百人一首ものがたり 79番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 79番目のものがたり「卯の花」

秋風に たなびく雲の 絶え間より
もれ出づる月の 影のさやけさ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「心寂坊殿は私が藤原顕輔を選ぶ理由がお分かりでしょうか」と尋ねるので、
「・・・確か、崇徳院の院宣を受けて詞花和歌集を撰集したのは顕輔様だったと記憶しております・・・また、俊成様が基俊様に教えをいただく前の歌の師は顕輔様ではなかったかと・・・」
「なるほど・・・それなら顕輔のどのような歌が心に残っておりますか」
「・・・ただ一つだけ記憶しておりますのは、秋の田の庵(いお)さす賤(しず)の苫(とま)を荒み月と共にや漏り明かすらん この歌は『百人一首ものがたり』第一番の、秋の田の刈り穂の庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ、という天智天皇の御製にとても良く似ておりますので覚えております」心寂房がこのように答えると、
「それは良いところに目をつけられました。顕輔というお方はさまざまな歌を詠みましたが、古事や伝承・神話などを本歌のようにして多くの歌を詠んでいます。先ほどの『秋の田の』の和歌が天智天皇を偲んで詠んだことは疑う余地もありません。ではこれはいかがですか。
 けだものになほ劣りても見ゆるかな人をば知らぬ人の心は 」
「けだものに劣る人とはただならぬ言葉ですが、これはどなたを指しているのでございますか」
「白河院の事であるかも知れません」
「・・・まさか・・・帝を・・・」
「白河院の所行につきましては最早申すまでもないことです。顕輔は白河院のお側に仕え、その人となりを知り尽くしていた人物ですから、その言葉には重い意味があるのです」
「・・・顕輔様は帝の側近だったのでございますか・・・」
「そうですとも。顕輔は万事に亘って抜きん出た才能の持ち主でしたから二十歳にして白河院の判官代となり、やがて中務権大輔となって帝の側近として侍従し、詔勅や宣旨の文案の作成に携わりました。彼は六条家を天下第一の歌道の家にするほどの実力の持ち主でしたし、人徳もあったので帝は顕輔をこよなく重宝したのです。ところが、大治二年、顕輔は何者かの讒言によって勅勘を被り、昇殿を止められてしまいました」
「・・・いったい、何があったのでございますか・・・」
「顕輔が帝を批判していると誰かが耳に入れたのでしょう。ところがその直後白河院が突然亡くなったので顕輔は助かったのです。そして崇徳院の院宣を受けて天養四年(1144)には詞花和歌集の編纂にあたることになりました。この時の撰者は顕輔ただ一人ですから、崇徳院がどれほど彼に信頼を置いていたかおわかりでしょう」
「・・・」
「顕輔が崇徳院によって再び息を吹き返したというこの国にとって幸運だったと申せます。なにしろ詞花和歌集の後の勅撰和歌集が編纂されたのは四十四年の千載和歌集ですから」
「・・・」
「けれども私が顕輔を百人の一人に選んだのは別の理由です。それは恋ですよ」
「恋」
「今更とお思いかも知れませんが、顕輔の恋は特別です。誰も彼には及びません」定家はそう言って草稿を読み始めたのだった。

第79番目のものがたり 「卯の花」 )

朝廷から命じられた旅先から戻って嵯峨野の庵を訪ねると、顕輔は女の床の側に寄って、
「そなたの夢ばかり見ていたよ・・・讃岐の国の海を見ても、伊予の松原の浜辺を歩いた時も、いつもそなたのことばかり考えていた」
「そのように見つめなさらないで下さいまし。髪を梳るのもままならぬものですから・・・」
「そなたはいつも美しい。私の思いはいつもそなたから離れることはない、景色に見とれていても、波を眺めていてもいつもそなたばかりを思っている。・・・そなたは少し変だと思うだろうけれど、私は人麻呂様と似ているとさえ思う事がある」
「・・・」
「人麻呂様はいつも妻を思って旅をしていたがある時こんな歌をお詠いになった。
 淡路の野島が崎の浜風に
妹が結びし紐吹き返す
 そこで私はそなたのために人麻呂様を真似て詠ったよ。
 あづまぢの野島が崎の浜風に
わが紐ゆひし妹がかほのみ面影に見ゆ
「・・・不思議な歌ですこと・・・」
「普通に詠えばこんな具合になるのだろうね・・・。
 あづまぢの野島が崎の浜風に
わが紐ゆひし妹がかほ見ゆ
 でもこれでは私の気持ちが治まらない。そなたの面影が目の前に浮かんで離れない。海も松原も船も見えない、ただ、そなたのだけがはっきりと見える。だからこう詠ったのだよ」
 顕輔がこう言うと、女は枕に顔を押しつけて泣いた。涙が枕にしみこむのを見て、顕輔は袖で女の涙をぬぐって、
「私は詠いながら悲しかった。そなたを思うと私の目は涙で曇ってあたりの景色がぼんやりと見える。そなたが側にいないので、美しい浜松がなおさら空しい。ここが野島の浜なのだなと思っても、人麻呂様の顔など浮かばず、そなたばかり見えるのだ。私の夢は、そなたをこの病から解き放って、白い砂浜に寄せる美しい波をそなたといっしょに見ることなのだよ」
 顕輔は手枕を解き、女の頭の下に手を差し入れた。顕輔の腕に女の涙が止めどなく流れた。

