百人一首ものがたり 72番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 72番目のものがたり「(げんの)(ない)()

音に聞く 高師(たかし)の浜の あだ波は
かけじや袖の ぬれもこそすれ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「心寂坊殿は高師の浜の歌を最初に詠んだのはどなただと心得ておられますか」と尋ねるので、
「紀貫之様がお詠みになったのではないかと記憶しておりますが」と返答すると、定家はいかにもと頷いて、
「貫之の歌は、沖つ波高師浜の浜松の名にこそ君を待ちわたりつれ、というものでこれが高師浜が歌われた最初であると誰もが思っているでしょうが、実はそうではなありません。置始東人の、
  大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ 
という歌が最も早く、しかも万葉集で高師の浜を詠んだのはこの一首のみなのです」
「東人の歌とはずいぶんの昔でござりまするな」
「防人に行く途中に難波あたりで宿泊して詠んだものでしょう」
「そうなると五百年も昔のことでしょうか」
「それほどは経つでしょうね。このように大昔の歌を歌枕のように有名な場所にしたのは、心寂坊殿のご指摘の通り、紀貫之でした。しかも、高師の浜は「波高し」という意味を含むようになったのも貫之の影響なのです」
「・・・」
「これは既に貫之の物語でも取り上げた土佐日記の記録ですが、土佐の国の国府を承平四年(934)の十二月二十一日に出立して、海賊の襲来を恐れながら室戸岬を越え、翌年一月の末にようやく和泉の灘あたりまでたどりつきましたが、波風が荒く、船頭たちがいくら櫂を漕いでも進まない。船頭が『この荒れ樣は尋常ではない、住吉明神が幣を奉れと命じているに違いないと』というので幣を奉ったけど風は止むどころかいや増しに吹き付け、波はいよいよ高くなって、このままでは転覆するのではないかと怖れていると、船頭は『幣ではご満足が行かぬから、神様がもっとうれしくお思いになりそうな物を差し上て下され』と催促するので、仕方なく貫之は「大切な目でも二つあるのに、たった一つしかない鏡を奉納いたします」と海に投げ込んで、いかにも残念だと後悔しながら眺めていると、たちまち海は鏡のようになめらかになったので、同船の者が、
 ちはやぶる神の心をあるる海に鏡を入れてかつ見つるかな
と詠んだと記しておりますよ。」
「鏡を奉ったら嵐が収まったというのは、本当なのでござりましょうか」
「貫之ほどの人物が偽りを後世に書き記す筈はないのですから、確かにそうだったのでしょう。昔々、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東の国を従えようと相模の海にさしかかった折り、嵐になって船が行き悩んでおりました時、弟橘媛(おとたちばなひめ)は船端から身を投げて日本武尊を助けたと記紀には記されています。それが貫之の時は鏡で済んだのですから、神様も優しくなったものです・・・そうしたことはともかくも、土佐日記が元となって荒海が歌に詠まれるようになりましたが、ただ波が高いというのでは如何にも面白くありません。それを恋の歌にまで高めたのが祐子内親王家紀伊なのです」
「・・・」
「この方は女房三十六歌仙にも選ばれ、勅撰集には三十一首入集していますが、面白い事に、私の曾祖父忠家が周防内侍と歌を交わしたように、祖父中納言俊忠と紀伊は「艶書歌合わせ」をしているのです。『艶書歌合わせ』と申しますのは、帝が殿上人に懸想の歌を詠ませ、その歌に女房達が返すというやり方で歌合せが行われるのですからとても艶めかしい歌ばかりが詠まれます。そこで私はその時の様子をあれこれと想像して書いてみたのですよ」

第72番目のものがたり 「源典侍(げんないし)」 )

 蔵人頭藤原俊忠は歌会の始まる時刻よりずいぶん早く堀河院の御所に出かけた。というのもその日の歌会は自分が一番年下であろうと思ったからなのだが案の定、歌人の姿は見えず、正面に大きな松の枝が壺に生けてある。枝は左から右手に長々と伸び、床に這うばかりに裾野を広げている。枝の下には真っ白な砂が一面に敷き詰められ、白砂はどこまでも広がる遠い浜辺のようでもあり、見事に伸びる松の枝は渚を彩る松林のようだ。なんとも心憎いばかりの趣向ではないか・・・感心して見とれていると、

 舟とめて見れどもあかず松風に波よせかくる天橋立 と詠う声がする。『そうか、これは天橋立を舟から眺めている景色であったのか』俊忠はなおさらに感じ入ったが、それにしても今の声はどなたであろうかとあたりを見回しすと、お庭に近い几帳の陰に蘇芳の薄地に濃い橘襲の袿を幾枚も重ね、卯の花を刺繍にした練り絹の上着を羽織った女が庭を眺めていた。夕暮れの庭に大きなツツジが池の水に映って、水鳥が岩陰に浮かんでいる。いったいどなたであろうか、そう思いながら近づくと、女は顔を半分花模様の扇で隠しているが、目元には皺が二重にも寄り、瞼が黒ずんで、額髪も水草のように憐れにほつれている。

