百人一首ものがたり 69番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 69番目のものがたり「大物主大神」

和歌挿入

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「このお方はとても興味深い人物ですよ」と定家は述べて心寂房に聞かせた話というのは、「ある時伊予守藤原実綱に誘われて伊予国に赴きましたが、伊予の国は日照り続きで稲は今にも枯れそうになっていました。実綱は大いに困惑して、『社寺では既に雨乞いをしたのに何の効験もなかったようなのです。どうしたらよいものでしょうか』と能因法師に相談したので、『加持祈祷をしても効験がないとなれば歌を捧げるのが良いかと存じます。花に啼く鶯や池に鳴く蛙ばかりでなく、鬼や神も歌が好きであると昔から伝えられておりますから、ひとつ試してみることにしましょう』と述べて、幣(みてぐら)に、
 天の川苗代水にせき下せ天降ります神ならば神
(神様、あなたが天から天下ってこの世を治めておられる神であるなら、天に流れている川もあなたの意のままになるのでしょう。どうぞ天の川の水を苗代水に流して下さい)と書いて捧げると、燃えるように乾いた空が一天俄にかき曇って、三日三晩降り続け枯れそうになっていた五穀は生気を取り戻したので国司も民百姓もこぞって手打ち足ならして歓喜したという事です」
「それは偶然でございましょうか」
「いいえ、能因法師は自分の心は清いのだから、神は必ずお分かり下さると信じていたのでしょう。というのも、能因法師は大学に学んだ後二十六歳まで文章生として研鑽を積んでおりましたから古代の日本書紀の雨乞いの話も知っていたと思われます」
 定家は書棚から『日本書紀』を取り出して皇極天皇元年(642年)の条を開いて日本最古の雨乞いの儀式を読んで聞かせた。
戊寅。羣臣相謂之曰。随村々祝部所教。或殺牛馬祭諸社神。或頻移市。或祷河伯。既無所効。蘇我大臣報曰。可於寺寺轉讀大乘經典。悔過如佛所訟。敬而祈雨。
庚辰。於大寺南庭嚴佛菩薩像與四天王像。屈請衆僧。讀大雲經等。于時。蘇我大臣手執香鑪。燒香發願。
辛巳。微雨。
壬午。不能祈雨。故停讀經。
八月甲申朔。天皇幸南淵河上。跪拜四方。仰天而祈。即雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。
「これによると蘇我蝦夷が菩薩像や四天王像を安置し、多くの僧侶に大雲経を読誦させ、蝦夷自身も香炉を手に持って香を焚いて降雨を祈願したがほんのわずかしかお湿りがなかったので儀式は中止となった。そこで日を改めて皇極天皇が跪拝して祈りを捧げると、突如天は雲に覆われ雷鳴が轟き大雨が降りはじめ、雨は五日間降り続き、御陰で九穀は完全に熟した。天下の百姓はこぞって天皇の徳を称え、万歳を叫んだ、ということです」
「まさしく、天皇の徳が天に通じたのでございましょうか」
「その通りでしょう。しかし日本書紀は天皇の行いが常に正しいと書き記しているわけではありません・・・ところで私はいつぞや能因法師が長柄の橋の鉋屑を宝として懐深くしまっていたという話はお聞かせいたでしょうか」
「はい・・・何でも友人の藤原節信という者と親しく話した折、法師は《これは私が長年宝として持っているものなのです》と錦の袋の中から鉋屑を取りだして見せたとか・・・」
