百人一首ものがたり 80番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 80番目のものがたり「粉河寺」

長からむ 心も知らず 黒髪の
乱れて今朝は ものをこそ思へ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「中納言様、伊勢御の和歌に、飛鳥川淵にもあらぬ我が宿もせに変わり行くものにぞありける というものがありますが、これは時が移れば飛鳥川の淵も瀬になると同様に、わが身も立ちゆかなくなったので、家を売って瀬『銭』に換えなればならなくなったと、このように解釈してもよろしいのでしょうか」と心寂房が訊くと、

「その通りですよ」と定家は当たり前の顔をして答えるので、

「私にはどうにも合点がゆきません。と申しますのも、伊勢御というお方は宇多上皇の寵愛を受けて妃となり、後には帝の皇子・敦慶親王と恋に落ちて中務(なかつかさ)の母となったほどのお方ですから、そうしたお方が困窮して邸を売らなければならなくなるとはとても信じられないのでございます」と言うと、

「それは事実を詠んだのです。伊勢御は宇多上皇が出家された時も御殿を出なければなりませんでしたが、その時、こんな長歌と反歌を詠っています。

沖つ波 荒れのみ勝る 宮のうちに 年経て住みし 伊勢のあまも 舟流したる 心地して 寄よらむ方なく 哀しきに 涙の色のくれなゐに われらかなかの 時雨にて 秋の紅葉と 人々は 己が散り散り 別れなば 頼む影なく なり果てて 留まるものとは 花すすき 君なき庭に 群れたちて 空をまねかは 初雁の 鳴き渡らむを よそにこそみめ

 とし経れど忘られ果てぬ人の世は 

     心を留めてぞ なほきかれける       」

「舟流したる 心地して 寄よらむ方なく・・・とは・・・」

「伊勢御に限らず、宮廷に仕えていた女房の末は哀れであったようです。小野小町も行方しれずになったとのことですし、紫式部でさえ没年も終の棲家も分からず、清少納言に至っては乞食同様の尼になったと伝えられておりますからね。宮中に仕えている間は天上界のごとく華やかですが、ひとたび主を失うとなにもかも失ってしまうのです」

「・・・」

「こうした事は女房たちに限らず、女御、更衣、あるいは天皇を生んだ国母であっても悲惨な末路をたどった例は多く見られます。たとえば、鳥羽上皇の后であった待賢門院璋子ですが、璋子は五男二女を生み、長男は保安四年(1123年)五歳で崇徳天皇となり四男は保元三年(1158年)に二条天皇の譲位を受けて後白河天皇になられたのですからこれ以上の幸運に恵まれた女性はないといえるほどでしたが、晩年は哀れでした。というのも白河帝が大治四年(1129)に亡くなるとそれまで力を発揮する機会がなかった鳥羽天皇が権力を一手に握り、璋子を側から遠ざけて、二人の妃を迎えました。その一人が得子です。得子は世にも希な美貌に加え、飛び抜けた知性と野望を秘めた女性でしたから鳥羽天皇は片時も側から離さず、やがて体仁親王が誕生しました。こうなると璋子は身を置く場所を失って法金剛院に隠棲して落飾し、間もなく亡くなったのです」

「西行の出家は待賢門院璋子への恋故であったとされておりますが」

「心寂房殿、私は西行の出家が璋子への思い故であったとは思ってはおりません。待賢門院璋子は西行より十七才年上、西行の出家は二十三。とすると璋子様は四十才。これほど年が離れていながら出家するほど思い詰めるとはあり得ないことです。無論、伊勢は敦慶親王より十五才年上ですから無いとは言い切れませんが、西行の出家はそうした単純な理由ではなかったでしょう。ところで心寂房殿は璋子に仕えていた堀河と兵衛という姉妹について何かご存じですか」

「いいえ、少しも」

「この系図をごらんなさい。顕房は御堂関白道長の孫ですが、顕房の娘・賢子は白河帝の妃となって堀河天皇の母となりました。賢子の兄の顕仲の子が待賢門院堀河ですから、堀河天皇と待賢門院堀河・兵衛姉妹はいとこ同士になります」

                 

「堀河姉妹は優れた歌詠みでした。待賢門院が亡くなられた後、西行が三条高倉の御所に訪ねた頃は御殿の南面の桜が散り果てる頃でしたがその折り『堀河の局に』と詞書きして

 尋ぬとも風の伝にも聞かじかし花と散りにし君が行方を  

 と詠んで送りました。堀河の局の返歌は、

 吹く風の行方しらするものならば花と散るにも遅れざらまし

 その後堀河たちは御所を出て仁和寺などさまざまな処を転々と移りました。一時はこの小倉山の麓に庵を営んでいたのです。西行が風の便りに訪ねると、みすぼらしい庵があるだけで姿が見えないので近所の人にこれこれの人が来たと伝えて下さいと言い置いて帰ると、間もなく堀河から歌が届けられたその歌は、

