百人一首ものがたり 95番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 95番目のものがたり「凍月」

おほけなく うき世の 民(たみ)に おほふかな
わがたつ杣(そま)に 墨染(すみぞめ)の袖

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「あまりにも大きなお方でしたので、何を語ってよいやら困り果てるほどですが、こうして昔を思いだしておりますと、大きな飴色の牛が目に浮かぶのですよ」と定家は言った。「あれは私が三十の歳、建久二年(1191)閏十二月のことでございました。私はその頃病がちで伏せっておりましたが、ある日突然見事な牛を家の者が庭に引き入れてきたので、どうしたのかと尋ねると、『無動寺の法印、慈円様からのお見舞いでございます』という。三歳程の若い牛でしたが毛並みがつやつやと冬の日に輝いて、まさしく駿牛という言葉ぴったりの美しさでした」
「慈円様が牛をお見舞いに下さったのですか」
「そうなのです。私は幼い子供に返ったような気持ちになって、寂蓮を呼んで、牛を眺めながら二人で牛の歌を詠んだりして、一日中夢のような気持ちで過ごしました。慈円様はご存知の通り摂政関白忠通公の子で兄に兼家様がおいででしたが、十才の時に父を失いましたので叡山に入り、厳しい修行に専念して、二十一才の時に無動寺で千日間入堂という極限の修行をやり遂げたのです」
「三年もの間、お堂に籠もりきりでしたか」
「まったく信じられない精神の強さですが・・・外に出てみると叡山は僧兵共の巣窟となり、争いが絶えませんでしたから二十五の時に隠遁する決意を固め兼実様に打ち明けました。兼実様はこれを聞くと『そなたは叡山の柱となり国家鎮護の護法を貫き通すべき役目を担ってこの世に生まれた者ではないか』と諭し思い留まらせました。やがて平氏が滅亡し後鳥羽院が権力の座にお就きになりますと、院は慈円殿の人格学識に感嘆し、護持僧に任じました。やがて慈円殿は天台座主におつきになられたのですが、私が牛をいただいたのは、丁度その時期であったのです」
「・・・」
「私は翌日、お礼にお伺いしました。寂連も共に牛車に乗り、その喜びを慈円様に正直に申し上げますと、慈円様もとてもお喜び下さって、さまざまにお話をして、歌を詠み合って時を過ごしましたので、帰りの牛車に乗り込んだ時には深更になっておりましたよ」
「それはそれはお聞きしているだけで心が弾む思いがいたします」
「西行殿とお会いしたのも九条家の縁です。西行殿は四十四も年下の私が俊成の後を継ぐ才があるのかどうか見極めるつもりだったのか、『二見浦百首をお詠み下さい』求められましたので私がその場で詠んでお見せすると何も言わず、ただ一度頷いただけでした」
「・・・百首も詠ませて何も言われぬとは・・・」
「西行殿の目に私の歌は異質なものに映ったのでしょう。しかし慈円殿はいつも優しく見守って下さり、私が文治五年に少将に叙せられると、 三笠山さかゆく君が道のまた花さきそふる今朝の白雪 と祝いの歌を贈って下さいましたので、私は、 思ひやれ雪に花咲く三笠山ならぶ梢を照らす朝日は と返歌を致しました」
「慈円様というお方がそれほどお優しいお方とは存じませんでしたが、叡山の大僧正になられた方ですから市井の歌人とはずいぶんと物の見方が異なっていると思われるのですが、果たして慈円様はこの世をどう見ておいでだったのでしょうか」
 心寂房がこのように訊ねると定家は、
「叡山は伝教大師が伝えた天台宗の総本山です。即ち天台智顗の教えを伝え守っている仏道の殿堂であり僧侶はその伝え手であると申すべきでしょうか」と述べて少し間をおいてから、
「しかし天台の教えは法然の念仏宗などと違い深い哲理よりなっておりますから、会得するには長い修行が必要です。それ故俗人の私などには語る資格はないのですが、父も私も天台宗を奉じておりますから、いささかばかりお話してみますと、天台の教えの根本は、この世の諸仏は、『仮・空・中』によって成り立っているという哲理に依っています。『仮』とは、今ここにある現象はすべて過ぎゆくものであり、仮にそのような姿をとったに過ぎない、という観念です。たとえば今の世は平家から源氏へと権力は遷り、その度に人々は右往左往いたしますが、それらはみな仮であるというのです。では、本来諸物は何であるかと申せば『空』なのです。大般若教は一切が空であるという真実を説いています。天地に比べれば、私たちのこの世はあってなきがごとし。 
