百人一首ものがたり 92番
目次
わが袖は 潮干(しほひ)に見えぬ 沖の石の
人こそ知らね 乾く間もなし
百人一首ものがたり
- 百人一首ものがたり 100番 順徳院
- 百人一首ものがたり 10番 蝉丸
- 百人一首ものがたり 11番 参議篁
- 百人一首ものがたり 12番 僧正遍昭
- 百人一首ものがたり 13番 陽成院
- 百人一首ものがたり 14番 河原左大臣
- 百人一首ものがたり 15番 光孝天皇
- 百人一首ものがたり 16番 中納言行平
- 百人一首ものがたり 17番 在原業平朝臣
- 百人一首ものがたり 18番 藤原敏行朝臣
- 百人一首ものがたり 19番 伊勢
- 百人一首ものがたり 1番 天智天皇
- 百人一首ものがたり 20番 元吉親王
- 百人一首ものがたり 21番 素性法師
- 百人一首ものがたり 22番 文屋 康秀
- 百人一首ものがたり 23番 大江千里
- 百人一首ものがたり 24番 菅家
- 百人一首ものがたり 25番 三条右大臣
- 百人一首ものがたり 26番 貞信公
- 百人一首ものがたり 27番 中納言兼輔
- 百人一首ものがたり 28番 源宗于
- 百人一首ものがたり 29番 凡河内躬恒
- 百人一首ものがたり 30番 壬生忠岑
- 百人一首ものがたり 31番 坂上 是則
- 百人一首ものがたり 32番 春道列樹
- 百人一首ものがたり 33番 紀友則
- 百人一首ものがたり 34番 藤原興風
- 百人一首ものがたり 35番 紀貫之
- 百人一首ものがたり 36番 清原深養父
- 百人一首ものがたり 37番 文屋朝康
- 百人一首ものがたり 38番 右近
- 百人一首ものがたり 39番 参議等
- 百人一首ものがたり 40番 平兼盛
- 百人一首ものがたり 41番 壬生忠見
- 百人一首ものがたり 42番 清原元輔
- 百人一首ものがたり 43番 権中納言敦忠
- 百人一首ものがたり 44番 中納言朝忠
- 百人一首ものがたり 45番 謙徳公
- 百人一首ものがたり 46番 曽禰好忠
- 百人一首ものがたり 47番 恵慶法師
- 百人一首ものがたり 48番 源重之
- 百人一首ものがたり 49番 大中臣能宣朝臣
- 百人一首ものがたり 50番 藤原義孝
- 百人一首ものがたり 51番 藤原実方朝臣
- 百人一首ものがたり 52番 藤原道信朝臣
- 百人一首ものがたり 53番 右大将道綱母
- 百人一首ものがたり 54番 儀同三司母
- 百人一首ものがたり 55番 大納言(藤原)公任
- 百人一首ものがたり 56番 和泉式部
- 百人一首ものがたり 57番 紫式部
- 百人一首ものがたり 58番 大弐三位
- 百人一首ものがたり 59番 赤染衛門
- 百人一首ものがたり 60番 小式部内侍
- 百人一首ものがたり 61番 伊勢大輔
- 百人一首ものがたり 62番 清少納言
- 百人一首ものがたり 63番 左京大夫(藤原)道雅
- 百人一首ものがたり 64番 権中納言定頼
- 百人一首ものがたり 65番 相模
- 百人一首ものがたり 66番 大僧正行尊
- 百人一首ものがたり 67番 周防内侍
- 百人一首ものがたり 68番 三条院
- 百人一首ものがたり 69番 能因法師
- 百人一首ものがたり 70番 良暹法師
- 百人一首ものがたり 71番 大納言経信
- 百人一首ものがたり 72番 祐子内親王家紀伊
- 百人一首ものがたり 73番 権中納言匡房
- 百人一首ものがたり 74番 源俊頼朝臣
- 百人一首ものがたり 75番 藤原基俊
- 百人一首ものがたり 76番 法性寺入道前関白太政大臣
- 百人一首ものがたり 77番 崇徳院
- 百人一首ものがたり 78番 源兼昌
- 百人一首ものがたり 79番 左京大夫顕輔
- 百人一首ものがたり 80番 待賢門院堀河
- 百人一首ものがたり 81番 後徳大寺左大臣(藤原実定)
- 百人一首ものがたり 82番 道因法師
- 百人一首ものがたり 83番 皇太后宮大夫(藤原)俊成
- 百人一首ものがたり 84番 藤原清輔朝臣
