百人一首ものがたり 76番
目次
わたの原 漕ぎ出でて見れば 久かたの
雲ゐにまがふ 沖つ白波
百人一首ものがたり
- 百人一首ものがたり 100番 順徳院
- 百人一首ものがたり 10番 蝉丸
- 百人一首ものがたり 11番 参議篁
- 百人一首ものがたり 12番 僧正遍昭
- 百人一首ものがたり 13番 陽成院
- 百人一首ものがたり 14番 河原左大臣
- 百人一首ものがたり 15番 光孝天皇
- 百人一首ものがたり 16番 中納言行平
- 百人一首ものがたり 17番 在原業平朝臣
- 百人一首ものがたり 18番 藤原敏行朝臣
- 百人一首ものがたり 19番 伊勢
- 百人一首ものがたり 1番 天智天皇
- 百人一首ものがたり 20番 元吉親王
- 百人一首ものがたり 21番 素性法師
- 百人一首ものがたり 22番 文屋 康秀
- 百人一首ものがたり 23番 大江千里
- 百人一首ものがたり 24番 菅家
- 百人一首ものがたり 25番 三条右大臣
- 百人一首ものがたり 26番 貞信公
- 百人一首ものがたり 27番 中納言兼輔
- 百人一首ものがたり 28番 源宗于
- 百人一首ものがたり 29番 凡河内躬恒
- 百人一首ものがたり 30番 壬生忠岑
- 百人一首ものがたり 31番 坂上 是則
- 百人一首ものがたり 32番 春道列樹
- 百人一首ものがたり 33番 紀友則
- 百人一首ものがたり 34番 藤原興風
- 百人一首ものがたり 35番 紀貫之
- 百人一首ものがたり 36番 清原深養父
- 百人一首ものがたり 37番 文屋朝康
- 百人一首ものがたり 38番 右近
- 百人一首ものがたり 39番 参議等
- 百人一首ものがたり 40番 平兼盛
- 百人一首ものがたり 41番 壬生忠見
- 百人一首ものがたり 42番 清原元輔
- 百人一首ものがたり 43番 権中納言敦忠
- 百人一首ものがたり 44番 中納言朝忠
- 百人一首ものがたり 45番 謙徳公
- 百人一首ものがたり 46番 曽禰好忠
- 百人一首ものがたり 47番 恵慶法師
- 百人一首ものがたり 48番 源重之
- 百人一首ものがたり 49番 大中臣能宣朝臣
- 百人一首ものがたり 50番 藤原義孝
- 百人一首ものがたり 51番 藤原実方朝臣
- 百人一首ものがたり 52番 藤原道信朝臣
- 百人一首ものがたり 53番 右大将道綱母
- 百人一首ものがたり 54番 儀同三司母
- 百人一首ものがたり 55番 大納言(藤原)公任
- 百人一首ものがたり 56番 和泉式部
- 百人一首ものがたり 57番 紫式部
- 百人一首ものがたり 58番 大弐三位
- 百人一首ものがたり 59番 赤染衛門
- 百人一首ものがたり 60番 小式部内侍
- 百人一首ものがたり 61番 伊勢大輔
- 百人一首ものがたり 62番 清少納言
- 百人一首ものがたり 63番 左京大夫(藤原)道雅
- 百人一首ものがたり 64番 権中納言定頼
- 百人一首ものがたり 65番 相模
- 百人一首ものがたり 66番 大僧正行尊
- 百人一首ものがたり 67番 周防内侍
- 百人一首ものがたり 68番 三条院
- 百人一首ものがたり 69番 能因法師
- 百人一首ものがたり 70番 良暹法師
- 百人一首ものがたり 71番 大納言経信
- 百人一首ものがたり 72番 祐子内親王家紀伊
- 百人一首ものがたり 73番 権中納言匡房
- 百人一首ものがたり 74番 源俊頼朝臣
- 百人一首ものがたり 75番 藤原基俊
- 百人一首ものがたり 76番 法性寺入道前関白太政大臣
- 百人一首ものがたり 77番 崇徳院
- 百人一首ものがたり 78番 源兼昌
- 百人一首ものがたり 79番 左京大夫顕輔
