佐賀純一 講演録 「今、宍道湖・中海の未来が決まる」1984年9月

演壇する佐賀純一

講演のまえがき

宍道湖・中海と人々の偉大な力

1984年(昭和59年)秋、宍道湖中海と日本海との間に建設された水門は閉じられようとしていました。1963年(昭和38年)、干拓・淡水化事業は「昭和の国引き」「山陰のモデル農業地域」「 百年の大計」としてスタートし、堤防が完成して、水門を閉じるばかりになっていたのです。水門が閉じられれば、汽水湖としての命は終わります。

宍道湖・中海の人々は、湖を埋め立てて農地にしようとする政府の政策に真っ向から立ち向かい、美しい湖と歴史ある町の伝統と文化、生活を守り抜こうと決心し、活動を展開していました。

同年夏、僕は滋賀県大津市で開催された第一回世界湖沼会議に発表者として出席し、霞ヶ浦が置かれている汚染の惨状を世界に訴えました。

発言を終えると同時に、聴衆の中から一人の男性が立ち上がり、こう発言しました。

「私たちは宍道湖・中海を代表して参加した者です。私たちは宍道湖・中梅の干拓問題を抱えています。昭和38年から推進されてきた干拓事業は堤防がすでに完成し、あとは水門を締め切るばかりになっています。私たちはもし水門を閉め切れば重大な結果を招くと反対を唱えておりますが、島根、鳥取の県民の多くはまだ問題の重大性を認識する機会がないために、態度を決めかねています。しかし、今、霞ケ浦の現状を聞き、スライドを見、そして霞ケ捕から持って来たというアオコに汚れた水を見て、はっきりと分かりました。是非とも、私たちの町に来ていただきたい。そして、湖の淡水化事業というものがどのような結果をもたらすかということを県民に聞かせてほしいのです。」

福田正明氏でした。彼は漁師出身の松江市議会議員でしたがその後島根県議会議員となり、淡水化反対運動の中心人物として活動した青年でした。

僕はその年の9月、松江市で講演を行いました。島根県の県民会館は通路も立錐の余地もないほど、熱意に満ちた県民で超満員でした。90分間の講演が終わった時、会場は、宍道湖中海淡水化事業干拓反対一色になったと感じました。

宍道湖・中海の淡水化に反対する勢力の活動は迅速でした。島根、鳥取両県の漁協、観光業者、各種市民団大、青年会議所、これらの団体は大規模な行動を展開し、議員や行政官たちを取り込んで住民集会を開催、「宍道湖・中梅淡水事業反対」の署名運動を繰り広げ、4ケ月の間に30万名の署名を獲得し、政府、島根県に干拓中止を迫ったのです。

会場に横付けされたバス

人口50万の島根県民のうちの30万という膨大な人々の署名は行政当局には大変な圧力となりました。島根・鳥取両県知事は1988年水門閉め切りの凍結を決断せざるを得なくなり、宍道湖・中海の干拓・淡水化事業計画の凍結を公式に宣言したのでした。これは当時としても、今日であっても、歴史的な出来事です。

この計画は30年も前から推進されて来た国家的なプロジェクトですから、莫大な資金と労力が投下され、県も、市町村も、その事業推進には多大の力を傾注していたのです。現在のように環境保護が盛んな時代になってさえ、事業計画に時代錯誤的な内容が盛り込まれていたとしても、国家的なプロジェクトが決定されてしまうと止めようとしてもとうてい止めることはできません。現に、諫早湾干拓事業によって多大な被害が出ても、この計画を中止することは困難な状況になっています。霞ヶ浦総合開発事業計画を根本から見直してこれを改革するというようなことは夢物語よりも困難なことです。ところが、宍道湖・中海では実現したのです。

互い健闘をたたえ喜ぶ人々

他の地域では出来なかったことが、なぜ宍道湖・中海では可能になったのでしょうか。国家プロジェクトを推進する力は巨大なものですから、それを止めた力というものもそれをしのぐほど大きかったに違いありません。ではそれは何だったのでしょうか。        

特筆しなければならないことは、この計画の中止を求める人々の結束と意志がとても強かったということです。島根・鳥取にはたいへんな知恵者が揃っていました。いつの時代でも何か問題が起きた場合、もし市民と学者、行政者が対立を超えて協力できれば素晴らしい成果を生むだろうことは誰にも予測できるのですが、現実にはそのようなことはなかなかうまく行かないものです。ところが、宍道湖・中海の場合は奇跡的ともいえるほど、協力体制が揃っていたのでした。

まず、学者グループですが、普通、大学教授という集団は大変慎重というか、おうおうにして臆病でもありますから、意見は言うけれど実は難の行動もしないといこうとが多いのです。ところが島根大学の教授たちは想像できないほどの胆力と決意を秘めていました。彼らは淡水化反対運動の先頭に立って活動を続けました。島根大学の保母教授を代表とする学者・研究者は徹底的に政府の計画を検証し、学問的見地からその欠点を暴き、農水省に計画中止を迫ったのです。

政治家たちも学者グループと共に積極的に行動しました。福田正明議員は漁師の出身ですが当初は市議会で、後には県議会内部から活動を続けて、議員や行政官たちの中に共鳴者を作り出し、霞ヶ浦の実状視察団を編成して、時には何十人という方々が幾度も霞ヶ浦視察に訪れました。

福田議員は仲間の漁民たちから熱烈な信頼と支持を受けていました。漁民たちは当初から最も熱心に淡水化反対を叫び続けていたのですが、多くの人々は既に淡水化に伴う漁業被害に対する保証金を受け取っていたのでした。ところがシジミ組合の人々は、反対の意志を貫くために補償金を一人頭100万円、合計数億円の金を集めて、農林大臣に返却することを決定し、現実に返還したのです。

「宍道湖のためには保証金を返すべきだ」

勝利の日、マスコミから取材を受ける関係者

返却の当日、僕は立会人として農林省に同行しました。今思い出しても、とても信じられない不思議な感動に襲われたのを記憶しています。当時心臓の具合が悪くなり、ようやく東京に出たのでしたが、そうした体調も、この偉業をより一層夢心地に感じさせたのかも知れません。

