百人一首ものがたり 74番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 74番目のものがたり「長櫃」

うかりける 人を初瀬(はつせ)の 山おろしよ
はげしかれとは 祈らぬものを

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「医は仁術と申す者がおりますが、心寂坊殿は仁と術と、どちらが大切であると思われますか」と定家が妙な事を訊くので、
「仁は人を治したいという心であり、術は患者を治すために必要な知識と技術でございますから、どちらが大切と申すことはできぬと存じます」と答えると、
「それはもっともな答えと存じますが、本音はどうでしょう・・・いくら治したいという心があっても術が伴わなければ治りますまい。逆に慈悲の心がなくても術さえあれば病は治るのではありませんか」
「無論そうした考え方は否定できません。しかし仁の心の薄い医師はやがて患者の信頼を失いましょう。反対に、初めの頃は術が伴わなくても、ひたすら治したいと思い続ければ必ず名医になると信じております」
「術がなくても、仁だけで治るとは思えませんが」
「昔の本には仁の心だけで治った例が記されております」
「それはどのような書物に見えますか」
「『日本霊異記』にその例が見られます」
「はて、私もその書物は読みましたが記憶にありません」
「私は医師なのでたまたま覚えているのでございましょう。この書物に巨勢部あぎめ呰女という女の話が出てまいります。天平宝字の幾年でしたか、女は重い病にかかり、頸の回りに大きな腫れ物が出来て瓜の如くに大きくなって耐え難く痛いので『これは私ひとりの悪行がたたったのではなく、祖先からの宿業の故であろう。ひたすら善を為して心を改めれば救われるのではなかろうか』と考え、髪を下ろし、袈裟を着て、大谷堂というところに住み、十五年の間般若心経を唱え続けました。そこへ行者の忠仙というものが来て、その姿を見て憐れんで、『この女の病を癒さんがために、薬師経と金剛般若経とをおのおの三千巻、観世音経一万巻、観音三昧経一百巻とを読み奉らむ』と申して、十四年間、読経を続け、また更に千手陀羅尼をも間断なく読経し続けました。こうして二十八年の年月が経った延暦六年丁卯(ひのとうしのとし)の冬霜月の二十七日、辰の時に、突然、頸の回りの癰疽が口を開いて血膿が流れ出し、すっかり回復したので、みなみなひたすら驚きました。これこそが医術を知らなくても、心だけで治した良き例であろうと存じます」
 これを聞いて定家は「仁とはいかにも困難なものであると今更ながら思い知らされました、というのも、見ず知らずの女のために二十八年念じ続けるなど到底できることではありません。おそらくその行者は人ではなく、菩薩であったのであろうと思います」
「菩薩、でございますか」
「でなくてどうしてそのような善行ができましょうや。『仁が先か術が先か』などとお尋ねいたしたのは愚かなことでした。しかし実は和歌にも似たような話があるのです」
「それはどのような・・・」
「和歌を作るには心が先か、術が先かという論議ですよ。ご承知のように、歌合の場に於いては多くの題が出されます。従ってさしたる恋をしたこともない者でも忍ぶ恋の歌を詠んだり、陸奥に行ったこともないのに、旅の歌を作らねばなりません。そのため歌を作るには歌心が先か、歌を詠む術が先かということが論じられる事がしばしば話題になるのです。しかしこうした論議に決着をつけた者が現れました。源俊頼という人物ですよ」
「俊頼殿・・・」
「恋する女に月を見せるため、槻の木を切り倒した大納言経信の息子ですよ。彼は『俊頼脳髄』という歌論書を著したのですか、ここには歌の始めから詠み方、悪い歌、良い歌、あらゆる分野に亘って歌を論じています。歌人は必ず読まねばならぬ大切な書物ですがそこに、歌は術よりも心が先であるとはっきりと書いてあります。心に情けある人は歌がますますうまくなり、心に情けがない人は少しもうまくならないと断言しているのです。心に仁が宿っていなければ名医とは申せませぬように、歌というものも、心こそが何よりも大切であると述べているのです」

第74番目のものがたり 「長櫃」 )

 俊頼は生まれながらの俊英である上、父経信が幼い頃からさまざまに教育したので和歌・漢詩・笙篳篥・枇杷など全てに抜きん出ていたし、容姿もすこぶる端麗であったので宮廷の女房たちの憧れを一身に集めていたが、俊頼は未だに生涯を共に出来る女に出会っていない思いがして鬱々と日々を送っていた。ある日俊頼が秋の気配の漂う嵯峨野を随身一人だけを伴って野駆けしていると林の奥に風雅な邸が立っているのに気付いた。近寄ると門は固く閉じられ、塀は高く中の様子をうかがい知ることはできないが東の壁の下に小川が邸内へ流れ込んでいる。俊頼は近くの柿の葉の赤く染まったのを採って、

