百人一首ものがたり 89番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 89番目のものがたり「雪の玉水」

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの よわりもぞする

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「もう四十年あまりも昔になってしまいましたが、やはり読む度に辛くなります」と言いながら『明月記』の条を指し示すので見ると次のように記されている。
 治承五年正月三日 天晴。参院如昨日。参右兵衛督御許、被出之。奉謁女房。次参三条前斎院〔今日初参。依仰也。薫物馨香芬馥〕
「治承五年といえば夏には木曾義仲が平家十万の軍を倶利伽羅峠に破って入京した頃ですが、正月はどのような事がございましたか・・・」
「正月の頃にはまだ平家は健在で、平清盛も生きておりました。そこに『奉謁女房』と書いたのは、清盛の愛妾に会ったという事です」
「・・・清盛の愛妾?・・・」
「祇王御前ですよ」
「あの、白拍子の・・・」
「いかにもその祇王です」
「・・・何とも、不思議な話でございます」
「随分昔の話になりましたが、やはり美しい女房であったということばかりは覚えておりますよ」
「・・・先の条に続いて、三条前斎院〔今日初参。依仰也。薫物馨香芬馥〕と見えますが、これはどなた様のことでしょうか」
「斎院とは式子内親王です。父に言いつけられて内親王のお見舞いに参じたのですよ。内親王は心痛の余り床に臥されておられました。というのも、前年の夏には内親王の二歳年下の弟の以仁王が源三位頼政と平家追討の兵を挙げて戦死してしまいましたので」
「・・・」
「以仁王は式子内親王は同じ母に生まれた弟でした。幼い頃からとても英邁で和歌や漢詩に才能を現し、書や笛にも秀でておりましたので姉の内親王は弟をとても可愛がっていたのです。ところが後白河法皇は以仁王を愛さず、比叡山天台座主の最雲法親王の弟子にしてしまったのです。ところがこれが運命というものでしょうか、最雲が突然死してしまいました。しかもこの時期、後白河法皇と二条天皇との関係は最悪になっていました。というのも、後白河法皇は清盛の妹の滋子を妻として居り、二人の間に憲仁親王が生まれていたので、法皇の側近たちは『二条天皇を退位させ、憲仁親王を即位させよう』と画策していたのです。これを知った二条天皇は激怒して後白河法皇の側近の昇殿停止を命じ、自らは御所を出て押小路東洞に政事の場を移してしまいました。このように朝廷が二つに割れて何事も出来ない有様になってしまいましたので、心ある者の中にはこうした経緯とは無縁の以仁王に政権をとってもらいたいという者も現れ、以仁王は十二歳で還俗して皇族に復することになったのです。ところが滋子は以仁王を目の敵にしました。というのも放っておけば自分が生んだ憲仁親王の将来が危うくなるからです。以仁王は公式の元服式すら許されず、行き場を失って途方に暮れました。この窮状を救ってくれたのが八條院(暲子内親王)でした。八條院は『私が以仁王を猶子としてお引き取りいたします』と申し出たのです。八條院は鳥羽天皇の皇女で、後白河法皇の妹に当たりますが、幼い頃からずば抜けた才能を顕し、成長するといよいよ信仰心も厚く、学問にもすぐれ、しかもその美貌は母の美福門院に似て辺りを払うものがありましたので、鳥羽天皇は、『この皇女ならすぐれた女帝になるに違いない』と真剣に考えたほどでした。終生未婚で通しましたが、信仰心はますます深まり、鳥羽天皇と母の美福門院から受け継いだ二百に余る大荘園と莫大な財産を惜しげもなく寺社に寄贈し、父母の菩提を供養するために費やしましたので、後白河法皇も敬意を示して幾度も八條院に行幸したほどです」
「・・・」
「以仁王はこのようなお方の猶子となりましたので、式子内親王もようやく安堵して親しく話をする時もありましたが、宇治川の合戦で死んでしまいましたので、内親王の悲痛は一方ならぬものがあったのです」
「・・・」
「治承五年(1181)の正月は恐ろしい年でした。以仁王の令旨に応えて東国では頼朝・義仲が挙兵し、これを怒った清盛は以仁王に荷担した東大寺・興福寺を焼いてしまいましたので、通常の元旦であれば春庭楽・万歳楽・地久楽などの舞楽が奏され、吉野の国栖たちも参賀に参り、歌詠い、笛を吹き鳴らして祝賀するのでしたが、その年はその影も見えず、酒宴などもまったくなかったのです。南都では前年の以仁王の挙兵に呼応した僧侶への処罰が続き、戦に関わったとされる大衆はみなみな捕縛されて斬殺、焼殺されましたので、僧院の者はみな恐れて山の中に逃亡して、南都には人影すらなくなってしまいました」
「・・・」
「興福寺の僧正永縁はあまりの事に病み衰えて詠んだ歌は、
  きくたびにめづらしければほととぎす
       いつも初音のここちこそすれ    
 と嘆きましたので、『初音の僧正』と呼ばれましたが、間もなく亡くなられました。こうした有様を高倉院は耳になされて心痛の余り床に伏せられて重体になられましたが、大寺がみな焼かれましたので、加持祈祷の効験ある僧侶もいない。後白河法皇はいたくご心痛されましたがどうにもなりません。まして式子内親王の立場にしてみましたら、高倉院も以仁王も弟に当たりますが、弟の一人は戦死し、一人は瀕死の重体の床にあるのですからそのお苦しみはいかばかりであったでしょうか・・・私は式子内親王の御殿をはじめてお見舞いしましたのはそうした時でしたので、哀しみと重苦しい気配が充ち満ちておりました」

