百人一首ものがたり 83番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 83番目のものがたり「道こそなけれ」

世の中よ

道こそなけれ思ひ入る

山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

 梅が咲き初めた二月の昼下がり、心寂房が小倉庵を訪ねると定家はいつになく晴れ晴れとした顔付きで、
「よい所へおいで下さいました。ようやく書けましたよ」というので、「どなたをお書きになりましたか」と訊くと、
「父の話です。さんざん苦労いたしました」と真実大変そうな様子なので、
「俊成さまは中納言のお父上なのに何故それほどにご苦労なされたのでしょうか」と心寂房が訝しむと、
「父と私の和歌ではまったく歌心が違いますから、他の人よりもずいぶんと苦心が要ったのです。父は晩年にこんな事を申しておりましたよ。
「『汝(これは私のことですが)の和歌を私もずいぶんあれこれと思い巡らしてみましたが、汝の歌と私の歌とは姿に於いても全く変わってしまいました。私は別に嘆いているわけではありませんが、私はいわば目に見える肉を詠んでいたのに、汝は天然と自然を骨を得たと申せましょう。汝の歌を羨ましいと思ったことは度々です。しかし八十路にさしかかって今更汝の歌を学ぶのはどうかと思うばかりなのです』」
「では、俊成様は中納言様の方が上だと認めておられたのでは」
「いいや、歌の道が違うというだけの話です。『私は八十路を越えたのだからもう先はない』などと言いながら、実はすこぶる頑健で、心寂房殿もご承知の太政大臣良経主催の六百番歌合せの判者を勤めたのは八十歳の時でしたからね」
「八十で判者をお勤めとは恐れ入るばかりですが、聞くところによれば六百番歌合というのは見事なものであったと聞き及んでおります」
「それはもうこのように大きな歌合の判者はよほどのお方でも務まるものではありません・・・ご参考にお話してみましょう。まず、父が判者を勤めた建久四年秋の六百番歌合は顔ぶれも大変なものでした。歌人総勢十二人。まず、六条家側からは、季経、経家、有家、顕昭の四人。御子左家側からは私と寂蓮、私の異父兄弟の隆信、それに家隆、家房、これは松殿基房の息子です。それに兼宗と、慈円様。この十一人に女房役の良房様が加わりますと総勢十二人になります」
「・・・」
「給題(あらかじめ与えられた歌題)は百。四季の題が五十に加え、恋の題が五十。この百題に十二人がそれぞれに詠いますので、総計一千二百の歌となります。私は一番遅れて提出いたしました。と申しますのも、その年の春〔建久四年二月十三日〕母が亡くなりましたので、とても詠むどころではなく、夏も過ぎようとした八月になってようやく詠うことが出来たのです。しかしどうやら秋までには良経様のお手元に一千二百首全て集まりましたので、これを左右に番えて結番して、判者である父に渡されました」
「では、その歌合と申しますのは、その場で歌を詠んだのではなく、あらかじめ出されている題に、それぞれの歌人が百首ずつ詠んで、判者に提出するのでございますのか」
「そうですとも。天徳歌合に見るような歌合は、左右の歌人が作った歌をそれぞれの講師が詠み上げてその日のうちに勝敗を決めるのですが、六百番となると、左右合わせて千二百首の歌を合わせて優劣を競うのですから五日や十日ではできません。ことに建久四年の歌合は当時の宮廷を二分していた六条家と御子左家の対決という形を取りましたので、それぞれの歌人は数ヶ月かけて百の歌を詠み、判者に届けたのです」
「俊成さまは、千二百首もの歌をお一人で判じられたのですか」
「そうなのです。私は傍目に見て、これほどの歌を加判するには少なくとも三ヶ月は要するのであろうと思っておりましたし、なによりの問題は、父はその春に長年連れ添った妻を失いましたから、あるいは年を越して春になるかも知れないと危ぶんでいたのです。ところが、父は、ひと月余りで終えてしまいました」
「・・・」
「しかもその判の出来映えは驚嘆するほど見事なものでした。心寂房殿はご存知でしょうが、『源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり』という言葉はこの判の時に父が記したものなのです」
「その・・・源氏を見ざる歌は、という言葉を、俊成様はどのような歌を判じる時にお使いになられたのですか」
「冬十三番、題は『枯野』ですよ。左の女房の良房様の歌は、
  見し秋を何に残さん草の原
ひとつに変わる野辺の景色に

