろう、もうやめようか。まだ、いい? ちょっと、こう手を伸ばそう。ああ、僕は疲れちゃった。人生は長いね。(笑い)
でも、まだ二時三十五分だから、まだまだしゃべれるな。僕はしゃべらせたら、明日までしゃべれるけれども、あなたがたが付き合うなら、いつでもしゃべりますよ。でも、ちょっと飽きたなと思ったら、入り口が開いていますから、外に出て背伸びして、オシッコでもして、また戻ってきおいでなさい。
それからどうなったか、大学に入ったら、それまでの出来事はすっかり忘れちゃった。きれいさっぱり、高校時代の苦労もなにもかも忘れた。踊りの彼女のこともわすれちゃった。目の前の世界があまりにも大きくて、エネルギーが渦巻いて、すばらしいものだから、新しい世界の力に触れて、変身してしまったというわけです。
第一に、世界的な学問をしている人物にじかに出会った。それは大変なショックです。たとえば、これは専門課程の先生で教えていただいた加藤元一教授という方は、生理学でノーベル賞候補にもなった人物で、「不減衰伝導学説」という神経細胞の刺激伝導理論を確立した世界的生理学者です。背が高くて、まるでドゴール大統領を上品にしたような姿をして、もう八十は過ぎていたでしょうが、老人という言葉とはまるで縁のない素晴らしい姿をしている。世の中にはこんな立派な人物がいるんだ、と驚きました。加藤先生はやはりノーベル生理学賞の候補だったキャノン教授と共にスェーデン選考学会でどちらの研究が優れているかを決めるためにシベリア鉄道に乗ってはるばるその学会に出席した話を聞かせてくれる。なんとも痛快、血沸き肉躍る講談のような話です。
それから五島雄一郎という講師は三十そこそこでしたが、脳神経の講義をはじめると、百二十分間、立石に水というようにまるでテレビ映画でも演じているように縦横無尽に話をする。その流暢さと見事な理論にはただ目が回るばかり。
それからどんなことが起こったか、それはいちいち話していたら何日あっても足りませんから省略することにして、僕にとって一番の出来事は山岳部に入ったということです。
なぜ山岳部に入ったかというと、兄貴との約束だったんですね。兄貴というのはさっき話したように僕の姉の旦那で、慶応の医学部の山岳部の先輩だった。「おまえが慶応に合格したら、絶対に山岳部に入れ。もし合格しなかったら、弟として認めない」というので、約束を守って入ったわけですが……。何が僕は山岳部に入ってつくづくよかったと思う。人生を楽しむということを覚えた。徹底的に遊んで楽しむ。徹底的に苦しんで遊ぶということ。それは学問と両立するんだということですね。それを学んだことです。
僕はどんなふうに登ったか。まず山岳部に入ると、新入山行がある。新人歓迎会。これは箱根で気を失うまで酒を飲まされて、相撲を取って、気がついたら朝になっていた。次に五月山行。この時も死ぬ思いでしたが、この話も長くなるから省略して、六月は岩登り。七月、八月は夏山。九月はね、まとまった試験があるから、これは抜けられないけれど、十月は秋山。十一月は富士山、十二月は厳冬期というわけで、大体八十日間登るんですね。で、これでも足りないと思う者は三田の山岳部に行って一緒に登る。三田の山岳部からは八千メートルのマナスルに初登頂した槇さんなどが先輩にいましたから、一年間のうちに百三十日登ります。今はそんな人間はいなくなったようですが、僕らの頃はうじゃうじゃいたんです。
じゃあそんな奴はバカばかりだろう、と思うかもしれないけれども、そうじゃない。テントの中ではさまざまな話が出る。何しろ二十四時間も先輩たちと寝起きしているんですから、人生論から音楽、女性論、それは話は尽きない。
先輩の一人に後に国立がんセンターの初代所長になった石川七郎先生がいた。先生は当時まだ慶応の助教授で、僕が入学した時には、吉川英治という、中学の時に夢中になった小説家の主治医でした。『宮本武蔵』とか『新平家物語』『親鸞』そういったものを書いた大作家です。ぜひ皆さんお読みになってください。その人の主治医だった。僕たちは石川先生の山岳部の後輩ですから、「遊びに来い」というのでみんなで家を訪ねて行ったら、
「これを見なさい」と巻物を取り出して、さーっと床に流した。流麗な筆文字の巻紙の手紙だけど、全然読めない。
「これ、何ですか?」
「吉川英治先生が私に感謝の手紙を下さったんだ」
先生はまるで子供のように嬉しそうだ。たしかに見れば見るほど見事だ。それ以来、僕は巻紙の手紙というのに憧れましたね。
山岳部の同級生には、緒方洪之という人物がいましたが、彼は緒方洪庵、あの「適塾」を作って福沢諭吉を育てた洪庵のひ孫にあたる男です。実に論理的な個性に満ちた男で、高校の時にはこんな人物におめにかかったことがない。何しろ脳全体が理論で固まってる。僕は彼と夜を徹して議論して、ずいぶん鍛えられました。親友になって、今でも一番親しくしています。
それから大久保利晃という同級の山岳部員がいましたが、彼は大久保利通のひ孫です。これが実にまた沈着冷静な男で、彼には命を救われました。これは後で話しますが、今は九州産業医科大学の学長になっています。一学年下に伊藤恵康君がいましたが、彼は整形外科の名人になって、プロスポーツの選手の多くは彼の世話になっている。アメリカ大リーグで活躍している佐々木大魔人の腕の手術をしたのも伊藤君です。
だから山岳部というのは面白かった。話し始めたらどこまでも終わらないほどさまざまな経験をしました。とにかく僕はここで人生の楽しみを山ほど味わいましたが、また同時に人間の限界というものを思い知らされたんです。
慶応というところは先輩も後輩もみんな平等だという考えがある。だから荷物も秤で量って、同じ重さの物を分担して持つんです。僕らのときも、大体一人三十五キロから四十キロ渡される。これに個人の荷物を加えて担いで登るわけです。
入学して一月後の五月に渡された物を持って下宿に帰ってキスリングという大きなザックに詰めて、さあ、いよいよ明日は塩見岳という南アルプスに出発する晩にね、夜行列車に乗る時刻が迫っているので、下宿で用意した荷物を背負って駅へ行こうと思ったら、全然動かない。
僕はそのとき受験後の衰弱から回復していなくて、五十キロちょっとしかなかった。ところが、荷物が四十五キロあったんですね。それで全然動かない。筋肉が衰えて痩せガエルそのもの。仕方ないから下宿のおばさんに、「手を貸してください」と頼んで、二人でズルズルズルと玄関まで引きずって、僕が土間に屈んで、おばさんが後ろから押して、ようやく背負った。そしたら、そしたらおばさんが、
「ちょっとお待ちなさい」
「?」
「あなた、どこに行くんです、そんな格好で?」
「今から南アルプスに登るんです」
「あなた、冗談じゃない、おやめなさいよ。下宿から出られない人が、どうして山に登れるんですか!?」(笑い)
だけど僕はなんとしても行かなくちゃならない。もう夜でしたが、当時はまだ都電が走っていた。その都電の停留所まで、よろよろ歩いていった。ようやくたどりついたら乗客が同情して引き上げてくれた。しかし一旦荷物を下に降ろしたら二度と立ち上がれないと分かっているから、必死の思いで棒につかまって、そして上野まで行ったわけですよ。
だから、まともな頭の持ち主だったら、それでやめますよね、絶対。最近の学生は山岳部に入らないということだそうですけども、それは利口な人たちかもしれない。
僕らは夜行で塩見岳に向かったわけですが、それほど非力な人間がどうして登ったかというと、大体普通は五、六時間で登るところを十五時間ぐらいかかったんです。その時の山岳部の者は総勢十二、三人でしたが、新入生は三人いた。その中で僕がいちばん先に倒れちゃった。倒れた僕を、みんなじっと見下ろしてる。だれも助けてくれない。ようやく立ち上がる。よろよろと少し行くと、また倒れちゃう。そうすると、また黙って見ている。その悔しさというものはないですよ。