  潮なれし苫屋も荒れてうき浪に寄る方もなき(あま)と知らずや

(海女の苫屋に移って潮にも慣れましたが、憂き浪に寄る辺ない海女(尼)のように侘びしい身となりましたよ)

   西行の返歌

 苫の屋に浪立ち寄らぬ気色にてあまり住み憂きほどは見えにき

(苫屋には浪も寄せぬようにどなたも立ち寄らぬ気色に見えました。住むに憂きご様子は痛いほど分かります)

 堀河姉妹の近くに中納言の局も暮らしておりましたので、西行が訪ねるとやはり留守だったので、

待賢門院中納言の局、世を背きて、小倉山の麓に住まりける頃、まかりたりけるに、事柄まことに幽に哀れなりけり。風のけしきさへことに悲しかりければ、書き付けける。

  山おろす嵐の音のはげしさを何時ならひける君がすみかぞ

(宮廷に住み慣れたあなた様が、嵐山から吹き下ろす激しい風にもいつしか慣れてお住まいなのだなあ、この庵は)   」

「それほどまでに惨めな暮らしを・・・」

「領地を持たぬ女房は主を失うとを凌ぐすべもありません。堀河はそうした暮らしを送る間に死が身近にあることを悟ったのでしょう・・・その思いを西行に送っています」

 この世にて語らひ置かむ不如帰死出の山路のしるべともなれ

(西行様、私はこの世で頼んでおきますよ、私が死出の山路にさしかかったらほととぎすのように道案内をしてくださるようにと)

  西行の返し

 ほととぎす泣く泣くこそは語らはめ死出の山路に君しかからば

(ほととぎすは泣きながら約束しましょう、あなた様が死出の山路にさしかかるようなことになったら、ご案内するということを)

「では、堀河姉妹は間もなく亡くなられたのですか」

「いいえ、待賢門院が亡くなられたのは久安元年の事でしたが、それから五年後の久安六年(1150)、崇徳院は藤原俊成、顕輔、清輔ら十三名の歌人に『百首歌を作って献じるように』と仰せになられましたがそれらの歌人の名の中に、待賢門院堀河と妹の兵衛の名が見えるのです」

「・・・」

「二人はそれぞれに百首を詠み、詠進いたしました。天皇の許に集まった歌を父・俊成が十巻本に分類したものが『久安百首』あるいは『崇徳院御百首』と呼ばれている歌集です。しかしその後間もなく崇徳院が配流の身となりましたので、公の書物とはなりませんでしたが、和歌だけは残ったのです。それに二人は千載和歌集』には各々幾首も取られています。春の歌では、

 待賢門院堀河 

しら雲と峰の桜はみゆれとも

月の光はへたてさりけり

 上西門院兵衛

花の色に光さしそふ春の夜そ 木の間の月はみるべかりける  」

第80番目のものがたり 「粉河寺」 )

