百人一首ものがたり 82番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 82番目のものがたり「住吉」

思ひわび さても命は あるものを
憂(う)きに堪へぬは 涙なりけり

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

 定家が火桶を細い身体の両側に引きつけてしきりに書き付けているので心寂坊は黙って部屋の隅に控えていたが、時々筆を置いて右手の拳で左の肩を叩いたりしているのを見かねて、「熱心も度を越しますと毒でございます」と言うと、
「道因法師が私を放してくれませぬのでな」
「・・・存じ上げぬ方でござります」
「いえ、全く知らぬとは言わせませぬよ・・・出家前は従五位下藤原敦頼と申し、崇徳院に仕えていた殿上人ですが、先祖を遡れば内大臣高藤に至りますよ」
「高藤様・・・例の、山科へ鷹狩りに出かけて雨に迷った・・・」
「その高藤ですよ」
「・・・なんとも・・・今になって思い返して見ますと、あの頃お聞かせいただきましたお話が夢物語のように思い出されます。もしも高藤様が狩りに出なかったら、花の如き醍醐の御代はこの世に無く、その後の村上天皇の御代の天徳歌合わせも存在しなかったということになりますから、高藤様が出会った雨は、神仏がお降らせになった慈雨であったのでしょう・・・しかしながらそのような夢の時代がいつの間にか移り過ぎ去り、高藤様の末裔の、その、敦頼というお方は崇徳院に仕えたのですから、さぞや辛い日々を送られたのでしょう」心寂坊がこう述べると、定家は、
「いやいやそれがそうではないのです。敦頼という人物は先祖の血を引いているだけあってあのひどい世をしたたかに生き抜き、逸話も多く、しかも九十過ぎまで長生きしました」
「九十までも」
「敦頼は崇徳院流罪の後、剃髪して僧となり歌の道を志しましたが、良い歌を詠うためには苦労も厭わず、山越え野越え、どこまでも参り、七、八十を過ぎても『この私に秀歌詠ませ給え』と住吉詣でを毎月欠かさなかったのですが、あまりに歌に執着していたために歌合などでは勝ち負けにこだわって、ある歌合の時などは己が負けと判定されると、判者は六条家の清輔でござりましたが、法師は清輔の邸を夜更けに訪れて『何故に私の歌が負けとなりましたのか、合点がゆきませぬ。どうぞ理由をお聞かせくださいませ』と泣き泣き訴えてどうしても引き下がらなかったので、さすがの清輔もほとほと困惑したと父俊成にこぼした事があったそうです」
「では、俊成様も、道因法師とお付き合いがあったのですか」
「それはもちろん良い歌も幾つもありましたから、父は道因法師の歌を千載集に十八首まで選んだのです」
「十八首も」
「そうですとも。そうしましたら、これまた道因法師らしい事に、父の夢枕に法師が現れました」
「まさか、夢に出るとは・・・」
「道因法師は父に向かって頭を下げて申されるには『私の歌が俊成様のお目に留まり、十八首までも選んでいただいてこれに過ぎる名誉はござりませぬ。これで私は地獄極楽いずれへでも喜んで参れましょう』と繰り返し述べて号泣しましたので、その泣き声で父は目を覚ました・・・この話を私は幾度も聞かされましたよ」
「夢に出てうれし泣きするとは、聞いたこともありません」
「父が申しておられたのですから本当だったのでしょう。父は法師の心に感じて、『よくよく思えば今の世に道因法師ほど一途に歌の道を求める人物は他には居られまい。それを思えば十八首では十分とは言えまいぞ』と十八首に二首加え、二十首を千載和歌集に載せたのです」
「それは、それは、俊成様は、良き功徳をなされました」
 心寂坊感激して涙を流したので、定家はさっそくに書き上げた草稿を広げたのだった。

第82番目のものがたり 「住吉」 )

 女は敦頼を見て今にも笑い出しそうになるのをようやくこらえて、袖で口を押さえている。敦頼は、

「世の笑い者にされた上に、思い人にまでそのような目で見られるのは悔しい事ですが、世の中が一寸先も見えぬようになってしまいましたのですから今のうちに思う存分お笑い下され」と言うと筆に墨をたっぷりとつけて、

 花ゆゑにしらぬ山路はなけれども

まどふは春の心なりけり

(私は花を愛しておりますので花の咲くところであればどんな山路であろうとも知らないという道はないほどです。事程左様に私はたいがいの恋の道は知り尽くしているのですが、その私が思いまどわされるのは春の心のせいなのです。と申しますのも、春の心はあなたの心と同様に、目には見えないものですから)

  女の返歌は、

 いかにいかにその姿をば隠されつ

帯も衣も馬に取られて

(あなた様は私の心を云々される前に、ご自分の事をお考えになってはいかがですか。というのもこれはどうしたものかとても分かりかねますが、あなた様は馬飼共に帯も衣装も取られてしまって、裸の姿を隠すこともできずに逃げ帰ったというではありませんか)

