百人一首ものがたり 90番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 90番目のものがたり「松殿の娘・道元の母」

見せばやな 雄島(をじま)の蜑(あま)の 袖だにも
濡れにぞ濡れし 色は変はらず

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「殷富門院大輔というお方の名は新古今で幾度か見掛けましたが、どのようなお方であったか記憶にありません」と心寂房が言うので、
「この方は優れた歌詠みでしたが、悲恋に泣いた女性でもありましたよ」
「・・・」
「大輔がお仕えした殷富門院というお方は後白河上皇の第一皇女、すなわち式子内親王の姉に当たります。内親王と同じく、伊勢の斎宮となられましたが、後に安徳天皇と後鳥羽天皇お二人の天皇の准母として院号をいただいたのです・・・しかしお気の毒に病弱でしばしば瘧(おこり)に悩まされ正治元年の夏には広隆寺に赴かれて祈祷を受けましたがいささかも効験なく、私は幾度もお見舞いしましたが、お気の毒な有様で・・・何にせよあの時代を生きるのは准母であっても容易ではなかったのです」
「・・・」
「大輔は殷富門院にお仕えしていたのですから涙も枯れ果てる嘆きもしましたろう。しかし大輔の一番の不幸は、内大臣源通親という男を恋人としてしまった事にあると申すべきでしょう」
「・・・大臣を恋人とした事が不運であったとは如何なることでしょうか」
「源通親という人物は、稀代の怪物だったのです・・・通親は後白河上皇の陰にあって勢力を伸ばし、木曾義仲を手玉に取り、義仲が破れた後はその妻の松殿を側室としました」
「木曾義仲の妻を娶ったのですか」
「そうですとも。しかも義仲を倒した頼朝が鎌倉幕府を樹立した後は、頼朝と強い結びつきのあった関白九条兼実を朝廷で孤立させて失脚させてしまったほどの策士だったのです。大輔はそうした男の恋人だったのですから、あたかも百本の糸が絡み合って互いに引きちぎろうとしてますますからみあい、もがき苦しんでいるような怪奇な有様を体験してしまったのです・・・ともかくも、事の次第の複雑さと事態の展開は目が回るばかりで、言葉で言い表すことはなかなかに困難な事ですよ」

第90番目のものがたり 「松殿の娘・道元の母」 )

 さまざまな世の浮き沈みを目の当たりにしてまいりました私にも、この度の松殿の娘と通親様の婚儀ほどの驚きはごさりませんでした。通親様は二十歳の頃から高倉天皇の近習として十数年お仕えなさっておいででしたし、私は高倉天皇の御妹の殷富門院亮子内親王にお仕えしておりましたから、忍び逢ったことも数知れず、深く言い交わした仲だったのです。ところが降って湧いたような婚儀・・・裏切られたという悔しさよりも、ここに至るまで何も知らずにいたわが身の哀れさに胸もかき乱れて、高い峰の天辺から突き落とされたような気持ちでございました。

  なをざりの空頼めとて待ちし夜の

苦しかりしぞ今は恋しき  (千載集)

(口ばかりの約束を頼みにしてお待ちたあの頃の夜の苦しみも、今となってみればひたすら恋しく思い出されることですよ)

 なぜこの私が突然荒々しい海に投げ出され、すがる板きれもなく、溺れ沈んでゆく目に遭わねばならぬのか皆目分かりません。でもあれこれと思い悩みながらふと思うことは、通親様に嫁した松殿の娘もあるいは私と同じような気持ちであったかも知れません。

 通親様と松殿の娘は親子ほどにも年が離れているということも不安の種でありましょうけれど、それより松殿の娘は忌まわしい過去を背負っておいでです。何しろつい先日まで木曾冠者の愛妾であったのですから・・・政争の具になって荒くれた田舎者に娶されたという忌まわしい思いを抱えながらこれからどのようにして通親様と過ごされるつもりなのか・・・いえそれよりそのような過去を持つ女を何故に通親様は妻にしたのでしょうか・・・私には分かりません。考えれば考えるほど何もかもがごちゃごちゃになってまるで突風に吹き飛ばされて髪が乱れ、いまにも転びそうになるような気がいたします。