 『何と、今夜の艶書合のお相手の紀伊様ではないか』俊忠がいささかたじろいでいると女は扇の蔭に口を隠したまま、色めいた声で、

 君し来ば手慣れの駒に刈り飼はむ

さかり過ぎたる下葉なりとも

(あなた様が私を想っておいでになって下さるのであれば、私はあなた様のご自慢のお手慣らし馬に草を刈ってご馳走いたしましょう。もう盛りを過ぎて若いとは言えない下葉でありますけれど)

 俊忠はいよいよ驚いた。この夕べが艶書合(けそうぶみあわせ)だからとは言え、源氏物語の源典侍を気取るとはいったいどのような魂胆なのであろう。あの物語の中で源典侍はずいぶんの老女として描かれているけれど、紀伊様はすでに七十、源典侍よりも十才も年上になる勘定だ。戯れるにしてもほどがあろうと俊忠はあきれる思いだったが、和歌を戴いたからには黙っているわけにも行かぬので、

 笹分けば人や咎めむいつとなく

駒なつくめる森の木がくれ

(あなたさまのような美しいお方を私が笹を分けて逢いに行ったなら、他の者は私を咎めるでしょう。というのもあなた様は木々が気持ちよく茂っている森の木の下のようなお方ですから、いろいろな馬が慕い寄って行く様子ですから)

 と光源氏が典侍に返した歌をそのまま鸚鵡返しにして広間に戻ろうとした。これを見て紀伊は扇を俊忠の方にすっと伸ばして、

「蔵人頭殿、あなた様はいかにも見目の良い殿上人ではあられますけれど、そのように逃げ腰で私をごらんになられるのでは立派な公卿にはなれませぬよ」

「いいえ、逃げるなどとそのようなつもりは少しもありませぬが、そろそろどなたかがおいでになられはしまいかと思いまして」

「良いではありませぬか。どうぞそこにお座り下さいませ。私があなた様のようにお若い殿上人に申し上げたいことは、歌というものは口先ばかりでは歌は詠めぬという事なのです」

「それは重々心得ておるつもりです」

「お分かりになってはおられませぬ。あなた様の和歌を拝見いたしましたら、すぐに分かります。たとえば、

 我が恋は海人の刈藻に乱れつつ

かわく時なき波の下草

この歌はあなた様が詠んでも別の知らぬ方のものであっても少しもかまいませぬ。このような和歌は心にもないこと美しい言葉で包んで見せているのですから、しょせんは空しい戯れになってしまうのです。歌を詠む限りは言葉と心がそのまま一緒になっていなければなりませぬ。ところがこの頃の歌合いでは、その場限りの遊び歌ばかりで、本当の心というものがどこにも見あたりません。ですから、ただ空しいばかりで、なんとも味気ない気持ちになってしまうのです」

「・・・」

「昔はそうではなかったのですよ。あなたは私があの源典侍を気取っていると咎めている様子ですが、光源氏はあなたとは大違いです。というのも源典侍が光源氏の心を引こうと思ってある宵に琵琶を引き鳴らしていると、源氏の君は女の心をおもんばかって「東屋の、真屋のあまりの、その、雨そそぎ、我立ちぬれぬ、殿戸開かせ、」と催馬楽を忍びやかに謡って源典侍のいるあたりに近づいて行く、そうすると源典侍はもうわくわくして、琵琶を弾く手をふととめて、

「かすがひも、戸ざしもあらばこそ、その殿戸、我ささめ、おし開いて来ませ」と謡い返しす。源氏の君は、源典侍の心意気に感じ入って、どうしたものだろうかと思案している。と源典侍はもう一押しとばかりに、

 立ち濡るる人しもあらじ東屋に

うたてもかかる雨そそきかな

(このようにひとりさびしく過ごしている私を訪れて雨だれにいっしょに濡れてくれるお方などあるまいと思うと、ただ悲しくて、疎ましい東屋に雨に濡れて一人で泣いていることです)

と謡う。光源氏もこれでとうとう負かされて源典侍と一夜を過ごすのです。ですからあの物語にある歌というものは真実がありましたし、何度読んでもすばらしいという気持ちになるのです」

 このように紀伊が話をするので、俊忠は、『このお方はもしや本心から源典侍のような経験をしたいものだと思っているのだろうか、それとも孫ほどにも年の離れた男をつかまえて、戯けているだけなのだろちうか』と訝ったけれど、これ以上関わると面倒なことになりそうだと恐れて、