保証金返却後も運動は続けられました。市民のまとめ役である竹下氏らは市民間に活動を広げ、青年会議所、商工会議所はそれぞれの立場で運動を広げてゆきました。県の職員の中にも大勢の理解者が現れ、さまざまな会合や研究会に参加して多くの人々と意見を交換したり、行政内部の考え方を一般に提示したりしたのです。

マスコミ関係者も湖を守ろうとする人々の運動の意義とその重要性を広く全国に伝える努力を継続的に続けました。

これらの活動は、それぞれが独立したものでありながら、よく連携がとれ、しかもそれぞれが実に粘り強かったのです。そしてこの運動全体を通じて素晴らしかったことは、それぞれの活動に加わった人々がとても穏やかで、少しも荒々しい言葉を使わず、行動が首尾一貫して紳士的・合法手的であったという事です。

 議会制民主主義を守りながらこの種の要求を掲げて活動するということは並々ならぬ困難を伴い、時間と多大な労力が求められるので、次第に熱意が薄れ、あるいは市民と行政が対立して無意味に時が過ぎ、最初は勢いの良かった理性的な運動も目的が曖昧になり、やがて立ち消えになってしまうという結果に終わることも少なくありません。けれども宍道湖・中海では、そのような気配はまったく見られませんでした。

「代議員制度が永続することは、必然的に、危機に瀕した時にみずから戦おうとする国民の心構えに依存している」

ジョン・スチュワート・ミルは「代議政治論」(「世界の名著」中央公論社刊407頁)で述べていますが、島根・鳥取の人々はみずからの意思を、広範な署名活動を通じて内外に明確に示し、議員・議会を動かし、ついには政府の意図に反する決定を知事に為させるという偉大な結果を勝ち取ったのでした。

2000年8月8日、谷農林大臣は「宍道湖・中海干拓事業計画中止」を発表しました。この前代未聞の快挙を成し遂げたのは、多くの人々の熱情と、冷静な計算と、粘り強い気風と、そうして、生まれ育った土地を愛する県民の力なのでしょう。

宍道湖中海を守ろうとする奇跡的な運動に参加することができた幸運を、僕はしみじみと感じます。私は具体的な活動には何一つ関わりませんでした。ただ、水門がまさに閉じられようとしたその時に、一つの講演を行ったに過ぎません。しかしそれでもなお、そうした時に立ち会った事は生涯の幸せでした。

次の講演記録は、1984年開催された宍道湖・中梅淡水事業反対のための講演会主催者が私の講演を録音し、書き起こした原稿をもとに書き表したものです。

講演の日、宍道湖・中海をこの目で見てみたいと思い、枕木山に案内された時のスナップ写真
干拓計画の看板を前に宍道湖を見下ろす江住氏と佐賀純一

講演「今、宍道湖・中海の未来が決まる」

すばらしい中海と宍道湖を守るために

 ご紹介いただきました佐賀です。さきほど福田さんがおっしゃいましたが、私は大学時代に二日ばかり泊ったことがあります。お金がないので野宿したのですが、夕方宍道湖の大橋の上を歩きまして、本当にきれいな街だなと感激した思い出があります。

それから二十年の歳月が経ったわけですが、今日、枕木山にご案内いただいて眼下の光景を眺めて、なんという美しさだと言葉がありませんでした。ほんとうに感動しました。

私はハワイでしばらく医者をしていましたが、ハワイにはタンタロスという山があります。タンタロスとは地獄という意味なのですが、その頂上からホノルル市街やワイキキの浜辺を眺めますとなんとも夢のように美しい。世界一の眺めだなと当時は思っていました。でも今日の枕木山からの眺望はそれ以上に素晴らしいと思います。

これは決しておせじではありません。何より、これだけ人口が密集してしかも、山がせまり、海はあくまで青く、そこに人間が文化を積み上げて長い間生活している。そしてその中心にある湖をこれからも美しく保とうとしているというそのことになによりも心打たれるのです。

 現在私は霞ケ浦湖畔の町に住んでいますが、少年時代には実に素敵な湖で、毎日が楽しくて、松江の皆さんにも誇れるところでした。ところが現在はどうなったかと言いますと、あとからスライドでお見せしますが、何とも情けない湖になってしまったのです。この様な湖の姿には決して、宍道湖・中海はなってほしくないのです。

 今回のみなさんの大切な会に福田さんを代表とする方々からぜひ講演をするようにとのお誘いをうけ、最初は私のような者の任でないとは思いましたが、考えてみれば、私は湖がきれいな時から今のような有様になるまでの状況をよくよく知っている。学者の方々の学問的な話も大切ですが、COD、SSなどについての抽象的な数字よりも、やはり私が肌で感じてきたこと、美しかった霞ケ浦がどのようにして現在のようになったかを体験したものの一人としてここで報告することも重要ではないかとそう考え、参加させていただいたのです。

それでは、本日のお話の順序を前もって述べます。第一は、私がどのような考えで水問題にとりくんでいるのか、私が何ものであるかを簡単に述べます。

 第二に霞ケ浦と宍道湖・中海の類似性を申し上げます。農水省の方、あるいは研究者の中には他の湖と宍道湖・中海は比較にならない。だから他の湖の汚染の話などを聞いても意味がないではないかと批判をなさる方があるかもしれません。

 勿論霞ヶ浦と宍道湖は置かれている状況がずいぶんと違います。しかしそれらの相違点以上にこの二つの湖の間には見のがすことのできない重要な類似性があると思います。ですから、今夜のこの話がどこかの遠い湖の話ではなくて、宍道湖・中海そのものの問題なのだという事を申し上げたいのです。

 第三番目には、霞ケ浦のかつての美しい湖の思い出、そして現状はどのようになっているのかを話します。

 第四番目には、霞ケ浦の汚染を招来した原因、そして今行われている対策、

 第五番目には宍道湖・中海が淡水化されたときの未来像を私なりに描いてみました。

以上五項目の話は互いに関係しているため、多少前後するかも知れませんがこれからお話させていただきます。

第一・水問題に対する私の姿勢

 ではまず私がどんな人間であるかという事について簡単に述べてみたいと思います。というのも、ここにおいでのみなさまは私について先ほど福田さんから紹介された事以外には何一つご存じないでしょうから、簡単に自己紹介をしたいと思います。私は茨城県の土浦市で生れました。土浦は松江と同じ湖畔の町です。高校を卒業する昭和三十年代の半ばまで、霞ヶ浦は実に素晴しい湖でありました。