「左様、その長柄の橋ですが、なぜ能因法師はつまらぬ木屑を宝物としていたのか、そのわけもお話したでしょうか」
「さてそれはまだうかがってはおりませんが」
「ではお話いたしましょう・・・高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり、この歌は周知の仁德天皇の御製ですが、この歌だけを見ると聖帝の名に違わぬ優れた天皇ということになります。しかし実は過ちも犯しました。その一つが新田開発の時の出来事です。まむたのつつみ茨田堤を築こうとした時うまく行かぬ場所が二カ所ありました。天皇が悩んでいると夢に神が現れ《堤を無事築きたければ人柱を立てるべし。一人は武蔵人くびこわ頸強。もう一人は河内人茨田連ころものこ衫子である》このようにお告げがあったので、直ぐさま両名を人柱に立てました。武蔵人頸強が泣き悲しんで水に沈められるとそれまで築けなかった堤が出来たので、次に茨田連ころものこ衫子を沈めようとしました。この時衫子は瓢箪を二つ取り出して川の中に投げ入れて《河の神よ、お前が本当に神であるなら、そこに浮かんでいる瓢箪を沈めて見よ。もし瓢箪が沈んだら、私も頸強と同じく人柱となろう。しかし沈められなかったら偽の神なのだから言う事など聞くものか》とこう叫んだ。とたんに風が吹いて一度は瓢箪は沈んだかに見えたけれど、すぐに浮かび上がって二度と沈む事はなかった。これをみた人々は衫子の命を惜しんで懸命に堤を築いたので見事に完成した。人々は衫子を称え、頸強を弔って、堤に、
『頸強断間(くびこわのたえま)』(」)
『衫(ころも)子(のこ)断間(のたえま)』(」)と名付けたのです」
「その逸話は、神にも偽物と本物がいるという事でしょうか」
「いいえ、支配者は人民を犠牲にして政事を行ってはならぬという事でしょう・・・さてところで長柄橋の鉋屑の話ですが、能因法師がこれを宝にしていたのにはわけがあるのです・・・文徳実録にも記されている事ですが、長柄の橋は交通の要衝でありながら度々壊れて人馬が不通になることがありました。そこで摂津国守は朝廷に『河に二隻の渡し船を置いて通行の便宜を図りたい』と建言して受理され、渡し船が設けられました。しかし渡し船ではやはり限りがありますから人々が不便を嘆いていたところ、嵯峨天皇は勅命で橋の工事を命じ、弘仁三年見事な橋が完成したのです。能因法師は人の世が進み、人柱の迷信に頼る事なく橋が出来た事を大いに喜んで、橋をこしらえたときの鉋屑がどこかにないものかと探し歩いき、とうとう手に入れたのでこれを錦の袋に入れて宝物としたのです」
「・・・何とも、尊いお方でございます」
「能因法師は長柄橋にちなんで、伊勢と歌を交わしています。伊勢は宇多天皇の寵を受け、天皇が譲位された後は敦慶親王と結ばれて中務(なかつかさ)の母となりましたが、宮中を下がった後は暮らし向きも困り、詠んだ歌が、
津の国の長柄の橋もつくるなり
今は我が身を何に喩えむ
(津の国の長柄の橋も朽ち果てて新しく造らねばならぬほど時が経ってしまいました。これまでは年老いた私を長柄の橋に喩えてまいりましたが、橋が新造されるとなったら、私の老いを何に喩えたらよいのでしょうか)
この歌に、能因法師は
 朽ちにける長柄の橋の汀には
春霞こそ立ち渡りけれ
(あなたさまはご自身も年老いたと嘆いておられますが、ごらん下さい、橋の立つ渚には春霞が美しく棚引いています。どうか老いて醜いなどとおっしやらないで下さい)