第89番目のものがたり 「雪の玉水」 )

 内親王様はいつもお体がすぐれず、お見舞い申しあげてもお言葉を交わしたことはなかったのですが、あれは建久四年の春のことでしたが、母から伝わった水精の数珠を奉ったところ、それが効いたのでしょうか、その後は少しずつお元気になられたご様子でしたが、ある時ご機嫌を伺いに参りますと、思いがけなく御簾の向こうから声をおかけて下さったのです。

「私はそなたの父俊成殿より和歌を学びましたので、生きているうちに一首でも良き歌を詠いたいと願っております。そこで尋ねるのですが、これまでにそなたの心に残る和歌がありましたら、聞かせていただけませんか」

 思いがけないご下問でしたので狼狽しましたが、

「私も幼い頃より貫之、躬恒に勝る歌を詠みたいものと念願しておりましたが、近年貫之にも優る和歌に出会いました」とお答えすると、

「是非その和歌を教えて下さい」と仰せなので、半紙に、

 

  山ふかみ春ともしらぬ松の戸に

たえだえかかる雪の玉水

  と内親王の和歌を書き付けて御簾の下から差し入れて、

「『山ふかみ春ともしらぬ松の戸に』、という初句には限りなく美しい気配が漂い『たえだえかかる雪の玉水』という下の句には古来誰も耳にしたことのない言葉が用いられ、しかもその調べの余韻はいつまでも心から離れぬ響きに満ちております」と申しあげると、内親王はしばし黙っておいでになられましたが、やがて、

「私もこれと言う和歌にお目に掛かりたいものと念願しておりましたが、最近、これこそ、と見える歌に出会いましたので」と御簾の下から差し出された歌は、

 春の夜の夢のうき橋とだえして

峰にわかるる横雲の空

とありましたので、うれしさの余りアッと声を上げてしまったほどでした。この後は互いに心がうち解けて、訪れるたびに楽しい和歌のやりとりをして過ごしました。ところが突然内親王の容態が悪化する奇怪な出来事が起こりました。

 忘れもしない正治元年の七月の事でしたが、大変な熱さで、私は左大臣良経様の許に参っておりましたが、密かに退出して式子内親王の許にお見舞いにお伺いしたのです。というにも、あまりの暑さ故、日陰におりましても耐え難い有様でしたから、身体のお弱い内親王が気がかりだったのです。内親王がおいでになる常光院を訪れますと、大騒ぎになっておりました。聞けば少し前、突然出羽守基定の妻と申す者が髪を逆立てて乱入したのだというのです。基定の妻は常光院の奥に隠れていた下女を捜し出してひどく打擲いたしました。

その場に居合わせた者が驚き呆れて見ておりますと、基定の妻は捕まえた女の髪を引っ張ってむしり取ろうとするので男どもが助けようとしましたが、どうしても放さないのです。その妻は常光院の僧侶に惚れ込んでおりましたが、僧侶が内親王の下女として仕えていた女に心を移して基定の妻を見限ってしまいましたので、逆上して女を襲い捕まえたのでございます。そしてこともあろうに、捕らえた女の髪の毛を掴んで引きずり回して、奥の間の齋院〔式子内親王〕の許まで乗り込んで、

「斎院は何故このような女を匿っておられたのですか」と恐ろしい剣幕でわめき立てましたので、内親王は蒼白になって気絶しそうにおなりになったのです。

幸いこの騒ぎを民部卿経房が聞きつけて検非違使に通報しましたので、騒動を起こした基定の妻は寺の僧侶共々連行されました。私が訪れたのはその直後でしたので、御堂の廊下には女の髪が山のように抜け落ちておりました。こうした出来事は後に残すのも忌まわしいことでしたが、やはり記録して置かねばと思いましたので、