 当時の漁師たちの暮しは確かに貧しいものでした。ただ、その当時は国民全体が貧しかった。でも貧しながらも活気にみちあふれていたのです。私は漁師や湖の周辺の人々から話を聞き集めて記録を書き記しております。 (「霞ヶ浦風土記」参照) 

霞ヶ浦沖合に大徳網を仕掛ける船団 昭和30年初期まで見られた

たくさんの人々に聞いてみますと、当時の浜辺の賑いは今からは想像もつかぬほどのものであったようです。

 「大徳網」というものがありますが、これは大体2キロくらいの長さの網でありまして、それを浜の人達が総出で力を合せて引くのです。帆曳網も霞ヶ浦・北浦全体で五〇〇艘ありましたが時にはワカサギがとれすぎて船が沈んだなどという話が珍らしくなかったのです。

 しかし今は全然とれなくなりました。今年は少しとれたようですが、それでも昔日の面影は全くない。五町田・麻生などと云う村はかってはとてもにぎやかな漁師の村でしたが今はゴーストタウンのようになっています。今日、宍道湖・中海の周辺の村落を見て回りまして、その村々が昔の霞ヶ浦と同じようにして生きていることを見まして、非常な感動を覚えました。私が少年の頃見た浜辺の村がそのままここにあるような気持がしたのです。

 私は高校時代ヨット部員でしたので実に愉快な高校生活を過ごしました。霞ケ浦も宍道湖大橋と同じような橋がありますが、そこから飛び込んで砂利船に乗って、湖心までいき、泳いで戻ってくる、家に帰る時にはバケツいっぱいのシジミやタンカイという大きなイケチョウガイを下げてふうふうしながら家路につく、そんな思い出があったのです。皆さん方にも同じような思い出があるかも知れませんが、霞ケ浦の周辺に住んでいた人間にはこんな思い出はあたりまえのものだったのです。ところが、今は全く様相が変わってしまった。

 子供達は湖で泳ぐどころか近寄ろうともしません。一体こんなことでいいのだろうかと私は考えて、「土浦の自然を守る会」をつくりました。(会誌「櫻川」第一号に経緯が詳述してありますのでご参照下さい)

私たちの会の方針は、特定の思想団体、思想傾向に頼ったのではいけない。水の問題、緑の問題、空気の問題というものは人間の生きる根底を成すものでありますから、人間が人間として生きるためには、万人に共通する問題であるという意味に於いて、特定の政党、特定の思想に偏ることはいけないと考えたのです。そういう訳で、私達の会は政党、イデオロギーに左右されまいというとことから始めました。従って会に入るのも離れるのも自由意思です。リーダーとして会長、事務局長は選ばれてはいますが、原則としては言い出した者がその問題のリーダーとして行動する。

 他の会員がどうであろうと、善いと思った事は一人でもやる。やるのがいやだったらやめる。善い考えで始めたものは誰かがついてくるだろうと、こんな風なやり方でやって来まして、いつの間にか十三年もたってしまいました。だから、気がついてみると、中には政治的に急進的なものがいれば保守的なものもいます。老人もいれば子供もいます。しかしながら、やはり自由な意思で入ってきて、自由な意思で離れる。自由な意思を生かしながらそれを活動に結びつける、そういう会であります。だから私は特別な思想に基づいて行動しているわけじゃない。私が楽しんだ湖を子どもたちにも経験させたい、その思いでいるだけなのです。

第二・霞ケ浦と宍道湖・中海の類似性

 次に霞ケ浦と宍道湖・中海の類似性について申し上げます。実を申しますと、私は世界湖沼環境会議に出席して、データーブックというものを見るまではこの二つの湖がそれほど似ているとは思いませんでした。ところが、調べてみると実に驚く程似ているのです。第一に、湖の出来方が似ている。

 島根半島の二つの湖、宍道湖・中海が出来たのは二〇〇〇年前とデーターブックには書いてあります。これは、斐伊川の沖積によって土砂が運ばれ、湖ができた。これが「国引きのいわれである」。

 他方、霞ケ浦も海であったものが、段々と形を変え鬼怒川の土砂が堆積し、その砂の堆積によって湖になりました。これが二〇〇〇年程前であるといわれています。しかしその後も霞ケ浦は半ば海としての姿をとどめていたことは確かでして、その証拠に平安時代には「流れ海」と呼ばれていました。霞ケ浦という名は鎌倉期につけられたのです。このように宍道湖、霞ケ浦双方の湖はもともと海であったものが、二〇〇〇年前に自然の力で次第に淡水化したという、その歴史性に於いてよく似ています。

 それから、湖と人間とのかがわりのあり方が双方の湖とも実に興味深いのです。殊に文化史的関係はとても興味があります。

 例えば両方の国には風土記があります。出雲風土記は風土記の中でも最も完成度が高いものであります。常陸国にも風土記があります。日本に五巻しかない風土記を霞ヶ浦と宍道湖の双方が保有しているのです。

 しかも出雲と常陸は互いに無関係に存在したのではありません。ここが何とも面白いところです。

 古事記を見ますと常陸の神であります建御雷神(タケミイカズチの神)が出雲に出かけています。(アマテラスの天の岩屋からの再臨とスサノオの追放。スサノオの八岐大蛇退治と出雲の国建国。アマテラスの出雲の国征服、その際の常陸の国の神・建御雷神の出陣)

 詳しい話をするときりがありませんのでこれはこれで止めますが、ともかく出雲と常陸は神話の時代からのつき合いであったということがいえます。(拙著・「変容する神々」「蛭子」参照)

 次に湖の形態の変遷について述べますと、まず宍道湖・中海は、斐伊川がはじめは日本海に流れていました。それが江戸時代に宍道湖に流れ込むようになり、土砂を運び底が浅くなって淡水化が進んだのです。ところが面白いことに霞ケ浦もまた江戸時代に利根川が流れ込むようになりまして、それまでよりも沖積化、淡水化が急速に進んだのです。

 利根川は現在茨城の県境を流れていますがかつては江戸湾に注いでいました。これを江戸幕府は六十年の歳月をかけて流路変更の大土木工事を行ない、現在の所を流れるようになったのです。