 これを見た敦頼は腹が立った。こちらは真剣に恋の道の険しさを詠っているというのに、あの忌まわしい噂話を詠って寄越すとは・・・しかしまったく・・・あの出来事をこのような歌に詠まれるとはなぁ・・・敦頼は如何ともし難く思って深いため息をもらした。

 敦頼が斎宮の行列の行司役を仰せつかって一条大宮を騎馬姿で先導したのは崇德天皇の御代保延五年(1139)の春の事だった。馬上から眺める行列は又格別だった。斎宮の輿を真ん中に百名もの供の者がさまざまに装束を凝らして練り歩く様はなんとも美しい。しかもその行列を自分が先導していると思うとますます晴れ晴れとした気分になる。敦頼は大いに得意になって馬上から都大路を悦に入って眺めていた。と、行列が大宮を過ぎた時、突然、崇徳院の寮の馬飼共がバラバラと敦頼の馬の周りを取り囲んで騒ぎ出した。馬飼共は敦頼に向かって、

「右馬助様、いつのその装束をいただけますのか」と口々にわめいている。大勢が騒ぎ立てるのであたりは騒然たる有様だ。敦頼は怒って、

「そこを退きなさい!この行列は斎宮様をお送りする神聖なお役目ぞ、退きなされ!」と大声で命じたのだけれど馬飼共は、

「早く装束をくださりませ!」「下さりませ!」と口々に叫んで馬の尻をピシャピシャ叩いたりする。馬は驚いて飛び跳ねようとする。敦頼は馬の首に両手でしがみついて、

「この様な大切な時に何を申すか!さあ、退きなさい」と真っ赤な顔で幾度も命じた。ところが馬飼たちは退くどころか敦頼の馬の轡を二三人がかりでしっかりと押さえると、左右から五六人が敦頼の両足にとりつき、引きずりおろして、敦頼の装束を無理矢理剥がしにかかって、靴も足袋もむしり取られてしまった。これを見て行列を警備していた役人共があわてて走り寄ってようやく馬飼共を追い払ったのだが、笑いながら追いかけるので捕まった者は一人もいなった。役人達がなぜ本気で捕まえようとしなかったかといえば悪いのは敦頼の方だと誰もが考えていたからである。斎宮の行事が無事に終えたときには、その行司役を務めた者は付き人や馬飼い共の労をねぎらって、己が着ていた装束を褒美として取らせる事が習慣となっているのだが、昨年行司役を命じられた敦頼は日頃より吝嗇なものだから、装束を惜しんで何一つ取らせなかった。それ故馬飼たちは根に持って、その恨みを晴らしてやろうとしてこのような仕儀に及んだのである。この出来事は都中の評判となり、宮中にも届いたので、話に尾ひれが付いて、

「まことに、慳貪(けんどん)なる者は餓鬼に等しいと申すが、敦頼殿は馬飼共に冠から衣冠まで剥がれたというぞ」

「いやいやそればかりではない。下帯、(したうづ)まで奪われたそうな」

「まさか下帯、(したうづ)までとは」

「いや、確かにそうであったそうな」

「これほどの滑稽な話は前代未聞、敦頼殿は都大路を赤裸、裸足で逃げたというから滑稽極まりない」

 などという噂にまでなってしまった。しかしこの噂を耳にして誰よりも驚いたのは敦頼自身である。確かに沓と(したうづ)(足袋)は奪われたが、衣冠束帯は自ら脱いでくれてやったのだ。それなのにいつの間にこの私が赤裸にされて一条大宮を裸で逃げ帰ったという話になっている。しかも噂は市中に留まらず、宮廷の公卿から奥の局の方々まで知らぬ者は誰一人いない有様なのだ。何よりも口惜しい事は、日頃慣れ親しんでいる女までが噂を信じているということである。敦頼はこのまま黙っている事はよろしくないと思い定めて、歌を書き記して女に届けた。

  岩こゆるあら磯波にたつ千鳥

こころならずや浦づたふらむ

(いつもは美しい磯の景色が広がる海辺でも、ひとたび嵐が吹くと、荒波が立ち騒ぎ、岩礁を越えて波しぶきが激しくうち寄せ、千鳥たちは身を隠すところ求めて風の吹きすさぶ浦々をあてどもなく伝い歩きしてゆきますが、ちょうどそのように、私はまことにひどい目に遭いました。しかしそんな私を笑っている時ではありませんよ。岩を越えてくる恐ろしい嵐は私だけでなく都を包もうとしているのです。もしもそうなったら、誰も彼も都には身の置き所もなく、恨みを抱いて浦伝いにさ迷うことになるのですが、あなたはそれにお気づきでしょうか)

