百人一首ものがたり 88番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 88番目のものがたり「難波津」

難波(なには)江の 芦のかりねの ひとよゆゑ
みをつくしてや 恋ひわたるべき

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「この方は千載集に幾首か選ばれてはおりますがどのようなお方か何も分かりません。ですから詠み人知らずの一人とも言えましょうが一つだけ面白いことは、伊勢御の『難波潟』の歌と、元良親王の『わびぬれば』の二つの歌を本歌として詠んでいる事です。こうした歌は易しいように見えていかにも難しいのですよ」

第88番目のものがたり 「難波津」 )

 崇徳上皇様が保元の乱に破れ讃岐に配流されて亡くなられて後、皇后の皇嘉門院聖子様は生きる気力を失われて長い間御殿に籠もりきりになってしまわれました。周囲の方々はさまざまに手を尽くしてお慰め申し上げようとしたのですけれど、お悲しみはいよいよ深くやせ衰えるばかりで、どのようにお慰めしてよいのか分からず困り果てておりました。そうしたある日、皇嘉門院様の異母弟の右大臣九条兼実様が絵師を招いて屏風絵を描かせているという噂を耳にしたのです。皇嘉門院様のお付きの者たちは『それは良い。絵師をこちらにも呼び、さまざまな歌枕を描かせてお慰めすれば皇嘉門院様の気も晴れるのではないだろうか、是非やってみましょう』という話になり、右大臣家にその旨を文にしたためて使いを出しましたところ兼実様は、すぐにご同意下さり、三日後にその絵師が二人の弟子を連れてやってきたのでした。

 六十を半ば過ぎた絵師の顔は日焼けして鼻は酒のためにひどく赤く、歯が朽ち果てているので顎がひときわ小さく見えました。おまけにみすぼらしい烏帽子を被っているのでどう見てもお猿そっくりで、こんな卑しげな者に絵など描けるのであろうかとみなみな一様に訝しんでおりましたが、絵師は絵筆を用意万端整えて申すには、

「私は生涯を絵と旅に費やし、北は陸奥の国の白川の関、西は出雲、筑紫、肥前、肥後、果ては酒呑童子がすんでいた大江山の洞窟から天橋立までも訪ねましたので、みなさまがお好みのいかなる歌枕、景色でも描いてごらんにいれまする。どうぞいずこなりともお申し付け下さいませ」

 顔姿に似ず、どうやらこの絵師はずいぶんの大法螺吹きの様なのです。そこで蔵人の女房が試しに、

「彼の名高い那智の滝のある熊野のあたりの様子を描いて見せてはくれませぬか」と申しますと絵師は筆に絵の具をたっぷりとつけて、峨々たる断崖から真っ白な大滝が落下している有様を一気に描いて見せました。雲間から陽が射し、まばゆい光は深い緑に映え、滝の水は岩を噛んで飛沫があたりに霧のように沸き立っています。

「那智の滝にござります」絵師は得意げに周りを見回しましたが、みなみなただ驚いて、なんという見事な景色であろうかと女房達は口々に賛嘆して、皇嘉門院様は如何と御簾の奥を窺うと、どうやら上機嫌でごらんになられているご様子、これを見て私は、ほんとうにこれは良い試みであったと絵師の烏帽子姿をつくづくと眺めておりました。

「では次には何をお描きいたしましょうか」絵師は上々の出だしに張り切っている様子なので、何を描いてもらおうかと一同あれこれと考えていると、御簾の中から思いがけなくも声がして、皇嘉門院様が私をお呼びになられました。そしてお尋ねになられるには、

「あのように貧相な男の手から何故にあれほどの絵が生まれるのか不思議でなりませぬが、是非私は描いてもらいたいものがあります。それは業平様が東下りをなさった折り、三河の八つ橋を過ぎて富士の山をごらんになられましたが、五月のつごもりというのに雪がまだ消えずに見えましたので、

  時しらぬ山は富士の嶺いつとてか

鹿子まだらに雪のふるらむ

とお詠みになりました。その時業平さまがごらんになられた富士の山は比叡の山を二十も重ね上げたほどに高いともうしますけれど、実際にはどのような姿をしているものか、かねがね見たいと思っておりましたが、頼んで見てくれませんか」

 皇嘉門院様がこうおっしゃるので私が取り次ぐと、絵師は聞き終えぬうちに筆を振り上げ、たちまち雲を突き抜いて天に聳える美しい山を描き出しました。山の五合目ほどまでを雪が深々と覆い、すそ野は広々と海まで伸びて、浜辺の松の影を行く旅人たちが富士の山を見上げています。皇嘉門院様は御簾の中から身を乗り出すようにしてご覧に成られ、

