百人一首ものがたり 75番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 75番目のものがたり「問答」

契(ちぎ)りおきし させもが露(つゆ)を 命にて
あはれ今年の 秋も去(い)ぬめり

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「藤原基俊殿についてどう思われますか」と定家が尋ねるので、
「七十四番目が源俊頼様でございましたが、当時俊頼様と肩を並べる歌人は基俊様と決まっておりますし、なにより基俊様は中納言様のお父上俊成様の歌の師でもありましたから、あるいは次は基俊様ではないかとは思っておりました」
「しかしその口ぶりはあまり賛成はしていないというような風に聞こえますが」
「・・・決してそうではござりませんが・・・ただ、このお方は他人の和歌をことごとくあげつらい、その口が災いして、道長公の曾孫という血筋にも拘わらず世の人から疎まれ、位も従五位左右衛門佐止まりと聞き及んでおります。その他にもさまざまに悪評もあるようでございますので・・・」
「どのような悪評が心に残っておいでですか」
「琳賢という僧侶に騙された話などは滑稽かと存じますが」
「なるほど、その話はとても有名ですが、私は琳賢という者こそつまらぬ落とし穴を仕掛けて、まんまと罠にはまった基俊殿を嘲弄するなど、笑うべき僧侶と思っております」
 これを聞いて心寂房は意外だという顔で定家を見つめた。

 琳賢が仕掛けたという罠の話は次のような次第である。この僧侶は歌人として基俊が高名を馳せているのに嫉妬心を抱き何とかその鼻をへし折ってやろうと考えて、後撰集から二十首を引き出して他の歌と混ぜて、『これらの歌の判を為してはいただけませんか』と頭をさも低くして頼んだので、基俊はそれらの歌を思うがままにあれこれと批評した。琳賢は為て遣ったりとほくそ笑んで、世の人に『基俊は梨壺の五人が選んだ歌とも知らずに糞味噌に貶しおりましたぞ。基俊は自分が上古の人々にも優る歌仙であると驕り高ぶっておられるのでありましょうな』などと触れて回ったので、基俊殿の評判は地に落ちたというものである。

