百人一首ものがたり 一番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 73番目のものがたり「風月の本主」

高砂の 尾(を)の上(へ)の桜 咲きにけり
外山(とやま)の霞(かすみ) たたずもあらなむ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「心寂坊殿は多くの医学の知識を得、病んだ人々を治しておられますが、もしもある日突然、神があなたに『お前の智恵は私が仮に貸し与えたものだ。私は顔淵坊こそが本物の医師に相応しいと見込んでいたのだが、彼がまだこの世に生まれて来なかったので一時の間そなたに与えておいたのだが、顔淵坊もようやく成長したので返してもらうことにしよう』とこのように言われたら、どうなされますか」
 定家がいきなり妙なことを言い出したので、心寂坊が豆をぶつけられた鳩のように目をぱちくりとさせていた。その顔を見て定家は可笑しそうに笑った。
「何がそれほど可笑しいのでござります」
「いやそのように渋面をなさりますな。実はこれは『江談抄』に記されておる話なのです」
「『江談抄』とはどのような書物でござりまするか」
「大江匡房が話した事を藤原実兼が筆録したものなのですがそこに『張車子の富は文選の《思玄賦》を見るべきこと』という話が記されています。
 昔々中国にどうしようもなく貧しい男がいた。その男には名すらもなかった。これを人の命を支配する司命の神と財禄を司る司禄神が見て憐れんで、夢の中で男に告げた。
『お前は貧乏でかわいそうだがお前には福の種がないのでどうしようもない。しかし、ここに車子という者がある。車子はまだこの世には生まれてはいないが、福の種を豊かに宿している。故に、この車子の種を仮にそなたに貸してやろう。さすればそなたは大いなる財を得るであろう。しかし、やがて車子が生まれた時には、その富を返さねばならぬぞ』
 夢から醒めると、男はたちまち莫大な財宝を得、長者となった。そしてしばらくの間その富に溺れていたが、ふと神の声を思い出した。『富は仮にお前に与えたものだ。車子が生まれたら、返さねばならない』
 長者は富を取り替えされるのを恐れて家子郎等に命じてありつたけの財宝を車に積んで他国へ逃れた。大勢の従者の中に、旅の途中で孕み、子を生んだ女がいた。長者は孕み女を呼んで「その子の名は何と云うか」と詰問した。女は「昨日生んだばかりですから、どうして名などつけられましょうか」と答えた。しかし長者は「しかしやがて名はつけられるのであろう。お前はその子にどのような名をつけるつもりだ」と重ねて詰問した。女は「突然の旅立ちで家もなく、財宝を積んだ車のながえ轅の中で生みました故、車子となづけようと思います」
 これを聞いた長者は「私の財宝の持ち主が現れた」と叫んでそのまま逃亡した・・・こうした話ですよ」
「是非その『江談抄』とやらを拝見いたしたいものです」
「そのうちおみせしましょう。とかもく大江匡房という人物は博覧強記、古代の歴史から庶民の生活、果ては遊女、傀儡師の事にいたるまで、あらゆることを聞き、これを書き残した人ですが、その反面、政治家としての手腕は極めて優れ、国を思う真心は誰にもまして強いものでした。八幡太郎義家の野望を見事に挫いたのも大江匡房なのです」定家はこう述べて草稿を読み始めた。

第73番目のものがたり 「風月の本主」 )

 匡房は太宰府天満宮の満願寺本堂に座って瞑目していた。丈六の阿弥陀如来が夏の風の奥に凝然と立っている。この仏はつい昨年、匡房が菅原道真公の御霊を回向するために彫らせて祀ったのだが、あたかも永遠の時の彼方から雲の乗って降りてきたかのように、静かな救いの笑みを湛えてゆったりと立っている。匡房は暑さの中で身じろぎもせずに目を閉じ、ただひたすら道真公と向かい合い、公の言葉を聞き取ろうとしていた。しかしその耳には何も聞こえない。二百年の歳月が二人の間に横たわっている。玉の汗が額に流れ落ちる。大江匡房は阿弥陀如来の前に平伏して訊ねた。「朝廷から追討使が到着するのはいつでしょうか。逆賊追討の宣旨が届くのはいつになりましょうか。反乱を企てた源義親の親である源義家は、まだ兵を動かす気配はないのでしょうか」
 匡房は必死の面持ちで仏に祈った。阿弥陀如来は祈り続ける匡房の姿を穏やかに見つめていた。

