百人一首ものがたり 98番
目次
風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
みそぎぞ夏の しるしなりける
百人一首ものがたり
- 百人一首ものがたり 100番 順徳院
- 百人一首ものがたり 10番 蝉丸
- 百人一首ものがたり 11番 参議篁
- 百人一首ものがたり 12番 僧正遍昭
- 百人一首ものがたり 13番 陽成院
- 百人一首ものがたり 14番 河原左大臣
- 百人一首ものがたり 15番 光孝天皇
- 百人一首ものがたり 16番 中納言行平
- 百人一首ものがたり 17番 在原業平朝臣
- 百人一首ものがたり 18番 藤原敏行朝臣
- 百人一首ものがたり 19番 伊勢
- 百人一首ものがたり 1番 天智天皇
- 百人一首ものがたり 20番 元吉親王
- 百人一首ものがたり 21番 素性法師
- 百人一首ものがたり 22番 文屋 康秀
- 百人一首ものがたり 23番 大江千里
- 百人一首ものがたり 24番 菅家
- 百人一首ものがたり 25番 三条右大臣
- 百人一首ものがたり 26番 貞信公
- 百人一首ものがたり 27番 中納言兼輔
- 百人一首ものがたり 28番 源宗于
- 百人一首ものがたり 29番 凡河内躬恒
- 百人一首ものがたり 30番 壬生忠岑
- 百人一首ものがたり 31番 坂上 是則
- 百人一首ものがたり 32番 春道列樹
- 百人一首ものがたり 33番 紀友則
- 百人一首ものがたり 34番 藤原興風
- 百人一首ものがたり 35番 紀貫之
- 百人一首ものがたり 36番 清原深養父
- 百人一首ものがたり 37番 文屋朝康
- 百人一首ものがたり 38番 右近
- 百人一首ものがたり 39番 参議等
- 百人一首ものがたり 40番 平兼盛
- 百人一首ものがたり 41番 壬生忠見
- 百人一首ものがたり 42番 清原元輔
- 百人一首ものがたり 43番 権中納言敦忠
- 百人一首ものがたり 44番 中納言朝忠
- 百人一首ものがたり 45番 謙徳公
- 百人一首ものがたり 46番 曽禰好忠
- 百人一首ものがたり 47番 恵慶法師
- 百人一首ものがたり 48番 源重之
- 百人一首ものがたり 49番 大中臣能宣朝臣
- 百人一首ものがたり 50番 藤原義孝
- 百人一首ものがたり 51番 藤原実方朝臣
- 百人一首ものがたり 52番 藤原道信朝臣
- 百人一首ものがたり 53番 右大将道綱母
- 百人一首ものがたり 54番 儀同三司母
- 百人一首ものがたり 55番 大納言(藤原)公任
- 百人一首ものがたり 56番 和泉式部
- 百人一首ものがたり 57番 紫式部
- 百人一首ものがたり 58番 大弐三位
- 百人一首ものがたり 59番 赤染衛門
- 百人一首ものがたり 60番 小式部内侍
- 百人一首ものがたり 61番 伊勢大輔
- 百人一首ものがたり 62番 清少納言
- 百人一首ものがたり 63番 左京大夫(藤原)道雅
- 百人一首ものがたり 64番 権中納言定頼
- 百人一首ものがたり 65番 相模
- 百人一首ものがたり 66番 大僧正行尊
- 百人一首ものがたり 67番 周防内侍
- 百人一首ものがたり 68番 三条院
- 百人一首ものがたり 69番 能因法師
- 百人一首ものがたり 70番 良暹法師
- 百人一首ものがたり 71番 大納言経信
- 百人一首ものがたり 72番 祐子内親王家紀伊
- 百人一首ものがたり 73番 権中納言匡房
- 百人一首ものがたり 74番 源俊頼朝臣
- 百人一首ものがたり 75番 藤原基俊
- 百人一首ものがたり 76番 法性寺入道前関白太政大臣
- 百人一首ものがたり 77番 崇徳院
- 百人一首ものがたり 78番 源兼昌
- 百人一首ものがたり 79番 左京大夫顕輔
- 百人一首ものがたり 80番 待賢門院堀河
- 百人一首ものがたり 81番 後徳大寺左大臣(藤原実定)