 待賢門院を見送った後の数年間、堀河姉妹は小倉山の麓で暮らしていたがいよいよ困窮したので高野山の麓の天野に移り住んだ。高野山の梨の木峠を過ぎて道なりに一里ほど森の中を行くと金剛寺という寺がある。昔は大層立派な寺で大勢の尼僧が修行していたので、奈良の室生寺と並んで『女人高野』と呼ばれていたが、白河院の頃から叡山と園城寺の争いが激しくなり、東大寺と興福寺の領地を巡る紛争も加わって僧兵たちが群れを成して歩くようになるとその影が高野山の麓まで及んで、貴族からの寺への寄進も途絶えがちになり、尼僧の姿もめっきり減ってしまった。堀河姉妹はそうした有様を風の頼りに聞いていたので、果たして暮らして行けるだろうかと心配しながらやってきたのだったが、噂で聞いたような争いは見られず、景色は良し、山の幸・川の幸に恵まれているのでここならばと仮の宿を結ぶことにしたのである。無論慣れない身とあっては思うように食物を得ることはできないが、百姓や樵、狩人などが『尼僧さまに』と穀類や芋、干し魚、時には山鳥なども持ってきてくれるので嬉しい限れである。聞けば狩人らは獣が通る道をウジ、ウトなどと呼び、一晩でも二晩でも木の上って待ってウジマチをするが、時には幾日も待たねばならないので、木の上に丸太を渡してその上で寝起きする。そうした場所をスワリギと呼び、ウジマチをして獲物を捕る猟師をマタギと呼ぶが、木の上に長い間跨って獲物を待っているのでそうした名がついたものだろうか。
 ある時マタギの女が鹿の皮でこしらえた沓を二人にもってきてくれたがこれは何よりも有り難かった。川に洗濯に行くにも、山に山菜を採りに入るにも草履ではすぐに切れてしまって困っていたのだけれど、その後からは少しも苦労がなくなった。
兵衛「この沓というものを日本にもたらしたのは日鷹吉士という者が高句麗から匠らを伴って帰国し、仁賢天皇に献じたと聞いたことがありますわ」
堀河「どなたから聞いたのですか」
兵衛「季通様から」
堀河「あのお方は日本書紀をよく読まれておいででしたね」
 二人が鹿の皮沓を重宝しているのを見て狩人らはとても喜んで、蓑の上に掛ける大きな皮布をもってきてくれた。蓑の上に掛けると少しも雨が漏らないし、山菜を採る時にも濡れずに済むので身体が冷えずとても有り難い。杣人らは山で木を斧で切って薪にして寺の竈の側に置いていってくれる。彼らが木を運ぶのに朸(おうご)という道具を用いるのを見て堀河が、「古今集にあった歌はこれを詠んでいたのですね」と言って詠った歌は、
  人恋ふる事を重荷と荷(にな)ひもて
朸(おうご)なきこそわびしかりけれ 」

 そうしたある日、二人は粉河寺に詣でることを思い立った。粉河寺には霊験あらたかな千手観音が祀られ、花山天皇も行幸なされ《ちちははの恵みも深き粉河寺ほとけの誓ひたのもしのみや》とお詠いになられたという。寺の縁起はとても面白いので誰もが知っているほどである。
 光仁天皇宝亀元年(770)河内国に渋川佐太夫という五畿内一の長者がいたが、娘が病にかかり、医薬を尽くして治療させたが悪くなるばかり、困り果てていると、童男行者が訪れて千住陀羅尼を読み、加持祈祷を修するとたちまち平癒した。長者は金銀を取りだしてお礼を差し上げようとしたが何も受け取ろうとしないので、娘は日頃手にしていた「下げ鞘(さや)」と「紅袴(ぐこ)」をせめてのお礼にと差し出すとこれを受け取ったので長者が「どこにお住まいなのでしょうか」と訊くと「紀伊の国那賀の郡風市村粉河寺」と言い残して姿を消した。長者は一族郎党を率いて行者が言い残したあたりを訪ねたが一向に見つからない。困惑していると河に粉が白く流れている流れを見つけたので欣喜雀躍して河をたどってゆくと、夕暮れの山に小さな草堂があり、近づくと辺りは俄に光り輝いて千手観音が現れ、その肩に娘が捧げた「下げ鞘」と「紅袴(ぐこ)」を掛けておられた。佐太夫は『娘をお救いくださったのはまさしくこの千手観音菩薩様であられたのだ』と悟って、全財産を投げ出してこの地に堂宇を建立し、千手観音菩薩をお祀り申しあげたという。

 堀河と兵衛の二人が粉河寺への旅支度をしていると樵の男が「村の者が心配しておりますので、私がお供をさせていただきます」と申し出たが「仏をお参りするのですから、危ないことなどはありますまい』と有り難く断って旅に出た。高野山から粉河寺まではさして遠い距離ではない。紀ノ川を渡ると葛城の山が見える。
「あれは大和の葛城山ではないけれど、同じ葛城の名があるのですから、神様も同じなのでしようね」と兵衛はいいながら、 
細枝結(しもとゆ)ふかつらき山にふる雪の
まなく時なくおもほゆるかな 
と古今集の歌を詠んだので、堀河も、