- 百人一首ものがたり 85番 俊恵法師
- 百人一首ものがたり 86番 西行法師
- 百人一首ものがたり 87番 寂蓮法師
- 百人一首ものがたり 88番 皇嘉門院別当
- 百人一首ものがたり 89番 式子内親王
- 百人一首ものがたり 90番 殷富門院大輔
- 百人一首ものがたり 91番 後京極摂政前太政大臣
- 百人一首ものがたり 92番 二条院讃岐
- 百人一首ものがたり 93番 鎌倉右大臣
- 百人一首ものがたり 94番 参議雅経
- 百人一首ものがたり 95番 前大僧正慈円
- 百人一首ものがたり 96番 入道前太政大臣
- 百人一首ものがたり 97番 権中納言定家
- 百人一首ものがたり 98番 従二位家隆
- 百人一首ものがたり 99番 後鳥羽院
- 百人一首ものがたり 2番 持統天皇
- 百人一首ものがたり 3番 柿本人麻呂
- 百人一首ものがたり 4番 山部赤人
- 百人一首ものがたり 5番 猿丸太夫
- 百人一首ものがたり 6番 大伴家持
- 百人一首ものがたり 7番 阿倍仲麻呂
- 百人一首ものがたり 8番 喜撰法師
- 百人一首ものがたり 9番 小野小町
小倉庵にて 権中納言藤原定家と主治医・心寂坊の対話
数日来九十二番目のものがたりを書いていたが、夕刻になって心寂房が見えたので、肌脱ぎになって蛭を五十匹ばかり貼り付けてもらった。半刻ばかりして心寂房は血を吸って丸くなった蛭を箱に入れ、背中に湿布をしながら、「常々不思議に思っておりましたのは、中納言様の父・俊成卿と猶子の事でございます。俊成卿は寂蓮、俊成卿女、二条院兵衛督、建春門院左京太夫などの方々を幼い時に引き取って猶子となしておられます。これは歌の道を教えるためであったとお伺いしてはおりますが、俊成様には中納言様がおでですし、式子内親王子様や太政大臣良経様、そして後鳥羽院も俊成卿に教えを乞うておられました。にも拘わらず何故さらに猶子をもらい受けて自ら育てようとなさったのか、これが今ひとつ理解ができないことでございます」心寂房がこう言うので、
「心寂房殿は幾度か弟子を育てておいでのようでしたが、今は幾人残っておりますか」
「数年前までは一人二人と居たこともありましたが、今は一人もおりません」
「では、心寂房殿が死んでしまったら医術はどうなるのですか」
「さて、どうなると申されましても、私のごとき者は他にも数多くおりますので、今日明日死んだとしても医術が衰えるという気遣いをする必要などいささかもないと存じます」
「いいえ、それは違いますよ、心寂房殿。司馬遷の『史記列伝』には古代医学の鼻祖である扁鵲がどれほど名医であったかつぶさに記されていますが、扁鵲の医学は後世に伝えられませんでした」
「・・・中納言様、私が弟子をもたぬ事を語るについて、扁鵲を喩えにお出しになるのは余りにも過ぎると存じますが」
「いいえ、そうではありまません・・・まずはお聞き下さい。扁鵲の医術が後世に伝えられなかった最大に理由は弟子を育てなかったからです。もっとも、育てようにも扁鵲にはそれが許されなかった。扁鵲が若い頃、旅人を留める宿の使用人として働いていました。長桑仙人が扁鵲を見込んで医術の秘伝を教えようとしましたがそれを伝えるに当たって条件を課しました。『これを誰にも明かしてはならぬ』・・・それ故扁鵲は弟子を持ちたくても持てなかったのでしょう。扁鵲の名声は風の如く全国に伝わりましたが、秦国の太医令であった李醯は扁鵲を嫉妬して暗殺したので扁鵲の医術は絶えてしまったと、このようでしたね」
「確かにそのように伝えられております」
「それから、三国志時代の華佗も同様ではありませんか・・・華佗は万能に秀で、薬草を使って自在に病人を治したので『神医』と讃えられましたが、魏の曹操はその噂を聞いて華佗を侍医としました。華佗は曹操の頑固な頭痛を易々と治しました。ところが曹操は華佗を拷問の末に殺してしまいました。なぜそのような愚かなまねをしたのか、一説では華佗が逃亡しようとしたからだとされております。狡猾な曹操の事ですから『華佗が他国の王に招かれて治療すれば王は元気になるに違いない。そうなれば魏が危うくなるであろう。そうなってからでは遅い。今のうちに殺してしまえ』と考えて殺したということはあり得ることです。そしてそれが祟って、己の頭痛を癒す者はいなくなり、溺愛していた庶子の曹沖が病んでも誰も治療出来ずにむざむざと死んでしまいました。曹操は己の浅はかさを思い知ったのは良きことでしたが、弟子が一人も後に残らなかったというのは、中国にとっては悲劇であったと言わねばなりません」