 数日後、女は少し良くなって薄化粧をして床に横になっていた。顕輔は側に添い寝して、
「父がとうとう決心して私に任せると申されたよ」
「柿本人麻呂様の御影の事でござりますか」
「そうなのだよ。兄の長実は優れた歌人であるし、美福門院の実父でもあるのだから、御影は兄にお任せするものとばかり思っていたのだがなぁ」
 柿本人麻呂の像というのは、顕輔の父の顕季が白河上皇のお持ちになっておられた像をお借りして右衛門太夫信茂に模写させたものである。そもそもこの像は柿本人麻呂を歌聖として崇敬していた藤原兼房が夢に人麻呂像をはっきりと見たので、急いで画工を呼んで夢のままに描かせたものだったのだが、画の出来映えは実に見事なもので、いまにも柿本人麻呂がそこに現れたかのように描かれていたので大評判となり、その噂が白河上皇の耳にも届いたので「見たい」と仰せに成られた。そこでこれを献上申しあげた。しかし世の歌人たちは密かにこれを残念がった。というのも、兼房の手元にあれば見る機会もあろうものを、帝の手の中に移っては見ることができなくなるからである。そこで顕輔の父の顕季は白河上皇に懇望して、この像を借り受け、絵師を頼んで描かた。元の画は帝にお返し申しあげたが、模写した画の出来映えは元画にも優る優れたものであったのでこれが評判となって、藤原基俊や源俊頼が『歌詠みであれば必ず人麻呂様を見なければならぬのを、そなた一人で独占しているとは納得し難い。是非とも親しく拝見させていただきたい』と再三再四申し入れてきたので顕季も、それでは、と決心して、元永元年(1118)正月に公卿や殿上人を呼んで御影供を催した。大広間に柿本人麻呂像を祀り、一同して歌を披露したのである。するとこれがまた大きな反響を呼び、白河院も伝え聞いて『そのような影供供養には費用もかかろう』と仰せられて、讃岐の里の海女の村を人麻呂影供の祭田としてご下賜くだされた。それ以後、毎年正月になると顕季は名のある歌人や公卿をお呼びし、御影供を行っていた。ところがどうしたわけだろうか、白河上皇のお持ちになっていた元画の人麻呂像が突然焼けてしまった。顕季はもしや帝は『そなたの持っている画をこちらによこしなさい』と仰せになるかと恐れていたが、さすがにそこまでは望まれなかったので、顕季の手元にある御影がこの世に唯一の歌聖の像であるということになり、御影供は天下に知らぬものはなくなったのである。

「父は私が幼い頃より、私たち兄弟に対してこう申されていた。『我が子といえども、歌をよくせざるものにはこれを伝ふべからず。この像を譲り受けたければ、よくよく歌道に精進すべし』。
 私は幼い頃から尊像を見て育ちましたから別に欲しいとも思わなかったのですが、長じてさまざまなことが分かるようになってからは、どうしても欲しいと思うようになりました。でも長実、家保の兄がありますからとても望みは叶えられないものと諦めていたのです。ところが昨日父が私を呼んで申されるには、『そなたが最も熱心であり、才能にも恵まれている。故に、御影はそなたに託すことにしたい』とこのように申されたのです」
 これを聞いて女は、
「あなたさまはいつもいつも歌の道にご精進なされておられるのですもの、人麻呂様がお父上さまに夢の中でお教えになられたのですよ、きっとそうです」
 
 女が眠ったので額を触ってみると少し熱い。枕元に歌集が何冊も積んである。傍に蒔絵をほどこした文箱があるので開けて見ると、顕輔が女に宛てた文がきれいに畳んで重なっている。その一枚に、
 あふと見てうつつのかひはなけれども
はかなき夢ぞ命なりける
(あなたと結ばれる夢をみたけれど、夢からさめてみると逢うことはできない。これでは夢から覚めた甲斐がないではないかとおもうばかりだけれど、こんなはかない夢だけが命なのだなあ)
 顕輔が涙にくれて袖で顔を覆っていると、いつの間に目が覚めたのか、
「どうなさりました」
「歌を見ていたら昔を思い出してしまったのだ・・・日が落ちたから床を庭の見えるところに移そう。今夜は良い月が見えるだろうからね」
 お付きの女房に手伝わせて顕輔は女の床を縁側に移した。卯の花が生い茂る庭の松の木の林が黒々と空に枝を広げている。やがて影ばかりになった梢の彼方に月が上った。
「・・・きれいな月」女は枕から頭を少し持ち上げてうっとりと見つめた。顕輔は詠った。

