百人一首ものがたり 70番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 70番目のものがたり「大原の竈」

寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば
いづこも同じ 秋の夕暮れ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

 定家の部屋に入って行くと「良暹」という文字が見えたので
「その方は能因法師のすぐ後に選ばれたのですからよほど優れたお方であったのでございましょう」と言うと、
「良暹法師は能因法師とは何一つ似たところがありませんよ」
「・・・」
「能因法師は由緒正しい家の生まれで、出家以前は橘永愷(たちばなのながやす)と名乗っておりました。父は肥後守橘元愷。橘の家系は、源・平・藤と共に公卿なれる家柄ですし左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)は先祖です」
「橘諸兄というお方はいつの天皇の御代の大臣でしたか」
「聖武天皇の時代ですよ・・・橘諸兄は敏達天皇の五世の皇孫でしたが、藤原仲麻呂と対立し、息子の奈良麻呂は反逆罪に問われて獄死しました。能因法師はそうした家の出でしたが、良暹法師は父も母も定かではありません」
「両親ともに」
「一説によれば、母は、一条天皇の勅勘によって陸奥に配流された左近中将実方の女童の白菊という女であったとされておりますが、真偽は解りかねます。ともかく良暹法師は和歌の師匠を持たなかったので和歌言葉に疎く、幾度も笑いものになったという逸話が伝えられていますよ」
「笑いものとは合点が行きませんが」
「和歌の言葉には音が同じであっても意味が全く違うものが沢山ありますからそれを知らずに詠えば大失態をしでかすということもあり得ないことではありません・・・たとえば古今集に《時鳥ながなく里のあまたあればなほうとまれぬ思ふものから》とありますが、良暹はこの歌を本歌にして《宿近くしばしながなけ時鳥今日のあやめの根にもくらべん》と詠ったので大笑いされました」
「・・・」
「古今集の『ながなく里』、の意味は『汝が啼く』の意なのですが良暹はそれを『長啼く』と思いこんで詠ったのです。そもそも時鳥は一声しか啼かぬものですからそれを思えば『ながなく』を『長く啼く』と取り違えるのは滑稽なのですが、良暹はそうしたことをしばしばしたようですよ」
「ではなぜそのような方を中納言様はお取り上げになるのですか」
「二人とない人物だからです。良暹は学問知識こそありませんでしたが類い希な心の持ち主でした。だからこそ、勅撰集に三十二首も入集しているのです。後年源俊頼朝臣が大勢の殿上人と騎乗して大原あたりを楽しんだことがありましたが、突然駒を止めて下馬したので、殿上人たちは《どうかなされましたか》と尋ねると、《ここは昔良暹法師が住まわれていた旧房があったあたりです。馬に乗ったまま行き過ぎることなど許されるものではありません》と述べたので一同あわてて下馬して旧跡に敬意を払ったと伝えられています。俊頼は白河帝の頃に活躍した歌人で勅撰集には二百七首も入集し、歌論書『俊頼髄脳』を著した事で高名ですが、それほどの人物に尊敬されていたのですから、良暹法師がどれほの方だったかお分かりでしょう」

第70番目のものがたり 「大原の竈」 )

 月が出るまで一眠りして待つことにしよう、そう思って良暹は筵に横になった。藁がささくれ立って手枕がちくちくする。破れた壁の隙間から秋風が吹き込んでくるので衣を肩まで引き上げて身を縮めてみたがなかなか眠れない。壁の割れ目から外を覗くと月は雲間に隠れ尾花の影が揺らいでいる。叡山での修行にも嫌気が差し、大原で余生を送ろうと思い立ってあちらこちらと探して歩いてみたのだが思うような場所は見つからず、八重葎の生い茂る廃屋に入り込んでからもう五日にもなる。あばら屋でごろ寝をしていると弘徽殿に招かれて歌合をしたり内裏の根合わせで詠った日々が夢のように思い浮かぶ。
 うとうとして目を覚ますと、人声がする。月明かりが壁の隙間から漏れ落ちている。『こんな夜更けに誰だろう、道に迷ったのだろうか』、良暹がいぶかっていると隅の方で赤子が泣く声がして、女の声で「ほれほれ乳をやるからね、泣くでない、泣くでない」とあやす声がする。赤子は母の乳房を口に含んで安心したのだろう、泣きやんで、静かになった。
「もし、そこのお方」良暹は声を掛けた。「私は良暹と申す歌詠みですが、数日前よりこの小屋に寝泊まりしております。そなた様は旅のお方でしょうか、それともこの家に縁のお方でしょうか」
 闇の中の女は黙っていたが、感極まった涙声で、
「良暹様、お久しゅうござります」
 思いも掛けず自分の名を呼ばれたので呆然としていると、女は赤子を抱いてそろそろと寄ってくると、
「良暹さま・・・私をお忘れでしょうか・・・」
 破れた屋根の隙間から月明かりが漏れてくる。
「いったい、そなたは・・・」
「源経頼様にお仕えしておりました女房、梅でござります」
「なんと、経頼様の・・・あの折りの」
「はい、あなた様との逢瀬が忘れられず、経頼様のお屋敷を出てお探している間にこの子が生まれ、ようやく連れて歩けるようになりましたので、方々訪ね歩き、大原までやってまいりました」
「それでは、その胸の中の子は・・・まさか」
「・・・あなたさまの、お子でございます」
 良暹は愕然とした。明日をも知れぬこの身に、子があるとは。