「富士の山はまことにこのように高いのでしょうか」と驚いてお尋ねになられる。そこで絵師は烏帽子を被り直して、

「この絵は私が見た通りに描いておりますので、偽りはござりませぬ」

「左様ですか・・・この世にこれほどの山があろうとは・・・絵に見てもこれほどに美しいのですから、本当の山はどれほどにすばらしいものでありましょうか」と皇嘉門院様は申される。それまではろくろく喉から声もお出しにならなかった聖子様がまるで別人のようにお話をなさるので女房たちはますますびっくりして絵師の技量に舌を巻いたのでした。

 絵師はいよいよ得意になり赤い鼻をふくらませ、目をどんぐりのようにして女房達を見渡しています。これを見て皇嘉門院様は私を御簾の内にお呼びになって、

「そなたは歌もよく詠まれるのですから、是非とも歌枕を描いてもらいなされ」と仰せになられましたので、私はあれこれと考えながら御簾の内から出て絵師に向かい、

「どのような歌枕でも描いていただけるのでございますか」と訊くと

「どうぞ、いかなるものでもお申しつけ下さりませ」と自信たっぷりに答えましたので『この絵師はあらゆる歌枕を何度も描いてきたので何でも即座に描いてみせるであろう。しかしそれでは絵師の思うつぼにはまるばかりでいかにも能がない。皇嘉門院様もせっかくご機嫌になられたのだから、何か面白い工夫をせねば』と考えて、筆を取って、

   おしてるや難波の崎よ 出で立ちて

 我が国見れば 淡島 

淤能碁呂島 檳榔(あじまさ)の 

島も見ゆ 佐気都島見ゆ

 と半紙に書き付けて、

「この歌の中にある難波の湊は有名な歌枕でござりますが、その湊から見える淤能碁呂島の景色を描いてくださいませ」と言った。絵師はいささか当惑した面もちで歌を幾度も見て、

「私は難波津のあたりは描いたことがござりまするが、ここにあるような島の景色は描いたこともありませんし、聞いたこともござりませぬ。そもそもこれはどなたの歌でございましょうか」

 そこで私が「これは仁徳天皇がお詠いになられた歌でございます」と言って聞かせると絵師は眼を丸くして、

「仁徳天皇とは、はるかな大昔の帝のようでござりまするが、いったいどのような時に詠われたものなのでござりましょうか」と訊くので、

「仁徳天皇はずいぶん昔の帝ではありますけれど、そのお心は少しも遠くはありません。ともうしますのも、この歌は帝が愛しておられた女御の吉備の黒日売が皇后の石之日売命に嫉妬されて、難波の都から追い出されましたが、帝は黒日売愛すると別れるのが悲しくて、

 沖方(おきへ)には 小舟連(をぶねつら)らく 

黒ざやの まさづ子我妹(わびも)

 国へ下らす

(沖の方には小舟が連なって並んでいる。くろざやの美しい人、私の愛おしい女が故郷へ帰ってしまうことだよ)

 とお詠みになられたのです。ところがこれをお聞ゆうかになられた皇后は激しくお怒りになって、

『あのような女を船に乗せることは許さぬ。すぐさま船から下ろして、歩いて行かせなさい』と役人に命じましたので、黒日売は無理矢理下ろされて裸足で陸路を行くように申されたのです。

 帝はこの仕打ちをお聞きになり、心傷まれて、皇后に「私は黒日売のことなどすっかり忘れてしまった。しかしこうした事の心労で気が滅入ってしまったから、気晴らしに、淡路島を見に参ろうと思う」と言って、黒日売の後を追って行かれました。さきほどの歌はその時に船の中でお詠いになられたのですよ。どうか描いて見せていただきたいものです」

 これを聞いて絵師は畏まってもじもじしていたが、やがて、

「この淡島ともうしますのは淡路島でござりましょうが、淤能碁呂島という島は見たことも聞いたこともありませぬ。いったいどこにある島でござりますのか」と聞くので、

「その島はイザナキ命とイザナミ命が天の浮き橋から矛を差し延べて潮の海に造られた島です。大八島国をこの世にお造りになる前に生まれた島ですよ。ですから目で見ることはできません」

「ならば、その島は神世の島でござりますのか」

「イザナキ命とイザナミ命がよりどころとした島ですから神世の島と申せばそのようにも申せましょう」

 これを聞くと絵師はいよいよため息をついて、

「そうしたお話ではとても私の手に負えませぬ。私が描けますのはこの世の景色でござりますれば、神世のことはご容赦下さい」

 絵師はすっかり困り果てている様子なのです。私は、何でも描けるといっていながらもう降参とはなんという事だろうかと呆れて、それでも皇嘉門院様はどのような様子だろうかと見ると、その顔が常になく晴れておいでなので私はすっかり安堵して、