「琳賢のような者の行為は害こそあれ、微塵も歌の道に益するものはありません」と定家は厳しい声で言った。「人は神仏ではありません。ですから古今の和歌を全て覚えていることなど出来ようはずはないのです。そもそも和歌は物語などとは違い三十一文字というわずかな文字の中に雪月花などの言葉が繰り返し用いますから極めて似た気色の歌は数知れずありましょう。それらを全て覚える事が歌道であるとしたなら、歌を志す者はまず歌の心を学ぶ前に学者でなければなりません。では学者でありながら歌心に優れている者は暁天の星のごとくわずかしかおりません。故に、心より先に知識や記憶を求めるのは愚者の為すことなのです。もしも月をみあげて心のままに歌を詠んで、これこそが名歌だと己が思い、その歌によって己の心が尽きぬ余情に浸ることができたとすれば、その歌がたまたま百年前に誰かが歌っていたとしてもそんなことは問題ではありません」
「・・・」
「それにまた、勅撰集の歌であるからその歌が名歌であるなどと考えるのは誤りなのです。古今集にも後撰集にも取り立てて優れているとは思えぬ歌も数多く混じっているのですから、当然批判されてしかるべきです。紀貫之の歌でさえさしたるものでない作品もあるのですから、推して知るべしでしょう」
「・・・では、中納言様は、勅撰集にもつまらぬ歌がたくさん混じっていると、そのようにお考えなのですか」
「もちろんですとも。後撰集の歌を基俊殿が批判したからといってこれを間違いであるとする方が誤りなのです」
「・・・」
「そのお顔は納得行かぬという風情でございますから、具体的なお話でご説明いたしましょう。新古今和歌集はご承知の通り、建仁元年(1201)に後鳥羽上皇の院宣によって源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の六人の他、数名の者が加わり、また、上皇自身も時には撰に加わって作った勅撰集です。これには大変な労力が注がれ、元久二年(1205)に完成しましたが、それから後もさまざまな改訂が為され十年余りも切継ぎ続きました。歌数は千九百七十九首。この中には多くの歌人がおりますが最も多く選ばれたのは、西行の九十四首です。歌集全体の二十首に一首が西行の歌なのですから、西行こそは当代一の歌人と申しても過言ではありますまい。そこでお尋ねいたしますが、心寂房殿はこれら九十四首の全てが名歌だと思われますか」
「・・・それはもう、ただ、そうとしか思えませぬが・・・」
「では・・・
岩間閉じし氷も今朝は解け初めて
苔の下水みちもとむらむ 
 これはいかがですか」
「申すまでもなく、良い歌と心得ておりますが」
「では当時撰に当たった者として打ち明けましょう。実はこの歌を強く推したのは六条有家、ただ一人です」
「・・・では、中納言様は」
「もちろん推しませんでした」
「・・・」
「吉野山さくらが枝に雪散りて花おそげなるとしにもあるかな この歌はいかがでしょうか」
「それも確かにすばらしい歌と存じますが」
「残念ながら優れていると評価したのは、私、ただ一人。家隆・飛鳥井雅経・寂蓮他の方々は選ばなかったのです」
「・・・」
「しげき野を行く人むらに分けなして
さらに昔を偲び返さむ
 この歌の気色は、昔暮らしていたところを訪ねて見ると、茫々と草が繁く生えている。昔、あの頃は、その草むらのあたりに、あの人の家があり、その向こうの草むらには鶏小屋などがあった・・・そしてその向こうの草の茂みあたりには大人数の家族が暮らしていた・・・だが、今来てみると、人影もなく、ひっそりと草むらだけが茂っている・・・西行はこの景色を一人眺め、心に深くしみて歌を詠んだのでしょう。しかしこの歌を推したのは、私と家隆の二人だけだったのです」
「・・・」
「ですから、全員がこれこそは、と思うような歌は滅多にあるものではありません。後鳥羽院は私たちが選んだ歌には満足できず、隠岐の島に流されて後も切り継ぎを絶やさず、独自の歌集を編んだのですから、私が選んだ歌の多くは院には気に入らないものに見えていたかも知れません。こうしたわけですから、勅撰集だからといって金科玉条のようにあがめ奉るのは間違いなのです。どれほど有名な歌でも批判してはならぬなどと考えるほうが可笑しいのですよ」
「・・・」
「それに、心寂房殿も申されたように、基俊という方は私の父俊成の歌の師でしたから、多少ひいき目に見てしまうのかも知れませんが、基俊殿には僧侶になった光覚という息子が居り、常にこの息子の事を気に掛けていたのです。その心配する有様が、私を生涯気に掛けてくれていた父の姿と重なりましてね、その親バカぶりに心打たれるのですよ」
「・・・基俊様の息子の光覚というお方はどこの寺においでだったのでしょうか」
「興福寺の僧でした。学問好きの優秀な僧侶だったので、基俊殿もとても期待しておられたようです。本来僧侶が出世を願うというのはおかしなことなのですが、僧侶の世界には俗世よりも厳しい位階が定められておりますから、いくら優秀でも、定められた位階に上れなければしかるべき場で読経する事もできません。基俊殿は息子が早く朝廷からも認められるような高位の僧侶になってほしいと願っておりましたが、まず期待していたのは、講師になることでした」
「講師・・・」
「興福寺の僧にとって十月十日から十六日までの間維摩経を講じる式会の講師を務めることは比類無き名誉なのです。というのも、昔、大織冠鎌足公が病に罹られた時、滅亡した百済国を逃れて日本に住み着いていた法明という尼僧が『維摩経問疾品を読誦すれば病は平癒するでありましょう』と申されたので、その通り維摩経を読誦すると鎌足公の病が速やかに平癒したので、鎌足公の息子の淡海公は和銅七年に日本最初の維摩会を執り行いました。それ以後、興福寺で開催される維摩会の講師を勤めた僧は直ちに宮中の最勝会の講師を勤める事が定めとなりましたが、宮中に於ける最勝会は金光明最勝王経を講説し、国家の安穏を祈る大切な法会ですから、この法会の講師となることは僧侶にとって最高の栄誉です。こうした次第で、基俊殿は息子の光覚が興福寺の維摩会の講師となって欲しいと何よりも強く願っていたのですよ」
「・・・」
「しかしいくら基俊殿が期待しても少しも思うようにならない。そこで基俊殿は時の関白太政大臣の忠通に頼み込んだのですが、毎年落選してしまうのです。基経殿は落胆して、忠通公に面談し、『関白様は何故これほどに冷たく扱われるのでしょうか』と尋ねると忠通公はひとこと『しめぢが原』と答えたそうです。これは忠通公の『猶たのめしめぢが原のさしも草われ世の中にあらんかぎりは』という歌のことで、その意味は『私がこの世にある限りは念願も叶うであろうから、どこまでも頼りにせよ』という意味が籠められているのです。基俊殿は今度こそ講師に任じられることは間違いないと大喜びしました。ところが喜びも束の間、光覚はまたまた落選してしまいましたので、基俊殿あの有名な、契りおきしさせもが露を命にて、の歌を詠んだのです」
「約束しておきながら何故関白様は落選させたのでしょう」
「維摩会は国家の行事ですから優れた僧侶であったら講師として選ばれるべきでしたでしょうが、当時は公卿や皇族の血縁の者も多く僧侶となっておりましたから、よほど抜きん出ていても講師になるのは困難だったのです。しかし基俊殿はそうしたことを知りながら、尚、どこまでも人の親としての願いを貫き通したかったので、無理と承知していても諦めきれなかったのでしょうね」そう言って、定家は草稿を読み始めたのだった。