- 百人一首ものがたり 82番 道因法師
- 百人一首ものがたり 83番 皇太后宮大夫(藤原)俊成
- 百人一首ものがたり 84番 藤原清輔朝臣
- 百人一首ものがたり 85番 俊恵法師
- 百人一首ものがたり 86番 西行法師
- 百人一首ものがたり 87番 寂蓮法師
- 百人一首ものがたり 88番 皇嘉門院別当
- 百人一首ものがたり 89番 式子内親王
- 百人一首ものがたり 90番 殷富門院大輔
- 百人一首ものがたり 91番 後京極摂政前太政大臣
- 百人一首ものがたり 92番 二条院讃岐
- 百人一首ものがたり 93番 鎌倉右大臣
- 百人一首ものがたり 94番 参議雅経
- 百人一首ものがたり 95番 前大僧正慈円
- 百人一首ものがたり 96番 入道前太政大臣
- 百人一首ものがたり 97番 権中納言定家
- 百人一首ものがたり 98番 従二位家隆
- 百人一首ものがたり 99番 後鳥羽院
- 百人一首ものがたり 2番 持統天皇
- 百人一首ものがたり 3番 柿本人麻呂
- 百人一首ものがたり 4番 山部赤人
- 百人一首ものがたり 5番 猿丸太夫
- 百人一首ものがたり 6番 大伴家持
- 百人一首ものがたり 7番 阿倍仲麻呂
- 百人一首ものがたり 8番 喜撰法師
- 百人一首ものがたり 9番 小野小町
小倉庵にて 権中納言藤原定家と主治医・心寂坊の対話
「あと三人でござります」と心寂坊は何かを恐れででもいるように密やかな声で言った。
「そうでごさりますよ」定家は青ざめた顔で頷いた。
第98番目のものがたり 「今人麻呂」
家隆殿が出家して摂津の国の四天王寺にお入りになると聞いて取る物もとりあえず屋敷を訪ねると、家の中はすっかり取り片付けられ、家隆殿は奥の間に横になっておられた。
「今生のお別れです。山には入ればそのまま仏となりましょう」 家隆殿はやせ細った首を少しこちらに向けて呟くように言った。
「何を申される。また近々歌合をいたしましょうぞ」
「私はもう八十です。このような世に、よくもまあこれほど長く生きられたものと、驚いております。思い残すことなにひとつありません」
家隆の目に涙がうっすらとにじんでいる。私は胸がいっぱいになって何も言うことができなかった。
澄み渡った十二月の空の下でヒヨドリが鳴いている。家隆殿はその鳥の声にしばし耳を傾けていたが、
「あの鵯は今朝放してやったのです」と細い声で言ったので、私は首を伸ばして鳥の声のする方を眺めて、
「あれが有名な『荻の葉』というヒヨドリですか」
「いいえ、あれは後久我の太政大臣にいただいた『おもなが』です。心が分かる鳥でしてね、私が籠の戸を開けてやると、つつと出て、籠の出口の竹に止まってそれより外に出ようとしない。私が「もういっしょには暮らせないのだ。仏のもとにまいるのでな、そなたは空の下に庵を求めなさい」とこう申すと、それはもう悲しげに鳴いて、それから籠の外にサッと飛んでゆきましたが、どこかへ消えたかと思うといつの間に戻ってきて、また近くの木の枝に止まって鳴いているのです。鳥にも別れというものが分かるのかと思うと、泣くまいと思っても、つい涙が出ましてな、閉じた眼の間から、このように涙がこぼれるのです。・・・あの鳥の鳴き声を聞いていると、さまざまに思い出しまして・・・」家隆殿は涙を袖で抑えてた黙りこくった。
家隆殿のヒヨドリ好きは度が過ぎるほどだった。これまで何度も名のある鵯を手に入れて飼っていたが、『おもなが』という鵯はもともとは後久我の太政大臣通光が飼っていたものを、評判を聞いて何としても欲しくなり、使者を立てて、
『如何なる代価をお払いしても結構でござります故、是非とも譲っていただけませんでしょうか』と懇願したのである。
しかし通光様もこの鳥にはご執心なさっておいでだったので、
『その願いばかりは聞くわけにはまいりまぬ』と拒絶し続けた。家隆殿は嘆き悲しんで、
いかにせむ山鳥の尾も長き夜を
老いの寝覚めに恋つつぞなく