「源氏物語は物語ですから何とでも書けますが、もしも本当に源典侍のような色好みの年よりに出会ったらとても我慢がならないでしょうね」と言うと、紀伊はすぐさま、

「日下江の 入り江の蓮(はちす) 花蓮(はなはちす) 身の盛り人 羨(とも)しきろかも」と謡った。

「蔵人頭様はご存じでしょうね、この歌を」

「いいえ、存じません。万葉の歌でしょうか」

「もっと遙かに遠い昔の歌、引田部赤猪子の謡った歌です」

「聞いたこともありませぬ」

「ではお教えいたしましょう。引田部赤猪子はこの歌を詠った時、私よりもずいぶん年上、八十を過ぎていたということですが、この女がまだほんの童女であった頃、三輪川のほとりで衣を洗っておりましたら雄略天皇の一行がさしかかりました。帝は女があまりに麗しいのに見とれて「そなたの名は何と申すのだ」とお尋ねになりました。童女は赤くなって、「引田部赤猪子と申します」と答えました。これを聞いた帝は、「どのような男が言い寄ろうとも、そなたは嫁がずに待っていなさい。私がそのうちに召し出すであろうからな」と申されました。引田部赤猪子はそのお言葉を信じてずっと待ち続けていましたが、いつになってもお召しがない。とうとう八十にもなってしまったので、赤猪子は我慢が出来なくなって、帝のもとに出向いて、「私は言いつけを守っていままでお待ちして八十年が過ぎてしまいました。この年になってはお召しもないかとも思いましたが、私がこれまで守って参りました操をうち明けようと決心してこうして参ったのです」

 帝はひどく驚いて、「それとは知らずすっかり忘れていた。そなたが私を待って操を守って年老いたのは不憫である」と仰せに成られて、

 引田の 若栗栖原(わかくるすはら) 若くへに 率寝(いね)てましもの 老いにけるかも

 (引田の若い栗原 そなたが美しい乙女のうちに 連れてきて共寝をすればよかったものを そのように老いてしまって 何とも悲しいことだ)」

 このように帝はお謡いになられたということです。ですから、年老いても人を想う心は大昔から変わりはないのです。帝に哀れみのお心がおありになったら、引田部赤猪子を側室にすべきだったのに、ただ歌を詠んだだけというのは残念でなりません」

 紀伊様の目がいかにもけしからぬと怒っているので俊忠は辟易して、

「しかし、いくらなんでも八十の媼と恋を語ることができましょうか」と言うと、

「蔵人頭様、あなた様は在中将のお話しをご存じないのですか。あのお方は九十九にもなる白髪のお婆さんが自分を恋しているらしいと知ると、

 百年(ももとせ)一年(ひととせ)たらぬ九十九髪(つくもがみ)

われを恋ふらし面影に見ゆと

 と歌って一夜を過ごしたのですよ。それほど豊かなお心がないとすれば、あなた様はすこしばかり容姿の優れてはいるものの、後の世に語り継がれるような男には到底なれませんわね」と言ったので、俊忠は二の句も告げず、黙ってしまった。

 あたりはすっかり夕べの帳が降りて広間には紙燭が幾カ所も灯っている。既に大勢の方々が集まって、そろそろ歌会が始まる気配である。俊忠は紀伊様の手を取って立ち上がるのを助けながら、

「今宵は大層よい時を過ごさせていただきました。是非ともまたお会いしたいものです」と囁いた。すると紀伊様は「それはありがたいお言葉ですこと。でもあなた様には『逢ふにしかへばさもあらばあれ(逢うことができればあとはどうなってもかまいません)』というような心がおありになられるのでしょうか。あなたさまが今夜、どのようなお歌をお謡いになられるのか、楽しみですわ」とつくづくと俊忠を見つめた。

 次々と歌が詠み上げられ、とうとう俊忠と紀伊様の番が迫ってきた。俊忠は昨晩までいくつもの歌を練りに練った歌を十余りも心に秘めていたのだが、さきほどの紀伊との話の後ではとても詠う気持ちにはなれなかったが、いよいよ番が回ってきたので、心のままに、

 人知れぬ思ひ有磯の浦風に

波のよるこそ言はまほしけれ

(都のお方には越の国の有磯の海に吹く浦風がどのようなものなのかとても想像もできないのでしょうが、私の心の中には有磯の浦風にも負けぬほどに、誰も知らない恋心の風が激しくあなた様に吹いているのです。この思いを、いつうち明けることができるのでしょうか)

 これを聞くと紀伊はちらっと俊忠に色のあるそぶりをして、

 音に聞く高師の浦のあだ波は

かけじや袖のぬれもこそすれ

(あなたさまは有磯浜に吹き付ける浦風を都人は知らないだろうなどとおっしゃっていますけれど、こちらには名高い高師の浜がございますから、少しも驚きませんわ。それより浦風というものは吹いたり止んだりしてそのたびにいたずらに波を立ち騒がすものですね。あなたさまの恋心というものも、一時の浜風のようなものであだ波を立てるばかりなのでしょう。そのような浮気な波に巻き込まれて、悔し涙で袖を濡らすのはごめんこうむりますわ)

 と返したので、俊忠はすっかりやりこめられて、これほどの女人と張り合う事が出来る者は今の世にはとても居るまい、とため息をついたのだった。