「おい、いいかげんにしろよ」
やがて雪山の傾斜になる。先輩たちは堅い雪の上をタッタッタッと平気で上がる。ところが僕は、ブスッともぐっちゃう、雪の中に。熟練しないというのは、恐ろしいことですよ。つまり、職人の恐ろしさというかな、歩き方にも職人がある。雪の斜面と靴と平行にして、そろりと置くと、もぐらない。ところがやたら力をいれて歩くとたちまちズボリともぐる。
ようやく這い上がると、また落ちる。その時僕はね、山岳部の人間というのはこんなに冷たいものかと思いましたね。こんなに僕が死にそうに苦しんでいるのに、誰も助けてくれない。
一歩歩くんだってですよ、荷物はこう肩に食い込んで、そして胸が圧迫されるから、息ができない。ハァハァハァ、こんなになっちゃう。(笑い)
そうしてね、手が荷物の重みでこう後ろにひかれる、前に引く筋肉がないから両手がパンパンに紫色に腫れ上がって、二倍にもなって、顔は引きつって、グァグァ(笑い)、こんな格好でこんなになって歩いているんですよ。それでバランスを崩して倒れる。
倒れているのを助けようともしない。何だ、これは。こんなひどい奴らのところにどうして入ったんだろう。俺は後悔しました。
崖の所にさしかかったときに、思わず、ここから飛び降りて死にたい、と思った。死んだら同情してくれるだろう。こんなひどい人らだって、ぼくが死んだら可愛そうなことをしたと思ってくれるにちがいないと思ったんですね。
ぼんやり歩いていたらまたバタッと倒れた。これを見てリーダーが、これではしょうがないから、じゃあこここで休もうじゃないかということになった。僕はもう気絶しそうになって、それでも周りが気になって、呆然として、横の方を見たんですね。そしたら先輩の一人が、これは水上さんといって、今では日本で脳外科の三指に入るというほどの名人になっていますけれども、その人がへたりこんで座っていた。そしてね、青い顔をして、なんか一生懸命やってるんですね。何だろう、と見たら、缶詰のラベルを剥がしてる。それというのはね、水上先輩も苦しくて、ちょっとでも軽くなりたい、ちょっとでも持っている物を捨ててやりたい。ところが缶詰を捨てるわけにいかないから、缶詰に貼ってあるラベルの紙を捨てようと考えた。それで紙のラベルをはがしてたわけですよ。紙なんかはがしたってどうにもならないということは、冷静な頭で考えれば分かるんだけど、必死ではがしてる。だからあとから食べようというときに、何の缶詰だか、全然分かんなくなっちゃった。(笑い)
そうやって、ようやくたどり着いた。「さあ、ここだぞ」そうから、ああ、うれしいやと思って見回すと、何もない。雪のちょっとした平らな所です。
「先輩、ここでどうするんです?」と聞いたら、これからテントを張るという。雪がこんなに積もってるんです。どうやってこんなところに張るんだろうと思ったら、みんなで肩を組んで、こう一列横隊になって、ガッガッガッと、雪を踏んで固める。もう星空の下ですよ、雪を三十分踏みしめて平らにして、そこにテントを張って寝たわけです。
「先輩、枕がないですよ」
「靴を枕にするんだ」
言われたとおり靴を枕にして横を向いたら、足がある。狭い二張りのテントに六人ずつ寝るから、隙間なんてない。寝返りも出来ない。頭と足と交互にして、横になる。こんなところで寝られるのか。
しかしくたびれているからたちまち寝てしまった。夜中、目が覚めた。寒くて、ガタガタ震えて。そして小便がしたくなってテントから外へ出たんです。そしたら見たこともないようなきれいな空。
満天の星。まあここらでは絶対に見ることの出来ない夜空です。あんなきれいな夜空は見たことがない。星がこんなに大きい。うそだろうと思うんなら、行ってごらん。こんなに大きい。それが満天に輝いている。いやあ、すごいなあ!
そしたら熊の鳴き声のような音がするんですね。ゴォー、ゴォーと。何だろう? よく聞いたら、それは先輩のイビキだった。(笑い) 。
もうね、山と同化してるんですね、ああいう人は。大変な人たちがいるもんだ。あれだけ苦しい思いをして、寒くて震えて眠れない。シュラフ一枚。下は雪ですから。それが先輩はヘッチャラで、ゴォー、いびきをかいて熟睡している。その人はがんセンターの外科部長になってますけどもね。大変なエネルギーですね。それで僕は、ああ、そうか、人間というのはこういう人たちがいるんだ。初めて人間のたくましさ、高校時代とはまったく異質の種類の人間に出会ったわけです。
それからね、スキー合宿ってのもありましたが、これは簡単にお話しますが、無鉄砲の一言です。僕は全然スキーを履いたことがなかった。それでもシールというのがあって、スキーの裏側にアザラシの皮を付けて、荷物を担いで歩く。そうすると上がることは何とか上ぼれる。ところが下りはどうにもならない。
小屋までは新雪が何メートルも積もった傾斜を降りなければならない。
先輩はスーッと荷物を背負ったまま気持ち良さそうに滑って行く。新雪のこんなに積もった山の斜面をスイスイと降りて行く。
「おーい、早く来い」「おい、降りろ」。
滑ったこともない、履いたこともないスキーですから、来いと言われても滑れない。たちまちバタンと倒れた。荷物が背中から前に滑って前に、つんのめった。そしたら手がね、前にこんなふうに逆さづりのようになったんです。荷物がこう前に。雪の中にもぐってね、窒息死しそうだ。(笑い)
みんなが笑ってる。笑って、だれも助けない。「ああ、もう死ぬ!」と思ったら、荷物をガンと蹴っ飛ばして、ハア~とようやく息が出来た。こうやって数え切れないほど倒れて、。そうやって何時間降りたことか。
しかしそんなことをしながらですね、不思議なことには、四十五キロの荷物を背負って、何日か雪と格闘してるいと、何とか滑るようになった。合宿が終わって、山を下りて、ゲレンデなんかに行ったらもう曲芸のように滑れる。何しろ整地してある場所だから新雪を滑っていた人間には遊びです。曲がるときには、ただ曲がるのはもったいないというわけで、サァーと全速で滑り降りて、ポーンと飛び上がる、二、三メートル。……それは無理だな。一メートルくらい飛び上がる。(笑い)それでからだをキュッとひねって、パッと降りる。そうすると、ゲレンデにいる人は驚きますね。そんなのは当たり前ですよ。荷物を背負って、死ぬ苦しみをしてきたんですから、平らな所なんかもうなんてことない。人間という鍛えれば鍛えるほど強くなる。それは、そういうときには思いました。
ところが、世の中って甘いことばかりじゃないね。僕の先輩は三人も死にました。一人は剣岳で岩登りをしていて、ハーケンが抜けて墜落した。後輩も谷川で、墜死にました。それから僕の先輩が二人、富士山の雪崩に埋められた。これは三人流されて二人埋められて亡くなった。
僕もね死ぬ寸前の目に遭いました。白馬で遭難したんです。大久保がリーダー、僕がトップ、後ろに二人、その四人で雪山を上っていた。ドームのような大きな壁を、朝早くから登って、五、六時間上がってもう少しで頂上。乗鞍岳という白馬の北の所ですけれども、そこまで行ったら、氷の壁になっちゃった。垂直の壁になっちゃったわけです。ルートを誤ったわけですね。それで、このまま行ったんじゃ到底登れないというので、ちょっとトラバース、こう行ったところを、こう横に歩き始めた。みんなが横に歩き始めたその瞬間、ドーム全体が、ザーッと崩れたんです。
そのとき僕はつくづく知った。学問というのはいざという時には役に立たない。
というのは、僕らは雪崩があったらどうするか、ちゃんと勉強してた。そりゃあ、山岳部というのはいつも危険にさらされているから研究するわけです。たとえば雪崩が起きたらどうやって逃げるか。そんなことを議論したり、研究したりするわけです。