 天の原おもへば変わる色もなし月こそ秋の光なりけれ 
 これは養和元年、私が二十歳、大仏炎上の翌年に詠んだ歌ですが、大仏でさえ燃えてしまうのです。すべてのものは『仮』であり『空』という真実を大仏は示しているのです」
「・・・」
「しかし、空と言ってみても、私はここにあり、老病生死に苦しみ、美醜は人々の欲望をかき立てます。全てが空であるというだけではこの世を理解することはできません。そこで、仮の世界にも耽溺せず、空の世界にも隠遁せず、その半ばにある『中』ことこそがあるべきものの根本である、と天台は説いております」
「・・・」
「慈円様は、この世の歴史を『愚管抄』に書きしるされましたが、慈円様の歴史を見る目は、天台宗の教えに則っています。太古の昔から今日までの複雑怪奇な出来事を、明快に論述することができたのは天台の哲理を信じていたからです。慈円様は、人間の生きる世には、道理と言うものがなければならない。その道理と申すものは、人間が作った法や仕来りではない。道理とは『冥・顕』である。神仏の定めた目に見えぬ真実、即ち『冥』・・・そして人間の目に見える『顕』、この『冥・顕』が和合したところに道理が生まれると申しております」
「神仏の定めた真実・冥と、人間の目に見える・顕、との和合」
「いかに傑出した人物でも、人である限りその力には限界があり、間違いが生じます。人の限界を超越した神仏の教えと人間の生き方が和合したところにこそ道理が生まれる。道理が道理として国家の規範となる時、この国は善き世になるのです」
「・・・」
「神仏は空にして空にあらず、人間世界は仮にして仮にあらず、神仏の空と人間の仮が和合したところに中なる世界、調和した道理の世界が生じるのです」
「しかし、それはいかにも難事ですが、人間にそれが可能なのでしょうか」
「それそれ、それについて、慈円様は、神武天皇から今日までを細分して調べ、上古に於いては道理が見られたが、次第に道理は失われ、今はその欠片も失われたと申しておられます」
「・・・」
「腹をこわした病人が、飯をくれ、水を飲ませろとわめく、その時に、病人に好きなようにさせれば、ますます病は重くなり、死を待つだけであろう・・・そのように、この世は、道理に背く僻事を道理と取り違えてどこまでも落ちてゆく、救いようもない世界になってしまったと嘆いておられます」
「・・・」
「この国が長く続いてきたのは、君臣合体して政に当たってきたからなのです。天照大神が邇邇芸命の天孫降臨に際して、藤原氏の祖である天児屋命に対して、殿内でお守りせよ、とお命じになられたのは、君臣合体こそがこの国を治める紺本であることを示しています。ところが世が下ると、院が臣を遠ざけ、何事も独裁でなされるようになった。こうしたことから、冥・顕の和合が崩れ、道理が失なわれたのです。調和が失なわれれば世が乱れ、善き臣下が出ても働く場所がありません。良経様のごとき優れた人物が生まれても世を変えることが出来ず、空しくなるより他なかったのです」
「では、この世は如何にしても救われないのでしょうか」
「いいえ、慈円殿は、公武の融和こそが新しい道理を生むであろうと考えて居られました。後鳥羽院は日本国開闢以来初めて三種の神器の内、草薙の宝剣が無いままに即位された天皇です。ですから、慈円様は、失われた宝剣の代わりにこの国を守るのは、武家であると悟り、公武の融和以外に救いの道はないとして、後鳥羽院にもそのことを幾度もお話なさったのです。しかし院は慈円殿のお話に耳を貸しませんでした。その末は、ご承知の通りです。慈円殿はしかし、後鳥羽院を見過ごしには出来なかった。ですから、隠岐に流された後も、院の帰洛を祈願して四天王寺で修法されています。しかしその願いも届かぬまま、この世の人で亡くなられたのは、何とも残念なことでござりました」