 あれはもう十四、五年も前になりましょう。平惟盛の大軍が倶利伽羅峠の戦いに敗れ、平家一門が大混乱のうちに安徳天皇を奉じて西海に落ちた後、大軍を率いた木曾義仲が都に入ってまいりました。朝廷の方々はこれからいったいどうなることかと震えながら事の成り行きを見ておりました。平家の武者は常々見慣れておりましたが、目の前に現れた木曾の兵は身なりも武装も全く異なっておりましたし、言葉もろくろく通じない様子でしたので誰も彼もが不安におののいていたのです。

そうした時、都の耳目を奪う出来事が起きました。関白藤原基房は松殿と呼ばれておりましたが、その松殿が、突然、娘の行子を木曾義仲と娶せたのです。

『これではまるで、人身御供ではないか』世の人々は悲憤慷慨し、私もあまりの出来事に唯、驚くばかりでしたが、事の内幕を教えてくれたのは恋人の源通親様でした。

通親様は村上天皇の血筋を引く源氏の嫡流で、平家全盛の時は平清盛の信頼も厚く、高倉天皇の側近として仕えましたが、落ち目になると後白河法皇の近臣となっておりました。

「この度の婚儀を最も喜んでおられるのは、後白河法皇なのですよ」と通親様は密かな声でおっしゃいました。「法皇様は木曾義仲が軍律正しく兵を率いて都に盤踞していたのでは困る、何とか義仲を骨抜きにする方法はないものかと、あれこれと考えたあげく、松殿の娘を義仲に嫁がせようと謀略されたのですよ。お聞き及びの事と存じますが、松殿の娘は絶世の美女・・・こうした女が側に居たら木曽の田舎者はたちまち正気を失いましょう」

「・・・」

「安徳天皇は平家に擁されて西海に逃れ廃帝となってしまわれたので、一日も早く新しい帝を立てなければなりません。木曾義仲と義仲の叔父の源行家は以仁王の子である北陸宮を帝に立てるべきであると強く主張しております。義仲が大軍を率いて都に入れたのも以仁王の令旨があってこそですから、亡くなった以仁王の皇子・北陸宮を帝位にお就け申し上げたいというのは当然のことです。ところが、そうなれば都の政は義仲の思うままになってしまうでしょう。そこで後白河法皇は、

『帝にふさわしいのは安徳天皇の弟、尊成親王である。尊成親王は高倉天皇の皇子であるのに比して、北陸宮は高倉天皇の甥である。このことからしても皇位は尊成親王が継承するにふさわしい』とこのように公卿たちを説得いたしました」

「その説得にはあなたさまが奔走なされたのでしょうか」

「そのようなことは枝葉末節の事、法皇は尊成親王を強く推挙なさいましたが、義仲の叔父・行家は真っ向から反対でした。行家はなかなかの能弁家でしたし正論を吐くので容易な敵ではありませんでしたよ。彼は次のように述べたのです。

『今、この日本の国の実権を握っておいでになるのは後白河法皇でございます。北陸王はその後白河法皇の皇孫であります。尊成親王も法皇の孫ではありますが尊成親王が三歳に満たぬ幼児であるに比して、北陸宮は十歳以上も年上である上、各地を転戦し、平家追討の御旗の戦陣にも加わっておいでになられる。こうしたことからして、尊成親王よりも北陸宮の方が遙かに皇継にふさわしい事は明らかではありませんか』

 意見は割れたまま双方とも譲ろうとしませんのでどうにもなりません。そこで法皇は二つの策をお考えになられた。一つは神仏のご加護、もう一つは女の力です」

「・・・」

「法皇は世にも希な策士ですよ。何をなさったかと申しますと、神祇官を召し出して八百万の神々の意向を窺わしめたのです。又更に、陰陽の者に卜占させて、北陸宮と尊成親王のいずれが帝位にふさわしいかを占わせました。無論、結果は明白で、いずれも尊成親王こそ帝位を継ぐべきであると出ました。しかしこんな小細工を弄しても行家が納得するわけがありません。義仲も怒って『神仏が口をきくはずはないではないか』と叫びました。後白河法皇は困惑した表情を見せましたが、それは芝居に過ぎず実は次の手を打つ手筈を整えていたのです。法皇は関白基房殿を呼び、娘・伊子を義仲と娶せるように密かに命じたのですよ」

