百人一首ものがたり 77番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 77番目のものがたり「兵衛佐局」

瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の
われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「 亀遊ぶ入江の松にゐる鶴は三千代かさぬるものにぞありける
心寂房殿はこの歌はどなたの歌とお思いですか」
「・・・慶賀の歌にはしばしば鶴亀が詠われますので誰とは分かりかねますが」
「崇徳院ですよ」
「・・・崇徳院の御製・・・でございますか」
「崇徳院は保元の乱の張本人として配流の地で最期を遂げられましたが、御位にあった時、ご自分の代が長く続いてほしいと願ってお詠いになられたのでしょう。それが数年後には配流の身となって恐ろしい噂の主となったのですから」
「まさか一度はこの国の天皇になられた御方がこの国を三悪道に導こうとするなどとはあり得ないことと存じますが、噂というものはどこから出るものか、恐ろしい事でございます」

 噂というのは崇徳院が後白河天皇の仕打ちを怨みに恨んで、配流された讃岐の国で大天狗となり、この国を地獄・餓鬼・畜生道へ堕とそうと御誓願を立てたというものである。
 院は戦に敗れて命からがら仁和寺にお入りになったが、保元二年七月二十三日の事、突然讃岐国へ配流と決まり、朝まだ暗いうちに女房三人と共に御車に押し込められ、左右を武装した侍共が警護し、鳥羽の門から港の船にお乗りになった時には、船の屋形の外から大きな鎖網を掛け、船端には侍共がぎっしりと乗り込んで蟻のはい出る隙間もなく警戒を固めていたので、見る者は涙せぬものはなかった。しかも讃岐に着くと御所の用意すらなかったので荒ら屋で雨露をしのぐありさまであったので、当国在庁の高季と申す者が急ごしらえで松山に御堂を造り、その間に国司が真島という所に御所を造ったので『真島の志度の鼓が岡』というところにお遷りになった。仕える者は三人の女房他誰もいないという寂しさだったが、院は三年の間に大乗経を五部ほども写経され、このお経を是非とも宇佐八幡・鳥羽辺りへ納めたい願って、仁和寺の守覚親王にお経に文を添えてお送りして、その御文の最後に、
 浜千鳥あとは都へ通へども身は松山に音をのみぞ鳴く
(浜千鳥が讃岐から都へ通うように、私の心の跡は文に託して都へと参らせましたが、この身は空を飛ぶこともなりませんので、松山に留め置かれてただ泣くばかりでございますよ)

 守覚親王は崇徳院から届いた御文と御経をすぐさま関白忠通公へお届けすると、関白は後白河天皇に奏上したので天皇は少納言入道信西を召して『いかように取りはからうべきであろうか』とご下問なされると信西は『即刻送り返すべきであろうかと存じます』と奏上したので、御経は讃岐に突き戻されることになった。崇徳院は無情にも送り返された御経をご覧になって、血の涙を流して、『私はこの世にある事はすべてうち捨てて、後生菩提のためにと思い定めてこの御経を書き記したというのに、それすらも許されぬとあらば、今生の怨みばかりでなく、後生までも敵として許さぬであろう』、と叫んで、ご自分の歯で御舌先を喰い切って、舌から流れ出した血で以て御経の軸の本のそれぞれに、御誓状をお書きになられた。その御誓状というのは『吾が書写した大乗経を以て、この世を地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とし籠めて出られぬようにしてやろう。また、御経の大功徳によって、私自身は日本国の大魔王となってこの国を天下大乱に陥れ、ありとあらゆる国難に巻き込んで敵を悩乱させてやろう。五部の大乗経を書写したからには大乗深甚の回向を成し遂げたのであるから、この願いが成就しないということは決してあるまい。諸仏証知証誠し給え。彰仁慎んで申す』、とこのように述べて、御誓状をしたためた五部の大乗経を讃岐の千尋の海に沈めてしまった。
 こうした事の後、崇徳院の姿は日ごとに恐ろしくなり、怨みを吹くんだ声は黄泉の国の神々をも震え上がらせるほどすさまじく、髪は梳らず腰にも達し、万の災いを招かんとする魔王のごとき有様となったが、長寛二年八月二十四日、怨念を胸に抱いたまま御隠れになられた。そして崇徳院の御誓願が叶ったものか、次々と忌まわしい出来事が起こり、ついに平治の大乱となって、崇徳院の御経を突き返した信西は首斬られて、嵯峨天皇がお定めになった死刑廃止のお定めも二七四年目に破られることになった。東大寺が平重衡によって焼き討ちされ、大仏と共に数千人の信徒が殺され、この世が地獄と化したことも崇徳院の御誓状の故ともっぱらの噂だった。

