百人一首ものがたり 91番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 91番目のものがたり「月の光」

きりぎりす 鳴くや霜夜(しもよ)の さむしろに
衣(ころも)かたしき ひとりかも寝む

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「まずはこの系譜(イ)をごらん下さい」と定家が言いながら軸を広げて見せたのは、

「複雑な系図でございますが、何のためにお書きになったのですか」
「九条良経という人物をご理解いただくためですよ。このお方はそのお心も複雑でございましたが、人脈もまた複雑怪奇でございました」
「私は良経様の長男・関白道家様の脈を拝見しておりますので、そこばかりはすぐに分かります。また道家様の子の頼経様が現在の鎌倉四代将軍であるというは誰でも存じておることですが、ここに親鸞の名が見えます。これは法然の弟子の僧侶でございますか」
「その親鸞です。玉日姫は良経の妹ですから、親鸞と良経は義兄弟ということになりましょう。念仏宗の僧侶が摂政太政大臣の義兄弟となるなど、昔は想像もよらない事でした。親鸞は『承元の法難』によって佐渡に流罪となりましたが、今は罪を解かれ東国で布教をしていると聞きました」
「・・・」
「良経には親鸞の他にもう一人、係累につながる僧侶に道元がおります。この系図(イ)にもありますように、良経の従姉妹の子が道元です。しかも私もまた道元と関係がないわけではありません。こちらの系譜(ロ)をごらん下さい」

「道元は私にとりましては、姉の孫なのです」
「・・・よく分かりかねますが・・・」
「これはよくよくご説明しないとご理解いただけないのは承知しておりますが・・・源通親は得意の絶頂で急死しましたので、妻である松殿の娘・伊子は拠り所を失いました。実家の父松殿は既に失脚して太宰府へ配流され、都に戻った後も逼塞しておりましたので、伊子は息子の道元と共に宇治の木幡山荘に止まっていたのでしたがその暮らしにも窮するようになったのです。これを見かねた源通具は道元を猶子とし、伊子と共に引き取ることになりました。通具は通親の息子で、道元とは腹違いの兄になります。つまり兄である通具は弟・道元を猶子として、母子ともども引き取ったのです」
「・・・」
「こちらの系譜(ハ)をごらん下さい」
  
「私には姉妹が大勢おりましたが、一番上の姉は八條院三条です。この姉は鹿ヶ谷で清盛暗殺を謀った藤原成親の弟・少将盛頼の妻となり、二人の娘を生みました。娘たちは双方とも聡明でしたので、父・俊成は二人を猶子として手元に引き取りました。上の娘は漢詩文にすぐれておりましたが、下の娘は歌人として成長して俊成卿女と謂われるようになったのです」
「俊成卿女とは、実は孫でございましたのか」
「いかにもそうなのです。ですから、俊成卿女は世間では私の妹と思われていますが、実は姪なのですが、その俊成卿女は源通具の妻となりました」
「・・・その通具というお方は、系譜(ロ)に見るお方ですか」
「その通具と同じ人物です」
「なるほど・・・この系譜を見ますと、通具様が道元と腹違いの兄弟ということがよく分かります」
「通具は父に似ずとてもすぐれた歌人でしたから私とも気が合い、新古今和歌集の撰者にもなったのです」
「あの通具様は俊成卿女の夫だったのですか」
「めぐりめぐって、そのような間がになっております」
「どうにも・・・定家様は九条家との繋がりが強く、家司も長くなさったとお伺いしておりますので、九条兼実様と源通親様の間に立つような事になって居られるとは少しも存じませんでした」
「・・・それも今から思えば如何ともし難い成り行きというものであったと思います。しかし、私などより、良経の方が遙かに辛い立場に置かれておりましたよ」
「・・・左様でございましょうか・・・」
「最初の系図(イ)をごらん下さい。ここに木曾義仲の名が見えましょう。その横に伊子と壽子の名があります。良経は木曾義仲と同じ松殿の娘を妻としておりましたので、義兄弟の間柄でした。そして義仲が戦死すると伊子は源通親の妻となりましたから、良経と通親は義兄弟となったのです。九条家は朝廷での最大の敵と縁続きになったのですよ」
「・・・」
「しかし、心寂房殿、私がお話したいことはそうした人間関係の詳細についてではありません。他に大切な事があるのです。それはこの系譜を一瞥すればお分かりの通り、良経というお方の周囲には異常な人脈が渦巻いていたということです。系譜の中に見る半分の方々は暗殺されたか戦死、失脚しております。しかしその一方では図抜けた僧侶とも縁続きになっています。そして良経自身は、三十八才の若さで暗殺されたのです」
「暗殺・・・」
「そうですとも。良経は摂政太政大臣にまでなった人物ですよ。それが寝室で寝ているところを、天井から突き出された槍に刺し殺されたのです。こうした悲惨な死に様は傲慢な独裁者にこそ相応しい最後ですが、良経はそうした権力者とは全く対極にあった人物でした。私は九条家の家司を十年余り務めましたので良経というお方の人となりをよくよく存じておりましたし、後鳥羽院でさえこのお方の精神の高さには敬意を払っていたのです。なにしろ良経は新古今和歌集の巻頭の歌人として選ばれているだけでなく、仮字序を執筆を任されていたのですよ。それほどの人物が非業の死を遂げなければならなかったという事実が、末世の極わみを象徴しているといえるのかも知れません」