 対馬守源義親は八幡太郎義家の次男だが、長男が早世したため嫡男として源氏を継ぐことになった。義親の父義家は「天下第一の武勇の士」と都人から尊崇されていたが、義親も父に劣らぬ武勇の者として知られていた。ところが義親は対馬に赴任すると、領民に対して暴虐を働き、官の財物を掠め取っているという。太宰府権師大江匡房にこの知らせがもたらされたのは、康和三年(1101)春のことである。国司の反乱・・・いったいこの報は真実か・・・。
 匡房はただちに役人を送って対馬領内の状況を子細に調べさせた。報告は虚言ではなかった。義親は朝廷に治めるべき公物を横領し、民人を使役し、これに反対する官人数名を殺した事が明らかになった。匡房は状況を克明に書き記し、義親追討の官府の発布を要請する使者を朝廷に送った。事態は一刻の猶予も許されない。もし処置を過てば平将門・藤原純友の二の舞にならぬとも限らない。前九年の役・後三年の役と二度の陸奥国への出兵を経験している源氏一族の軍事力は恐るべきものになっている。義家は数千の軍勢を持ち、これに常陸武蔵の同盟軍や陸奥で降伏させた浮囚の兵を加えれば数万の大軍になるであろう。その脅威は将門の比ではない。もし万が一にも義家が嫡男義親と呼応して朝廷に反旗を翻せば、都はたちまち義家の軍門に下るであろう。匡房はかねてより畏れていた事態が義親の反乱によって現実になりつつあることに冷たい不安を覚えた。

 風が堂内を音もなく吹き、床が暗くゆらゆらと微かに揺れる。匡房は誰かの声を聞いたような気がして目を開いた・・・。誰もいない。香の薫りが柱を包み、天井に舞い上ってゆったりと床を這っている。彼はまた目を閉じ、想念に耽った。