   対する右の隆信の歌は

  霜枯れの野辺のあはれを見ぬ人や
秋の色には心とめけむ

 父俊成は左を勝ちとしました。理由は、左の良房の歌「草の原」は源氏物語の花宴に『憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ』という朧月夜の歌を踏まえている。こうした歌を本歌として枯野を歌うことこそが艶なる歌というべきである、と指摘したのです」
「・・・朧月夜の歌を本歌に・・・」
「源氏を見る、ということは、恋を知る、ということでもあります。源氏物語にはあらゆる恋の形が見え、しかも歌に詠まれています。紫式部という方は夫とはあまりうまくゆきませんでしたし、夫が亡くなってから後もさしたる恋をしておりませんので、なぜあれほどの物語を書けたのか謎ですが、兎も角も歌人たるものは源氏を知らねばならないことは確かですし、父は恋の道にかけても私など及びもつかぬ激しい恋をしておりますので、いよいよ源氏物語に共感したのでしょう。父は最晩年に『祇園社百首』を詠みましたが、七十番に除夜と題してこんな歌が見えます。
 身に積もる齢の数をかぞへつつ
惜しまぬさへぞ哀れなりける
 この歌を見ると死を前にした老人の繰り言のように見えるかもしれませんが、実は七十一番から八十番には初恋・忍ぶ恋・後朝の恋など十首がずらりと並んで、初逢恋では、
  契りありて頼むる宵は逢ひにけり
床の枕にしばし知らすな
 などと青年のような歌を詠んでいるのですからね・・・ともかくも、私は、恋に於いては父に遠く及ばないとつくづく思って居ります」定家はこう言って、草稿を読み始めた。

第83番目のものがたり 「道こそなけれ」 )

 都人の耳目を奪った六百番歌合からひと月ばかり経ったある日、俊成は摂政太政大臣九条兼実に招かれた。『もしや先の歌合のご感想であろうか』と思いながら出向くと、兼実は意外にも「不思議な夢を見ました」と次のような話をした。

「奈良の大仏は平家に焼かれましたが、地面に落ちた大仏の御頭を白い象が持ち運んで行く夢です」

「・・・」

「象は御頭を背に乗せ、山越え野越えしてとうとう海辺に出ました。象が青い渚から海の中に足を踏み入れのすと、御頭はガランガランと悲しげな音を立てて鳴りました。この音に大勢の人が集まって『大仏様の御頭をどこへ連れてゆくのですか』と叫びますと『日本の国は悪鬼羅刹の住処となってしまったので仏は天竺に帰るのです』と象は答えましたので人々は象の足にすがり『どうか私たちを見捨てないでください』と叫びしまたが象は聞こうともせずに海に入って行こうとします。人々の泣き叫ぶ声もどこ吹く風かと言いたげなのです。ところが突然、象は立ちすくみました。波の中から念仏が響いてきたのです。無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。念仏がひと波毎に湧き上って高波となって押し寄せるので、象は一歩も先に進めなくなりました。これを見て人々は象の足にすがりついて、『大仏様の頭を返して下さい』と口々に懇願しましたので、象はその心に感じて、ゆっくりともと来た道を戻ったのです」

 兼実は語り終えて俊成を見つめた。兼実が夢を通じて何を語ろうとしているかは明白だった。それはこうである。

『俊成殿。そなたは命をかけて歌の道に精進しておいでだが、果たして歌がこの国を救ったであろうか。否。末世の極みにあるこの世を救うのは念仏である。念仏のみである』と。・・・

兼実様は私に歌の道を捨てて念仏道に入れと勧めているのであろう。兼実様は深く法然上人に帰依しておられる。この世を救うのは法然上人の念仏のみと思い定めて、自らも受戒し、宮中にも招き入れて、後鳥羽天皇の中宮であられる宣秋門院任子様の御受戒も上人から授かった。公卿雲客は何の身分もない黒衣の僧が宮中に参入し、中宮の受戒の僧となるようなことは恥ずべき事と非難したが、兼実様は「このごろの僧は一切戒律を知らず。法然上人こそ道を究め、効験あり」と反論し、公卿たちを沈黙させた。