- 百人一首ものがたり 80番 待賢門院堀河
- 百人一首ものがたり 81番 後徳大寺左大臣(藤原実定)
- 百人一首ものがたり 82番 道因法師
- 百人一首ものがたり 83番 皇太后宮大夫(藤原)俊成
- 百人一首ものがたり 84番 藤原清輔朝臣
- 百人一首ものがたり 85番 俊恵法師
- 百人一首ものがたり 86番 西行法師
- 百人一首ものがたり 87番 寂蓮法師
- 百人一首ものがたり 88番 皇嘉門院別当
- 百人一首ものがたり 89番 式子内親王
- 百人一首ものがたり 90番 殷富門院大輔
- 百人一首ものがたり 91番 後京極摂政前太政大臣
- 百人一首ものがたり 92番 二条院讃岐
- 百人一首ものがたり 93番 鎌倉右大臣
- 百人一首ものがたり 94番 参議雅経
- 百人一首ものがたり 95番 前大僧正慈円
- 百人一首ものがたり 96番 入道前太政大臣
- 百人一首ものがたり 97番 権中納言定家
- 百人一首ものがたり 98番 従二位家隆
- 百人一首ものがたり 99番 後鳥羽院
- 百人一首ものがたり 2番 持統天皇
- 百人一首ものがたり 3番 柿本人麻呂
- 百人一首ものがたり 4番 山部赤人
- 百人一首ものがたり 5番 猿丸太夫
- 百人一首ものがたり 6番 大伴家持
- 百人一首ものがたり 7番 阿倍仲麻呂
- 百人一首ものがたり 8番 喜撰法師
- 百人一首ものがたり 9番 小野小町
小倉庵にて 権中納言藤原定家と主治医・心寂坊の対話
定家がしきりに系図を書いている。
○源満仲―○―○―八幡太郎義家―義親―為義―義朝―(頼朝)
○平維衡―○―○― 正盛―忠盛―清盛
道長から数えて四代目が〈忠実〉。その子に〈忠通〉〈頼長〉の兄弟の名が見え、横に崇徳・後白河とあるところを見ると、どうやら保元の乱を起こした当事者たちが勢揃いしているようだ。これまでは何とか平安の余韻が残っていたのだけれど、物語はいよいよ戦乱の世にはいるのだろうか、そう思っていると、
「白河院が支配していた時代はどれほどになるかご存じですか」と定家が訊く。
「長いということばかりは存じてますが詳しくは」
「天皇・上皇の在位を合計すると五十七年になります」
「それほどとは・・・」
「堀川・鳥羽・崇徳三代の天皇の上皇として君臨して思うに成らぬ事は三つしかないと謂われましたからね。『天下の三不如意』は『鴨川の水と双六の賽と山法師』、こればかりは意のままにならぬ』と嘆いたそうですが、この三つを除けば他の事は全て思い通りに為すことができたという事ですから大変な奢りようです。しかしそれほどの大権力を百年の半分あまりも独占しながら、彼が為した事と言えば、この日本を野卑な国に変質させたことでした。この人物には理想の美を庶幾する心、すなわちひたすらこいねがう気持ちなど微塵もなかったのです」
「しかし、後拾遺和歌集と金葉集の二つの勅撰集は白河帝の頃ではなかったかと記憶しておりますが」
「それは確かなことですが、帝自身は和歌というものは何一つ分かっていなかったのですよ。後拾遺和歌集に・・・大井川古き流れを訪ね来て嵐の山の紅葉をぞみる、あるいは、かひもなき心地こそすれさを鹿のたつ声もせぬ萩の錦は、などという歌が散見されますが、批評する気にもなれません。帝が望んだのは美を具現化するための権力ではなく、自らの力を誇示するためのむき出しの力でした。数多くの寺院や仏塔、仏像を造らせましたが、仏教を信じていたわけではなく、ただの装飾物だったのです。叡山や興福寺を徹底的に堕落させたのも白河帝でした」
「・・・」
