百人一首ものがたり 68番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 68番目のものがたり「物の怪」

心にも あらでうき世に ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

 粉雪が舞う中をやってきた心寂房の顔が真っ青なので定家は心配して明恵上人から贈られた茶を振る舞うと次第に生気を取り戻して、「雪道を歩くのは苦しいばかりでございますので、次はどなただろうとそればかり考えておりましたが」
「ではどのような名が頭に浮かびましたか」
「雪の中を歩いておりましたら、
ふりすてし雪けの空を眺めつつ
我は我とも恨みつるかな
という和歌がふと思い出されましたので、この歌の主の大納言経信さまなどはいかがかとと思いましたが」と心寂房がいうので定家はもっともと頷いて、
「大納言経信は大層な歌人ですからいずれそのうちにと考えておりますが、この度は思い直すことがありまして少し元に戻ろうと思っているのですよ」
「戻るとは・・・」
「昨夜寝ておりましたら、都をば霞とともにたちしかど秋風ぞふく白河の関、と詠う声がしましたので、見ると枕元に色の黒い僧侶が立って『そなたはこのわしを忘れたのか』と睨らみつけますので『もしや能因法師の亡霊』と愕然としていると『行尊、周防内侍はわしより百年も後の歌人。わしを百人の中に加えぬ積もりなのであろう』と声を荒げますので、『いえ、この後かならずお加えいたします』と約束するとたちまち消えたのですよ」
「夢に現れて催促するとは驚きましたが・・・それでは、今度は能因法師でございますか」
「いえ、その前に取り上げねばならぬお方がいるのです」
「法師の前となれば、能因法師の師匠、藤原長能殿でしょうか」
「なるほど長能とは良きお方。新古今集を撰集して居りました時、
袖ひちて我が手にむすぶ水のおもに
天(あま)つ星合の空をみるかな
という長能殿の和歌に胸を突かれた思いをした記憶がござります。しかし、私が選んだのは三条院です」
「三条院?・・・三条院という帝は不遇であられたと聞いておりますが、和歌につきましてはまったく存じません」
「それも道理、私も新古今集を撰集するまでは帝の歌には馴染みがありませんでした。ところがあれこれと見ておりますうちに、
 秋にまたあはむあはじもしらぬ身は
今宵ばかりの月をだに見む
という和歌に出会いました。これは詞花集に収載されておりますが、道長の『この世をば』と同じ時に詠まれたのですよ。本来であれば『欠けたる事の無し』と詠うべきは帝でありましょうに、帝は『来年の秋は生きているのかどうか分からぬので今夜の月を心ゆくまで眺める事にしよう』と嘆いているのですから傷ましい気持ちが致します」
「・・・同じ時期に正反対の和歌をお詠いとは・・・」
「大鏡には次のようなことが記されています。
《三条院は年来のご眼病のためにいろいろと手をつくしご治療なさいましたが効き目は一向にありませんでしたのは、まったくもっておいたわしいことでございました。
 もともと風の病が重くていらっしゃいますところに、医師達が『小寒から大寒までの寒中の冷水をお頭(つむり)にささぎなさいませ』と申しましたので、氷の張り詰めている水をたくさんおかけになりましたところ、大層ひどくぶるぶる震えになり、お顔の色もお変わりになってしまわれたのはまことにお気の毒で悲しい事と、御側の人々がお見申し上げた事でございました》・・・三条院がこれほど辛い身の上であったのに道長は、『目が不自由では太政官の上奏文を読むこともままならないでしょうから、ご退位されてはいかがですか』、と再三迫ったと記されておりますから、帝は一日として穏やかでは居られなかったでしょう」

第68番目のものがたり 「物の怪」 )