 こういうわけで、斐伊川の方は自然に宍道湖の方へ流路を変え、霞ケ浦の方は江戸湾から現在の茨城県と千葉県の県境に利根川の流路が変わったという点が似ています。霞ヶ浦の場合は人工的であったということでは大きな違いがありますが、そのために沖積化、淡水化がとても急速に進んだという点は極めて似通っています。

枕木山中腹から宍道湖を望む。建設を終えた堤防と水門がかすかに見える

では現在の姿はどうかといいますと、湖の高さは霞ケ浦が水位十六センチメートル、これに対して宍道湖・中海は三十センチメートル。表面積は霞ケ浦(西浦)は一七一平方キロ、これは宍道湖・中海を合わせると、ほぼ同じ面積です。

 容積は霞ケ浦が八億トン強で、宍道湖・中海は合わせて八・六億トン。水深は霞ケ浦が平均四メートル、深いところで七メートル。                  

 宍道湖は四~四・五メートル、一番深いところは六・五~七メートルといわれており、中海は五メートル強といわれています。

 流域面積はいろいろなデーターがありまちまちでありますが、霞ケ浦1640平方キロ、宍道湖・中海も大体同じであります。

 ただ非常に大きく違っている点は、滞留時間です。これは湖全体の水が入れ替るのにどれくらいの時間を要するかという事を示したものですが、霞ケ浦の場合は200日に1回入れかわります、つまり滞留時間は0.55年という計算ですが、宍道湖は0.25年、中海は0.16年ですから宍道湖中海はとても入れ変りが激しい。これは、霞ケ浦と宍道湖の根本的に違う点です。

 次に湖の生態をちょっと見てみたいと思います。生態全般に亘って申し上げる事はとてもできませんので簡単に申し上げます。

 宍道湖に生息している魚類は五十六種類とものの本には書いてあります。もう少し多いと書かれている資料もありますが、いずれにしても汽水湖としては大変種類が豊富です。

「極めて多い」とされている魚は九種類で、ワカサギ、ポラ、シラウオ、ギンプナ、シマハゼ、アミジロハゼ、マハゼ、ピリンゴという名前があがっています。これらの魚は全て霞ケ浦に生息しています。

 次に「普通にいる」と記されているのが十八種類ですが、このうち霞ケ浦には十五種類がいます。

霞ヶ浦、船溜まりの漁船

 従って二十七分の二十四が同じ種類であるといえます。これは、「霞ケ浦における魚類及び目録の解説」という本に書かれています。

 湖の外観はというとこれはあまり似ていません。こちらは近くに山が迫りとても景色が良いのですが、霞ケ浦は全くの平野湖です。それから宍道湖は葦原が極端に少ない。今日見て回ってがっかりしたのは完全に護岸工事がなされていて子どもなどは危なくて水辺に降りられないということです。 

 霞ケ浦にも護岸はありますが、葦原は沢山残っています。水鳥もまだ沢山います。宍道湖の場合はこの護岸堤と人間との関係が今後の課題であると思います。

次に汚れやすい湖としての類似性について申し上げます。

湖には「汚れ易さの指標」とも言うべきものがあります。

 汚れ易さの指標とは、フォレンワイダーという人が提案した指標ですが、これはこの間の世界湖沼環境会議でも学者達が高く評価していましたし、最近ではOECDの指標にもなりました。この指標の計算式は「水深」と「滞留時間」から割り出されます。

 つまり湖の汚れ易さの指標としては、湖の形や大きさや容量よりも「水深」と「滞留時間」が大切であるという事を意味しています。湖がどんなに大きくても、水深が浅くて、水が長時間よどんでいれば「汚れ易い湖である」という事になるわけです。

 私の手元に、富栄養化防止条例例規集という本があります。これは茨城県の環境局が発行したものです。何とか霞ケ浦をきれいにしようと、茨城県は富栄養化防止条例を作りましたが、この本はそれを詳しく解説したものです。この中の115ページに計算した結果がのっていますが、そこにはリンの許容負荷量が記載されています。

 富栄養湖とならないためには、一日当り最大限どれ程のリンの量の流入することが許されるのか、という数字ですが、霞ケ浦の場合一日に104.0キログラム。琵琶湖はこの3倍で329.8キログラムであります。宍道湖の場合は70.8キログラムで霞ケ浦より少ない量で汚れます。この本では中海を計算してはいませんが、中海と宍道湖の二つの湖を合計すれば、この数値は恐らく霞ケ浦より少し大きくなるだろうと思います。

 これはどういうところから推測出来るか、といいますと、あくまで宍道湖の滞留年が霞ケ浦よりも少ないことからです。霞ケ浦では水が入れかわるのに0.55年必要ですが、宍道湖は0.2年でいれかわる。つまり霞ケ浦よりも二倍以上の速度で入れ替っている。

 ところが水門が閉じられると、これは当然、滞留時間が長くなります。という事はリンの許容負荷量が減るという事、つまり、少しのリンでも汚染してしまうということです。水門が閉じられれば汚れるであろうというのは、このように、はっきりとした根拠のある話なのです。

 次に最後の類似性、淡水事業の発端について述べてみます。

霞ケ浦に水門がもうけられることになった第一の理由は洪水です。霞ヶ浦は平地湖なので、ひとたび洪水が起こるとなかなかひかない。ひどい場合はーカ月以上も家が水の中にうまってしまうことが幾度もありました。それでこれでは困るということで、利根川の改修工事をしたのです。そうすると今度は海水が逆流してきまして、塩害がおこるようになりました。これでは困ります。それで塩害防止のために水門を作りました。ですから水門は洪水対策と塩害防止のために作られたのです。ですから水門を四六時中閉鎖するつもりは最初はなかった。あくまで洪水の時の水はけを良くするための浚渫と、その後の海水逆流対策として作られたのです。ところが聞くところによりますと、宍道湖も同じような、事情があるようです。

 洪水で水につかって困るということが宍道湖周辺でもしばしばあった。それで大橋川を浚渫したら、その結果、海水が逆流して塩分が多くなった、それで海水の逆流路を閉鎖して、湖全休を淡水化して農業用水に使おうという発想が生まれた。つまりそもそも洪水対策がはじまりであったという点がとてもよく似ています。