 義親の反乱は、後三年の役に対する朝廷の措置への怨念から生まれたのかも知れぬ・・・もしそうであれば、義親の反乱に呼応して義家も反旗を挙げるであろう。
 八幡太郎義家が陸奥・出羽両国の支配者であった清原一族の分裂に乗じこれを滅亡させたのは完治元年(1087)の末のことだった。当然のことながら義家は凱旋将軍として朝廷に恩賞を申請した。しかし朝廷は「後三年の役」を朝廷による征討と認めず、清原一族と源義家の私闘と見なして恩賞の要請を拒否した。しかもその意見を強く主張したのが、時の式部大輔・大江匡房だった。彼は次のように述べた。
「陸奥・出羽の清原一族を反逆者と見なすには大きな問題があります。前九年の役当時、清原一族は源氏の一翼を担い、常に官軍のために前線に立って反逆軍と対峙し、血を流してきた者共です。故に朝廷はその功績を認め、清原一族に対して鎮守府将軍の地位を与えました。ところが清原一族に内紛の兆しを見るや、義家は清原一族に反逆の意図ありとして自らを鎮守府将軍と名乗り、清原一族の征討に乗りだしたのです。これは義家が己の兵を養い、領土を獲得するために意図的に起こした行為であります。故に、この度の源義家による清原一族との戦闘は、朝廷が差し向けた征討軍と反逆軍との戦闘ではなく、あくまで義家と清原一族との私闘とみなすべきであります。
 もしこのような私闘に対して朝廷が恩賞を与えるようなことがあれば、源氏一族は次々と恣意的な戦闘を起こし、領土を己のものと為して軍備を整え、やがては国家を揺るがす逆賊となるでありましょう。それでなくとも、義家の武名は天下に轟き、東国の豪族たちは義家に競って荘園を寄進しております。仮にこのような者に恩賞を与えるとすれば、国家を覆す種をまくに等しいでありましょう。むしろこの時期、諸国の豪族が義家に荘園を寄進する行為を禁止する宣旨が下されてしかるべきでありましょう」
 大江匡房の意見は多くの公卿の同意を得て、朝廷は源義家に対して一切の恩賞を与えぬ旨通達した。源氏一族はこの朝廷の処遇に対して大きな恨みを抱いた。しかしさすがに義家はその怒りを表には出さず、陸奥・出羽に遠征して戦闘に加わった郎党に対して自らの私財をなげうちまた、奪い取った清原一族の財産を与えるなどしたので、匡房の意図に反して、義家の名望はますます高まった。匡房は義家をますます恐れた。
 桓武天皇が平安遷都を行って以来、都が戦火を免れてきたのは、偏に朝廷が兵を養わなかったことにあると匡房は考えていた。嵯峨天皇は平城上皇との戦闘に坂上田村麻呂を用いたが、それ以後、帝は田村麻呂を重用せず、代々の帝は武人を近づけなかった。兵部省も軍を持たず、大将・中将・少将などの地位は公卿たちの飾りものにすぎなかった。都の中で弓や太刀は何百年も公のために使われることはなかった。ところが、藤原兼家が源満仲を蔭の傭兵として利用するようになってから、事態は徐々に変わってきた。満仲の子頼信・頼光の兄弟は多くの国の国守を歴任し、莫大な財を為して兵力を養い、時には公のために、又、私闘のために兵を使った。万寿五年に平忠常が安房国司を殺害し反乱を企てた時、源頼信は数千の兵を手足のように動かしてこれを鎮圧したが、この時兵達のかざす刀や長刀は常陸の国を覆う尾花のようにきらきらとどこまでも輝いたという。頼信の力は頼義・義家に引き継がれている。武力が都をおびやかしつつある・・・。
 だがしかし、何より忌まわしいことは、三百年の平安の都を脅かす火種が、義家一族などの外部勢力にあるばかりでなく、朝廷内部に育ちつつあるということだ。その火種は他でもない白河上皇の権力欲によって日々あおり立てられ、火花を散らし始めている。白河上皇は腹違いの兄弟で政敵でもある輔仁親王の人望を恐れて、源義家の孫にあたる源為義を腹心の武士として手元に置き、夜昼なく身辺を警護させていたが、それだけでは不安を拭いきれず新たな者どもを私兵として雇い入れた。院の在所の北側に「院北面」と称する侍の詰め所を設け、ここに地方豪族の師弟で武力に長けた者どもを駐留させるようにしたのだ。また五位、六位の武官の子弟らも武装させて身辺警護に当たらせている。これらの武官たちは北面に加わることによって上皇の寵を得ることができるのを喜び、為に北面の武士の数は急激に増大し、最近では数百の武装集団となって朝廷の内外を跋扈するようになったのだ。
『このようなことは京に都が移されてから一度もないことであった』公卿たちは心中誰もが深い不安を抱いたが、上皇の為すことであるのでどうすることもできなかった。匡房は白川院がまだ東宮であられた昔、学問のご進講役を数年に亘って勤めていたが、その東宮が今日の院になっているのだと思うと、言いようのない後悔が彼の心を苛むのだった。
 承徳二年(1098)、大江匡房は太宰府権師として筑紫へ下ることになった。旅の途中匡房は友人の藤原宗忠から文を受け取った。
「貴殿が懼れていた事態が早くも現実となった。白河上皇は八幡太郎義家に正四位下を与え院御所への昇殿を許した。武人が院の御所に親しく伺候するなどということは平安の世にはかつてなかったことである。世人は院の威光を畏れて批判する者はいないが、陸奥の国で何千何万の兵を動かし、彼らの血と汗の匂いが骨の髄まで染みこんだ武将が朝廷を歩き回ると言うことになれば、この国はこれから先どうなるのであろうか」

