百人一首ものがたり 93番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 93番目のものがたり「陳和卿の船」

世の中は 常にもがもな 渚(なぎさ)漕ぐ
海人(あま)の小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「これをごらん下さい」と定家が取り出したのは分厚い冊子で、表紙に『金槐和歌集』とある。
「これはいかなるものでございますか」
「鎌倉右大臣の和歌集です」
「・・・鎌倉将軍、実朝公の・・・」心寂房が驚いて、どうしてこれが、という風に見るので、
「先日、二条院讃岐の時にお話しましたように、将軍の側近内藤知親が実朝の文を携えて訪れたのは新古今和歌集の第一次本が完成して竟宴が行われたひと月後の元久二年四月の事でした。将軍実朝は和歌を学ぶことについては極めて熱心でしたし、側近の内藤知親も優れた男でしたので、私は知親を弟子とし、京と鎌倉を往還する役目を託し、実朝に和歌を教えることにしたのです。知親の話によれば、実朝は朝夕に私が献本した新古今和歌集を詠い、書写し、あるいは本歌にして歌を詠むという日々を過ごしているとのこと。そうした気持ちを持ち続ければあるいは良き歌人になれるかも知れないと楽しみになりましたが、実朝の進歩はめざまく、数年もすると秀歌といえるほどの和歌を送ってくるようになったのです」
「・・・」
「私が実朝に一層期待するようになったのは私の息子為家の怠惰も手伝っております。その頃為家は蹴鞠に熱中して蹴鞠の他は何事も為さず、歌などはどこの話だといわんばかりでした。あれほど期待してさまざまに学ぶ機会を与えましたものをまったく何の役にも立たず、朝から晩まで、夜空に星が出ても猶蹴り続けている有様でしたから、呆れて物も言う気にもなれませんでした。ところがそれが後鳥羽院には大層気に入られたらしく、あれは内裏歌合があった十日ほど後のことでしたから、四月の二十九日の事でしたでしょう。為家は使いのものに文を届けさせて参りましたが、見ると『本日は後鳥羽院より特別のお褒めにあずかりました。院は私の蹴鞠の巧みなことに大層驚かれ、その体骨の蹴鞠に適していること、天下第一なり、と仰せになられました』
 何たることか、蹴鞠など何百回蹴り上げたとて、その都度消えてしまうではないか、そう思ったのでしたが、順徳天皇も蹴鞠に心を奪われておいでとの事でしたので、いろいろと聞いてみると、蹴鞠ができなければ宮中に出入りすることも出来ないという有様なので誰もかれもがこの道に秀でたいと念願し、為家もそれに殉じていたようなのです」
「・・・」
「帝に仕える為家としては蹴鞠に秀でるのも良き務めと考えたのでしょう。しかしそうした息子とは対照的に鎌倉将軍の熱心さは驚嘆すべきものがありましたので、私は将軍のために「古今和歌集」を新たに書写し、また、我が家秘蔵の『万葉集』をお贈りすることにしたのです。本来であれば為家に継がせるべき宝物でしたが、これもいたしかたないことです」
「では、為家様には万葉集をお渡しにならなかったのですか」
「私が父から受け継いだ万葉集は鎌倉将軍に差し上げてしまいましたのでもはや我が家にはありません。あの当時の為家に万葉集を渡したとしたら、為家は良き蹴鞠を得るために誰ぞと交換してしまったでしょう・・・しかし、万葉集につきましては鎌倉から特別な懇望があったのです。ご存じの蹴鞠の名人、飛鳥井雅経殿が仲立ちでした。詳しい話はまたにするとしまして、雅経殿は頼朝猶子であり、大江広元の娘婿、同時に後鳥羽院の側近でもありましたから、京と鎌倉の仲立ちをするには格好の人物でした。雅経殿の話によれば実朝の歌道への執心はただならぬものがあり、新古今和歌集を片時も傍らから離さず、私の合点にも日に幾度も目を通していおられるが、年来万葉集を学びたいと懇望されておいでであるので、何とかその願いを叶えていただきたい、というものでした。私は知親からの話も聞き、また更に雅経殿からの公式の申し入れがありましたので、これは持つべきお方にお持ちいただくべきだと考えて献上する決心をしたのです」
「・・・」
「ところがその矢先、有ろう事か、鎌倉将軍が殺されたという風評が都に伝わりました。これは明月記にも書き留めておきましたが・・・この条をごらん下さい」定家が示すところを見ると、健保元年八月十一日の項の最後の頃に、
今朝巷説云、関東謀反之輩、夜襲将軍幕下、已以滅亡云々。可然人中未言此事。且相憚歟。但将軍終命歟。誰人発使者乎。
「私もこの噂は聞いた記憶がございますが、事実無根の話が何故ここまで広まったのでしょうか」
「いやいや、こうした風評がまことしやかに伝わるほど、鎌倉が混乱していたということでしょう。頼朝の死後、政子の父時政は妻・お牧方と陰謀して、頼朝の忠臣であった梶原景時一族を滅ぼし、頼家の外戚であった比企能員一族をも殲滅しましたので、将軍頼家は孤立して、ついには殺されました。実朝が将軍になれたのは、時政の後見があったからなのです」
「時政が・・・」
「将軍になった時、実朝は十二才でしたから何が出来ようはずがありません。時政はすべての政務を独裁して、「下知状」なるものをしたためて御家人を支配しました。こうしたやりかたは当然反感を招き、鎌倉武士の中でも最も忠臣として名が高い勲功第一の畠山重忠と対立しましたので、時政と妻のお牧の方は謀って、この一族を皆殺しにしました。そして更に時政とお牧の方は将軍実朝を廃して、お牧の方の娘婿である平賀朝雅なる人物を将軍に据えようとしましたので、これまで沈黙を守っていた時政の嫡男義時と政子は父・時政とお牧の方を伊豆国へ幽閉したのです」
「時頼と政子の措置としては、幽閉は穏やかに聞こえますが」
「無論この事件は陰謀罪ですから死罪に値するでしょう。しかし征夷大将軍の頼朝、頼家が相次いで死に、源平合戦で大功あった義経・範頼は疾うに殺され、譜代の御家人たちも次々と滅ぼされていましたから、その上、実の父親を殺すとなると鎌倉の評判は地に墜ちましょうから、それも考慮して、幽閉となったのでしょう。それにこの事件は私とも全く無関係とは言えないところがありますのは、承久の乱の後、為家の妻は時政の孫を娶りましたから、御子左家は北条家と縁続きになったのです」
「・・・」
「宇都宮頼綱の妻は北条政子の姉であり、しかも、母はお牧の方なのです」
「・・・」
「ですから、時政とお牧の方は為家の義理の祖父母ということになります」

