百人一首ものがたり 7番 阿倍仲麻呂 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 7番目のものがたり「鑑真」

あまの原 ふりさけ見れば かすがなる み笠の山に いでし月かも

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「こればかりは納得いたしかねますが・・・」と心寂坊が常になく真剣な表情なので、定家は思わずにやりとした。初夏の日差しに木々も山も目映いばかりに輝いている。

「阿部仲麻呂の歌がお気に召しませぬか」と定家は扇を忙しなく動かした。

「いいえ、歌は格別と存じます」

「では何がお気に召さぬのでしょう」

「阿倍仲麻呂という人物は裏切り者ですから、そのような者が古今の百人の一人に数えられるのが腑に落ちぬのでございます」

 定家は白湯を一口飲んで、「裏切り者というのは言い過ぎではないですかな」と言うと、

「仲麻呂と共に入唐した吉備真備は帰国後右大臣となり、日本の屋台骨を支えました。ところが阿倍仲麻呂は唐の皇帝の寵臣となって彼の地で死んだのですから、裏切り者と申しても言い過ぎではないかと存じます」

「それはそうですが、しかし一度は戻ろうとしたのですからその気持ちは分かってやるべきではありませんか」

「いいえ、阿倍仲麻呂が帰国を思い立ったのは三十六年目と聞き及んでおりますし、たとえ遭難したとしても、母国への忠誠心があれば必ずや帰国したに違いありません」

「心寂坊殿の申される忠誠心とは、天平五年(733)に多治比真人広成が遭難しながら戻ってきた事の事でしょうか」

「はい・・・広成様の船は昆論島に漂着し、総勢百十五人のうち九十余人は盗賊に殺されたとのことでしたが生き残った三人は数千里を歩いて渤海国を経て帰国したのですから、あっさりとあきらめた阿倍仲麻呂に弁護の余地はありません」心寂坊がこう言い張るので、

「では私が阿倍仲麻呂殿の弁護をいたすことにしましょう・・・心寂坊殿は広成殿が帰国できたについては阿倍仲麻呂殿の力が預かって大きかったことをご存じでしたか」

「・・・いいえ・・・」

「それは次のような次第です・・・広成殿は遭難して千里あまりの危険な隘路を命からがら逃れてきたのですから乞食僧より哀れな姿でした。それを助けたのが阿倍仲麻呂だったのです」

「・・・それはまた、どうしてそこへ阿倍仲麻呂が・・・」

「広成殿遭難の噂は長安にも伝わっていたのです。仲麻呂は広成一行が帰国できるよう、玄宗皇帝に対して渤海国王に親書をしたためてくれるよう懇願しました。渤海国は唐に滅ぼされた高句麗族が元の高句麗の北に建てた国です。則天武后の起こした陰謀がもとで唐は内乱状態になり、多くの民族が反乱独立しましたが、高句麗から逃げて山野に隠れていた大祚栄という人物が建国し、唐の軍隊と戦いながらこれをよく防いで、玄宗皇帝の即位を見計らって朝貢し、独立を認められたのです」

「渤海国は高句麗だったのですか」

「そうですとも。渤海国建国は日本歴に換算すれば和銅五年の事です。平城京への遷都は和銅三年でしたから、都には新たな時代の華やぎがありました。

 青丹よし奈良の都はさく花の匂うがごとく今さかりなり と 小野老が万葉集に詠ったのもこの頃です。渤海は唐との友好も考慮して遣唐使帰国のために船を仕立て日本に送り届けました。これを思えば仲麻呂の功績は大であったと申しても過言ではありますまい」

「まことに我が身の不明を恥じるばかりでございます・・・しかしせっかくでございますからお尋ねいたしますが、阿倍仲麻呂は母国への恩を忘れてはいなかったというのに、次に訪れた帰国の機会を何故みすみす取り逃がしたのでしょうか」

