百人一首ものがたり 84番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 84番目のものがたり「袋草子」

永(なが)らへば またこの頃(ごろ)や しのばれむ
憂(う)しと見し世ぞ 今は恋(こひ)しき

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「心寂房殿、これは今しがた書写したものですが、ちょっとお読み下さい」と言うので半紙に目をやると、「暮春白川尚歯会和歌序」とあり、序文が記されている。

 あはれすべらぎの君の御政(おんまつりごと)をよろづの民(たみ)も承(う)け安き(やすき)、二年(ふたとせ)の春(はる)野辺(のべ)の弥生(いやおひ)の月(つき)、林(はやし)の鶯帰り(うぐいすかえり)なんとする頃(ころ)、ももせ川(かわ)に近づき(ちかづき)てみづはぐみ八十坂(やそさか)にかかりて、腰(こし)ふたへなるどち相語(しょうご)らひて多く(おおく)積もれる(つもれる)年(ねん)をあはれびて、高き(たかき)齢(よはひ)を尊ぶ(とうとぶ)遊び(あそび)は、唐土(もろこし)より始まり手(はじまりて)、我が国にも伝はれるをや。我ら頭(かうべ)には雪(ゆき)の山(やま)を戴(いただ)けど心(こころ)は消えぬ(きえぬ)ものなりければ、はだへは氷(こおり)の梨(なし)になりても柿(かき)のもとの風(かぜ)を忘れがたみなり。いざや大原の跡を訪ねて小町の言葉に移さんとならし。ななの翁ひとつ所に伴ひて老髪(おいがみ)の名も睦まじみ、白川のわたりにまう来たりて水に臨み、花にたはぶるる興(きょう)にぞあるらし。清輔昔は秋のみ山辺の草のうちにかずまへられて、おのづから色めかしき言の葉もいへりけん。今は日暮れ道遠き嘆きにそみて春の心も忘れ果てにしも、ちとせに一度(ひとたび)逢(あい)へる事(じ)の喜(き)こばしさに、万代(よろづよ)までの嘲り(あざけり)を残し(のこし)つるをなん、恥(はじ)ぢ思ひけるとしかいふなり」

「これを書き記したのは、詞花集を編纂なされた清輔殿ですか」
「いいや、詞花和歌集は清輔の父の顕輔です。顕輔は息子清輔の才能をよく分かっていましたから編纂を手伝ってもらいたいと思っていたようですが、もともとこの親子は仲が悪かった上に、歌に対する考えがずいぶん異なっておりましたから、清輔は父・顕輔の人選が正しくないとあれこれと批判したので仲違いしてしまったのです。清輔はいつか父を見返そうと思っておりましたところ二条院の勅命があり『続詞花集』を撰集しました。ところが完成する前に院が薨じられたので、勅撰集とはならなかったのです」
「何ともそれは不運な事でしたが」
「勅撰和歌集の撰者にとってはこれより大きな不運はありません。しかし清輔は才あふれる歌人でしたからそうした悲運にもめげず、常の者が詠むこともなかった滑稽な歌を作ったり、かと思えば古歌をひたすら重んじて、『良い和歌を詠はんとすれば古き集を見るべきなり』と万葉集を幾度も見返して和歌を読みつづけましたが、その清輔も年老いて白髪になった頃の承安二年の三月、日頃から頃付き合っていた歌人の中の長寿の人々に呼びかけて、白氏文集に見える尚歯会というものを開いたのです。尚歯とは長寿を尊ぶという事ですから、集まった方々はみな年を重ねた者ばかりで、最も年長は三位藤原敦頼八十四才、次が神祇伯の顕広七十八才、続いて日吉禰宜成仲七十四才、式部大輔藤原永範七十一才、右京権太夫源三位頼政六十九才、清輔朝臣六十九才、最後の一人は前式部少輔大江維光六十三才、都合七人でした」
「それほどの方々が一堂に会して歌合をする有様を想像しただけで羨ましい限りです」
「まことに心寂房のおっしゃる通り、私もそうした方々と歌合をしたいと、あれこれと集まったりもしておりますが、なかなか・・・ところで清輔が開催した折の歌がありますよ。ごらんください」