第75番目のものがたり 「問答」 )

 目の前に目の細い大きな頭の僧侶が立っている。あたりには長刀を手に手にひっさげ、頭と顔を袈裟で包んだ裹頭姿(かとうすがた)の僧兵たちが立ち並んでいる。沢山のかがり火が夜の空を焦がして燃えている。ここはいったいどこなのか、この僧侶たちはいったい何をするつもりなのか。基俊がおびえて見ていると、僧兵が一人の若い僧侶を縛り上げて引き立てて行くのが見えた。

「何と、あれは、私の子、光覚ではないか・・・いったい何の罪であのように縛られているのか」基俊は動顛して走り寄ろうとすると、幾人もの僧兵が現れて基俊の行く手を塞いだ。

「どうか通して下され・・・あれ、あそこに縛られて行くのは私の息子・光覚です。光覚が何か罪を犯したのですか?」

「光覚の・・・では、お前は基俊か」

「いかにも私は御堂関白道長公の末孫にして従五位上左衛門佐藤原基俊でございます」

「つまらぬ事をいちいち申すな。この寺には桓武天皇の末裔も、鎌足公の末の末もいくらも居るわい」

「しかし、光覚は何の罪を」

「見ていれば自ずと分かる」

 僧兵は他の僧兵と共に長刀を地面に突き立てて高い垣根のように基俊の行く手を遮ったので、基俊は長刀の間から息子の様子を見ているより他に方がなかった。

 光覚は数百人の僧侶たちが集まっている堂宇の前に引き立てられ、茣蓙の上に座らせられた。壇上の緋衣の僧侶が縄目を解くように命じて、

「さて、光覚、これからそなたの詮議を行う。よくよく考えて答えるように」と申し渡すと、光覚は両手をついて、

「・・・法眼様、いったい私は何故に詮議を受けるのでござりましょうか。私は日々の勤めを怠らず、戒律を守り、修行三昧の日々を過ごしております。何故にお裁きを受けなければならないのでござりましょうか」と必死の眼差しで尋ねたので緋衣の僧侶は、