 これは無論女が少しも同情しないので恨んで送ったのだが、そればかりではなく、敦頼は崇徳院と関白忠通様が穏やかならぬ気配になって来たのをひどく案じていたので、その事を馬飼等との不祥事にかこつけて詠ったのである。待つほどもなく女から文が届いた。

  岩こゆるあら磯波の浜千鳥

浜の松ヶ枝忘れてやはある

(岩を越えてうち寄せる波の辛さがあまりにひどかったためでしょうか、千鳥が浜の松ヶ枝を忘れるように、あなたさまはから届くのは文ばかり・・・少しもお姿を見せてくれません。まさか松ヶ枝をお忘れになったわけではありますまいね)

 敦頼はこれを見て『ああ、あの方は世の噂に惑わされて私を見捨てるようなお方ではなかったのだ』と涙を流して直ぐさま訪ねると、女は以前通り敦頼を迎えてくれたので、二人は以前通りの仲を取り戻したのだった。

 敦頼はこうして女と逢瀬を重ねていたのだが、保元元年(1156)七月十一日、恐れていた異変が勃発した。後白河天皇天皇が平清盛と源義朝に命じ、崇徳上皇と左大臣藤原頼長のたてこもる白河の御所に戦を仕掛けたのである。敦頼は女と閨を共にしていたが、未明の頃、恐ろしい音が都の空に響き渡ったので、縁に出て暗い空を見上げると、はるか白河の御殿のあたりが真っ赤に燃えている。馬蹄の響きがそちこちから聞こえ、恐ろしい叫び声が空に響く。

「この有様はいったい何事でしょうか」と女がふるえているので「戦が始まったようです」と敦頼は言いながら大急ぎで身支度を調えて出ようとすると、

「どこへおいでになるおつもりですか」

「まずは朝廷に駆けつけねば」

「いいえ、なりません。戦に巻き込まれて死んでしまいます」と敦頼を押しとめて、

「どうか、ここにおとどまり下さい。夜空に響いているのは武者の声です。あのように恐ろしい者どもが争う中にあなた様がおいでになってどうなりましょうか・・・それより、なぜこのような有様になったのか、どうか私にお教え下さい」と女が必死に説得するので、敦頼はふと我に返って、確かにあのような戦火の中に飛び込んだとて何が出来ようかと思い直して、紙燭をはさんで女と顔を見合わせて、このような話をした。

「私にも何が起きたのか定かではありませんが、以前より関白忠通様と、弟の左大臣頼長様は犬猿の仲であられました。それがとみに悪くなったのは忠通様が鴨川の水をご自分の近衛邸に引き入れて船を浮かべ夜な夜な管弦を楽しむようになってからなのです。というのもその水が宮中の庭にまで浸水するようになったので、頼長様は大層お怒りになられて『我が兄・関白忠通は崇徳上皇とこの私を水漬けにして殺すつもりであろう』と罵られ、すぐさま源為義を呼んで武力を以て水を止めさせようといたしました。ご承知かどうか、為義は八幡太郎の孫に当たり、源義親の息子で、白河院に取り立てられて長く護衛に任じられておりました。

これに対して忠通様は為義の子・源義朝に命じて為義軍を牽制にかかりましたので、お二人の邸には鎧甲冑に身を固めた武者共が徘徊するようになり、兄弟の仲はますます険悪になっていたのです・・・やがて兄の忠通様には後鳥羽院と平清盛が味方に付きましたが、清盛は正盛の孫に当たります。正盛は源義親が対馬で反乱を起こし、大江匡房に敗れて隠岐の島に送られる途中脱走して逃亡した時に追討軍の大将として義親を捕らえ、都に首をさらした武将です。清盛はその孫ですから、為義とは前世からの仇敵です。こうしたわけで、左大臣頼長様と崇徳院の側には源為義・為朝の親子が味方に付きましたので朝廷の内外は恐ろしい気配に包まれて、いつ何時異変が起きてもおかしくない様子ではあったのです」

「では、この国はどうなるのですか」

「上皇様と後白河天皇が戦をなさったからには、必ずこの国は滅びましょう。神仏も見放されたのです」

「ああ、そのような事がありましょうか、神仏は必ずお救い下さいます。戦など、外道共のする事です」女はこう叫んで泣きながら仁王経を読経するので、敦頼は、

 なれてのち死なん別れのかなしきに

命にかへぬ逢ふこともがな

(これほどそなたと馴れ親しんで離れがたい間柄になってしまったのに、もしどちらかが死んで別れてしまったらどれほどにつらいことだろうか。だから現世がどれほど苦しくとも必ず生きながらえて、そなたと最後まで添い遂げたいと思っているのだ)