第91番目のものがたり 「月の光」 )

 建久六年(1195)春、頼朝が東大寺再建供養のために数万の大軍を引き連れて上洛に向かったと聞いた時、良経は『頼朝は何を目論んでいるのであろうか』と深く訝った。頼朝は朝廷との軋轢を嫌い、都から遠く離れた鎌倉の地に幕府を開くほどの用心深い男であるし、平家との戦の間、一度も上洛しようとしなかった。平家滅亡後はじめて上洛したのは文治五年(1189)秋の事だったが、それは奥州合戦の後の事で、頼朝は弟義経の軍を衣川で破り奥州の藤原氏を滅亡させた直後だった。頼朝は日本国に生き残ったただ一人の武家の統領であることを誇示して威風堂々と都入りした。
 三騎縦列の騎馬軍団がいつ果てるともなく六波羅に入ったが、そこは平清盛一族の邸跡であった。頼朝はその地に更に二町ほどの敷地を造作させて軍勢を入れたのだが、頼朝の露払いとして登場したのは駿馬に金覆輪の鞍を置いた三百騎の武将たちであっていずれも千軍万馬の強者であった。頼朝自身は水干に夏毛の行騰(むかばき)を着し、白の斑の入った黒の駿馬に跨っていた。
 二日後の十一月九日、頼朝は院と内裏に参内して権大納言に任じられた。参議・中納言をも経ずして大納言に任官したのは前代未聞の出来事だったが更に同二十四日には右近衛大将に任じられた。こうして頼朝は公卿に列せられたのだが、十二月三日、頼朝はこれらの官職を辞退して鎌倉に戻ってしまった。人々は『このようなお方は大臣にでも何にでもなれたであろうが、まことに、末代の武将には有り難いことである。図抜けた人物であることだ』と驚嘆したのだった。頼朝の上洛はその時以来二年四ヶ月ぶりである。大軍を率いて上洛するからにはよほどの目的があるのは確かである。表向きはあくまで東大寺再建供養とされているが、果たしてそうか・・・良経が頼朝の意図を図りかねていると、式部省から重大な知らせが届いた。頼朝は武士や側近ばかりでなく、正妻政子と、大姫を伴っているというのである。
『これはただごとではない。政子は頼朝にも勝る野心家であるともっぱらの噂である。さすれば、おそらく、大姫を後鳥羽院に入内させようという意図があるのであろう。如何に剛毅な後鳥羽院とは申せ、大軍を率いる征夷大将軍の威力の前には否と言えるかどうか。そうなれば任子の地位も大いに危うい』と良経は思った。