 定家はこうした噂を嘆いて「保元の乱が後の大乱の火種となったことは否めませんが、悪の全てが崇徳院の怨霊の所為であるかに言いふらすのは浅はかに過ぎましょう。もしも本当に噂通りのお方だったら、どうして院の死後、西行が崇徳院の御霊をお慰めするために松山に参り、御殿の跡を訪ねてご供養申しあげようなどという気持ちになりましょうか」
「西行殿は霊廟をお参りなさったのですか」
「西行が院を供養するために訪れたのは確かなことです。けれども霊廟どころか墓所さえもうち捨てられて、どこにあるのかも分からなかったのです。そこで西行があちらこちらと尋ね歩いたところ、白峰の山寺という寺に墓があるようだ、と村人が教えてくれたので、迷い迷いしてようやく探し当てると、御墓は八重葎に覆われて哀れな有様だったので、西行は草を刈り、七日七夜読経して香華を手向け、聖霊決定往生極楽と回向し奉り、御墓の側の松の木を削って和歌を書き付けました。
 久に経て我が後の世をとへよ松あと偲ぶべき人もなき身ぞ
(松よ、そなたは私が死んでの後もはるか後の世まで久しく生き延びて、院の御廟を訪ねてくれよ。そなたの他に院を偲ぶものはないのだから)」
「・・・」
「西行はこのように院をご供養されましたが、実は崇徳院は身罷られる直前に、私の父俊成に宛てて長歌をお送りになっておられたのです」
「長歌でございますか」
「・・・ご存命のうちには父の手元には届きませんでしたが、後にお付きの者が届けて下さりましたので、父は御製を『長秋詠藻』に収録し、自らも和歌を詠んで亡き御霊に御返歌申しあげました。『長秋詠藻』に見る崇徳院の長歌を拝見いたしますと、院がどれど豊かな心の持ち主であったか、今更ながら思い知らされます」

第77番目のものがたり 「兵衛佐局」 )

崇徳院が長い歌を書き付けている間、兵衛佐局はお側に侍って院の筆の動く様を見ていた。夕霞が松林に漂い、崖の下から波の音が響いてくる。院はふと筆をお止めになられて、
「后であった皇嘉門院聖子は私を見捨ててしまったが、そなたは荒ら屋同様の配所にまで来てくれた。そしてその後も一時も離れることなく付き添ってくれることについてなんと感謝して良いやら言葉もない。しかしこのような身の上では何の礼もできないのが悔やまれるが、そなたの恩に報いたいという気持ちは日ごとに増すばかりだ。そこでどうかしてそなたを楽しませることはできまいかとおもっていたが、今日は良いことを思いついたので和歌を書き付けた。これでそなたと言葉遊びをしてみたいと思うが、どうであろうか」の仰せになられるので、
「それはどのような遊びでこざいますか」と兵衛佐局が尋ねると、「歌言葉には不思議な力が備わっておるからこれを自在に使うことが出来れば陋屋を飛び越えて有馬山で遊んだり、三輪山で神々の声に耳を傾けることもできる。さあ、まずこれをみなさい」
 院は先ほど書いておられた紙を兵衛佐局の目の前に広げた。美しい文字で長い歌が記されている。