 『・・・依暑気難堪也。出羽守基定妻君代、依嫉妬行常光院、引入件女打調之。件女従女参斎院、併訴申此子細・・・』

 ・・・こうしたこともあって、内親王様は再び病がちになり、食も進まず、おやせになる一方でしたが、ある日お見舞いに参りますと侍女が密かに打ち明けた事は、乳に腫れ物が出来て、次第に大きくなり、もはや薬も役に立たない有様になってしまったとの事でしたので、私も心配で、このように 『・・・御乳物猶六借(むつかし)御之由聞之・・・』と書き付けておきましたが、その後もお具合は悪くなる一方なので、しばしばお見舞いに行きましたが少しもご回復の様子が見られない。そこで、

『侍医に尋ねたいことがありますが、どこにおられますか』と侍女に訊くと、

『和気時成様は、私の医術のみではとてもお助けできませんのでこれから伏見稲荷に祈願してまいります、と言い残して出掛けられました』という。

 何と言うことだ、医師が役目を放り出して稲荷の神に助けを乞いに行くとはと憤慨して、騎馬の侍を遣わして迎えにやりましたところ、日暮れ時になってようやく時成が戻って来ましたので、

「これはいかなる次第ですか」と詰問すると、

「内親王様は長年の病が高じられた上、兄弟や父親の後白河法皇も薨じられましたので心の病も加わって衰弱され、このままではお命も危ういと思いましたので、神仏の手も借りねばと思い伏見稲荷に祈願に参ったのです」という。このような末世になると薬も手に入らぬのかと焦慮しましたが、私にはどうにも出来ません。そうした時、家隆殿から耳よりの話を聞きました。

『かねてより噂になっておりましたように、後鳥羽院はいよいよ古今集にも優る勅撰集の撰集を本気でお考えになって居られるようですよ』

 私は驚喜しました。この話が現実のものとなるものであれば是非ともその撰者になって式子内親王のお歌を選び申しあげ、ご存命のうちに勅撰集をお見せしたいものだと思ったのです。そしてその心が神仏に通じたものでしょうか、院からお召しがあり、水無瀬行幸に供奉せよという仰せでした。

 十二月の二十三日晴れてはいたのですが、寒風が吹きすさぶ中、水干を着用して鳥羽殿に参りますと宰相公経も着到しておりました。昼過ぎに後鳥羽院が鳥羽にご到着になられたので一同船に乗り込みましたが、向かい風がひどく一向に進みません。船頭は辛苦して進ませようとするのですが波風が強くて遅々として動かないのです。しかしどうやらこうやら水無瀬の岸に着いたのでみな騎馬に乗ってあれやこれやの俗曲を歌いながら出発しました。しかし私はとてもそんな方々と共に同道するのは嫌でしたから一人で歩いて行きますと、一行は先に到着して、奈良の法師たちを集めてあれこれと雑遊させて楽しんで、その晩は目的の場所までは行けず、油売りの小屋に宿泊したのです。

 翌日ようやく水無瀬に着きましたが、『京極のあたりで火事』と知らせが届きましたので急遽帰洛することになりました。

私は式子内親王の病状が心配でしたから御車に先行して急いで帰洛して、翌日お見舞いにお伺い致しました。すると思いがけないことに、ずいぶんとご回復で、医師の話では、御足のむくみもずいぶんと引いてお食事も進んだという。大いに嬉しくてお部屋近くに伺候すると、侍女が、『内親王様がお呼びになっておられます』と言う。

 内親王は床から御簾越しに私を見つめられて、

「夢をみました」

「どのような夢でございますか」

「誰もいない雲のような山をどこまでも歩いてゆくと、小さな庵が見えました。戸を開けると、中に男女が囲炉裏の側に座って泣いていました。その泣き顔を見ると、男は定家様で、女は私なのです」

「・・・」

「お二人はそこで何をなさっているのですか」と訊くと、女は、今のように吹き出物などもないきれいな肌をして、その顔に涙を流しながら語るのには、

「わたちはお互いに良い歌を詠もう、もしも詠めたら共に生きようと契って幾年もたちましたが、少しも詠めません。そこで泣いていましたら、ある夏の夜に蛍が飛ぶのを見て、定家様が、

   さゆりばのしられぬ恋もあるものを

      身よりあまりてゆく蛍かな

 とお詠みになりました。なんと美しい歌だろうかと、私は感歎して涙が止まりませんでした。そしてこれにお応えようとして詠おうとしたのですが、どうしてもできません。それで泣いていたのです」

 これを聞いて私は何としても二人をお助けしなければならないと思って墨を磨って紙に書こうとしていると、夢が覚めてしまったのです」

「・・・では・・・その男女は・・・」

「夢の中の約束でしたので、先はどうなったかわからないのです」

 内親王の病状が急に悪化して、亡くなられたのは正治二年十二月二十八日巳の刻、晴れた空に雪の飛ぶ朝でした。枕辺をお見舞いすると侍女が「枕の下にこれがございました」と渡してくれたので見ると、和歌が記されておりました。 

 玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば       忍ぶることのよわりもぞする