 この度の夢の話も、東大寺の大仏の修復は、他のものの手では成し遂げられず、念仏の力によってのみ為されると兼実様は申されたいのだろう。確かに、東大寺再建のために念仏宗は絶大な力を発揮している。総責任者である俊乗坊重源は自らを《南無阿弥陀仏坊》と名付け、命がけで再建に当たっている。そうした重源の霊力もあって東大寺の再建は驚くべき早さで進んでいる。先ほどの象の夢は、念仏の力を象徴する出来事であるのだろう。兼実様は私に念仏の力を認めさせ、和歌は最早何の役にもたたぬと私を説得したいのだろう・・・俊成は庭を見つめてしばし黙っていたがやがて口を開いた。

「摂政様のお話し深く感じ入りましたが実は私も念仏につきましてはかねてより深く思うところがありましたので、既にお聞き及びと存じますが、これは歌道と念仏の意味を考えるためにも大いに意味がございますので敢えて申しあげます。

 清盛の弟薩摩守忠度は、己の屋敷に火をかけ、六波羅、小松殿、公卿の屋敷二十余りも火炎に包んで都を落ちて行きましたが、数日後、侍五騎と童子一人を伴い、私の屋敷を訪ねてまいりしました。忠度はかつて私の門弟でもありましたので、わけを聞いてみますと「俊成殿は後白河法皇の勅命によって歌集を撰集すると聞き及んでおります。私は間もなく命尽きると存じますが、ここにお持ち致しました巻物の百首の中からせめて一首なりともお選びいただければ、草萩の陰からでも感謝もうしたく存じます」と鎧の合わせ目から巻物を取り出しました歌が、千載集に読み人知らずとして撰びました、

さざなみや志賀の都はあれにしを

むかしながらの山ざくらかな 

の歌でございます。平家一門は朝敵となってしまいしまたので、勅撰集にその名を載せることが出来なかったのは残念なことでござりました。  

 こうした後、年も明けて二月、忠度殿が一ノ谷で討ち死になされたとの知らせがありました。岡部六郎太とか申す者とその郎党が平家の陣に切り込んみましたので、いよいよ最後という時に忠度殿は馬を下り、首を取ろうとする六郎太を押しとどめて、

「しばし、退け。念仏を十遍唱えよう」と申されて「光明遍昭十方世界、念仏衆生摂取不捨」と唱えられた。六郎太は待ちきれず、後から近寄って首を打った。屍を見ると箙に文が結んであり、《旅宿花》と題して、

  ゆきくれてこの下かげを宿とせば

花や今宵のあるじならまし

 歌の横には忠度とある。これを見て、六郎太は歓喜して、己が討ち取ったのが平家の大将軍平忠度と知ったのです。

 さて、このような無惨なお話をわざわざ申し上げましたのは、歌と念仏について申し上げたかったからでござります。忠度殿は都落ちをする時には既に自分の命も平家一門の行く末もはっきりと見定めておりました。ただ、ひとつに求めておりましたのは、救いでありましたでしょう。ですから、忠度殿は、合戦の始まる前に歌を書いて箙に結びつけ、首を取られる前に念仏を唱えたのでござりましょう。念仏は極楽往生のためでござりましょうが、歌もまた、忠度殿にとりましては生死と同様に重大な意味を持っていたと存じます。

 もし忠度殿が念仏のみ唱えて歌を残さねば何一つ残らなかったでしょう。薩摩守忠度殿が忠度として往生できたのは、歌のためであったのではありますまいか」

 俊成がこう述べると、兼実は細い目で彼を凝視した。

「歌の道を守る御子左家のそなたとしては、そう申すのももっともと思われる。だが、忠度はそれでよしとして、多くの歌詠めぬ雑兵はどうであろうか。歌を詠まずに念仏だけを唱えて往生した者は、歌を詠んで死んだものよりも下と見なされるのであろうか。また、この世にあっても、歌を詠めぬものは、名も無きものとして、この世にないと同じことなのであろうか。私はそうは思わぬ。我が九条家は歌の道に於いて、そなたの御子左家と親しくすると当時に、長年六条家を師と仰いでおった。藤原清輔は優れた歌の師であったので私も幼い頃よりずいぶんと精進を重ねた。だが、歌の道はいかにも難しい。何十年学ぼうと、世に残る歌などとても詠めぬ。特別の才能と修行と機縁に恵まれた者であっても、その道を究めることは困難である。そのことは清輔存命中の出来事を思い出してもよくよくと分かる。二条帝中宮育子様立后の際の歌合であったが、「このもかのも」という詞が筑波山以外に用いても良いものかそれともそうでないか、ということをめぐって、俊成殿と清輔殿と激しく対立した。それ以後、そなたの家と六条家とは犬猿の仲とも言えるばかりになっておる。しかしひとつの言葉が正しいかどうか、専門の者にも意見が分かれるものを、凡人の私たちにどうして分かり得ようか。もし名歌を残せねば往生できぬとあらば、往生できる者は五本の指よりも少ないということになろう。