土浦港の釣り船とアオコ

 以上のように霞ヶ浦と宍道湖・中海は湖面積、流域面積、水深、歴史的状況、そして汚れ易さまでが実にそっくりです。流域人口、そこに於ける産業、都市の形態などは大分異なりますが、しかしその集水域から流入する栄養塩類、つまりチッソやリンはさほどの違いはないのですから、汚れやすさの指標からみるとこの相違はさして問題ではありません。

 恐らくこの二つの湖は日本にこれ以上似た湖はないのではないか、いや世界を探してもないのではないかと私は思います。そして、その一方の湖である霞ヶ浦は、もう情けなく汚れている。残されたもう一つの方はまださほど汚れてはいないけれど、しかし大変危機的状況にあるというわけです。

第三・霞ケ浦の昔と今

 霞ケ浦の汚れのひどさはスライドで示しました通り言語に絶する状況です。ですから周辺の町には人は寄りつかなくなってしまいました。

 土浦は松江、米子のように京都、大阪などから遠くにある町ではありません。急行に乗ればわずか五十分で東京から来られます。しかも最近の都会の人々は、美しい自然に対してとても飢えているというか、森や山や湖といったものにあこがれを抱いています。また、おいしい水などにもとても敏感に反応する。筑波の湧き水を売り出したら飛ぶように売れたなどという話があるくらいです。だからもし霞ケ浦が私の少年時代ぐらいに澄んだ湖であったら、それはもう大変な人気であったろうと思うのです。釣りにも絶好の場所ですから、昔はとても沢山の釣り客が来ました。私が少年の頃から高校生の頃までは霞ケ浦は勿論、流入する大小の河川の至るところで釣りする光景が見られました。

 ボートも幾十般と出ました。市内を流れる桜川は日曜ともなると朝の四時頃までに行かないと川べりでは釣り糸は垂れられないといった時も珍しくありませんでした。ところが今は釣りする人の姿はほとんど見られません。観光などに湖をたまたま訪れる人も、その汚なさにあきれる始末です。この間ある人のところへお客が団体で来たので観光船へ乗せたら怒り出してしまって、

「いったい、土浦の人々はこんなになるまで何故黙って見ていたのですか」と烈しい口調で怒鳴られたそうです。怒鳴られた人は「私は、湖は自分が汚したわけじゃないから、行政がやればいい、と思っていたが、それじゃだめだということを思い知らされましたよ」と私に話しました。

 こうしたわけで、霞ケ浦は人の寄りつかない湖になってしまった。東京からわずかな距離にあるこの素晴しい湖が全く人の見向きもしない化け物のようなみじめな姿になったということは恐ろしい話です。

 湖が汚れるということは周辺の町や村が衰退するという事を意味します。一時代前までは、霞ケ浦周辺には、水文化圏とでも表現したら良いのでしょうか、多くの町や村が素晴らしく栄えて、互に盛んに交流して生活していました。私はそのころの話をたくさん集めて「霞ヶ浦風土記」という本にまとめましたが、しかし今はどうかと見に行ってみると旅館はつぶれ、漁師村は廃墟になって、湖周辺全体がゴーストタウンのようになっています。

 先日、世界湖沼環境会議でボーマンさんというアメリカの研究者に会いました。私は彼に土浦から持ってきたアオコを見せました。すると非常にびっくりして「これは濃縮してあるのだろう」と言うんですね。それで私が、

「いや湖の水そのままだ」というと、

「そんなことがあるものか、もしそうなら大変なことだ」と驚くのです。そこで土浦に来れば実情が分かりますと言いましたら、大へん忙がしいスケジュールの中を友人の学者と二人でやって来ました。

 そして湖へ案内したら彼は見たとたんに真赤になって怒り出したんです。

「こんな水を水道水に使っているとは信じられない。アメリカだったら裁判裁判沙汰だ」と自分の町の事のように怒っている。それで彼の希望で水道局に行こうということで、その足で訪ねることにしました。彼は水道局側の説明を一応聞いて次のように言いました。

「あなた方のいうことはわかった。そこで私の質問に答えてもらいたい。見るところ上水道行政は破綻しかけている。このことはきっとあなた方自身知っているはずだ。あなた方は生物処理という方法を使って、浄水を作っているそうだが、そんなものまで使わないと水道水を作れないということそのこと自体が、湖が末期的状況にある事をよく示している。十年後にこの水道行政はどうなるのか、そのプランはあるのだろうか」

 そこで所長が「今のところ考えていない」と答えると「あなたは物事をごまかしている」と烈しくつめよったのです。

私たちはその日、もう一人の学者に会いました。国立公害研究所という日本最大の研究所が筑波学園都市にありますが、そこの研究者で、とても熱心で優秀な科学者です。その方に会った時、ボーマシ氏はいきなり、「あなたは誰のために働いているのか」と詰問したのです。

 日本の学者はこんなことを聞かれる事はまずないので、戸惑ったような様子でした。するとボーマン氏は、

「あなたは行政のために働いているのか、学問のためか、市民のためか、自分のメシのためなのか答えてくれ」と言うのです。

 それで彼はしばらく考えた後「湖のため」と答えたが、無論ボーマン氏は納得しませんでした。彼は「この周辺の人々がこんな汚れている水を飲んでいるという現実を学者ははっきりと見なければいけない。学者が研究室に閉じこもって、汚染の結果だけを報告していたのでは、湖はきれいにならない」と興奮して言いました。

 私は、外国の学者が、まるで自分の親しい湖が汚染されて怒っているような情熱で問題を見ているのに、とても驚くと共に感動も覚えたのです。

 スライドでもお見せしましたが、湖は夏になると一面アオコに覆われます。それだけではありません。この夏は、水道水の中にアオコが出て来てしまったのです。こんなことはちょっと信じられないことですが、本当に起こってしまった。

 筑波学園都市でも霞ケ浦の水を飲んでいるのですが、どうも水道水が緑色を帯びているというので専門家が調べたら、アオコそのものであることが判ったんですね。そもそもアオコとは何物であるのかというと、最近ではラン藻ではなく、シアノバクテリアというバクテリアであるということになっているのです。

