百人一首ものがたり 97番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 97番目のものがたり「愚管抄」

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや 藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

 心寂坊が常になく青い顔をしているので、「どこかお具合が悪いように見えますが」と心配すると、
「先日、定家様は慈円様のお話をお聞かせ下さいました。これから先の世は道理が失われ、僻事ばかりがまかり通る世の中になるとのお話でござりました・・・それが真実であるとしたら、もはや後の世にも救いはなく、平安を夢見ることも叶わないことになりますが・・・もしや定家様も同じお考えなのでしょうか。日本国はこの先どこまでも奈落に落ちてゆくのでしょうか」と訊くので「いいえ、他の方はともかく、私はそのようには見ておりませんよ。たとえ世が乱れ、道理が失われても、やがては冥・顕が和合する時が必ず来ると信じておりま
うして骨身を削って古典を書写したりしましょうか。後の世の人々がこれらを楽しむ日々が来ると信じているからこそ書き写しているのです」と言ったのだが、その言葉には力がなかった。

第97番目のものがたり 「愚管抄」 )

 秋が深まったせいだろう、身体が冷え、脛が腫れて痛む。心寂坊殿が灸を六十一個据えてくれたが少しも良くならない。翌朝痛む足を引きずって縁先に降りると橘の細枝のあたりからがさがさと音がする。何だろうと見ると大きなカマキリだ。切れ長の鋭い目でこちらをにらみ、両手の鎌を振り上げて威嚇するように身構えている。『こんな季節にまだカマキリが生きていたのか』びっくりしたが、その姿はいよいよ奇怪だ。全長は優に五寸はあろう。三角の頭は金色の兜に似てその下に薄いかぶり物のような襞がある。羽根は一番上が青紫に薄緑がかかって幅広く、羽根下の薄羽は朱色とも桃色ともつかぬ色で、更にその下に透明の薄刃のような羽根を隠している。いったいこのようなカマキリは見たことがない。しばらく眺めていたが急に憎らしくなって地面の棒きれを拾うと、

「これはな、侍医の心寂房が植えてくれた大切な橘なのだ。おまえのような者がいるところではないぞ」と言いながらカマキリの背をつついた。カマキリは敵意のある目でこちらを睨んでいたがそろそろと後ずさりしはじめた。

「そら、そのように偉そうに身構えてもどうにも出来ぬぞ。もう秋も末なのだ。そなたの季節はとうに終わった。どこかに身を隠しなさい。私は歌詠みだから殺生はしたくない。だが、この橘は大切な木だからそなたの冬ごもりにくれてやるわけには行かぬ。さあ、ここをどきなさい。さあ」彼はまたカマキリの背をつついた。カマキリは紫の羽根を少し開こうとしたが、寒さに凍えて開くことも出来ず、橘の葉の上を少しずつ後ずさって葉の縁に追い詰められ、今にも落ちそうになってしがみついている。その哀れな姿を見ているうちに、突然あの事件を思い出した。辛い日々がまざまざとよみ 迫ってきた。

 事件が起きたのは承久二年二月十三日、順徳帝内裏歌合の時だった。この日内裏には後鳥羽院・順徳帝の両帝をはじめ公卿たちが居並ぶ大歌合だったが、私は母の二十八回目の遠忌にあたるのを理由に出席しなかった。ところが後鳥羽院はこれを 面白く思われず「忌日を憚らず参れ」と仰せになられ、蔵人大輔が迎えに来た。しかし私は「せっかくの院のご厚意ではござりますが、母の忌み日に内裏にあがるのはいかにも禁を犯すことにもなりますのでどうぞご容赦下さい」と申し上げた。ところが後鳥羽院は「何が何でも連れて参れ」と大輔を三度までも屋敷に来させたので大輔は窮して床に両手をつくと「民部卿様がどうしてもおいでになられなければ、せめてお歌だけでもお詠み下さい。それが叶わなければ私は蔵人を辞めなければなりませぬ」と必死の面もちで頼むので、止むなく歌を二首書き付けて渡した。その歌というのが、『春山月』という題に

 さやかにも見るべき山はかすみつつわが身の他も春の夜の月

 『野外柳』という題の歌には、

 道のべの野原の柳したもえぬあはれなげきの煙くらべに

(野原の柳は春霞の中に煙りのように頼りなくその芽を出すけれど、私も丁度そのように誰にも認められずに懊悩している。苦しみが心の底で下燃えに燃えて、煙のようにたちのぼる、丁度野のの柳があてどもなく煙るのと競うように)