授業が終わるとすぐに山岳部の部室に行く。そこでいろんな研究をする。雪崩に備えて毛糸のヒモをこうくっつけてそして、埋められたときにそのヒモをたどっていけば助かるとかね、雪が来たら泳げ。ところが実際に雪崩に遭ってみたらとんでもない。そんなもんじゃない。何もできない。アーッという間にもう埋められた。
僕はそれまでは山で死んでもいいと思って登ってました。雪の積もった壁を上る時には相当の覚悟がなくちゃ登れない。ところが、実際自分がそうなってみると、死にたくない。
その苦しさったらないですね。あなたがた、口に、手をこうやって、三分間息が出来ないようにお互いの口をぴったりと塞いでごらんなさい。たちまち怒るから……。(笑い)
苦しくなって「離せ!」っていうだろ? 五分間やってごらんなさい。死にますよ。
ところが雪は、「やめろ」って言ったって、許してはくれない。どっからでも入ってくる。それこそね、ケツの穴まで入ってきたんじゃないかぐらいの圧力ですよ。目玉なんかカーッと押されて、口の中まで入ってきて、あとから堀り出されたときには、血があたりに染みていた。唇も舌も切っちゃって。雪崩というのは窒息死、あるいは圧死ですね。
こんなに苦しみながら死にたくない。無我夢中でもがいた。そした奇跡が起きた。
僕のこの手だけが出たんですね。そして、そこからですね、僕は意識を失ってたかどうか分かりませんけども、スーッと何かが入ってきた。それが空気だったんです。
今ね、こうやって皆さん当たり前に空気を吸っているけれども、これはありがたいものですよ。大変な宝ですよね。空気の甘いこと。そのうまさ。
手が雪の中で外に出た。その向こうに青い空が見えた。この空もね、これは焼き物の青磁の色だといわれているんですが、景徳鎮の本物の青磁の色というのは、「雨後の晴天」といわれているわけですけどね。これは中国の清の時代に朱炎という人の書いた『陶説』という本に書いてあるわけです。雨後の晴天、今まで真っ暗だったところに、急にパッと青い空が見えた。その空は、もう今までの空じゃないんですね。「アァー、俺は生きてたんだ」、こう思いましたね。
ところがその次の瞬間には、ものすごく不安になっちゃった。一体僕は助かるのか。誰かが助けてくれなければ凍死してしまう。何しろ全身は埋められて、手の先がわずかに出ているだけですから、自分では全く動けない。あなたがたも、一度雪に埋められてごらんなさい。まあ、そうしたことはないほうがいいかな、奇跡が起きなければ死ぬからね。
それでね、不安に思いながら埋められていたら、どこからか声がする。
「おーい、どこにいるんだ?」
「オーイ」
すると間もなく細い穴の向こうに、人のような顔が見えた。
「おい!佐賀、生きてるか?」
「生きてるぞ!」
それは大久保だったんです。
僕を含めて三人が埋められて、大久保だけは雪崩に乗って、ずーっと下のほうに流されたんですね。それで辺りを見回したら、だれもいない。夢中で駆け上がってきて探した。そしたら、竹内、これは二十八歳で慶応の教授になった男ですが、そいつがね、こっから上、首だけ出してあがいていたんだね、後から聞くと。それで「おまえ、相田はどこにいる?」と聞いたら、下を目で差す。相田は学園闘争のリーダーをやって、今は群馬国立病院長をしていますけれども、そいつが竹内の尻の下に埋められていた。
大久保は急いで掘り出したら、気を失って、目は散瞳していたそうです。
僕はしかし不安でしたね。だって大久保が来る前に小さな雪のかけらが転がってきて、ふっと穴を塞いだら僕は死んじゃいますよ。夜になったらもう、どうしようもない。
しかしもし大久保が、僕を先に掘り出していたら、相田は死んでいた。瞳孔が開いていたんですから窒息死です。また、大久保が流されて、そして怖がってですよ、こんな傾斜ですから、また雪崩が起きるかもしれない。「俺、やめた」って、逃げ出していたら、三人は死んだわけですよ。
しかし危険を冒して駆け上がってきたというのは、やっぱり大久保利通の子孫だけあると、僕はそのとき思いましたね。まあ、彼には今でも頭が上がらない、という気持ちがします。
まあ、こういったことが、この人間の一生を分けるひとつの出来事になっておりましたが、僕にはそういった不思議な出来事が何度も重なって起きた。しかしこれからそれを話し始めると大変なので、すべてカットして、二三のことだけお話しをして、それからね、まとめにいきたいと思います。
一つは、重大な経験したことです。僕が大学に入学した時、六十年安保の年で、なんというか、今の若い人には想像も出来ないし、説明してもとても分かってもらえないような猛烈な学生運動というのがあって、慶応からも毎日三千人ぐらい出て、国会にデモをしたりしていましたが、それから五年後、僕が医学部の五年の時に授業料値上げ反対闘争というのがあった。突然授業料が二倍にも値上げするというので、学生たちは一斉に反発してストライキに突入したのです。早稲田や明治などでも同様の動きがあって、ストライキをしました。慶応は三ヶ月も授業放棄のストライキをやって、三田の校舎も僕たちの信濃町の医学部も反対の立て看板とビラで埋め尽くされたんです。その詳しい話をしているときりがないので省略しますがその時、慶応の学生の闘争方針にはひとつの原則というものがあった。それは、「ストライキをやるについては、互いの自由を侵害してはならない」というものでした。
学生の多くは「授業料値上げ反対」は正しいし、そのためにはストライキは必要だ、授業放棄もやらなければならないと考えていたんですけれども、中には、「いやも僕はそんなことより授業を受けたい、学問をしに大学へ入ったんだから、ほかの事に時間を浪費したくない。」という者が必ずいる。そうしたとき、ともするとそのような全体の方針に反する学生は「異端者」として、村八分のように扱われがちなんですね。みんな興奮して、異常な雰囲気になっているから。
顔をあわせても一切口を利かないとか、あるいは、教室にバリケートを張って通さないというようなことをやったりする。闘争というのは、勝つか負けるかだから、内側から裏切り者が出るのをひどく恐れるし、闘争方針というものもだんだん過激になって、しまいには暴力的になることが多いんです。しかし僕らはストライキをするに当たってはさんざん議論して「暴力は絶対に使わない。他人の意思と自由を侵さない」ということをはっきりと決めていた。
慶応の精神はどこまでも独立自尊なんだから、自分の行動は自分で決定すべきだ、他人が強制する権利はない。またこの運動はあくまで授業料値上げを阻止が目的なのだから、特定のイデオロギーや過激な政治思想に利用されてはならない、ということは共通の認識になっていた。ですからお互いに行動の自由も思想の自由も尊重しなければならないということで、医学部でも一割ぐらいはストライキには参加しなかったし、講義はストライキとは関係なく行なわれていた。教室はガラガラだったようですが、それでも教授たちは出席した学生を相手に授業をした。
数年後にインターン制度廃止闘争というものもあって、全国の医学部学生は一年間ストライキをして、厚生省前に座り込んだりして、国家試験ボイコットまでやりました。厚生省が医学研修制度を改革しないなら、「医師になるための国家試験を受験しないぞ」と主張して、国家試験をボイコットした。つまり、受験しなかった。医学部を卒業したけれど、医者になることを拒否して、政府と対決したわけです。慶応も当然参加しましたが、ストライキに参加する、しないの決定はそれぞれの自由だという方針を最後まで通しました。他の大学の中には暴力闘争も辞さないという執行部もあったし、スト破りはかなり厳しく制裁されるようなことがあったようですが、慶応ではそれはまったくなかった。この時は僕と大久保と何人かが慶応の代表で、他の大学に行って慶応の方針を演説したりしましたが、東大とか東京医科歯科大学はとても急進的な方針でしたから、慶応とは合わなくて、僕は演説の間にずいぶん野次られた。それでも方針は貫き通しました。僕は途中で腎臓病になって入院しましたので、その後は大久保がリーダーになってまとめて、厚生省、今の厚生労働省が折れて、インターン試験制度は正式に廃止されることになった。医師国家試験をボイコットしたのは、この制度が定められてから僕たちと次の学年だけでしたでしょう。