「・・・中納言様のご指摘の通り、華佗が多くの弟子を育てておりましたら、自身が殺されてもその医学は後世に伝わって多くの人を救うことができたでしょうが、そうならなかったのは、華佗の過ちというより、彼の国の、何も申しますか、いわば性癖のようなものであったとは考えられないでしょうか」
「・・・性癖・・・」
「これは既に中納言様が漢字についてお話下さった事と同じ話でございますが、秦の始皇帝が焚書を命じたことに象徴されておりますように、中国には古来より、知識が広く民衆に広がるのを好まない傾向があるように存じます。科挙などは優れた人材を登用する門戸ですが、合格するには天才か、あるいはごく選ばれた秀才のみで、その他の者には学問芸術の道は閉ざされておりました。こうしたことから、医術もまた、秘伝としては伝わっても、ひろく民衆に広がるようにとは望んでいなかったのかも知れません。古代からトウホウ、ハクワ、マコなどの医術に長けた仙人が民衆を救った話はございますが、それは仙人の話であって人間界の話ではなかったようでございます」
「・・・確かに・・・」
「聞くところによれば、唐が滅びる以前、中国大陸にはすでに古代からの医学書は一冊も残されていなかったそうにございます。話は大げさに伝わりますから、まさか一冊もということはないのでしょうが、我が国に伝わる医術の開祖である張仲景の学問は魏の曹操ら三国が入り乱れて戦い幾十年となく戦乱が続きましたので人材は死に絶え宝物は四散し、残されたわずかな書物は霊帝の子孫である阿智王が応神天皇の御代に日本に逃れた時に持って参りましたので、大陸に残されたものは無きに等しいそうでございます。こうした事が起きるのも、知識は特権階級の専有物であるという考えが古代周の国の頃から厳然と存在し、また同時に、知識が民衆に広がれば国家が危うくなる、という支配者の懼れもあり、双方相俟って現今の大陸の状況が生まれたものと私は考えておりますが・・・」
「まさしく心寂房殿の申される通りです。大陸と日本の相違はそこにこそあります。というのも、阿智王がもたらした医学書が『医心方』としてまとめられますと、原本は天皇家にありながら密かに写し取られ世に伝わりました。朝廷はそれを禁じる事はしませんでしたから、医術は下々の者にまで恩恵をもたらました。歌の道も同様、もとは内裏や摂関家の歌合から生まれたものであっても、いつの間にか世間に広まり、庶民までもそれらに親しむような気風が生まれております。こうした意味でも医の道と歌の道は似ていると申せます」
「・・・」
「ご存じの通り、昔から歌の道を伝えるためにさまざまな書物が作られてまいりました。その数は医書にも決して劣りません。最も優れた歌論書は『俊頼脳髄』や『袋草子』ですが、父の『古来風躰抄』もまた歌道を後世に伝えようとして記されたものです。しかし書物だけで歌道を伝えるのは至難の業です。そもそも『古来風躰抄』は式子内親王に歌の道を教えるために記されたのですから、これを読めば歌道が体得できるものであれば内親王は父と会う必要はなかったでしょう。しかし内親王は幾度となく父をお召しになり、直に教えを乞いました。それというのは歌は文字からでは学ぶことはできないからです。歌は目から学ぶものではなく、五感は無論のこと、阿頼耶識の領域まで入り込んではじめて学ぶことが可能となります。こうした事は歌道に限らず、医道も同様と存じます。『病人の容態はこれこれであるから処方をしてほしい』と文書で百万言費やしても、名医が病人をひと目見た後の診断には及びません。