(私はどうしてこの夜をすごしたらよいのでしょうか。山鳥の尾のしだり尾のように長い夜を、年老いた私はしばしば寝覚めて、おもながのことを恋い慕って思い出しては泣きながら辛い夜を過ごしているのです)と歌った。この歌を人伝に聞いた通光公は、
『家隆殿がそれほどまでに恋しがっておいでならば、致し方ない』と使者を立てておもながを贈り届けた。この話は荒れ果てた世の人々の心を打ち、大評判となった。そしてそれほどのヒヨドリとはどのような声で啼くのであろうと、多くの公卿や殿上人が家隆殿の邸に押しかけたほどだった。
ところが家隆殿は、それほどまでに愛玩していたヒヨドリを、今朝、籠から放してしまったという。
『もはや覚悟を定めて居られるのだな』と私は決意のほどを改めて思い知らされた。
女たちが高坏に肴を載せて入ってきた。家隆殿は家人に助けられて起きあがり、柱に背をもたせかけて、杯を手に取った。
「新古今集の編纂を終えた時、後鳥羽上皇は華やかな宴を催されて、皆々天上の酒のような旨酒をたっぷりと飲んだものでした。あれからはや三十余年、何もかもがこうも変わろうとは」家隆殿は震える手で杯を口に持ってゆくと、一口すすって、目を閉じた。かわいた唇半分だけ酒に濡れている。私も黙って酒を飲んだ。飲みながら、隠岐に流された後鳥羽院が『家隆殿は都を捨てて摂津の四天王寺にお入りなった』と耳になされたらどのようにお思いになられるであろうか、とふとそう思った。
家隆殿が都を去って程なくして、四天王寺から急ぎの使いがやってきた。いよいよ危ないという。取るものもとりあえず駆けつけると、家隆殿は粗筵の上に端座し、合掌して臨終の時を待っていた。筵の上には和歌が七首書き記してある。ひとつは、
契りあれば難波の里に宿りきて
浪の入り日を拝みつるかな
最後の一首は、
かくばかり契りましますあみだぶを
知らず悲しき年をへにける
『ああ、家隆殿はこのような世界へたどり着かれたのか』私は筵に上り、つくづくと顔を見つめて、
「家隆殿、そのように生き仏のように悟りを得て、筵の上で往生の時を待っておられるのを見ては、何と申してよいやら分かりません。しかし、どうしても申しておかねばならぬことがあるのです。何としてもお聞き下さい」私がこう言うと、家隆殿は細目を開けてこちらを見つめ、震える唇を開いた。
「定家殿。よくおいでになって下された。命尽きる時に心の友に見送られるということは、この世で最も幸せなことと存じます」
「そのような他人行儀はお止め下さい。それより、私がこうして参りましたのは、他でもありません、私は、そなた様にあやまらねばならぬのです。この通り・・・どうかお許しくだされ」
「何をなさる・・・定家殿・・・」
「家隆殿・・・どうか、お心を鎮めて聞いてくだされ、いいや聞かずとも話さずにはおられぬ。私の話を聞き終えるまでは、極楽往生していただいては困るのです」
「・・・」
「私は、このわたくしは・・・数十年の間、いや、それどころか、私が歌というものを歌い始めてから後、七十年余年の間、心の底で、常に家隆殿を羨んでおった。そなた様が義理の父である寂蓮様に連れられて私の父のところにおいでになり、私の父とあなた様が子弟関係を結んだと知った時から、私の心には激しい嫉妬心がわき上がったのです」
「・・・」
「そなた様がどれほどの才能があるお方か、幼い私にもひと目で分かりました。家隆殿は紫式部の末裔、その血筋は争えませぬ・・・私などは、いくらじたばたしても、そなた様の才には及ぶ者ではありませんでした・・・果たして父俊成は家隆殿の歌人としての才能の豊かさに驚き、父の持っている全てを授けようとなさった。実の子が側にいるといのに、私を差し置いて、父は、あなたに全てを譲ろうと決意したのです・・・私は父が西行殿にこう申されたのをはっきりと覚えております。
『家隆と申す若者は、まちがいなく、後の世の歌仙となるべき人物です。歌の故実、意味などについては何事も聞かず、知ろうともせず、ただひたすらに心を求めている。『歌を詠むにふさわしい真実の心とはいかなるものであるか』その一事をどこもまでも問い続けている。