《いにしへの すまのうらわに もしほたれ あまのなはたき いさりせし 》と始まる見事な長歌で、歌は延々と続き、六百文字を過ぎてもまだ終わらず、その末尾には・・・《あひかたらはむ ことをのみ おもふこころを しるやしらすや》とある。
「これは今し方私が詠った長歌だが、この和歌を元にして言葉遊びをしようと考えたのだよ」
「どのようにすればよいのですか」
「ではまず尋ねよう・・・いにしへの すまのうらわに もしほたれ・・・これを聞いた時に、そなたはどのような物語を思い出すであろうかの」
「それはもう、須磨の浦に流された在原行平様のお話でございます」
「では行平が詠んだ歌とは」
「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ」「それそれ、その和歌には『すまのうら』と『もしほたれ』と二つの言葉が入っているであろう」
「まあ、帝は行平さまの和歌を頭に置いて、ご自分の長歌をお詠みになったのですか」
「それは申すまでもないこと。このようにすれば和歌言葉の効験によって、松山に閉じこめられている私とそなたの身体はどこへでも遊びに行くことができる。既に我らが身は行平の居た須磨に飛んできたではないか」
「まことに、わが身が須磨の海岸に居るような気がいたします」
「そうであろう・・・では次にまいるぞ・・・あまのなはたき いさりせし・・・この部分は何を元にしているであろうか」
「さあ、少しも分かりません」
「行平よりもはるかに遠い嶋に流された者が詠んだ歌と言えば思い出すであろう」
「ではもしや、隠岐の島に流された小野篁様でござりましょうか」
「そうとも。その篁の和歌は如何」
「崇徳院様が、あまのなはたき いさりせし とお詠みになられたそのままに・・・思ひきや鄙の別れにおとろへて海士の縄たぎ漁りせむとは・・・と我が身の不運を嘆いた和歌ではなかろうかと存じます」
「さすがは兵衛佐局じゃ、もはや隠岐まで来てしまったぞ」
「はい」
「では次を続きを尋ねよう。《みのたくひには なきさなる いはうつなみの かけてたに おもはぬほかの なをとめて しつみはてぬる われふねの われにもあらす としつきも むなしくすきの いたふきの》 とは誰の歌を本歌にしたのであろうか」
「そのあたりは、『行平様も篁様も後には許されて都に戻っておりますのに、私を思い出してくれる者は岩打つ波だけだとお嘆きになっておられるのですから、源重之様の 風をいたみ岩打つ波の己のみ砕けてものを思ふころかな が本歌かと存じます」
「それなれば、この私の心はどのような心であろうかの」
「院は、・・・《割れ船の吾れにもあらず年月も空しく過ぎの板葺きの》とお歌いになっておられますのでたとえば底が割れて沈む船のよりも救いのない身の上であるとお嘆きなのでござりましょう・・・割れ船ならば深い海の底に余生を送ることも出来ましょうに、院はそれすら許されず、板葺きの荒ら屋に空しき時を送るばかり・・・私は・・・このような院のお歌を拝見したしておりますと、胸が引き裂かれる思いがいたしまして・・・涙で歌が見えませぬ」
「兵衛佐局・・・そなたが泣くと、この私も泣けて涙が止まらぬ・・・だがの、泣くのは誰でもできようぞ。われらはこのような身になり果ても、嘆きのうちに命果てたりは決してすまいと誓ったではないか・・・世の人が何と噂をしようとそのようなことはどうでもよい。私が恐れているのは世の人の目ではない。死んでの後、いにしへの人古人と出会った時、何と言葉を交わすべきか、それが何よりの問題なのだ。それ故、そなたと私はどこまでも楽しげに歌を詠まなければならぬ。さすれば歌の神々もわれらを愛でてくれようほどに」
「・・・院がそのようにお強い心で居られるのですから、私も・・・涙を押さえるように心がけとうございます」
「そうか、それでこそ私の愛しい兵衛佐局じゃ。さて、次はどこであったかの」
「《おもひしとけは さきのよに つくれるつみの たねならて かかるなけきと なることは あらしのかせの はけしさに みたれしのへの いとすすき はすゑにかかる つゆのみの おきとめかたく みえしかは》」
「そうであった・・・ではこれは如何なることであろうか」