 アメリカのスタンウェルという学者が「シアノ.バクテリア」という本に書いていますが、アオコというのは、ブルーグリーンアルジ、すなわちこれまでは藻であるということになっていたのですがこれは誤りである、実は光合成の力をもっている大腸菌に似たバクテリアだというのですね。

土浦市内を流れる新川のアオコ

 日本の陸水学会でもこれを認めています。つまりアオコはバクテリアとして扱うということになっているのです。ということは、霞ケ浦は、バクテリアを培養している湖であって、私たちは、そのバクテリアの沢山増殖している水を、何とかろ過して、臭いを消して、これを飲んでいるわけです。水道事務所の方でもこのような水を水道の原水として使っているのですから大へんな苦労もしていますし、新しい技術の開発もしているのです。この努力は認めなくてはならないと思います。

 クロールについては水道法では0.1PPM以上入れるように、とされて居りますが、霞ケ浦の場合は原水が汚ないので40PPMも入れている。これはつまり400倍ということです。勿論、季節的変動やその年の水の状態で変るでしょうが、それにしてもとても高い値のクロールを入れている。又、水道水がカビ臭いとかドロ臭いというので、粒状活性炭を使っていますが、この厚さが2.6メートルもあります。更に擬集剤としてパックという薬剤を使用していますが、こういうものを使うようになったのも霞ケ浦が日本で最初であります。

 しかしこれはどの工程を経てもまだ満足できる水道水を作れない。そこで数年前から生物処理法というものを取り入れました。これは微生物による水の浄化力を利用したものですが、てっとり早く申しますと、人工的に川を作ってやる。一つの建物の中に、ハニカムチューブというものを組み入れて、その中に霞ケ浦の水を流す。こうすると、そのチューブの周辺にくっついた微生物が、原水の中の汚れの成分を食って分解して浄化してくれる、その原理を応用したものです。実験槽を建てるのに1.5億円の費用がかかりましたが、来年の科学博までには30万人に供給しようというわけで、現在45億円をかけて装置の建設を進めています。

 こんな莫大なお金も、もともとの水がきれいであればかける必要はない。しかし普通の方法ではどうにもならないところまできているから、水道関係者も必死になって努力をして、こんな装置まで導入しなければならなくなってしまったという次第なのです。

 この夏は殊に、さき程お話しましたように水道の中にアオコ出る始末でしたし、また、風呂の水が白濁するとか、あわが立つなどという異常があちこちで発生しました。それで私たちは急きょその実態を知ろうというわけでアンケート調査をしましたところ、80%以上の人が「この水を飲むのは不安である」と回答してきました。

飲み水が不安だというのは、その町の存立にとっても大へん重大な事態であるということが出来ますが、それもこれも霞ケ浦の水が汚れてしまったということに原因があることはいうまでもないのです。

第四・汚染原因と対策

 さて、次に富栄養化防止条例というものについて述べてみたいと思います。この条例は昭和57年9月から施行されましたから、ほぼ2年たっているわけです。その目的は、申し上げるまでもなく、湖の水質悪化、とりわけ、その富栄養化をくいとめることにあります。ですから、この条例の骨子は、富栄養化を進行させる因子を除去すること、あるいは流域から湖へ流れ込むのを防止しするということにありまして、県もこの条例の遂行にはとても力を入れています。

内容を読むと実に厳しいものです。なにしろ、昭和65年のCODを、6PPM台にしようと定めているし又、現在流入しているN・Pの量を大巾に減らそうとしているのですから、規制の内容もそれなりに厳しいわけです。

 そのために、周辺産業に対して、また住民に対して相当きついことを要求しています。

 たとえば、農業についてみますと、現状では農地、レンコン畑などから、Nが4.5t/日Pは、0.23t/日流入していますが、これでは困るというので、あまり肥料をやらないように、という指導が成されています。

水産についてみますと、以前は霞ケ浦の漁業の主体はわかさぎ、しらうお、などで、これを帆曳網で獲っていたわけです。ところが、水門を閉めると獲れなくなるので、県では、獲る漁業から育てる漁業へ転換するように行政指導をしました。昭和38年から40年にかけて推進されました。

漁民たちはお金をかけてコイの養殖場を作った。そして数年の間は順調にのびてきたのですが、40年代中頃から急激に水質の悪化が進行してきた。そして、48年には1500トンものコイが死にました。原因は汚染による酸欠です。

常陸利根川の水門

霞ヶ浦を海を遮断するための常陸川水門は38年に完成し、それが完全には閉鎖されずに、海水の逆流を防止して湖の淡水化を計っていたのですが、四十八年にはこれを完全に閉鎖した、その時期がコイの大量死と一致しているわけです。

 この年のアオコの発生は今年の数倍もひどいもので、出島(現在の霞ヶ浦町)という漁が最も盛んなところでは、アオコが1メートルも水面につもって、陸地だと思って降りた水鳥が、アオコの中にもぐって窒息死するといった、想像もできないような出来事が日常茶飯事となりました。漁船のスクリューが空回りして全く動きが取れなくなったというほどの惨状になったのです。

斃死した養殖鯉 平成48年

 このようなことが起ってから、養殖コイは水の汚染の原因の一つではないかといわれるようになりまして、餌のやり方が指導されるようになったのです。

 県の資料では、養殖コイによる汚染資料は、Nについて、1.495/日で、全体の12.8%、Pについては、0.27t/日でありまして、全体の21.6%という値が公表されています。ですから、漁業者に対してもかなり厳しい指導がされるようになりまして、殊に条例施行後は、「餌をあまり食べないでも育つ魚」とか、「アオコを食べて大きくなる魚」を飼うようにといった指導がなされるようになりました。そこで漁民は、テラピアとか、白蓮を飼うようになりました。しかし、テラピアは冬を越すのがとても難しい。白蓮は値段が安い。1キログラム50円にもならないという話です。おまけに霞ケ浦のコイの値段はキロ300円を割るという有様で漁民にとっていい事はありません。

 漁民の中には設備投資に数千万円をかけて、その借金が返済出来ずに四苦八苦している人々がかなり大勢居るという話です。冷たい見方をする人の中には、

霞ヶ浦に張り巡らされた「鯉養殖の網生け簀場」

「養殖コイ者はいまに借金で倒産するだろうから、しばらく静観していた方がいい」などと言う者もいるほどです。

ともかく条例で漁師さんたちは大へん苦労していますし、やがては、養殖網の数を減らすことになるだろうということです.