また、脈はこれこれの時にはこれこれの病であると医書に記しても、微妙な脈の有様を言葉で伝えることなどできようはずはありません。ですから、弟子は師の一挙手一投足を間近にみていなければ師の医術を学び取ることは不可能です。また、病は気から生じると申しますから、病んだ者の気を一瞥しただけで看取できなければなりません。こうした技は教えようとしても言葉では教えられないことです。教える者と教えられる者の気が合致してはじめて成り立つものなのでしょう。心寂房殿が幾度か弟子を育てようとしながら、弟子の方から去ってしまったのは、心寂房殿の人格と弟子の器量とが不一致であったからではありませんか」
「・・・」
「父には十人の息子がおりましたが、直に歌道を教えてようとしたのは十番目の私だけでした」
「ご兄弟の二三人が僧侶になられているとは存じておりましたが、それほど多くの方々が出家されていたとは存じませんでした」
「長男は覚長、次男は覚弁、次が静快、尊円、快雲、覚禅、等円、円寂と八男までは僧侶と成しました。私の下には猶子が二人おりますが、その一人が寂蓮です。上の兄たちが父から和歌を学んだとしても、ほんの一時期であったでしょう」
「・・・」
「父は何としても歌道を後世に伝えようとしましたが、器が無い者には伝えられないと信じておりました。いつぞやもお話しましたように、父は歌道を伝えるためには妻さえも変えたのです。すぐれた子を授かるためにはその素養を備えた妻を娶らねばならぬと信じて、先の妻を離縁し、美福門院加賀を妻としようと決意したのですからね。加賀には為隆という優れた夫があり、しかも隆信という子まであったものを、横取りする形で妻としました。無論、父は母を愛していたことは疑いもない事実ですが、もしも歌才がなかったら娶ることはなかったでしょう。また、隆信を母が連れ子に出来たのも、隆信に優れた歌才がそなわっていたからです。ですから、私がこの世に生まれたのは、父の執念の賜とも申せましょうが、もしも私が歌才なしに生まれていたら躊躇することなく寺に入れたでしょう」
「・・・」
「ともかくも父が猶子を幾人となく育てたのも、歌道を後世に伝えることの出来る者を数多く世に残したいと願ったからです」
「しかし中納言様が生まれて後までも猶子をもらい受けるという必要があったとは思われませんが」
「心寂房殿、それは思い違いというものです。なにより人は容易に死ぬではありませんか。死にたくなくとも死にますし、時には殺されてしまいます。私は幼い頃から病弱で幾度となく瀕死の病を患いましたから、父も母もここまで長生きするとは思いも寄らなかったでしょう。ともかくも、父は人は死ぬものであるから、才能あるものは数多く育てなければならないと信じて、それを貫いた人なのです。そして私はそうした事を信じることができた父を羨ましいと思っています」
「・・・」
「なぜ私が羨むのかと申せば、父は多くの歌人を育てれば、それらの者が後世に良きものを伝えてくれるであろうと本心から信じることができたからです。父は永久二年(1114)に生まれて、 元久元年十一月三十日(1204)に世を去りました。存命中に、金葉、詞花、千載、の三つの勅撰和歌集の撰集を見、「新古今和歌集」が完成する直前まで生きました。保元・平治の乱を経て源平合戦が終わり再び平和が訪れると、歌道は以前にもまして勢いを増し、新古今和歌集の撰集が始まりました。父は古今集以後七番目の勅撰集が生まれようとしているのを目の当たりにして世を去ったのです。そうした意味で父は幸運でした・・・しかし父の死後予測もしなかった時代が到来しました。それは、父が育てた歌人がことごとく死んだのです。一人一人が死んだのではなく、根こそぎ死に絶えたのです。今や歌人を育てることは不可能となりました。歌の時代そのものが死んだのですからね」
「・・・」