 ある日、大納言公任は密かに帝に呼ばれた。
「そなたに特別な頼み事がある。速やかに丈六の五大尊を作ってもらいたい」
「五大尊でござりまするか」
「その通りである。嵯峨帝の御時、弘法大師はこの世の乱れを正し、国を救うために仁王経を修し、護国鎮護、天下安寧を祈って五大明王を祀られた。それから二百年、今、天下は必ずしも安泰ではない。内裏は焼亡して我が身の置き所すらなく、左大臣道長の枇杷殿に身を寄せている有様である。何と無力なることよ。桓武・嵯峨の帝がご覧になられたらどのようにお嘆きになられるであろう。故に私は天下万民の安寧ため五大尊を祀ろうと思う。この願いを公卿たちとはかり、速やかに造立してもらいたい」

 大納言公任は仰せを聞きながら大いに困惑した。帝の耳に入れる者は誰もいないので何一つ事情をご存じないからこのような事を仰せになるのであろうけれど、五大尊の建立などとても無理ではあるし、それより左大臣の耳に入れたら激怒するに決まっている。先頃大将頼道が瀕死の大病を患ったのだが、その原因は三条帝と大いに関係があるのだ。
 大将殿は二週間前から突然具合が悪くなり、御風ではないかというので後湯茹でをなさったり厚朴を食したりしていたがますます悪くなるので、園城寺の明尊阿闍梨に夜通し加持祈祷の奉仕をさせたが全く効験が見られない。道長は心痛しての陰陽師の光栄や安倍晴明の息子の吉平に占いをさせると『物の怪』であるとか、『神の祟り』であろうとか、『誰かの呪いでござります』などと口々に言うので道長はすっかり動顛し、上の前の倫子さまもいたたまれない気持ちになっているので、ありとあらゆる修法を命じたところ、なくなった具平親王の霊が頼道の側近くに仕える女房に取り憑いて、道長を近くに呼んで『大臣は頼道の妻に私の娘、隆姫を迎えておりながら、三条帝の第三皇女である禔子内親王を妻として迎えようとしているであろう。もしそうなったら私の娘の隆姫はおろそかにされるであろうから、それが心配で物の怪となって頼道に取り憑いたのだ』と言う。道長は驚愕して『あなた様の娘の隆姫をおろそかにするような事は決していたしません』と誓うと、物の怪は『確かにそうか』と念を押すので『三条帝の皇女は決して嫁にいたしません』と固く約束したので、女房に取り憑いた物の怪は消え、同時に頼道の病はすっかり癒えてしまった。それはつい三日前のことなので、このような時に『五大尊の建立を三条帝が望んでおられる』などと道長に伝えれば『息子が死にそうになったのは三条帝がいつぞや《禔子内親王を頼道の妻としてはくれぬか》と言ったので、素っ気なく断るのもどうかと思ってあいまいにしておいたところ、具平親王の物の怪が頼道に取り憑いて危うく殺されそうになったのだ。それを五大尊とは、何と勝手な言い分だろうか』と怒るのは必定である。しかし帝が仰せになられた事を伝えぬままにすることも出来ない。公任は大いに窮して帝の御前を退出すると、重い足取りで道長の御殿を訪れたのだった。すると驚いたことに、道長は既に話の一部始終を承知していた。道長は公任を見下ろして、
「このこと、公卿に計るべからず。左大臣道長もまた一切承らず」と憤怒の形相を浮かべて公任を睨みつけると「そのような事より、三条帝がいつご譲位なさるおつもりか、それをはっきりと聞いてきてもらいたい。帝の御脳はいよいよ暗く、太政官からの書類をお一人で見る事も出来ぬ有様。一日も早く退位されるのが国のためでござろうぞ」