 心寂坊が次の機会と言ったのは、仲麻呂在唐三十六年目の天平勝宝四年(752)、藤原清河を大使とした遣唐使節が入唐した時のことを指している。この使節の中には吉備真備が混じっていた。大毘盧遮那仏の仏体に使用する黄金を唐国から購入する大役を帯びて入唐した真備は仲麻呂にこう述べた。『私のごとき者でも皇太子の学問の師となり、吉備朝臣の姓を賜って右京大夫に任じられている。君が帰国すれば高官に任じられるだろう。玄宗皇帝に尽くした力を是非とも日本のために使って欲しい』

 仲麻呂は心を動かされ、帰国を決意した。この時遣唐使一行は大変な人物と出会った。鑑真である。五度目の日本渡航に失敗して失明した鑑真はこの時、揚州の延光寺にいた。鑑真の弟子で日本僧の普照は大使清河らに面会を申し込み、鑑真和尚の日本への渡海を助けてくれるように懇願した。大使藤原清河は鑑真のもとを訪れ、密航を促した。それというのは鑑真の名声は玄宗皇帝の耳にも達していたが、皇帝は鑑真の日本渡航を許さなかったので密航より他に手段がなかったのである。鑑真は密航を決意し、阿倍仲麻呂の乗船していた第一船に乗り込んだ。

 ところがこれを何者かが役人に通報した。役人たちは直ちに清河を呼び出し、鑑真を遣唐使の船に乗せることはまかりならぬ、という厳命を下した。清河は困惑したが、唐政府の方針に逆らうことは出来ない。仕方なく鑑真たちを下船させることにした。ところが、副使・大伴古麻呂は『たかが役人に横槍を入れられたぐらいで下船させるとは何事だ』と、大いに憤慨して、鑑真らを自分の乗っている第二船に乗り込ませた。しかもこの事が鑑真に幸運をもたらした。というのは、鑑真を乗せた第二船は沖縄を経て十二月二十六日太宰府に到着し、真備の船もこれより先二十日に紀伊の国に着いたのだが、藤原清河と阿倍仲麻呂の第一船は遭難して安南(ベトナム)まで流さてしまったのだ。もしも鑑真が第一船に乗っていたら日本へ渡ることはなかったに違いない。また、この時、鑑真は膨大な教典・仏像・宝玉・書跡をもたらしたが、遭難していたらこれらは全て海の藻屑となっていただろう。鑑真がもたらした品々の中には、華厳経八十巻・天台智顗の摩訶止観などの他、玄奘三蔵の大唐西域記、王義之の真跡の行書一跡などがあったのだから、これらがこの世から失われていたとしたらどれほど重大な損失になったものか、想像を絶するものがある。しかし神仏は鑑真を見捨てず、日本の国に導き入れたのだった。

 だが不運にも仲麻呂を乗せた第一船は遭難した。沈没の報が遠く唐の宮廷にまで届けられ、皇帝は彼の死を嘆き、李白は悲嘆して詩を作った。

 日本の晁卿帝都を辞し 征帆一片蓬壺を遶る

 名月帰らず碧海に沈み 白雲愁色蒼梧に満つ

  (日本の晁卿は唐の都を辞去して、一片の帆に風を受けて仙人の住むという蓬莱山の島をめぐって消えていった。名月のように輝かしい才と美しさに満ちていた君は、今、深い緑色の大海原に沈んでいる。白い雲は深い愁いの色に染まり、悲しみが蒼梧の空に満ち渡っている)

 だが、仲麻呂は死んではいなかった。この時乗船していた者のうち百七十四人は野盗によって殺されたが、遣唐大使藤原清河、仲麻呂ら十数人は奇跡的に落命を免れ、長安に逃げ帰った。仲麻呂はこれにこりて二度と帰国を試みず、安禄山の乱で長安が壊滅し、楊貴妃が処刑されるのも見て後、乱の治まった長安に戻って鎮南(安南)都護の地位を得て、在唐五十年、彼の地で命を終えた。