まあ、こんな具合で今の学生からは想像も出来ないほど激しい学生時代でしたが、インターン闘争の前の授業料値上げ反対闘争というのも実に激烈なものでしたからね、慶応義塾大学創立以来の大事件で、三か月後には学内が革命の町みたいになっちゃった。しかし、いくら自分たちの言い分が正しいと思ってストライキをやっていても、どこかで解決しなければならない。そこで学生の代表と大学側とが三田の会議室に集まって協議することになりました。各学部一名ずつ出席することになって、僕は医学部の代表としてその場に出ましたが、大学側からは各学部の教授と高村塾長が顔をそろえていました。
あれこれと議論して、値上げについては大学も学生の言い分をだいぶのんで、妥協するということになったのですが、最後に処分をどうするかということになった。なにしろ僕たちは三ヶ月も大学を乗っ取って、医学部では、松下学部長を学部長室から追い出して煮炊きまでしていた。松下学部長はある人たちから「学生に学部長室を乗っ取らせていて良いのですか。他の大学のように警官隊を導入するべきではないのですか」と強く迫られたのでしたが、学部長は「なあに、学生もそのうち飽きて出て行きますよ。僕の仕事はあんなところにいなくてもどこでもできるんですから」と警察の力を借りるとういうようなことは全く考えなかったという。この話は後から聞いたんでしたが、もし学部長が警察の権力に頼って問題解決を図っていたら、その後の慶応大学というものはまったく異質の大学になっていたにちがいない。これには僕は感謝しています。
しかしそうはいっても、いくら寛大でも学部長室まで占拠したんですから、僕も処分は覚悟していたわけです。
全学の学生代表は、確か法学部の寺田という学生だったと記憶してますが、彼が「我々学生代表はいかなる処分も甘んじて受けるつもりですが、その他の学生については処分をしないと約束して欲しい」と申し入れた。すると、その時の法学部長の永沢邦男教授が、この方は高村塾長の後に塾長になった方ですが、それまで黙ってパイプの煙をくゆらせて、他の教授と目配せしてからこう言ったのです。
「君たちは学問の府である大学を思ってあれほどに激しい闘争をしてきた。われわれも同じ思いで大学を運営している。その同じ目的を持っているわれわれが、前途洋々たる若者を処分するなどということがどうしてあるだろうか」
僕たちは言葉がなかった。世の中にはとてつもなく心が広くてやさしい人間がいるものだと、つくづく思い知らされた。
福沢精神は死んでいなかった。どんなときにも人間を生かそう、未来を見つめている若者を大事に育てよう、そうした精神が生きているんだ、ということを、この時に実感したんです。
他の大学ではずいぶん退学処分になったようでしたが、慶応はこうしたわけで一人も処分されなかった。僕は高校の時、なんとしても慶応に入りたいと思っていましたが、この時、心底、この大学に入ってよかったと、つくづく思いました。あの時からずいぶん長い月日が流れましたが、あの時の永沢教授の姿は忘れたことはない。あのような人物が本物の教育者というんでしょうね。 みなさんもこれからそれぞれに進学するわけですが、ぜひ、すばらしい人々に出会って、世界って広いんだ、人生というのは思いがけない出来事が待っているんだということを満喫していただきたいと思います。
僕は大学を卒業して慶応の耳鼻咽喉科・頭頸部外科に入局して、二年ばかり国立栃木病院に勤務ましたが、どうしてもとアメリカで勉強したくて、アメリカの医師国家試験(ECFMG)を受けました。すると運良く合格したので、行くことにしたんです。
大学病院に行きたかったけれど、空席ができるまでハワイの病院に勤めることにしました。それがクアキニ病院です。なぜハワイにしたかというと、これまで苦労したんだから、数年間は遊びながら病院勤めをしたいものだと思ったんですね。しかしハワイといっても大きな病院はホノルルにしかない。それも二つだけです。ところが世界には僕と同じようにワイキキで遊びながら勤務医の仕事もしたいと考える若い医者はワンサといるんですから、大変な倍率。採用してくれるかどうかこればかりは分からない。しかし応募すると向こうの病院から「正式に応募するには医学部長と教授二人の推薦状が必要です」と連絡があった。これには困った。何しろ僕はこれまでどれほど大学にたてついたか分からない。そんな異端児に推薦状を書いてくれるとは到底思えない。しかし、やってみなけりゃ分からない、駄目もとだと思って牛場医学部長に頼んでみた。すると「それは佐賀君、いい考えだ。世の中をよく見てきたまえ。福沢先生も勝海舟とアメリカに「日米通商条約」締結した帰り道にハワイに寄った事を福翁自伝に書いているだろう。面白いだろうよきっと」と喜んで、僕がどれほど前途有望な若者であるかを推薦状に書いてくれた。それで二人の教授も問題なく書いてくれたので、正式に応募すると、この推薦状が利いたんでしょうね、運良く採用されたのです。
僕の上司だったのが田上先生、これは日系二世でしたけれども、その子は大変優秀で、娘も息子もハーバードの医学部に行っていた。僕に大変目を掛けてくれて、「遊びに来なさい」と誘ってくれる。
田上先生の家の周りはプルメリアが花盛り。中に入ると家の居間の中に日本庭園が作ってあって、錦鯉が泳いでいる。
天井まであるガラスの向こうは南国の空。庭の裏木戸から出るとヤシの並木の細道で、ほの暗い道を五十メートルばかり行くと、パッと景色が開いて、真っ白な砂と青い珊瑚礁の海。こんなすばらしいところがあったのかと、信じられない思いでした。アーノルドというドイツ人と仲良くなって、何度も先生の家に遊びに行っては珊瑚礁の海で泳ぎましたよ。先生の奥さんがおいしいごちそうを作って待っていてくれる。夢のような出来事でしたね。
僕が暮らしていた家というのもとても広かった。ダイニングキチンだけで20畳ほどの広さで、二階には寝室が二部屋と居間がある。裏庭にはバナナやマンゴーが成っている。僕らは毎日のようにその庭でパーティをやりました。
ある時隣のウエストモーランドという男が肉を焼いている。それが直径三十センチもある大きな肉。それを七輪で焼いている。
「これを何人で食べるんだ?」
「俺が一人で食べる」
ほんとに一人でたべちゃつた。そういうふうな生活をしていたわけですね。
病院に勤める傍ら、僕はハワイに移民してきた日本人についてとても興味を持って、夜になるとハワイ大学図書館に通いました。そこには東西文化センターという研究所があって、膨大な資料を保存している。大きな図書館がいくつもありましたが、その一つだけでも百万冊の蔵書です。日本関係だけでも何万冊とある。僕はそこで僕は素晴らしい資料を発見した。ハワイに明治元年に渡っていった百五十三人の移民たちの話です。実はだまされて連れてこられたんですが、その移民が、後のハワイの日系人社会の元祖となったわけです。
この資料を見つけて狂喜しました。夜中はその小説の草稿を書きました。後にこれは『元年者たち』という書物になって、NHKの放送文学賞をもらって、森繁久弥さんと加藤道子さんが日曜名作座でやってくれました。しかしそれはずっと後のことです。まあ、しかし僕はハワイに来て、すっかり嬉しくなって、昼間は手術の助手をしたり、外来で患者を診察したりして、勤務から解放されるとワイキキにドライブして、相撲をとりながらバーベキューをする。そして夜中はワインを飲んで騒いで、それから小説を書くというようなことを続けていた。そしたら、大変なことになった。