 人知れず思へばうける言の葉の と初句だけを書いて小川に流すと、柿の葉は流れに乗って邸内に入って行った。そこでもしやあの川は邸の反対側から流れ出てくるのではないかと思い、反対側に回ってみると、果たして塀の下から小川が流れてくる。そこで、もしや中に誰か歌心のある女が居て、あの葉を見つけてくれれば返歌を寄越してくれるだろうと思い、木陰に身を隠して待つことにした。俊頼の随身はいささか退屈して、

「このような事をしても邸内には庭があるでしょうし、心ある者が拾って返歌を寄越すとはとても考えられませんが」などと言うので、俊頼は「良い話を聞かせてやろう」とこんな話をした。

『昔もろこし国に呉松孝という男がいた。ある日宮殿のあたりを歩いていると、赤く染まった柿の葉が流れてきた。拾い上げると、女手で美しい詩が書いてある。松孝はこの詩に感激して、流れの上手に回って先の詩に和して柿の葉に思いの丈を書き綴った詩を書いて、葉を小舟にして流してやると、小舟は宮殿に流れ込んだ。しかしいくら待っても中からは何の返事もなかったので、松孝はすごすごと家に帰った。すると松孝の父親が、

「この度、宮廷勤めの女たちが臣下の妻となってもよい、ということになったので、お前も嫁を貰えることになったぞ」という。当時唐の国の後宮には美女が何千人と囲われていたが、年毎にその数が数百人ずつ増えるので、都からは美女の姿が消え、若者たちは結婚することも出来ないので嘆くばかりだった。するとそうした声が皇帝の耳に達し、気の毒に思った帝は年々数百人の女を実家に返すことにした。それで呉家もその中の一人をもらい受けることが出来る事になったのである。しかし松孝は父親から話しを聞いても、柿の葉を受け取った女こそ妻になる者と決めていたので少しも心が弾まなかったし、嫁が家に来てからも床を共にする気にはなれなかったのである。そうしたある日、松孝が懐から柿の葉を取り出して密かに見ていると、嫁がこれを盗み見て、

『それはどういう謂われのある葉でございますか』と訊くのでやむなくこれこれと訳を話すと、女が突然泣き出したので松孝が『どうしたのだ』と訊ねると、『その柿の葉に詩を書いたのは私でございます』という。女が懐から取り出して見せた柿の葉には松孝が返事にかきつけた漢詩が記されていた。二人は互いの柿の葉を見つめて『こうしていっしょになれたのは神のご配慮だったのだ』と互いに抱き合って泣いたと言うことなのだよ」

 これを聞くと「不思議な話でございますが・・・大陸と我が国では風習も異なりますし、この屋敷は宮廷とは違いますから女が住んでいるとは限りません」と随身の侍が言うので、「そうかもしれぬ。あるいは誰かの手に取られる前に沈んでしまったかも知れぬしな」そう言って俊頼が立ち去ろうとした時だった。赤く染まった柿の葉が流れにくるくると回りながら近づいてきた。拾い上げて見ると、

 ついにあふせのたのもしきかな と下句が記されている。さきほど俊頼が書いて流した初句と合わせると、

 人知れず思へばうける言の葉のついにあふせのたのもしきかな

(唐の国の松孝が拾い上げた誰の者とも知らぬ柿の葉が後の逢瀬につながったように、この言の葉も逢瀬に導いてくれるものと恃みににしている事ですよ)

 実はこの歌は紫式部の兄弟の藤原惟規が作った和歌だった。惟規は大陸の故事に通じていたのでこの和歌を詠んだのである。俊頼はそれを知っていたので、丁度良い和歌だと思って上の句を流してみたのだけれど、それを見事に下の句を付けてくるとは、この邸内にいるお方はどのような女房なのだろうと、大いに感歎していると、不意に門が開いて、俊頼を迎え入れてくれたのだった。

 その日から俊頼は陸に居ながら浦島太郎の気分を味わっているように夢うつつの時を過ごした。そうしてどれほどか経ったある日、随身が呼びに来て申すには、

「白河上皇の熊野参詣に従うようにとの仰せでございます」

 上皇の仰せでは如何ともし難い、俊頼は泣く泣く女と一時の別れを惜しんで熊野へ向かった。そして四十日余りして都に戻ると、女の許を訪れる間もなく、上皇の弟輔仁親王の供をして初瀬観音参詣のお伴の旅に出た。予定では十日ほどでお戻りになるはずだったが親王は初瀬のあたりが気に入られ、夏の終わりまで仮宮で過ごし、都に戻った頃には秋の気配が漂いはじめていた。俊頼は親王を内裏にお見送りするとひたすら女の屋敷に急いだ。