 それから五十余年後の仁明天皇の御代、遣唐使として唐国に渡り、彼の地で亡くなった者に位を賜る詔勅が出された。この時、仲麻呂に与えられた位は正二位。

 大唐光禄太夫右散騎常侍兼御史中丞北海軍開国公贈路州大都督朝衡に正二品を贈る、と詔勅に記されている。

「これほどの称号を仲麻呂が大陸で得ていたとは何とも驚きですが、なぜ日本の朝廷は、彼の地に果てた者に正二品というような高位を与えたのでしょうか」と心寂坊は定家に尋ねた。定家はこれに次のように答えた。 「聖徳太子が小野妹子に遣隋使を命じて以来、大勢の者が危険を冒して海を渡り、ある者は役目を果たして幸運にも帰国したが、ある者は行き着かぬうちに海底の藻くずとなり、またある者は帰国船が難破して亡くなった。またある者は勉学の途中に命果て、あるいは運命にもてあそばれて帰国を果たせなかった者もある。こうした無数の者の犠牲の上に、遣唐使の歴史はある。故に、阿部仲麻呂はそうした人々を代表する者であると言うことができるのではあるまいか」

第七番目のものがたり 鑑真)

この私を楼台の暗闇に閉じこめてどうする気か・・・何日がたつのか。一椀の水もなく、何の沙汰もない・・・私は国力を傾けて完成した毘盧遮那仏の御仏を飾る黄金を買うために私は大唐国へ遣わされた・・・・。

  大船にま梶しじぬきこの我子を唐国へ遣る祝へ神たち

 光明皇后は合掌なさりながら御製をお詠い下さった・・・それを何の咎か、突然捕らえられ、閉じこめられた。他の者はどうなったのか。生きているのか。

空腹が睡魔となって四方八方からおそってくる。真備は壁によりかかってうとうとした。不意に馬のいななきが聞こえた。楼台の下で話し声がする。役人たちが上って来た。

「殺しに来たのだな」真備は胸の前で合掌し、大声で祈った。

「南無観世音菩薩どうかこの真備を護り給え」

 松明の光が祈りを捧げている真備の顔を朦朧と照らし出した。

「こいつ、死ぬどころか念仏を唱えてるぞ」

「飲まず食わずに生きているとは不思議だな」

「しかし日本国第一の秀才だけあって良い面魂をしているわい」

「我国の秀才も及ばぬそうな。それ程の者を殺して良いものか」

「秀才だから危ないのだ。この男は三十年前にも留学生としてやってきて、帰国する時には船に乗せきれぬほどの財宝を運んでいったという。もしこの度日本に返せば次に来るときには唐を攻め取ろうとして、大軍を率いてやってくることであろう」

「恩知らずな蛮人め。戦の種は刈り取らねばならぬ」

「まあ、待て、殺さずとも間もなく飢え死にするだろう」

 役人たちはがやがやと下りていった。足音が消えると漆黒の闇だ。何という暗さだ。これほど不気味な闇は、ただ事ではない。大きな異変の起きる予兆なのであろう。西域では異民族が唐の領土を侵犯し、唐軍は大敗したという。やがて唐国全体を闇が覆い尽くす兆しなのかも知れぬ。もし大唐国に変事が起きれば、我が国にも重大な影響が生じよう。この先、いかなることになるのか。真備は捕らわれの身であることも忘れて、故国の行く末を案じた。

 気がつくと、目の前に真っ青な顔の男が立っていた。

「懐かしいのう」男はさも親しげに微笑した。闇の中なのに、男の姿ははっきりと見える。「長い年月が流れたものだ」男はつぶやいた。「私がこの国へ渡った時、夏の雲のような夢が胸を満たしていた。それがどうだ。私は死人のように海辺を彷徨い、おまえは楼台につながれている」

 男の衣服からかすかに、海のにおいがする。

「なぜ私の名を知っている。いったい・・・おまえは何者だ」

「お前は、二度も遣唐使船に乗ってくるとは、大した奴だ」

憂いに満ちた真っ青な顔。浜辺の岩のように広い額。海藻のように薄い色の唇。見たこともない顔だ。

「私はおまえを知らぬ。よもや黄泉の国の使いではあるまいな」

「そうだとしたら何とする」男はにやりとした。「この姿ではそうも見えよう。だが死人ではない。おまえに会いに来たのだ」

「…」

「そう変な顔をするな。思い出してくれ。三十六年前、お前と私は遣唐使船に乗って海を渡ってきた。二人の名声は大唐国長安に大いに高まり、唐の秀才どもも、我らの前では顔色なしという有様であった」