「叡山も南都の寺々も救いを目的として創建されたことは申すまでもありません。開山の僧侶にはその時代の最高の僧侶が迎えられました。桓武・嵯峨天皇の御代は申すに及ばず、宇多・醍醐・村上天皇の御代の頃、叡山の天台座主や興福寺の別当など僧侶の最高位に就く出身者は優れた僧侶でしたし、それらの僧はほとんど庶民階級出身の者でした。また、薬師寺の最勝会・興福寺の維摩会・大極殿の御斎会は『三会』と呼ばれて、高僧となる者はまずこれら三会の講師を経て、僧尼を統合支配するそうごう僧綱の位に就くのですが、この僧綱になる者も庶民階級出身の者でした。ところが白河院の頃になると高位の僧侶は公卿貴族出身者が九割余りを占め、庶民階級の僧侶はほとんど高位に上ることはできなくなったのです。叡山・興福寺の座主や別当などは仏道に通暁しているわけでもなく、門閥によってその地位を獲得したのですから、自らの地位を守るために派閥を作り上皇や摂関家と結び、更に勢力を拡大しようとして僧兵などを養うようになったのですよ」
「そうした事は白河帝以前にはなかったのですか」
「三条帝の頃も貴顕の師弟が高位を占める事は希ではありませんでしたが、極端になつたのは白河帝の時代です」
「では、僧侶は全く教学には無関心になったのでしょうか」
「多くの僧侶は勢力争いに明け暮れていましたが少数の者は仏教の真実を求めていたことも確かです。しかし彼らは自ら会得した境地を文字で書き記すのではなく、口伝として特別な者のみに密かに伝えるという方法をとりましたので、大衆たちはますます蚊帳の外に置かれるようになりました。叡山が世俗化して暴力で武装するようになりますと、白河帝は叡山を見捨てて別の土地に壮大な寺を建立しました。法勝寺です。鴨川の東一帯は藤原家が所有していた広大な土地だったのですが、師実が白河帝に献上しましたので、白河帝は道長の建てた法性寺よりも壮大に「国王の氏寺」を造れと命じてこれまでに見たこともない派手やかな寺院を建立しました。この寺は真言も天台も諸宗派の僧侶もことごとく網羅した大寺院で、金堂・講堂・阿弥陀堂・五大堂・法華堂その他無数の仏像を入れる堂塔、経蔵が林立していました。しかもこの壮大な事業を命じた白河院は少しの資金も出さずに完成したのです」
「・・・それはどういうことでしょうか」
「受領たちをけしかけ、互いに競い合わて、全てを請け負わせたのですよ。受領は任国の富を一手に支配できる地位にあり、経営次第では莫大な財を手にすることができます。任地に長く赴任すれば支配は容易になりますから、莫大な上納物を上皇に献納して、見返りに出来るだけ長く受領に任じてもらおうと必死の努力をしました。ある書物によれば、美作・丹波・伊予・但馬の国守を歴任した源章任は『家大いに豪富にして、珍貨蔵に満ち、米穀地に敷きて、庄園家地は天下に布き満てり』とあります。章任に限らず、富裕者となった受領は上皇に取り入って御所を飾り、堂塔を造り、見返りに自分の子どもに任地を賜り、富を重ねることができましたから、藤原基隆などは三十七年も大国の受領を歴任して莫大な財を得、その子の忠隆は十歳にして丹波の守に任じられたほどです」
「・・・」
「まあそれらの事々は目をつぶるとしても、白河院が為した最大の悪は藤原家を分裂させ、忠実・忠通・頼長を敵対させて、保元の乱の種を蒔いたことです。あの乱がどれほど悲惨な時代の幕開けとなったか、今更申すまでもありませんが、乱のそもそもの原因は藤原家当主の忠実とその子忠通の間に深い亀裂が生じたことですよ」
「白河帝は親子が仲違いするように仕組んだのですか」
「結果としてはその通りです。・・・白河院は養女璋子を忠通に嫁がせようとしましたが、璋子は素行に問題があり、しかも、帝は璋子と通じているとの噂がありましたから忠実はこの件を固辞しました。古事談には次のように記されています。
『待賢門院(大納言公実の娘・璋子)は白河院御猶子の儀にて入内せしめ給ふ。その間、法皇密通せしめ給ふ。人皆之を知るか。崇徳院は白河院の御胤子、と云々。鳥羽院も其の由を知ろしめして、『叔父子』とぞ申さしめ給ひける』