 『五大尊建立不可』、左大臣はただちにこれを帝に伝えるべしと命じたが、あれほど念願しておられるのに、陣座で諮ることもなく左大臣の一存で不可となれば帝の心はどれほど傷つくであろうかと思うと公任はとても帝にお目に掛かることが出来ず、そのまま邸に戻ると食事もせぬまま床についた。と真夜中、苦しさで目が覚めた。何か重いものが身体を押さえている。手も足も動かすことができない。息はますます苦しい。もがいていると、すぐ側で誰かが悲鳴を上げている。見ると左大臣道長ではないか。松の根のように大きな足が道長を踏みつけている。降三世明王が怒髪を天に突き立て、目を剥き出してこっちを睨んでいる。降三世明王は『薬子の乱』の時にその両足に薬子と仲成を踏み砕いたが、今、左大臣道長と私の二人を踏み殺そうとしている。公任は大声で命乞いをした。《降三世明王様、どうかお助け下さい。私は帝のために五大尊をお祀りいたします。もしそれが叶わなければ出家して帝にお詫び申しあげます。どうか、お許し下さい》
 己の声に驚いて目を開けるとあたりには誰もいなかった。
《夢だったのか》公任はすぐに身支度を調えると、早々に参内して、左大臣の言葉を帝にお伝え申しあげた。三条帝は大納言の話をお聞きになられて、
「道長がそのように答えるであろう事は分かっていた。しかし五大尊をお祀りしてこの国をお護りいただきたいという念願は少しも変わらない。しかるべき絵師を呼んで五大尊を描かせてはもらいたい」と述べられた。公任は畏まって「そのように手配いたします」と答えた。帝は「そうか」と述べて、まるで良く見えるような眼差しで公任を見つめていたが、ふと、「ここは息苦しい。どこぞ人気のない広々とした部屋に連れて行ってはくれまいか」と仰せになるので、大納言はお手をとって松の木が見える回廊にご案内申しあげた。帝は公任を見つめて、
「大納言に問う。国とは、何であるか」お訊ねになられた。公任は不意を突かれて、「帝はなにゆえ私にそのような難問をお尋ねになられるのでしょうか」とおききした。帝は、
「私はそなたの立場は良く分かっている。それ故無理難題を申しつけるつけるつもりはないから安心せよ。私は間もなく退位しようと思う」
「・・・」
「道長があれほど幾度も迫っているのであるから、公卿らもそう願っているのであろう。しかし、私が帝位にあるわずかの間だけでも、この日本が良き国になった、と思えるかすかなしるしだけでも見たいという願いが叶えられなかったのはまことに口惜しい。昔の偉大な天皇はそれぞれに業績をお遺しになられた。私が五大尊をと願ったのも、せめて国家鎮護の仏像をお造りし、この国に貢献したいという願いから出たものである。朝廷ではみな、私が《脳を病んでいる》と公言している。私の父冷泉帝が憑き物に捕らわれて狂気に陥ったので、私もまた同様の病に取り憑かれるのではないかとみな恐れているのだ。大納言もあるいはそのように思っているのかも知れぬ。しかし心配することはない。私が病んでいるのは目だけである。目が良く見えぬ故、さまざまな迷惑を掛けていることは我ながら情けなく思う。しかし私の脳は、みなが危ぶむほど病んでいるわけではないぞ。それ故、これから話すことは、狂人の戯言などではないと思って聞いてもらわわねばならぬ」
「・・・」
「我が国は古来より朝廷によって運営されている。公卿たちが集う陣定(じんのさだめ)はその要である。陣定で政を行う者は、すべからく常に国を思って行動せねばならない。国は、この世に生きるもの全てのよりどころである。国は命を育む場である。山川草木みな国の宝である。我が国は今、平和を楽しんでいるかに見える。干戈の響きは絶えて久しく、海の幸山の幸は列をなして都へと運ばれている。だがこの平和は真実のものであろうか」
「・・・」
「昔読んだ弘法大師の書物に次のようなことが記されていた。《帝王とは何か。もろもろの庶民が尊び重んずるもの、これを帝王という。「仁」とは何か。上下の人々が互いに相親しむこと、これを仁という。「経」とは何か、貫き通して、ばらばらにしないという意味である。言葉の秘密を縦糸とし、心の秘密を横糸として、身体と言葉と心・意の三つの働きの糸を織ってすべての存在が流れいる海のような錦とするものである》と、これは【大日教開題】というものに記されていた言葉である。
 弘法大師によれば、国を治める権力者と衆生と仏は精妙な織物の糸のように互いにからみあい、支えあって存在しているという。国をないがしろにして人は生きることはできず、民をないがしろにして天皇は存在し得ない。あらゆる存在は、他人を踏みつぶして生きることはできない。何故ならこの世の存在は互いに見えない糸で幾重にも絡み合っているからである。だが、どうであろう、いったい、今の世は、大師が申されたように、美しい織物のような国となっているであろうか。父母・帝王・臣下・民衆・仏に仕える者、それぞれが役割を果たし、縦糸と横糸が互いに支え合うように、かけがえのない者として頼りにしながら、美しい国を造ろうと力を尽くしているであろうか」
「・・・」
「人はみな欲がある。神仏でないかぎり欲を断ち切ることは出来ぬ。だが、欲と根源的無知が結びつく時、国はどうなるであろうか。欲と根源的無知を抱えている者が権力を握った時、国はいかなることになるであろうか・・・『五部陀羅尼問答』に次のような事が記されている。《忽然として魔事起こり、中に於いて死人を降し、火を降らし、災沌を作す。呆然として処好なし》
 繁栄はいつまでも続くものではない。魔事は忽然として起こる、と大師は述べて居られる」
「・・・」
「・・・神代の昔、スサノオ命がアマテラスの高天の原に攻め上った時、青い山々は枯れ山となり、川海はことごとく泣き乾し、国中に悪しき神々の足音が響き渡り、五月蠅が飛び回り、万の災いがことごとく起こった。支配欲によって争いが生じれば、山川草木みな泣かぬ者はない」
「・・・」
「神世とは言わず、この平安の都に於いても魔事が今にも起きそうになった時があった。申すまでもなく、薬子の乱である。
 この事件が起きたとき、大師・空海は唐から戻って三年、都に入ってわずか一年が過ぎた時であった。大師は大唐国の強大さと繁栄に比べ、日本がどれほど脆弱で混乱しているか、思い知らされた。唐の国は衰亡の兆しが見え始めていたとは言え、各国からの朝貢は絶えず、あらゆる分野の才能ある人々が大河のように集まって文化芸術の花が咲き誇っていた。東西の思想、宗教は砂漠や海を渡って滔滔と伝わり、互いに競合し、あるいは融合して巨大な力を生み、その力は大きな波となって隣諸国に影響を及ぼしていた。弘法大師はその有様を目の当たりにし、我が国もそれに劣らぬ優れた国にしようと勇躍して戻ってきた。しかし何とした事であろうか、奈良の都は荒れ果て、長岡京は建設半ばにして放棄され、かろうじて平安京が新しい時代の到来を告げようとしているその矢先、桓武天皇の二人の皇子が政権をめぐって闘争を繰り広げている。
『忽然として魔事起こり、中に於いて死人を降し、火を降らし、災沌を作す』この言葉は真実であった。
 根元的無知という鬼が荒れ狂い、日本全体を無限地獄に引きづり込もうとしている。国そのものが迷妄の淵に堕ちようとしている。これを見た大師は仁王経の力によって国を救い出そうと決意した。仁王教には偉大な力が秘められている。七つの災難をうち砕き、春夏秋冬の四時を調和し、国を護り、家を護り、自分を安らかにし、他人をも安らかにするという秘密・微妙の法力である。大師は仁王経こそ唯一頼りにすべき真実であると悟り、五大尊を建立し、国家鎮護の大願を籠められた。
 大師の大願は神仏に通じ、この国は内乱から救われた。平安の都から戦の火だねは消え、理想の世が現実となり、勅撰和歌集が次々と編まれた。延喜・天徳の世は夢のような時であった。・・・しかしそれからはるかな時が過ぎ、世は天地ほどに変わってしまった」
「・・・」
「父母と帝王と臣下と民衆と仏道とは、ばらばらになってしまった。美しい織物は織られているが、それは父母や帝王、臣下や民衆、あるいは仏のために織られているのではない・・・全てのものはただ一人の者のために織ることを命じられている・・・私が五大尊を建立したいと願ったのは、この世を曼荼羅のごとく、調和に充ちた楽しい国にしたいと念願したからである。しかしその願いを叶える事はできそうにない・・・だが、私はまだその願いを諦めたわけではない。いつか、誰かがこの私に力を与えてくれるやも知れぬのでな」
 三条帝のお顔には哀しみと希望とが織りなした不思議な輝きが光りとなって漂っていた。