 散る花は後の春とも待たれけり
またも来まじき我が盛りかも  清輔

 待てしばし老木の花に言問はん
経にける年は誰かまさると   敦頼

 年を経て春の気色は変らぬに
我が身は知らぬ翁とぞなる   顕広

 ななそじに四つ余るまで見る花の
飽かぬは年にさきや増すらん 成仲

 いとひこし老こそ今日は嬉しけれ
いつかはかかる春に逢ふべき 永範

 むそぢあまり過ぎぬる春の花故に
なほ惜しまるる我が命かな  源三位頼政

 年経りて身さへおほ江に沈む身の
人なみなみに立ち出づるかな  維光

「・・・こうした和歌を拝見いたしますと、私もそろそろ詠まねばとおもうばかりですが、それもならぬ身は哀しいことでござります」
「何を申されます。心寂房殿はすでに良い和歌をいつくもお詠いですから少しも思い煩うことはありません。それより、私が清輔を百人の一人に数えねばならぬと思いましたのは、『袋草子』という世にも希な歌の書物を書き留めてくれたからなのです」
「・・・私はその書物につきましては何一つ存じません」
「それも道理。この書物は六条家の秘伝の歌書とも申すべきものです。そもそも二条天皇に進覧するために記された後、幾度も追補されていますからいつ完成したとも言えませんし、読み解くのも容易ではありません。しかし慣れてくると大変に面白い読み物なのですよ。奥書にも次のように記されております。
『一者 其形嚢也、一者 知嚢也。一者 動納嚢随身也。一者 多僻事故虚言嚢之義也。従法花之妙字中如無量之義籠』
 即ちこの書物は、歌詠みが知らなければならないさまざまな事をごちゃまぜに嚢の中に入れて常に持ち歩くべきものだけれど、道理にかなわないこともある。しかしこれを持てば非常に都合がよいものである、というような意味でしょうか」
「聞くからに面白そうな書物でござります」
「まことに貴重な嚢ですよ。いちいち説明しているときりがありませんが、たとえば、『置白紙作法』というものがあります」
「白紙を置くとは、如何なる事でしょうか」
「心寂房殿は歌人が和歌をもらったら返歌をすぐに返すものと思っておられるでしょう。名の知れた歌人なら返歌ぐらいたやすいものだと・・・しかし歌を送られても返せない時があるものです。たとえば『袋草子』には次のような例が記されています。
『源経信(俊頼の父・百人一首七十一番)が言うには《女房が歌を詠み掛けて来た時には《聞き取れない》と二度問い返すべきである。女房は必ずまた詠み掛けてくるであろうから、かように詠み直す間に思案をめぐらせて返歌を作ればよい。しかしそれでも返歌が出来なければ、また問い直す。すると女房はつむじを曲げて詠んでくれないであろう。その間にあれこれと思案して作ればよい。しかしそれでもまだできなければ、『他の用が出来ましたので失礼』、と言って逃げる、これが白紙を置く秘策である》」
「大納言経信様ほどのお方がそのような事を秘策とは・・・」
「またこんな事も書いてありますよ。《ある女に男が三十一枚の小さな貝に歌の文字を一字ずつ書いたものを送ってきたので女が『これを読み解いて下さい』、と持って来たけれど読めない。そこで萩の枝を折り、三十一枚の葉に何という意味もない言葉を一字ずつでたらめに書いて、『ここにその回答がありますよ』、と渡したので、女房はてっきり貝の歌を読み解いてくれたと思いこんで三十一枚の葉を男に届けた。しかしでたらめを書き付けたのだから読めるわけがない。苦労しているうちに二三日過ぎてしまい、萩の葉が縮んで文字が見えなくなってしまった。男は悔しく思ったそうだが、これはまた良い手である》」
「全く信じられない方便でござります」
「方便と申すべきか、まあ、経信がこういう具合でしたから、親が親なら子も子。経信の息子、俊頼にも腹黒いところがあったと、この書物には記されています」
「まさか、俊頼様が腹黒いなどとは・・・」
「俊頼の歌に次のようなものがあります。
  信濃なる木曽路の桜咲きにけり
風の祝(はふり)に隙間(すきま)あらすな」
(信濃(しなの)の国(くに)の木曽路(きそじ)の桜(さくら)が美しく(うつくしく)咲いた(さいた)ぞ。風(ふう)神(じん)を祀る(まつる)神職(しんしょく)の者(もの)に日(ひ)の光(ひかり)を見せてはならぬぞ。そのような事をすると、風が吹きすさんで桜を散らせてしまうからな)