「この系図を拝見いたしますと、中納言様と将軍実朝は縁続きということになりますが」
「・・・まあ、途中に恐ろしい方々が居られますので、縁続きと思うのも憚られますが、幸か不幸か、為家が結婚したのは先の事でしたから、時政と牧の方の存命中は無縁だったのです」
「・・・」
「話はあれやこれやになりましたが、ともかく私は将軍実朝に万葉集を贈り、その後五代集も贈りましたが、実朝はそれらをたちまち咀嚼し、あらたな家風の和歌を知親に届けさせては合点を求めてまいりましたので、私は合点する時に実朝の和歌のすべて書写し、我が手元に留め、こうしてつづり合わせて冊子にしておいたのです」
「では、これは鎌倉将軍が家集として造り上げたものを中納言様に献本したのではなく、将軍がその都度送ってきたものをまとめたものでございますか」
「そうですとも。この奥書をごらんなさい。建暦三年(1214)十二月十八日と見えましょう」
「はい、確かにそのように。とすると、この『金槐和歌集』は建暦三年末までに中納言様のお手元に届いた和歌をまとめたものでしょうか」
「いいえ、そうではありません。私が鎌倉から届いた歌を冊子にしたのです」
「では、この日付の前後では歌は違ってまいりましたでしょうか」
「それは申すまでもありません。さきほどお話しましたように、すでに実朝はかなりの秀歌を詠むようになりましたが、私が万葉集を贈ったのは健保元年末のことですから、この奥書の約一年ほど後のことです。それ以降、かなりの間、実朝は万葉集に取り憑かれておりましたから、作風は自ずと違ってまいりました。しかし最初の頃の歌には万葉集の陰も見えず、新古今和歌集の景色ばかりでした。この歌をごらん下さい。これは金槐集の巻頭、春部筆頭の歌です。
   今朝見れば山も霞みて久方の
あまの原より春はきにけり 」
「これは新古今和歌集巻頭、
   み吉野は山もかすみて白雪の
ふりにし里に春はきにけり
の摂政太政大臣良経様の歌と似ているかと存じますが、それにしても、あちらこちらの歌の綴れのようにも思われます」
「まさしく心寂房殿の申される通りです。実朝の歌はあちらこちらの歌集から言葉を借りて縫い合わせたような歌が沢山みられます。しかしながら鎌倉将軍の地位にある者が日がな一日頭をひねってああでもないこうでもないと書いては消し、歌書を見てはまた考える様が手に取るように見えて、いかにも初心者らしく面白い。こうした景色を『をかし』と言うのではありませんか」
「中納言様、二番目も似ております。これは赤人の歌でございましたか」
「まさしく、実朝の歌は、
  山里に家居はすべし鶯の
なく初声の聞かまほしさに
   赤人の鶯の歌は新古今の二十九番ですが、
  あづさゆみ春山近く家居して
たえず聞きつる鶯の声
 ついでですから夏秋冬と一首ずつみてみますと、