 後鳥羽院は歌を御覧になられると激怒なさり、御座に立ち上がられて「このようにつまらぬ歌を詠む者の顔は二度と見たくない」と大声で仰せになられたという。

 後鳥羽院の逆鱗に触れた「煙くらべ」の歌には私の恨みが籠められていると院はお感じになったようだ。私の官位は長年民部卿に据え置かれ、この年の正月二十二日の除目でも昇進しなかったが、右中将三条公氏や右衛門督源通方など若い公卿四人は私を飛び越えて権中納言、参議正三位に任じられた。その仕打ちを恨んで不吉な歌を届けたのだろうと院は思われたようである。だが院は私が何を目的としてこのようなものを詠んだのか、その真実の理由までは見抜くことは出来なかった。私の目的は後鳥羽院が私を見捨てて顧みなくなってしまう、まさしくその事だった。私の不吉な歌を見て、院が激怒し私を二度と見たくないと思う、まさしくその事こそが私の求めることだったのだ。私はあの歌によって内裏の全ての公卿たちを欺き、後鳥羽院を欺き、順徳帝に背を向けられることに成功したと申すことができる。

 このような私の行動と目的をあらかじめ知っていたのは、慈円様ただお一人だった。なぜなら、慈円様と私はこのことについて密かに示し合わせていたからだ。私が慈円様から「是非ともそなた様と共に語らい、歌を詠って一夜を過ごしたい」とお誘いを受けたのは事件の一年余り前の晩秋のことだった。

「白楽天は私たち歌人の鏡であり智慧の源でもある文殊菩薩の化身でもあるが、その詩篇に和して互いに百首の和歌を詠み、心中に秘めた思いを述べて見ようではないか」と慈円様は申された。私はかねてより慈円様とは是非とも心胆を割って語り合いたいという願いがあったので、快くお受けすることにした。

 慈円様は白氏文集二十巻の中から四季の歌を五十、残り五十を、恋五、山家五、旧里五、閑居十、述懐十、無常十、法文十と詩篇を選び送り届けて、その文には『お会いする日までにこれらに和する歌を互いに百首作り、詠い合おうではないか』

 私はひと月余り掛けてこれに和する歌を百首作り、お約束の日の夕刻、慈円様の御屋敷にうかがった。

 庭の見える奥の間に二人で向かい合うと、まず白楽天の詩篇を慈円様が詠み、これに和する和歌を私が詠むと、これを受けて慈円様が歌を詠むという趣向だった。

従今便是家山月 試問清光知不知 白楽天

知るや月宿しめそむる老いらくの

わが山の端の影やいく世と                  定家  

 秋の月は曇りなければ知りぬらん

わがすむ庵の行く末の空                                 慈円

 このようにして私たちは時を忘れて歌った。そしてとうとうあの有名な詩にたどりついた。

 心足即為富 身閑仍当貴 富貴有此中 何必居高位 白楽天 

   この詩篇に和して私が

 嘆かれず思ふ心にそむかねば

宮も藁やもをのがさまざま 

と詠むと、慈円様はいかにも感じ入ったという風情でしばし沈黙なさっておられたが、やがて

 谷かげや心のにほひ袖にみちぬ

高嶺の花の色もよしなし

と詠われた。それから広い額をこちらにお寄せになって、密かな声で、

「定家殿、私は今宵そなた様に是非ともお目に掛けたいものがあります。しかし、これは危険なものです。もし検非違使の役人に知られ、また、後鳥羽院の耳に達するようなことになれば、命さえ危ういことになります。しかし、それでも尚、御覧になっていただきたい」とこう申されて、見事な筺から分厚い草稿を取り出して「これは私が長年書きためておいたものですが、いわばこの国の明け初めた頃の神武天皇の御代から今日の後鳥羽院に至るまでの歴史を書き記したものでございます」とこのように前置きして慈円様は草稿を広げられた。

 この草稿こそ『愚管抄』であった。このようなものを私が見たのはこの時が初めてであったし、私の他には誰も居なかった事は慈円様のお言葉からして間違いない事実である。

 厖大なものであるある事は一見して知れたが、そこには誰にも知られてはならない事柄が記されているのかと思うと身体が震えるのを留めようもなかった。しかし慈円様がよほどのご決意してまで私に見せて下さったからには何としても拝見しなければならない。私は心を決めて目を凝らした。そして一文字ずつ文章を追って行くうち、内容の重大さと、目の前に繰り広げられる壮大な歴史の展開に息をするのも忘れて読み耽った。

 古来この国には古事記・日本書紀・日本後紀などが記されており、私もそれらに目を通していた。しかし今見ている愚管抄のような書物はかつてなかった・・・ここには王朝世界の崩壊が当然の歴史的帰結であることが示され、もしも後鳥羽院が方針を過てば、天皇は百代を待たずして終わるであろうと、予言が記されていた。

「・・・今この文武兼行の摂録の出で来たらんずるを、得て君のこれを憎まんの御心出て来なば、これが日本国の運命のきはまりになりぬと悲しきなり。末代ざまの君のひとへに御心にまかせて世を行はせ給ひて、事出て来なば、百王までをだに待ちつけずして、世の乱れんずるなり。