今霞ケ浦全休で8000網あり、その売り上げは20億から30億の間を行っているのですが、これを50000網に減らすというように言われています。 

 学者の中には、網イケスによるコイ養殖の汚染負荷は極めて高い、恐らく30%~50%ではないか、だから湖をきれいにするためには、網イケスのあり方自体を考え直さなくてはだめだ、という人が居りますし、その意見ももっともではあります。けれども、養殖コイが始まったのは、水門閉鎖に伴う淡水化によって漁業の形態の変革を行政自体が指導したのですから、おいそれと止めろとはいえません。

 ともかく漁民は今後どのように養殖業をやっていくか、やめるか、岐路に立たされているといえます。

 養豚の方に関しても、それ迄の素掘りの屎尿施設をコンクリートの処理施設に改良しなさいと、強力に指導を受けています。

 工場に関しては全国一厳しい規制が行なわれています.Nが10PPM以下、Pは1PPM以下と定められていますから国の基準値の6,7倍も厳しい。また、新規の工場建設については無排水クローズトシステムの採用が望ましいとしています。これはどういう事かと申しますと、排水を全く、工場外に出さない、ということです。

 工場内で排水を処理して、リサイクルさせるというのですね。このクローズトシステムというのは私たちの会が、半導体工場の排水について問題にしたことから脚光を浴びるようになりました。

半導体工場と廃液

無排水クローズトシステムというものが新規工場に義務づけられるようになった経緯については、霞ケ浦の沿岸にテキサスインスツルメントという世界的な半導体製造会社が進出した事が契機となっています。これは霞ヶ浦の水質に甚大な影響を与える出来事でしたし、もしこれが何の規制もないまま排泄されていたら、これまで各地で起きたいかなる公害よりも深刻な問題になっていたでしょう。しかし幸いにもこれは私たちの反対運動と企業側の素早い対応と理解によって未然に解決されました。これはこれまでのように、公害が発生して大問題化するという成り行きとは全く異なった経緯をとったという事から、お話しする意義があると思います。

昭和56年2月、美浦村木原に建設中の半導体工場の排水が、霞ヶ浦水道の取水口の500㍍先に流されるという事が、突然明らかになりました。

日量1800トンの排水を流すという。半導体工場ですから、様々な金属、アンチモン、ガリュウム、ヒソなどのほか、酸、アルカリ、又、有機溶剤が流されます。しかもこれらのほとんどは現状の条例には基準値すらもない。ですから、どんどん排出されてしまう。これは大変だ、というので私たちの会ではそれは猛烈な反対運動をはじめました。

 なにしろこのままでは重金属汚染になるのですから、絶対に排水をさせてはいけない。しかし村が誘致して県も応援しているのですから、やみくもに反対しても成功の見込みはない。半導体工場には多くの県民・村民が採用されることになっていますし、村の税収も莫大なものでしょう。しかも当時の法律には何も違反するところはない。それを何の対案も為しに「とにかくやめろ」というのではなかなか解決しそうにない。そこで何か名案はなかろうかと必死で調べてみると、NECなどでは全く排水を系外に出さずに半導体を作る実験をしていることがわかりました。なぜそんな企業秘密が僕に分かったかと言えば、ひとつの不思議な事が関係しています。

僕は慶應義塾大学医学部の時、山岳部員で本格的な山登りをしていましたが、その山岳部の1年先輩の安達史郎さんは疫学の専門家として慶応大学医学部で研究していたのですが、テキサスインスツルメント半導体排水が問題となった頃、学園都市の国立環境研究所環境部長として赴任してきたのです。これを知って、僕は早速相談に行きました。すると彼は、

「僕はその道の専門家ではないから直接協力することはできないけれど、図書室や資料室には役に立つものがあるかも知れない。自分で探してみたらどうだ」と言ってくれたのです。それで片端しから論文を読んでゆくと、なんと、

「無排水クローズトシステム」の設計図が見つかったのです。(この設計図詳細は前述「櫻川」17号に掲載)

無用となった半導体廃液水路

「これだ」と欣喜雀躍して、すぐさま美浦村の市川紀行議員に会いに行きました。彼と僕は高校時代からの友人で、半導体工場建設問題が起きた当初から協力しあってきたからです。僕がその設計図を市川君に見せると、「私が村長を説得し、テキサスインスツルメント側と交渉してみる」と決意を語りました。その結果、信じられない奇跡が起きました。美浦村側からの「完全クローズトシステムを採用すべきである」との提案をテキサスインスツルメント側が全面的に受け入れたのです。そしてテキサスインスツルメントはその誓約通り、工場の操業を新システム完成まで先送りしたのでした。

 この結果は、「茨城県霞ヶ浦の富栄養化の防止に関する条例」(昭和56年12月21日制定)に大きな影響を及ぼしました。(同条例第20条参照)(付記・この出来事に関しては土浦の自然を守る会の会報『櫻川』17号に詳述されています)

第五 湖の汚染と市民生活

  次に、霞ヶ浦の汚染問題に関して一般市民の生活はどのような影響を受けているかと申しますと、

「湖の汚染の責任はあなた方一人一人でもあるのです」と行政から指摘されまして、無リンの洗剤を使ったりして何とか汚染負荷を少なくしなさいと指導されています。

 私たちの会では、やはり節水と、有機物、リンなどの負荷を少なくすることは是非とも必要だというわけで、以前から「あまり洗たくはしないようにしよう」などと呼びかけをしておりますし、今回の世界湖沼会議では「パンツ以外はあまり洗うな」というようなシンボリックな呼びかけをしたりもして、私たちの生活の中からの汚染源を絶とう、という努力をしているのです。

 このように、霞ケ浦をとり巻く市町村の住民たちは様々な形で、大変苦労を強いられております。漁民や養豚農家のように生活自体が直接おびやかされている人々も大勢居るのです。

 勿論、行政自体も大へん苦しい立場にあることは否めません。何といっても、淡水化をすすめる時には、こんなに水の汚染が進むとはおそらく予測もしなかった。ところが水門を閉めた頃から汚染は急速に進行して、現在は工業用水、農業用水の環境基準にも適しないひどい状況に立ち至った。これから十年先のことを考えると、当局としてはなんとか今のうちに手を打たないとにっちもさっちもいかなくなる、ということが分っている。それで、今回の条例発行になったのですが、その内容は今お話ししました通り、周辺の住民にすこぶる大きな負担を強いているものです。