「そなたの父、基俊と申す者はそなたを維摩会の講師と為さんがためにさまざまに画策を為し、あろうことか関白忠通に取り入ってそなたを講師に任じるよう執拗に懇願した。そのため多くの僧侶たちに不満が生じ、寺の内外は疑心暗鬼に包まれ、法橋上人も困惑しておられる。それ故、今夜は満座の中でそなたを試し、果たしてこの後もそなたをこの寺に置くべきか否か、それを裁かねばならぬ」

「では、私は破門されるかも知れぬのですか」

「そなたの答え次第ではそうなるやも知れぬ・・・しかし無用の時を過ごす事は許されぬ。すぐさま詮議する故に、まずは第一の者、前に出て光覚に問いを為しなさい」

 壇上の緋衣の僧侶がこう申し述べると、黒衣の僧が前に出て、夜空に響く声で次のように問い掛けた。

「心に邪心あり、慳貪にして物を惜しむこと、己の眼を惜しむに等しく、生涯菩薩行を為さなかった者が、阿羅漢果を得ることか可能成りや否や」(心が邪で、無類にケチで自分の財産を惜しむことは己の目を守るにも等しく用心深い者で、しかも一生涯布施などの善行を為さなかった者が、突然煩悩を断ち切って、涅槃の境地し、阿羅漢となることは可能であるか否か)

 黒衣の僧のこのような問いを長刀の垣根の外から聞いていた基俊は震え上がった。生涯邪心のみを抱き続けて善きことを為さなかった者が悟りの境地に達することなどできるわけがない。しかし、あのように問うからには、ただ単に『否』と答える事が正当な答えとされるのではあるまい。がしかし、『阿羅漢となれる』という答えが正しいはずがない。否とも可とも答えられぬ難問を衆目の面前で突き尽きるとはあまりではないか・・・基俊は胸が張り裂けそうになり、茣蓙に引き据えられている息子を絶望的な眼差しで見つめた。しかし光覚は少しも怖じる気配を見せず、壇上の僧侶を見上げて次のように述べたのだった。

「ご質問の邪険にして慳貪なる者が阿羅漢果を得た例は、アーガマ(阿含経)に記されております。天竺の長者にバダイなる者あり、その者に一人娘ありて、慳貪女と申したそうにござります。その者は名の通りケチで物を何一つ他人に渡さず、財宝を惜しむことは眼を守ると同様であったのでございます。この女は常に金銀の帳の中に座して、煎餅を自ら焼いて食べるのを常としておりました。ある時、釈迦の弟子の一人、賓頭盧(びんずる)尊者がこれを見て、女の部屋に入り込んで、『あなた様のその煎餅をお恵み下さい』と鉢を捧げて頼みますと、女は『お前がたとえ生涯そこに立ちつくして飢え死にしようとも、決して恵んでなどやるものか』と申しましたので、賓頭盧尊者はたちまち死んでしまわれました。と、我慢にならぬ悪臭があたりに立ち籠めて大騒ぎになって、死体を外に出そうとしましたが、何十人の男が取りかかってもビクリともしない。悪臭はますます激しくなって耐え難くなったので、女は『尊者様、もしも生き返って下さいましたら、私の煎餅を惜しまず差し上げます』とこう誓った。これを聞いて尊者はたちまち生き返ったので、女は、そんなに簡単に生き返るのだったら煎餅をやるのは惜しい、と思ったけれど、もしもやらなかったらまた死んで悪臭を放つであろうと思ったのでしぶしぶ煎餅を鉢の中に二枚入れてやった。ところが、よくよく見ると、鉢の中に五枚もの煎餅がある。女は驚いて鉢を取り返そうとして無理矢理引っ張ると、鉢が女の鼻にぶつかってくっついて何としても剥がれない。顔は灸を据えたように醜くなり、息をつくのも苦しい有様になった。そこで女は『どうか尊者さま、お助け下さい。この後は何事もお約束をお守り申しあげます』、と誓いますと尊者は『そなたが全財産を仏に捧げるなら、仏の御許につれていってやろう』と申されましたので、女は財宝を車五百両に積み、残る財宝を千人の男たちに背負わせて仏の御許に参りましたところ、仏は女のために法をお説きになりましたので、女は慳貪の心から解き放たれ、阿羅漢果を得たと、このように記されております」