 さてこそ此の世はしばしも治まらんずれとひしと是は神々の御計らひのありて、かく沙汰なしされたること、あきらかに心得らるるを、かまへて神明の御計らひの定にあひあなひての思し召し計らひて、世を治めらるべきにはべるなり」

 鎌倉幕府に力が移ったのも、神々の計らいであり、世の道理からそのようになったのだから、その道理を力で覆そうとすることは、神々の道理に逆らうことである。もともとこの国は百代までは天皇が続くことが約束されているのではあるけれど、天皇が道理を憎むことになれば、すぐさまにも破綻し、滅亡が訪れるであろう・・・

 最後の頁を読み終えて目を閉じていると、

「ご如何らんになりましたか」と声がした。

「・・・はい・・・」

「いかがお思いになりました」

「いちいちもっともと思われるばかりでございましたが、後鳥羽院と共に日本国そのものの命運が尽きる、というお考えはあまりに悲しいことでございます・・・たとえこれが九分九厘真実であるとしても、最後の一厘に望みを託したいと存じます」

 私がこのように申し述べると、慈円様は、

「それは私とて同じ事。己の国が滅びるのを喜んで認める者がどこにありましょう。しかし後鳥羽院の世で日本国の命運が尽きるということははっきりしております」と冷たいばかりにきっぱりと断言なされた。

「世々の始めの頃、天皇・臣下の器量は優れておりましたが、時が過ぎるに従い、器量は次第に落ちて、今の世は優れた帝も臣下誰一人として見あたらない。これは内裏のうちだけに限らず、僧侶・神官・貴賤を問わず、優れた人が尽きてしまったからなのです。優れた臣下が傍にぴったりと寄り添ってお支えして居れば、たとえ帝が過ちを冒しても国が滅びるような事はありません。 清和・陽成の帝の時代を見ればお分りになるでしょう。しかし今の世は後鳥羽院をお諫めすることの出来る者が誰一人居りません。定家殿も後鳥羽院が京童を集めて浅はかな歌を詠わせているのをお聞きになっておられましょう。

   ギジチョウトウ、ジジチョウトウ

 どこへ行っても、京童の声が響いています。何百と群れて、ギジチョウトウ、ジジチョウトウと大声で街々を歌っている。童たちは菓子などをもらって、何も知らず、ジジチョウトウジジチョウトウとわめいておりますが、あれは『義時打頭』と歌い囃しているのです。今にも北条義時の首を討ち取ってやるぞ、と囃し立てているのですが、あれは後鳥羽院が山伏や怪しげな僧侶をつかって流布させているのです。

 また、これはそなたさまもよくよくご存じの通り、三条白川に最勝四天王寺と名付けて四天王を安置し、僧侶に命じて夜昼の区別なく北条義時を呪詛させております。一国の帝ともあろうお方がこのように忌まわしい密事を重ねるようでは、必ずやこの国は極まるでありましょう。そして更に帝は熊野には山伏僧兵の軍団を造り、都では武芸を好む男子を集めて水練・相撲・笠懸・伏物などをさせて兵具を備えております。これは間違いなく後鳥羽院が鎌倉を討つ計画を進めている証拠です。私がこの国は後鳥羽院の世で滅びると申しますのは、こうしたわけなのです」

 私は慈円様の声をふるえる思いで聞いていた。そして考えた末に申し上げた事は、

「仰せの如く、後鳥羽院のなされようは尋常ではありません。しかし、慈円様がお考えのように、この国が全く滅びてしまうようとは、どうしても思えません。大陸では秦、隋、唐と次々に国が興り滅びましたが、また再び新しい国が生まれております。ですからこの国もまた、ひとたび滅びたとしても、また興ると思われますが、慈円様はそのようにはお考えになりませんのか」私がこう述べると慈円様は、

「無論私の考えが全く正しいとは思えません。滅亡したとしてもまた興るということもありましょう。しかし唐の国を見てお分かりのように、ひとたび滅びてしまうと、その国の良きものは大方失われてしまいます。李白も陶淵明も、白楽天も、二度と生まれることはないでいょう。ですから、私があなた様をお招きいたしましたのも、そのことについてお話しするためです」

「・・・」

「この国が後鳥羽院と共に滅びることは明白です。これは神仏の道理なのですから、避けようがありません。しかし、日本の国が受け継いだ良きものも全て失ってもかまわないとは微塵も考えておりません。神代から伝われる儀式や伝説、有職故実はかけがえの中ものですし、特に歌の道は天竺にも唐にもない日本国独特の文化です。もしこれが後鳥羽院と共に滅びてしまえば、たとえ武家の手で新しい国が興されたとしても、歌の道は絶えてしまうでしょう。これだけは何としても避けなければなりません。無論あなたはそれを重々承知し、その時に備えて膨大な古典を書写されておいでです。私は関白道家様から、あなた様が書写した源氏物語や古今集を見せていただきましたが、あまりのうれしさに涙を止めることができませんでした。私はただ嘆き、批判しているだけであったのに、あなたは次の世の人々のためにこれほどまでの大事業をなさっておられる。何と尊い事でしょうか」

