百人一首ものがたり 85番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 85番目のものがたり「鹿ヶ谷」

夜もすがら もの思ふ頃は 明けやらで
ねやのひまさへ つれなかりけり

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

 文机の上に「俊恵法師」という名が見える。
「・・・このお方はどのような方でしょうか」
「『俊頼脳髄』を書いた俊頼の息子ですよ。白川にあった自らの僧坊を歌林苑と名付けて歌人を招き、毎月のように歌合や歌会を催しておりました。私の父の俊成はしばしば訪れましたし、『袋草紙』を記した清輔や道因法師、それに二条院讃岐、源三位頼政、平清盛の甥の平経正なども仲間であったようです」
「源三位頼政と平経正がご一緒とは、文字通り呉越同舟だったのですか」
「記録を調べてみますと確かにそうなのですよ。しかも俊恵法師という人物のすごさは、歌林苑の歌会を二十年も続けた事です」
「二十年・・・それはいったいいつからいつまでの事でしょうか」
「保元三年の頃から治承四年までですよ。保元の乱(1156)で平清盛が表舞台に登場し、永歴、応保、長寛、永万と時代が移る頃には清盛は太政大臣となりましたが、治承元年には後白河法皇の近臣等が鹿ヶ谷で平家追討の陰謀を謀った罪で捕らえられました。この時の首謀者の一人藤原成親は、いつかお話したように、私の姉・後白河院京極局の夫ですから、成親は私の義兄弟に当たります。法勝寺の僧・俊寛らが鬼界ヶ島に流されたのはこの時ですよ」
「・・・」
「そして治承四年(1180)には歌林苑に通っていた源三位頼政が以仁王の令旨を掲げて決起して、歌林苑は閉じられることになりましたが、俊恵法師はそれまでの二十余年間ずっと歌会を続けていたのですから、常の人ではとても真似ることは出来ません」
「・・・そのお話をお聞きしている間にふと思い出したのですが、もしや鴨長明は、恵慶法師の弟子ではありませんでしたか」
「まさしくその通りです。鴨長明は『無名抄』で幾度も俊恵法師の話を取り上げていますよ。心寂房殿はそこに記されてることをどのように覚えておいでですか」
「そのように訊かれますとほとんど記憶しておりませんので恥じ入るばかりですが、ただ一つだけ頭に残っていますのは、柿本人麻呂と在原業平の和歌を引き合いに出していたことです。それは確か、
 ほのぼのと明石の浦の朝霧に
島隠れ行く舟をしぞ思ふ 

という和歌と、業平様の

  月やあらぬ春や昔の春ならぬ
我が身ひとつはもとの身にして

であったかと存じますが」
「まさしく恵慶法師はその二つの和歌を艶に優れた歌であると激賞しております。というのもそれらは『浮き紋の織物を見るが如く、そらに景気の浮かべるなり』と述べています。これに対して、尋常の良い和歌というものは、『堅紋の織物の如し』と表現しておりますよ」
「それはどのような意味でございましょうか」
「『堅紋の織物の如し』とは、言い換えれば、はっきりと目に見えるように模様が織り込まれた衣装のようである、つまり、一度見たら忘れられない景色を描いた鮮やかな絵のようである、というのでしょう」
「・・・そのような景色を描いた絵のような和歌が通常の良い和歌であるとしたなら、それより優れた歌があるとは思えませんが」
「それはそうでしょうとも。目に焼き付いて離れない光景をそのままに詠えたら、それこそ大したものであると申すべきです。俊恵法師も、大江匡房の、
   白雲と見ゆるにしるしみ吉野の
吉野の山の花盛りかも
 という歌を引き合いに出して、『これこそ良き歌の本とは覚ゆれ』と申しておりますが、この歌を一度見たものは、その景色がはっきりとした絵のように印象に残っているでしょう。しかも俊恵法師はこの歌には『秀句もなく、飾れる言葉もなけれど、姿うるわしく清げにいひ下して、たけ高く、遠白なり』と表現しています。遠白とは、白という色はただ白いというだけで別にさまざまに異なった色ではなく、匂いもしないけれど、他のさまざまな色の本となっている優れた色である。そのように、この歌は単純な言葉を用いて、色も白という色しか読み込んでいないのに、そらにその景色が浮かぶようである。こうした景色の中の白を俊恵法師は『遠白』と述べているのです」
「・・・」
「大江匡房の歌はこれほどに優れているのですから最高の和歌と申しても良さそうなのですが、俊恵法師によれば、『良き歌の見本ともうすべき作』ではあるけれど、理想の和歌であるかといえばそうではない。美しい景色の印象をはっきりと絵のように詠っただけでは『浮き紋の織物を見る』ようにすばらしいとは言えないと言うのですよ」
「・・・では、目にはっきりと残り、印象づけられた絵よりも優れている『浮き紋の織物』のようなとは、どのようなものでしょうか」
「それはすでに心寂房殿が思い出した柿本人麻呂の歌が分かりやすい例ですよ。