家隆は必ずや余人の到達できぬ歌境にたどりつくでありましょう。この俊成にもその歌境がどのようなものであるか想像だに出来ぬことですが、あの若者はいつかそのようなところにたどりつくであろう事は疑う余地もありません』
私は父が西行殿にこのように話をするのを聞いて、胸が張り裂けそうに悔しい思いでした。自分の息子をさて措いて、弟子に全てを託すとはなんたることであろうか。私は父をお怨み申そうとしました。しかし無論、そのようなことは天地神仏が許さぬ所行ですから私はすぐさま心の中で謝りましたが、あなた様に対する羨望と敵対心は密かに私の胸の底にわだかまることになったのです。そしてその思いは生涯を通じて、心から離れることはありませんでした」
夜の春風が堂内を緩やか漂っている。家隆殿は目を閉じ、じっと耳を傾けて居られた。
「私はその時は知らず、後になってそれと知ったのですが、父は家隆殿に、私には密かに、歌の奥伝を伝授なさいましたね。そして、その時同席した西行殿もまた、家隆殿に秘蔵の歌集をお授けになられたと聞きました。
人伝に聞くところに寄れば、西行殿は長年書きためた歌の中から七十二首を選び、これを三十六番につがい、御裳濯川歌合と名付けて色々の紙を継ぎ合わせて美しく創り、これを慈鎮和尚に清書を頼み、完成すると父にお見せして判詞を書いてもらっいましたが、その時西行殿が家隆殿にお渡ししたのはこれとほぼ同じ内容の宮川歌合であったということでした・・・私は驚きのあまり頭痛と吐き気に襲われ、数日寝込んでしまいました。それは他でもない、西行殿が家隆殿にお渡ししたのは、私も深く関係していたものだったからです」
「・・・」
「西行殿はそれらの歌を宮川歌合と名付けて、番いの歌を三十六番作り、私を呼んで、
『これよりわたしは諸国修行の旅に出ようと思いますが、御裳濯川歌合はそなたの父俊成殿に判詞を書いてもらったので、これは是非、次の世の歌を担う定家殿に判詞を書いていただきたいのです」とこのように申されるので、西行殿ほどのお方の歌集の判詞を書かせていただけるとはこの上ない名誉と思い、欣喜雀躍して書かせていただきました。
西行殿はこの二巻、御裳濯川歌合と宮川歌合の二巻を常に笈の中に大切に忍ばせ、諸国を巡り歩いていたと聞きました。ところが、ある時西行殿は何を思われたか、突然都に戻り、寂蓮殿を訪れられた。その頃、家隆殿は寂蓮の家の娘婿になって居られましたが、西行殿が都に戻ったのは寂蓮に会うためではなく、家隆殿に会うためでした。西行殿は、家隆殿に、
『今の世にあなたほどの歌詠みは二人とないと心得る。この二巻の歌合いは私の愚詠を集めたものであるけれど、是非ともお手元に置いていただきたい』とこう申されたと言う。これを人伝に聞いた時の私の胸の内がどのようなものであったか、ご想像ができましょうか」
「・・・」
「しかし、これだけではありません。これよりも忘れられぬ出来事が起きました。後鳥羽院がまだ和歌をお始めになられて間もない頃のことです。院は後京極太政大臣良経様を召し出されてこうお尋ねになられたと聞きました。
『私はこれより命を賭けて和歌を学ぼうと思うが、師とする者は誰が良かろうか』
良経様は即座に『家隆こそ師にすべき者でござりましょう。なぜと申すに、この者は、当世の柿本人麻呂に侍ります故に』
これを聞いたときの衝撃は今もって忘れられません。家隆殿が当世の柿本人麻呂であるなら、この私はいったい誰だというのですか。人麻呂に優る者はこの世にありようはずもありません。であるなら、この私は家隆殿の足下にも及ばぬということを意味するのでしょう。私は嫉妬し、そして憎みました・・・・
ところがある日、私は突然、知ったのです。これを聞いた時、私は己の心の狭さ、醜さを思い知らされたのです」
その出来事というのは、ある時太政大臣良経様は身近に家隆殿を呼んでこうお尋ねになられたという。
「この世で歌人として知られる者は数多いが、その中で誰を第一とすべきであるか、それを尋ねたい。