「この有様を見た私は、弟子を育てるより、一冊でも歌書を残すべきであると考えて書写に取り組みました・・・しかし一度も弟子を育てようとしなかったかといえばそうとも申せません。それは鎌倉右大臣実朝ですよ。最初に実朝から文が届いたのは新古今和歌集の竟宴のあった元久二年(1205)三月の翌月の事で、実朝は側近の内藤知親に文を託して歌の道を教えてもらいたいと懇請してまいりました。むろん私はまともな話として取り合う積もりもありませんでした。というのも実朝は頼家と同腹の弟ですから、政子の実の息子です。そのような者に歌の道が分かるとはとうてい思えなかったのです。しかし実朝の文は真摯な言葉に満ちていた上、文を携えてきた側近の内藤知親は『なんとしても良きご返事をいただきたい』と居座って動かず、五月、六月・・・夏になっても戻ろうとしませんので、私は根負けして、完成した新古今和歌集の第一次本を書写して知親に託したのです。それから後、知親は都と鎌倉を往還して実朝の歌を私に届け、私はこれに合点を加えて返しました。実朝自身は鎌倉から来ることは出来ませんので、内藤知親を私の弟子にして、鎌倉と都の間で文を交わしたのです。最初の数年はひたすら習作ばかりでしたから、やはり直に教えなければ無理ではないか、と危惧しておりましたが、次第に稀代な才能を示すようになりましたので『この人物こそ』と思うようになり、我が家秘伝の『万葉集』まで献本したのです」
「秘伝の万葉集を、でございますか」
「健保元年(1213)の事でしたよ。その経緯はまた詳しくするとしましても、万葉集を入手したのはよほど嬉しかったのでしょう、その後は万葉集を本歌取りした和歌を次々と送ってまいりましたので、私はいよいよ期待を深めたのです。ところが、実朝は突然身罷りました。
うつせみの世は夢なれや桜はな
咲きては散りぬ哀れいつまて
こうした歌を見ますと、実朝は死を予感していたとしか思えません・・・しかし、実朝の話をしておりますと夜が明けてしまいますから、今夜はこれほどにしまして、実は今夜お見せしたいと思っておりましたのは、別の歌人なのです」
「二条院讃岐・・・『沖の石の讃岐』でございますか」
「そう、源三位頼政の娘です。頼政は武将には惜しい人物でしたが、あのように無惨に死にましたので、娘の讃岐は人知れぬ辛い思いをしていたのでしょう」
第91番目のものがたり 「埋もれ木」
父の頼政に呼ばれて路地を急ぐと、小家の前庭で子供たちが木で造った馬にまたがって鞭でピシャリピシャリと馬の首を叩く。
馬は涙を浮かべてうなだれている。鼻を垂らした男の子は鞭をひゅーひゅーとさせて叫ぶ。「仲綱、もっと早く走らぬか、臆病者め」。これを聞いたもう一人の子は朽ちかけた木馬に跨って相手に負けまいと大声を出して「聞こえぬか、源三位頼政、老いぼれ馬め、早く走れ、死ぬまで走れ」
「仲綱、平氏の公達の命令ぞ、走れ、足が折れるまで走らぬか」
「白髪頭の源三位、平家に下った源氏の頭領。平氏の公達のおん前ぞ、命がけで走らぬか。三位をくれた清盛の前ぞ、命がけで走らぬか」
讃岐は逃げるように道を急いだ。そして宗盛を恨んだ。讃岐の父源三位頼政と仲綱が子供にまで馬鹿にされているのは太政大臣清盛の三男、平宗盛の仕打ちのせいだった。都人はその仕打ちをおもしろがり、尾ひれをつけて囃し立てた。話の種は仲綱の愛馬「木の下」である。鹿毛の逸物で、姿、品格、足の早さ、どれをとってもまたとない名馬であったので仲綱はこよなく愛して、朝に夕に調教し、嵯峨野あたりまで遠乗りすることもしばしばだった。そんなある日評判を聞きつけた平宗盛が「ひと目その馬を見せよ」と文を寄越した。仲綱は一度見せれば「欲しい、献上せよ」と言うであろうと恐れて「調教中故お見せすることはできません」と申しやった。しかし宗盛が執拗に見せろと文を届けるので、仲綱は歌を詠んで届けさせた。
恋しくは来ても見よかし身に添へる影をば如何はなちやるべき
(それほどまでに思い焦がれておいでになっておられるならば、どうぞおいでになってご覧ください。伊勢物語にもありますように、思いばかりは神様でも止めることはできないのですから、私もあなたさまのお越しを歓迎いたします。しかしなんといってもこの馬は私の身とその影(鹿毛)のようにぴったりと寄り添っていますので、手元から離すことはできないのです)
宗盛は「馬はやれぬから歌で我慢せよとは許せぬ」と激怒した。仲綱は困惑して父・源三位頼政に相談した。頼政は答えた。