「それはまことによいお話でございますが、しかしこのお二人は百年ほども時が隔たっておりますから歌のやりとりはとても」と心寂房が述べると、
「歌というものをそのようにお考えになってはなりません。歌は時代を超えて生きるものです。優れた歌人には昔も今もありません。いつの時であっても自在に行き来することができて初めて良い歌が生まれるのです。本歌取りはそのようにして詠み合うものです。それをただ単に古歌から言葉を借りただけでは本歌取りとは申せますまい・・・さてそれはともかくとして心寂房殿、私はこれから能因法師のものがたりをお聞かせいたしますが、よくよく心を整えませんと理解できませんよ。世には能因法師を侮って〈つまらぬ歌を詠んだ取るに足らぬ歌詠み〉などと申す者が少なくありませんが、そのように謗る者は能因法師の心が大きすぎて分からないだけなのです」とそう言って草稿を読み始めた。

第69番目のものがたり 「大物主大神」 )

 紅葉の山の奥から歌声が聞こえる。いったい誰が歌っているのかと森を分け入って行くと、大勢の神々が酒を酌み交わして笑いさざめきながら歌っている。

         ()神酒(みき)は 我が神酒(みき)ならず

    やまと成す(なす) 大物主(おほものぬし)の ()みし神酒(みき)

      幾久(いくひさ) 幾久

 これはいったい・・・能因法師が声もなく眺めていると、一群の神々が立ち上がって、

味酒 三輪の殿の 朝門(あさと)にも 出て行かな 三輪の殿門(とのと)

このように詠うと中で最も高貴に見えるお方が杯を上げて、

味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を

 こう詠った。神々は高貴な神を囲んでまた詠った。

         此の神酒は 我が神酒ならず

    やまと成す 大物主の 醸みし神酒

      幾久 幾久

 神々はこう歌って酒をうまそうに飲んだ。これを見て神々の輪の外に控えていた烏帽子の男が紅葉の枝をかざして、

   我が衣色どり染めむ味酒(うましさけ) 

三室の山は黄葉しにけり

 能因法師は愕然とした。あれは柿本人麿様の歌ではないか・・・なぜあの男が人麻呂様の歌を・・・それに神々が三輪の山の歌を詠っているのに、人麻呂様は三室と言っている・・・私はかねがね三室山はどこにあるのか疑問に思っていたが・・・三室山は三輪山の事だったのか・・・能因法師があれこれと考える間にも酒盛りは続いていたが、突然黒雲が山を覆ったかと見る間に大風が吹き始め、紅葉の山はすさまじい嵐に呑み込まれた。能因法師は立っていることも出来なくなり、目を閉じて岩の陰に隠れていた。しかし風が収まったのであたりを見回すと、大勢の神々も人麻呂の姿も見えず、巨木の聳え立つ深い森があるばかりだった。

 木々の生い茂る彼方に砦のような堅固な建物が見え、側を渓流が音を立てて流れている。どこからか女の詠う声が聞こえる。

  狭井河(さいがわ)雲立ち(くもだち)わたり畝火山(うねびやま) 

木の葉さやぎぬ 風吹かむとす

 美しい女は青ざめた顔で震えながらまた詠った。      

   畝火山昼は雲とゐ夕されば 

風吹かむとす木の葉さやげる

「何と不吉な歌だ・・・なぜあの女は恐ろしい歌を・・・」訝っていると女は能因に気付いてギョッとして身を縮めた。

「だれ、あなたは誰です」

「私は旅の歌詠みです・・・今し方恐ろし歌を聞きました。あなたはなぜあのような歌をお詠いになったのですか」

「ああ、どうか私にかまわないで下さい」

「しかしお顔が真っ青です。出来る事ならお力になりましょう」

「いいえ、あなたにはどうにも出来ません」

「見知らぬ者なので信じないのですね」

「そうではありません。誰にも止められないのです」

「止められないとは・・・」

「・・・私の夫が・・・私の子を殺そうとしているのです」

「まさか」

「私の先の夫は神武天皇、諸国を征伐し、大和に国を立てました」

「・・・神武天皇・・・?・・・」

「夫は神の如き天皇でした。天皇は伊須気余理比売(いすけよりひめ)であるこの()皇后(こうごう)とし、三人の皇子が生まれました。ところが(わたし)(おっと)多芸志美美命(たぎしみみのみこと)は私の皇子等を殺そうとしているのです」

「あなたの話は少しもつじつまが合いません。あなたの夫は神武天皇だと言ったのに、今は多芸志美美命(たぎしみみのみこと)が夫などとは」

「神武天皇は私の先の夫でしたが、天皇が身罷られると多芸志美美命が私に言い寄って妃にしてしまったのです。この夫は神武天皇の子ですが、私より前に妃であった日向の豪族の娘阿比良比売(あひらひめ)に産ませた皇子なのです」

