百人一首ものがたり 94番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 94番目のものがたり「砧の音」

み吉野(よしの)の 山の秋風 小夜(さよ)ふけて
ふるさと寒く 衣(ころも)打つなり

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「実朝に万葉集を献本するに際して飛鳥井雅経殿が仲立ちになったとお話しましたが、心寂房殿はお会いしたことはありましたか」
「いいえ・・・雅経様が亡くなられたのは承久の乱の前であったとお聞きしておりますが、私がはじめて中納言様にお目に掛かりましたのは嘉禄元年(1225)の正月の事でしたから、一度もお目に掛かったことはございませんでした」
「それは残念な事です。雅経殿は希に見る蹴鞠の名人でしたよ」
「それについては私も存じてはおりますが、中納言様は蹴鞠がお嫌いではなかったのですか」
「好き嫌いはともかく為家が歌道をそっちのけにして蹴鞠にうつつを抜かしているのには我慢がならなかったのです。世渡りのためとは申せ、蹴鞠などが何になるものかと長らく思いこんでおりましたよ。ところが雅経殿は私の考えをすっかり変えてしまいました」
「・・・それはいかなることでございますか」
「健保元年(1213)閏九月の事でしたが、我が家に蹴鞠仲間を連れてやって来られて、目の前で蹴って見せてくれたのです」
「それは始めてお聞きしました」
「あまりの見事さに私は目を見張って、これほど面白いものであれば若い者が熱中するのも当然と思ったほどでした。ここをごらん下さい。
閏九月二日 天晴陰、午後雨降。入夜甚雨。昨今日御物忌、少将(為家)自一昨日籠候。入夜退出。又依番帰参。宿侍云々。此物忌、郭公声入天聴之故云々
「中納言様、ここには為家さまが禁中の物忌みに籠もられ、その折りホトトギスを聞き、その声が帝の耳にも入った、と記されいはおりますが、蹴鞠の事には及んでおりません」
「・・・これは前日でした・・・これです」
三日 天晴。少将為家、今日朝夕両度参院御方。御鞠云々。此間頻有褒美之仰云々。此事極存外也。・・・
 四日 天晴。少将又依召参御鞠云々。未時参院。御鞠之間也。上北面之輩、異口同音饗応此鞠、天下第一之体骨云々。不沙汰而不長此道は無極遺恨也。尤入心可練習事也。父不請か之故有天気云々。恐惶無極にや。雖何道、得其骨為上手ば、尤可謂面目か。但不知案内事。不能口入之条、無計略事か。為之如何何故示左近(清範)了。心中所存、誠以無由。雖宗長・雅経朝臣、得何益乎。此事不入興ば、可招身不祥か。是物悪之至、家之磨滅、可悲而有余。・・・