 良暹が経頼の屋敷に出入りしていたのは数年前の春のことである。権大納言師房様の屋敷の歌合いに行く途中、中納言藤原経頼様の屋敷を通りかかると築地塀の越しに美しい梅の枝が枝垂れている。あまりの見事さに思わず見とれ、時を忘れて眺めていたが、歌合いの時刻を思い出してあわてて師房様の屋敷に駆け込んだ時には既に始まろうとしていた。師房様は不快な表情で、
「良暹殿は大納言の歌合いでは不足なのであろうな」と皮肉ったので、隣に座っている友人の俊綱は気を利かして、
「良暹殿、遅れたわけを歌で詠んではいかがか」
 そこで良暹は、
 梅の花にほふあたりは避(よ)きてこそ
急ぐ道をばゆくべかりけれ
(梅の花が匂うあたり通りかかると、つい時を忘れて見とれてしまいますので、急いでいる時には梅の花が咲いているお屋敷は避けてとおるべきですね)
 これを聞くと権大納言は上機嫌になって、
「そのようなことであれば、いくらでも遅れて来てもよろしいぞ」と笑った。

 歌合の翌日の夕刻、良暹はもう一度梅が見たくなって中納言の屋敷外手まで足を運んだ。梅は塀を包むばかりに見事に咲き匂っている。良暹は花の枝を眺めながら、『村上天皇の御時の梅はこのような花であったのだろうなあ』と昔を想った。
 その梅というのは、ある屋敷の紅梅があまりに見事なので都の評判となり、内裏に召し上げようとしたところ、女主(おんなあるじ)が、
勅なればいともかしこし鶯の
宿はと問はばいかが答えむ 
と詠んだという伝説である。
 良暹が月明かりに見ほれていると、築地の裏から小女が出て来て、「どうぞこちらへお入り下さい」と言う。後について庭に入ると庵の御簾の向こう側に女が座っていた。女は、
「昨日あなたさまが梅に見とれておいでになられるのを遠目に拝見しておりましたが、お声を掛けては和歌をお詠みになる妨げになろうかと思い、差し控えておりました。でもこの宵にもおいでになられたと聞いて、白湯でもさしあげたいと存じまして」女はそう言って微笑んだ。こうして良暹は思いがけなくも女のもとに通うことになった。女は経頼の乳母の娘で、名を梅と言い、一度は言い交わした男もあったのだけれど、今は誰一人通う者はないのだという。良暹は夢心地のうちに日々を過ごした。
  かすめては思ふ心を知るやとて
春の空にもまかせつるかな
(あなたをどのように私が思っているか、口に出してもうしあげることはできません。と申しますのも、私は一介の歌詠みで、身分もなく、屋敷もなく、空を雲のように流されているしがないものなのです。ただ、私の心は春霞のかかった空のようにおぼろな恋心に満たされてうっとりとさまよっているのです)

 二人は逢瀬を重ねていたが、ある夜いつもの裏口に行ってみると、戸は堅く閉ざされ、警護の男が立って通してくれない。翌日もその次の日も同じようだったので、良暹はせめて、思いだけでも届けたいと思って、警護の者に託した和歌は、
   松風の音なかりせば藤波を
なににかかれる花としらまし
(藤の花は長い房を下げて、松風が吹いてくると、ざわざわと紫色の波を立ててふるえます。そのように私の心も藤の花のように風が吹いてくるのを待っているのです。でも、いくらお待ちしていても、あなた様からの風が吹いてこないので、私はどうしてよいのかわかりません。あなた様はいつかまた、私にうるわしい風を送って下さるのでしょうか)

 翌日返歌を貰おうと屋敷を尋ねたが、何の音沙汰もなかった。彼は寂しさに堪えられず、都を出て叡山へ行こうと山を登った。山道をとぼどと歩くと夕方になってようやく小高い峰に出た。滋賀の海から夕風に尾花がさやさやとなびいている。夜空に雲がながれ、月は山陰に落ちて見えなくなった。 
  天つ風雲吹きはらふ高嶺にて
入るまで見つる秋の夜の月
(何もかも吹き飛ばしてくれ、天つ風よ、雲も私のこの思いもなにもかも、この誰一人いない比叡の山のてっぺんで涙にむせんでいるのを同情してくれるのは月ばかりだ、その月も次第に西に傾いて、彼方の山に消えてしまったことだよ)