 光覚がこのように答えると、その場に集った数百の僧侶たちがどっと感歎の声を挙げたので、その嘆声が風となってかがり火をパチパチと揺らめかせたほどだった。

 黒衣の僧侶は大衆たちを静めると次のように問い掛けた。

「世に人を惑わす物が多い中に、裸体の女人ほど害を為すものはない。果たしてこれまでに裸女が地獄に堕ちず、救われた例はあったのか否か。汝速やかに答えるべし」こう尋ねたので、遠くから聞いていた基経は、裸体の女の話を問答に出すなどという不作法が許されて良いものか、と聞き耳を立てていると、光覚は、

「雑譬喩経に次のような話が書いてあります。昔天竺の王が狩りにて出て道に迷い疲労困憊していると、大木の根元に黄金の床を敷いて寝そべっている裸体の女が居りました。王はこれを見て

『そなたは何故にそのような姿をしているのじゃ』と問うと

『私はあなたの求める甘露の水をこの手から湧き出させることができます』と申して手の平から甘露の水を出して王にのませたので、王は楽しむこと言葉に尽くせなかったが、女がまだ裸でいるのが可哀想になり、自らの衣を脱いで与えた。ところが女が衣をまとった途端、火となって燃えてしまった。二枚目も三枚目も同じように燃えてしまったので、これはどうしたわけかと問うと

『私はある国の妃でしたが、夫の王が沙門にさまざまな供養をして、衣まであげてしまうのを見て、私は面白く思わなかったのでこれを止めましたところ、その後、衣を着るとみな火となって燃えてしまい、どのような時にも裸で居なくてはならなくなったのでございます』とさめざめと泣いた。そこで王が

『どのようにしたらそなたを救うことが出来るであろうか』と尋ねると

『王様が沙門を供養して下されば救われましょう』と申しましたので、王は急ぎ帰って、優婆塞たちを供養して、衣を与えましたところ、女はその後衣を着ることが出来るようになったと伝えられております」

 光覚がこのように答えると、その場に集った僧侶たちは口を極めて光覚を賛嘆した。壇上の緋衣の僧侶は光覚を呼び寄せ、

『そなたこそ、維摩経の講師となるに相応しいお方である』と申し渡した。

 この言葉を遠くで聞いていた基俊はじっとしていられなくなり、息子の方に無我夢中で走り出した。これほどに息子が偉大な僧になっていたかと思うと、涙であたりが見えないほどうれしかった。基俊は僧侶たちをかきわけ近寄ろうとした。ところが僧たちは壁のように高く、岩のように頑丈で少しも進めない。基俊が焦って僧侶たちを押し退けると、僧たちは大木が倒れるように一斉に倒れ、基俊にのし掛かったので、基俊は下敷きになって気を失ってしまった。

 気づくと、部屋の中には誰も見えず、月影が萩の葉にうっすらと落ちていた。家司が文を持って入ってきた。興福寺の光覚からである。震える手で開いてみると、そこには、『関白忠通様のご推薦を受けたにもかかわらず、講師の撰には今年も漏れてしまいました』と記されていた。  基俊は文を持って縁先に出た。虫が弱々しく鳴いている。基俊は秋の夜空を仰いで、詠った。