 敦頼がこう言って、どのような事が起ころうとも、自分はどこへも行かぬ・・・このままここに留まり、戦には決して加わらぬと誓ったので、女は『そのお誓い決して破りませぬように』と固く約束させた。こうして女の御陰で敦頼は崇徳院と運命を共にせずにすんだのだが、その後も世は落ち着くどころか変事は次々と続き、平治元年十二月、後白河上皇の三条殿が源義朝と藤原信頼に焼き討ちされ、上皇と二条天皇は囚われ身となった。急を知った平清盛は謀略を巡らせて上皇と天皇を奪い返し、義朝の軍を破ったので、義朝は東国に落ち延びる途中殺され、信頼も六条河原で斬首されて果てた。こうして平治の乱は収束したがそれから二年後の長寛二年八月(1164)、先の保元の乱で四国へ流されていた崇徳院は讃岐の白峰で身罷られた。

上皇崩御の報を伝え聞いた敦頼は女に向かってこう言った。

「私はあまりの世の変わりように何をする気にもなれず、ただあなたと二人でその日を過ごせれば良いと思ってきましたが、かつて私が仕えていた崇徳院が配流前で亡くなられたと聞いてこれまでのように過ごすことは許されぬと思うに至りました。ただ今、この時から、私は心を入れ替えて出家し、住吉大社に詣でて和歌の道に精進し、国の平安を祈りたいと思います」

 これを聞いて女は「今までのように過ごすことは出来ぬとは私も考えておりましたが、何故それほど急にご決心なさったのですか」と訊ねると、

「・・・上皇と天皇、関白と左大臣が骨肉の争いを繰り返す有様を見ると末世もいよいよ極まったとしか思えませんが、このまま身を隠していたのではいよいよ世が悪くなるばかりですから、和歌の道におすがりして、平安の世が戻ることを祈りたいのです」

「・・・」

「争いを繰り返したスサノオ命も、櫛稲田姫を娶り、出雲の国を建てて歌の道を開かれました。古今集のかな序には『天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも哀れと思はせ、猛き武人の心をも慰むるは、歌なり』とあります。武人を鎮めるのに武力をもってするのは保元・平治の大乱を見れば誰の目にも明らかです。こうなっては住吉明神この道に頼るより他に道はありません」

 敦頼はこう述べて冠を脱ぎ、髪をおろす用意を調えるように家人に命じたので、

「私もこのまま国が滅びて行くのを何も出来ずに見ているのは忍びがたいと思っておりましたので、あなたのお気持ちは分からないではありません。でも、住ノ江の神は救ってくださるでしょうか」と言うので、敦頼は伊勢物語の「住吉行幸」の話を引き合いに出して、

「在原業平様がお仕えしていた仁明の帝の御代のこと、帝は住吉大社に行幸なされた。その折り、帝は社に大きく枝を張っている老松をごらんになられていたく感嘆なされたので、業平様が帝に代わって歌を詠んだ歌は、

 われ見ても久しくなりぬ住吉の

きしの姫松いくよ経ぬらむ

(我が天皇家は久しい昔からこの世を治めているが、その天皇の私の目から見ても、この松ははるかな昔からたくましく枝を張っているようだ。住吉の神の住んでおられる渚の美しい松の木はいったいどれほどの世々を生き抜いてきたのであろうか)

 業平様がこうお詠みになると、この歌に心動かされたのであろうか、住吉の大御神が姿を現され、こうお歌いになられたという。

 むつましと君はしら浪みづがきの

久しき世よりいはひそめてき

(住吉の神である私は、この世を治めておいでになる帝に対して深い親しみを抱いて、はるか遠い昔から、神聖な力をもって、帝の世を言祝いで参ったのですよ)

 このように良い和歌には神も感じて下さるのです。今となってはそれだけが平安を取り戻す唯一の力なのです」そう述べて家人に髪を下ろすように命じたので、女は黙って涙を流した。

 敦頼は名を道因と改め、その日から住吉大社に通い詰めてこの世の安寧と和歌の世の再来を願った。しかしその願いもむなしく、世の乱れは止まるところを知らず、後白河上皇は平清盛の勢力を押さえられぬ鬱憤を遊興に求め、日夜市井の旅芸人や傀儡師、江口や神崎の遊び女を呼び集めて、今様にふけって遊び暮らしたので、道因は嘆き悲しんで詠った。

  大井川ながれておつる紅葉かな

さそふは峰の嵐のみかは

(その昔大井川に流れる紅葉は錦となって輝いたのに、今は冷たい峯の嵐だけが吹き荒れている。何という悲しさだ)

 また詠った。

 

   思ひわびさても命はあるものを

憂きにたへぬは涙なりけり (あれこれと思い苦しみ、この世のわびしさに耐え難い思いをしている私であるけれど、まだ死にきれず命永らえている。ただ涙ばかりがこぼれるこの頃であることだ)