 三条帝が道長の枇杷殿の仮住まいから解放されたのは長和四年九月二十日の事である。その朝、大納言公任は威儀を正して奏上したのだった。
「伊勢よりの使いが到着いたしました。新造成った御殿は帝を待ちかねております。天には雲ひとつなく、日の光は明朗にあたりを照らし、神々の喜ぶ気配が内裏に充ち満ちておりまする」
 三条帝は百官を率いて内裏に還幸なされた。左大臣・右大臣は威儀を正し、大納言道綱・実資・公任・斎信・頼道、中納言俊賢・行成、教道・頼宗・経房、参議兼隆・道方、通任、三位中将能信、参議頼定、公信、朝経、これに従う者数知れず、饗宴は夜遅くまで続き、御輿、牛車の列は大宮大路から建春門、宣揚門、日華等門の外まで続いた。さまざまな寺や大小の神社からの祝の使いは引きも切らず、見物する人々のざわめきは都の夜空に陽気に響き渡った。公任は帝の御手を引き、木の香りの漂う内裏をご案内しながら《これはほんとうのことだろうか。それとも夢なのだろうか》と自問していた。
 帝はまばゆいばかりの回廊にふと立ち止まり、公任を見つめて、「五大尊の絵はどこにあるのか」と尋ねられた。公任は思いがけないご下問に窮して「間もなく完成すると思われます」とお答えしたが、その声が震えているのを帝はお感じになられ、
「もしやまだ手を染めていないのではないのか」と仰せられ、美しい額に一筋皺を寄せられた。
 公任は新造成った内裏の回廊をお帝の手を引きながら何かしら胸騒ぎがしてならなかった。