 良暹は二年余りの間叡山で暮らしたが少しも心が安まらず、和歌も詠めなかった。そんなある日、源心という僧都が天台座主になって、比叡山に登ってきた。源心はかねて叡山に良暹が身を寄せているということを聞いて持仏堂に呼び《この源心に成り代わって和歌を詠んでもらいたい》というので、見ず知らずのお方のために詠むのは難しいけれど、伝教大師のお造りに成られた聖地の座主になられたのだから、めでたい和歌を詠まねばと思って、
 年をへてかよふ山路はかはらねど今日はさかゆく心地こそすれ
と詠んで、その夜に叡山を降りたのだった。

 こうして山を下りて後、良暹は人里離れた大原をさまよい歩き、このあばら屋にたどりついたのだったが、まさかその荒れ屋で昔の女に出会おうとは、あまりの出来事に良暹は、《これは夢か》と思い月明かりで女の顔を幾度もながめたのだが、確かに経頼の屋敷で逢った女だった。
『私は叡山に身を寄せている時にも、野に伏して月を眺めている時も、大原をさまよっている間も、ひとときもそなたを忘れたことはない』良暹がこう述べると女は声を上げて泣いた。
 赤子を中に寝せて、二人は筵に横になった。
   板間より月の漏るをも見つるかな
宿は荒してすむべかりけり
(経頼様のお屋敷でそなたに逢っていた時も、いつも私は幸福だった。あの時の思いが私をいつも支えつづけ、こうして生きていることができたのだ。だが、今、このあばら屋でそなたと共にいると、こころが晴れ晴れととし、浮き立つような喜びが心に満ちてくる。月の光が漏れ落ちてくるあばらやにこそ、このような幸せはあるものなのだなあ、)

「夜が明けたらこの小屋でそなたと暮らせるように手を入れることにしよう。竈は崩れているからすぐに何とかせねばなるまいが、俊綱様に歌を贈ればなんとかしてくれるであろう」良暹はそう言って、俊綱様に贈る和歌を詠ったのだった。
   大原やまだ炭窯もならはねば
わが宿のみぞ煙たえたる
(大原の里で暮らそうと心を決めましたが、まだ竈を作ることもできませんので、村の家々からは煙が立っているのに、私の家ばかりは煙が上がらないことですよ)
 良暹は大原の勝林院の住職を訪ね『もしも都においでの時は伏見修理大夫橘俊綱様にお渡し下さい』と頼んだ。住職は驚いた。橘俊綱様と言えば先の関白藤原頼通の子であるし、白河帝の中宮賢子様の里邸になったほどの家である。そこで住職は、
「そなたは伏見修理大夫様と如何なる縁がござりまするのか」と訊ねると「和歌の友でございます」という。貧しい僧侶が橘俊綱様の歌の友とは到底思えぬが無碍に断る事もできないので、使いを出してお届けした。文を受け取った橘俊綱は大いに喜び、三頭の馬の背に米やら家財道具、竈などを積んで届けてきた。
 むかしの友の素意法師も良暹の消息を聞いて、

 み草ゐしおぼろの清水そこすみて
こゝろに月のかげはうかぶや
 
と届けてきたので、良暹は返歌を、

 ほどへてや月もうかばん大原や
おぼろの清水すむ名ばかりぞ    

と詠んで届けた。  
 こうして良暹は女と子と三人で一年あまりをひっそりと暮らしていたが、ふとした病で、五歳になった女の子が一晩のうちに死んでしまった。そしてあろうことか、女も突然死んでしまったのである。良暹はあまりの出来事に生きる気力を失い死んだように横になっていた。これを伝え聞いた俊綱は心配して召使いを遣わして世話をさせたが、粥も喉をとおらなかった。
 雪の日、俊綱が見舞いに訪れると、良暹は骨と皮ばかりになって、ほとんど目が見えなかった。
「まさか、このようになっておられるとは」俊綱は良暹の手をとって涙を流した。良暹は絶え絶えに、
 おぼつかなまだ見ぬ道を死出の山
雪踏み分けて越えむとすらん
(私のかけがえのない人を失ってしまいました。あの人は吾が子と共に死出の山を越えようとしております。この雪山を踏み分けて行くことすら容易ではないのに、まだ見ぬ死者の山を踏み分けて行るのはどれほど辛いことでしょうか。私は二人を追ってその道を越えて行こうと思いますが、果たして二人を訪ね当てることはできるでしょうか)

 俊綱は都から薬師を呼んで手当をさせたので、良暹はかろうじて命を取り留めたが、長い間病床を離れることが出来ず、歩けるようになったのは翌年の夏も終わりになった頃だった。
 秋草が茂る丘を、良暹は杖を頼りに歩いた。三人で草を摘んだ野辺を、よろよろと歩いた。ふと見ると、遠くに小さな家が見える。あそこに私の妻と娘が居たのだ・・・良暹は秋の風に吹かれて、いつまでも立ちつくしていた。

 寂しさに宿を立ちいでてながむれば
いづくもおなじ秋の夕暮れ