むらむらに咲ける垣根の卯の花は
木の間の月の心地こそすれ
 
「・・・それはどういう意味なのでこざいます?」
「そなたならもう分かっているだろうに」
「いいえ」
「それは困った・・・ほんとに分からないのかい」
「少しも」
「嘘だろう。私を困らせて、私の口から言わせようとしているのだね」
「ほんとに分かりませんわ。むらむらに咲ける垣根の卯の花だなんて・・・どういう事をおっしゃりたいのでしょう」
 女が可笑しそうにそう言うので、顕輔は、
「それなら、ほんとに分からないと信じて話をしてあげよう・・・あそこに見え隠れして咲いている垣根の卯の花はそなたと私なのだよ」
「あの・・・卯の花が?」
「そうなのだ。いっしょにしっかりと添い合って咲いていたいのに・・・この世には、言葉にならない様々なことがいろいろとあるだろう・・・だから、群々咲くばかりだ。そして、ほら月を見てごらん。月というものは本当は銀の鏡のように真っ白で空に輝いているものなのに、木々が邪魔をして、少しも丸くは見えない。まるで割れた鏡のように光が木の間からようやく漏れてくるばかりだ。月も卯の花や僕たちと同じ運命なのさ・・・でも、時が過ぎれば月は高く昇って、必ず白い輝きとなって地上に光を降らしてくれる。だから、そなたと私はやがて光に包まれて一つになって、美しい空を渡ることができるようになるだろうと、そういう歌なのさ」
 顕輔がこう言うと、女は顕輔の袖にすがって、細い声で泣いた。

 夏の風が吹き始める頃、女はこの世を去った。顕輔は呆然として朝廷に出仕することもできなかった。四十九日、百箇日が過ぎて後も顕輔は嵯峨の山里に籠もったままだった。そして夏が過ぎ、秋が来ても、顕輔は都に戻らなかった。顕輔の兄長実が心配して家司に様子を遣わせると、顕輔は和歌を手渡した。
  誰もみな花の都に散り果てて
ひとり時雨るる秋の山里
(あの人の供養に訪れてくれた人々も落ち葉が散るようにちりぢりに都に去ってしまっいました。でも私はあの人の面影が忘れられないのでこの秋の山里で時雨れにぬれていることですよ)

 そうしたある日の夕方、顕輔が香華を手向けて一人縁先に座っていると、垣根のあたりから声が聞こえてきた。
「今夜はきっと良い景色がみられますわ」
「・・・」
「あの晩のように」
「・・・そなたは・・・どこにいるのだ・・・」
「・・・おそばに・・・・」
「そなた、いつ来たのだ」
「ついさきほど・・・あの時は垣根の卯の花や木の葉が邪魔をして見えなかったけれど、今はみな散り果てて、あんなにきれいに見えます。私は歌を作りましたわ。
 秋の夜の月の光に誘われて
知らぬ雲路に行く心かな  」
「きれいな響きだね。でも、知らぬ雲路に行くなどと歌うのは良くないよ。なんだか君が遠くに行ってしまうように覚えて胸が痛くなりそうだ」
「・・・七夕はもう過ぎてしまったけれど、あそこに牽牛と織女星が見えます・・・」
「はっきりと見える。なんてきれいな天の川だろう」
「それではこの歌はいかがですか?
 天の川よこぎる雲や七夕の
空薫物(からたきもの)の煙なるらむ  」
「良い景色だね・・・天の川に薫き物の香りが漂っているようだ・・・でも、雲を煙りというのはやはり良くないよ」
「なぜ」
「煙は不吉だよ・・・僕はもう煙は見たくないんだ」
「私は煙になって消えたりしませんわ。こうしてあなたの側にいるのですもの」
「そうだね」
「ほら、お月様が雲から出てあんなに真っ白に光ってる。あの時あなたが言っていたむらむらでないお月様って、この月の事なのですね」
「そうさ・・・この月の光は、君の顔も、君の黒髪も、君の白い首も、君の細いこの指も、青貝のようにきれいな爪も、なにもかも照らしている。そして君の手を握っている僕の手にも降り注いでいる・・・僕は、ずっと昔から、こんな夜を君と過ごしたかったんだ」
 顕輔は女の細い肩を抱いてと詠ったのだった。

 秋風にたなびく雲の絶え間より
もれ出づる月の影のさやけさ