第95番目のものがたり 「凍月」 )

 夜更けて雪が止んだ。雲間に半月が出ている。冷たく凍って空から落ちそうに見える。雪の埋もれた都大路を密やかに馬が走って行く。馬蹄の響きが、事態の切迫を伝えている。

 馬のいななきを聞きながら慈円は叡山で見た冬の月を思い出した。あの山で見上げた月も、磨き抜かれた銀の玉のように冷たく凍っていた。世の中はまさしく凍りついた月の姿に似ていた。

 この世に生まれたとき、都は保元の乱の焼尽の混乱にあった。戦の最中に母は死に、十歳の時に関白藤原忠通も死んだ。世は藤原から平家、源氏へと移り、朝廷も天皇も川の流れほどにせわしなく変化した。物心ついた時は近衛天皇であったが、それから後白河、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽、土御門、そして今は順徳天皇。その間、年号もめまぐるしく変わり、指折り数えてみると、二十五にもなる。天皇が、神器と共に海中に沈んだこともある。あまりの事に言葉もなく、慟哭することさえ出来ぬ。この天空に沈黙する月は、何も見ず、何を語ろうともしないが故に、天空にとどまっていることができるのであろう。心があったら、砕けて、天から落ちて来たであろう。

  思ふことなど問ふ人のなかるらん

仰げば空に月ぞさやけき

 

 今宵の月は重く暗い光を放っている。月を包む雲が黄泉の国の匂いを宿している。何事か不吉があるのか。慈円が月を凝視していると、ただならぬ物音がして家人が叫びながら駆け込んできた。

「ただ今左大臣様、火急の大事のご様子にて、お越になられました」

 左大臣道家は十四年前に頓死した慈円の甥良経の嫡子にあたる。頼みになる者はみな次々と他界し、慈円ひとりが道家の相談相手なので、しばしば牛車を迎えになど寄越すのだが、このような雪の夜に自ら出向くとはただごとではない。

 慈円が座敷に腰を下ろす間もなく左大臣が姿を見せた。

「大僧正様、重大事にござります。右大臣源実朝が殺されました」

 紙燭が道家の足下で明滅している。

「鎌倉右大臣が、暗殺されたのです・・・鶴ヶ岡八幡宮の参拝を終え、雪の石段を下り、朝廷がつかわした公卿たちの目の前を通り、坊門忠信に一礼して通り過ぎたその時に、目の前で殺されたと」

 道家の目は引きつって、顔面蒼白になっている。慈円は是を見て、

「左様な時だからこそ左大臣が慌ててはなりますまい。私はかねてよりそのようなこともあろうかとは思っておりました」

「では、まさか、すでに、この事件をご存じだったのですか」

「いや、ただ今知ったばかりです。しかし右大臣実朝が殺されるであろうことは分かっておりました。先の将軍頼家が暗殺されたとき、私はそなたの叔父、良輔にも話しておきましたぞ」

「しかし鎌倉将軍が何千という御家人の目の前で殺されるとは」

「鎧甲冑に身を固めて血潮の中で死ぬも、晴れ着姿で最後を遂げるのも同じ事です。むしろ実朝はそれを待っていたのかも知れません」

「まさかす、そのような」

「定家殿は私に実朝の歌を時々見せてくれたがその中に、

 とにかくに有れば有りける世にしあれば

         無しとてもなき世をも経るかな

 このような歌は黄泉の国を生きながら見ている者にしか詠めませぬ。この世の夢も仏への願いもなにもかも諦めきったその果ての冷たい眼差しがここに見えます。実朝は生きながら、悟りもできず、死んでまた往生できぬ事を知っていたのでしょう」

「・・・」

「源氏一族には数かぎりない怨霊が取り憑いています。無惨に殺された人々の怨念が、実朝に死をもたらしたのです」

 冬の月が庭の雪に皎々と照り映えている。左大臣道家はぞっと身震いした。

 頼家の死に際については鎌倉は固く秘密にしていたが、実は逐一都に届いていた。北条時政は頼朝が信頼していた比企一族を奸計をもって皆殺しにした。頼家を伊豆修善寺に押し込め、刺客を放って頼家暗殺に向かわせた。頼家は源氏の大将の血筋を引いているだけあって、十人余りの刺客を相手によく戦い、なかなか致命傷を負わせることができなかったので四方から縄を投げ、首に掛かったのを引き絞り、ひるんだところを押しかかり、陰嚢をつかんで悶絶するのを数人が刀を突き立てて殺したという。