 このように見ると、歌の道をもって極楽往生の術とすることは、聖道門に固執する南都仏教と同じのように思える。法然上人は聖道門たる法相・三論・華厳・真言・法華・仏心の諸宗はみな優れているが、源空(法然)のごとき者には悟り難いと申されて念仏宗を興されたが、まさしく歌の道も同様とではないか。万葉集から古今集などの勅撰和歌集と多くの歌合を知らねば良い歌が詠めぬとあらば、よほどの才に恵まれない者は歌は詠めぬ。そしてその歌の道同様に、従来の仏道では人を救えぬ。念仏のみが救いではないか」

 浅い春の光が床に淡く揺らめいている。俊成はしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。

「念仏道がどれほど多くの人々の心を捕らえ、その隅々に染みわたり、救いとなっているかは私も承知しているつもりです。南都の宗門は《法然が一日長く生きれば南都の仏教は一日縮まる》と怯え、最早いかなる力によっても念仏を遮る事はできません。しかし、私は一縷の疑念を抱いております。それは『誰も彼もが歌の道を捨てて念仏のみを信じた時、果たしてそれは日本の国と呼べるのであろうか。』と・・・我が国は古今集を引き合いに出すまでもなく、神世の時代から歌が絶えたことがありません。如何に乱れた世にあっても、歌は人々の心に欠かせぬものでござります。もしこの国から歌が絶え、念仏の声しか聞こえぬとなれば、それはこの国が大和の国ではなく、極楽浄土を欣求する念仏国になったということでござりましょう・・・法然上人はこう申されて居ると聞き及んでおります。

『南無阿弥陀仏とただひたすらに唱えればよろしい。木こり、遊女、商人、菜つみ、水くむたぐいの者も、ただひたすらに唱えなさい。智慧によって人々は救われるのではない。愚痴にかえりて、極楽に生まるとしるべし』

 果たしてそうでしょうか。木こりも猟師も遊女も己の言葉を捨て、ただひたすらに念仏を唱えるということは、もはや木こりでも猟師でもありますまい。樵は樵の言葉を使い、農夫は里の言葉を使ってはじめてこの世の人でありましょう。それが念仏のみを唱えたのでは、そこには己の生は無く、己の死も、己の救いもありますまい。私は天台宗に帰依するものですので、己に執着することが良からぬことであるとは承知しておりますが、念仏のみの人生は、私は生きたくはありませぬ」

 俊成がこう申述べると、兼実は、

「木こり、遊女、商人、殿上人、そうした区別が人間を救いがたい争いに導いているのではないか。伝教大師が徳一と「三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)」をしたのも、全ての者には平等に悟りを得られるとの立場を貫くためであった。俊成殿は天台の信者でありながらそれもわきまえぬとは可笑しい」などと反論したので、議論はかみ合わず物別れとなった。尽きなかった。

 俊成はこの日の話を通じて、己の役割の重さを改めて痛感した。『六百年もの間、歌の道を庇護し育ててきた藤原家の氏の長者が念仏一筋に生きようとしている。もしもこの私が念仏に屈すれば、歌の道は途絶えるであろう』そう思うと、悲しさに打ちひしがれそうになるのだった。

 その年の秋、南無阿弥陀仏坊重源は大仏殿の再建を果たし、南大門には阿・吽の巨大な仁王像を安置した。仁王像の出現は都でも大評判となって、見物客の列が京から奈良のまで途絶えることなく続いた。俊成はこの阿吽像を見て言葉を失った。魁偉な仏像の出現は予測も出来ない時代の予兆であるようにも思えた。

俊成は春日山を一人歩きながら詠った。

  世の中よ道こそなけれ思ひ入る

山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

 (確かな道は失われてしまった。伝教大師最澄が開いた比叡の山にも、弘法大師空海の拓いた高野山にも、道はない。奥山深く分け入れば神仏の声は聞こえるのだろうか・・・私の耳には鹿が鳴く声が空しく響くばかりだ)