忠実に断られたので激怒して、忠実を関白の地位から追い落としました。そしてその璋子を孫の鳥羽天皇に入内させたのです。間もなく璋子は皇子を生み、後に崇徳天皇となりますが、鳥羽天皇はその子が己の皇子ではなく、白河帝の子であると承知していましたので、崇徳院を『叔父子』と呼んでいました。『自分の子ではあるが、実は祖父の子である我が子』ということなのです。こうした事情がありましたので、崇徳天皇は鳥羽上皇に愛されず、在位八年で無理矢理幼い近衛天皇に譲位させられてしまい、その恨みが積もり積もって大乱となったことは否めない事実です」
「・・・古事談の記載は確かな事なのでしょうか」
「古事談以外の書物には何も記されていませんので確証はありませんがおそらくそうした事実がなくては鳥羽院が崇徳天皇を生涯ないがしろにした理由の説明は困難でしょう・・・まあそれはともかくとして、忠実は白河帝にしばしば逆らったので、先にも申しましたように帝は忠実を関白職から追い、忠実の息子の忠通を関白に命じました。こうした事が忠実と忠通親子を引き裂くことになるのです。忠実は忠通が白河帝の庇護のもと朝廷を自在に支配する有様を見て憎むようになります。そうした時に生まれたのが頼長です。頼長は幼い時より並びなき秀才としての名が高く、あらゆる和漢の書を読み、慈円をして『日本一の大学者。和漢の才に富む』と評させたほどです。忠実が頼長を愛したのは当然と申せましょう」
「・・・中納言様のお話をお聞きしておりますと頼長という方が優れていたように聞こえますが、世評には悪左府と・・・」
「たしかに世の評判では頼長は悪左府と仇名され、近衛天皇の崩御についても頼長の仕業だと聞いたことがあります」
「天皇を死に追いやったとなると弑逆ですから、反逆よりももっと重い罪です」
「もちろん市井の噂ですから真相は存じませんが、帝の死後朝廷で口寄せをさせてみたところ、天皇の霊が現れて申されるには『何者かが私を呪詛して愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため私は死んだのだ』と述べたので調べてみると頼長の仕業と判明したと・・・」
「そうした噂があることは確かですが、その話は、頼長が保元の乱で敗退して死んだ後の作り話です。もしも頼長が真実そうした人物であったとしたら、次の逸話などは説明がつきません。古今著聞集の五十五に記されている話ですが、ある時、藤原行成の四代の孫で、書家として高名であった定信入道が左大臣頼長にお目通りしたところ、頼長は衣冠を正して定信を礼拝しました。周囲の者は、左大臣の地位にある者が身分の低い定信を礼拝するのを見て驚愕したそうですが、頼長が申すに、『定信というお方は出家に先立ち、春日大社に於いて、権僧正隆覚の立ち会いのもとに、一切経を書写し供養したお方である。それゆえ、仏と同じと覚え、礼拝したのである』。こうした行為から判断すると頼長は神仏に対する尊崇の念が人一倍あつい人物であったと考えられます」
「・・・」
「頼長に欠点があったとすれば、その才能があまりにも優れていたため周りの者が無能に見え、それを口に出して非難したことでしょう。頼長は聖徳太子を深く敬い、太子の憲法や古代の律令制度を今日にも実現しようとして余りにも性急に他人に強要したことです。当時は白河帝の末期の時代でしたから怠惰な風習に慣れていた公卿や殿上人たちには不評だったのでしょう」
「中納言様からそのようにお話をお伺いいたしますと人の世の噂は当てにならぬと改めて思い知らされますが、そうなりますと頼長の父親の忠実もまた誤解を受けていたということなのでしょうか。世の人は忠実の頼長への偏愛が忠通との不和を招き乱に至ったと申しておりますが・・・」
「もっともな疑問ですが、心寂房殿は讃岐典侍日記をご覧になったことがありますか」