 公任の恐れは的中した。帝が還幸なされて二ヶ月もたたぬ十一月十七日の亥の刻、警護の者が内裏に火の手が上がってるのを発見したが火はまたたくまに広がり、内裏は大混乱に陥り、悲鳴や怒号が入り交じって火勢はいよいよすさまじく、夢の御殿は火柱となって天を焦がした。そして朝の光が差し始めた時には跡形もなかったのである。
 内裏を失った帝は再び道長の枇杷殿に還幸することになった。冬の到来を告げる風が焼け跡を空しく吹き抜ける。帝は御輿にお乗りになろうとして、ふと公任を振り返って、
「今は、昼であろうか、それとも夜であろうか」とお尋ねになられた。公任は涙をこらえて、「間もなく夕暮れになろうかと存じます」と申し上げると、帝はただ頷かれただけだった。
 道長の枇杷殿にお移りになられた後、さまざまな噂が人々の耳目を脅かした。三条帝はありとあらゆる物の怪に取り憑かれ、奇態なお振る舞いをなされるので身近な方々も恐ろしくて近づかないという。公任は心痛して、十二月のある夜、帝の仮御殿をお見舞い申しあげた。帝は冬の月が光る中に独りでお座りになっておられたが、公任の姿を認めると無言のまま色紙を差し出された。

 心にもあらでこの世にながらへば
恋しかるべき夜半の月かな