「・・・お待ち下さい。私は文章生の頃、日本書紀を幾度も読み、神武天皇についてはよく存じております。書紀には神武天皇の后は(ひめ)踏鞴(たたら)五十鈴(いすず)媛命(ひめのみこと)とあり、伊須気余理比売(いすけよりひめ)の名は見えません」

「後の世の者が恐れて私の名を消したのです。しかし帝紀や旧辞には必ず見えましょう・・・また後の世の者が編んだ古事記という書物には記されていると聞きました」

「古事記は奈良の御代に編纂されましたが、平安の御代になってから後、読む者は誰一人おりません。しかし古事記に記されているとしたら、あるいは本当なのでしょう・・・それにしてもあなたのお話はあまりにも入り組んでいます・・・あなたは神武天皇の皇后だった・・・天皇が身罷ると、天皇の長男と結婚した・・・しかもその夫が、あなたと神武天皇との間に生まれた三人の皇子を殺そうとしている・・・そうおっしゃるのですね」

「その通りです・・・それに、そうなる事は分かっていたのです」

「分かっていた?」

「そうです・・・大物主大神が予言していたのです」

「予言?」

「大物主大神は私の父です。父は私に申しました『神武天皇に私を祀らせよ。さもなくば、この国に禍が充ちるであろう』・・・そこで私は天皇にこの話をしましたが天皇は《大和の国の王が出雲の国の神を祀る事はできぬ》と取り合いませんでした。すると神武天皇の命がたちまち尽きて身罷られ、この国は予言通り、万の災いに苦しむ事になったのです」

 女の話によれば、大和の国の天皇が出雲の国の神を祀る必要があるのは次のような神代の出来事が原因しているという。

《はるかな昔、大和国の神々は出雲国に戦いを挑みました。戦は果てしなく続き、双方の国はまさに滅びる寸前まで追い込まれました。そこで和議を結ぶ事にしたのですが、大和国の神々から全権をゆだねられたのは建御雷神、出雲国側は大国主命でした。両者は次の事を約束して合意しました。その合意というのは、出雲国の神々のために、大和の神々の宮殿と同じ程に千木を高くそびえさせて神聖な宮殿を造る事。これが為されれば、出雲国は矛を収め、出雲神々は遠くに隠れ、大和に害を及ぼすことはないであろう。このように合意して、大饗宴を催され和議は成立して出雲国は大和国に従うことになりました。ところが約束は守られませんでした。出雲に立てられた宮殿はすこぶるみすぼらしく、それも一つ建てられただけだったのです。出雲国の神々は大いに怒りました。そこで大国主命は盟約を守らせるために大物主大神と成り、大和国にやってくるとまず、神武天皇に果てしない戦の日々を与えました。しかしこれだけでは足りません。そこで天皇の身体に出雲の神の血筋を送り込むことにしたのです。その方法というのは、次のようでした。

 難波の三島の郡に三島溝咋(みしまのぞくひ)の娘で勢夜陀多良比売(せやだらひめ)という名の世にも美しい娘がおりました。噂を耳にした大物主大神は密かに丹塗りの矢に姿を変え、厠に流れ込む川の上流に潜んで待っておりました。それとも知らぬ比売が用を足しに厠に入ると、丹塗り矢に姿を変えた大物主大神は流れに乗って来て、彼女のほと(陰所)をスッと突いたのです・・・彼女は驚きあわてて、ほとに刺さった矢を自分の部屋に持ち帰って寝床の辺りへ置くと、矢はたちまち麗しい神となり、《私は大物主大神である。そなたを妻とすることにした》と述べました。勢夜陀多良比売(せやだらひめ)はこうして大物主大神の妻となり、伊須気余理比売(いすけよりひめ)であるこの私を産みました。

 大臣の大久米命は私を后に相応しいと知って天皇に勧めますと天皇は私をひと目見て気に入り、直ぐさま共寝して詠いました。

 葦原のしけしき小屋に菅畳(すがだたみ)