 ですから、沿岸の村長さんの中には「こんなに農民や漁民に苦しい思いをさせるというのは承服しがたい。これほどまでにしなくてはならないというのなら、湖などきれいにならなくてもいい」と公言する方もいるほどです。

土浦駅近くのホテルと「アオコ採取船」
土浦市内 霞ケ浦へ流入する新川河口

第六 宍道湖・中海を淡水化したときの未来像について

 これまでお話したのは霞ヶ浦の状況です。このような惨状はそもそも淡水化しようとするときに、こうした事態が起るかもしれないという予測がつけば、あるいはやらなかったかもしれません。しかし、今となってはとても引き帰すことは出来なくなっているのです。

 というのは、水門は一度閉鎖されてしまうと二度と開けられなくなってしまうのです。この点を宍道湖の皆さんには十分に分っていただきたい。

 なぜ一度水門が閉じられたら開放出来なくなるかといいますと、次のような理由からです。

 つまり、それまでは塩水だからというので、この水にそれほど頼っていなかった周辺の住民も、ひとたび淡水になってしまうと、あらゆる用途に用いるようになるのです。飲料水、農業、工業用水、これらに年間数億トンも使います。そのための導水は県南県西に網の目のように張り巡らされ、筑波さんの中腹には導水をカスケード方式で配給するためのトンネルが開通しています。農業・工業・市民生活のすべてが淡水化された湖に依存するようになったのです。こうなると、水が汚れたからといって、水門を開けるわけにはいきません。開ければ海水が入りますから、稲は枯れますし、水道水は塩っ辛くなる、工業用水としては使えなくなるということで、一般市民の生活が成り立たなくなりますし、産業を滅させてしまうことを意味します。従って、どれほど汚れても、水門を閉じたままの状態でなんとかこれをきれいにしなければならない。ところがこれは大変な金がいります。住民の苦労も、行政の努力も恐ろしいほど大変なものであります。しかし、それに見合った効果が上がりません。観光で生きている人たちは干上がったままです。

 ですから、水門の問題は水の問題であると共に、周辺の市町村の百年の将来にかかわる大問題なのです。

 では、一度決定した国策が撤回される見込みはあるのだろうかということですが、霞ケ浦でも昭和四十九年に高浜入り干拓事業を強行しようとする農水省と、これに反対する住民とが正面衝突したことがありました。高浜人干拓というのは、米の増産をはかるために霞ケ浦の1/10の湖面を埋めたてようとするものでしたが、私たちは勿論反対して、請願署名運動をして、これを県議会に提出しました。

 そして思いがけないことに、請願は採択されました。昭和五十三年に最終的に知事がこの干拓事業を中止すると公式に発表したのです。これを見ても、政府・農水省の計画とはいえども、その時代に応じて、計画の中止はあり得るわけです。

 確かに二〇年あるいは三〇年前には農地の造成は正しい計画であったのでしよう。しかし長い歳月の間に、状況は全く変ってしまったのです。私は、湖の開発事業計画というもの全般に関して、農水省は、ここで立ちどまって、その持てるすばらしい技術を、新しい未来を開く方向へ転換すべきだと思うのです。

 現在の宍道湖・中海は、N,P濃度はとても高い値を示しています。霞ケ浦と比べてもほとんど同じぐらいです。ですからこの地域での最大の課題は、水門の閉鎖による淡水化の推進ではありません。そんなことをしたら、はじめにお話し申し上げました通り、間違いなく汚れます。アオコは必ず大発生するでしょう。今ここでやるべきことは、集水域からのN,Pの流入を防止するための作業です。それにはさまざまな手段が必要です。土壌浄化法とか、処理水のリサイクル、その他、様々な技術によって、N、Pの流人を防止しなければなりません。そうしなければ、水門を閉じなくても宍道湖は汚れていくでしょう。

 こうしたわけで、私は、農水省などは、このような地域からのN,Pの流入防止のための技術開発に力を入れるべきだと思うのです。   

松江市内を流れる水路や松江城周囲の掘り割りには、宍道湖からくみ上げられた豊富な水が流れている

   現在の松江はほんとうに奥しい町です。今回、講演のために訪問させていただきましたが、土浦の状況と比べると羨やましい限りです。観光客は年間100万を越えるそうですが、今後はもっと増えるでしょう。というのは、今は地方都・市の良さが見直されて、若い人々がどんどん活躍するようになる可能性があるからです。ですから、皆さんがこの湖をどのような姿にするかで、松江の将来が決定されるだろうと思うのです。現在の2倍の200万人の観先客が訪れるようになるか、それとも閑古鳥の鳴く町になるかは、市民のみなさんの態度いかんであると思います。 汚れ易い湖は、パンドラの箱のようなものであるといえるかもしれません。箱のフタは海水です。箱の中には、N・Pがつまっています。N・Pは条件がととのいさえすれば、アオコという化け物に変わるのです。海水は、箱にしっかりとフタをして化け物の出現を防いでいます。もし、このフタを開けたら、つまり海水をとりのぞいてしまったら、化け物は喜び勇んで飛び出してくるでしょう。そしてそれは、とりかえしのつかぬ惨状を招くでしょう。

 霞ケ浦は、このフタを開けてしまったのです。そしてそのフタを二度と閉めることはできないのです。しかし、宍道湖は、まだ望みがあります。いくらこの二つの湖が似通っているからといって、汚染された状況まで似てほしくありません。霞ケ浦という兄貴は、だらしなかったのであんなみじめな姿になってしまったが、弟はちゃんと美しい姿をいつまでも保ってほしいのです。皆さんの力で、是非ともこの宍道湖を守って下さい。

 長時間お話し申し上げましたが、これで話は終りにいたします。

 ありがとうございました。

松江での講演 了   1984年9月

巻頭にも示した通り、この講演記録は、1984年開催された宍道湖・中梅淡水事業反対のための講演会主催者が私の講演を録音し、書き起こした原稿をもとに書き表したものです。

2004.8.7.佐賀純一記す