「・・・中納言様のご胸中の心労が察せられます・・・天下に名のある者、殿上人、北面の武士、ことごとくが後鳥羽院の歓心を買おうと蹴鞠に日々の労を費やし、ご子息為家さまも練習にあけくれ、しかも後鳥羽院は中納言様の蹴鞠嫌いをご存じで『少将の父は喜ばぬようであるな』などとお声をかけられて恐懼しておられる有様は、何ともうしあげてよいやらわかりませぬ」
「雅経殿が私の邸においでになったのはこの四日後の事でしたよ」
「ではお庭に懸(かかり)をお作りになったのですか」
「雅経殿は大勢の供人を率いておいでになられて、庭を掃き清め、小石を除き、きれいな砂に塩を混ぜたものを一面に敷き詰めて、表面をすっかり清らかにして、四方には柳の木を切り立てましたが、その高さは一丈六尺もありましたろうか、何でも鞠をけ上げる鞠長(まりたけ)の高さの目安にすると申しておりましたが、下枝はごく下のものは切り落として、烏帽子が届くほどのところより上の枝を残しました。こうして準備が整いますと、色とりどりの水干を纏った者が八人、代わる代わる懸の中に出て、鞠を巧みに蹴り上げて見せてくれましたが、それは何とも、どのような道でもさまざまな技があるもので、いくら見ていても見飽きるということがありません。ことに雅経殿は飛鳥井流の蹴鞠を開いたほどの御方ですから、あたかも天人が舞を舞いながら鞠と遊んでいるような美しさで、私は生まれてはじめて、蹴鞠というものがこれほど面白いものであると思い知らされました」
「・・・それほどの名人とお聞きしましたら、ご存命中に一度でも拝見いたしたかったと今更ながら悔やまれますが、確か雅経様は若い頃は鎌倉に居られたと聞いた記憶がございます」
「いかにも雅経殿は罪人として鎌倉に居られたのですよ」
「罪人?それはまた何故でこざいますか」
「心寂房殿はご存じありませんか」
「一向に存じません」
「そうでしたか・・・雅経殿の父・難波頼経は源義経と同盟を結び、平家追討の先陣として戦った人物です」
「では、武人でございましたか」
「いいえ、源平合戦が起こった頃、難波頼経は豊後守であったのです。平家一門が都落ちして瀬戸内海に勢力を移した時、平家は太宰府を占拠しようとしましたので、頼経は豪族を率いて平家と戦い、遂に太宰府から追い落とし、また瀬戸内の諸豪族を説きつけて源義経に味方するように仕向けましたので義経は難波頼経に大いに恩義を感じ、両者の友情は平家滅亡後も極めて固いものがありました。ところが義経は頼朝と不仲になり、追討される身となりましたので、義経と昵懇にしていた難波頼経も罪を問われて刑部卿を解官され、安房国に配流されました。しかし合戦の軍功に免じて翌年には赦免され都に戻ったのです。ところが頼経は義経に対する扱いが不当てあると法皇を批判しましたので、たちまち捕らえられて伊豆国に流されることになりました。これは文治五年(1189)の事でしたが、この時十歳の少年であった雅経殿も連座して流されたのです」
「十才で流罪でこざいますか」
「普通の者であればこの時に運は尽きたでしょうが、雅経殿は強運の持ち主で、何と、将軍頼朝に認められたのです」
「・・・」
「雅経殿の祖父は難波頼輔という人物で歌人としても名が高く、また蹴鞠に於いてはその当時並ぶ者がないと謂われた技の持ち主でしたが、雅経殿は幼いころからこの祖父に和歌と蹴鞠を習い、十歳にして名人の域に達しておりましたので、雅経殿の妙技を見た武人たちは心奪われ、大評判になったと伝えられています」
「若くしてそれほどの腕前であったとは、祖父の頼輔というお方の指導がよほど優れていたのでござりましょう」
「まさしく、何事に於いても名人になるには名人に倣うことが秘訣ですが、雅経殿の祖父の母は賀茂神社の神主でした。当時は蹴鞠はまださほどひろく行われていなかったのですが、実は蹴鞠の発祥の地は賀茂神社であったのです。その賀茂神社に「蹴聖」と称されていた藤原成通という人物が居り、雅経殿の祖父頼輔はこの方から秘伝を授けられ、難波流蹴鞠の開祖となったのです」