「・・・」

「私はそうしたあなただからこそ、お願いしたいのです。それは他でもない、定家殿、あなたは後鳥羽院の近くに居てはなりません。出来るだけ遠くに離れていただきたい。後鳥羽院が鎌倉と戦を構えた時、あなたは戦から遠く離れてかかわりないところにいるようになさらなければなりません。かつて柿本人麻呂が居り、延喜の御代には紀貫之がおりましたが、今の世に定家殿がおられるということが日本国の救いなのです。あなたほど深く広くこの道を究めた人物は歴史上にも一人もおりません。この後もまた現れることはありますまい。ですから、あなたが後鳥羽院のもたらす滅亡の世から離れていれば、歌の道は救われるのです。幸いあなたの義理の兄弟である西園寺公経殿は坊門姫の娘を妻とされておられる。また更にあなたは将軍実朝の歌道の師もなさっておられる。これほどの強い縁をお持ちになっておられば、日本の王朝が滅び、武家の世になったとしても歌の道を後世に伝えることが出来ましょう」

「・・・」

「私の言葉がどれほど真実を言い当てているかは、間もなく明らかになるでしょう。しかし、その前に、あなたは何としても、後鳥羽院から疎まれ、見捨てられていなければならないのです。これはあなたの問題ではなく、日本国の道理を生かすためでもあるのです。努々お疑いなさらぬように」

 こう申される慈円様の眼差しは不動明王のように鋭く光っていた。そして私の生涯はこの時決まったのだった。

 慈円様の予言について今更申すまでもないことである。将軍実朝様が暗殺されると、院は承久三年五月十五日、北条義時追討の宣旨を発し、京都守護伊賀光季を襲って血祭りに上げ、鎌倉と親しい西園寺公経親子を幽閉して鎌倉との全面戦争に突入した。しかし院の目論見は完膚無きまでに外れ、王朝の栄華は後鳥羽院と共に滅んだ。

 承久の乱が治まった後、私は小倉山の庵で『愚管抄』を繰り返し読んだ。その最後には次のような会話が記されていた。

 問い「であるから、今はどうしようもないが、これはどうしてもこうしても、立ち直るとということはないのだろうか」

答え「ある程度はなんとか平安が取り戻せるであろう」

問い「既に世は末世に下り果ててしまった。最早人物と申せる者はいないようだ。痕跡もなくなってしまったかに見える。それであっても、まだ立ち直るということがあるのだろうか」

答え「なかにか難しいが、今申したとおり、ある程度はなるだろう。確かに、安らかに立ち直るであろう」

 慈円様も私と同様、未来を信じたかったのだ。そうでなければ、この膨大な史書をどうして書き残したのか・・・。

 私が百人一首を撰集しているのも慈円様に倣って日本という国を、和歌を通してはっきりと見極めようと思い定めたからに他ならない。慈円様はこの国の初めを神武天皇として、後鳥羽院までを描かれたが、私は天智・持統天皇から始め、後鳥羽院・順徳帝に至るまでの百人を選んだ。天智天皇を最初に選んだのは、帝と中臣鎌足公のお二人が成し遂げた大化改新がこの国の夜明けをもたらしたと私は判断するからである。やがて花が咲き、実をたわわにつけた枝が枝垂れる世になったが、やがて黄昏が訪れ、ついに闇がこの国を覆った。これが百人一首の歴史観である。

 これまで私は「近代秀歌」や「詠歌大観」などによって多くの優れた歌を百ほども集めたことがあったが、この度の百人一首はこうしたものとは全く異なった意図によって選んだものなのだ。

 こぬ人を松ほの浦の夕なぎに

焼くやもしほの身もこがれつつ

 この歌を、ある人は恋の歌とみるであろう。しかし私が待ち続けるのは、この国をふたたび花の都に導いてくれる人々なのだ。 見わたせば柳さくらをこきまぜてみやこぞ春の錦なりける 素性法師の見た世界を取り戻してほしい。聖徳太子のような高潔な摂政、藤原鎌足のように私心なき臣下、そして人麻呂や業平や小町、紫式部、和泉式部などが歌を詠む、そんな時が再びくるであろう。それが何百の年の後であっても、たとえ千年の彼方であろうとも、私は待ち続けるであろう。          

      参考資料 「藤原定家研究」佐藤恒雄著 風間書房

                「慈円の和歌と思想」山本一著 和泉書院

                「愚管抄」中島悦次著 有精堂                   その他