「いいえ」
「これを書いたのは藤原長子という宮中に仕えた女房で『蜻蛉日記』を書いた兼家の息子・道綱の曾孫にあたる人物です。道綱母と長子は百五十年ほど隔たっていますが、やはり物を書くという血筋を引いていたのでしょうか・・・長子の異母姉に堀河天皇の乳母であった兼子が居り、彼女の推薦もあって、堀川天皇のお側に侍るようになったようです。本文を読めばすぐにお分かりになることですが、天皇と長子は深い男女関係にありました。時々中宮が訪れる時以外は常に長子が添い伏して何から何まで共にしていたのですから」
「・・・」
「嘉承七年夏、堀川天皇は重い病に陥りますが、その際、長子は側に侍って不眠不休で帝を看病しました。化粧をする暇などもないので『顔も見苦しからん、と思へど・・・少しでもお目覚めになっておいでの折りにお食事を差し上げてみようと、顔に手をやって隠しながら、帝の枕元に置いてあるおかゆや蒜などを、もしかしたら、とお口にお含め申しあげたところ、すこしめしあがつて、ふたたびお休みになった』・・・とこのように記しています。そうしたある日、関白殿(忠実)がお見えになる知らせがあった時、長子はいつものように帝に添い伏していたのだけれど、関白殿が来られるのではどこかに隠れなければと思っていると、帝は長子を少しの間も側から放したくないので、彼女の姿を隠すように、お膝を高くして長子の身体を見えないようにしたので、長子は単衣を引き被って身を潜めていると、関白はあれこれとご報告して『御占いはこのように出ました・・・ご祈祷はこれこれ・・・ご修法は・・』などとお話になられる。帝はこれをお聞きになって『それまで命があるものだろうか』と仰せになるので、長子は帝の膝の陰で聞きながら悲しくて泣く、そんな有様が記されています」
「帝のご病床の有様がそのようであったとは、少しも存じませんでしたが・・・関白は病の床の帝の傍らに女房が添い寝していることを気付かなかったのでしょうか」
「いいえ、ちゃんと知っていたのです」
「・・・本当でございますか」
「それについて長子が後にはっきりと書き記しています。彼女は帝が身罷られると悲しみに打ちのめされて宮中から退出を決めるのですが、白河上皇に是非ともと望まれて、堀川天皇の御子の幼い鳥羽天皇にお仕えすることになりますがある日、鳥羽天皇にお食事を差し上げていると、摂政の殿(忠実)がおいでになって、障子の外で『帝の陪膳をなさっているのは誰かね』と女房に尋ねると、女房は『あのお方でございます』と答えたので、忠実は御簾の中に入って来て、長子の姿を見て、『このようなところで思いがけなくもお会いできるとは・・・堀川天皇がご不例であらせられた折りなどは、あなたはお側に添い伏してご看病なさっておられましたが、私がお目通りに上がりましたとき、天皇はお膝を高くなさってあなたを陰に隠しましたね。ほんとうにあなたは天皇の膝の陰に隠れてお出ででしたよ。その天皇がこの世におられない・・・いかにも世のはなかさが身に染みて苦しく思われます』と述べられたと記されています。こうしたものを読みますと忠実というお方がいかにも心の優しい人物であったと私はしみじみと胸にしみるのですよ」
定家がそのように話して聞かせると心寂坊もようやく得心したように肯いて、
「しかしそれにしても、忠実・頼長様と忠通様が敵味方に分かれ、崇徳院と後白河天皇が相争ってこれに源氏平家の軍勢が加勢して大乱に及ぶとは・・・何故これほど浅ましい事になってしまったのでしょうか」と心寂坊が尋ねると、
「三条院の時にもお話ししたことですが、全ては人間の根源的無知に由来していると申せましょう。
『五部陀羅尼問答』の《忽然として魔事起こり、中に於いて死人を降し、火を降らし、災沌を作す》という言葉は真実です。忠通は弟頼長を破って勝利者となりましたがこの世を地獄へ導く扉を開けてしまったのですから、取り返しのつかぬ過ちを犯してしまったのですよ」。