「そのような無理無体を、松殿がどうして受け入れられましょうか」

「誰もが危惧したのはそれですよ。けれど、松殿は拒絶するどころか十六才になったばかりの娘のもとに義仲が通うことを承諾しました。というのも、あなたもご存じの通り、松殿は清盛と対立して太宰府権帥として流されてしまいました。摂政関白の地位にある公卿が配流となったのは開闢以来初めてのことでしたが、清盛が死に、平家が都落ちして義仲が都を制圧しましたので、松殿は急遽戻ってきたのです。しかし留守にしていた間に朝廷はずいぶんと変わっておりましたから、松殿は勢力を取り戻すためにも後白河院と取引をする必要があったのですよ」

「・・・」

「義仲の叔父・行家はこの婚姻に大いに反対しました。義仲も最初は疑心暗鬼の様子でしたが、ひとたび松殿の娘に逢うとたちまち身も魂も奪われて、政務も軍務もなにもかも放り投げ、五条内裏に入り込んでいるのですよ。大将がこれではその配下もすぐに壊滅しましょう」

 

 通親様の申される通り、木曽の兵は義仲を見習って白昼から酒に酔い女をあさって群れを成して都大路を暴れ回りましたので都の人々は、これなら平家の方がまだましだったと呆れるばかりでした。けれどこれを喜んでいたお方がおられました。他ならぬ後白河法皇です。法皇は義仲を追い落とす好機到来とばかりに、東国に勢力を伸ばしている頼朝に「東海・東山両道諸国の支配を任せる」との宣旨を発しました。義仲は激怒し、軍勢を集めて後白河法皇の御所を強襲し、法皇を捕らえて五条東洞院邸に幽閉、法皇の近臣全てを罷免して、新たな政権を創り上げました。その時義仲の側に立って奔走したのが、松殿でした。松殿は僅か三歳の後鳥羽天皇を奉じて、基房殿の子、師家様が摂政に据えました。松殿は後白河院に長年押さえつけられていた重しを払いのけ、名実共に最高権力者になったのです。松殿は得意の絶頂にあったでしょう。

 

 ところがそれは白昼夢よりもはかない夢でしかありませんでした。と申しますのも、義仲が御所を強襲し、法皇を捕らえて五条東洞院邸に幽閉した事が頼朝にまたとない口実を与えてしまったからです。それまではなんと申しましても義仲は後白河法皇と共に都を治めていたのですから、義仲に戦を仕掛ければ頼朝は逆賊となります。義仲が後白河法皇や天皇と結んでいるかぎり頼朝は手をだすことができません。ところが義仲が法皇の御所を襲って幽閉し、三十九人もの公卿を追放しましたので「義仲は逆賊なり、誅伐すべし」という大義名分を頼朝に与えてしまったのです。

 寿永三年正月、頼朝は『逆賊木曾義仲誅伐』の大軍を動かし、同月二十日には宇治、瀬田にまで進撃し、木曽軍と激しい戦いになりました。義経の率いる軍勢は宇治川を渡って木曽軍に襲いかかり、これをさんざんに打ち破りました。ところが義仲は驚いたことに、宇治川の戦いの戦陣には姿を見せませんでした。

義仲は危機が身に迫っていると知りながら松殿の娘との別れを忍びなく何万という軍勢が入り乱れて戦っているというその最中に、松殿の娘をかき抱いたまま外に出てこようとしなかったのです。世人はこれを知っていよいよ呆れて、いったいこのような武将が古今の歴史に一度でも聞いたことがあったであろうかとあざ笑ったものでしたが、私にはそのようにはとても思えませんでした。それほどまでに命がけで女に恋い焦がれてしまった男がこの世に居ることが、むしろ驚きであったのです。でも渦中の松殿の娘は義仲の胸に抱かれながら、屋敷の外の弓勢の音や馬蹄の響きをどのようにお聞きになっておられていたのかと思うと、いかにも哀れで、胸が痛む心地がいたします。

 義経の軍略に木曽軍は敗色濃厚となりましたがそれでも義仲は女から離れようとしませんでしたので越後忠太家光という者が業を煮やして、

「敵はもう六条河原にまで攻め上ってきておりますのに、このままでは犬死になさいますぞ」と板戸越しに大声で叫んで、

「どうしてもお出にならないとあれば、私が一足先に参りまして、死出の山でお待ち致しましょうと」腹を掻ききって死んでしまいましたので義仲はようやく我に返って、唐綾威しの鎧を着て鍬形打った兜の緒を締め、黄金の太刀を腰に差して、鬼葦毛という馬に金覆輪の鞍を置いて戦陣に加わりましたが、勝負は既に決しておりました。