心筋梗塞になっちゃったんです。僕は発作が起きた時、二月でしたが、外はきれいな青空で、ドアの向こうにタンタロスの谷が見えて、涼しい風が吹いてました。僕はその時ソファーに横になってテレビを見ていた。そしたら、自分の体が突然けいれんして、その痙攣があまりにひどくて、エビのように二つに折れた。それから自分のからだがパッと、ソファーから浮いたような気がした。何だろう? と思う間もなく呼吸が止まって床に落ちたんです。テレビではベンハーをやっていた。発作が起きる前には最後の競技場で、ベンハーの馬が二週目に掛かっていた。そして僕が床に倒れて、ハッとしてテレビを見ると、馬が勝利の行進をしていたんです。僕はその時の光景をはっきりと覚えています。
大勢の仲間が走ってきた。そしワイキキでそんなことになったら、死んでたでしょうけれども、たまたま病院で倒れたので、みんなで担いで救急室に連れてっくれた。そしたら病院中に、「code five hundreds」という声が流れた。code five hundredsというのは暗号でね、「今死にそうな患者が来たから、緊急の者以外の者はみんなかけつけなさい」という命令です。僕はいつも治療をしているベッドに自分が寝かされた。隣に相撲取りのような、こんな大きな患者さんが横になっている。人工呼吸をしている。僕自身が「code five hundreds」なんですから、相当に重症なんでしょう。
人工呼吸をされて、気がつくと、胸が痛い。「モルヒネ!」という声が聞こえて、誰かがモルヒネを打って、それから意識不明になった。
それで僕はどうも助からないかもしれないということになったらしい。その時僕は二十九歳だつた。当時のハワイでもこんなに若くして重症の心筋梗塞になる人は希だったから、医者も予後の自信がなかったんでしょう。一番重症患者の入る部屋に入れられました。
三つベッドがあって、その回転が大変速い。次々と死んじゃうから。セシリアという、僕の助手をしていたきれいな女性が心電図をとりにきた。
「最後の心電図をとりに来たのかい」
「口をきかないでください。声を出すと死にますよ」
心電図をとっているうちに、モルヒネが効いてきて眠る。気がついて目を開けると隣の人が死んでいる。次のときに目を開けると、反対側の患者が死んでいる。もうすぐ俺の番じゃないの、というふうな気持ちでいたわけです。
僕の家の方にも知らせが行った。親父、おふくろも、さすがにこのときは驚いて、当時は自由渡航ではありませんでしたが、アメリカ大使館が臨時にビザを出してくれましてね、父が飛んできたわけですが、そのときには僕はモルヒネを打たれていて、父が来たのもよく分からなかった。家族はいつ死ぬか分からないと、申し渡されたそうです。
その時僕が見た夢というのは、臨死体験ではありませんけれども、どこまでも落ちる夢です。奈落の底という言葉がありますが、石ころのように自分が穴に落ちていく。青と黒の深淵のようなところに、断崖から突き落とされるように落ちてゆく。真っ暗な空間を暗黒に向かって目もくらむ早さで落ちていく。どこまで落ちても果てしがない。やがて窒息するような苦しさで目が覚める。いくら呼吸をしようと思っても息が出来ない。雪崩に埋められた時の苦しさ。
血圧が七十とか、それぐらいしかない。脈は百もある。どうしてそんなに血圧が下がったかというと、心臓が三分の一死んじゃった。壊死してしまった。最初の発作でそれほど広い部分が死んでしまった。それで、もう一度発作が起きると必ず死ぬというので、排便ができないようにした。息張ると心臓に負担が掛かるから、便秘をさせる薬をつかった。だから何日立っても排便がない。胸が痛いというと、モルヒネを打つ。心筋梗塞になると二十四時間苦しい。そして胸が焼けるように痛い。あまり痛いと、その痛みのショックで死ぬ場合がある。不整脈が出るとザイロケインを静脈注射する。
こうしてさまざまな治療をしても血圧が下がる。それから便が出ないから、おなかが膨らむ。おなかが膨らむから心臓を圧迫して苦しい。一週間ぐらいしたらパンパンになって苦しくてしょうがない。
「なんとかしてくれ」
じゃあ、浣腸をしよう、浣腸と下剤を同時にかけようというので、口からは下剤、下からは浣腸をした。そしたら脳髄まで出るような猛烈な下痢が始まった。脳みそが溶けて流れたみたいな気がして、くらくらした。だからその時から僕はずいぶん頭が悪くなったんじゃないかと思うんですけども。(笑い)
いずれにしても僕は、二週間ぐらいの間、毎日下痢をしてた。で、僕はこのまま死んでしまう、全身が溶けて下痢してなくなってしまうんだろうと思いましたね。
それで、僕は初めて俳句を作った。『野ぐそ百句』というのを詠んだわけです。野糞の俳句は日本に帰って、霞ヶ浦病院に入院した時にも作りましたが、野ぐそというのは、山の中でするウンコのことですよ。(笑い)
山の中でウンコをする句を百句作った。なぜそんな俳句を作ったのか? 山岳部のことを思い出したんですね。ああ、ああいうふうに山々を眺めながら、もう一度硬いウンコをしてから死にたい!(笑い)
見渡す限りの雪山。谷風が雪原を吹き上って、そしてね、その風が股の間にサーッ吹き寄せてきてね、雪の花びらがチラチラと。その谷間にまたがってさ、「ウン!」と出る。(笑い)
これは気持ちがいいもんですよ。ああいう気持ちになって死ねるんならば、俺は死んでやろうと思ってね。妻に「ノート」を持ってきてもらって、僕はノート持てないから口述して書き取ってもらった。こうやって百句作ったわけです。
「それを友だちに、遺言として送ってくれないか」
そしたら「ああ、佐賀もとうとう死んだか」と友達はみんなそう思ったらしいですねえ。
ところがそれでも不思議に死なずに生き延びて、三ヶ月後、DC8の深夜便で帰国できることになった。しかし飛行機の中で死んじゃうんじゃないかと心配して、機長が許可して、酸素ボンベをみんなで揚げてくれた。今ではそんな危険な患者は乗せてくれないでしょう。僕は自分では歩けないから、ストレッチャーで機内まで運び込まれた。僕のために二つも席を取ってくれたんですね。しかも当時は不便だったから、夜の二時にホノルルを出発したんですが、ウェーバー、今はジュネーブのガンセンターのスタッフとして活躍していますが、そのウェーバーやアーノルドたち、大勢の病院の仲間が深夜、一生懸命僕を助けてくれた。
日本に帰ってきてからも彼らは見舞いに来てくれた。本当に友情というのはすごいもんだなと思いますね。まあ、そうして僕は命からがら帰ってきたわけですが、しかし治ったわけじゃない。それから僕は霞ヶ浦国立病院、土浦協同病院に何度も救急車で運ばれて、八回入退院を繰り返した。
それから不運というものは続くもので、睾丸に腫瘍ができちゃった。済生会中央病院の僕の同級生のところで診察してもらったら、
「すぐに手術だ」という
「そう簡単に言うなよ」
「いや、取らなければ死ぬぞ」
それで、取られちゃった。しかも、僕は心臓が治りきってなかつたから、血圧が突然に下がって、ショック状態になって、病院中大騒ぎになったんです。
何とか意識を取り戻したけど、麻酔の後遺症で今度は排尿障害、つまりオシッコが出なくなっちゃった。それでチューブで排尿したもんだから、それ以降は非常に頻尿になっちゃったんですね。
そんな大病をして、それは僕がいつくの時かというと、三十の歳です。三十。きみたちは今いくつ? きみたちの命はあと十三年くらいだ。運が悪ければ、それで死んじゃう。ところがね、僕はこれが幸いしたわけですね。もしそういう目に遭わなければ、僕はどこかの病院で昼も夜も手術をしていたかもしれない。アメリカのどこかで勤務医になっているかもしれない。
でも、病気になって帰ってきたために、実に自由な時間を、ベッドで過ごすことができた。生まれて初めて系統的に本を読むことができたわけです。世界の思想、日本の思想、いろんな人の芸術、宗教、歴史そういった書物を片っ端から読む暇ができた。なんせやることがないから読むわけです。世界思想全集とか中央公論の「世界の名著」とか「日本の名著」を全巻読み通したのも、この時ですね。