「殺戮が日常になり果ててしまいました。実朝は己にも死が這い寄っていることを敏感に感じていたのでしょう。その証拠に、実朝の官位への執心はあまりにも異常でした。おそらくは、自らの余命が幾ばくもないと知って、後世に源氏の誉れを残すために出来るだけ早い昇進を望んだのでしょう」

「・・・いかにもそう言えば、実朝の出世は古今に例を見ないものでした。二十五の時には権中納言・左近中将となり、健保六年には二十七歳で権大納言兼左大将、まもなくして内大臣。つづいて昨年十二月には右大臣に上り詰めたことは記憶に新しいことです。このような異常な出世は摂関家にも例を見ないことでしたので、公卿たちもこれは如何なものかと囁きあったものでした」

「・・・」

「しかし実朝がそれほど己の死を予感していたとすれば、なぜ身を守ろうとしなかったのでしょうか」

「いかなる濁世にあっても、因縁因果は避けることはできません。実朝の死は定まっていたのです。頼朝も、頼家も、実朝も、みな絡み合った因縁の果てに死んだのですから、これも道理なのです」

「では・・・しかし・・・慈円様は暗殺もまた道理に叶っていると仰せなのですか」

「何事かが『果』として起こるにはそれを起こす『因』というものがあるのです。冬の月が曇るのは、雪雲が遮るからではありませんか」

「お言葉ではございますが、実朝は幼少の頃から聖徳太子を尊崇し、宗から帰国した高僧、葉上房栄西の教えを聞き、法論を交わしていると聞いております。その上、優れた歌を詠み、定家さえその歌を高く評価しております。そのような人物が突然殺されるということが因縁道理に叶うとは、合点が行きませぬ、」

 道家がこう述べると、慈円は紙燭の明かりを細めに見た。

「私が源頼朝を初めて目にしたのは建久元年十一月七日のことでした。頼朝は騎馬武者三人を並列に何百もうち並べ、轡の音高く都大路に入京して参りました。紺、青、丹色に染め抜いた水干に夏毛の行袴をつけ、白と黒の斑毛の馬に跨った姿の凛々しさに誰も彼もが目を見張り『こはゆゆしき見物かな』と賛嘆したものです。私は頼朝が院にお目通りした後に直に合い、さまざまに物語し、また、歌なども詠み合ったのでしたが、予測していた東夷(あずまえびす)とはあまりの違いに、

  えびすこそ物のあはれを知ると聞け

いざみちのくの奥へいかなむ

と歌を詠んだほどでした。しかしあれは私の迷いだったのです」

「・・・」

「いかに着飾ろうと、頼朝は人殺しに過ぎません。あまりにも多くの人間を殺した故、何万、何十万の怨念が頼朝に取り憑いておりました。平家の武者ばかりでなく、女子どもたちまで何万と殺しました。頼家、実朝の死は頼朝の因果の報いなのです。実朝がどれほど世に優れていたとて、源氏が数十年の間に流した血を洗い流すことはできません。実朝はいずれ死ぬのが道理だったのです」

 雪が降り始め、夜が来た。慈円は法勝寺に籠もり、独り陀羅尼を唱えた。

 九重の塔に月明かりが鈍く反射している。慈円は異様な気配を感じて、振り向くと、闇の中に後鳥羽院が立っていた。

「この塔が雷光に焼かれたのはいつであったかな」と院が呟いた。

「承元二年五月十五日のことでござりました」

「そうであった。あさましきことであった。あれほど神々しく天に聳えていた九重の塔が、一夜にして灰燼に帰した。あの時、わしはそなたを大いに恨んだ。というのも、わしはあの雷が落ちる前、我が罪を深く悔いてそなたに読経を頼んだところ、そなたは二十人の助衆を引き連れて七日七夜法華経などを修した。ところが祈祷を終えてみな帰った後、雷光が落ち、たちまち火炎が壮麗な大塔をひとのみにのみつくした」

「左様でござりました」

「多くの者はあざ笑った。七日の供養は塔を焼くためであったのか。天台座主慈円の読経は、九重の塔すらも守れぬのかとな。」

「存じております」

「だが、わしは恐れていた。この火災は、天罰ではないか。法然ら念仏宗を、わしはこの前年に弾圧した。住蓮房、安楽房ほか門弟四人を死罪。法然源空を土佐へ、親鸞を佐渡へ配流した。法然を都から追い払った時の都を覆い尽くす念仏の声がわしの耳から離れぬ。あの雷光は、念仏宗の怨念が落としたものではないかと。だが、そなたは全く眉一つ動かさなかった。そなたはこう申した。