「欲しいというなら、呉れてやりなさい。黄金でこしらえた馬であっても、どうしても欲しいと言う時には呉れてやるものだ」
仲綱は泣く泣く手放した。宗盛はほくそ笑んで宮廷で誰彼なく声を掛けて「天下の名馬を手に入れた。是非ひと目見に来られよ」と誘った。見物人が大勢やってくると宗盛は馬を引き出させたが、馬の尻には「仲綱」と大きく焼き印を押されていた。
宗盛は客の前で、「仲綱に鞍を置け、なにをぐずぐずしている。仲綱に鞭を当てよ、そら、鐙を入れろ」とさんざんに罵ったので、来客は大いに嗤った。こうした出来事が市中に伝わり、子どもたちまでが仲綱を鞭で叩いて遊んでいるのである。
讃岐が父の邸に入ると、頼政は文机に向かって歌を書いていた。
「上るべき頼りなき身は木の本に椎をひろひて世を渡るかな」
「これは何の歌でございますか」
「仲綱を不運に巻き込んだ愚かな歌だ」
「・・・」
「私は長い間昇叙せず、四位に止まっていた。平治の乱に於いて清盛の嫡男左衛門佐重盛は五百騎を率いて待賢門院に向かったが、悪源太義平の軍勢十七騎に恐れて逃げだし、大宮表まで退いて、新手の五百騎を繰り出して戦ったが、悪源太義平が『敵に馬の足を立たせるな』と喚いて突進して来たので恐れて再び退却した。その悪源太を遮って軍勢を立て直したのはこのわしであった。義朝は我が軍勢を見て「や、兵庫頭、名をば源兵庫頭と呼ばれながら、云う甲斐無く、など伊勢平氏にはつくぞ」と罵ったので、「常々累代弓箭の芸を失ってはならぬと心してきたが、この度、十善の君に付き奉るは全く二心にあらず。御辺(そなたこそ)、日本一の不覚人信頼卿に同心するこそ、源家の恥辱なれ」と叫び返して戦いとなり、義朝をさんざんに打ち破った。この時の事を思えば、このわしと平清盛は同輩であったものを、戦の後、清盛はみるみるうちに出世して太政大臣となり、この私は公卿にさえなれず、四位に甘んじているのが悔しく、あのような歌を詠んだ。
上るべき頼りなき身は木の本に
椎をひろひて世を渡るかな
(頼りにして空までも上ることのできる大木を持たないので、私は他の木の本に身を寄せて、落ちた椎の実を拾って世過ぎをしている。そのように私の本の木の源氏の木は枯れて絶えてしまったので、平家の木陰に身を寄せて、椎の実ならぬ四位の位に甘んじてこの世を送っていることだ)
これを伝え聞いた清盛は「七十の坂をいくつも越えてきた源氏の頭領が四位とは気の毒なことだ。我が息子は内大臣、大納言、娘は帝の后になって皇子を生んでいるというに、頼政はあわれ椎(四位)の実を拾うしかないとはな。源氏の一族はみなこの清盛に弓引いて逆賊となったのに、頼政の正直者は平家に尽くしてくれた。冥土のみやげに三位をくれてやろうぞ」と申して、わしを公卿に取り立てた。何とも不覚、頼政、取り返しのつかぬ不覚であった」
「・・・」
「このたびの仲綱に対する平家の者共の仕打ちのそもそもの因は、ほかならぬ三位を欲したことに端を発している。仲綱の恥の種はわしが蒔いたのだ。しかし、清和源氏の頭領とその嫡男が辱めを受けてそのまま生きることはできぬ・・・これから数日後に、父もそなたの兄もこの世には居らぬであろう。しかし、これだけは申しておく。仲綱はわしの武人としての誇りを継ぎ、果てようとしているが、そなたはわしの歌人として面目を継ぎ、良き歌人となった。歌にこそ我が心はある。故にどのような世が来ようと、必ず生き延びて、良い歌を詠んでくれ。そして良き世が来たら、わしの墓に良き歌を聞かせてくれ」
源三位頼政が以仁王と共に平家追討の兵を挙げて敗れたのは治承四年(1180)五月二十六日の事だった。源三位頼政の辞世の歌は、
埋木の花咲く事もなかりしに
身のなる果はあはれなりけり
後年、宇治平等院の墓所を訪れた二条院讃岐は、父の墓前に和歌を手向けた。
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の
人こそ知らね乾く間もなし
参考引用文献
「平治物語」新日本古典文学大系 岩波書店
「源頼政」人物叢書 吉川弘文館
「金槐和歌集」 その他