「では、神世の景色はやめにして、この世の歌をご注文させていただきましょう。これもまた仁徳天皇にちなんだ歌でござりますよ」と言って、    

   難波津に咲くや木の花冬ごもり

今は春べと咲くやこの花

 この歌はご承知の通り、古今集の仮名序に記されている歌なのです。この景色を是非見せていただけませんか」

 絵師は今度はもう引き下がれないと観念して、弟子にあれこれと命じて用意させて、一畳ほどもある紙にいちめんの冬枯れの葦の原を描き、その芦辺を鶴が低く二羽三羽と侘びしげに飛んでいる有様を素早く描きはじめました。まわりに集まった女房達や雑色たちはその筆の見事さにどよめき感嘆しきりでしたが絵師は六七分ほど描き上げると、

「色は後ほどにいれまするが、およそこのような具合ではいかがでござりましょうか」と上目遣いに私を見上げましたので、

「見事な出来映えですが、一つ気になるのは、あなたが描いているのは冬の葦の干潟ばかりのようです。でも難波津の歌は冬ごもりしている木花之佐久夜毘売と、春になって満開の花を咲かせている木花之佐久夜毘売の双方が歌われているのですから、ぜひそのように描いてはいただけませんか」

 これを聞くと絵師は筆を投げ出すように箱に入れて、

「失礼でござりますが、あなた様は難波津においでになられたことがござりますのか。私は何度となくまいりましたが、あそこには葦の原の他には何もありませぬ。水辺に生い茂る葦の他には水鳥が遊んでいるばかりです。ですから花が咲き乱れている景色などが描ける道理はないのです。今の世にそのような難波津の景色を描ける絵師がいると申されるのであれば、是非にもお目に掛かりたい。その絵をとくと拝見いたしたいものです」

 そこで私は「そのような絵師がおられるかどうか存じませぬが、絵というものが目で見たものの他は得意でないとすれば、ずいぶんと不便なものですね。古今集の仮名序には『やまとうたは人の心を種として、万のことのはとぞ成れりける、世の中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものにつけて言ひだせるなり』と記されております。歌というものは心の中からあらゆるものが生まれるその心のままに歌うのです。歌枕もそのような心から出来たものでござりましょう。先ほどそなたは歌枕を何でも描いてみせると申された、ですから、当然、心に生まれたものは絵に描けるものと思っておりましたのに、それを描けないとは絵は歌に劣るものなのでしょうか」

 こう言うと、絵師はため息をつきながら赤い鼻をしきりになでながら私の顔をつくづくと見て、

「これまでさまざまな御屋敷にあがって絵を描いてまいりましたが、このようなお話しをお聞きいたしましたのは初めてでござります。なるほど、歌枕を描こうとすれば、歌の心が分からなければなりませぬし、また、歌の心があらゆる物事にとどまらず、この世の目に見えぬものまでも詠っているとすれば、心に浮かぶものも描けなければならないとおっしゃるのももっともなことです。ですから私もこのまま引き下がろうという気持ちでいるわけではありません。しかしながら、あなたさまの申された歌はなかなかに難しいと思われます。ともうしますのは、あの歌には、コノハナ姫が冬ごもりしている景色と、満開の花が咲いている景色が一つの歌に詠われております。一つの歌に冬と春があるのでごさります。このような歌を絵に描くと言うことは実に難しいとおもわれます。ですから、この歌はほんとうのところ、私には何を歌っているのか分からないのでございます。私に描けと申されますからには是非ともどのようなことを詠っているものか、お教えいただきたいものでござります」

 絵師は唇をへの字にして私を額越しに見ている。まわりの女房たちも事の成り行きや如何とばかりに興味津々なようすだ。そこで私は、

「この歌はご承知の通り、王仁という百済から渡来してきた学者が奉った歌とされています。王仁は応神天皇の御代にこの国にまいりましたが、応神天皇には三人の皇子がおいでになられた。大山守命、大雀命(おおさざきのみこと)、宇遅能和紀郎子(うじりわきいらつこ)の三人です。応神天皇は常々宇遅能和紀郎子に帝位を継がせようと考えていらした。ところが天皇が亡くなると、長男の大山守命は皇位を手に入れようとして謀をめぐらせ、宇遅能和紀郎子を待ち伏せて殺そうとなさいました。これを知った大雀命はこの企てを弟の宇遅能和紀郎子に知らせ、逆に待ち伏せして殺してしまいます。こうして大山守命は殺されてしまいなされますが、残った二人の皇子は互いに皇位を譲り合って天皇におなりにならなかったので、民は困り果てて、国も疲弊してしまいました。というのもお二人の譲り合いは何年も続いたので、国を治める者がいなかったからです。