「では、もしや・・・おまえは・・・仲麻呂」

「そうとも、私は・・・阿倍仲麻呂だ」

 真備は驚愕して声もなかった。玄宗皇帝の側近・寵臣となって秘書監兼公卿にまでのぼりつめ、李白、王維とも詩を競い合っているという昔の友が、まさか、目の前の男であろうとは。

「・・・何という変わりようだ・・・おまえは生きているのか」

「生きている・・・だが死んだも同然だ。というのも、私はやがて遣唐大使・藤原清河の第一船に乗り込むことになるからだ。第二船には、鑑真という盲目の高僧が大勢の供を従えて乗船し、君は第三船に乗るだろう。そして大暴風に飲み込まれ、離れ離れになり、私を乗せた第一船は安南まで運ばれるのだ」

「それは何の話だ・・・まだ乗りもしない船の事を何故お前は知っている。それに、お前を乗せた船が遭難するだと?」

「私は遭難し、お前を乗せた第三船は無事に帰国するだろう」

「・・・では、沈むはずのそのお前が何故ここにいる?」

「魂魄が体を抜けて、お前を助けるためにここに来ているのだ」

「では・・・お前は・・・仲麻呂の亡霊なのか」

「亡霊ではない。阿倍仲麻呂の魂魄が助けに来たのだ」

 仲麻呂は懐から貝や魚、海老蟹を真備の前に積み上げた。

「さあ食べてくれ」

「何と・・・なぜこのようなものがお前の懐に」

「日本国の知恵袋、吉備真備の命を何としても救え、と、八百万の神々が私に命じたのだ。」

 真備はぴちぴちと跳ね上がる魚や海老を目にして涙が川のように溢れた。真備は合掌し、神々に感謝して叫んだ。

『ああ、日本の神々は私をお見捨てにならなかった。イザナキ・イザナミの大神、八百万の神々、長谷観世音、宇佐八幡、春日、鹿島、香取の神々・・・伏してお礼申し上げます。私は、与えられた役割を必ずや果たし、毘盧遮那仏の御体を飾る黄金を船いっぱいに積み込んで都に戻ります。神々のご加護があれば、私は死しても役目を果たさずにはおりません』

 真備は両手を会わせ、故国の方角に向かって九度叩頭した。それから少しの間ためらっていたが、「さあ、食べよ」という仲麻呂の声に促されて食べ始めた。生の魚も料理したもののように美味しかった。真備は満腹するまで食べてしまった。

「このように食べたのは子供のころ以来だ」真備は笑った。

「まことにお前は子供のように食べたな・・・これから私は毎日山海の珍味を運んでこよう」

「それはありがたい。がしかしいつまでもここにいるわけには行かぬ。それより私をここから救い出してくれ」

「それはできぬ」

「何故できぬ?」

「もしここを逃げれば日本国の使節という大役を捨て、罪人として追われる身となろう。そうなっては、故国へ黄金を持ち帰ることなど到底できぬ」

「しかし、他に方策はあろうか」

「案ずるな。あと一月もすれば、自由の身となろう」

「どうしてそのようなことが言えるのだ」

「唐の役人たちはおまえを餓死させようとしている。おまえがこの国第一の囲碁の名人を破ったために、お前を日本へ帰せば、その知恵と力で、日本は大国となり唐の脅やかすであろう。その畏れが現実とならぬようにお前を殺す算段なのだ」

「何と、愚かな」

「だが、彼らはお前を餓死させることはできぬ。この私が毎日食べ物を届けに来るのだからな。お前は、二十日、五十日と生きている。それを見て唐の役人はお前を人間の力を超える者、神か仙人だと思うであろう。人間は、神や仙人を罰することはできぬ。人間が神を敬わねば、どのような祟りがなされるか、その罪は計り知れない。唐は安禄山の反乱軍と戦い苦戦を強いられている。もしも神の怒りを買えば唐軍は大敗するだろう・・・唐の国の役人はそれを恐れて、お前を釈放するに違いない」