「・・・」
「雅経殿は難波流蹴鞠の開祖であり、また祖父でもある頼輔から蹴鞠を教わりましたので、その技の巧みなことと美しさは目を見張るばかりで、雅経殿がひとたび鞠を蹴り始めると見る人はたちまち心を奪わたのです。やがてその評判は鎌倉将軍頼朝の耳に入りましたので、召し出して蹴らせて見ると評判にも倍する鮮やかさなので、頼朝はすっかり魅了され、すぐさま側近に取り立てましたが、雅経殿が歌道や学問にも秀でていると分かりましたので、猶子として迎え、やがて鎌倉第一の大学者、政所別当大江広元の女婿となったのです」
「罪人として護送された者が、幕府要人の婿となるとは」
「むろん、学問、蹴鞠に秀でていたとしてもそれだけでは大江家の婿になることは出来ませんが、雅経殿の祖父の父は大納言忠教で、この方が難波家の祖でした。大納言忠教の父は京極殿と謂われた関白摂政太政大臣藤原師実、師実の祖父は御堂関白道長公ですから、雅経殿は道長公の末孫にあたるのです」
「・・・」
「他方、鎌倉の大江広元の祖父は高名な大江匡房ですが、その曾祖父の大江匡衡は王朝最盛期の大学者で赤染右衛門を妻としておりましたが、名文家としての名は天下に高く、御堂関白道長は多くの文書を大江匡衡に書かせたと伝えられています。こうした両家の関係は雅経殿が鎌倉に護送されて来た時から分かってはいたでしょうが、それが凡庸なものであれば知らぬふりをされたでしょう。ところが万能の貴公子であったので、大江家は諸手を挙げて婿として迎えたのですよ」
「・・・」
「頼朝の嫡子、頼家も雅経殿の蹴鞠に魅せられ熱中したと伝えられますが、雅経殿の評判が都にも伝わりますと、後鳥羽院が『ぜひとも雅経を鎌倉より京へ戻すように』と頼朝公に勅諚が下りました」
「院から、頼朝に、雅経様を返せと、でございますか」
「その当時、後鳥羽院はまだ和歌はまだほんの初心者でしたが、蹴鞠には人一倍熱心でしたから、何としても雅経殿を身近に置きたいと欲したのでしょう。もともと雅経殿は自ら鎌倉に赴いたのではなく、罪人として護送されたのですから、後鳥羽院はその罪を解き、鎌倉から取り戻そうとのお考えでした。頼朝はこうした後鳥羽院のやり方をどう受け取ったのか分かりませんが、雅経一人が原因で鎌倉と朝廷に溝が生じてはと思ったのでしょう、雅経殿は都に戻れることになりました。これは建久八年(1197)春の事でしたが、頼朝は雅経の上洛に際して見事な駿馬と黄金など沢山の品々を贈ったと記されています」
「護送された罪人が、将軍の見送りを受けて駿馬に跨って上洛したというような事は、古来あったものでしょうか」
「前代未聞の出来事です。しかし雅経殿は長らく都を離れていましたし、その間に時代は大きく変わっていましたから、どれほど蹴鞠に優れていたとしても悲哀を嘗めるのが通例です。ところが雅経殿はよほどの人物であったのでしょう、後鳥羽院は雅経殿を側近として取り立て、蹴鞠の師と為しましたので、都には蹴鞠が大流行したのです。誰も彼もが雅経殿の蹴鞠をひと目見ようとそれは大騒ぎになりました。無論、その当時の私はそのような風潮を冷ややかに見ておりましたので、直に雅経殿の演じる様を見たことはありませんでしたが、評判は嫌でも耳に届いておりました。そうした時、私を震撼させる出来事が起こりました。何と、後鳥羽院は、この雅経殿を新古今和歌集の和歌所寄人とし、撰者に任じられたのです。これを聞いた時、私は、院は狂われたか、と思ったほどでした。雅経殿はその時まだ二十一、そのような若者が勅撰集の撰者とは・・・しかし時が経つれ、私も雅経殿の歌才を認めざるを得なくなりました。一人の人間にあれほとの多才を授けられるとは、神仏もきまぐれとしか申しようもありません」