いや清敷(すがし)きて我が二人寝し

 こうして天皇と私の間には日子八井命、神八井耳命と神沼河耳命の三人の皇子が生まれました。三人は大和国の天皇の血筋と出雲大物主大神の血筋を受け継いだことになります。大物主大神の目論見は見事に実現したのです。でも大物主大神は満足しましませんでした。

 父はこう申されました。《私の子伊須気余理比売(いすけよりひめ)は皇后になったが、まだ十分ではない。盟約は公の形として現されねばならぬ。公の形とは、大和国の天皇が出雲国の神々の魂である大物主大神を祀る事である。それが為されぬ限り、災厄は永久に続くであろう》父はこのように申して神武天皇の命を奪い、皇子同士の争いが起こるように仕向けたのです』

「では・・・多芸志美美命(たぎしみみのみこと)と他の三人の皇子の争いは大和の国が出雲国との盟約を破ったために生じたというのですね」

「その通りです。天皇が大物主大神を祀らぬ限り、この世から災厄が消えることはないでしょう。父がそのように仕向けているのですから・・・災厄は絶え間なくこの国を苦しめるでしょう」

 あたりを見渡すと、累々と屍が転がり、蠅が真っ黒に群がって生き物の姿は見えなかった。

「・・・書紀には第十代崇神天皇の御代に疫病が流行り、国民の大半が死に絶えたと記されていたが、まさか真実とは・・・」

「全て真実です。天皇は天照大神はじめ八百万神々を祀ったのですが万の災いは少しも止まなかったのです」

「ではいったい、この国はどうなるのですか」

「天皇が大物主大神を祀らぬ限り、禍は絶えません。しかしもし天皇が過ちに気付いて出雲の神を祀れば災厄は止むでしょう」

 

 荒れ果てた宮殿が見えた。崇神天皇は御心を病んで床に伏せていた。宮廷の役人も豪族たちも飢え、苦しみは永劫に続くかと思われた。ところがそれまで死んだように横になっていた天皇は突然起き上がった。天皇は大臣と豪族たちを召し出して、

「夢枕に大物主大神が顕れ次のように仰せになった。《この国の災いは神代の昔、大和国が出雲国と交わした盟約を違えた事から生じたものである。故に、意富多々泥古(おおたたねこ)を以て我を祀れば、神の祟りは止み、国は平安になるであろう》」

 大臣たちは国中に使者を遣わし、河内の美努村に意富多々泥古(おおたたねこ)が居ると知ると直ぐさま宮殿に招き入れた。意富多々泥古(おおたたねこ)は天皇に奏上した「大物主大神を三輪山にお祀りすれば天下は平ぎ、人民は富み栄えましょう」

 天皇は三輪山に大物主大神のために荘厳な社を千木高く建て、多くの供物を捧げ、赤色の盾矛を祭り、三輪山の坂の神、川の神、淵地の神など悉くに幣帛を奉った。また八百万の神々を祀り、天社(あまつやしろ)国社(くにつやしろ)神地(かむどころ)神戸(かむべ)を定めた。赤や黄色や緑の旗が山を染めて靡き、黄金の盾や銀の矛は日の光に目映く輝いた。人々は国に平安を取り戻した天皇を称えて()初国知(はつくにし)らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)()とおよびしたのだった。

       山の中から歌声が響いてくる。

      此の神酒は 我が神酒ならず

    倭成す 大物主の 醸みし神酒 

幾久 幾久

 色とりどりに靡く旗や木々の光の中で烏帽子を被った人麻呂が詠っている。

  我が衣色どり染めむ味酒(うましさけ) 

三室の山は黄葉しにけり

 能因法師は耳を傾けて歌に聴き入っていたが、ふと目を開けると、旗や矛はもう見えず、山一面に秋の色が映え、川面には山の彩が輝いていた。能因は詠った。

  嵐吹く三室の山のもみぢ葉は

竜田の川の錦なりけり