 仲麻呂は青い顔で自信ありげに頷いた。

 それから十日後、役人が真備の死骸を見届けに来たが、以前より生き生きとしているのを見て驚愕し、階段を転げ落ちるようにして逃げていった。翌日、大勢の役人や高官が確かめに来たが真備が悠然と端座している姿を見て、愕然とし、膝をついて礼拝すると何事かささやきながら去って行った。

「さきほどの様子では、やがて釈放されること間違いなしだな」と仲麻呂は言った。

「ありがたい。何もかも君のおかげだ。これで同じ船で帰れるな」真備は仲麻呂の手を握った。すると彼は、

「いいや帰れぬ。私が船に乗れば必ず遭難する。安南まで流されるのだ。そのような苦労をしてまで帰りたくもない」

「遭難などするものか。君は既に危険を知っているのだから航路を変えることもできよう。我が国は、君のような者の力が必要だ。どうかいっしょに帰ってくれ。」

 真備がこういうと、仲麻呂は大きくため息をついた。

「お前はいくつになっても若い。まるでうぶな青年を見るようだ。お前のようなやつが、国を造るには必要なのだろう」

「君が私と力を合わせれば、何倍にもなる」

「いいや、日本に渡るのは私ではない。鑑真和上だ。まあ、聞いてくれ。噂によれば鑑真は五度までも渡航に失敗し、艱難辛苦が彼を盲目にしたが、しかしそれでもなお海を渡ろうとしているという。皇帝は鑑真の命を惜しみ渡海を禁じる詔勅を出したが、鑑真の心は決まっている。彼の全身は、仏法を日本に伝えようとする喜びであふれている。信念の力が光となり、輝きが衣を通して四方に飛び散ってあたりを圧している。あのような人物こそ、お前は日本に連れ帰らねばならない」

「では、お前は残るのか」

「私の役目は大唐国の行く末を見届ける事だ。おそらく、日本人で、それができるのは私だけだろう。楊貴妃という一人の女が世界で最も美しく、富み栄えた国を滅ぼす様を、最後の一場面まで見届ける。これは大きな役割だ、そう思ったとき、私の目に、お前が見えたのだ・・・私がお前を救うのは、お前のためではない。日本という若々しい国のためだ。そして、私の小さな欲望のためなのだ。だから、どうか、真備よ、私がこの国に確かに居たということを、どこかに書きとどめてくれ・・・そして私の遺書を預かってくれないか」

 仲麻呂はそういい終えて、懐から小さな紙片を取り出した。見ると、そこには歌がひとつかきつけてあるだけだった。

天の原ふりさけみれば春日なる

三笠の山にいでし月かも

第七話 了 

阿倍仲麻呂の生涯 

717年(養老元年) 第九次遣唐使(正使・多治比県守 副使・藤原宇合)に加わる。同期留学生に吉備真備・玄昉がいた。

 唐の科挙に合格、玄宗皇帝に仕える。

728年 左補闕に任官。李白・王維などと親しく交わる。

733年(天平6年) 第十次遣唐使(正使 多治比広成)と共に吉備真備・玄昉帰国。この時、真備らの第一船のみが無事に帰国したが、残りの船は難破。仲麻呂の奔走で広成らは渤海国を経由して帰国することができた。

752年(天平勝宝四年)第十二次遣唐使船が来唐(正使・藤原清河)。翌年、仲麻呂は遣唐使と共に帰国を試みたが難破。唐の朝廷に仲麻呂落命が伝わると李白は彼の死を悼み七言絶句を詠み哀しんだ。しかし仲麻呂は生き延び、二年後に唐の朝廷に復帰。

    この時の李白の歌

756年 安禄山の反乱軍に唐軍敗退。玄宗皇帝は長安を脱出、蜀へ逃れた。楊貴妃は皇帝を惑わせた罪により絞殺。

760年 鎮南都護・安南節度使に任命され、ベトナム総督として赴任。以後6年間ベトナムに在任。 770年 唐国で死去。七十三歳。