『焼けたものは建て直せばよいのです。読経に功徳がなかったなどと申す者は、何一つ本当のことが見えぬ者なのです。もしも帝の所行を天が裁こうとなされたのであれば、何故帝の上に雷火が落ちなかったのでありましょうか。何故、この私ともども焼き殺さなかったのでしょうか。雷火は帝の頭上にも落ちず、内裏を焼くこともなかった・・・九重の塔はこの世に生きるもろもろのものの身代わりになったのです。塔はまことに尊い犠牲であると言わねばなりませぬ。一日も早く再建し、供養する必要がありましょう。』

 そなたはこう申して塔の再建を宗の国から戻った栄西に依頼した。そなたの力によって、今、ここにこのように立っている。」

 闇の中で後鳥羽院の両眼が怪しく光っている。何故にこの夜更けに、院がお出ましになられたのであろう。この寒空で、わしに何を語ろうとするのだろう。慈円の脳裏を不吉な影がよぎった。後鳥羽院の眉が不動明王のように激しく尾を引いている。

「好機であろう」と院ははっきりと小声で言った。「好機であろう。今こそ、年来の夢を遂げる時ではないか。」

 慈円は後鳥羽院の恐ろしい眼差しに絶えかねて目をそらした。

『院は鎌倉を討伐なされる決意なのだ。兵を挙げるおつもりなのだ』

「申せ」と後鳥羽院は慈円をギラギラと見つめた。「そなたは何事も見通すことができる。この好機をどのように見るか、聞かせてくれ。朝廷は鎌倉を破るであろうな・・・そなたにはそれが見えているのであろう」

「・・・」

「鎌倉にはもはや源氏はいない。頼朝は死に、戦略の天才義経は殺された。そして二代将軍頼家は暗殺され、またこのたび実朝が殺された。梶原、比企、畠山らの重臣らは一族もろとも滅亡し、鎌倉に残っているのは北条時頼と政子兄弟、三浦らの御家人に過ぎぬ」

「・・・」

「北条家はもともと源氏や平氏のような名族とは異なり、田舎の小名に過ぎぬ。御家人の人望は薄く、陰謀の他、何一つできぬ者共だ。鎌倉はもはや空である。名馬を失った厩のようなものではないか。この鎌倉を討つのはこの時を措いてはまたとあるまい」

 後鳥羽院の顔を青白く照らしている。慈円は院の危うい目をしばし黙って見つめていたが、やがて強い口調で、

「鎌倉に触れてはなりませぬ」

「何と申した」後鳥羽院は慈円を睨んだ。

「触れるなとはどういう意味だ」

「鎌倉に手出しをしてはなりませんと申し上げました」

「それはまた、聞こえぬ答えだ。何故そのようなことを申す」

「鎌倉は呪われております。主が次々に死に、主を取り巻く者共もみな殺され、残る者はただ死霊のみでござります。そのようなところに兵を向ければ、帝の兵に悪霊が取り憑きましょう。鎌倉にはおかまい下さるな。捨て置かれれば、遠からず浅茅が原となりましょう。どうか十年の間、何事も隠忍なされますように」

 慈円が目を上げると、後鳥羽院の姿はなかった。冬の月が九重の塔の上に冷たく光っている。遠く近くに何千という馬のいななきが聞こえる。鎧の擦れる不気味な音、馬蹄の響きがこだまする。

 ああ、何という無力。なんという無惨な世だ。またも、目の前で、取り返しがつかぬ大きな過ち冒されようとしている。死霊と戦って、何者が勝ち得ようか。たとえ勝ったとしても、死霊が乗り移った国に、仏が生まれようか・・・私はこの小さな衣で少しでもこの世の災いを防ごうとしてきた。だが、何と空しいことか・・・後鳥羽院は、死霊に向かって弓を射ようとしておられる。どうかどうか、後鳥羽院を迷いから覚醒させ、都を、この国を、呪いから救ってくれないか。御仏は、この国をお見捨てになられたのであろうか。

 慈円は引き裂かれる思いで、冬の月に向かって、凍える手をいつまでも合わせていた。

 

    おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つそまに墨染めの袖