 義仲が今井四郎と共に粟津の松原で討ち死すると、基房様はすっかり勢力を失い、朝廷は弟の九条兼実様が朝廷の一切を切り回しましたので、兼実様と常日頃から意見を異にしておりました通親様は内裏を離れ、私を伴って鴨川が桂川と合する久我の山荘に隠棲なさいました。

  春風の霞吹き解く絶え間より

乱れてなびく青柳の糸   新古今

 (春風が淡く掛かっている霞を吹き解いて散らすその絶え間から、青柳の細い枝が乱れてなびくのが見える) 

 通親様は私にしみじみと心のうちを語られました。

「こうして久我の山裾を徘徊してあれこれと眺めてみると、白楽天が廬山に営んだ草堂に似ているような気がしてならないのだよ。谷を挟んで松の緑が悠然と立っているし、風は雲を運んで、春の鳥は林に遊んでいる。私は長い間迷いの渦の中に身をゆだねていたがこれからはそなたと歌を交わし、風月を友として生きようと思う」

「そのようにお年寄りになったようなことをおっしゃらないでくださいまし。私はこうして向かい合っておりますと、あなた様は政務に明け暮れておられました時よりもはるかに若返って、高倉天皇の御代にあなた様が少将であられた時のお姿を思い出します」

「それはまたずいぶんと昔の話ではないのかな」

「いいえ、私ははっきりと覚えております。何もかも。あなた様が仁安二年の五月四日に右近の競射にお出になられた時のことも」

「そのようなこともありましたね」

「あの時、私は亮子内親王のお供をして牛車で見物にまいりましたが、あなた様のお姿があまりにもお美しいので、名も記さずに文をお届けしたのでした。

 その駒もすさめぬ菖蒲(あやめ)みがくれて

引く人もなき音こそ絶えせね

 (あなた様がお乗りになっておいでのその美しい見事な駒も、菖蒲の陰に隠れている私をみつけて遊ぼうともしてくれない。私はあなたに忘れられて悲しい声で忍び泣いていることですよ)

「私はそなたから歌を貰ったことは覚えているが、どのような歌を返したのかすっかり忘れてしまったよ」というので私は人差し指で通親様の手の平にその時の歌をなぞりました。

 いかでかは駒も荒らさん菖蒲

草いづくにおふと知らぬねなれば

(いくら私の駒が見事でも、あなたがどこにいるのか分かりませんので、菖蒲草をむやみに荒らすことも出来ないで困っているのです)

 春から夏にかけて、夢のような時を過ごしておりました。ところが突然、通親様は目の前から姿を消してしまいました。何事が起きたのか皆目分からないでうろたえている私に侍女が、

『通親様は藤原範子様を妻にお迎えになられたそうにございます』

その時の気持ちは何と申したらよいのか分かりません。

 花もまた別れん春は思ひいでよ

咲き散るたびの心づくしを 新古今

 (桜の花よ、私が死んでお前と別れるときには私を思い出しておくれ、お前が咲いたり散ったりするたびに私がどれほど気をつかってきたことだろうか。だからたとえあの方がどれほどつれなく私を忘れてしまおうとも、お前だけは私を忘れずにいておくれ)

 通親様が妻にした範子というお方は先頃践祚なされた後鳥羽天皇の御乳母でした。範子様は藤原武智麿様を祖とする藤原北家の出で、法勝寺の執行・能円に嫁して在子様を生んでおりました。能円様は平家が西国に落ちるとき、木曾義仲には先がないと見て平家と共に西国に落ちました。けれど範子様は能円様には従わず、離縁して、都に留まり、幼い親王の養育に当たっていたのです。そうこうするうち後白河法皇の推挙で範子様が養育なさっていた尊成親王が後鳥羽天皇となられましたので、範子様は幸運にも御乳母となったのです。

通親様はこの範子様を迎えて正室としたのでした。つまり、通親様は突然、後鳥羽天皇の御乳父となったことになります。通親様が範子様を妻にしたのは、朝廷で勢力を伸ばすためにはこれがもっとも近道であると確信していたからにちがいありません。元歴二年正月の除目で長年待望しておられた権中納言に昇進されました。

 私はあの方の権中納言へのご昇進を喜ぶことは到底できませんでしたけれど、近衛将・参議の地位に長年甘んじていたお方がようやく公卿となられたのですから、祝いの歌だけはお届けしたのです。