 そうした時、海人たちが天皇の食料になる新鮮な魚をたくさん運んでまいりました。しかし大雀命と宇遅能和紀郎子はいつものように皇位を譲り合って「これは私が受けるべきものではない」と受け取らないので、海人たちの持ってきた魚は日を経て腐ってしまいました。海人たちは悲しんで泣きわめいて、それから後、海のものは都に届かなくなりました。無論こうしたことは海人たちだけでなく、あらゆる献上物も同じでしたから、国中が嘆き悲しんだのです。天皇になるお方が決まらないのですから、国には万の災いが満ちあふれ、民は苦しんで泣き叫んだのでしょう。歌の冬景色はこの国がすっかり冬枯れてしまった様子を詠ったものと思われます。

 ところが宇遅能和紀郎子は心労のためでしょうか突然亡くなられましたので止むなく大雀命が皇位に就かれて仁徳天皇となられました。天皇は難波の高津宮で天の下をお治めになられました。帝は農地を広げ、灌漑を為し、難波の都には堀江を掘って海と川をつなげて水運の道を縦横にお造りになられ、また住吉の湊もお造りになられました。ですから、難波津というのは、葦原に鳥が飛ぶ淋しい湊などではなく、この国で最もにぎやかに栄えた都であったのです。このような歴史から考えてみますと、古今和歌集の仮名序の、

   難波津に咲くや木の花冬ごもり

今は春べと咲くやこの花 

という歌は、宇遅能和紀郎子と大雀命のお二人が皇位を譲り合って国が定まらなかった冬の時代から、ようやく大雀命が皇位に就き、仁徳天皇にお成りになられてこの国に花が咲いたということが詠われているのです。

 また、この歌には木花之佐久夜毘売にも幸福と不幸、福と禍がゆきつ戻りつしたことが記されています。天照大神の皇孫であられる邇々芸命が高天の原が降りてこられて、結婚なさったのが木花之佐久夜毘売でした。姫は身重になっりましたので、邇々芸命にお会いになって、

「これから子を産もうと思いますのでお指し図をいただきたく存じます」と申し上げますと邇々芸命は驚いて、

「たった一夜の契りで身ごもるとは信じられない。そなたの子は私の子ではあるまい。国つ神の子であろう」と訝しまれました。これを聞いた木花之佐久夜毘は土で産屋を造ってその中に入って入り口を塞いで、

「この子があなた様の子であれば、無事に生まれましょう」と誓いを立てて、産屋に火をつけられた。その火の中から三人の皇子がお生まれになった。火照命、火須勢理命、火遠理命。この火遠理命(ほおりのみこと)の孫に当たられるのが、神武天皇です。

このことからも、木花之佐久夜毘売が邇々芸命に疑いをかけられ、産屋に籠もって死ぬということが冬であるとすれば、その死から神々が生まれるという春が来たことになりましょう。私が、この歌を絵に描いてほしいとお願いしたのも悲しい戦で疲弊した都が、再び花咲く平安の都に生まれ変わる時が来るであろうと信じているからです。ですからこの歌は決して遠い神世の話でもなければ、仁徳天皇の高津の宮を夢見ているのではありません。どうか、そのことを念頭に置いてお描きいただきたいものです」

 私がこのように述べますと、絵師は畏まって、

「後日またおめにかかることもあるかと存じますが、本日はどうかご容赦下さい」と小声で言って、弟子を連れて退出した。

 皇嘉門院様は私を近くにおよびになられ

「今日はほんとうに良いお話を聞くことができました。乱れた今の世もやがて終わりを告げて、春の花が咲く時が来ることを信じられるような気持ちになりましたよ」と仰せになられ、お持ちの緋扇を下されたのでございます。

 右大臣九条兼実様が皇嘉門院様にお目に掛かりにおいでになられたのはその翌日のことでござりました。兼実様はとても上機嫌であられて、私のことをさまざまにお褒め下さり、色とりどりの襲を三揃えも下されました。そして申されますには、

「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をも哀れと思わせ」るとはそなたのような者のことである。内裏でもそなたの話でもちきりである。しかしそれにしても、絵師が聞いたというそなたの木花之佐久夜毘売姫の話ばかりはこの耳で聞きたかった。

一夜の契りで身ごもり、その身を産屋で焼くほどの深い思いを今の世の和歌にしたとしたなら、いったいどのようなものになるものか、せめてそればかりでも聞かせてもらたいものである」とこう申されましたので、私はご披露申し上げたのでした。

 

 難波江の芦の仮寝の一夜ゆえ みをつくしてや恋ひわたるべき