人間は運動すれば健康になる。筋肉を鍛えれば年をとっても若者みたいに生きられるなんて思って、盛んに運動する人が大勢いますが、筋肉なんて、鍛えても何にもならないということは、僕の例をみれば明らかですよ。僕はあれほど過酷なトレーニングをして、年に八十日も山に上ったんですが、何ヶ月か入院したら、歩くどころか立ってもいられない。脚は萎縮しちゃって。医者が「もう歩いてもいいですよ」と言っても、バタッと倒れちゃう。足がなくなったみたいで、山岳部の面影なんかないですよ。筋肉っていうのは、本当にすぐ衰える。どれほど鍛えても記憶装置がないから、すぐにだめになる。だから野球の鈴木一郎クラスになっても、毎日練習をしないと打てなくなる。
そこで僕は今度は頭を鍛えることにした。頭は鍛えれば鍛えるほど良くなります。筋肉のように、衰えるということはない。認知症になるのは鍛え抜かないからです。みなさんもこれからは、大いに頭を鍛えるといい。大いに世界的な思想を勉強してください。そうすると、自分は秀才だなんてみんな思っていたとしても、実はどれほど無知で愚かで、何も知らない人間か、よく分かります。
プラトンから始まって、インドのナーガルージュナ、バスバンドウ、無着世親、あるいはヤージニアヴァルキアなんて人は学校では教えない。ディドロ、ライプニッツ、そういった人たちは、人類が生み出したとてつもない天才で、歴史を動かしてきた人物ですけど、日常の平凡な生き方をしていたら、そんな人がどんなに大切な思想を作り上げたか、そんなことは知らずに人生が暮れちゃう。
僕はそれまで少しは何かしら知識があるつもりでいたけれど、系統的に思想書を読んで、自分が何も知らないと言うことを思い知らされて、驚いちゃった。それから日本人では、聖徳太子、空海、それから藤原定家、百人一首に出てくる歌人たち、そんな人たちの世界の広さと深さに驚嘆したわけです。
だから、みなさんの中には、俺はできる、俺は日本のトップを行くだろう、俺は化学者として名を成す、そういうふうに思って、うぬぼれている人がいたとしたら、それは無知だから、そう思う。ある時、ふと立ち止まって、人間が到達した最高峰の人と向き合うチャンスを持つのも大切なことです。これは、精神の冒険だし、そのような冒険をすることによって、本当に自分が鍛えられて、変身するんですね。
それから僕はなぜ助かったのか、生き延びたのか、ってことを、いろいろ考えた。なぜそういうことをつくづく考えるかというと、僕の友だちの優秀な人がたくさんいましたが、優秀でありながら死んだ人が少なからずいたからです。
先ほど申し上げたように、優秀な山岳部員も山で亡くなりましたが、自殺をした者もあります。この一高を卒業して東大に入って、ある大学の教授になった男が三十過ぎで自殺をしました。
慶応大学の医学部を出て、僕のクラスで一番になって卒業した友人も、同級の優秀な女性も、自殺をしました。一人は三十の時に短剣で胸を刺して死んだ。女性の方は飛び降り自殺をして死んでしまった。それから僕の先輩、二級上の先輩で東大の医学部に入ったのに校風が会わないというので慶応の医学部に入ってきてサッカーを楽しんで、卒業したとたんに自殺をした。そういう人がいるんですね。
それで僕は、これはなんだろうと考えた。僕はね、いろんな目にあったけど、生きている、まだ死なない。これは何なのか。
原因はさまざまでしょうが、自殺というのはあまりにも悲しい。理由の一つは、君たちにも関係があるから申しますが、秀才という種類の人間にはもろい面があるということです。
死なないまでもね、東大の医学部、慶応の医学部を調べてみると、大体十パーセントぐらいの学生が大学に来なくなったり、精神異常になったりする人がいるわけです。
それでね、どうして精神異常をきたしたり、挫折するかというと、それらの人は、小さい頃から勉強一筋で、あまり遊ばない。学校という隔絶された小さな世界が全てだと錯覚する。だから世の中に出ると、めまいがして、即応できないということが起きたりする。
学校の先生も勉強が出来ればいいと思っているから、世間とか、歴史を超越した世界の存在なんかについて教える必要性に気づかない。生徒は秀才のまま学生生活を過ごしてしまうから、本当の世界がどういうものかっていうことを知らない。そうして、いよいよ世間に面と向き合う時がくると、そこに目もくらむような巨大な壁が立ちふさがっていることを見て、どうしようもなくなる。
例えは悪いけれども、(時間がなくなってきちゃったけども、もうちょっと話すね)いちばん大きなこの欠陥はね、例えば安全な飼育場のブタと山に暮らしているイノシシと比べてみましょう。ブタとイノシシは DNA的、遺伝子学的にいうと、まったく同じ生物です。「家畜化したイノシシがブタ」と呼ばれている。じゃあ同じような生物かといえば、生き方はまるで違う、行動も、生きる環境も違う。なぜか。ブタという動物はね、与えられた空間で、与えられたものをできるだけ速く消化して、身につける。出来るだけ効率よく与えられたものを消化して太るのが、優秀なブタでしょ?
ところがイノシシというのはね、その日、その日、自分で餌を探して生きていかなくちゃならない。だから実に敏捷です。筑波山にはいっぱいイノシシがいますけど、なかなか捕まりませんよ。大変鋭い感受性を持っている。何がいちばん違うか? 脳を解剖してみます。そうすると、ブタの脳というのはツルッとしている。ところがイノシシの脳というのは、非常にシワが多い。非常に豊かな脳を持っている。これはなぜそうなったか。常に生きるために脳を縦横に働かせている。生きるための知恵というものを働かせて鍛錬しているからです。
学校というものは、ある意味で、閉鎖された飼育場のような傾向がある。単純な問題にはすばやく回答する能力は育つ。どんなに難しい問題でも、解答はちゃんとあるんですから、簡単です。けれど、想定不可能なさまざまな問題を解決する即応力というのは学校では育てることはできない。世界に起きるさまざまな出来事に対する答えはない。答えがないからどんなに優秀な学者でも答えは見つからない。世界は無数の答えのない出来事がからみあって生起している。だからいくら秀才になってもどうにもならない。
世界というのは問題が山積して、正しい解答というのはどこにもない。だから現実の世界に放り出されると、その混乱した圧力に耐えられない。秀才で満足していると、イノシシに変身できないで、死んでしまうってことがあるわけですね。まあ、死ぬ原因はそれではなくて、たくさんあるでしょう。だけど社会に対する対応能力かどれほど備わっているかいないかということが一番問題なんです。
しかし、鈍才はそれをよく心得てる。常に悩んでいるからね。生きるために悩んでいる人というのは、案外に死なない。常に自分と周囲の関係を思い知らされながら生きている。秀才は学校の延長が社会であるかに錯覚していることがある。だから、大変危険でもあるんです。
じゃあね、イノシシになりさえすれば死なないか。そうじゃない。イノシシだって死ぬことも当然あります。生死は運次第のことがあります。
僕の一級下に大変な素晴らしい男がいた。これはいわゆる青白き秀才じゃありません。大変な美男子で筋骨隆々、性格も良くて、図抜けた頭の持ち主だった。
彼は医学部のボート部に入って、僕たち山岳部員といっしょにトレーニングして、やがてオール慶応に抜擢されて、全日本の選手になった。ヨーロッパ選手権に出て、オリンピックの候補選手にも選ばれた。ところがその人が、パタッと死んじゃった。なぜか。下宿で勉強しているうちにうたた寝した。そのうちに石油ストーブが不燃焼して、死んだ。みんな泣いたね。なんであの男が死ななくちゃいけないんだ!?