俊成殿は『家隆こそ後世に歌仙と呼ばれる歌人でありましょう』と断言された。そこで家隆殿ご自身は誰が第一とお思いか、それをお聞かせいただきたい」
家隆殿は黙して語らなかった。良経様はジリジリして、「遠慮はいりませんぞ。誰ぞ、名を挙げて下さい」と迫りました。家隆殿はそれでも黙って口を開こうとしませんでしたが、やがて懐から畳紙を出してその場に落として立ち去りました。良経様がこれを取って見ると歌が記されておりました。
明けばまた秋の半ばも過ぎぬべし
かたぶく月の惜しきのみかは
(秋の夜長はいつまでも明けぬと思っていても、明けてしまうと、もう秋の半ばも過ぎようとしている。あれほど待ちこがれていた月も傾いて、光も失せようとしている。なんとこの世の名残のとどめがたいことか、なんと全てが口惜しくも消えて行くことであろうか)
それは私の歌でした。家隆殿は常日頃から私の歌を懐に入れて繰り返し口ずさんでいることをそれとなく良経様に知らせたのでした。良経様の私を見目が突然変わったのはそれより後の事です。
しかし、私にとりましては、家隆殿こそが憧れでした。家隆殿の歌を私は何百回も倣いました。そして私ごときものには到底及びもつかぬ歌人であることを思い知らされていたのでございます。家隆殿こそ古今第一の歌詠み、この私など、足下にも及ぶ者ではありません」
私がこのように述べて口を閉じると、家隆殿は細い目を開けてこちらを見つめました。紙燭の明かりが風にゆらめいて、家隆殿の細い目の中で小さく輝いておりました。
ややしばらくして家隆殿は嗄れた口を開きましたが、それは思いがけなくはっきりとした口ぶりでした。
「私の思いは、定家殿とはいささか違います。天の下、第一の歌詠みは私ではありません。定家殿、あなた様でござります。あなた様を除いて、誰が歌の道を伝える者がありましょうや・・・定家殿、どうか、私の申すこともお聞き下さい。・・・私には分かるのです。あなた様の歌は私共のものとは全く違う。定家殿のような歌は、誰も詠むことはできません。今だけでなく、上古の方々もそれは不可能であったのです。あなたの歌はいかなる世の歌をも超えています。それ故に、私のただひとつの喜びは、そのような定家殿に、嫉妬され申したということです。それほどのお方に、数十年の間あたかも肩を並べているかのように見られていたことは、ほんとうに幸運なことでございます。故に、私には、何の思い残すこともありません。何一つわだかまりはないのです。しかし」
家隆殿はこう言って言葉を切り、細く鋭い眼差しで私を見つめました。それは長年の間、私が見慣れていた眼差しとは違う色を湛えていました。
紙燭の明かりが皺の重く寄り重なった目の回りをぼんやりと照らしています。家隆殿は思い悩んでいるのか、それとも言い出し難く思っているのか、ため息のような渇いた息を幾度も吐いておられましたが、やがて、
「聞くところによれば、定家殿は、小倉山の麓の庵でお暮らしになっておられるとのこと」
「いかにも、嵯峨野の閑静な山家でございます」
「その庵で、歌を選ばれていると聞きましたが・・・今も」
「はい。古代の天智天皇から今日の後鳥羽院にいたる歌人の中から百人を選び、それぞれの歌人の歌をかきつけて、百人一首と名付けたのでございます」
「なるほど、それは面白い事ですが、してどのような方が選ばれているのでしょうか。天智天皇が第一番となれば、次は、どなたですか」
「天武天皇の后、持統天皇でございます」
「・・・それは考えも及ばぬお方ですが・・・柿本人麻呂は何番目でありましょうか」
「三番にございます」
「ではその歌は」
「その歌は、
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜をひとりかも寝む 」
私は次々と歌を詠みあげました。大伴家持、小野小町、在原業平、歌は三十、四十と重なり、やがて八十を過ぎ、九十になった。