 良経の妹・任子は後鳥羽院の中宮として入内し、良経は中宮太夫の役を務めていた。天皇の後宮に二人の中宮が入内することは珍しいことではない。しかし頼朝が先に入内している任子の存在を容認するだろうか・・・まして難しいのは北条政子である。政子が『大姫の他に中宮は必要ない』と言い張れば、任子は後宮を追われるであろう。がしかし・・・噂によれば大姫は長年の気鬱が晴れず、最近まで床に臥していたという。仮にそうであれば、後鳥羽天皇の后をつとめるのは難しいのではあるまいか・・・だがしかし、鎌倉から都までの旅に堪えられるとすれば、あるいは回復しているのかも知れぬ・・・中宮太夫良経の心配は尽きなかった。
 
大姫の病の原因は、夫を父・頼朝に殺されたことだった。十三年も昔のことになるが、大姫は軍略のため、木曾義仲の息子、義高との結婚を強いられた。(系譜・イ)。木曾義仲と頼朝とは同じ源氏でありながら敵対関係にあったが、当面の敵である平家を倒すために両者は和睦を結ぶ必要に迫られた。そこで和睦の条件として義仲は息子の義高を人質差し出し、頼朝の娘・大姫の婿となることが取り決められた。義高十一才、大姫六才であった。大人の政略とは裏腹に、二人は仲が良く、楽しい日々を送っていた。ところが義仲が宇治川に敗れて戦死すると、頼朝はすぐさま義高に暗殺者を送った。それを知った大姫は義高を女装させて馬に乗せ鎌倉から逃がし、侍女に義高の衣装を纏わせて周囲の目を欺むこうと図った。しかし時を経ずして見破られて、義高は武蔵野国で追手に捕まり殺されたのだった。
 義高が死んだという知らせを聞いた大姫は悲しみのあまり倒れ伏し、そのまま床について立ち上がることすらできなくなった。政子は大姫が気鬱に取り憑かれたのは義高を無策に殺した事が原因であるとして大いに怒り『あなたが大姫を病に落としたのですから、あなたが治しなさい』と頼朝に食ってかかったが病が癒えることはなかった。殺された時、義高は十二才、大姫は七才だった。それから十三年の歳月が流れた。大姫は二十才になり、政子と共に頼朝上洛に加わった。
『やはり大姫の病は癒えたと考えるべきであろう』。良経の不安は頼朝の行列が都に近づくにつれいよいよ深まった。しかし良経の父、関白兼実は頼朝の上洛を心配するどころかむしろ喜んでいた。
「それほどに案じているのは滑稽なことではないか」と兼実は言った。「そなたは頼朝の姪を妻にしているのだぞ。あの頃、頼朝には都に何の足がかりをも持たなかった。平治の乱で源義朝一族は皆殺しになり、おさない頼朝らは配流となり、都には眷属はいなかったのだ。そうした頼朝の窮地を救ったのは我が九条家ではないか。また頼朝はそなたの叔父・慈円と深く心を通わせ、多くの歌を詠み合っている。それほど友誼を厚くしいてる間柄に何の不安があろうか。上洛の暁には我が家との縁を更に強くと望むであろう」
 兼実の言うとおり、頼朝にとって九条家は都に於けるまたとないよりどころだった。義朝の死後、頼朝には都に係累が残されていなかったので、朝廷との関係は絶たれていたかに思えていた。
宣旨なくして軍を動かせば反逆罪となることは論を待たぬことであるし、配下の武将を守護・地頭職に任じるためには勅許が不可欠である。何としても朝廷と繋がりがなければならない。頼朝はその手がかりを探していた。すると何とも幸運なことに、頼朝の妹・坊門姫が義朝の部下・後藤実基に匿われて生き残り、藤原北家の血筋をひく一条能保の妻になっていることが分かった。(系譜・イ)。
 驚喜した頼朝は一条能保を鎌倉との結び役に任じ、すぐさま九条家との接近を図るように命じた。九条家は藤原北家の嫡流であり、朝廷に於ける勢力は他を圧している。頼朝は九条家との縁組みこそ最も有効な手立てであると考え、一条能保を動かし、九条兼実の息子である良経と頼朝の姪・一条能保の娘の縁組みを急がせた。
 兼実は文治五年に頼朝が上洛した際、幾度も頼朝と出会っていた。そして兼実は日記『玉葉』に『頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決』と書き記しるす程頼朝に惚れ込み、信頼していたので息子・良経と頼朝の姪との婚姻には諸手を挙げて賛成だった。こうして九条家と一条・源家は親族となった。兼実の朝廷における勢力は絶大となり、頼朝は都に確固とした地盤を確保できたのである。こうした経緯から兼実は頼朝の上洛に不安を抱くどころか、むしろ再会を楽しみにしているほどであった。ところが兼実の期待は完膚無きまでに裏切られた。良経の恐れていたことが現実となったのである。