 信濃の国はひどく風が吹くところなので、諏訪明神の社では、《風の祝(はふり)》という神職を設けて、春の初めに深く密かなところに籠もらせて、百日間精進潔斎させるのです。そのようにすると、その年は風が閑かで、豊作になると言い伝えられています。ところが神職の者が役目を忘れて深いところに籠もらず、日の光を浴びてしまったりすると、その年はひどい風が吹くのです。この事は能登太夫資基という人物が信濃の国の風俗として聞いたので、俊頼に相談して《この話は面白いので歌に詠もうと思うのです》と語ったところ、俊頼は《とんでもない、そのような話は根拠のない俗説です。決して歌にしてはなりません》と言ったので、能登太夫は、俗説では詠むのは良くない事だと思っていたら、後日、俊頼が詠んでしまったのです。清輔はこれについて『尤も腹黒い事である』と記しています」
「・・・」
「こうした事はさておいても、歌合の次第はどのように進めるべきか、その時、歌を詠み上げる講師はどのように作法すべきか、歌合の間、足はどのように保つべきか、姿勢はどうして詠んだら良いのか、そうした和歌の儀式の手順や次第の詳細から、天皇が行幸なされ、随行の者が歌を詠んだとき、これをどのような題字にすべきであるか、いかなる言葉を用いるべきか、などの事が実に事細かに記されています。これは後世の者にとっては大変に重要な資料ですよ」
「そのような事をどうして清輔様は知ったのでしょうか」
「万巻の書物を調べたのでしょう。『袋草子』には人の詠んだ歌ばかりでなく、神々の歌まで書き記しています」
「・・・神々の歌とは、神々を讃えた和歌の事ですか」
「いいえ、神々自身が詠んだ歌ですよ」
「まさか、神が詠んだ和歌などありようはずがありません」
「ところがあるのです。たとえば、祭主大中臣輔親が伊勢の齊宮に参上した時に、俄に風雨が強くなったかと見る間に、天照大神が祭主に乗り移ってお詠みになった歌は、
  さかづきにさやけきかげの見えぬれば
ちりのおそれはあらずとぞおもふ」
「天照大神が、大中臣輔親の口を借りてお詠みになったのですか」
「『袋草子』にはそう記されています」
「なんと」
「まことに、面白いと思いませんか・・・ですからこの度のものがたりは、清輔の『袋草子』を種にあれこれと作ってみたのですよ」定家は微笑して草稿を読んだのだった。

第84番目のものがたり 「袋草子」 )

 清輔が膨大な書物に埋まって書き物をして、深夜、あれこれと書き物をしていると遠くから人の走る気配がしたかと思う間に弟の顕昭が真っ青な顔をして、

「兄上、どうかすぐに床下の部屋にお移り下さい」と言うので、

「どうしたというのだ。目がつり上がっているぞ」

「そのような話をしている間はありません。どうぞお支度を」

 顕昭は決して譲らぬという気配だ。顕昭は清輔とは二十八も年が離れているが、歌の道にはすこぶる熱心で、やがては六条家を継ぐであろうと期待されているが、血筋がつながっているわけではない。父母も分からず、幼い頃叡山に入れられて修行の身であったが、もともと頭脳明晰であったので難解で知られる経典をことごとく暗誦して長老たちから将来を嘱望されるようになった。ところがこれを嫉妬した僧侶達から憎まれ、意地悪をされて行き場を失ってしまったので、心配した長老が仁和寺に頼んで移ることになった時、清輔の父、顕輔がその才能に惚れ込み、養子としたのである。