春の夜の風が家隆の墨衣をかすかに揺らす中で、家隆殿は青い顔をしてじっと聞き入っておられました。ところが私が九十三番の鎌倉右大臣実朝公の歌を詠み終えると、鋭く目を見開いて、こちらを凝視したのです。
「・・・定家殿・・・これが妄執というものでござりましょうか」
家隆殿は押し殺したような声でそう申されました。「私は四天王寺に参り、聖徳太子に祈願し、極楽往生を願って、何もかもこの世には思い残すことはないと思い定めて、筵の上で合掌しておりました。ところが、その私の心をかき乱すものがありました。それは、他ならぬ、人伝に聞いた、百人の歌人の話です」
「・・・」
「私は全てに執着する心を捨て去ったつもりでしたが、さにあらず、私の心はいよいよ執着して私を死ぬにも死なれぬ気持ちにさせたのです。定家殿は心寂坊殿と歌を選んでおられる。その百人一首の噂を聞くにつけ、私の心はかき乱されて、次第に息もつけぬ苦しさになりました。・・・果たして百人の歌人の一人に、この私は選ばれるであろうか。古今の百の歌の一つに、私の歌が取られるであろうか、そう思うと、寝るに寝られず、読経する間も心に掛かって、輾転反側し、やがてその妄念はずんずんと大きくなり、炎に焼かれた大仏よりも巨大になったのです」
「・・・」
「私はこうして日々苦しめられ、筵の上に横になることも出来ず、百首の中に私の歌があるか否か、そればかりが私を悩ませました。故に、定家殿がここに見えたという知らせを受けたとき、とうとう私の心が定家殿に通じて、呼び寄せたのだなと、そう思ったことでした・・・
・・・そしてといよいよ歌をお聞かせいただくと、なるほどと思う。これまでにない歌集が初めて生まれるのがはっきりと分かる。心がときめきました。ところが、ひとつひとつの歌が終わると、ただ息苦しく、体の置き所を失い、心が締め付けられるのです。式子内親王を過ぎ、前太政大臣良経殿も選ばれ、数は既に九十三番・・・」
「・・・」
「お笑い下され。定家殿。人というものは、これほどに我執に囚われる哀れなものでござります・・・定家殿、この哀れな家隆をこれ以上苦しめずに、はっきりと教えてくだされ・・・最後の七つの歌の中に、私の歌があるのかどうか・・・
・・・無論、ないものをあると騙して欲しくはありません。定家殿が選ばれたまま、教えてくだされ。百人の中に、私はいるのであろうか、それとも、選ばれずにこの世を去るのであろうか」
やせ衰えて顴骨が高く秀で、額の下の眼窩は洞のようにくぼみ、その窪みの奥から、鋭い光が真っ直ぐに私に注がれています。
私は九十四番・参議雅経、九十五番・慈円、九十六番・前太政大臣公経と詠んでいきました。家隆殿は身を乗り出しておりましたが、あと四人となると、もう耐えられぬといいたげに背を付き人に支えさせ、目だけをこちらに向けておりました。九十七番は私自身の歌でした。
こぬ人をまつほの浦の夕凪に
焼くやもしほの身もこがれつつ
「あと、三つですな」と家隆殿は渇いた唇で呟きました。私は頷いて、次の歌を詠み上げました。
風よそぐならの小川の夕暮れは
みそぎぞ夏のしるしなりける
「・・・」
「家隆殿の歌は、私のすぐ後、後鳥羽院の前、九十八番でございます。私が家隆殿を九十八番に選んだ意味がお分かりですか。思い出してください。私の百人一首の第一は天智天皇、第二番目が持統天皇、そして第三番は・・・柿本人麻呂でした。二人の帝の次が柿本人麻呂なのです。そして、百番目が、順徳院、九十九番目が後鳥羽院、そして二人の上皇の手前に家隆殿」
「・・・」
「かつて後鳥羽院は後京極太政大臣良経様に『私の歌の師とする者は誰が良かろうか』と御下問になられた。これに対して良経様は『家隆こそ師にすべき者でござりましょう。なぜと申すに、この者は、当世の柿本人麻呂に侍ります故に』とお答えになった。・・・まことに、家隆殿こそ、今日の柿本人麻呂なのです。故に、私は二人の上皇の前に、家隆殿を選ばせていただいたのです」 家隆殿の眼窩から涙がひとしずくこぼれ落ちました。家隆殿は紙燭の明かりの中で、声を振るわせて泣いておられたのです。