  ほのぼのと明石の浦の朝霧に
島隠れ行く舟をしぞ思ふ

 この歌は一度聞いたら目にも心にも焼き付いてその景色がまざまざと浮かびます。その意味からすれば、『堅紋の織物の如し』という表現にもあたりましょう。しかし、それだけでは言い切れないものがあります。それは、この歌には単に目に見える景色だけではないもの、敢えて申せば、刻々と移りゆく時間が感じられるのです。朝霧のかなたに見えたかと思うと、やがて茫と霞んで見えなくなる、そしてまた見えたかと思うと、それもまた束の間のことで、彼方の島の向こうに消えてしまう。ここにあるのは筆で描いた絵のように、ある時刻、ある場所を詠んだのではなく、移りゆく世界のとらえどころのない余情が嫋嫋とただよっています。しかも人麻呂はその時、その舟に乗っていたのではありません。その過ぎゆく舟を眺めて、物思いに浸っている己の存在をほのかに感じさせている。それが『舟をしぞ思ふ』という部分に表されています。このように、目に映る景色と、移りゆく時間と、その外に居て物思う我と、そうしたものがすべて詠み込まれている歌を俊恵法師は『浮き紋の織物』と表現したのでしょう」

第85番目のものがたり 「鹿ヶ谷」 )

 山のように積み上げた歌集を紙燭の灯り中で俊恵法師が一心に歌を詠もうとしていると、町の様子を見に出ていた鴨長明が息を切らして戻って来て、
「右京の辺りが火事のようでこざいます。風がありますので、大火になるやも知れません」という。俊恵は口をとがらして、ふむ、というように頷いたが、またしきりに考えている。
「法師さま、何をそのようにお考えですか」
「増基ですよ。どうも難しい」
「何がそのように難しいのでございます」
「増基の歌に、
  冬の夜はいく度ばかり寝覚めして
物思ふ宿のひま白むらん
 このような歌がありますので、これを本歌として詠おうとしているのですが、どうにも良くできません」
「それはそうでしょうとも。その歌は冬でございます。ところが今は六月でございますから無理というものです」
「いいや、歌というものはそうしたものではありません。
  思ひかね妹がり行けば冬の夜の
川風寒み千鳥鳴くなり
 紀貫之のこの歌などは恋人を思ってやるせない気持ちになっている男の面影が目に浮かんで、六月の末の暑い日であっても吟じているうちに寒さに震える気持ちになるものです。増基の歌はこれには及ぶものではありませんが、私は何とか本歌にして詠みたいものと思っているのですよ」俊恵法師がこのように述べるので長命はなるほどと聞き入っていたが、外のあたりで立ち騒ぐ声がしたので、
「噂ではこの火事は比叡の山から猿が下りてきて、都に火をつけて回っているのではないかということですよ」
「猿?」
「比叡の猿です。山の猿共がは何をやらかすか分かりませぬ。何しろ法皇と清盛の双方が猿を己のほうに利用しようと躍起になっておりますので、増長するばかりでございます・・・あの永久の強訴があまりにもひどいありさまでしたから、さすがの清盛も比叡の山の猿共や興福寺の大衆を敵に回すのは厄介と知り尽くしておりますし、法皇もそれについては同様でこざいますから」