 衣手のさえゆくままに細枝結ふ
葛城山に雪は降りつつ

と俊頼の歌を読んだのだけれど、今は五月で雪の影もないので、二人は顔を見合わせて笑った。
 紀ノ川を渡り終えてしばらく畑地の道を行くと、後ろから呼ぶ声がする。・・・西行様ではないか。粉河寺へ参詣の途中だという。なんという奇遇であろうかと互いに喜び合って粉河寺に向かった。西国三十三観音霊場の第三番目なので参詣人の姿がすこぶる多い。手に数珠、足には脚絆、背には笈、菅笠を被り杖姿の者の列が絶えず続いている。さすがは伝説が生まれたほどの千手観音の寺であることよ、と驚きながら参詣を済ませて、さてこれからどうしたらよいだろうと姉妹が思案していると、
「折角ここまで参られたのですから『吹き上げの浜』に見物に参りましょう」という。「あの浜は大納言公任が『風の砂子(いさご)を吹き上ぐれば、霞のたなびくようなり』と記し、天人が常に降りてきて遊ぶという伝説の浜辺でもあるし、和歌を余り詠まれなかった道真公も、寛平御時菊合に 秋風の吹上に立てる白菊は花かあらぬか波の寄するか とお詠みになったほどですから、是非ご案内いたしましょう」
 西行がしきりに誘うので堀河たちはそうしようと決めて歩き出した。ところがしばらく行くと空が怪しく曇って暴風のような有様になった。ようようの思いで吹上神社についたけれど、嵐はますます吹きつのりるばかり。これでは見物どころか田畑に被害が出るであろうと心配していると、西行が、
「能因法師を真似て祈ることにしましょう」という。能因法師が伊予の国を訪れた時、干天続きで加持祈祷も何の益もなかったので、国司の範国朝臣は何とか雨を降らせることはできまいか、と能因に相談した。能因は『神様は和歌がお好きであると古今集の仮字序に記してあるから試してみましょう』と一の宮神社に参り、
  天の川なはしろ水にせきくだせ
天くだります神ならば神
 と詠んだところ神の感応あって三日三晩降り続けたという。
 
 西行は『和歌の力で雨を降らせることができるなら、降っている雨を止ませることも出来るかもしませんね』と詠んだ歌は、
 天下る名を吹上の神ならば
雲晴れのきて光あらはせ
(天下ってここにその名を吹上の神と申すからには雲を吹き払って光りを現し給え)と祈りを捧げて、詠い申しあげて、社の柱に歌を書き付けると、風が急に変わって雲晴れ、うらうら光が降ってきたので人々は合掌して西行を伏し拝んだのだった。

 その夜、堀河姉妹と西行は昔話をさまざまにして時を過ごしていつ話が尽きるともなかったが、ふと西行が「噂にきけば崇徳院が久安百首の歌合わせをなさるに際し、十四人の歌人にそれぞれ百首詠進するようにお命じになられ、その中にお二人の名もあると聞きました」と言うので、「西行様は」とお尋ねすると「残念ながらお声は掛かりませんでしたが、次の機会もありましょうから、もしお二人がすでに百首をお作りでしたら拝見させていただきたいのですが」というので、笈の中の草紙を取り出して手渡すと、西行は紙燭の灯りを頼りに読んでいたが、
「待賢門院様が身罷れて後のお二人の暮らしを存じておりますので、あのような中で和歌はどうなるのどあろうと内心案じておりましたが、これほどのものをお作りになっておいでとは驚き入りました。しかしこれをどうやって都にお届けするおつもりですか」と聞くので、
「それを思うとどうしたらよいのかと困っております」と言うので、
「よろしければ私がお預かりして、俊成殿にお手渡しいたしましょう」と約束してくれたので二人はほっと安堵したのだった。

 床に貧しい衣を敷き、二人の尼と一人の法師は横になった。戸口から月の光が忍び込んでいる。西行は今は尼姿になって床に伏せている二人が、かつては待賢門院に近侍し、時には帝にも添い臥して夜を過ごしていたのだと思うと胸が痛んで、なかなか寝付かれなかった。
 堀河姉妹は身を隠す几帳もないので、部屋の隅に小さくなって横になっている。西行はその寝姿に、さきほど見た百首のひとつを思い出していた。

長からむ心もしらず黒髪の

みだれてけさは物をこそ思へ

注記・「奈良朝末期に観世音菩薩の霊験を蒙った河内国の渋川佐太夫という長者は、現在、大阪府東大阪士足代の、(大蔵大臣を務めた)塩川正十郞氏の家であって、今日まで段々栄えていることは、観世音の御利益が如実に現れている一例であって、全く奇跡と思われるのであります」と「粉河寺縁起絵」日本絵巻物全集・の解説者、逸木盛照氏は記している。
参考・引用資料  「山家集」日本古典文学大系 岩波書店
「西行山家集注解」渡部保 風間書房
「日本歌学大系」佐々木信綱編 風間書房
「国歌大系」
「久安百首」「時代情報統合システム 日文研データベース」
「粉河寺縁起絵」日本絵巻物全集 角川書店