第94番目のものがたり 「砧の音」 )

 読経の声を聞きながらうとうとしていると、どこからか調子のよい歌が響いてくる。歌に乗せて、ポンポンと蹴鞠が舞い上がる。

「それそれ、このように、決して力を入れるでないぞ。風に木の葉が舞う如く、空に雲が流れる如く、鞠は優しく柔らかに、歌詠うようにそっと蹴るのじゃ。これこれこのように、見よ見よ、どうじゃ、これはどうじゃ」

 冠を被り梧桐を染め抜いた狩衣を着た白髪頭の老人が桜の花の下で蹴鞠を巧みに操っている。鞠は地に落ちるのを忘れて、ゆらりゆらりと高く低く舞い上がる。十ばかりの男の子が小さな狩り衣に身を包み、頭は無冠のままの髪を房に結い、白髪の老人を口を半ば開いて見とれている。

「よいかな、今度はそなたが蹴ってみよ。わしは今様を詠ってやるぞ。

もろこし(とう)なる(とう)の竹、佳い節二節切り込めて、

(よろず)綾羅(りょうら)に巻き込めて、一宮(いちのみや)にぞ奉る

「これは驚いた、そなたはいつの間にこれほどに上手の蹴鞠になったやら。そなたはやがては蹴鞠名人、帝の御前に召されよう」

 老人はすっかり喜んで、両手をぱたぱたと打ち合わせた。子供はうれしくなって、蹴鞠を思い切り高く蹴った。鞠は空高く舞い上がって、大屋根を越えて消えてしまった。

「ああ、鞠が」

子供が叫んだが青い空には風が吹くばかりだった。

 はっと目を覚ますと、海から吹き付ける風が鎌倉の山々の松の林を揺すっている。ああ、夢か・・・雅経はふと寒気を覚えて身を縮めた。法華堂の屋根に松の葉がぱらぱらと落ちる。堂の奥まで秋風が吹き込んでくる。堂の奥、不空羂索観音の祭壇の前で細身の僧侶が経を読んでいる。高い鼻、皺の深々と寄った広い額、ほとんど消えかけた白い眉、目にはうっすらと涙を浮かべ、色あせた唇からは絶え間なく読経の声が響いてくる。

 今日は建暦元年(1212)十月十三日、頼朝公が亡くなられて十三年目建久十年(1199)一月十三日。将軍の御忌日ではあるけれど、祥月命日ではないので僧侶たちは昼前に供養を終え、鎌倉幕府の要人の姿もない。長明入道だけが薄暗い法華堂の中で読経を続けている。鴨長明は高名な歌人だが、元は下鴨神社の禰宜の家に生まれたので、雅経の家とは繋がりか深い。一度は禰宜になろうと朝廷に働きかけたが成らず、俊恵法師の弟子となったが、やがて出家して各地を転々と放浪しながら歌を詠んで日々を送っていたが、今回鎌倉へ同道したのは実朝と和歌を語るためである。

 将軍は『是非とも中納言から直にお教えをいただきたい』とかねがね雅経に頼んでいたのだが、定家が固辞して受けてくれないので実朝は仕方なしに『中納言においで願えぬのであれば、それに代わる歌の名人を都から鎌倉にお連れしてもらいたい』と強く依頼されていたので、雅経は思案の末に鴨長明入道を伴って下向したのだった。

 不意に風が強く吹き込んで、灯明の明かりが消えた。長明入道は読経を止め、無言のままじっと座っていたが、低い声で、 

  山田もる案山子の身こそ哀れなれ

秋はてぬれば問ふひともなし

(山裾の田圃を守る案山子は哀れなものだ、役目が過ぎてしまうと、誰一人訪れるものはありはしない)

 雅経は驚いた。長明入道というお人は後鳥羽院の命に背いて身を隠し、行方知れずになるほどの方だから変わり者であることは夙に世に知られているけれど、頼朝公の位牌に向かって一日中読経し、涙を流していたかと思えば、急に頼朝公を山田の案山子に喩えるとは。

 月が海に上がったのだろう、松の枝に青白い光が射している。

「危ういの、危ういの」と長明は呟いて縁先に出た。

「何が危ういと申すのです」

「平清盛とその一門ことごとくを西海に沈め、弟義経を殺し、奥州藤原一族を滅ぼして征夷大将軍となった鎌倉初代将軍源頼朝も、あっけなくこの世を去り、その子頼家も殺された。実朝公の命運もそう長くはあるまいの。あわれなことじゃ」

「そのような滅多なことを、決して口にすべきではありません」

「わしは鎌倉に何の恩もない。また、わしの申していることは、誰もが感じていることであって、秘密でもあるまい。しかもわしは先日鎌倉将軍のお姿に接して、はっきりと見た。実朝公には既に死相が現れている。惜しむべし、已にこの世の者の姿ではない」