「思えばこのような憂き目に遭うというのも、今生の罪故ではなく、先の世に冒した罪の種が芽を吹いたとしか思えません。野辺の糸薄に激しく嵐が吹き付けて吹き乱れるように、はたまた頼りない草葉の末に露がしがみついている姿に似て、仮の宿に露命を繋いでいるのです・・・とこのようにお詠いになられて・・・」
「では 《そのくれたけの よをこめて おもひたちにし あさころも そてもわかみも くちぬれと さすかにむかし わすれねは くもゐのつきを もてあそひ やまちのきくを たをるとて ときにつけつつ まとゐして はるあきおほく すきにしを いまはちさとを へたてきて はつかりかねも ことつてす》 とは如何に」
「紀貫之様がが醍醐天皇に古歌を奉る時に、
 ちはやぶる 神の御代より 呉竹の 世よにも絶えず 天彦の 音羽の山の 春霞 思ひ乱れて 五月雨の 空もとどろに 小夜ふけて と詠んで、呉竹の世が絶えぬ事を祈っておりましたが、院もまた、醍醐の帝の血筋を引く者として、配流の身となったからには貧しい麻衣に袖を通してでも生き抜こうとお思い定めておられましたけれど、その麻衣の袖もすっかり朽ちてしまいましたので、この我が身もやがては麻衣同様朽ちてしまうのであろうかと・・・院は恐れてお出でになられるのでは」
「・・・兵衛佐局、そう泣かずに、どうかもっと語り聞かせてはくれないか」
「・・・はい・・・忘れようにも忘れられぬのは、昔みた雪月花の時でございます。院が帝位に在りましたとき、月を見てお詠いになられましたのは、
 これをこそ雲の上とは思ひつれ
遙かに月のすみのぼるかな
(たしかにこれは、雲の上に居ることだなあ。雲上人が私のもとに伺候するときにそうするように、遙かな空に月が畏まって澄み上ってくるではないか)
 春は花、秋紅葉を愛でられて、幾春秋をお過ごしになられましたが、今はその頃から已に千年も過ぎてしまったかのように思われて、都からの頼りも尽き果てました・・・匈奴に捕らえられた蘇武でさえ、何千里の遙かな都に雁の使に文を託したというのに、院のもとには雁が音さえも言づててはくれぬとは・・・院はいつぞや、
 かりがねのかき連ねたる玉章をたえだえに消つ今朝の秋霧 とお詠みになられましたが、まさしく文も秋の露のように哀れに絶えて・・・」
「兵衛佐局・・・泣かぬと約束してくれ」
「・・・はい・・・」
「では、次は如何か・・・《もとのこころし かはらすは ことにつけつつ きみはなほ ことはのいつみ わくらめと みしはかりたに くみてしる ひともまれにや なりぬらむ さらにもいはす かなしきは ことのをたちし からくにの むかしのあとに ならひにき ふかきうきぬに ねもたえぬ》 とはどのような事であろうか」
「他の方々がみな心変わりして、思い出すこともなくなってしまわれても、ただ一人俊成殿だけは必ずお忘れではないと信じておられましたが、その俊成殿からもお便りがないのは、俊成殿の才能があまりにも豊かな故、さまざまな歌が泉のようにわき上がってくるので、その水を汲むのに忙しく、院への文を書く暇もないのであろうと・・・そのように院はお詠いになられ・・・それでもお便りがないのはあまりにも寂しいので、唐国の呂氏春秋の琴の名手伯牙を思い出され、伯牙は自らの奏でる音の趣きを真実に分かってくれるものは鐘子期のみであると思っていたのに鐘子期が突然死んでしまったので、最早私の音を分かる者は一人もいなくなったと慨嘆して「破琴絶弦」して再び琴を奏することがなかったと伝えられておりますように、都には最早院の心を分かってくださるお肩は誰もいないとお嘆きになられて・・・ああ、崇徳院様、どうぞ、私をお許し下さい。私は最早、院のお苦しみを言葉遊びなどすることはできません。私は院と共に過ごす事が出来ますれば、昔の事も、この荒ら屋も何もかも苦にはなりません。世の人がことごとく院に背きましょうとも、私は院と共に何劫年でも共に過ごし、苦楽を共にしたいと思い定めております・・・院のお心をご存じの御仏も必ずやお救い下さるでしょう・・・どうかもう・・・」
 兵衛佐局が涙を流しながこのように言うので、院は彼女の肩を抱きしめて、涙声で歌ったのだった。

 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末にあわむとぞおもふ