 都では義家が朝廷に足を踏み入れ、地方では嫡男義親が対馬を武力で占領した・・・果たしてこれは偶然か・・・もしや義親は太宰府攻略を企てているではないか・・・。
 匡房は屋敷に戻り朝廷からの沙汰を待っていると藤原宗忠からの急使が文を携えてきた。そこには『源義家の郎党資通が数百の軍勢を率いて太宰府に向かった。義家は白河帝に対し、義親の反乱を鎮撫するための軍の派遣を申し出、院はこれをお許しになった。しかし、果たしてそうか』

 数日後、義家の右腕とも目されていた資通が五百の軍勢を率いて太宰府に到着した。資通は匡房に向かい「義親様は私の主君筋にあたります故、私が説得すれば降伏いたしましょう。どうかそれまでの間、太宰府は軍を動かされませぬように」
 大江匡房は危ぶんだ。源義家が己の嫡男の平定のために軍勢を送るであろうか。もしも資通が義親と合流すればその兵力は千にも及ぶであろう・・・しかし、朝廷が認めてここまで来た軍勢を太宰府が引き留める事はできない。匡房は大きな懸念を抱きながら資通の軍勢が対馬に向かうのを座視するより他に道はなかった。
 匡房の危惧は的中した。資通は対馬に到着するや義親軍に合流して対馬全島の制圧に乗り出した。知らせを受けた匡房は直ちに朝廷に急使を送った。「この暴挙を座視して時を失えば、反乱軍は太宰府を襲い、九州を手中に収めて大乱となりましょう」
 匡房はひたすら義親追討の官府到着を待ちわびた。しかし八月に入っても朝廷からの沙汰はなかった。匡房はこのまま事態を座視していたのでは事態は悪化するばかりだと見て密かに追討軍を組織し、いつなんどきでも対馬へ進発できるばかりに手筈を整えていた。しかしいつになっても朝廷からの官符は届かない。匡房は空しく待つうちにくたびれ果て、柱に背を凭せ掛けるとうとうととした。夢を見た。

 真っ暗な闇の中から密やかな声が聞こえる。そのほうに歩いて行くと、衣冠束帯に威儀を正した立派な人物が立っていた。菅原道真公だった。道真公は匡房に静かな声でこう言った。
「私は雷神として畏れられている。怨霊として懼れられている。醍醐の帝のお命を奪ったのも私だと噂されているという。だが、私はそのような怨霊ではない。雷神でもない。私はこの国に恨みや災いをもたらす者では決してない。私は何よりも風月の人である。物に触れて心に詩情が生まれ、風に、月に、雨に、落葉に、自然のあらゆるいとなみに涙し、その涙から詩が生まれる。私が求めているのは権勢への復讐ではない。人々に恐れや苦しみをもたらすことではない。私の望みは春の梅の薫り、夏草に風の渡る音、秋の梧桐の葉のささやきである。だが、悲しい哉、放逐せらるる者、蹉蛇として精霊を喪い、意を通じることが出来ぬ。しかしそなたは私の霊をなぐさめるために太宰府に満願寺を建立し、丈六黄金の阿弥陀如来像を造仏しこれを安置し、五十名の僧侶を招いて私の魂を供養してくれた。これほど嬉しいことはない。そなたこそ私の心を分かってくれるただ独りの者である。そなたが私の魂を回向してくれるまで、私は常に忌まわしい怨霊として生きながらえねばならなかったが、今、そなたの供養によって私の魂は暗闇から解き放たれた。私はこれより後、力を尽くしてそなたを助け、この国の安寧のために役立とうと思う。故に、これから後私を『風月の本主』として祀ってもらいたい」
 道真公はこう言い残して踵を返し、歩き出した。匡房は道真公を追いかけて尋ねた。
「逆賊義親を討つことは出来ましょうや。義家を挫くことは成りましょうや」
 道真公の亡霊は振り返って「そなたの祈りによって義親は日を経ずして討伐されるであろう。また、義家は病を得、間もなくこの世を去るであろう」
 道真公の亡霊は闇の中に微かな光を残して、公が配所での暮らしを過ごした場所である浄妙院の中へ姿を消した。
 朝廷から源義親追討の官府を戴いた追討使が到着したのはその日の夕刻である。白河上皇は義家の郎党資通が反逆者義親と合流して公然と朝廷に反旗を翻したと聞いて激怒し、義親追討の官府発布を直ちに認可したという。匡房は時や遅しと待ちかまえていた八百の軍勢に兵略を授け、進撃させた。匡房の作戦はまさしく図に当たり、義親・資通の反乱軍は数日の間に鎮圧された。