 頼朝が政子と大姫を伴って上洛した目的は天皇家との姻戚関係を結ぶことにあった。大姫入内のための差し迫った障害は、九条家出身の中宮任子の存在である。任子を退出させるためには朝廷を動かす事が必要となる。頼朝は九条家の政敵、源通親と謀り、九条兼実を朝廷から追放するための工作をめぐらした。また後宮を動かすことのできる人物を味方に引き入れために、頼朝は源通親の取り持ちで一人の老女と面会した。後白河法皇の寵姫であった丹後局である。丹後局は後白河法皇の死後も隠然たる勢力を保っていた。頼朝は丹後局を六波羅邸に招いて政子と大姫とを引き合わせ、砂金三百両の入った銀蒔絵の手箱、白綾錦三十反を献上した。
 謀略はたちまち功を奏して、九条兼実は関白職を、弟の兼房は太政大臣を解かれ、陋居を命じられた。また兼実の弟の慈円は第六十二代天台座主の地位を罷免されまた、法務・権僧正・護持僧なども辞任されられた。そして中宮任子は後宮を追われ九条家に戻されたのである。しかし内大臣良経にはなんの音沙汰もなかった。頼朝は己の姪の婿である良経を内大臣に残すことによって九条家との関係をわずかに残し、将来に備えたのである。
 こうして大姫入内の準備は万端整った。ところが、事は頼朝の思うようには運ばなかった。大姫は病をぶり返し、床についたのである。加持祈祷のため実全法印が召し出されて祈祷したが、少しの効験もなく、大姫はこの世を去った。
 
 良経は政争に疲れ果てた。なにもかもが浅ましいく、空しかった。父兼実は出家し、叔父の慈円は旅に出た。良経は慈円の後を追って出奔を試みたが家人たちに連れ戻された。何を夢見ることもできず、何もかもが混沌として、生きていることの意味がわからないまま日々が過ぎてゆくのだった。
 良経はある日文机に向かい、ひとつの歌を書き記した。それは二十一才で夭折した藤原義孝の歌だった。

 秋はなほ夕まぐれこそただならね
荻のうは風萩の下露
(秋は他の季節にもまして夕まぐれはただならぬ気配が漂っている。荻の葉を吹いてゆく風の有様も、萩の下葉に置いた下露もその危うさに震えている、まさしく秋が終わろうとしているもの悲しい気配がいたるところにみちみちているこの頃ではないか。万葉集には 葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る(2134)と歌われている荻の葉だが、今の世には雁ののどかな声の代わりに、不気味な風がか弱い荻の葉を吹き散らそうと吹き渡り、萩の下露にも暗い陰が宿っている)
 良経はこの歌を定家に届けさせて即詠を命じた。定家が歌を返して詠ったのは、、

 行き帰る果ては我が身の年月を
涙も秋も今日はとまらず
(人が旅路を行って帰るように、私のこの世に生きている年月の果てには何が待っているのかと思えば、涙が流れるばかりですが、いくら涙を流したからといって世の末であるこの秋がとどまってくれるはずはなく、それどころか、今日という日も止まらずに、どことも知れず流れて行くことですよ)
  