 うたた寝の夜の衣に香るなりものおもふ宿の軒の橘 (実朝)
 橘の匂うあたりのうたた寝は夢も昔の袖の香ぞする (俊成女)

蟋蟀夜半の衣の薄き上にいたくは霜の置かずもあらなむ
(実朝)
蟋蟀鳴くや霜夜の狭筵に衣片敷きひとりかも寝む   (良経)
水鳥の鴨のうきねの浮きながら玉藻の床に幾夜へぬらむ
(実朝)
 水鳥の鴨の浮き寝の浮きながら浪の枕に幾夜へぬらむ 
(河内・新古今653)」

「こうして見るとどれほど新古今和歌集に深く影響を受けておいでであったかよくよく分かりますが、しかし、実朝というお方が本心から何を思っておてでであったか、少しも見えませ」
「心寂房殿、確かにその通りです。もしも後世、これが実朝集として知られるようになった時、こうした歌だけでしたら誰も見向きもしなくなるでしょう。ここに記されている六百六十三首のうち六百首余りは特別な歌とはいえません。しかし残る六十首のうち、三十首ほどは秀歌と評しても過言ではありませんよ。しかもうちの半分は、他の者では決して詠うことのできない名歌です。
  山は裂け海はあせなむ世なりとも
君にふた心我があらめやも
 このように純真一途という和歌もありますが、こんな歌もあります。
 大日の種子よりいでてさまや形
さまやぎゃうまた尊形となる  」
「さてこれはわかりにくい歌でこざいますが」
「実朝はどこで密教を学んだのか分かりませんが、まさしくこれは曼荼羅を詠んだ歌ですよ。曼荼羅の中心には大日如来が居ります。大日如来から放たれた光が種となって万物の形を取り、さまざまな現象を生み、地獄餓鬼畜生ともなり、また人間や尊い仏となって人々を救います。こうした宇宙の森羅万象が大日如来の現れであるのだなあと、実朝は詠っているのです」
「・・・」
「  塔をくみ堂をつくるも人なげき
懺悔にまさる功徳やはある 」
「これもまた難しゅうこざいますが」
「ここにある『人なげき』という言葉の意味は、人の難儀となる、というほどの意味ですが、常の歌人ならこのような俗語を使うことはありません。それを知ってか知らずか実朝は常には使われない言葉を使って真実を歌っているのです。その意味は、
(五重塔を組み上げるのは人を救うというより人に難儀を与えるほうが多いであろうし、堂を造るのもやはり同じ苦しみである。心の懺悔にまさる功徳はありはしないのだ)
 これだけみても実朝が常人とははるかに異なった人物であることはおわかりでしょう」

第93番目のものがたり 「陳和卿の船」 )

実朝は朽ちかけた船端に手を掛けた。側舷は三丈はあろうか、城壁のように高い。新造した時には縁取られた銅板に日が反射して眩しかったのに今はその割れ目に蟹の死骸が挟まっている。