 永久の強訴とは永久元年(1113)年に起きた比叡山・興福寺・朝廷の三つどもえの激しい闘争である。事件の発端は朝廷が清水寺の別当職に仏師円勢法印を任命した事である。清水寺は興福寺の末寺であるが、円勢が得度を受けたのは比叡山であったため、興福寺は『叡山の僧侶を清水寺の別当とは認められない』と主張して春日大社のご神木を担ぎ出して数千の大衆僧が都に乱入した。朝廷は驚愕して円勢を罷免して興福寺の権別当を清水寺の別当に任じたが、この措置に叡山が反発して日吉神社の神輿を担ぎ出した。
朝廷はこれを防ごうとして、平正盛・忠盛らに兵を出させたが、寺院側は東大寺・法隆寺など七大寺の他、吉野、金峰山などの僧兵や寺院領の兵士を一斉に動員したので、その数は数万にもふくれあがり、収拾も付かない有様となった。やがて興福寺の宗徒が上洛しようと動き出したので平正盛の軍がこれを遮ったりで今にも戦端が開かれようとした時に、いかなるわけか春日明神の使いと見られる神鹿が現れた。
いったい何の徴であろうか、と興福寺の大衆が訝っていると、正盛の兵がこの鹿を射殺しようと構えたので、大衆はどっと怯んだ。これを見て正盛は一気に攻撃し、退却させてしまった。こうして何とか一段落したが、その後も幾度となく強訴は繰り返されたので朝廷はいよいよ寺社を恐れるようになった。そうした折も折、寺社勢力をめぐって法皇と平清盛が対立する事件が生じた。その次第はこうである。

 仁安三年(1168)清盛は大病に罹り床についた。さまざまに手当をし、加持祈祷もさせたが一向に治る景色はない。そこで比叡山の座主である明雲を召請して祈らせて見るとたちまち治癒した。清盛は大いに感じて、出家の決意を固め、明雲を受戒の師とした。叡山と清盛の関係は大いに深まった。ところがその翌年、後白河法皇の寵臣・藤原成親の目代が叡山の庄園の神人と諍いを起こした。神人は目代を処罰するように朝廷に訴え出たが、上皇は成親を庇って神人を捕縛し獄に繋いだ。延暦寺大衆は神輿を担ぎ出して内裏に乱入して『成親を獄に繋げ』と強訴したので、上皇は平清盛の息子の重盛に『強訴の大衆を排除し内裏を守護せよ』と命じたが、重盛は父・清盛と叡山の関係を重んじて、上皇の三度に亘る要請にも応じなかった。
上皇は激怒したが如何ともし難いので叡山の要求を容れて成親を流罪とするとの宣命を発した。叡山側は満足して引き上げた。と、これを見た上皇は成親を赦免して叡山の明雲を呼びつけて譴責した。
 こうした後もしばしば上皇と叡山は衝突を繰り返したが、ついに鹿ヶ谷の事件の端緒となる事件が起こった。上皇の第一の側近である西光の兄弟・師高と叡山の末社が衝突したのである。法皇は叡山座主の明雲を捕らえ、明雲は伊豆に配流と決まった。ところがこれを聞きつけた叡山の大衆は近江の粟津で待ち伏せしてまんまと明雲を奪還してしまった。
法皇は大いに怒り清盛の弟の経盛を呼んで『叡山を討て』と命じた。しかし経盛は兄・清盛と明雲の関係を考慮して兵を動かそうとしなかった。そこで法皇は福原に居た清盛に朝廷に来るようにと命じた。
 清盛がしぶしぶ参内すると法皇は、
「そちと明雲の親しい関係はよく承知している。しかし明雲は朝廷によって配流と決まり、護送される途中であった。それを大衆が奪ったということは、明らかな謀叛である。もしもこのような重罪を見過ごせば、国家は転覆するであろう。そちは今でこそ出家の身ではあるが、先頃までは太政大臣であった。しかも平家は都の治安を一手に納めている。それであるのに、叡山の無法を見逃せば平家一門の声望は地に墜ち、国はますます混迷するであろう。明雲に対するそちの思いと国家の秩序といずれを重んじるのか、真意が問われているのだぞ」
 法皇の説得に屈して、清盛はようやく叡山攻撃を受諾した。俊恵法師と鴨長命が歌林苑から見た都の火の手はこうした時だったのである。

 長命はなかなか戻らなかったが、俊恵法師は気にも留めず紙燭の灯りの中で推敲を重ねていた。その時、荒々しく戸が開いて一群の少年達が押し入ってきた。肩のあたりで髪の毛を切りそろえ、元結いで結びもせずにざんばらに垂らしている。真っ赤な直垂を着て、短い太刀を腰に着けている。ひときわ目立つ若武者が俊恵を見据えると「悪僧取り締まり令による捜索である」と声高に叫んだ。