「お黙りなされ。ここは頼朝公の仏前ですぞ」

「仏前だからこそ申すのだ。己の子の命が旦夕に迫っていることを知っているなら、助けたが良かろう。知っていても何も出来ぬのなら、わしらが何をしゃべろうと、かまいやせぬのだ。わしはなこの世を治める征夷大将軍をこの目ではっきりと見て、感じたことを申しているのだ。」

 月明かりはますます鋭く長明入道の眼差しはいよいよ細い。

「そなたの父頼経殿は関白藤原師実様の孫、世が世であれば、そなたも摂政関白の地位も夢ではなかった。ところが源平の戦となり、そなたの父は義経の戦上手に大いに賛嘆し、義経と親しくなったために二度も配流の憂き目にあった。そなたも命危ういところであったが、まれに見る蹴鞠の名人であったために、頼朝公に認められ、その子頼家が二代将軍の地位につくと、蹴鞠友達としていよいよ厚遇された。だが見よ、頼家はたちまち暗殺された。そなたは希に見る幸運によって後鳥羽院の足下にあり、危うく難を逃れたが、哀れ実朝公は、北条の人形に成り下がっている。血なまぐさい武者たちの刀に囲まれて、身動きひとつ自由にならず歌と蹴鞠だけが慰めなのだ。頼朝公の忌み日であるというのに、法華堂に参集したのは名も知らぬ僅かな者ばかり。板東武者の大方は北条になびいて、花も手向けぬ有様。これでは鎌倉将軍の命がいつまでもつものかの」

 長明入道は筆を取り出すと、法華堂の正面の柱に黒々と歌を書き付けた。

  草も木もなびきし秋の霜きえて

空しき苔を払う山風

(秋の風が霜の降りるような寒さ連れてやってくると、草も木もうなだれて風の吹く方に一斉になびく。しかしその風が吹き止んでしまうと、苔の生えた山には新たな山風が吹き荒れる。そのように、頼朝公が生きていた頃は、誰も彼もその威勢を懼れ、靡き従ったものだったが、今は頼朝公の力はどこにも見えず、執拗な苔のように北条の力が鎌倉という岩を覆い尽くしている。だが、それもまたやがては山風に吹き払われてしまうであろう・・・世の移り変わりはいつもこのように、うたかたの幻影を生み出したかと思うと、次の瞬間には風が花を吹き散らして何もかも空しく消えてしまうものなのだ)

  雅経は歌を返した。

  み吉野の山の秋風小夜ふけてふ

るさと寒く衣うつなり

(吉野の山をふく秋風はいよいよ冷たくて、古里で砧を打つ音が寒々と聞こえて来る、あの砧の音をあなたは何と聞きますか。戦乱で死んだ人々がこの世に残した形見の衣の汚れを洗い落とそうとする音でしょうか。それともこの国が傾いて行く事を悲しむ悲鳴でしょうか。新古今和歌集の冒頭で摂政太政大臣良経様は 

  み吉野は山もかすみて白雪の

ふりにし里に春はきにけり 

とお詠みになりました。吉野は世が移り変わっても常にこの国の聖なる古里でした。吉野にはかつて雄略天皇や斉明天皇の御所がおかれ、帝の威勢は国の端々にまで振るい、吉野の奥の葛城山の一言主神までが帝が皇居にお帰りなるのを見送るほどでした。ですから歴代の帝は吉野をいにしへの古里として深く尊崇しておいでになられました。しかし今や帝の力は空しくなり、王朝の栄華も戻らぬ夢となってしまいました。私の耳には人々の嘆きに似た砧の音が空しい秋風にのってさむざむと聞こえてくるばかりです。)

 長明入道は雅経の歌を聞いて「私が鎌倉将軍をひと目見物して見ようとはるばるやってきたが、実は雅経殿の歌に出会うために来たのであったのだな」と微笑して「都に戻られたら賀茂河原あたりでまた歌会をいたしましょうぞ」と言い残して月明かりの中を去って行った。