 門が固く閉じられている。拳を固めて叩くと家人が出てきて、

「お出かけでござります」

「どこへ行かれたのですか」

「どこへとも申されませんでしたので分かりかねます」

「主人が出かけたものを、家人が知らぬということはありますまい。帰るまで待たせていただけまいか」

「日を改めてお出で下さいませ」

「いいや、私はいつまでも待っているつもりです」

 俊頼は家人が押しとどめるもかまわずに入り込んでみると人の気配がない。『数ヶ月留守にしていた間に気変わりがして誰かと逢瀬を重ねるようになったのであろうか。それとも寺参りにでも出かけたのか・・・しかし寺参りなら、家人はそう申すであろう。あのように口に何かが挟まったような言い方をするということからして怪しいとしか思えぬ。あと数日で戻ると文を送っておいたものを・・・もしや別れるつもりだろうか』

 俊頼は留守にしたこと悔やみながら万葉集の歌を口ずさんだ。 うたたねに恋しき人を夢に見て起きてさぐるになきぞわびしき

(うたた寝をしていたら夢の中に恋しい人が出てきたものだから、思わず抱こうとして手を伸ばしたら、その人はいない。ああ夢だったのかと思い知らされる時のわびしさばかりは耐えられないものだなあ)

 この歌を初めて目にしたとき、なんてばかばかしいことを歌っているのだろうかと笑ったものだが、今はまったくこの通りだとしみじみと思う。あれほど確かであった事が、夢よりも頼りないものであったとは。俊頼がため息をついていると、どこからか老女が現れて文を手渡した。

 思ひ草はずゑにむすぶ白露のたまたまきては手にもかからず

(恋しい人を思い続けるという思い草は、その葉末に涙のような白露を結びますけれど、私もあなた様を思い続けていると涙がひとりでにこぼれるのです。でもあなた様はなかなかおいでになられない。たまたま見えられても、私の涙があなた様の手にかかる間もなくお帰りになってしまわれる。ですから私は、もう私の胸の中には思い草を植えまいと思い定めているのです)

 俊頼はひと目見て驚いて、

「この和歌は私が俊忠卿家に招かれた歌合の折に詠んだのです。・・・誰がこれを届けなさいと頼んだのですか」と聞いた。老女は何も答えず、逃げるように行ってしまった。これを見て俊頼は、『あの方はこの邸のどこぞに隠れているに違いない』と思って、几帳の奥に向かって、

「あなたは熊野参詣から戻ってそのまま初瀬に行った私を恨んでおられるのかも知れませんか、私は片時もあなたを忘れた時はありません。あなたとお会いすると歌が流れる水のように思い浮かぶというのに、上皇様や親王様に従う時はただ辛いばかりで歌などひとつも思い浮かべられないのです。だから私は都に戻ればあなたとお会いできると、ただそればかりを楽しみに忍んでおりましたものを、ようやくここに戻ってみると、お姿が見えません。私はどうすればよいのでしょうか」

 話し終えて耳を澄ましてみたが何も聞こえない。俊頼は落胆して、床のあたりを歩きながら、

 枕よりあとより恋の攻め来れば床中にこそおきゐられけれ

(寝床の中であなたを想っていると、二人の睦言を聞いていた枕のほうからも、足の方からも激しい恋の思いが攻め立ててくるので、どうしたらよいのかわからなくなって、寝床の真ん中に起きて上がって苦しみに耐えていたものですよ)(古今集)

 床に座ってぼんやりしていると御簾の陰から十歳ほどの女の子がこちらを覗いた。髪の毛を肩まで伸ばし、袖に土鈴をつけている。

「どこから来たのだね」と訊くと、女の子は大きな目を開いて黙っている。俊頼は袂から筆と紙を取り出して歌を書き付けた。

 錦木は立てながらこそ朽ちにけれけふのほそぬの胸あはじとや

(陸奥の風習に男が女に恋をして、どうしても逢いたいと思ったときに、薪を細く切って色を染め、恋しい女の家の戸口に立てるという。もし女が男に逢おうと決心したときには、錦木を戸の中に引き入れるから、それが合図となって男は女の家に入ることができる。しかし女が男の心を測りかねているときには、錦木を取り込まないので、男は毎日錦木を立てなければならない。こうして錦木が千束になるまで男は通い詰めるのだが、それでも思いが通じなければ、錦木は空しく朽ちてしまう。能因法師は白河の関を越えて陸奥の国を歩いたとき、このような男女の交わりの有様を見て感じ入り、書き留めてくれたので今に伝えてられているのだが、私は陸奥の国の男ではないので錦木を立てるというようなことは実際にはできないけれど、心の中で思う人に寄せる気持ちは陸奥の男たちにはけっして負けるものではない。それなのに、あなたは私に逢おうとしてくれない。それはちょうど細い毛で作った布が小さくて胸の前では合せるせることができないように、あなたと私はもう二度と逢う事はできないのでしょうか)