 悪僧取り締まり令とは、平清盛が定めた十七条の法律で、この春突然発布されたばかりである。寺社の僧や神人が都にまぎれこんで騒擾を引き起こすのを未然に防ぐために、疑いのあるものは捕縛し、入牢・配流などの処置を講じるためと称しているが実は平家に反対する勢力の根絶を狙ったもので、検非違使の役人だけではなく、清盛直々の手下として禿(かむろ)と称する十五六の童子を三、四百人集め、真っ赤な直垂に身を包ませて市中を徘徊させ、平家を悪し様に言うものがあれば家の奥まで乱入し、嫌疑者だけでなくあらいざらい私財まで担ぎ出して六波羅に引っ立てている。
 禿(かむろ)たちは広くもない庵をくまなく探したが、歌書の他は何もないと知ると、
「お前はどこの僧だ」と少年とは思えぬ眼差しで俊恵を睨んだ。
「私はいずれの寺にも属してはおりませぬ」
「僧が寺に属さぬとはいかなることか」
「昔は東大寺におりましたが、今は歌詠みの僧にござります」
「法勝寺の僧・俊寛を知っているか」
「名ばかりは存じております」
 これを聞くと禿たちは俊恵法師を有無を言わせず縛りあげ、検非違使庁に引き立てた。検非違使の役人は俊恵を詰問して幾度も俊寛とどのような繋がりがあったのかと厳しく問うので、俊恵は
「私のような町の僧がどうして法勝寺のような大寺の高僧と面識がありましょうや。私はただ、名ばかりを知っていると申しただけでございます」と述べると、
「潔白を証明する手立てはあるのか」と訊くので、
「ございます。どうか、筆と硯をお貸し下さい」と言って、用意された紙に書いたのは、
   如何せん思ひ慰めむかたぞなき
あらまし事もかぎりこそあれ
(どうしようもないとはこの事ですよ。こうなればいいのにと願っていても限りがあるのですからね)
 この和歌を経正様にお届け下さい」
「経正さまとは・・・誰の事だ」
「平清盛様の甥・皇太后宮亮平経正様でございます」
「・・・そのようなお方の名をみだりに持ち出すとは、斬首ではすまされぬぞ」
「経正様は私の和歌の友なのですよ。この歌は経正様が歌林苑の歌合でお詠いになられた作なのです」
 これを聞くと役人は仰天して引き下がった。

半時もいないうちに経正が急いでやってきた。
「俊恵法師殿、お許し下さい。こうした過ちを犯してしまいましたのも、大事件が勃発したからなのです」
「はて、また叡山の僧侶共が神輿を担ぎ出しましたか」
「いいえ、陰謀です。法皇の近臣たちが平家に反逆し、鹿ヶ谷で謀議した事を成親の兄・西光が白状したのです。法勝寺の俊寛も一味でしたので、目下探索が為されているところですが、それにしても、俊恵法師殿を捕縛するとは」
 経正がしきりに謝るので俊恵法師は、
「いや、それより過日お詠になられた和歌は何度吟じても良い和歌でございます。あまりの見事さに羨むばかりでございますよ」と俊恵法師が何事もないようにそう言うので、
「それはどのような和歌でございましたか」と聞くと、法師は、
  なごの海の荒れたる朝の島がくれ
風にかたよるすがの群鳥
 
これを聞いて経正はすっかり恐縮して、輿を仕立て、自ら歌林苑まで送ってくれたので、俊恵は礼を述べて、
「長らく住み慣れましたが、この夏でここも閉じようと思います」
「それはまた、なぜでございますか」
「二十年の歳月のうちに世の中が変わってしまいまして、歌会においでになられる方は一人もいなくなりました。経正様とお目に掛かるのも二年ぶりでこざいます」
 これを聞くと経正は「二年も過ぎましたか」と呟いて大きなため息をついた。

 屋敷に入るとと弟子の長命はまだ戻らないと見えて、歌書が床に散乱していた。俊恵は書物を片付けながらあれこれとしきりに考えていたが、どうしても良い初句が浮かばないので仕方なしに部屋の隅に床を延べて横になっ。うとうとして目を覚ますとまだあたりは暗く、節穴から月明かりが漏れている。俊恵法師はこれを見てはっとして起き上がり、歌を書き付けた。

  夜もすがら物思う頃は明けやらで
閨の隙さへつれなかりけり