  おもひやる心も晴れて嬉しきは

春のあしたの光さすなる 家集   

返歌がございました。

 けふこそは春しりそめて花も咲け

三笠の山の谷の埋もれ木 家集

 これから後の通親様のお働きぶりは、どのように申したらよいのでしょうか、まるで雲を掴んだ龍のようなご昇進ぶりでたちまち内大臣にのし上がりました。

 九条兼実様は後白河法皇崩御の後、通親様となにかにつけ意見を異にしてぶつかりあっておりましたので、通親様は後白河法皇の寵愛されていた丹後の局と近づき、源頼朝の側近の大江広元と結んで九条兼実一門を朝廷から追放なさいました。このような策略が成功しましたのも、通親様が女の力を最大限に使ったからでございます。

 通親様の妻範子様は先に別れた夫、能円との間に在子という名の女の子がございました。通親様はこの在子様を猶子として育て、後鳥羽天皇の後宮に入れることに成功しましたが、その在子様は間もなく皇子(後の土御門天皇)を生んだのです。九条兼実様も娘任子様を後宮に入れておりましたが、任子様が生んだのは皇女でありましたから、泣く泣く宮廷を退出させられ、叡山の天台座主であられた兼実様の弟慈円様も、追放されたのです。

 通親様は朝廷にはびこっていた九条家兼実一族を首尾よく追い出しましたので、世人は「源博陸(みなもとのはくろく)」と噂するようになりました。博陸とは、漢の武帝が重臣霍光(かくこう)の働きを愛でて、博陸候(関白)に任じたという故事に則っていると申しますが、ともかくも通親様は「天下を独歩するかの如くである」と謂われ、まさに雲の乗る龍におなりになって禁裏・仙洞を思うがままに操っておられたのです。

 通親様が松殿の娘を妻に迎えたのはこのような時でした。摂政基房様の政略のためとは言え、木曽義仲とあれほどに深い縁にあった女を、何故に義仲の死後十四年もたってから妻に迎えたのか、私には皆目分かりませんでした。無論、一代の英雄木曾義仲をただの腰抜けにしてしまったほどの女ですから、三十を過ぎてもその美貌はますます妖艶さを増し、世間では楊貴妃に似ているとのもっぱらの評判でしたから、あれほどに計算高い通親様もその妖しい魅力に取り憑かれてしまったのでしょう。

 松殿の娘は翌年、男子を誕生しました。通親様は妻と子に恵まれて心境の変化を来したのでしょうか、いままでにはない歌を詠むようになりました。そんなある日、私のもとに歌が届いたのです。

  世に知らぬ秋の別れにうちそへて

人やりならず物ぞかなしき  千載和歌集

(秋との別れは誰にも訪れますが、あなた様との人知れぬ恋も秋を迎えたのでしょうか。悲しいばかりです)

 私は、腹も立ち、それでいて捨てておく置くこともできず、悶々と夜を過ごしましたが、その時詠んだ和歌は、

   死なばやと思ふさへこそはかなけれ

人のつらさは此の世のみかは

(念仏宗の方々は死ねば極楽浄土に行けると信じているようですけれど、私は死ぬことさえ空しく思えます。たとえ浄土に生まれたとしても、男女の辛い思いが絶えるとは思えませんので)

  そしてまた詠んだ和歌は、

 

みせばやな雄島の海人の袖だにも

濡れにぞ濡れし色は変わらず  

(あなたの冷たい仕打ちに涙をぬぐった私の袖は血の色に染まってしまいましたよ。あの雄島の海人の袖でさえ、濡れに濡れぬとしても、色までは変わりませんのに)千載和歌集

 通親様はその後もどこまで勢力をお延ばしになるのか空恐ろしいほどでしたが、土御門天皇の建仁二年十月二十日、突然この世の人ではなくなりました。その日、酉の刻(午後六時)ごろ御所を何事もなく退出なさったそうですけれど、真夜中にふと亡くなられたという事でした。  あの方が生涯を通じて様々になさったことがどのような意味があるのか、私には分かりません。ただ、後の世になって黄泉の国の私の耳に届いたことによれば、松殿の娘と源通親様の間に出来た子が、道元と名乗って曹洞宗の開祖となったということです。あのような経緯で結ばれた二人の間から、並びない禅僧が生まれたとは、なんとも不思議で、信じられぬ思いが致します。