それから僕の六年ほど上級生で、ボート部と山岳部に入っていた。財閥の一人息子で両親は大変自慢にしていた秀才です。大学でも「これは」と思うような人物だった。ところが富士山の雪崩で死んでしまった。わずか二十三ですよ。両親は絶望して、財産を慶応に寄付して、そのお金で小島寮という学生寮を建てました。山岳部の部室もその一角にありました。僕らは小島先輩の遺産で青春を過ごしたんです。
それからもう一人、これは身近な例だから、お話ししましょう。僕は浪人のときに、義理の兄の鴻田さんの家に遊びに行くと、
「ちょっと来なさい。いい人に会わせるから」。
応接間に通されたら、素晴らしく背の高い、いかにも慶応ボーイという人がいたんですね。その人が浪人生活をしていた僕をつくづくと見て、「苦しいときには、この音楽を聴くといいよ。きっと気持ちが晴れる」そうって言って、ベートーベンのピアノ協奏曲第五番・皇帝をかけてくれた。ベートーベンがどれほど苦悩したか、いろいろな話をして勇気づけてくれたんです。
その人は非常に優秀だったので、内科からアメリカに派遣された。今は誰でもチャンスはありますけど、その当時のアメリカに派遣されるというのは大変なことだった。1ドル360円の時代ですから、海外渡航は自由には出来ない。特別な許可が出ても帰国までに使えるお金は制限されていた。そんな時代に、エリート中のエリートとして送られた。ところが間もなく留学先で亡くなった。交通事故で即死したんです。僕はその知らせを義理の兄から聞いた時、信じられなかった。あんなに優しい人が死ぬなんて、わけがわからない。これが、僕が出会った「不条理」の存在です。
人間は、スケジュールに沿って生きることはできない。人生は不条理だらけだ。そして人間は、不条理に出くわして、初めて一人前になっていく。生きるか死ぬかということに出くわして初めて、人間とは何なんだ、生きているというのは何なんだ、ということを考えさせられる。そこから本物の思想・哲学・宗教・文学・戯曲、そういったものと向かい合う。というのも、それらの芸術や宗教は、人間の限界を超えたところから生まれるからです。
皆さん本を読むでしょう。あるいはいろんなものを見たり聞いたりする。しかし本当にすばらしいものにであうためには、不条理と向かい合わなければならない。そして、ぎりぎりのところを切り抜けなくちゃならない。
そこで死んじゃったらおしまいです。危険と向かい合わないと、本当のことは分からないということです。だからそういう目にも遭わないで、秀才で通して、官僚や、企業のトップになったりする人は挫折も不条理も知らないから、人間が作り上げたほんとうの宝、文学、芸術、宗教の世界を知らない。利口馬鹿というつまらない人生を送ることになる。
どこかの大企業の社長や会長のような人は世の中を知らないくせに知っていると思って、本当の世界を知らないことがままある。本当に素晴らしいものというのに、会っていない。だから、人間の味がない。人間のヒダが分からない。人間の真実分かる人は、お金や地位や名誉なんていうものはどうでもいいわけです。もっともすばらしいのは、すごい芸術家や思想家に会うことです。
そんな人がどこにいるのか。どこにもいる。天地宇宙に満ちているんですね。例えば、藤原定家や北斎、芭蕉と話ができたらすばらしいでしょう。ミケランジェロやダビンチとだって、数百年の向こうから話しかけてくるんです。だとすれば、この世の地位や名誉やお金が何だというのです。
さて、この世でいちばん面白い人、それはどういう人か。僕がこの頃感じているのは、全然学校に行かなかった人、これは面白いですね。
僕の『ちぢらんかんぷん』という本があります。ぜひ、これをお買いなさい。わずか二千円ぐらいですからね。(笑い)
これはね、大変面白い人たちの話を集めた本です。小さなイノシシのようなエネルギーの固まりのような人が世界を自分自身の目ではっきりと見て、そして生き抜いてきた人の話がたくさん書いてあります。この世界を想像もできないほど苦しんで、いかも楽しみながら生きてきた人々の話です。
いちばんおもしろい人間は、学校へ行かないで、あるいは、学校を超越した人生を送った人です。僕の祖父は最初にお話したたように、すばらしい人間とは正反対の人間ですが、彼の小説つまり、「氷雪のバイカル」に書く時に素晴らしい人物に出会いました。
現在の天皇陛下の主治医の金澤一郎教授です。彼の父親は慶応大学医学部の物理学教授でしたが、先生の息子は東大を出てからケンブリッジ大学に留学して、帰国後、筑波大学医学部の教授になった。父親が年をとって筑波に引き取られた時「このあたりには佐賀君がいるはずなんだが、佐賀君に会いたいな」というので、金沢教授は僕を尋ねてきて、それから親しくつきあっていましたが、僕が、小説を書くためには、日本軍がシベリアに出兵した時の参謀本部記録「シベリア出兵史」がどうしても必要だと知ると、膨大な資料を国会図書館から借り出して、「必要な時間、使って下さい」と協力してくれたんです。まさか彼がやがて天皇陛下の主治医になるとは想像もしませんでしたが、ともかく、彼のお陰で、小説を完成することができた。
僕の祖父は金澤教授とは正反対の人生を送りましたが、実におもしろい人だったことは確かです。
さて、おもしろい人間の二番目は、人生に挫折して、そこから何とか這い上がった人間。その典型的人間を僕は「浅草博徒一代」に書きました。
一番おもしろくないのは、秀才のまま通した人間。このたぐいの人とはつきあいたくない。
つまり、(あと五分で時間なんですが、あと五、六分か、十分以内にはやめますからね) だからね、今のこの教育、あるいはこの医学界・科学界のもっとも大きな誤りは、「人間というのは延長上にあるんだ」という考えです。皆さんも自然科学をある程度習っているかもしれない。あるいはそういう方面に進むかたはよく知っているでしょう。人間には遺伝子がある。その遺伝子が我々をつくっていると、そう信じている人間が大勢います。
ここには花があるとする。種を蒔くと芽を出して花が咲いて、実になって、そして散る。そのように、我々人間の一生もDNAの命令に従って生きていると考えられている。頭のいいのも悪いのも、顔がいいのも悪いのも、性格がいいのも悪いのも、みんなDNAのせいだと、そういうふうなことをいう人がおります。だから「結婚する相手はあなた、知能指数を測ったほうがいいわよ」、そんなバカなことを言う人もいるわけですね。
そういうふうな考え方に従うと、人間の一生っていうのは遺伝子に支配されて決定している。抵抗してもどうにもならない、ということでしょ? そしたら人間なんて、ひとつも面白くないですよ、決まっているんですから。頭のいい奴は上等。恵まれない人はそれなりの遺伝子配列に従って人生を送らなくちゃならない。とんでもないことなんですね。
僕はわざわざ今日長々と話してきたのは、僕が遺伝子の命令とはどれほど違う人生を送ってきたかということを証明して見せるためです。
僕はレールに従って生きてきたのではなくて、その時々にとんでもない出来事に出会って、冒険をして、「変身を遂げてきた」んです。人間は赤ん坊から死ぬまでには、何度も変身する。
平穏無事に行きたいという人はどこかの大企業に勤めたり、役場に入って一生同じところにしがみついていればあるいはなにもない人生を送れるかもしれないけど、それでは人間の限界の向こうにあるすばらしい世界を見る事はできない。
平凡な人間だと思っていたら、突然、生まれ変わっちゃうってこともある。悪く生まれ変わる場合もあるし、良く生まれ変わる場合もある。
良く生まれ変わる場合は、例えばキリスト教の中にあるマグダラのマリアみたいに、売春婦だった人が、キリストに会ったとたんに、聖なる女になるっていうこともあるわけでしょ? ある日突然の「回心」ということです。
また、僕が雪崩に埋められて、空を見た、ねえ。そうすると、今までの空がそうじゃなく見える。そういう突然の悟りというふうなものもあるんですね。
だけど恐ろしいことは、突然悪い者に変身するということもある。キリストや仏陀と反対の、とんでもない団体の狂信的指導者のような恐ろしい人と出会うと、人格が変わってしまう場合もある。だから、出会いとうのは、よくよく心得てしなければならないということも確かです。
それからもうひとつ、日常的変身。突然の変身ではなくて、日々の暮らしの中で変わるという変身があります。皆さんみんな若くて生き生きしている。しかし二十年たってごらんなさい。みんな驚くほど変わる。良く変わる場合もある。悪く変わる場合もある。
どうして変わるか。日々接しているものに似てくる。酒飲みは酒飲みらしい顔になる。哲学者は哲学者らしく。人間を憎んでいる人は冷酷な独裁者のような人相になる。
日々触れるものによって人間は変わる。毎日毎日何に接して生きているかによって、変身するわけです。