「この歌をあの方に届けてくれないか」俊頼が手渡すと女の子はは紙燭が消え消えに灯っている廊下を走って行ったが、しばらくして返事を持って戻ってきた。

 陸奥のけふのほそぬのほとせばみ胸あひがたき恋もするかな

(陸奥で鳥の羽を材料にして織った布は、鳥の羽がなかなか集められないので織り幅も狭く長さも足りません。ですから織った布は背中だけしか覆えず胸まで合わせることはできないのです。ちょうどそのように、あなた様と私とは、合うことがとても出来そうにもないような恋をしてしまったことです)

 これはなんとしたことだ。この屋敷のどこかに居りながら私の気持ちをなぜ分かってくれないのだろう。俊頼は心乱れて、床を乱暴に踏みならして探し回って大声で叫んだ。

 芹つみしむかしの人も我ごとや心に物はかなはざりけむ

(昔、ある男が人を恋いこがれる余り死んでしまったことがあった。この男は内裏の庭を掃除をする役目であったが、不意に風が吹いてきて、御所の御簾を吹き上げた。するとその中にこの世の方とは思えぬほど美しい女人がお食事をなさっていた。この女人は芹を召し上がっておられた。男は芹をくわえた女人の唇にうっとりとなって、心が空っぽになってしまった。それからというもの、男は毎日野に出て芹を摘んでは内裏の御簾の下に芹を置いて、今一度あのお姿を拝見したいものと願っていたが、その願いは叶えられず、男は絶望して死んでしまった。男が焦れ死にした女人は嵯峨天皇のお后嘉智子様であられたということだが、私もまた、哀れな男のように、思いを遂げることもなく空しくなってしまうのだろうか)

  俊頼が月明かりの中で行きつ戻りつしていると、さきほどの女童が戻ってきて文を差し出した。

 ことしげししばしはたてれ宵のまに

         おけらむ露はいでてはらはむ

「これは・・・嵯峨天皇の后嘉智子様が恋人に渡した歌ではないか・・・嘉智子様は密かに思う人があり、その方が夜露にぬれながらひと目を忍んで待ちこがれているのを思って詠んだという。『どうかもうしばらくは我慢してお待ち下さい。人の目が多くて、今はとてもお会いすることはできないのです。でも、私はあなた様が私を思って露に濡れながら立っておいでになられることをよくよく分かっているのです。あなたさまの濡れたお身体は私がぬぐってあたためてあげますから、どうかもうしばらく我慢してくださいね』・・・嘉智子様の歌をこの私に届けて寄越しという事は、あの方は私を待っているということだ。

 俊頼は渡殿を伝って奥の部屋へ入って行った。

 美しくしつらえた部屋に立派な長櫃が見えた。俊頼は『この中に隠れているのだな』と思った。というのも嘉智子様は恋人に逢うとき、長櫃に隠れ、官人に担がせて宮殿を忍び出たと伝えられている・・・あの方はこの中に隠れているに相違ない。俊頼は急にうれしくなって、子供の頃に戻ったように長櫃の蓋を人差し指でこつこつと叩いた。と少しためらうように、中からもこつこつと叩く音が聞こえた。

「ああやはりここにお出ででしたね。陸奥の国の男女が錦木を立てるように、あなたは、さあ、お逢いしましょうと言って下さるのですね」俊頼はそう言って「どうかこの長櫃の蓋を開けてください」と囁くと女は中から、

「あなたが私を置いてきぼりにして長谷観音にお参りに行ってしまわれたので、悲しくて、昔のように美しい日々はもう来ないのだわと思い返して、毎日涙しておりました。ですから、あなたが初瀬観音をお参りして何をお祈りになられたのかをお教え下さらなければ決して開けることはできません」女がそう言ったので、俊頼は「あなたのお心が分かった今となってはもう過ぎたことになりましたが、実はあなたに成り代わって詠ってみたのです」と述べて歌ったのだった。  うかりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを