百人一首ものがたり 一番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 67番目のものがたり「養女」

春の夜の 夢ばかりなる 手枕(たまくら)に
かひなく立たむ 名こそ惜しけれ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「中納言様、ぜひお教えいただきたいことがございます」と心寂坊が言うので定家は筆を止めて、

「そのお顔ではよほど気掛かりの事のようですが」

「はい・・・中納言様はこれまで古今の方々の中から六十六人を選び、歌のひとつひとつに物語をお作りになられました。みなそれぞれに名の通った方々で歌も非の打ち所がありません。中には親子で選ばれている方々も多く見られます。たとえば、天智天皇と持統天皇、僧正遍昭と素性法師、壬生忠岑と壬生忠見・・・

また、和泉式部と小式部内侍は母娘ですし、紫式部と大弐三位も同様でございます。ですから私は伊勢が選ばれた時に名必ずその名があげられる時が来ると期待しておりましたがいっこうに見られませんので、これはどうしたことかと・・」

中務(なかつかさ)の事でございますね」

「はい。中務は母親にも優とも劣らぬ歌人として天徳の内裏歌合にも出詠しております。紀貫之や源順、恵慶法師などとも親しく歌を交わしていたのでいつになるのかと待ちかねておりましたが、なかなか出てまいりません。これはどうした事かと心配になってまいりましたので、思い切ってお訊ねした次第です」

「なるほど。相模の次こそと思っていたら行尊でしたから、これは合点が行かぬとお思いになられるのは当然でしょう」

「私ごときがあれこれと考える余地は寸分も残されていないことは重々承知しておるのでございますが、やはり、気になりまして」

「ごもっともです。大納言公任が選んだ三十六歌仙は、柿本人麿、紀貫之に始まりますが、そこに登場する女人は小野小町、伊勢を含めて五人。その五人の中に、母の伊勢と並んで中務は選ばれておりますし、和泉式部や紫式部さえ選ばれていない三十六歌仙にも中務が選ばれているのに、なぜ藤原定家が選ぶ百人に中務の名が入らないのか、心寂坊殿の疑問は、まことに尤もです。

実は父藤原俊成も『俊成三十六人歌合』を選んでおりますが、そこにも中務は選ばれているのですから、当然のことながら中務を意識しなかったと言えば嘘になりましょう。しかし中務には傑出した歌が見られないのです。父が選んだ中務の和歌の一つは、

 忘られてしばしまどろむほどもがな

いつかは君を夢ならで見む

 たしかに優れている歌ですが、小町の夢に勝っているかといえば、到底無理というものです。ことほど左様に、中務は良い和歌を詠んではおりますが、『何としても忘れられない』というようなものが見られないのです」

「・・・」

「これに比べると、今私が書いております周防内侍などはさして多くの歌を詠んだとはいえませんが、とても興味深い和歌を詠んでいます」

「そのお方はいったいどのような・・・」

「赤染衛門が『栄花物語』を書いた事はご存じでしょうが、周防内侍はその最後の部分を書いた女房ではないかと推測されているのです。それというのも、この物語は全四十巻もあって、三十巻までを正編として、村上天皇の御代に始まり、道長が六十二歳で大往生するまでが描かれています。三十一巻から後四十巻までは関白頼道からその死が描かれ、最後の巻は応徳3年1086年に白河天皇が退位し堀河天皇が即位、15歳の忠実(師実の孫)が春日大社の祭礼に奉仕する姿が描かれています。赤染衛門は天暦10年(956年)頃に生まれたとされていますから、もしも最後の巻まで書いたとなると百三十歳まで書き続けたことになりますからとうていあり得ない話で、別の誰かの手になったことは確かです。周防内侍は後冷泉天皇の時には宮中に出仕し、後一条、白河、堀川と四代の天皇に仕え、しかもこれ以上ない才媛とされておりましたので、昔からこの方が赤染衛門が書けなかった部分を記したのではないかと言われているのですよ」

「お話の具合ではずいぶんと長生きしたようですが、どれほど生きたお方ですか」

「はっきりとはしませんが、おそらく、頼道が関白太政大臣の長歴の頃に生まれて、忠実が関白太政大臣の時まで生きましたが、忠実の子の忠道と頼長は保元の乱の張本人ですからね、本当に長い間生きたものです」

「・・・」

「その周防内侍がまだうら若かった頃でしたが、ある夜、中宮彰子が住まいにしていた二条院で面白い出来事があって、その時の事が和歌になっています。詞書きには《二月ばかり、月のあかき夜、二条院にて人々あまた居明かして物語などし侍りけるに、内侍周防、寄り臥して〈枕もがな〉としのびやかに言ふを聞きて、大納言忠家、〈是を枕に〉とて、かひなを御簾の下よりさし入れて侍りければ、よみ侍りける》とありますが、周防内侍の相手の男の大納言忠家は、私の曾祖父なのです。その時周防内侍が詠んだ歌というのが、

 春の夜の夢ばかりなる手枕に

かひなくたたむ名こそをしけれ 

「なんとも典雅な和歌でございます。さすがに百人一首に選ばれるのも道理です」と心寂房が述べると定家は笑って、

「たしかに歌人であればこうした和歌を詠みたいと思うのも当然ですが、それだけでは百人一首に取り上げる理由にはなりません」

「・・・では、周防内侍という女房を取り上げるについては何か特別の訳があると申されるのですか」

「無論ですとも。それなくしては周防内侍を選んだりはいたしませんよ」と定家は半紙に複雑な系図をいくつも描いたのだった。

第67番目のものがたり 「養女」 )

 仲子は幼い頃からとても良い和歌を詠んだので父の平棟仲は因幡国に赴任していた頃手に入れた紙や筆を仲子に惜しげもなく与えて、「やがては伊勢や和泉式部のように家集を残すほどになるやも知れぬ」と楽しみにしていた。平棟仲は藤原経衡・源頼家らと共に宮中の和歌六人党の一人と目されていたので娘にも大きな夢を託していたのである。果たして仲子は父親の期待通り優れた才能と美貌を兼ね備えた娘に成長したので、十五の時に宮中に上がり内侍として後冷泉天皇にお仕えすることになった。当時後宮で最も大きな力を持ってた女房は伊勢大輔だったが、大輔は周防内侍を気に入って万事に亘ってさまざまに教えた。そうして一年あまりが過ぎたある夜の事、伊勢大輔は人気のない局に周防内侍を呼んで、「これからお話することは、限りなく大切なことですし、決して他言してはならぬ事なのですが、お覚悟はできておりますか」と訊くので、

「はい」と答えると、

「私の話を頭の中で図を描いて、よく覚えなさい。それができたら、あなたがこれからどの道を選んで生きるべきかも分かるはずです」とこのように話し始めたので、内侍は一言も聞きもらすまいと息をするのも忘れて聞き入ったのだった。

「今の帝は後冷泉天皇のですが、大きな問題がいくつもあります。最も大きな問題は宮廷が二つに分かれているということです。」

「・・・」

「一時代前までは朝廷・後宮共に道長様の思いのままでしたが、今は全く違います。表向きは関白頼道様が全てを牛耳っているように見えますが、内実は頼道様と弟の大納言能信様が勢力を二分して対立しているのです。このお二人には天皇・親王・親兄弟親族が絡んでおりますから、話は込み入って一筋縄ではまいりませんが、事の全てをよくよく理解しておきませんと、宮廷にお仕えすることはとても出来るものではありませんよ。

 頼道様は二十を過ぎても子ができませんでしたので、父の道長様の第六女である嬉子様をご養女として貰い受け、十四才で後朱雀天皇に入内して万寿二年(1025)王子親仁(後冷泉天皇)を生みましたがその直後、赤斑瘡に罹って死んでしまわれました。

 折角父から頂いたご養子が死んでしまったので、頼道様は再びご養女を迎えました。このご養女が嫄子女王です。しかし嫄子女王が入内するについては大きな問題がありました。それは嫄子女王が敦康親王の御子だった事です。敦康親王は中宮定子の皇子、つまり、関白道隆様の孫、伊周様の甥にあたります。敦康親王は極めて聡明なお方で、『大鏡』にも「御才(ざえ)いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし」と記されているほどですから一条天皇も親王を大層慈しまれ、皇太子にと願っていたのでが、ご承知の通り、道長様と伊周様は不倶戴天の敵とも言える間でしたから、とても道長様の賛同はえられようもなく、皇太子どころか、長く無位に甘んじ、晩年になってようやく式部卿に成ったのです。

 こうした次第でしたから敦康親王は生涯不遇のままお過ごしになられましたが、嫄子女王はその親王の御子ですから、本来であれば妃にもなれない身であったのです。ところが敦康親王の妃の妹というお方は村上天皇の孫で、宇治の関白の妃・隆姫と姉妹という事でありましたので、子に恵まれない関白頼道様は、嫄子女王を自分の養子として育て、姓名も源氏でなく、藤原嫄子として、

後朱雀天皇に入内し、皇后となったのです。

            

嫄子と天皇との仲はとても睦まじく、やがて、祐子内親王・禖子内親王の二皇女が生まれましたが、皇子を生むことなく、二十四才で産褥死なされました。

 頼道様は大いに落胆なされましたが、亡くなった養女嬉子と後朱雀天皇の間には皇子が生まれており、後冷泉天皇となりましたので、頼道様は今度こそというので、四十四才の時に出来た寛子様を入内させました。寛子様は性格が明朗で和歌をこよなく好まれ、四条邸でしばしば歌合を催されましたが、どうしたことか御子はなかなか出来なかったのです。

 ところが頼道様の弟・能信様が後見役となっている禎子内親王には皇子がお生まれになったのです。

 禎子内親王は三条天皇の第三皇女であり、しかも母は道長様の娘妍子様でしたから後見役などなぜ必要なのか疑問になりましょうが、道長様と三条天皇はとても不仲でしたから、禎子内親王を無視していたのです。道長様に嫌わているのでは宮中に入ることなどとてもできません。まして後朱雀天皇には頼道様の娘・寛子様が入内しているのですから内親王には未来がないかに見えました。ところが頼道様の弟、能信様が後見役を買って出たのです。頼道様と能信様は子どもの頃から敵対していましたが、これで両者の関係は決定的になりました。双方とも道長様の息子でしたが、腹違いの兄弟で、頼道様の母は源倫子、能信様の母は源明子でした。                  

 倫子様の父は当時絶大な勢力のあった左大臣源雅信様であり、母・穆子様は歌人朝忠様の娘ですから、倫子様の曾祖父は右大臣藤原定方ということになります。これに対して能信様の母明子様の父は安和の変で失脚した源高明様でしたから、頼道様と能信様は兄弟とはいえ生まれたときから敵対して、長じてからはますます対立は激化して、父・道長様の前で激しく口論したので、能信様はしばしば道長様の叱責を受けたのです。そうした事から、出世もままならず、大納言どまりでしたが、禎子内親王の入内に当たって道長様を恐れ、誰一人後見役に立たないことを知ると、進んでこれを引き受けたのです。そして無事に入内すると、やがて尊仁親王が誕生しました。そして親王様が成長すと、自分の養女である茂子を妃に嫁がせて、皇子が生まれましたので、能信様は驚喜したのです。

後朱雀天皇が病に倒れられたのは寛徳2年(1045)の事でしたが、頼道が病の床を訪ねると、天皇は後冷泉(系図○参照)にご譲位の意向を示されたので、頼道はこれでひとまず安心と立ち去ったのですが、その直後、兄の不在を確かめた能信は後朱雀天皇の病床を訪れて、

『帝が万が一の事があってはならぬと日夜祈りに明け暮れておりますが、この際、後朱雀天皇の二番面の皇子である尊仁親王を出家させてご快癒を祈らせねばと考えておりますが、御師には誰が良いと思し召しでしょうか』と尋ねると、天皇は驚いて『これは何と言うことをそなたは申すのだ。尊仁親王は皇太子に立つべき皇子ではないか』と仰せになられたので、『帝がそのおつもりでしたら、後の事はともかく、今日のこの日にお沙汰をいただけないとしましたら、いつの事になりましょうか』と訊くと「まことに、病の重さ故、その大事を忘れていた」と仰せになられて、宇治の関白頼道を呼び戻して「皇位の後継として後冷泉を、皇太子には尊仁親王とすべし」と仰せになられたので、頼道が、これはいったいどうしたことだと仰天ましたが、後朱雀天皇はそのまま身罷られましたので、尊仁親王が皇太子となることになることについては頼道にもどうしようもなかったのです」

「・・・」

「こうしたわけですから、頼道と能信の二人の兄弟の争いは能信の勝ちと決まりました。頼道の子孫には皇子が生まれず、能信には生まれたのですから、どうにもなりません。能信は大納言にまでしかなれませんでしたが、結局のところ、兄を打ち負かしたのです」

「・・・」

「これがここ数十年の間に起きた宮廷の出来事の詳細ですが、あなたは私の話を聞いて、どのように思いましたか」

 伊勢大輔がこのように尋ねるので、周防内侍は、

「後朱雀天皇は一条天皇と中宮彰子様の間の皇子ですから、道長様の力は強く及んだと思います(系図・一)。また、今の帝の後冷泉天皇の母は道長様の娘・嬉子様ですから(系図・一)、やはり藤原家の力が強く及んでいると思います。けれども尊仁親王の母は藤原家を外戚としない禎子内親王(系図・四)ですから、これから後は藤原家の力は弱まるのではないかと思います」と、このように答えると、伊勢大輔は口の周りに皺を幾重にも寄せて、

「よろしい。さすがは私が見込んだだけある女房だ」と頷いたのだった。

 

 こうした事があってから数年後のある晩、周防内侍が頼道と同腹の弟・教通の二条院で催された歌合に出席し、宴が果てて、大勢の殿上人や女房がてんでに部屋で休むことになったのだが、くたびれて横になりたいと思って、

「ここに枕が欲しいものだわ」と呟くと、大納言忠家が聞きつけて、

「どうぞ私の腕を枕に」と言って御簾の下から腕を差し入れたので、周防内侍が詠んだ和歌は、

 

春の夜の夢ばかりなる手枕に

かひなくたたむ名こそをしけれ 

(あなたと私とは取りたてて実のある仲ではありませんのに手枕をお借りしたばかりに浮き名立ってしまっては、実の名が惜しいばかりです。それに私とあなたとは立場が違いますので、お借りする訳にはまいりません。というのも、あなたのお父様の長家様は道長の六男。実母は源高明の娘の明子でしたが、出世の妨げになるというので、倫子様の養子になりました。ですからあなたが大納言になれたというのは、道長の庇護のお陰です。ところが私の父は桓武平氏の流れを汲んでいるますからあなた様とは立場が違いますので手枕をお借りしたいのは山山ですが、ご遠慮しておきますわ)

 

 周防内侍は後冷泉天皇が身罷ると里に戻って喪に服したが、後に強く求められて宮廷に復帰し、後三条、白河、堀川天皇の四代に亘って内侍を務めたのだった。