「この船を海に浮かべて六十人の漕ぎ手に櫂がせ、季節風に乗って帆走すれば、揚州へは十日余りで着きまする」と陳和郷は設計図を広げて実朝に語った。「宋は日本国の二十倍の大国にございます。戸数は徽宗皇帝時代に三千万戸に達し、国土はいたるところ大小の水路が網の目のように張り巡らされ、無数の船舶が行き来しております。水路が尽きるところは陸路が縦横に走り『絹の道』は砂漠を越え、印度、埃及、羅馬にまで続いております。この道を通って無数の品々が運ばれてまいりますが、多くは日本の国には全く無いものでございます。たとえば生きた犀や象、キリンのたぐいでございますが、犀の角は秘薬となりますので黄金の百倍もの高値で取引されます。象牙、珊瑚、瑪瑙、妖しいばかりに輝く宝石、金銀陶磁器、貂や熊の皮、薬草などでございます」
「それらは宋の国に常に入って来るのか」
「夜も昼も、大河のように商人の隊列は絶えることがありません。ありとあらゆるものが船や馬の背や駱駝に運ばれて何万里という陸海路を行き来しております」
「・・・」
「町の周りには二丈、三丈の城壁が二重三重に巡らされ住民はその中で暮らしておりますが、極めて広く鎌倉の町の百倍ほどもありますので生涯を中で暮らしても飽きるということがありません。瓦舎は遊楽の場でございますが、一つの瓦舎には五十ほどの匂蘭があり、それぞれの匂欄には数千人の見物客を容れることができますが、そこでは歌、演劇、あるいは妓女などと尽きぬ楽しみが待っております」
「誰がそのように楽しむことができるのか」
「上は皇帝貴族から下は商人庶民学生まででござります」
「共に楽しむのか」
「いいえ、皇帝は将軍のお屋敷の千倍もの宮殿で暮らし、文武百官・後宮の美人数千人に取り巻かれておりますが、技芸殿や舞楽殿には才人、歌人、画家、書家、彫刻師など無数の者が招かれて日々研鑽し、天下の名品、珍宝を制作しておりますので、宗の国の技芸は極点に達し、およそ人間が描いたとは思えぬ絵や彫刻がいたるところにあふれております。これを見ずにこの世を語る事は池を見て海を語るのと同じでござりましょう。しかしなによりも将軍は医王山に詣でなければなりません。前世に於いて鎌倉将軍は医王山の長老でございましたし、私は将軍の門弟の一人でこざいました。過ぐる年に私は平清盛に焼かれた東大寺の再建に努めましたが、今は、あなた様のために大船を造り、医王山へ詣でる導き手となりましょう」

 陳和郷の声がまだかすかに聞こえる。実朝は波の音を聞きながら朽ちた船の周りを二度三度と回って歩った。
「やはりここにおいででしたか」と喘ぐような声がするので見ると内藤知親が青い顔をして実朝を見ていた。
「戻ったのか」
「たった今戻りました」
「定家卿はお元気であられたか」
「いささか歯を病んでおられましたが、それより大層ご心配なさっておいででした」
「何を心配しておられたのか」
「いつものように私が右大臣のお歌をお見せして合点を求めましたところ、快く応じて下さいましたが、入り日の空の歌を見てハッとされて、『これは〈まつり〉ではなく〈まふり〉であろう』と仰せになられますので、『いいえ右大臣は〈ここはまふりではないぞ〉と念をおされましたので確かに〈まつり〉でございます』と申しあげると、そのまま黙って考え込んでおられました」
「そうか」実朝は渚の方に歩いた。そして『やはり、定家卿はお分かり下さったのだ』と思った。

  くれなゐの千入(ちしほ)のまつり山の端に
日の入ときの空にぞ有りける

 もしもこの〈まつり〉を〈まふり〉としてしまえば、(紅の染料で千回も染め抜いたように、山の端に沈んでゆく時の空よ)という意味になってしまう。だが、〈まつり〉は〈祀り〉であるから、その意味は(紅の血汐で染まって死んでいった千人万人を祀るように、真っ赤にそまって山の端に沈む夕日の空の色よ) となるのだ。

遠い渚に漁師たちが出て小舟を沖にこぎ出している。陳和卿の船は海に浮かばなかったが、漁師達はいとも易々と漕ぎ出している。実朝は波間に揺れる小さな舟をいつまでも眺めていた。

 世の中はつねにもがも渚こぐ
あまの小舟のつなでかなしも

参考引用文献
    「金槐和歌集」日本古典文学大系・岩波書店
     同・解説並びに校注 小島吉雄
    「明月記」
    「新古今和歌集」 その他