「今は忙しいのだ。またにしてくれないか」清輔がそう言ってまた書いていると、顕昭は「兄上、そのような事をしている間はありませぬ。すぐに地下に御隠れ下され」

「地下に?何を申して居る、地下の部屋などと、そのようなところが我が家のどこにあるのだ」

「私がこの日の来るのを恐れて、密かに造っておきました」

「何のことか皆目わからぬ」

「分からずとも結構です。お命に関わりますので早く」

「そうは行かぬ。たとえ我が身一つが助かっても、これらの書物は命よりも大切なものだ。生涯を掛けて集めたのだぞ。このままにして逃げるなどと、死んでもできぬ」

「無論、兄上のお気持ちはよく存じております。ですからすぐにこれらもお運びいたしましょう。まずはこちらにおいで下さい」

 弟があまりに真剣な様子に清輔が後をついて行くと、床下に立派な部屋がしつらえてあり、当座の暮らしには何不足ないようにさまざまなものが用意されている。おまけに岩苔の皿などもあって気持ちを安らげる趣向まで凝らしてあるではないか。

「これほどの部屋を、そなた、いつこしらえたのだ」

「ずいぶん以前から密かに用意いたしました」

「・・・しかし、何故このようなところに隠れる必要があるのだ」

「恐ろしい詔勅が出されたのでござります」

「詔勅?どのような」

「昔、帝が国の疲弊の種は年老いて働けぬ者が多くなった故であるとして、四十過ぎの老人をことごとく捕らえ、ある者は遠い嶋に送り、あるものは穴に閉じこめ、殺すなどいたしたことがあったそうにござります」

「・・・それは、私もそうした昔があったと聞いたことがある」

「それが・・・今の帝が、『昔も今も同じ事である。天地に災いの気が満ち、干天・豪雨・地震・火事などによって我が国は疲弊し、かてて加えて、山門・寺門・神社などが相争って、国は亡国の憂いにあえいでいる。こうした時、日がな一日何も為さず、無為に過ごしている老人共がかくも大勢生きていることは、ますます国の衰亡を早めるであろう。故に、四十とは言わず、五十の坂を越えた老人は悉く捕らえ、遠島に処すことにする。これによって国は無駄な費えを失うことなく、国力の増進に注ぐことによって富み栄えるようになるであろう』と、このように仰せになり、本日の朝から老人たちを捕らえ、遠島にし、抵抗する者を獄に繋ぎ、やがては殺そうとしているのでございます」

「・・・信じられぬ・・・いったいそのような愚かな事を帝が為すわけがない・・・あるいは・・・いやまさか・・・」

 清輔が呆然としている間に顕昭は清輔の集めた書物を一冊残らず運び入れた。

「しばらくのご辛抱を」

「・・・そなたの配慮はありがたい・・・しかしいつまでこのような穴蔵に居ればよいのだ」

「半年、一年、それは分かりかねますが、何年続こううと、その間、私は密かに食物をお運びいたしますので、兄上はこれを機会に『袋草子』を書き上げてはいかがかと存じます」

 顕昭がそう言うので、なるほど、『袋草子』を書き上げるにはあと四五年はかかるであろう。それに必要な書物は全てここにそろっているのだから、別に不自由はなかろう、と清輔はそう思い、辛抱することにした。

 そうしてどれほど過ぎたのだろうか、ある夜、顕昭が密かに穴の中の部屋に来て申すには、

「この頃大雨が降り続き、稲が腐りかけております。民百姓は嘆いて朝廷に天候の回復を祈って下さいと群れをなして懇願しておりますので、全国の社寺に宣旨を出して加持祈祷をさせましたが少しも効験が見えません。困り果てておりましたら、宮中の卜占に、『この災いは稲荷の神がもたらしたものである』と出ました。そこで勅使が伏見の稲荷山に参り、幣を奉りましたところ、神殿より声がして、《吾は稲荷社の祭神・宇賀御魂神である。もしこの天候を回復させて欲しければ、次の歌の下の句を詠め》と下された上の句は、