 凱旋の日、匡房は太宰府に全ての官人を集め、こう述べた。
「この度官軍は八幡太郎義家の一族をうち破った。この勝ち戦は朝廷ならびに道真公の御霊のお陰である。故に、この年より、道真公を『四海の尊師』並びに『風月の本主』と定め、八月二十一日より同二十三日までを神幸式の日と定める」
 八月二十一日、天満宮の御輿は神人たちに担がれて浄妙院に留められ、大勢の人々が道真公の威徳を偲び感謝を捧げた。

 その年の暮れ、都の藤原宗忠から文を受け取った。そこには『白河院は義家を昇殿差し止めとした。義家は厳しい勅勘を受けて落胆のあまり病に落ちた。病は重く、再び立ち上がることはできないであろうとの事である』

 康和三年(1101)大江匡房太宰府権帥の人を解かれ都に戻るに当たって盛大な曲水の宴を催した。安楽寺境内には直衣狩衣に身を包んだ官人や華やかな襲の女官や錦繍の衣をまとった大勢の神官僧侶たちであふれ都の宴もかくやと思われるほどであった。 
 匡房がそのに集った人々に詩を披露していると道真公の霊廟の方から誰かが匡房の詩編の中の一遍を詠じる声が聞こえた。
既にして或いは宴既にたけなはに
遊びて罷めんと欲せしめど、ああ、
水石草樹のまことに美なる也、
 この声を聞いて人々は「もしや天神様は大江匡房殿の詩に感じ、帰洛せんずることを名残惜しくおぼしめしてあのように吟唱なされたのであろうか」と口々に恐懼感激したのだった。

 三月末に太宰府を出て都にもうまもなくというところまでさしかかると、里の桜は散っていたが、山々の頂には山桜が白い雲のように咲き誇っているのが見えた。『道真公はこの景色をどれほどご覧になりたかったであろうか』匡房は太宰府を振り返って、その昔、都で詠んだ歌を呟くように詠った。

 高砂の尾上の桜咲きにけり
外山の霞たたずもあらなむ

追記・大江匡房の追討軍に敗れた義親は隠岐国流罪となったが、配流の途中逃亡し、出雲国の目代を殺し官物を略奪した。朝廷はこれを追討するため、出雲の隣国、因幡の国の国主平正盛を追討使に起用した。それまで全く無名であった正盛は征討軍の大将として出陣し、直ちに義親を討ち取った。白河帝はこれに感激し、正盛が朝廷に帰洛する前に勧賞を与えた。平正盛は義親の首を携えて都に凱旋、都人はその勇姿に熱狂した。正盛の功績によって平家は朝廷への足がかりを得、その孫清盛は太政大臣にまで登り詰めることになる。しかし天永二年(1111)この世を去った大江匡房はその事を知るよしもなかった。 

引用参考文献

「太宰府」田村圓澄著 吉川弘文館
「江談抄」新日本古典文学大系 岩波書店
「古事談 続古事談」同右
「古今著聞集」新潮日本古典集成