毎日金勘定している人は、レンブラントが描いているような、両替商の顔になる。芸術家はそれなりの顔になる。ピカソとかダリ、岡本太郎なんて人はすばらしい人相だけど、あれもまた、日々変身して、あんなすごい顔になった。だから皆さんもだんだんと変身して、それが人生の表情となるわけです。
それからもうひとつ、それはですね、(時間だ、あと五分)この面白いことに、この一高の隣にひとつの変身の神話哲学が残されているということです。人間は変身するんだということが神話になっている。
一高の隣の鹿島神社。鹿島神社っていうのは、どういう神様がいるか、知っているかたは手を挙げてください。だれも知らないの?鹿島神社。鹿島神社というのは鹿島神宮の分社です。この谷を挟んで向こう側に、大岩田にやっぱり鹿島神社があります。
鹿島神宮というのは、武甕槌男神(たけみかづちのおおかみ)という戦の神様を祭ったんですね。これは、大変な哲学を持っている神様です。火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)という火の神の変身したものなんです。これを話し出すと、これから十日ほど話をしなくちゃいけないので、これは省略して、いまに僕は本を書きますから、ぜひお買いになってください。(「古事記 変容する神々」東洋医学舎刊 「古事記 蛭子」東洋医学舎刊)
『古事記』によると(だんだん時間がなくなる、早口になる)伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)という男と女の神様がいろんな神様を産んだ末に、火之迦具土神、つまり火の神様を産むわけです。で、その火の神様を生んだために、女の神様はおなかを焼かれて、遂には死んでしまうわけですね。
死んでどこに行くか。地獄へ行く、黄泉の国へ行く。そうするとそこに何が起こるかというのが、僕の最後の話です。つまりそれまでは、母なる女神、日本と神々を産んだ、女神が地獄に行く。鬼になってしまう。黄泉津大神(よもつおおかみ)と呼ばれる地獄の鬼になる。
夫のイザナキはそれとも知らず地獄まで会いにゆく。ようやく探し当てると、あれほど美しかった妻が、鬼になっている。彼は驚いて逃げ帰る。
ここは大変なドラマで、大いに語りたいんですが、省略して、イザナキは逃げ帰って、「ああ、汚い」と叫んで、日向の阿波岐原(あわぎがはら)という川で禊をするんですね。そのときに、さまざまな神様が産まれる。これがいろんな神様を生んだ末に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つきよみのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)、その三神が生まれるわけです。
なあんだ『古事記』というは荒唐無稽な話だと思うかもしれないけど、そうじゃない。他の世界の神話とはまるで違う存在の哲学を語っている。それは何かというと、「存在するものは変わる」ということです。
どれほど大きな力を持っている女神であっても、死の世界に行ってしまうと、死神になってしまう。それから、全然産みの力のなかった男の神様でも、あるものに触れると、たちまち母神になるという哲学です。この哲学が、繰り返し幾度も『古事記』に神話として記されている。皆さんも日本人として是非とも読まなければなりません。
問題は、その「変身」を決定づけるものは何であるか、というとです。それは何か。僕が今まで長々と話ししてきたこと、つまり、「予想もしていなかった出来事と出会うこと」そして「死ぬ」ということ、あるいは「死に瀕する」ということ。危機的状況に陥ること。これ以上先にいったらどうなるかわからないという、限界の状況の中に否応なしに押し込められるということです。
大問題は「死に瀕している時に、何と出会うか」ということです。これは人間が変身する時に、変身する姿を決定する重大なことなのです。
伊邪那美という女神は地獄に行って、恐ろしい鬼に成ってしまった。彼女の運命を決定づけたことは何かといえば、黄泉戸契(よもつへぐい)という行為です。
黄泉の国の食べ物を食べたということ。つまり、食べ物を食べるということは、非常に人間を変える力があるということですね。
ですから今でも、神話の末裔である日本の天皇は、外国から国賓が来ると、宮中晩餐会というのをやる。あれは決して儀礼じゃないんですね。来た国賓が、私が差し上げるものを食べることによって、この国の人間になって欲しい、この国のさまざまな文化が分かる人間に変身して欲しいという、そういう儀式なわけです。これは『古事記』の世界から生きている黄泉戸契の哲学なんですね。
「変身」というのは、「死」と「食べ物」、そうしたものに触れることが原因している。伊邪那岐である男の神様はどうか。今までただの男だったものが、天照、月読、スサノオなど大変な神々を生む。その力はどこから出たのか。「死の国」に行って、死と出会ったからです。彼はそこから生の国に戻って清い水と出会って、もう一度生まれ変わる。清い力を生む者に変身したわけです。
ですから、みなさんに申し上げたいことは、人間にとって最も重大なことは、学校でこうやって習うことも大切だけれど、それだけでは生き延びることはできない。教科書に書いていることを覚えることは大したことではない。何よりも大切なのは、思いがけない出会いです。出会いが人間を決定づける。そして変身させる。
身近なところにいる人間で最も重大な存在は、先生でも、親でもない。最も重要なのは、大きな力と命がけで出会うことです。異性との出会いも重大な出来事です。男にとっては女、女にとっては男です。そこにはのっぴきならない関係が生まれる。もしもすばらしい異性に出会うことができれば、まったく別次元の人間に成る可能性がある。
それから挫折することです。豊かに生きるためには、死に瀕するような挫折を味わわなければならない。
挫折をするっていうことは、非常に重要なことです。もし挫折ができなければ、求めて冒険をする。
危機的状況に生きて、これを乗り越える、これが重要なことです。変身するということを、恐れてはいけない。
最後に、ひとつだけ俳句をお教えしましょう。これは正岡子規が作った句です。この人は三十六歳で死にました。二十八歳の時に大活血して、それから寝たきりで、からだ中穴があいて、膿だらけになって死んだ男です。彼の思想には問題がある。日本の歴史の中では重要な人物というわけではない、僕は大いに批判している人間の一人ですが、しかし、病気に長年苦しんだということで、ある種の親近感がある。それに、人物としては、大変な豪傑であるとこは確かです。
その彼の著書の一つに『病状六尺』という本がある。そこに素晴らしい俳句をたくさん残している。
大木を 見て戻りて 夏の山
なあんだ、大木を見て戻ってきた、夏の山。これが俳句かと思う人があるかもしれない。しかしこの句が分かるようになったら、あなたがたは変身をしたということです。
ここに記されているのは、平凡な言葉です。大木、夏の山って、だれもが見られるものでしょ? 、大木なんてそこらにもある。夏山だって行ける。ところが彼にとっては、全然違うふうに見える。天地宇宙のエネルギーを秘めた神秘的な存在に見えたのかもしれない。自分は四十にもならずに死ぬのに、この大木はまるで太古から生きているかのように、夏空に、すっくと、立っている。彼はその力に永遠を見た。命尽きようとしている病床で、彼は、自分と対照的な存在を見た。そして、見たとたんに、その命が心の中に息づいて、彼は不滅の命を感じたのでしょう。
それはおそらく僕が雪の穴の中で見た、雨後の晴天に近い真っ青な空だったんです。死と永遠が、同時に存在することを見たのです。
このようなものを見ることが出来ると、それまでの日常とは全然異質の世界に生きることになる。空気も空も、まるで違う。時間と空間を超越したものの存在に気づくことができる。
だから僕が今日ここに来ての最後に残すメッセージは、挫折と冒険、そして精神の遍歴こそが君たちの人生にもっとも力になってくれる、ということです。 人生というのは三十からが始まりです、それから本気で生きると、すばらしい世界が見えてくる。僕も三十を過ぎてようやく物事の本質のようなものが見えるような感じがしてきましたが、それじゃ無鉄砲は治まったかというとますますそうでなくなった。精神の遍歴と放浪は一層激しくなったんです。しかし現在僕が夢中になっている情熱の世界についてお話することはできませんので、またの機会にしたいと思いますが、みなさんもぜひこれから、さまざまなすばらしい人々と出会って、充実した人生を送っていただきたい。心からそう念願して、僕の今日の話を終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。