長き世の苦しき事を思えかし  

というものでありました。そこで帝は歌人たちを集め《すぐさまこの下の句を詠め》と仰せになりましたが、誰一人詠めません。と申しますのも、ただ詠むだけならば出来ましょうが、神は已に下の句をお詠みになり、それをお隠しになられておいでなのですから、神が詠まれたと同じ下の句を詠むことなど到底できないと、みな嘆いているのでござります」

 顕昭がこのように言うので、清輔は笑って、

「そのような容易いことも今の朝廷の歌人は誰も出来ぬのか・・・次のように詠えば良いのじゃ。

《何嘆くらむ仮の宿りを》」

「兄上、それは、まことに神が詠った下の句でござりますか」

「そうとも。昔、私が幼かった頃、祖父・顕季に連れられて伏見稲荷に詣でたことがあった。その時、祖父は『そなたはいかにも賢い子であるから、神様のお歌をそなたに教えよう』と申されて、

  長き世の苦しき事を思えかし

何嘆くらむ仮の宿りを 

と教えて下さった。それで私は不思議に思って『お爺さまは何故神様の歌をご存じなのですか』とお尋ねすると、『老いたる者には時として神のお声が聞こえることがある。故に、老人は大切にせねば罰があたるのだぞ』と申されたのです」

 清輔の聞くと顕昭は驚喜して朝廷に参内し、歌を奏上した。と、たちまち豪雨が止んで雲間からまぶしい太陽の光が降り注いだので、みなみな歓喜して感涙を流した。ところがそれからひと月ばかり過ぎたある日、顕昭は帝の前に召し出された。

帝は次のように仰せに成られた。

「過日のそなた働きは見上げたものである。がしかし、神は昨夜、またも無理難題を私の耳に囁いた。もしも次の歌の上の句が出来ねば内裏を焼くであろう、と仰せである。その下の句というのは、

むねのいたまのあはぬかぎりは

というものである。この上の句が一日以内に作れるか」とこのように仰せに成られた。

顕昭は恐懼して、

「古書を漁り、今夕までに必ず」とお約束して急いで邸の床下にはいって事の次第をお話すると、清輔は、

「それは円融天皇の時、内裏が焼けたので原因を調べたところ、その火事は道真公の怨みによって焼かれたと分かった。というのも、造営中の屋根裏の棟板に、虫が道真公に成り代わって板を喰い、歌を書き残したのだ。その歌というのは、

  造るともまたもや消なむ菅原や

胸(棟)の板間(痛間)の合はぬ限りは

 と記してあった。それ故火事の原因は道真公であると分かったのだ」

 これを聞いて顕昭は大急ぎで内裏に駆け、事の次第を申しあげた。帝が内裏の棟板を調べさせると果たして棟板に、同じ歌が虫の食った跡になって記されていたので帝は仰天して、

「そなた、いったいどのような神意を受けてこのような事が分かったのだ」とお尋ねになられたので、正直にお答えすると、

「朕は大きな過ちを犯していた。この後は、自らを改め、老人を国の宝として敬うことにしよう。いやそれより先にこれからそなたの邸に詣って清輔に会わねばならぬ」と仰せになられたので、急遽行幸となった。

 なにやら物々しい音がするのではっと目を覚ますと、涎が書きかけの『袋草子』に垂れている。

「兄上、そのような寝ぼけ眼をなさって、どうなさいました」

「涎だと?それより帝が行幸なさっておられよう。このような有様では居られぬ。早く用意を致せ」

「帝とは・・・夢でもごらんなったのですか。お歳を召して居られますのに調べ物ばかりしておりましては身体にさわります。どうぞもうお休み下さい」というので、「何を申すのか、夢など見てはおらん。・・・和歌を詠んでいたのだ」と言って聞かせた和歌は、

 

 なからへばまたこの頃や忍ばれん           憂しと見し世ぞ今は恋ひしき