第76番目のものがたり 「牡丹の舟」
鎧姿の家司が忠通の前に平伏して戦の有様を報告している。
「左大臣頼長様は源義朝の軍勢に攻め立てられ、白河殿に火をかけられましたので崇徳院の軍勢はたちまち潰え去り、四位の少将が頼長殿と共に騎馬にて北白河に向けて落ち行こうとして東の門を出たところ、何れかが放った矢が頼長殿の頸の骨に立ちましたので、成隆が矢を抜き捨てましたが、血が走り出てあまりにもおびただしかったものですから、成隆は鐙を踏み外して頼長殿共々真っ逆さまに落馬いたしました。付き従うものはみなみな甲冑を脱ぎ捨てて近くの小家に頼長殿を担ぎ入れて、頸の傷を燻して傷口を塞ごうとしましたがそれも叶わず、よくよく傷口を見れば喉の下より左の耳の上に突き通っておりました。血はますますひどく流れて白青の狩衣も朱に染まり、それでも何とかして忠実公にお目に掛かるまではと使いを出したのですが、それも叶わず、左大臣は舌の先を食いちぎってはき出され、事切れられましたので、般若野の五三昧にお納めいたしました・・・」
忠通は弟の最後を聞いた後、なにもかも忘れようとして目を閉じた。
『この虚しさを如何にすればいいのだ・・・』
呆然としていると・・・闇の中に水の音がする。山の間から引き込んだ渓流が庭の中に流れ込んでくる。流れに牡丹の花びらが小舟のように浮かんでいる・・・美しい花びらに混じって、大きな石榴の実のようなものが浮つ沈みつ近づいてくる・・・首だ。生首が牡丹といっしょに浮きつ沈みつして漂ってくる。
首はこちらを恨めしげに見た。
「お前は・・・頼長」
「兄者・・・とうとう取り返しの付かぬ過ちを冒してしてしまいました。私は間もなく死にますが、最後に頼みがあるのです。聞いていただけますか」
「・・・頼みとは・・・」
「この、頸の矢を抜いて欲しいのです。このままでは牡丹の舟に乗りたくても乗れないのです」
頼長の首には長い矢が深々と突き刺さり、首から顎を貫いて右の頬からつき出でいる。
「・・・その矢は・・・成隆が引き抜いたのではなかったのか」
「成隆は忠義にも私を庇って馬に乗り、矢を射られて真っ逆様に落ちながら、私の代わりに死のうしてくれました。しかしこの矢は常の矢ではないらしいのです。抜いても抜いてもまた刺さって私を苦しめるのです。ですが、兄なれば、何事に於いても名人なのですから、矢を抜くことなど造作ない事でしょう・・・どうか早く抜いてください。私はこれから地獄に堕ちましょうが、戦の罪はこの身一人に受けて、兄上と父上には阿弥陀如来の元に行けますよう、閻魔大王によくよくお頼みいたします」
忠通はあれほどに才知にあふれ、天下を闊歩していた弟が、一本の矢に苦しんで死ぬにも死ねないでいるのを見かねて、頼長の顔に手を掛け、矢をつかむと思うざま引き抜いた。頼長はアッと叫んだが、気がつくと矢は抜けて、頼長の頸は牡丹の舟に乗って遠ざかろうとしている。頸ばかりの頼長は忠通に微笑しながら、「このようになっては思い残すこともありませんが、ただひとつだけこの世にやり残したことがあるのは、生涯にただの一首も和歌を詠まなかったことです。せめてこの世の別れの和歌を詠みたいと思うのですが、何としても詠めません。私の替わりに一首詠んでいただけませんか・・・争いがなかった昔に詠んだ和歌でも結構です。どうか、私を憐れと思うなら、あなたの弟の最後の願いを叶えて下さい」
月が出ている。頼長を乗せた舟が海の彼方に消えて行こうとしている。目を閉じると、白い波だ。白い波が全てを呑み込んでゆく。豪華な御殿も、壮麗な寺院も、逃げ惑う人間共の声も・・・もう何も見えない。ただ白く空しい大海原が続くばかりだ。
わたの原漕ぎ出でてみれば久方の
雲ゐにまがふ沖つ白波