 建久九年(1198)二月十八日、三歳になったばかりの土御門天皇践祚の日に、不吉な事件が突発した。儀式を執り行うに際して二条内裏を上棟する際に大工たちの間に激しい闘争が起き、刃傷沙汰になって死者が出たが、死んだ者の血が、三種の神器の一つである剣璽が渡御する幸路に流れて、汚してしまったのである。良経の父兼実は大いに懼れて、『玉葉』に次のように書き記した。
「新帝、今旦先渡御博陸家自彼宅渡給閑院云云。今日二条内裏上棟之間工与行事闘争、及刃傷殺害云云。其血流剣璽之幸路事甚不吉云云」
 この先何事が起きるのかと良経は恐れたが、その年はさしたる変事もなく過ぎた。ところがその翌年の建久十年(1199)年一月十三日征夷大将軍源頼朝は突然に死んだ。落馬とも暗殺とも伝えられた。

 頼朝の死は鎌倉の重圧に怯えていた朝廷に生気を吹き込んだ。十九才になった後鳥羽院は檻から解き放たれた獅子のように縦横に活動を開始した。院が最初に取りかかったのは和歌の道を究めることであった。院は古今の和歌を数ヶ月のうちにことごとくそらんじて周囲者を驚嘆させた。院はその勢いを駆って古今和歌集に勝る勅撰集の編纂の野望を抱き、すぐさま良経に寄人の選抜を任じた。良経は院の天才ぶりとあまりに
も常軌を逸した野心を大いに懼れた。
  津の国の難波の春のあさぼらけ
霞も波も果てをしらばや
(津の国の難波の春のあけぼのは美しいものだが、そのように見える霞や波の果てには何があるのか、誰も知らないのだよ)
 
 良経は新古今和歌集の序文を書くように後鳥羽院のに命じられて草稿を練っていた。とある日、松殿の娘・伊子が道元を伴って挨拶に訪れた。道元は定家の妹・俊成卿娘の邸に母と共に引き取られていたのだが、比叡山に僧侶となるため別れに来たのである。七才になった道元は挨拶を済ませると、
「左大臣様にお尋ねいたしたい事がござります」と澄んだ眼差しで良経を見つめた。
「何を私に尋ねたいのかね」
「浦島太郎の事でございます。浦島太郎は貧しい漁師でした。それが竜宮に行き、楽しい日々を送ったのですから戻らないほうが良かったのではないかと思いますが、なぜ戻ったのでしょうか」
 意外な問いに良経は戸惑ったが、賢くは見えてもやはり子どもなのだなと微笑して、
「太郎はきっと故郷が恋しかったのであろうよ」と気軽に答えた。
 これを聞いた道元は、
「人の世が餓鬼のように貧しく、鬼のような有様になっていると知っても、人は故郷に戻りたいと思うものでしょうか」
「・・・」
「私は母から、先の父である木曾義仲の無惨な死を知りました。また本当の父の死を見ました。母の嘆きを共にして今日まで参りました。ですから、私はこの世には何の未練もありません。今日を限りに山に入り、この世には戻らぬ積もりです。けれども浦島は戻って来てしまいました。これを見ると、もしや、この道元も迷いが生じ、戻りたいと思うときがあるのだろうかと思うのです。しかしもし私が山を下りてきたら、棒で叩いて追い返して下さい。その時の事をお頼みしようと、本日は罷り越しました」

 母と共に道元が去った後、良経は呆然とその場に座っていたがやがて筆をとって和歌を詠んだ。
  清くすむ水の心のむなしきに
さればと宿る月の影かな
(水のように清くあろうと思っても流されるばかりで何もできぬ。そのような我が身を空しいと思っていたのだが『それなら私が照らしてあげよう』と訪れて来た月の光の道元であるよ) 
  そしてまた道元の母の悲しみを思って、彼女に代わって詠んだ和歌は、

 きりぎりす鳴くや霜夜の狭筵に
衣片敷き独りかもねむ

(霜夜の狭筵に、片袖を敷いて、孤独に耐えるより他に夜を過ごす道がない私を慰めようとしているのだろうか、蟋蟀が良い声で鳴いていることだよ)
 

 参考引用資料 「愚管抄」・慈円 
        「日本詩人選・藤原俊成・藤原良経」筑摩書房
        「人物叢書・藤原定家」日本弘文館
『ウィキペディア(Wikipedia)』